Otaku ワールドへようこそ![319]「谷村ノート」にみられるすれ違いの根っこにあるものは?/GrowHair

投稿:  著者:  読了時間:35分(本文:約17,100文字)



「反論歓迎」と言っておきながら、逃亡を決め込むわけにもいくまい。前回の続きをやろう。

前回、「谷村ノート」をめぐって、私から谷村氏に送ったメールと谷村氏からいただいた返信を公開し、コメントした。
『哲学者に雷を落とした物理学者・谷村省吾氏に聞く:意識の謎について』
http://bn.dgcr.com/archives/20191122110100.html

今回は、前半で反響に答え、自分の立場を明確化することに努めたい。後半で元の書籍の谷村氏vs.青山氏の紙上討論のパートについてコメントし、すれ違いの根本原因はひょっとしてこれだったのではないか、という私の考えを提示しておきたい。





●怒られました、どうもすみません

【刺々しすぎた】

「谷村ノート」のほうは、強い調子の表現が随所にみられたとはいえ、哲学における方法論の粗雑さや、主張内容の不合理さを真摯な姿勢で糾弾する、きわめてまっとうな哲学批判である。

しかし、前回、私から述べたコメントは、それとはまったく性格を異にするものになった。意思疎通がどうしてもうまくいかないフラストレーションや、科学的な思考を軽視する態度への怒りの段階をとっくに通り越して、もはや侮蔑・冷笑の調子になってしまった。

人文系の研究者にだって、例えば、「シンギュラリティ」を「馬鹿げた考え」だとして理由も述べずに斬り捨てたり、来る派を宗教的狂信者呼ばわりするなど、科学者に対してずいぶん失礼なもの言いをする人がいるので、こっちからもあのくらい言い返したってよかろうと思っていた。

ところが、あれを読んで、まともにダメージを食らってしまった人がいたようで。それは考えに入っていなかった。傷つける意図はなかった。それを言われて、ああいうのはよくなかったのだと反省した。

今後、質問にせよ批判にせよ、相手方に聞いてもらいたいことがあるのなら、真面目にやる。というわけで、あの挑発的で刺々しいもの言いについては、お詫びしたい。

【誤爆だった】

全体の論旨が、「哲学は方法論や主張内容が雑だ」と糾弾することにあった中で、自分の論の中で大雑把なことをやらかしてしまったため、格好のツッコミどころを提供してしまった。いわゆる「ブーメラン」というやつ。

あの稿は、谷村氏からいただいたメールに対しての感想文であって、「論」を張ったつもりはないので、感想に厳密性なんか要求されても困る、と言って逃げを打つ手もないことはないけど、論にせよ感想にせよ、言ったことには間違いないので、その手で逃げようとするのはいかにも往生際が悪い。

谷村氏の論点について、私も以前から同様のことを思っていたという実例として、西垣通氏の『AI 原論』を槍玉に上げたが、誤爆だった。西垣氏は情報学者であり、哲学者ではなかった。

カンタン・メイヤスーやマルクス・ガブリエルを引いてきたりするので、てっきり同ジャンルの人かと思い込んでいた。まったくの勘違い。面目ない。

【哲学に数学は必須か】

「哲学をやろうと思うなら、数学の基本的な素養は必須であろう。大学の哲学科の入試に数学を課してはどうか」と言った。この考え自体については、少し緩めたほうがいいかとは思いつつも、自分の中で、継続的に持っているものである。

ただ、それの主張のしかたとして、論拠についての言葉が足りてなくて、説得力に欠けていた。隙のありすぎる論を張っては、簡単に反論を許して撃沈してしまう。いったんは言い負かされた格好でもしょうがないけど、ちゃんと言いなおせば、主張としてはまだ死んでいないと思う。

今、ここで言いなおしてもいいのだが、主題がズレるので、先に送りたい。

【主語がデカいと論がぼやける】

谷村ノートに記述されているように、物理学者である谷村氏と、哲学者である青山氏や森田氏との間での紙上討論において、入口のところで議論がかみ合わず、中身の議論に進むことができなかった。

これは、個人対個人のコミュニケーションのうまくいかなさという見方も可能ではあるが、私は、背後にもっと大きな、哲学と科学との間の分かり合えなさという本質的な問題があるのではないかとみていた。

しかしながら、哲学も科学も中身を見ていけば非常に多様であるから、「哲学は」、「科学は」のようなくくりで論じるのは、主語が大きすぎて、それぞれのどこを取り上げたいのかがぼやけてしまうというマズさがあった。

「主張を述べる際にあいまいさを残さないようカッチリ表現すべし」と要求しておきながら、自分がこんな大雑把なことをやっていては、これまたブーメランなことになってしまった。

田口茂先生(北海道大学教授)は、フッサールが「小銭で払え」と言ったと教えてくださった。

科学vs.哲学論争もまったく無駄だとは言わないけれど、大きな主語を立てての論争はよい成果に結びつきづらく、逆に、ミニマルで具体的な問題を立てて科学者と哲学者が共同で取り組むと、明らかに生産的な成果をもたらす場面が生じるとのこと。それは論としてではなく、事実としてあり、そうした仕事を積み重ねていくことが、「哲学と科学の対話」と言われうるものを具体的に進展させる道だろう、とのこと。

