[4922] サイレントマンガオーディションに参加◇長すぎる「お詫びと訂正」

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《鵜呑みにしてはいけません》

■ローマでMANGA[149]
 サイレントマンガオーディション(SMA)に参加
 Midori

■はぐれDEATH[90]
 長すぎる「お詫びと訂正」
 藤原ヨウコウ




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■ローマでMANGA[149]
サイレントマンガオーディション(SMA)に参加

Midori
https://bn.dgcr.com/archives/20191213110200.html

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ローマ在、マンガ学校で講師をしているMidoriです。私の周辺のマンガ事情を通して、特にmangaとの融合、イタリア人のmangaとの関わりなどを柱におしゃべりして行きます。

●SILENT MANGA AUDITION

私が講師をしているユーロマンガコースでは、コアミックス社主宰のサイレントマンガオーディション(SMA)への参加を義務付けている。
https://www.manga-audition.com


その名の通り、サイレント、つまり吹き出しを使わないでキャラの感情を表現するので、演出力を磨くいい訓練になる。

このオーディションは年に二回開催され、その他、番外の「エクストラ」も行われる。ここ数年、少なくもユーロマンガコースが発足してから2年、毎回春の回は3月末日締め切りだったので、そのように授業のプログラムを組んだ。

10月の初めから12月のクリスマス休暇の前までの2か月で、私は既成のmangaのページを使って分析をしてみせ、生徒にも分析させ、演出の目を養わせる。

分析とは、「どのキャラの視線から描かれているか」「描かれている感情は何か」「以上の二点の情報を読者(我々)は、どんな視覚的な材料から得ているのか(何コマ使い、どんな構図を使っているか)」などなど。

その後、課題に従って1から2ページのストーリーボードを作らせ、枚数をだんだん増やしていく。そして、いちいちお直しをして「演出」を体験させ、ストーリーボード作成に慣れさせる。

もう一人の講師は、キャラクターデザイン、キャラの性格付けなどで、キャラに命を吹き込む術を教える。原稿作成に必要な資料集めと、資料をもとに背景作画を体験させる。クリスマス休暇中に物語の案をいくつか出し、そして年明けからSMAの制作に入る……という手順を決めていた。

時折、SMAのサイトを覗いては、来年のエディションの締め切りを確認しようとしたが、そのお知らせがない。ついに見つけたのが11月も終わりに近くなってから。これまでの3月末の締め切りではなく、1月末日! 2か月も早い。

マンガ制作プログラムのクリップスタジオでも、来年1月から募集が始まるコンテストがある。応募受付開始から、締め切りが4月27日と結構時間があるので、そちらに乗り換える、という案も出た。
https://www.clipstudio.net/promotion/comiccontest/ja/


でも、セリフを一切使わない、という演出力を磨くSMAは捨てがたい。無理してでも締め切りに間に合わせる、という体験もいいかも、ということで、2か月早いSMAへの参加を決めた。

コースの生徒だけではなく、「時間があまりない」という条件は、世界中のSMAの参加者も同じ。ゆっくりと体験させるはずだったストーリーボードを、ぶっつけ本番でやることになる。

SMAのエディション発表前に、予定通りの授業をしていたので、2ページのストーリーボードを2編、とりあえず課題としてやることができた。まだ初心者の段階だけど、ともかく始めなければ話にならない。

●ありきたりの物語で大いに結構なのに

まず物語の概要案を出させる。SMAは毎回テーマがあり、今回はユネスコとの協賛で「TOGETHER FOR PEACE」一緒に平和をという、いかにもなテーマだ。

開催側としてはテーマはどうでもいいんだよね。ただ全くの自由にすると、応募側も大海に投げ出されて困るし、審査側も応募作全体にある程度の共通項があった方が比較もしやすい。

テーマを告げると、生徒達はみな一様にあっけにとられた顔。どこから手をつけていいのかわからないのが、ありありとわかる。

「ユネスコで平和っていうと、何か戦争とか大きなものを考えがちだけど、もっと身近なところから考えて。家庭の平和とか、友達同士とか、動物と仲良くとか」

「短編なんだから、複雑な状況は無理。何か傑作を産もうなどと考えないこと。コンテストの主旨は物語の奇抜さとか面白さではなく、いかに人物の感情を表現できるかにあるのだから。ありきたりの物語で大いに結構」ということを、何度も繰り返した。

