[4906] パピコンことNEC PC-6001の時代◇熊野の創作メルヘンと食

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《もっと故郷を自慢しよう》

■クリエイター手抜きプロジェクト[597]レトロコンピューター編
 パピコンことNEC PC-6001の時代
 古籏一浩

■海浜通信[008]
 熊野の創作メルヘンと食
 池田芳弘




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■クリエイター手抜きプロジェクト[597]レトロコンピューター編
パピコンことNEC PC-6001の時代

古籏一浩
https://bn.dgcr.com/archives/20191121110200.html

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今回は、1980年代前半の時代、ちょうど第一次マイコンブーム(パソコンブーム)が起きた頃に出た、NECのPC-6001について書いてみます。PC-6001の説明の前に、少し時代背景をおさえておきます。

その1980年より前、1970年代になると、中堅企業でもコンピューターを導入できるようになりました。と言っても、現在のような卓上に置けるようなものではありません。

畳12畳くらいのエアコンが効いた専用部屋に、でで〜んと鎮座するようなシロモノです。このサイズのコンピューターは、当時ミニコン(ミニコンピューター)とも呼ばれていました。他には、給与計算など事務処理で使用するためオフコン(オフィスコンピューター)という呼称もありました。

父親が勤務する会社にも、給与計算を行なうミニコン(TOSBAC)が導入されました。が、ミニコンを扱えるのは、特定のオペレーターのみでした。一般の営業マンやドライバーが、気軽に触れるようなものではありませんでした。

計算したり在庫管理するにはそろばんか電卓、方眼紙に在庫表を作ったりするという時代です。営業マンがコンピューターを気軽に使えれば、仕事が楽になるはずです。

今なら当たり前ですが、コンピューターの威力を目の当たりにした父親は、仕事に使えるパーソナルなコンピューターが欲しかったようです。会社へのレポートにもそのように書いてありました。

また、1970年代はコンピューターを使った自動化の波が来ていました。FA(ファクトリーオートメーション)という言葉を、覚えている人もいるかもしれません。製造ライン(工場)がコンピューターの導入により、どんどん自動化されていきました。

工場だけでなくオフィスも自動化しようという流れも出てきて、これはOA(オフィスオートメーション)という呼称でした。

1970年代前半は、数千万円から億単位もするコンピューターでしたが、1970年代末期になると、個人でも買えるほどの価格にまで急激に下がりました。

Apple社のApple IIや、SHARPのmz-80K、NECのPC-8001などがそうです。本当に急激に価格が下がったため、コンピューターを使いたい人が次々と購入していきました。

また、大型コンピューターで使うCOBOL、FORTRAN、マシン語など難しいプログラミング言語ではなく、コマンドを入力すれば即座に処理を実行してくれるBASIC言語が利用できるようになったというのも大きな動機でしょう。

こうして、コンピューターの価格が下がり普及していくわけですが、同じ時代にコンピューターを使ったゲームが登場します。インベーダーゲームがもっとも有名でしょう。

インベーダーゲームはハードウェアロジックで作られていて、ソフトウェアの存在価値がありませんが、その後プログラムをメモリに書き込んで実行するという、現在のコンピューターの使用スタイルに近いものになります。

ゲーム基板をなるべく同じにしておいて、ソフトウェアだけ書き換えれば効率よくゲームを提供できます。こうして、パーソナルコンピューター黎明期と同じ時期に、ゲームセンターで大量のゲームが提供されました。

ただ、当時の風潮として子供はゲームセンターには行けません。ゲームセンターに行くと不良の人達にお金を取られてしまったり、不良グループの仲間になってしまったりすることがあったためです。

当時の学校の規則は、どんどん厳しくなり、髪の毛が規定より5mmでも長いとハサミで切られたりするという、今なら訴訟問題になってしまうようなことが多々発生していました。

そんな時代でしたが、デパート内にあるゲームコーナーでは子供(わたし)もプレイすることができました(実際にプレイしていたのは地元ではなく、親の実家がある愛知県名古屋市のたまこしデパート)。