一般論で答えを出すのではなく、小さく具体的な取り組みの積み重ねで相互協調を進展させよ、と。それが小銭で払うということと理解した。

2019年7月1日、北海道大学は「人間知・脳・AI研究教育センター(Center for
Human Nature, Artificial Intelligence, and Neuroscience (CHAIN))」
(学内共同施設)を設置した。本格的な活動は2020年4月からを予定している。
https://www.chain.hokudai.ac.jp/

人文社会科学・脳科学・AI研究が交差する領域において、文理の境界を超えた先端的研究・教育のプラットフォームを作ることを狙いとしている。その交差領域にある4つのテーマとして、意識、自己、社会性、合理性を掲げている。

CHAINのセンター長が田口氏である。自然科学系と人文科学系の研究者たちをまとめる役であるから、科学vs.哲学論争についても日ごろから考えていることがあるに違いないと思って、私からご意見をお伺いしてみたのである。

一般論で答えが返ってくるかと思いきや、「小銭」である。まったく意表を衝かれた。そういうふうにやるのだな。聞いてみてほんとうによかった。田口先生、ありがとうございます!

【自分のスタンス】

現時点において、自分の立ち位置はこうである、というのを記述しておこうと思う。

・「意識のハード・プロブレム」に興味がある

・それの正解が知りたくて知りたくてしょうがないが、その問いの解決を目指してみずから取り組めるだけの基礎力を持ち合わせていないので、たとえ正解にまでは至らなかったとしても、何らかの進展をもたらしてくれそうな研究者たちをウォッチしている(天才ウォッチ)

・意識の謎は、科学から取り組むべき課題だと思っている

・しかし、意識とは何かを客観側からの言葉でちゃんと定義できていないと思っており、厳格な科学者が意識を科学の対象とすべきではないと言うのを、理屈ではその通りだと思う

・そうは言っても、将来、正々堂々と科学のマナイタに載せられるようになりうるタネぐらいにはなっているだろうし、現時点でも科学からのとっかかりようはあるだろうと、私としては思っている

・意識のハード・プロブレムは、その名のとおり、非常に難しい問題であって、原理的には解けない問題ではないかもしれないけれど、問いの根の深さをナメちゃダメで、おそらく向こう300年はかかるんじゃないかと思う

・最近30年ぐらいの間に脳科学と人工知能が急速に発展してきたおかげで、正解に至らないまでも、重要な知見がいろいろと得られてきていると思う。特に、ベンジャミン・リベット氏の実験はすばらしい。自分がこの時代にいることを、非常にラッキーと思っている

・脳科学と人工知能のクロスオーバー領域は非常に熱く、目が離せない

・意識のメカニズムを数理的に説明づけようとする仮説を提示した人がいれば、当たってそうか、当たってなさそうか、支持するか、しないかに関わらず、まずは、がんばって理解しに行く。正解を聞いたときびっくりできるための下地として必要と思う。しかし、往々にして非常に難解で、くじける

・正解なり、仮説なり、アプローチの道筋なり、ヒントとなる思弁なり、直接間接の前進をもたらしてくれそうな情報があれば、その提示元が科学からであろうと、哲学からであろうと、宗教からであろうと、何でもない市井の人からであろうと、そういうラベルとは関係なく、ちゃっかり取り込む

・哲学方面からのアタックが有効である可能性はあると思っている。物理学にせよ、数学にせよ、それらの基礎の基礎の基礎のところを問い詰めていくと、どうも哲学の領域の話っぽくなっていく。そのあたりの領域へ取り組む担当ジャンルとして、哲学には期待をもっている。特に「心の哲学」と「科学哲学」

・しかし、私の個人的な興味の指向が哲学全般には向いていない。哲学という大きなジャンルの全体がどうなっているか、勉強して知ろうという動機があんまりない

・哲学の中でも、科学と整合するサブジャンル、あるいは言説だけを興味の対象としている、と言ってもよい

・そうでありながらしかし、科学と哲学の分かりあえなさの問題には興味を持っている

・今回の「谷村ノート」の一件についても、ある哲学者と、ある物理学者との間の一トラブルとみるのは、問題を矮小化していて、おもしろくない。どちらか一方、あるいは両方が謝って、トラブルとしては解決、となるかもしれないが、それですべてを終わらせてしまっては、大事な何かを取り逃がす(トラブルを大きくしたり、長引かせたりしたいという意味ではない)。背後にある、もっと大きくて本質的な問題の、現れ方の一例だったとみている

・そう思うのはなぜかというと、何人かの科学者に対して、哲学をどう思いますか、と聞いてみたことがあり、ありゃダメだ、という答えを複数の人から聞いていたからというのはある

