まにまにころころ[168]ふんわり中国の古典(論語・その31)友に対しては忠と信を第一にしなさい
── 川合和史@コロ。 Kawai Kazuhito ──

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コロこと川合です。最近また『論語』流行ってるんですかね?新刊の棚で『論語』関係の本を見つけて、つい買っちゃいました。

・「一億三千万人のための『論語』教室」(高橋源一郎/河出新書)

全編を著者独自の大胆な訳とコメントで綴った、新書としてはかなりの分厚さである大作です。およそ530ページ。

タイトルは、著者が以前に「一億三千万人のための小説教室」を書かれたから、それに倣ったものだと思われます。(ちなみにそちらは岩波新書)

いわゆる超訳ではない、と著者は書いていますが、わざわざそう書くくらいなのはかなり「超訳系」からです。というか、そこらの超訳モノでもここまではしない、というくらいにくだけた語り口。現代語で、時にはシーンすら現代日本にして、分かりやすく書かれています。

読み下し文が合わせて載っているので、ちゃんと論語としても楽しめます。

私はいつも「だいたいの意味」としながらも、できるだけ原文に即した訳文に近くなるようにしているのですが、これくらい振り切ってしまっても良かったかもなんて思ったり。

そうしなかったのは、世に既に超訳本があったからなんですけどね。超訳本は、書き手のセンスがとてもはっきり出ちゃうので、文筆のプロと比べられたら、ちょっと辛いのでやめておきました。(笑)

もっとも、プロの超訳本でも「なんだこれ?」と読んでられなくなるものも。その点この高橋源一郎本は、さすがの巧さです。ああ、超訳ではないとのことですけども。

最初に手にする一冊としてはどうかと思いますが、面白くすらすら読めるので、書店で見かけたらぜひ手に取ってみてください。そしてそのままレジへ。

さて、ここからは今回も素人の論語話にお付き合いください。






◎──巻第五「子罕(しかん)第九」十九

・だいたいの意味例えば山をつくるがごとし。あとカゴ一杯で完成というところで投げだして、やめてしまうのは、それは自分がやめたのだ。例えば(凹んだ)地面を平らにするがごとし。カゴ一杯分だけでも土を入れたのは、それは自分が進めたのだ。

──巻第五「子罕(しかん)第九」十九について

あと一歩で投げだしちゃうのも自分の意志なら、小さな一歩でも踏み出し前に進むのも自分の意志だよ。自分の意志次第なんだよって話。

エイヤで始めちゃって止めるに止められなくなってるこの論語話、それも自分の意志です、誰のせいでもない、私の意志。そんなことは分かってる。(笑)


◎──巻第五「子罕(しかん)第九」二十

・だいたいの意味
教え語って怠らない者といえば、まあ顔回だな。

──巻第五「子罕(しかん)第九」二十について

孔子先生の教えを実直に受け止めて、日々学びを怠らない。そんな者と言えば、それはまさに顔回のことだなと。

顔回は、才気煥発、といった感じではないのですが、とにかく実直。まっすぐ。孔子先生の教えを素直に吸収して体現する。それが顔回です。


◎──巻第五「子罕(しかん)第九」二十一

・だいたいの意味
孔子先生が顔淵(顔回)について仰った。実に惜しいことだった。私は彼が進むのは見たが、止まるのは見なかった。

──巻第五「子罕(しかん)第九」二十一について

顔回、孔子先生より先に亡くなるんです。その顔回についての回想です。

これまでにも顔回を褒め称える話は何度もありましたよね。最愛の弟子です。また先でも出てきますが、その顔回を亡くした孔子先生の嘆きたるや。知っていると、顔回の名前が出てくるたびに切なくなります。


◎──巻第五「子罕(しかん)第九」二十二

・だいたいの意味
苗のまま、伸びて花咲かないものもある。伸びて花咲いても、実らないものもある。

──巻第五「子罕(しかん)第九」二十二について

流れから、早逝した顔回を念頭に置いての話とする説が有力だそうです。


◎──巻第五「子罕(しかん)第九」二十三

・だいたいの意味
若者おそるべし。どうして将来の彼らが、今の自分に劣るなどと言えようか。四十、五十になっても名をあげることが無いなら、それは恐るるに足りない。

──巻第五「子罕(しかん)第九」二十三について

未来若者は無限の可能性を秘めてるんだよ。今の自分なんて追い越されるかもしれないんだよ。四十、五十にもなって芽が出ない者なら怖くないけどね、と。

耳が痛いよー! ひどいよー! リアルすぎるよー!