最初に遊んだのが任天堂のドンキーコングでしたが、300円しかお金がなく、1プレイで終了。次にプレイしたのが、ナムコのパックマン。面白いけどお金がなく2プレイで終了。

次にプレイできるのは半年後か一年後(親の実家に行った時しか遊べない)。一年に数回しかプレイできないゲームが、パソコンを買えば自宅で無限にプレイできる→欲しい! と思っていた私の、小学生〜中学生時代の話が、今回のネタです。

長い前フリですみません。編集長がテキスト追加してもっとわかりやすくして、というものですから。そういえば、時代背景を説明しないと分からないのではないか、ということでつらつらと書いてみたという具合です。肝心の本文はここからです。

●パピコンよりX1

NECのコンピューターの中で、たぶん最初に愛称がついたのがPC-6001でしょう。PC-6001の愛称は「パピコン」でした。ちょっとかわいげのある愛称で、コンピューターの堅苦しいイメージを、多少なりとも払拭したような感じはありました。また、本体のカラーリングもオレンジとベージュで、堅苦しくない雰囲気でした。

・PC-6001
https://ja.wikipedia.org/wiki/PC-6000シリーズ


NECというとPC-9801シリーズが有名ですが、ホビーパソコンとしてPC-6000系があり、何種類か発売されています。その中でもPC-6601SRにはMr.PC(ミスターピーシー)という愛称がつけられています(ちなみにこのPC-6601SRは、今でもちょっと欲しいパソコンだったりします)。

・PC-6601
https://ja.wikipedia.org/wiki/PC-6600シリーズ


私が最初に買ったパソコン(当時はマイコンという呼び方の方が一般的だった)はSHARPのmz-721ですが、PC-6001を買っていた可能性がありました。というか、最初の段階ではPC-6001を購入予定でした。当時欲しかったパソコンは以下の3つでした。

1位 X1(赤色。赤色が駄目なら白色)
2位 PC-6001
3位 mz-731

当時、他にメジャーなパソコンとしては、富士通のFM-7がありました。ただ、X1のイメージと性能が強烈で、それと比べると他のパソコンがかなり見劣りしてしまう感じがありました。X1とFM-7ならどちらがいいかと言われればX1しかない、そんな感じです。

この3機種の中でX1の性能はダントツでした。まず、目を引く機能としてはスーパーインポーズがありました。スーパーインポーズは、テレビとパソコンの画面を合成して表示する機能のことです。

つまり、映像をバックに流しておき、その上にテロップや画像を表示することが簡単にできました。簡単というか、今のパソコンより楽かもしれません(コマンドで黒色を透明にするように設定するだけなので)。

不動産屋さんは、このスーパーインポーズを利用して、録画しておいた物件の映像を流し、その上にテロップで説明などを入れるという用途に使っていたと噂で聞いたことがあります。

また、文字形状を自由に設定できるPCG(プログラマブルジェネレーター)があり、これにより文字もグラフィックのブロック(チップ)のように使用することができました。

通常、グラフィック画面を書き換えると、8バイト×RGB3色=24バイトのデータが必要ですが、PCGなら文字なので1バイトですみます。単純にグラフィック画面を書き換えるより、24倍高速化できるということになります。

これを上手に利用したゲームとしては、X1のXEVIOUS(ゼビウス)があります。4ドット(ピクセル)単位で地形を定義しておくことで、上手に高速化とスクロール処理を実現していました。当時は8ドット単位(1文字が8ドットなので1文字単位)でのスクロールが普通でしたので、どういう仕組みになってるのか疑問でした。

・SHARP X1 ゼビウス XEVIOUS エリア16 プレイ 懐かし パソコン


ちなみに、上記のXEVIOUSは電波新聞社から発売されたものですが、現在の技術を使って、よりスムーズでオリジナルに近いXEVIOUSを移植した人もいます。同じマシンなのに、技術と開発環境が進歩すればできることも変わる、よい例ではないかと思います。