・哲学と科学の分かり合えなさという問題は、おそらく、見かけ以上に、非常に根が深い。この問題の根本原因が見えている人がいないようにみえる

・橋渡しになる人がいるとよい。一人の人が、科学と哲学を両方よく分かっていて、科学者に対しては哲学ってこうだよ、と解説して科学者を納得させ、哲学者に対しては科学ってこうだよ、と解説して哲学者を納得させる

・これができる人が見当たらない。ネットでそれを試みた人を見かけたが、科学に対する理解も、哲学に対する理解もいまひとつだった

・非常に真摯な姿勢で一方が他方を批判したとしても、批判されたほうが、何を言われているのかマジで理解できなていないということが相互に起きているようにみえる。それだけすれ違いの根が深い

・例えば、人文系の研究者が科学を批判するのを聞くことがあるが、私がそれを聞いても、たいていの場合、「そりゃ、あんたの科学に対する理解が足りないせいでしょ。あんたが科学を勉強してちゃんと理解すれば、その批判自体が解消するものだ。それを聞いて、科学の側で改めるべきことなんて、何もないよ」と思う

・おそらく、科学の側から哲学を批判した場合も、同じことが起きているようだ。お互い、相手に向けた攻撃と、相手からの攻撃の受け止め方が同じという、合わせ鏡みたいなことになっている

・この分かり合えなさの問題について、私は、哲学側に原因があると思っていた。哲学者が、数学の基本的なところをちゃんと勉強して習得し、それを議論のしかたの基礎として踏まえ、新しい概念を持ち出すときはまず定義しないと伝わらないよ、とか、論理運びの連鎖がジャンプしちゃだめだよ、という最低限の思考と伝達のルールを守ってくれさえすれば、科学側から理解しにいくことが容易になるだろうという思いから

・裏づけや傍証が何もない状態で仮説を言っているだけで、主張というほどの立派な論にはなっていない。しかも、これは、問題の根の深さを甘くみていたかもしれず、どうも、そんなもんじゃないかもしれないと思い始めている

・「よく知らないことについては、余計な口出しをしない」という礼儀みたいなことで、争いを解消して、平和的に解決することは可能であろうが、それだと、すれ違いの根本原因が見つからなかったという問題を放置することになる

・それでも別に悪いということでもないのだが、それでは、もしかすると、大事なことを取りこぼすかもしれないという思いがある

・繰り返しになるが、自分の興味の中心はあくまでも意識のハード・プロブレムにあるけれども、科学と哲学の分かり合えなさの問題が、もしかすると関連するかもしれないと思っているという動機から、そっちにも関心がある

・だけど、お互いに相手のせいにしているのでは、どこまで行っても平行線が続くばかり。解決には相互協力が必要。すれ違いの根っこを見つけるぞ、というゴールを共有して協力的に進めなきゃ、どうにもならんぞ、とは思う

・相互無干渉による表面的な平和解決では、事実上、決裂と同じこと。これは、おそらく哲学にとっても、科学にとっても、あんまりいいことではない。たとえるなら、脳梁を切断して右脳と左脳との情報連絡を遮断して起きる分離脳みたいな状態?

・最後っ屁をかますようでアレだが、分離脳状態になった場合、干からびて死ぬのは哲学の側だと思うけど、そうなったとしても、私の側は直接的には何も困らない。一番の関心問題の解決が遠のくのであれば、それは困る

●遅ればせながら読んでみた書籍

「谷村ノート」は、下記の書籍に書ききれなかったことを補足する趣旨で書か
れている。

森田邦久(編著)『〈現在〉という謎:時間の空間化批判』勁草書房(2019/9/27)

しかるに、ネットに上がっているコメントのなかには、書籍もノートも読まずに言っているのがバレバレなのが見受けられる、と谷村氏が批判ツイートしている。

まあ、そんなもんだろうとも思う。何かを見て、脊髄反射のように思ったことを短い言葉でネットの公共空間に吐き捨て、言いっぱなしで逃げる。それに対してついた他人のコメントは読まない。軽い気持ちで心のゴミをポイ捨てし、いつまでも改めない、って人は、まあ一定数いるだろう。

私は、その仲間ではない。多少は考えてからものを言うし、反響は気にするし、関心のある話題は継続的に追ったりもする。とは言いつつ、今さら白状すると、前回のを書いた時点で、書籍のほうはまだ読んでなかった。なので、哲学者である青山拓央氏や森田邦久氏の言説については、谷村氏の読解を通じてしか入ってきていないという公平性の欠如が心配だった。

やっと青山氏のパートだけ読めたので、とりあえず、そこに対してコメントしておきたい。

この本は、哲学者と物理学者が「時間」を主題に議論する形をとる。現状、両分野間の交流は極めて少ないが、異なる方法論をもつ異なる分野の研究者たちが、同じ主題について議論をすることは有益であろうという狙いから企画されたという。

8章からなり、各章、まず、物理学者または哲学者のどちらか一方が「時間」を主題とした論文を寄稿し、他方がコメントし、元の執筆者が回答するという形式をとる。

なんらかの化学反応が起こるだろうとの企画意図は裏切られる。哲学者が提示した問いを物理学者が受け入れず、入口で話がかみ合わない。両者とも、コミュニケーションが根本的なところでうまくいっていないことにフラストレーションを覚え、なんとかしようとがんばるが、なんともならず、中身の議論に入れずに終わっている。