それぞれ、身近な話題で案を出してきた。一人、身近な(途轍もない壮大なファンタジーではないという意味で)家族の話でとんでもない話を持ってきた。

生徒「両親と暮らす男の子(成人)。母が病気で入院。主人公は母の看病。父が外に女を作って家庭から遠ざかる。母が亡くなり父が女と家に戻る。主人公はこの二人が憎くてたまらない。でね、結末のアイデアが二つあるんだけど。一つは主人公が自殺して、母の元へ行って幸せに暮らす。もう一つは、二人への憎しみが溜まりに溜まって……」

私「え、二人を殺すとか?」
生徒「そう! で、平和を得る」とあっけらかんとして言う。

大丈夫か? それを平和というか? 母が亡くなるまではいいとしても、誰も殺してはいけない、と言った。SMAの応募要項にも「心温まる話、ハッピーエンドでお願いします」と書いてある。

まず、応募要項を自分達で読むように、と言ってある。言われなくてもやるべき事だと思うのだけど、言われてもやらない。自分事じゃないんだね。

どうも、高校を卒業してすぐ来るので、幼稚園からずっとこのかた義務として学校へ来て、その続きの受け身の気持ちでこの専門学校へ通う生徒が多いように思える。言われた課題をそこそこ仕上げて及第点をもらえばいいや、というような。

それぞれ案を決め、まぁ、とりあえず物語らしい形を整えた。これをストーリーボードに落とす。

授業の分析の課題では、皆けっこういい分析をしていた。認識までできた証拠だ。でも、それを応用できない。どうしても行動を中心にコマを進めて行く。それがわかっていたから、主人公の場面場面での気持ちを書き出してみるように言ったけど、誰もして来ない。

これも、やって見せねばならなかったのだと思う。来年への課題。山本五十六連合艦隊司令官の「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。」という言葉はどこでも、どの業界でも通じる名言だとつくづく思う。

ある事柄に対して、誰でもいつでも気持ちが動く。「感情を表現する」という言葉に生徒たちは、「何かを失った悲しみ」とか「思いがけない喜び」とか、ワーワー泣いたりガハガハと笑ったりする、大きな感情しか思い浮かばないのではないかと思う。

みな高校を卒業してこの学校に入って2年。20代の始まりだから経験が少ない、というのもある。あまり自身を振り返る、ということもしてないのではないかと思う。何にも増して、本を読まない。読むべき本も、コースの始まりに提示すべきかしら? 人の感情を上手く描いた小説の類を。

●ストーリーボードのお直し

いよいよ、ストーリーボードのお直し段階に入って来た。まだ全員ではないけれど。行動をベースにコマ運びが進んでいる……という事実を、なかなか理解してもらえない。

コマからコマへ、キャラが動く。何かしてる。顔がアップになったり、横を向いたりしている。キャラが何をしてるのかはわかるけど、どんな気持ちでいるのかは伝わらない。

コマ一個に不安な顔とか驚いた顔で済ませている。それは「感情を描く」とは言わない。「こう言う気持ちです」と、情報を読者に与えたに過ぎない。それでは、読者はキャラと一緒にその感情を生きられない。

行動の羅列から、キャラの感情を表現するために、いらない材料(いらないコマ)を見つけ出して捨てて行く。感情を表現するコマの場所を作るために。

ストーリーボードを早めにあげた生徒は、さっさと原稿描きを始めたがる。時間があまりないから無理もないし、私が他の生徒にかかっている時、彼女は手持ち無沙汰になってしまう。

コースに登録した10人全員が揃う事が珍しく、毎回6人くらいだけれど、どうしても一人にかかる時間が長引いて、手持ち無沙汰の生徒が出て来てしまう。作業が遅れている生徒は別にして。これも来年度は解決策を見つけなければ。

授業時間内ではストーリーボードをじっくり見ることができないので、私のメールアドレスを渡し(何度も黒板に書いている。書くたびに書き写す生徒がいるのが不思議でならない)、書いたストーリーボードを送ってくれるように言ってある。今、授業の翌日、送って来たのは一人。大丈夫かな。