似たような事例は、mz-1500やPC-6001/8001などにもあります。気になる方は、MI68のキーワードで検索してもらえば、いろいろ出てきます。

・NEW X1版ゼビウス【X1でゼビウスを作る】


X1は他にもサウンド機能やら、広大に使えるメモリなど、ダントツの性能を誇っていました。FM-7もグラフィック機能やサウンド機能はX1と同じですが、グラフィック画面と文字画面が同じ扱いになっていました。

どちらかというと、テキストもグラフィックも区別しない現在のパソコンと同じなのですが、文字画面がないので処理速度やゲームなどでは不利なこともありました。

あこがれのX1ですが、30万円以上で高すぎて予算的に無理ということになりました(自分のお金で買うわけではなく親のお金なので、なおさら)。単純に10万円以下でないと駄目だということです。10万円以下というのは父親から言われた金額で、それまでしか出せないということです。

そうなると、候補としてはPC-6001かmz-731になります。実はmz-731を買えなかったのも予算的な問題で、ひとつ下のランクのmz-721になっただけです。

mz-731は本体にカラープロッタプリンタがついており、手軽に印刷ができるようになっていました。プロッタプリンタなので、当時一般的だったラインプリンタ(1行ずつ印刷して紙送りするだけ)とは違い、かなり自由な範囲にドローイングできました。

グラフィック機能がないmz-700シリーズでしたが、プロッタプリンタを使えば、そこそこ自由に4色カラー絵を描くことができました。

PC-6001の性能は、X1やFM-7よりもよくありませんでしたが、それなりのグラフィック機能とサウンド機能が搭載されていました。このため数多くのゲームが発売されていました。ゲームセンターに行くことができない、中学生にとっては魅力的でした。

そんな時代に友人宅に行くとPC-6001があり、無料でゲームで遊べたのです。もう、これは魅力的。買うしかない、という思考になってしまいます。また、友人はゲームを何本も持っていたので、同じパソコンを買えば自分がゲームを買わなくても、貸してもらえるという腹づもりがありました。実際に同じPC-6001買ったら貸してあげるよ、と言ってくれました。

当時はゲーム1本で3,000円くらいしていましたので、お小遣いのない私としては自分で作るか、借りるしかありません。PC-6001を買えばゲーム三昧の日々が送れるんじゃないかと、単純に思っていました。

当時はゲームに限らず、パソコンのソフトは高額だったので、友人間で貸し借りすることがありました。このため、まわりと同じコンピューターを買う方がお得ということになります。

当時から、経済学で言うネットワーク外部性が機能していたわけです。中学2年当時で経済学を学習していたら、PC-6001かPC-8801を選択していたかもしれませんが。

ちなみに当時のゲームは、こんな感じです。これでも、かなりイケてるゲームです。

・ピラミッド PYRAMID PC-6001 pc retro game 1982


・PC6001 ミステリーハウス 1 MYSTERY HOUSE|レトロゲーム


ミステリーハウスは、コマンド入力型のゲームです。コマンドは英語なので、親にはパソコンを買えば英語の学習ができる、という謳い文句を使うこともできました。

その後、PC-6001に当時あこがれのゲームであった、XEVIOUSが移植されるという衝撃的な事件が起こります。これについては、もう少し後で説明します。

PC-6001が欲しかったもうひとつの理由は、すがやみつる氏による漫画「こんにちはマイコン」の影響です。この漫画本はパソコンの入門書としてはよくできていて、そこで扱っているパソコンがPC-6001でした。

また、当時人気だった「ゲームセンターあらし」のキャラクター達が、漫画でわかりやすく解説してくれるというのも大きかったと思います。説明のためにおまけで漫画がついているようなインチキなパソコン解説本ではなく、漫画をうまく使って、中学生でも理解させてくれました。