ああ、こういうふうにすれ違うんだ、というのが生々しく伝わってくる記録としてなら秀逸だ。読むほうも、巻き込まれて、悶絶させられる。

第4章は、哲学者である青山拓央氏がまず寄稿して、物理学者である谷村省吾氏がコメントし、青山氏が回答する形式になっている。それで終わらせられない谷村氏から、補足として「谷村ノート」が出てきたわけだ。

谷村ノートを読んだ段階で、この方の言うことは何から何まで信頼に足ると思っていた。書籍を読んだことにより、谷村氏は相手の主張を少しもゆがめずに正確に伝えているとが確認でき、その思いをいっそう深めた。

また、谷村氏からの批判も何から何までごもっともである。私からは、谷村氏が言及しなかったことを拾い上げようと思う。内容は、どうしたって、青山氏への批判になってしまうが、しかし、真面目にやる。客観性を重視し、論理運びに注意を払う。見下したり笑い飛ばしたりする調子にならないよう、気をつける。

【「現象ゾンビ」の定義について】

青山氏は谷村氏へのリプライの中で、「現象ゾンビ」を次のように定義している。「現象ゾンビとは、クオリアをもつヒトと物理的にまったく同一でありながら、クオリアをもたない存在である」。

私は、これを一般的な定義と異なると思った。ネット上であちこち読みまわってみると、私の側に思い違いがあったことが判明した。これのせいで、谷村氏と私との間で、話のすれ違いが生じていた。ただ、定義がまったく統一されているわけでもなく、たいへんややこしい。注釈的に整理しておきたい。

ここでは「心の哲学まとめ Wiki」の定義を取り上げる。
https://w.atwiki.jp/p_mind/pages/37.html

「哲学的ゾンビ(Philosophical Zombie)」とは、デイヴィッド・チャーマーズによって提起された「心の哲学」における思考実験であり、「外面的には普通の人間と全く同じように振る舞うが、内面的な経験(現象的意識、クオリア)を全く持っていない人間」と定義される。「現象ゾンビ」とも呼ばれる。

この時点では、哲学的ゾンビと普通の人間との違いは、外見上の振る舞いにおける違いにしか言及しておらず、内部構造まで同一かどうかは規定していない。

哲学的ゾンビには次の2種類がある。

(1)「行動的ゾンビ(Behavioral Zombie)」。外面の行動だけは普通の人間と区別できないゾンビ。解剖すれば人間との違いが分かる可能性がある、という含みを持つ。

(2)「神経的ゾンビ(Neurological Zombie)」。脳の神経細胞の状態まで含む全ての観測可能な物理的状態が、普通の人間と区別する事が出来ないゾンビ。通常、哲学的ゾンビと言う場合、こちらのことを指す。

私は「哲学的ゾンビ」と言えば(1)のほうを指すものだとばかり思い込んでいた。しかし、青山氏の定義は(2)であり、そっちのほうが一般的だったようだ。

ただ、私としては(1)の定義の下でなら便利に使えるが、(2)のほうは、谷村氏の見解と同じく「そんなの、思い浮かべることだけはできても、現実に起こりうる可能性はゼロとしてよい」と思う。なので、一瞬のうちに話が終わってしまい、(2)の意味で使う機会はまずないと思う。

この項は、用語の定義がややこしいので注釈しておいた、という程度の意味合いである。青山氏は定義を明示しているので、ここに不備はない。

ただし、哲学的ゾンビの実在可能性をめぐる問いについては、私は谷村氏と立場を同じくし、青山氏の論は受け入れられない。

物理学と領域を異にする形而上学において、(2)の意味の哲学的ゾンビが実在しうるかどうかを問題にしたいのであれば、議論しちゃいけないということはないけれど、物理学の観点からすると、この問いは相手にしなくてもよいと思う。

【意識─物質間の因果作用について】

青山氏は次のように述べている。「物理主義的な観点から、因果の物理的閉鎖性を厳密に支持するなら(つまり、物理的な世界のなかで因果の連鎖が閉じているなら)、意識から物質へ向かう因果作用だけではなく、物質から意識へと向かう因果作用もまた不可能となるはずだ」。

物理学の側から、そこまでは主張していない。「因果の物理的閉鎖性」とは何か。Wikipediaには「物理的領域の因果的閉包性」という見出しがあり、次のように説明されている。

「物理的領域の因果的閉包性(causal closure of physics)」とは、「どんな物理現象も物理現象のほかには一切の原因を持たない」という経験則である。「物理的閉鎖(physical closure)」、「物理の下で閉じている(closed under physics)」などとも呼ばれる。この主張において、因果関係が一方通行であることに注意されたい。

どういうことか。例えば、霊魂でも妖精でも、物理学で取り扱う対象ではない何かについて、そういうものを思い浮かべるだけならかまわない。物理現象が霊魂や妖精に影響を与えうるかを問う場合、そういうもの自体、物理学の外側で考え出されたものであるから、物理学側からは関知しない。影響を与えることにしたければそうしたってかまわない。