【Midori/マンガ家/MANGA構築法講師】

・政治家にはまともな政治をぜひしてほしい、と有権者の一人として切に思う。「桜」を国家の一大事とばかり問題にして、忖度などの経緯はなかったとハッキリしている「モリカケ」同様、さらに追及して国会を空転させるつもりの野党さま。

「桜」が無駄使い? 国会1日でどのくらいの国家予算が使われるのかは考えない模様。安倍首相憎しで落としたいなら、「ウイグルやチベット、法輪功の学習者への虐待、民族解放という名の民族浄化(虐殺)の大きな人権犯罪を犯す中国の習近平主席を国賓で迎えるというは如何なものか」と追求すれば、国民の支持を得られるだろうに。あ、野党さまの中には中国様に逆らえない人がいるのか。

・先月に引き続き、また旦那の血圧が下がる事態に。弱々しい声でトイレから私を呼ぶ旦那。また顔色が青白く、便器に座って頭を壁にもたせかけている。血圧を測ると上が65で下が45。先月より酷い。

今回は尿結石の発作ではなく、便秘。またまた土曜なのに(診療時間外)かかりつけの医者に電話をした。酷い急性便秘では血圧が下がることは普通なのだそう。知らなかった。言われたシロップ状の下剤を買って飲ませると、瞬く間に「栓」が抜けた。

普段、お通じの良い人なのに、抗生物質でちょっとリズムが崩れ、また、尿結石の炎症があちこちに影響を与えるとのこと。前回と今回の発作の合間にした血液検査の結果、前立腺にも炎症が出ているのがわかった。炎症って怖いのね。

[注・親ばかリンク] 息子のバンドPSYCOLYT (このバンドは解散。最近新しいバンドを組んでレパートリーを増やしてるところ)


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MangaBox 縦スクロールマンガ 「私の小さな家」
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主にイタリアのレストラン情報のブログを書いてます。
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■はぐれDEATH[90]
長すぎる「お詫びと訂正」

藤原ヨウコウ
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いっつも後先考えずに書き殴って、できたらソッコー送って、後は忘れる、ということを、ここでも繰り返しているのだが「なんか最近このネタ前にも書いてんじゃね?」疑惑がにわかに浮上したので、珍しくデジクリのボクの分だけ再読したが、惨憺たる状態だった。

同じネタの繰り返しはもちろん、自分で自分の作文に明らかな間違いまで見つけてしまったので相当ショックである。

本っ当に、ボクの書いた作文は鵜呑みにしてはいけません。書いた本人が言ってるのだから間違いない。イヤ、間違いは書いてるんだけど「鵜呑みにしてはいけない」だけは間違いではない。

「事実上、最初の日本統一は鎌倉幕府」の一文を読んだ時はたまげましたよ。本気で「お前、小学生からやり直せ」と思いましたもん。これは「無知」の一言では片付けられない。50過ぎのおっさんが書いたことですよ。本当に基礎からきっちり日本史を勉強し直すべきだと思う。

百歩譲って「ただの勘違い」にしても言い訳はできない。初歩的すぎるからだ。大変申し訳ございません。明らかな間違いであり非はすべてボクにあります。

そもそも国家としての「日本」の、定義そのものが極めて怪しいのである。というか、「国家」という概念すら怪しいのに、よくもまぁいけしゃぁしゃぁと、「日本統一」という言葉を恥ずかしげもなく使っているところが致命的である。断っておきますが、ボクが書いた作文の話です。他の人がどういう定義でどう「国家」を使っているのかボクは知らない。

参考までに『大辞林』(三省堂)によると……

こっか【国家】

1 〔易経 繫辞下〕王家と邦土。くに。
2 〔state〕一定の領域に定住する人々が作る政治的共同体。国家の形態・役割は歴史的に異なるが、一般には、近代の国民国家を指し、主権・領土・国民で構成され、統治機関を持つ。→近代国家
3 書名(別項参照)。