・ゲームセンターあらし
https://corocoro.jp/ゲームセンターあらし/


ただ、この本はパソコンの使い方ではなく、プログラミングについて学習する内容でした。掲載されているプログラムを入力すれば、ゲームなどが遊べるのです。

・こんにちはマイコン
https://ja.wikipedia.org/wiki/こんにちはマイコン


Googleで検索すると、同じように "こんにちはマイコン" によってPC-6001があこがれのパソコンになったと書かれた記事がありました。まあ、気持ちはよくわかります。

・“こんにちはマイコン”を読んで憧れの機種になった「NEC PC-6001」
https://akiba-pc.watch.impress.co.jp/docs/column/retrosoft/1057227.html


結局、PC-6001でなくmz-700を買うことになるのですが、親が仕事にも使いたいという理由もあり、モニタもカラーでなくグリーンモニターになり、プリンタもなくなり、極めて質素な状態になりました。ゲームよりもビジネスとして使いたいという、親の意向が働いたというところです。

今思えばこれがよかったのかもしれません……と書きたいところですが、やはりよくない。最初からカラーモニタだったら苦労しなかっただろうし、プリンタがあればグラフィックに対するノウハウも溜まっていたはず。

もともと親が大型コンピューター(当時はミニコンと呼ばれていました。東芝のTOSBACという機種)を扱う部署におり、そこで給与計算などのプログラムを作成していました。(TOSBACに関しては以前の「レトロコンピューター編」をどうぞ)

・TOSBAC
https://ja.wikipedia.org/wiki/TOSBAC


・クリエイター手抜きプロジェクト[591]レトロコンピューター編 
東芝TOSBAC:最初に触れたコンピューター
https://bn.dgcr.com/archives/20190902110100.html


実業務では給与計算以外に必要だったのは在庫管理です。商品点数が多いため、在庫がどのくらいあるのか、すぐに把握したかったのだと思います。また、クリスマス商戦などで各販売店から注文を受けた際、どのくらい製造すればいいか把握できれば、無駄なコストを削減できるからです。

ここらへん、ずっとおばちゃんが管理していたのですが、1978年当時はエクセルなどもなく大変苦労していたようです。(後にmz-2500で管理、X68000で管理、その後Unisysの専用コンピューターで管理という流れに。現在はインターネット経由でサーバー/クライアント〈Windows〉で管理)

それなら、PC-6001を買っていたらどうなっていたのか。最初はゲームで遊んだかもしれないけど、やはりプログラムを作ったはず。ただ、PC-6001を選んでいたら、コンピューター関係の仕事などはしてなかったんじゃないかなと思います。というのも、PC-6001には天才プログラマー松島 徹がいたからです。

・松島徹
https://ja.wikipedia.org/wiki/松島徹


中学生で当時移植不可能と言われたゲームXEVIOUSを移植してしまい、その後猛烈な開発スピードでゲームセンターのゲームを移植していきました。当時、全盛を誇っていたナムコのゲームが、次々とPC-6001mkIIに移植され遊ぶことができたのです。

他にもSEGAのスペースハリアーを移植したりと、そんなのありえないだろうという事を次々とやってくれました。今でも移植とか手がけていたりするようで、凄いなあとしか言葉が出てきません。

・PC-6001版「タイニーゼビウス」
https://www.nicovideo.jp/watch/sm918568


まあ、そんな中で唯一、Wikiで同じページに名前が載ってたりするのが、ちょっと嬉しい、ってのはあります。

・タイニーゼビウス
https://ja.wikipedia.org/wiki/タイニーゼビウス


このタイニーゼビウスに関しては、昔話として電子書籍にしてありますので、興味ある方はどうぞ。

・tiny XEVIOUS for 700の制作昔話など
https://openspc.booth.pm/


結局、現在までPC-6001系のマシンは1台も保有することはなかったのですが、今でもちょっと欲しいなあと思うことはあります。

ちなみに友人は中学を卒業すると同時に、実質、音信不通になりました。一度だけ電話がかかってきたことがありますが、マルチ商法の勧誘としか思えない内容でした。

そういえば高校の時の同級生も、なんでかマルチ商法に関わってしまい、何度か電話がかかってきました。そんな事する時間があったらプログラムでも作れよと思ったりしましたが、もう今は何をしているのかさっぱりわかりません。