しかし、霊魂や妖精などが物理現象に影響を与えうると考えるのは、由々しき問題である。それを認めたら、既存の物理法則が崩れてしまう。それを主張したいのであれば、そういうことが現実に起きているということを、証拠をもって示さなくてはならない。

物理学はそんなにヤワなものではなく、既存の物理法則に反する物理現象を見つけようと思ったら、日常生活に現れるようなところを探したって、ちょっとやそっとじゃ見つかるものではない。微小なスケールや巨大なスケールや、自然には起こりえない高エネルギー状態などの極端な条件を考えてすら、そうそう姿を現さない。脳内がそんな極端な物理状態になっているような気配はあまりしない。

「顔に火の粉がかかってきて、熱いと思ったから、手で火の粉を払った」という例を挙げて、物理的な実在ではない「熱い」というクオリアが、物理的に火の粉の位置に影響を与えたではないか、と主張した程度のことで崩れたりするようなものではない。

こんな事例に直面したからといって、物質一元論は少しも困らない。私が熱いと感じているとき、それに対応する物理現象が私の脳内で起きていると考える。例えば、「〈熱い〉ニューロン」みたいなものがあって、それが発火している、といったことである。

このとき、顔に火の粉が降りかかって、それを手で振り払うまでの一連の物理現象は、脳内の物理現象が介在しているのであって、物理世界で話が閉じている。物理的領域の因果的閉包性になんら違反していない。

この際、意識は蚊帳の外に置かれている。「熱い」というクオリアが手の動きを駆動したなどと考えてはいけない。それでは閉包性に違反する。一連の動作には脳内の物理的な状態だけが関わっており、意識は要らないのである。

脳内の状態遷移の途上であってもいいし、脇っちょであってもいいし、時間的に遅れてでもかまわないのだが、行きがけの駄賃に、意識を生成するような脳内物理状態を作っておくことで「熱い」と感じるようにしておけば事足りるのである。脳の物理的状態との対応をいったん切り離して考えてみれば、意識それ自体は、現実の進行にまったく関与していないとみることができる。これが「意識の随伴現象説」である。

このモデルが、ほんとうに正しいかどうかは未確定であるが、少なくとも、この種のモデルを考えることにより、火の粉の事例ぐらいは説明がついちゃうのであって、物質一元論は少しも不合理性を呈さない。

「物理的領域の因果的閉包性」とは、言い換えると、「非物理から物理への因果的影響の禁止」だ。逆向きの因果関係については、非物理側の話なので、物理側から関知しない。この一方通行性に合理性がある。

この閉包性を「意識」に適用すると、こうなる。「非物理的存在として意識を仮定した場合、その意識は物理世界に影響を及ぼすことができない」。ざっくり言い換えると、「二元論の禁止」だ。なので、閉包性を起点にして、論理矛盾を導くことができれば、「二元論の復活」の目もありうる。

ここで問題にしたいのは、青山氏は「因果の物理的閉鎖性」から、「物質から意識へと向かう因果作用もまた不可能となるはずだ」と言い、そこを起点にして論を進めている点だ。繰り返すが、物理学はそんなことを言っていない。

物理から非物理への因果関係については、非物理側の話なので、そういう設定を導入することにした、というなら自由である。しかし、閉包性からこの向きの因果関係の禁止を論理的に導出することはできない。

では、青山氏は、いかなる論理を用いてこれを導出したと主張しているのか。「(閉包性は)前者の因果関係のみを退け、後者を受け入れた不徹底なものである。では、この不徹底を戒め、意識─物質間の因果作用を完全に否定してみよう」。

閉包性の主張する一方通行性は合理的なものではなく、戒められちゃうような「不徹底」なものなのだそうである。これ、いいんですかい?

そして、意識が物理現象の原因でも結果でもないとするならば、「熱い」という意識が、火の粉の降りかかりに伴って起きる必然性はなく、時間的に先んじて生じてもよいではないか、いうことになる。これは不合理である。よって、物質一元論はおかしい、というふうに論を進めたかったようである。

正直、ここの論理運びもよく理解できていないのだが、もし私の読解が合っているとするならば、出発点がおかしいのだから、ここまでの論が丸ごと無効となる。

ここで言えたことは、物質一元論が不合理であることを示そうとする論が無効であったということであり、つまりは、心身二元論を持ち出してきたくなる動機を消去することができたのだと思う。だけど、ここが崩れたら、青山氏の論はほぼ全面的に崩れていないだろうか。

前回、ちょっと言葉が過ぎたので、ぐっとこらえて飲み込むが、絶叫したくなる私の気持ちがご理解いただけるであろうか。

【論点先取について】

前項と関連するのだが、意識について考えようとするとき、「論点先取」と呼ばれる論理誤りを犯しやすい。

論点先取というのは、何かを証明する過程において、証明したいことを先に使ってしまう誤謬である。例えば、これから「1=0」であることを証明しますよ、と宣言するのであれば、「1=0」かどうかをあらかじめ知らないという前提に立った上で始めなくてはならない。