こっか【国家】

プラトンの中期対話篇の一。一〇巻。紀元前375年頃成立。魂の正しさを論じ、哲人王による理想国家が語られる。イデアと感覚的経験を論じた「洞窟の比喩」によっても知られる。国家篇。

……らしい。少なくともこれぐらいは押さえておくべきだった。

これである程度気がついていただけるとありがたいのだが、「国家」は主権者(国民の場合であれ独裁者であれ)の主観と、後の歴史的な考察によって、その姿・スケールそのものが大きく変化する。

ボクが「畿内政権」という言葉をちゃんと使っているだけに、この大間違いは致命的である。

わざわざ「畿内政権」という言い方をしているのは、「権力の及ぶ範囲が実質上は限定的なものに過ぎない」という考えからなのだが、これに関しては古代ローマ帝国を引き合いに出して、別稿で説明しているのだから始末に負えない。実際そう思っているし、素直に情報伝達手段をまんべんなく張り巡らすのに、大陸は広すぎるのだ。単に物理的な問題で、それ以上でもそれ以下でもない。

このことは、もちろんこの島国でも同様である。

律令制だって、まともに機能した地域は極めて限定的だろうとボクは思っている。ただこの制度によって、後の日本史は大きな影響を受けることになる。

こうした一例が鎌倉幕府の誕生だが(他にも例は腐るほどあるが、義務教育レベルの話なので割愛)、彼が当時の朝廷から委譲されたのは「征夷大将軍」という役職であり、その実態は「武士の棟梁」というあやふやな立場に過ぎない。全権委任ではないのだ。

もちろん、鎌倉幕府の影響が強い地域では、ほぼ無尽蔵に権力を行使できただろうが、実際上の政治の中心が依然として京にあったのは、言うまでもあるまい。この辺の事情がややこしくなって噴出したのが、南北朝時代である。

そもそも足利氏は、古代から畿内政権となんらかの接触を持っていた気配がある。源氏どころか、北条氏の御家人程度ですむような生やさしい存在ではない。実際、後醍醐天皇を吉野に追いやって、新たに北朝を設けるようなことまでし
てる。

このへんはイデオロギー闘争としても語ることが出来るだろうが、やはり権力闘争の一環として把握した方が分かりやすい。

鎌倉幕府倒幕から足利幕府までの流れを、義務教育レベルで知っていれば、ある程度は推察できるはずである。……相当話が逸れた。

更に「日本統一」と一言で片付けるにしても、当時の人々(特に権力奪取を窺う有力者)にとって「日本」とはどこまでの範囲だったのだろうか?

これはボクの勘だが、それほど明確に線引きをしていないのではないかと思う。

権力の中枢から物理的に距離が離れれば、当然、中央の言うことを素直に聞かなくなるだろうが、権力そのものの基盤が揺るがなければ、別にほっておいても問題はない。恐らくこういう実際的な感覚が、まずあったように思える。こういう考えはこの国に限ったものではないだろう。

徳川幕藩体制下でも、北海道は他の藩に比べれば自治権は大きい。天領扱いにしてたかなぁ? 他の藩の内政だって実質ほぼ藩任せだ。利権やらお家騒動が絡むとさすがに幕府も動いたようだが、幕府そのものの基盤が揺らぐような事態が起きない限り、表向き積極的な活動はしていなったと思われる。

そもそも北海道全体をまとめるような権力が存在していない、という幕府にとってはありがたい事この上ない条件もあわせもっていたのが、当時の北海道であり、住人の大半を占めていたアイヌ民族である。

下手に刺激してややこしいことをされるよりも、あまり干渉せずにそっとしておくに越したことはない。むしろ、近隣の藩に監視させたり、勝手に交易でもさせておいた方が無難であろう。この辺の事情は他の藩も同様で、互いに監視するようなシステムを作っているし、そうなるように諸大名を配置している。

まぁ、賢明な大人な判断である。調べていないのでこれまた勘だけで書いてしまうが、恐らくこの辺の基本路線は家康存命時に決まっていたように思える。

秀忠のような残忍冷酷な個性からは、こういう「賢明な大人の判断」を導き出すこと自体が不可能だし、秀忠にしてみれば遠くのワケ分からんことよりも、自らの権力を盤石にする方がウエイトは大きいだろう。結果として、ほったらかしにしただけの話だと思う。