【古籏一浩】openspc@alpha.ocn.ne.jp
http://www.openspc2.org/


中学生当時(1980年代前半)のゲームと言えば、今のようにたくさん種類があるわけではありませんでした。トランプ、花札、人生ゲーム、インベーダーゲーム、任天堂ゲーム&ウォッチなどでした。

それがパソコンを買えば無制限にゲームで遊べたわけですから、パソコン(当時はマイコンという呼称)が売れたわけです。そのゲーム部分だけに特化したのがファミリーコンピュータ(通称ファミコン)です。パソコンの購入目的がゲームですから、そこだけを抜き出したファミコンもバカ売れするわけです。

・みんなのobniz入門
https://www.amazon.co.jp/dp/4865942165/


・InDesign自動化サンプルプログラム逆引きリファレンス上/下
https://www.amazon.co.jp/dp/4844396846/

https://www.amazon.co.jp/dp/4844396854/


・創って学ぼうプログラミング
https://news.mynavi.jp/series/makeprogram


・みんなのIchigoLatte入門 JavaScriptで楽しむゲーム作りと電子工作
https://www.amazon.co.jp/dp/4865940936

[正誤表]
http://www.openspc2.org/book/error/ichigoLatte/


・After Effects自動化サンプルプログラム 上巻、下巻
https://www.amazon.co.jp/dp/4844397591

https://www.amazon.co.jp/dp/4844397605


・IchigoLatteでIoT体験
https://www.amazon.co.jp/dp/B06X3X1CHP

http://digiconcart.com/dccartstore/cart/info/2561/218591


・みんなのIchigoJam入門 BASICで楽しむゲーム作りと電子工作
http://www.amazon.co.jp/dp/4865940332/


・Photoshop自動化基本編
http://www.amazon.co.jp/dp/B00W952JQW/


・Illustrator自動化基本編
http://www.amazon.co.jp/dp/B00R5MZ1PA/


・4K/ハイビジョン映像素材集
http://www.openspc2.org/HDTV/


・クリエイター手抜きプロジェクト
http://www.openspc2.org/projectX/



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■海浜通信[008]
熊野の創作メルヘンと食

池田芳弘
https://bn.dgcr.com/archives/20191121110100.html

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海が好き、ただそれだけの理由で、大阪市内から和歌山の漁港に移住した。

†††††

雨が降る夜、佐藤春夫の「山妖海異」を読んだ。

冒頭に描かれる熊野の地勢はもちろん、人々の暮らしぶりや気質は驚くべき事に今日と変わらない。しかし、読み進めるうち、遠野物語に代表される有名な民間伝承と同質の、超自然的な怪異が押し寄せて来る。

例えば、水平線の彼方を「ダイナ」と呼ぶのはもちろん初耳だが、あまりに自然に使われるため、この時代では普通だったのだろうかと。これは作者が読み手を異界に導く仕掛けなのだろうかと。

しかも、そこからやって来るのは山犬ではなく「海犬」。また、人間に罵詈雑言を浴びせかける人魚(何とオス)など、これらの伝承は熊野ではポピュラーなのだろうか。

佐藤春夫は南紀を題材にした詩やエッセイが多い。この作品もそうだが、旅情をかきたて、ロマンチックな気分に誘われる。

対して、同じく和歌山出身の有吉佐和子や中上健二の陰気な作品を読んで、よし、和歌山に行こうと思う人がいるだろうか。百年先に残る作品が何かは自明の理だが、それまでの間、読書好きや観光客を増やすのは、私たちの責任ではないだろうか。