証明の途中で「1=0」を(うっかりにせよ、こっそりにせよ)使ってしまい、その結果、「1=0」であることが証明できたようにみえたとしても、この証明は誤りである。この誤りが「論点先取」である。これをやらかしてはいけない。これを許しては、どんな間違ったことでも証明できてしまう。

青山氏は、谷村氏に対して、次のような問いを提示している。「意識状態と対応する最終的な物理状態が、ある意識状態を生み出すのに、さらなる時間は不要なのか」。

これに対して谷村氏は次のように述べている。「この問いは、心的な出来事は物的な出来事ではないとする心身二元論の立場からしか発せられない問いである。心的な出来事は物的な出来事の一種であるとする物質一元論の立場からは、この問いは立てられない」。

この稿の中で谷村氏は「論点先取」という言葉を用いていないが、問いを立てた時点で心身二元論を前提としているので、論点先取ではないか、という意味のことを言って、青山氏の問いの立て方を批判している。

これに対して青山氏は、唯物論の立場に立ちながら、クオリアの実在を認める立場もあるのだから論点先取ではない、と反論している。

さらに青山氏は、「クオリアの唯物論化の試みは、しばしば論点先取の誤りをおかすものだ」と言って、谷村氏の論こそ論点先取ではないか、とほのめかしている。谷村氏は、それに対する反論を「谷村ノート」でやっている。

この論戦との緩い関連で、意識を考える上で犯しやすい論点先取の誤謬について考えてみたいと思う。

私が思うに、意識を考える上で、気をつけなくてはならない重要な前提として、「意識の正体が何であるか、まだ判明していない」という現実の状況がある。物理学者であろうと哲学者であろうと、それ以外の人であろうと、人類誰もまだ明確に答えられていない。意識は主観的な現象か客観的な現象か、それすらも自明のこととして前提にしてはいけないのだと思う。

そうは言っても、人と人との間で意識をテーマに取り上げて議論したいのであれば、考えを正しく伝達する必要性から、かりそめにでも、意識という言葉を定義しておかなくては始まらない。なので、例えば、意識とは「主観的体験である」という具合に、主観の側から定義したとしよう。

それはそれで結構なことだが、あくまでも議論の基盤を固める必要性から意識という言葉を暫定的に定義した段階にすぎず、意識の実体の定義になっていない。意識のほんとうの姿がどうなっているかを規定したわけでもないし、この世界で起きているどんなことを指して意識と呼ぶことにしたのかを取り決めてもいない。つまり、科学的な観点からの定義になっていないのである。この点に留意しておく必要がある。

数学であれば、ある概念を厳密に定義することができたら、そこを起点として、論理を道具として使い、演繹を連鎖的に進めていくことができる。そうすることで定理に到達できれば、ひとつの理論が構築できたことになる。

しかし、意識に関しては、まだ科学の表現になっていない不完全な形でしか定義できていないので、ここから演繹してはいけないのだと思う。

比喩的な例だが、虹について考えてみよう。雨上がりに空にかかる大きな虹でもいいのだが、ここでは、晴れた日に太陽を背にして霧吹きで空中に霧を散布したときに見える、小さな虹を思い浮かべよう。

見えている虹は、位置を特定することが可能な形で確かに実在しているような感じがする。じゃあ、「虹が実在する」という言い方をしてだいじょうぶなのか。虹と呼称すべき物質が実際にそこにあるわけではないのは観察から明らかになる。

試しにその虹に近づいて行こうとすると、虹は逃げていくのである。眼鏡や入れ歯じゃあるまいし、私と接触せず、相互作用していなさそうにみえる虹が、私の動きに追従するなんてことがありえますか。

また、肩を並べて別の人も一緒に虹を見ているとしよう。そのとき、虹はここにあるよね、と指した位置がお互いに異なる。あなたの虹と私の虹。このとき、「虹がある」とは主観的な(現象学的)現象なのか、それとも客観的な実在なのか。

幸い、虹に関してなら我々は正解を知っている。ほぼ球形の微小な水滴が空中にたくさん浮遊しているとき、太陽光が水滴に入射する際に屈折し、水滴内で奥の壁に反射し、水滴から出ていくときにまた屈折する。太陽光はいろいろな波長の電磁波の混ぜ合わせからなるが、波長が異なると屈折率が異なるため、水滴から出ていくときには色分解している。

これが分かると、自分の動きに伴って虹も動いたり、隣りの人と異なる位置に虹が見えたりすることも説明がつき、何の不思議もなくなる。もちろんその先には、波長の違いにより屈折率が異なるのはなぜか、といった新たな問いが立ち上がるのだが、物理学はそこもちゃんと面倒をみる。

これを比喩的に意識に当てはめて考えると、意識においては、虹が見えてはいるけれど、屈折・反射・屈折によってそれが生じるというメカニズムが判明していない段階だとみることができる。