徳川幕藩体制でもこの程度なのだ。極東のこの島国においては、これがでふぉと思う方が自然である。明治以降については書いたし、ここは今回チェックした上で「まぁ、オッケー」なので飛ばす。

さて、本格的にここでの「作法」について。相変わらず長い前置きやな。

上記したことからある程度推察していただけると思うが、ボクは明らかに二重三重の間違いを起こしているし、書き加えることで更にミスを誘発している可能性もある。

それでもこの稿を書いたのは、ボク自身が「明らかに間違いである」ということを理解した上で、「不特定多数(まぁかなり少数だとは思うけど)の読者に間違った個所と訂正を明らかにした上で謝罪すべきである」というボクなりの筋に則った「作法」が発動しているからだ。

そもそも、その場その時の思いつきと勢いだけで書いているから、こういうアホなことが起きるのだ。多分、性懲りもなく繰り返すとは思うけど。既に書いてしまって、間違っているところにまだ気がついていないことも、相当数あると思われる。これらに関しては、今後腰を据えて見直さないとヤバい。

間違いに気がついたら、素直に「すいませんでした」と謝罪するのが当たり前なのである。まぁ、このふざけた作文が「素直」とは正直言い難いのだが、出来が悪いとはいえ、「笑い」をとることを最優先にしているので、ご容赦いただきたい。もちろん、申し訳ない気持ちで一杯ですよ。上述したように、自分で自分に「義務教育レベルから日本史やり直せ」と本気で思っている。

「この程度の駄文でそこまで恐縮するのはどうか?」という意見もありそうだが、まずボク自身が納得できない。「間違いに気がついたのに、知らんぷりをして放置ほど情けないことはない」と本気で思っているのだ。

それでなくても、自分の知性や倫理観を疑っているのだ。幸い、畿内と東日本のような物理的な距離は存在しない。自分の話だからね。もちろん、書いた以上は言い訳もできない。自分の中に留めておけば、ここまで無知や恥を晒すことはないのだろうが、書いちゃってるしね。

だからと言って、ボクの勝手な都合でここの不定期連載を突如やめることはない。編集長が「お前、もうヤバ過ぎるから出禁」と言い出すまでは、当初の依頼通り書く。

ってか、ナゼ呆れないのだろう? 呆れた上で笑いのネタとして認めているのか、単に面白がっているのか? この辺は編集長の腹次第なので、ボクがとやかく言うことでもあるまい。基本、編集長のいうことは素直に聞くから(笑)

もしかしたら、この作文自体が無粋なのかもしれない。自分で見つけた自分の間違いを自分でさらしているのである。ある意味「余計なこと」なのだが、上記したように放置する度胸はボクにはないし、間違いを間違いと認めないなどと言う間抜けなことを自分に強いたくもない。

「一寸の虫にも五分の魂」ではないが、ボクのようなキチガイにだって、五分とまでは言わないが、一厘程度の魂はある。もっと少ないかもしれないなぁ。まぁ、あるにはある(と思いたい)。

こうした態度が社会的にどう扱われるのかはさっぱり分からん。ただ「なかったこと」にしたり、嘘に嘘を重ねて知らんぷりというアホなことを、自分自身に許す気にはなれない。

もちろん、最初から嘘を「表現」することを目的として、それが娯楽として成立している場合は別です。映画や小説なんてのは代表的ですね。今ボクがやってる創作もどきなんか、嘘しかないから(笑)

私小説ですら、ボクはなんらかのフィクションがあっていいと思っているし、恐らくだが、効果的な演出として使うケースの方が多いだろう。あからさまに嘘だと分かっていながら「ノン・フィクション」(実録とか)も許容範囲。

怖いのは、本気でやっているのに無自覚で嘘をついてしまい、それを他者から指摘されるとキレる、といったケースである。意識的に嘘をつきながら「これは事実だ」となると、「頭おかしいやろう?」となるから当然見捨てる。