私は大阪で生まれ育ったが、良く俎上に上がる織田作之助の「夫婦善哉」など、実際に読んだ人はどのくらいいるのだろう。

織田作は千日前の自由軒という洋食屋のカレーが好みだったそうだが、作品を読んだ人数より、横柄な接客に憤慨した人数の方がはるかに多いと思われるが。

思うに、本音を隠して多勢に合わせて行くと大事なものが見えなくなり、それが地域の力を知らず知らずのうちにそぐ事になるのではないか。

体制に逆らうとか、すぐに値切るとか、いつから大阪の本流になったのだろう。あげくには犯罪が増え、企業の本社は価値のわかる東京に出て行って帰らない。

そんな大阪で和歌山出身の方に会うと、故郷について自虐的な話をする人が多かった。

私が、祖母の代からも縁があり、中学から高校時代には自転車で長い休みの度に和歌山へ行き、それも海で夜明けを迎えたいがために、大阪を夜中に出発していた事。紀伊半島一円のスーパー「オークワ」はほとんど訪問済みである事などを伝えると、ようやく相手も胸襟を開いて故郷の自慢話をしてくれた。

それなのに、こちら和歌山で観光客誘致のため、として取り上げられるのは、ラーメン屋を案内する専門タクシーや、都会のフレンチレストランより「手数のかかった」ジビエ、事もあろうに備長炭を練りこんだ「ヌエのような」創作料理など、誰も本音では胸を張って自慢できない代物ではないのだろうか。

そんなものでっち上げなくても、熊野から和歌山にかけて、B級グルメなど必要ない。こんなにも各家庭で梅干や漬物を漬け、地域ごとの寿司を仕込み、庭先で野菜や果実を栽培する地域があるだろうか。古来からの名物がない大阪から見ると、和歌山は本当にうらやましい。

盆休みの始めに、近所のおじいさんが道沿いの笹の葉をハサミで切っているので、何をしているのか問うたところ、あせ寿司(サバの押し寿司)を包むのに使うとの事。その名を聞いてはいたが、こんなにも身近な材料で構成されているとは知らなかった。

また、二十代の頃に友人達と勝浦温泉へ行った帰途、昼食にと駅の売店で買った秋刀魚寿司のおいしさは忘れられない。急カーブが連続するために酔って戻してしまったが、到着した天王寺駅で再度購入したくらいだ。

できれば、知らない観光客相手でもちょっとした笑顔を心がけよう。住民自らが快く過ごしていれば、自然と人は集まってくるように思う。

ちなみに、私が好きな大阪の作家は上田秋成。「雨月物語」と「春雨物語」も極上の創作メルヘンだろう。


【Ikeda Yoshihiro】
ikeda@brightocean.jp
http://www.brightocean.jp/

https://www.instagram.com/brightocean_official/



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編集後記(11/21)

●偏屈BOOK案内:「吉田豪の レジェンド漫画家列伝」

かつては我ながらみごとな漫画単行本のコレクションを誇っていたが、転居を機にオークションで売却したり人にあげたりして、もはや漫画書棚は一台しかない。もちろん新規購入も停止。もっとも、読みたい漫画がない。「吉田豪のレジェンド漫画家列伝」を図書館の新刊棚で見つけて借りた。登場する漫画家は13人。名前を知る漫画家は11人だが、そもそも吉田豪という人を知らない。

プロインタビュアー、プロ書評家、コラムニストというお方。わざわざプロのナニナニと名乗る人の文章に初の遭遇かも。バロン吉元の話では、角川春樹が事務所を作ったとき、映像化第一弾を「柔侠伝」に決めて、映画化とテレビ化の俳優も全部決めて、さらに文庫化を進めた。バロンは、角川と生涯付き合おうと思っていたが、双葉社は宝物だから絶対によそには出さないと突っぱねた。