虹の比喩を取り除いて言いなおせば、意識については、それがあるように感じられているという意味で、その存在は分かるのだが、それがどのような物理的メカニズムによって生成されるのか、まだ判明していない段階である。これが「意識のハード・プロブレム」である。

じゃあ、これを解明するには、どういう方向性で考えるのが筋がいいと言えるのか。すでに正解の分かっている虹からヒントを得たい。虹は主観現象か。それが見えている感じは主観かもしれないけど、正解は物理現象として説明のつくものであった。では、虹は客観現象か。そうではあるのだが、物体としての実体をともなって虹がそこにあるわけではなかった。

つまり、主観でなければ客観、客観でなければ主観というふうに、簡単に振り分けられるものではなかった。この辺に、いかにも、論点先取をやらかしそうな罠が見え隠れする。ただ、意識についても、虹と同様、最終的には物理現象として説明がつくべきものであるはずだ、とする物理還元主義の立場に立つのは、たぶん筋がよいと思う。というか、これしかないと思う。

なら、意識は、科学の研究対象にすべきだと言っていいと思う。

青山氏の提示した問いは論点先取なのか。論点先取かどうかよりも、意識のなんたるかを解明しようとするアプローチとして筋が悪いようにみえる。

虹の比喩が意識に対してどこまで通用するのか分からないけど、「虹が見えるための物理的条件が整ってから、実際に虹が見えるまでの間にさらなる時間を要するか」という問いを立ててごちゃごちゃ論じてみたとしても、屈折・反射・屈折の正解には近づいていかないような気がする。

一方、谷村氏が、意識もまた物理現象として捉えるべきだ、という考えは論点先取か。現段階においては何も分かっていないという前提に立つべし、という現状認識からすると勇み足のような気がしなくもないが、虹の比喩からすると、アプローチとして筋がいいように感じられる。

【すれ違いの根っこはこれではないか?】

この書籍において生々しく見せつけられた議論のかみ合わなさは、うんと大きくみれば、哲学と物理学との間の分かり合えなさとみることができ、うんと小さくみれば、青山氏と谷村氏との間のすれ違いとみることができる。

哲学vs.物理学の問題にするのは、さすがに主題がデカすぎて、かえって論点がぼやける。しかし、個人間の問題とまで矮小化してよいかどうかは疑問である。執筆者の首をすげかえたぐらいのことでは、ほぼ同じすれ違いが再現するだけなのではないかと思う。それに、このすれ違いには既視感がある。

須藤靖、伊勢田哲治『科学を語るとはどういうことか ― 科学者、哲学者にモノ申す』河出書房新社(2013/6/11)

私は読んでいない。なのに既視感があるとはこれいかに? 中身を読むまでもなく、紹介文からだいたい見当がつく。「哲学者の議論を『的外れ』と憤慨する科学者と、科学者の視野の狭さを精緻に指摘する哲学者による妥協なき徹底対論。価値観の異なる者同士が科学を捉え、語り合うためには何が必要か」。

なので、ある程度の普遍性をもった「運命のすれ違い」なのではないかという観点から、少し、論考してみたい。

「哲学的ゾンビ」のうちでも「神経的ゾンビ」の意味のほうのやつは、実在しえないと思う、という点において、谷村氏と私の見解が一致した。思考実験として、仮に、原子・分子・電子のレベルで物理的にまったく同一な私のコピーを作成することができたとしよう。そこにいるのは何か。

生命を宿し、意識を宿し、記憶も性格も、何から何まで一致する、私そのものにほかならない。そうでないはずがないと確信をもって言える。確信と言うけれど、その確かさは、どの程度なのであろうか。確立された原理から導出できるのか、それとも、単に固く信じているにすぎないのか。

もし神経的ゾンビが実在したら、物理法則の何に違反するのか。それは、「物理還元主義」であろう。「物理還元主義の下で、神経的ゾンビは実在しえない」と言えば、正しい記述になる。

「心の哲学」の文脈において、「物理還元主義」とは、心的なものの存在は物理的なものの存在に還元できるとする、唯物論的な考え方である。詳述しないが、「要素還元主義」とは別概念なので、混同してはならない。

これは確立された原理なのか、単なる信念なのかと問い詰められたら、信念であると答えるしかない。いちおう、歴史に裏打ちされた信念ではある。人類にとっての謎が科学によって解かれると、何から何まできれいに整合性のとれた説明づけがなされ、それまで不思議だったことが、見かけ上のことにすぎなかったのだと納得できる。月にいるというウサギも、ヘソを取りにくるという雷サンも、木っ端微塵に粉砕された。科学は非科学をどんどん追い詰めていく。

現時点で解かれていない謎についても、将来きっとそうなるに違いない、あるいは、ずっと解かれなかったとしても、原理的には背後に物理的なメカニズムがあり、本来的に説明可能なはずである、と信じるのは、自然なことである。

物理還元主義は、個人的な信念というよりは、物理学というジャンルに付随する信念である。これを放棄するというのは、ある個人が物理学をあきらめるというレベルのことではなく、物理学がその存続をあきらめるような話になる。青山氏の提示する問いにおいそれと乗れないのは当然である。