程度の差はあるだろうが、虚言癖のある人は少なくないと思う(ボクも少なからずそうだ)。それでも、自覚しているかいないかで、その差は歴然となる。

もちろん、疾病としての虚言癖はあるでしょう。虚言なのか事実なのかの境が、自分でも分からなくなるケースなんかは代表的。こうした人に対する接し方は、正直難しい。まぁ、だから専門医なり、カウンセラーがいるんだろうけど。

ボクだって、虚実の境なんて正直分からない。いま生きていることだって「なにかのドッキリ?」と疑うことだってあるし、これが本業での評価となると、もう疑心暗鬼の塊である。

もちろん、自分で自分の描いたものの評価ですよ。第三者は別です。立ち位置が根本的に違う。ここに関しては、基本なんでもオッケーなのだが、それでも好意的な評価をされると、「ホンマに?」と思う自分がいる。もちろん、褒められれば嬉しいですよ。

繰り返しになるが「間違っているのに気がついたら、すぐ謝る」は、ボクの数少ない社会的コミュニケーション・マナーの、最上位の一部である。他にもあるが、どれも基本的な事ばかりだ。別に「戒律」というほどきついものですらない。

ももちだって、明らかに「マジやってもうた」という時は、ものすごぉ〜く申し訳なさそうな顔をしますよ。彼女の場合は少し価値観が違うので、本人的にはものすごいドヤ顔で、「見て見てぇ〜♪」というのが、奧さんやおねえちゃんの悲鳴を誘発して「あれ?」となることの方が多いのだが、ボクはほとんど気にしていない。そういう子だからね。

おねえちゃんだって十分に天然なので、似たようなことをやって奧さんをがっくりさせている。さすがに最近は少ないようだが、それでも同年代の子に比べれば多い方だろう。もっとも、おねえちゃんを上回るド天然なボクと、ももちがいるので、おねえちゃんなりに気をつけているようだ(笑)

自分の娘達なのでかなり甘いコトは認めるが、こういうケースだってある。それでも明らかに非がある場合は(ボクに対しては皆無に等しいけど)「ちゃんと謝り」と言うし、きちんと謝るまではほっとかない。しぶしぶも認めない。自分のやったことをきちんと理解した上での謝罪でないと意味がない。

もしかして、ボクがこういったことに厳しすぎるのかもしれないが、他の家となると話は別である。それぞれの家族のルールなりなんなりに、口出しをする気は毛頭ない。

厄介だと思ったら距離をおくなり、逃げるなり、聞いたフリしてほったらかしにするなりで十分対応できる。おねえちゃんもこれをやってるのにはびっくりしたけど。本人が言ってたから間違いない(笑)

それでなくても、デタラメが大手を振ってまかり通っているのだ。「それがオッケーなら自分がやっても大丈夫」なんて、思考停止丸出しなアホなことを考えるようになるぐらいなら、幼少期からこうした芽は徹底的に摘んだ方が人として社会に出る上でまともだと思う。

まぁそれで苦労することも多々あるのは、ボクがよく分かっているし、親父だってこれでエラい目に遭っている。それでもボクは、素直であることをより高く評価するし、代償を伴うことを厭わない。いい事ばかりではないのだ。

まぁどっちがいいとか悪いとかは置いておくにしろ(そんなもんは、それこそそれぞれが勝手に判断すればよろしい)、ボク自身はあくまでも「間違ったら謝る」派なので、それこそこのような訂正を入れること自体が不要なのかもしれないのに、読者の不興を覚悟しながらも書いている。編集長だって「これどうしたもんか?」と考え込むかもしれない(笑)

世間様的には、「迷惑なだけ」と思われても仕方がないことも承知している。ただの自己満足だし、ただのワガママですよ、こんなもん。賢明な大人ならもっと上手にやると思う。しかし、悲しいことに賢明とは程遠いところにボクはいるので、こうするしかない。というか、それ以外の方法がそもそも分からないし。

「アホだから」というだけで、何もかも許されるとは到底思えない。アホにはアホの社会的な倫理観があって然るべきだし、そうでないと、それこそ世の中アホの見本市すら通り越して、アホがでふぉなんていうアホなコトになりかねない。実際、アホのボクが見ていてもそうなりつつあるようなのが情けないのだが、そんな流れに便乗してアホの上塗りをする気はない。