◎──巻第五「子罕(しかん)第九」二十四

・だいたいの意味
厳しい戒めの言葉には素直に従うほかない。そして自らを改めることが大切だ。優しく褒める言葉には喜ぶしかない。ただその真意を尋ねることが大切だ。喜んで尋ねない、従って改めないというようでは、私にはいかんともしがたい。

──巻第五「子罕(しかん)第九」二十四について

厳しく言われたからとその場では従うだけ従って、態度を改めようとはしない。優しい言葉をかけられたからといって、単純に喜ぶだけで、その言葉の意味を確かめようともしない。そんな奴の面倒なんてみてられない、と。

向上心の無さ、とでもいうんですかね。より良い自分になろうとしない奴には教えられることなんてない、ってことですね。

元からそんなタイプの人もいますが、そうでなかった人でも年を取るにつれて素直さが失われたり、人の言葉をしっかりと受け止めようとしなくなったり、特に忠言に耳を貸さなくなったり、おだてられていい気になったりするもの。いや、身に覚えがありすぎて……

孔子先生に見放されないよう、気をつけます。


◎──巻第五「子罕(しかん)第九」二十五

・だいたいの意味
忠と信とを第一とし、己に劣る者を友とするなかれ。過ちを犯した時は、すぐ改めることに躊躇することなかれ。

──巻第五「子罕(しかん)第九」二十五について

「学而第一」八に、これとほぼ同じ言葉が含まれています。

その時も書いたかもしれませんが、後半はともかく前半。言葉通りにそのまま受け取っては、なかなか友だちができない事態に。

だって、自分より優れた人と友だちになろうとしても、つまり相手にとっては自分は劣るわけですから、受け入れてもらえないことになります。

残された道は、自分と同じくらいの人を友だちに選ぶこと。

孔子先生がそういうつもりで仰ったのかどうかは分かりませんが、実際のとこ、総合的に見て自分と同じくらいのレベルの人と友だちになって、切磋琢磨しあうのが、互いにとって幸せであるケースって多いように思います。

ぴったり同等というのでなく、ある面ではちょっと相手が優れてて、また別の面ではちょっと自分が優れてて、お互いに刺激し合うような関係。

そんな友が欲しい。

なかなか大人になると難しいですよね。というのも、子供のうちならわざわざ探さなくても、だいたいみんな似たり寄ったりなので、友だち百人とおにぎり食べてれば、そのうち80人くらいは条件にも当てはまりそうなもので。でも、大人になると「同レベル」が判断しにくい。優劣はわりと分かるとしても。

自分より劣った相手に友だち面して近づいて、優越感に浸る輩もいるし、また、そうさせておいてコバンザメ戦法で利を得る輩もいるでしょうけど、それは、上手くいってても「友」とは違う関係ですよね。

まあ学而の時に書いたんですが、シンプルに「バカとは付き合うな」ってだけの話かもしれませんけどね。(笑)

ところで、改めて忠と信ですが、
忠:つとめを果たそうとまごころを尽くす心。
信:友情を大切にする心。誠実であろうとする心。
といった感じの言葉です。

友についての話の前に、忠と信を第一に、とあるので、これも友選びに際してのあるべき心構えと考えていいと思います。

その流れで言うと、後半も、友に対して過ちがあった場合には、と考えていいかもしれません。何事においても言えることではありますが。

友に対しては忠と信を第一にしなさい。自分より劣った者を友に選ばないようにしなさい。友に誤った態度を取ってしまったなら、すぐ改めて謝りなさい。

うん、しっくりきますね。


◎──巻第五「子罕(しかん)第九」二十六

・だいたいの意味
諸侯の大軍といえど大将を奪うことはできる。匹夫といえど志を奪うことはできない。

──巻第五「子罕(しかん)第九」二十六について

大軍の将は討ち取れても、たったひとりの人間の志は奪えない。

志というのはそれほどに強いもので。たとえその人の首をはねても残ることがあるくらいってのは、松陰先生を思えば納得ですね。


◎──巻第五「子罕(しかん)第九」二十七

・だいたいの意味
破れた綿入れを着て、立派な毛皮を着た人と並んで堂々と恥じない者といえば、まあ由(子路)だな。

──巻第五「子罕(しかん)第九」二十七について

「里仁第四」九で孔子先生は、悪衣悪食を恥ずる者はともに謀るに足らざる、と仰っています。道に志していながら粗衣粗食を恥じているようでは語り合うに値しないと。

その点において、ここで第一に名の挙がる子路はさすがと言えるでしょう。孔子先生、自慢の弟子のひとりです。でも孔子先生は、次章で子路にさらなる精進を望んでいました。


◎──巻第五「子罕(しかん)第九」二十八

・だいたいの意味
「(人に対し)損なわず、求めず。それでどうして良くないことが起きようか」子路は終身そう口にしていた。
孔子先生は仰った。「その道は、それでどうして十分良しとできようか」