当然だろう。「漫画アクション」の大看板だもの。しかも、社長同士が学生時代からのライバル。角川は市場調査を行い、絶対に売れるという情報をもとに全部支度をしていた。まさか双葉社が、ダメという返事をするわけがないと思いこんでいた。なぜなら、相乗効果でどっちも売れるはずだから。TVドラマの主役もすでに決まっていたのに。春樹さん、読みが甘いどころの話じゃない。

大物漫画家のほとんどは、梶原一騎か小池一夫の原作でやっていた。バロンは原作付きは全部断ってきた。なぜなら、「俺の方が話を作るのがうまいもん!」。集英社の重役が「一度だけでいいから梶原さんに会って欲しい」と平身低頭なので、彼の顔を立てて京王プラザで会った。みんながいる前で梶原に「私はあなたの原作を描く気はありません」とハッキリ断った。すごいエピソードだ。

いまや漫画の仕上げにパソコンを使うのが常識だが、最初にやったのは寺沢武一。システムに2000万円かかった。原稿料で回収できるはずがない。そこで、世界一高い原稿料、スコラの「コミックバーガー」がページ15万円。彼のインタビューは2時間半、「俺の話は90%近くが嘘、会話したことも半分は嘘だね」とうそぶいているんだから、「プロインタビュアー」も翻弄されていて面白い。

漫画界一の人格者はちばてつや。気が弱いといいながら、ここだけは譲れないところは、どんなに押されても押し返したという。「明日のジョー」では梶原一騎の原作通りには描かないという、相当難儀な理論的闘いを続けたようだ。力石人気が出て「死なせるのはまずいかも」となったとき、「それはなしだ」と言ったのも、ちばだった。「テレビのために仕事をしているんじゃない」と。

話しているうちに梶原も理解してくれたが、力石が死んだあとは苦しんだ。十二指腸がボロボロになって2か月休む。ちばの作品全てに、キリスト教徒の母の検閲があった。すこしでもセクシャルなことを描くと、激しく叱られた。だからそういうシーンは描けなくなった。ちばが人格者に見える理由のひとつだ。

いま大変な評判の漫画「翔んで埼玉」は魔夜峰央の30年前の作品である。「ごまかしてもむだだ。埼玉県民特有のコヤシの匂いがプンプンしてるわ」「埼玉から東京に行くには通行手形が必要なのです」とか、まあ徹底的に埼玉県民をディスる。でも、ありえない大袈裟なジョークだから全然腹が立たない。埼玉サイコーです。天候に恵まれ(これホント)、交通機関も充実してる。(柴田)

吉田豪「吉田豪の レジェンド漫画家列伝」 2019 白夜書房
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4864942544/dgcrcom-22/



●昔、弟がパソコンを買った経緯が、なんとなくわかってきた。/ちょっと前、「パソコンが無い時代ってどうやって仕事してたの?」が盛り上がっていたなぁ。そういや私はいつも、職場の「導入一台目」の担当だったわ。

/今更ラグビー、アルゼンチン対トンガ続き。待っている間に、オーダーをタブレットでとり、商品名と合計金額をプリントアウトしてお客さんに渡す。ナンバリングしておけば、購入者数がわかるし、集計もしやすいだろう。

事前にお金を用意してもらう(もしくはクレジットカードや電子マネーの準備)。ブースではそのオーダー用紙を渡し、商品と金銭授受だけにすれば、もう少し列は進むよね。オーダーをタブレットからブースのタブレットに送れたら、商品を事前にセットすることができて、もっと早くなるかも。(hammer.mule)

パソコンが無い時代ってどうやって仕事してたの?
https://anond.hatelabo.jp/20191020122810


https://jp.quora.com/パソコンがない時代はどうやって仕事してたんです


「パソコンがない時代、どうやって仕事してた?」に反響 「庶務の女の子が
沢山いた」「時刻表とタウンページで出張の準備」
https://news.careerconnection.jp/?p=80767


「パソコンがない時代、どうやって仕事したの?」が大反響 郷愁にかられる
アナログ世代
https://www.j-cast.com/kaisha/2019/11/04371426.html?p=all