アホがアホなりに知恵を絞った結果が、この作文だと思っていただければ、これに越したことはない。


【フジワラヨウコウ/森山由海/藤原ヨウコウ】
YowKow Fujiwara/yoShimi moriyama
http://yowkow-yoshimi.tumblr.com



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編集後記(12/13)

●偏屈BOOK案内:曽野綾子「人間の芯」

─なぜ、かくも日本人の「芯」がここまでひ弱になったのか。精神の豊かさを問い直す至高の「幸福論」─と、いかにも“曽野綾子な”表現だが、版元が勝手につけたのだろう。自分で「至高」はないものね。たぶん書き下ろしではないだろうと思った通り、既刊の書籍、新聞と雑誌の連載から採っている。

「人間の動物的な部分の欲求のために、列を作るような人間には決してなるな」と説く。「食のために並ぶというのは、通常は捕虜の暮らしだ」と重ねる。確かに見苦しい。みっともない。セールの日に売り場に殺到するような行為も、プライドがない。矜持のない行動だ。「生きる権利」とかいう考えがそうさせた。「まあ、それでいいのかもしれない」曽野さんでさえ投げ出すご時世だ。

曽野さんは、あらゆる表現の場で匿名に出っくわすとどうしてもいやな感じがする、と書く。匿名の卑劣さは、自分が傷つかずに効果だけ狙おうという意図が見え透いている。「効果だけは自分の功績で、それから起こる問題の責任は引き受けないという、カビのように湿ったにおいがする」。正しいと思うことをしているのに、なぜ名前や顔を隠すのか。デマや社会不安の原因である。

「近年、しっかりした芯を持つ日本人が少なくなった。芯を常識と置き換えるなら、高級なものから低級なものまでさまざまだが、戦後教育は、彼らが国のために死んだのも軍部の暴走への加担であり、これからは他者のために死んではいけない、という利己的な考え方だけを植えつけた」。利害を離れて人のために働けるのが人間だが、今ではそうでない政治家、知識人や若者だらけだ。

沖縄戦を取材したときの話。自分の足元に転がってきた手榴弾の上に、身を投げかけて死んだ米兵が何人もいた。戦争に勝ってもうすぐ故郷に帰れるというのに、なぜだ。彼のとっさの行動で仲間の何人かが救われた。だが、なにが彼をして、一秒にも満たない間に人生を終えることを決断させたのか。それこそが一人一人の人間の芯というものであろう、と曽野さんは解釈した。

老年は、もうどっちに転んでも大したことはない。なにしろ持ち時間が長くないのだ。残っている仕事は重要なことが一つだけだ。それは、内的な自己の完成である。この大きな任務について、全く自覚していない老人が世間に多すぎる。私もそうだが、生き方の中心となる美学、哲学がないんだから仕方がない。読書をすることで少しは分かってるつもりだが、たぶん気のせいであろう。

ドリス・デイの歌った「ケ・セラ・セラ」という歌を、曽野さんはほんとうに好きだった。「これは、いわゆるポピュラー音楽だが、その歌詞にもこれだけの健全さと慎ましさと、そして哲学のようなものまで含まれているのである」。久しぶりに思い出した。ペギー葉山だ。23年も前の歌。涙が出てくるわ。
https://www.uta-net.com/movie/43140/


私がまだほんの小さな娘だったとき 私はママに私の将来を尋ねた わたしはきれいになれるかしら それともお金持ちになれる? そしたらママは答えた気にしなくていいの なるようになるんだから 将来のことは 人間には分からないの(歌詞とは別の意訳。以下ふたつあるが省略)いいな……(柴田)

曽野綾子「人間の芯」2019 青志社
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4865900918/dgcrcom-22/



●今更ラグビー、アルゼンチン対トンガ続き。駅前で「逆転!」という大きな声と歓声が聞こえてきた。えっ、どういうこと? 逆転? 逆転って?

電車に乗り、スマホでテキストの試合速報を見る。え、勝ってるやん! さっきの逆転ってこのこと? え、日本がアイルランドに?

乗車中に、日本勝利の速報が立て続けに入る。アルゼンチン対トンガというマイ一大イベントに浮かれてしまい、日本戦を見逃したのであった……。(hammer.mule)