日々の泡[020]神を追究した作家【巴里に死す/芹沢光治良】
── 十河 進 ──

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機会があれば見てみたいと思っていた「りんごの唄」で有名な映画「そよかぜ」(1945年)をユーチューブで見た。公開は敗戦の二ヶ月後、昭和20年(1945年)10月11日だった。リンゴ園をヒロインが歌いながら歩くシーンは何度も見たけれど、どんな映画なのかはまったく知らなかった。

初めて「そよかぜ」を見ると、戦争があったことも、敗戦のこともまったく出てこないのに驚いた。これを当時の人々は、どんな想いで見たのだろう。完全な音楽映画である。映画は楽団の演奏で始まり、上原謙(加山雄三のお父さん)、佐野周二(関口宏のお父さん)、斎藤達雄(サイレント時代から小津作品に出演)がトランペットなどを吹いている。

NHKのテレビ小説などから深作欣二監督の「仁義なき戦い」(1973年)まで、戦後を取り上げたドラマで「リンゴの唄」はその時代を象徴的に表現した。焼け跡闇市の光景が映り「リンゴの唄」が流れれば、見ている人たちは「ああ、敗戦直後なのだ」と理解する。最近の若者たちの反応はわからないが、少なくとも僕らの世代までは時代を象徴する音楽的記号となる。





「そよかぜ」では上原謙らのバンドが出ている劇場の照明係で歌の上手な少女みちを並木路子が演じ、何度か「りんごの唄」を歌う。劇場の看板歌手が結婚引退するので、上原謙は劇場主に「みちを抜擢しては」と推薦するが、劇場主は拒否する。今風に言えば、「リスクが大きい」ということらしい。

上原謙、佐野周二、斎藤達雄らのバンド仲間とみつは、同じ家で共同生活をしている。みつは佐野周二を好きらしいのだが、佐野周二はみつに会うと憎まれ口を叩き、「子供のくせに」と子供扱いしかしない。ある日、とうとうみつは怒って故郷に帰ってしまう。そこがリンゴ園なのである。本当はみつが好きな佐野周二は、バンド仲間たちとみつの故郷に向かう。

最後は、看板歌手に抜擢されたみつが大きなステージの真ん中で「りんごの唄」を歌うシーンだ。昔の映画には、音楽ショー的な要素が強いものがある。テレビの音楽番組と同じ役割を、映画が担っていたのだろう。「そよかぜ」には歌手の役で霧島昇や二葉あき子が出ていた。監督は佐々木康。僕が子供の頃、東映時代劇をやたらに撮っていた監督である。

さらに「異国の丘」(1949年)もユーチューブで見ることができた。昭和24年4月25日の公開だ。冒頭、マッカーサー元帥がソ連に日本人抑留者の返還を要請し、冬季でも可能なように砕氷船を提供すると申し出ているがソ連からは何の返答もない、というクレジットが出て時代性を強く感じた。戦後4年経っていたけれど、まだ数十万人の日本人がシベリアに抑留されていたのだ。

引っ越しのシーンから「異国の丘」は始まった。広くて立派な屋敷だが、手放すことになったらしい。運送屋の会話から、主人はシベリア抑留から戻っていないことがわかる。トラックに積まれたピアノを、その家の少女が弾く。その少女に、祖母が母親を呼びにいかせる。その頃、母親(花井蘭子)は庭で夫とのことを回想している。

夫(上原謙)とは見合いで知り合い、結婚し、やがて夫を強く愛するようなる。夫は、音楽好きでヴァイオリンの名手だった。そのため、生まれた子供たちには音楽を学ばせようと、妻は高価なピアノを購入した。しかし、夫が出征し、戦後4年にもなるのに戻ってこない。妻は歯を食いしばって家を守り、子供を育て、姑に仕えてきたが、とうとう家を手放すことになったのだ。

ラスト近く、国立病院の患者たちの慰問にいき、妹がピアノ、兄がヴァイオリンを弾く。患者のひとりが「異国の丘」をリクエストし、ふたりは演奏する。すると、ひとりの患者が立ち上がり、「私は、シベリアで抑留されていた。ここには『異国の丘』の作曲者である吉田もいる」と言い出し、吉田正が患者として登場し「早く同胞たちを帰還させよう」と訴えた。後に昭和歌謡の作曲者として活躍する吉田も長く抑留されていたのだ。

ウーム、古さは感じるが、やっぱりその時代の空気がストレートに伝わってくるなあと思いながら、資料を観察するように「異国の丘」を見ていたのだけれど、原作者が芹沢光治良であるのにはちょっと驚いた。調べてみると、昭和22年(1947年)に出た「夜毎の夢に」という小説の映画化だった。芹沢光治良が、こんな小説を書いていたのか、と何だか感慨に耽ってしまった。

僕が高校生の頃、芹沢光治良の本はいくらでも書店で見かけたものだ。その頃、芹沢光治良は日本初のノーベル賞作家・川端康成の跡を継いで日本ペンクラブの会長を務めており、その後、芸術院会員になった。芸術院会員になるというのは、美術・音楽・演劇・文学などのジャンルでの最高峰の名誉である。

芹沢光治良の小説は、「巴里に死す」を読んだことがある。十代半ばのことだった。出版は太平洋戦争真っ直中の昭和十八年(1943年)だ。そんな時代に、よく出せたものだと思う。1952年に森有正がフランス語に翻訳し、フランスで1年で10万部も売れたという。そんなことは、まったく知らなかった。

ところで、僕は大学生の頃、森有正の本を愛読していた。当時、筑摩書房から「バビロンの流れのほとりにて」というエッセイ集が出ていたのだ。哲学者でフランス文学者でエッセイスト。代表作は「遙かなノートル・ダム」である。明治の文部大臣であり「日本語をやめて英語にしてしまえ」と提唱した森有礼の孫だ。森有礼は暗殺されたけど、彼の提案が受け入れられていたら、今頃は僕も英語をしゃべっていた。

外国語が苦手なわりには、なぜか僕は大学でフランス文学を学んだのだが、僕がフランス文学科を選んだ理由のひとつに「巴里に死す」を読んだことがあると思う。芹沢光治良は1925年にソルボンヌ大学に入学するが、その後、結核にかかりスイスのサナトリュウムで療養し、1929年に帰国する。よき時代の巴里を知る日本人だった。

僕が高校生だった頃、芹沢光治良は長大な自伝的長編「人間の運命」を刊行中だった。1962年から1968年にかけて新潮社から刊行され、後に新潮文庫に7巻でまとまった。しかし、その長さに怖れをなし、結局、僕は「人間の運命」を読まなかったのだけれど、博識な友人が「天理教の話だろ」と一言で片付けたのを記憶している。

確かに、芹沢光治良の生涯と天理教は密接に関係しているが、それは両親が天理教に入信したこと、また、育ててもらった叔父の家も天理教の教会になったということであり、彼自身が入信していたかどうかはわからない。晩年、「神シリーズ」を書き続けたこともそういう印象をもたらしたのかもしれないが、僕は「巴里に死す」以外は読んでいないので何も言えない。しかし、未だに気になっている作家なのである。

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