そうは言っても、信念は信念である。確立された原理ではない。だとすると、これを疑う立場をとることによって、物理学の外側に、別の学問を打ち立てる余地があるのではあるまいか。気持ち的には、信じる立場を「物理学」と呼び、疑う立場を「哲学」と呼びたい含みはあるが、概念的に一致するかどうかは自明ではないので、別な呼称を与えておきたい。

「物理還元主義」対「物理懐疑主義」ぐらいか。これらは厳密に排他的な概念であり、両方を兼ねるということはできない。成り立ちからして、混ざりようがないのである。一方が正しければ、他方は間違っている。ちなみに、数学ではどちらでもなく、「知ったこっちゃない」という立場をとる。どちらの立場もとらないことは可能であるが、両方の立場を兼ねることはできないのである。

さて、どちらに勝ち目があるだろうか。あるいは、どういう状態が起きたことをもって勝ち負けが決まるのだろうか。まず、物理学上の問いで、未解決なものがひとつでも残っていて、なおかつ、それが物理学では解決不可能だと証明されていない状態においては、未決着である。

物理還元主義側としては、その問いはまだ解かれていないだけであって、いつか解かれた暁には、物理学に還元した説明づけがなされるはずだ、と主張することができる。一方、物理懐疑主義側としては、これこそがまさに、物理学では解けない問いなのだと主張することができる。論点先取の誤謬を慎重に避ければ、ここは保留にしておかなくてはならない。

物理学上の問いがすべて物理学で解決し、この世にもはや物理学上の謎がひとつも残っていない状態に至れば、物理還元主義側の勝ちである。容易なこっちゃないのは明らかだ。

物理学上の未解決の問いをひとつ取り上げ、それが物理学では解決不可能であることを証明できれば、物理懐疑主義側の勝ちである。これまた、容易なこっちゃないのは明らかだ。

決着がついたら、負けたほうは、ほぼ廃業するしかなくなりそうだ。物理還元主義が否定されたら、物理学は土台を失うであろうし。物理懐疑主義が否定されたら、例えば、虹が屈折・反射・屈折であることが解明された後で、なお、虹について哲学の立場から立てるべき問いが残っているだろうか。問うてもつまらないだけで、私には往生際が悪いとしかみえないだろう。

互いのジャンルの存続を賭けた戦いなのであれば、両者とも真剣に臨むべきものであろう。ところが、決着へのシナリオが遠大すぎて、現時点においては、どちらにとっても自陣営の存続が脅かされそうな気配すらしない。放置しておいても、100年や200年はだいじょうぶだろう。当分攻めて来そうにないし、場合によっては、未来永劫来ないかもしれない。

物理還元主義と物理懐疑主義とが、海洋生物と陸生生物のように互いに干渉せずに棲み分けている分には平和でよい。けど、根底には、互いに相容れない金科玉条がある。つまり、物理還元論を信じるか、疑うか。不用意に接点をもつと、行けども行けども話がすれ違い続ける根っこにあるのは、これなのではあるまいか。

両者を俯瞰する立場から大人が出てきて、「君たち、仲良くしなさいよ」と仲裁に入ろうにも、成り立ちから言って、あちらが立てばこちらが立たず、AND領域は空集合、互いに排他的なのだから、どうにもなりようがない。概念として、歩み寄りようがないのは、宿命である。

物理還元主義者と物理懐疑主義者とが、人と人として交流しえないかといえば、そこまでのことはなかろう。ただし、双方に、巨大な「あきらめ」が要求される。概念的に両立せず、当分決着のつきそうにない立場の相違について、話し合いで解決を図ろうなどとはゆめゆめ思っちゃいけないのである。

青山氏が提示した問いは、物理学に存続をあきらめろ、と言っているようなものであり、無謀であった。ただ、好意的に解釈すれば、青山氏はひょっとして面白い提案をしているんじゃないかと受け取れることがあった。「時間クオリア」ってあるんじゃない? と言っているのではなかろうかと。そうだとしたら、そこは割と一考に値しそう。

一方、谷村氏へもコメントしたいことがある。谷村氏との間で往復したメールを私は11月18日(月)にfacebookで公開していて、それに対して、コメントが75件もついている。谷村氏ご本人も入ってきてくださり、たいへん平和的で建設的なディスカッションが続いた。
https://www.facebook.com/hideaki.kobayashi.79/posts/2805677662817195

その中で、谷村氏からのあるコメントに、私は目がキラーン! となって、ニヤリとしてしまった。「これを機に私も『意識のハード・プロブレム』に大いに興味を持ちました」。

私からの端的なメッセージ : Welcome to Consciousness Club!

話を戻して、まとめると、この書籍に生々しく記録された哲学者と物理学者との議論のすれ違いは、個人対個人の問題と矮小化しきれない普遍性があり、その根っこにあるのは、物理還元主義を信じるか疑うかの立場の違いなのではあるまいか。賛同していただけるであろうか。


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セーラー服仙人カメコ。アイデンティティ拡散。
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