──巻第五「子罕(しかん)第九」二十八について

相手に害を与えない。相手に無理を要求しない。子路はそうしていれば良いと常々、生涯言っていました。孔子先生はそれを評して、それじゃ足りねえ、と。

態度が消極的に過ぎる、と言うんですね。

でも子路は猪突猛進タイプ。自らの戒めとしてもそう口にしていたんでしょう。

孔子先生もそんなことは重々承知の上で、そうやって無理に押さえ込むんじゃないよ、ガッと行く時はガッと行くのがいいんだよ、それがお前の持ち味ってもんだろうよ、とでも言いたかったんでしょうかね。

孔子先生はちゃんと相手を見て仰る方なので。


◎──巻第五「子罕(しかん)第九」二十九

・だいたいの意味
寒い時期になってはじめて、松柏がなかなかしぼまないことを知る。(松柏:マツ、ヒノキといった常緑樹。※柏は、落葉樹のカシワではない)

──巻第五「子罕(しかん)第九」二十九について

冬になって周囲の木は葉を落とすのに、松や檜はそうならないんだねと、冬が来て初めて気づくように、困難を迎えてはじめて人の真価を知る、という比喩。

平時は同じように見えていても、いざって時に慌てたり取り乱したりする人、一方で冷静に対処する人、などなど、非常事態には本質が垣間見えますよね。


◎──巻第五「子罕(しかん)第九」三十

・だいたいの意味
知者は惑わず。仁者は憂えず。勇者は恐れず。

──巻第五「子罕(しかん)第九」三十について

これは、そのままです。

本質を知る優れた知性を持っていれば、惑わない。思いやり、慈しみの心を持っていれば、憂い悩まない。
勇気があれば、恐れない。仁・智・勇を兼ね備えた人、それが君子です。


◎──巻第五「子罕(しかん)第九」三十一

・だいたいの意味
共に学ぶことはできても、共に道に進むことができるとは限らない。共に道に進むことができても、共に立つことができるとは限らない。共に立つことができても、共に事に当たれるとは限らない。

──巻第五「子罕(しかん)第九」三十一について

まず、共に学ぶ。これはそのまま。一緒に学ぶことはできる。でも、その先、志を同じくする道に進めるかどうかは分からない。

同じ道を歩んだとしても、そこで共にひとかどの人物になれるとは限らない。

共にそれぞれが自らの足で立つことができたとしても、有事の時、共にそれに臨機応変に対処して動けるとは限らない。

出発点は同じでも、そこから人それぞれどうなっていくか分からないし、仮にずっと一緒でも、何かの時に一緒に臨機応変に動けるほどに双方が共に立派な人物に成長を遂げているとは限らないよと、そんな感じですかね。

色んな捉え方ができそうですが、好きに解釈していいんじゃないでしょうか。


◎──巻第五「子罕(しかん)第九」三十二

・だいたいの意味
「唐棣の花びらが舞い落ちる。あなたを想うも、ただ家があまりに遠すぎて」孔子先生は(この詩について)仰った。たいして想ってなどいないのだ。(想っていれば)何を遠いことがあろうか。

──巻第五「子罕(しかん)第九」三十二について

身も蓋もない孔子先生……

ここは、前の章とくっつけて、「共に臨機応変に事に当たれるとは限らない?いや、そんなことはない、それは想いがたりないだけだ」とする説もあります。

でも、前章の話から急に詩をはさんでそんなこと言い出すのも微妙。ここは、単にこの詩に毒づいただけの孔子先生でしょう。


◎──今回はここまで。

これで「子罕第九」は終了です。次回からは「郷党第十」に入ります。

そうこうしているうちに、もう今年も終わりですね。あれこれやり残しが想い起こされ、気ばかりが焦ります。冬が来て真価が……ダメダメとばれる。(汗)


【川合和史@コロ。】koro@cap-ut.co.jp
合同会社かぷっと代表
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