はぐれDEATH[91]はぐれと古書:「used book」と「old book(vintage book)」
── 藤原ヨウコウ ──

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本に関してはここでもちょくちょく書いているので、「ネタが被ってるんとちゃうか?」と思ったが、幸い微妙に被っていなかった。最近は記憶力も怪しいからなぁ。

親しい人との会話でよく出るネタのひとつに、「まともな古書店がどんどんなくなっていっているよね」がある。ボクも経験しているし、たまに神保町を訪れて「わっ、なくなっとる」とか、別の業種のお店に変わっていたりなどはザラにある。

ちょっと以前の話になるが、京都では寺町商店街がもろにそうだった。今は様々なお店がひしめき合う賑やかな商店街だが、ボクの在学中は人通りの少ない古書店通りで、怪しげな雰囲気満載だったのだ。

だが、お店に一歩踏み入れると、それまで出くわしたことがないような書籍や、愛読している本の参考文献に上げられているような書籍に出会えたりと、刺激的な場でもあった。

こうした経験をしている人たちがボクの周りには多いのだが、面白いぐらい口を揃えて「あっても昔のような古書店とは大違い」と言う。

「古書という価値観そのものが変化しているのだろう」と、何となく思っていたのだが、どうも個人的には納得できない。が、先日やっと「こういうことかも」と気がついた。




古書を「used book」と扱うか、「old book(vintage book)」と扱うかで、価値観はがらっと変わる。ブックオフに代表される店舗は前者に属するだろう。現代はむしろこっちの方がスタンダードといってもいい。

ブックオフに本を持ち込んだ経験がある人ならピンと来ると思うのだが、とにかく査定が荒い。詳細は省くが、本を見ないでバー・コードリーダーを片手にPCと睨めっこである。まともな査定を望む方がムダなのだ。最近流行のAIの方が「もっとまともな査定ができるんとちゃうか?」とすら思わせる情けなさである。査定ですらない。ただの処理である。

ここまでくると本そのものが、本当に「消費して捨てられるもの」になってしまっているとしか思えない。もっとも、別に今に始まったことではないし、最初からゴミ箱行き前提で作られる本だって(週刊誌とかね)あるにはあったが、文庫本や果ては四六判ハードやら、豪華な全集までとなると「をいをい」となってしまう。

「売るな」とは言わないし、発行部数によっては安く査定されても不思議ではない物も少なくないだろうが、需給バランスが明らかに狂っているように感じられる。「読者人口の減少」はもちろん原因の一つにあるだろうが、個人的にはそれだけとは言い難い。

詳細に分析し出すと、それこそ論文になりそうなのでパス。統計上の数字も客観的な分析も、徹底的に排除したボクの怪しげな「感覚」と「想像」だけで、この稿は終始させる。専門的な分析をされている人もいらっしゃると思うので、客観的でアカデミックな分析はそっちに任せる。

ちなみに稀覯本の類はこの稿では扱わない。これはこれでややこしい上に、ボク自身が一歩引いた所にいるからだ。それでも「稀覯本になっちゃった」という本が、我が家にそれなりの量あるのは白状しておく。もちろん、こうなることを狙っていたわけでも何でもなく、購入した時は単に「面白そう」という理由だけだし、実際何度も読み返しているしね。

上記した「used book」と「old book(vintage book)」の違いですら、一冊の本を前に価値観は確実に分かれるだろう。それが普通である。興味がなければ前者にしかならないし、逆なら後者。判断する人に完全に委ねられるのだが、それでもその一冊を良しとする人は、昔よりも圧倒的に少なくなっているのではないだろうか。

「興味がむかない」というと、身も蓋もないように思われるかもしれないが、実際のところそんなもんでしょう。ボクはこの「興味がむかない」を全否定はできない。

だって、周りがどれだけ大騒ぎしていても「興味がむかない」ことがボクには多すぎるのだ。この間のラグビー・ワールドカップなんか、完全にスルーしたしなぁ……。

自分だけを別扱いにできるほど、ボクは面の皮が厚いわけではない。逆に「なぜこの本の良さが分からないのか理解できない」だって腐るほどあるのだが、これは偏りすぎにも程があるボク自身の価値観とマジメに対峙すれば「まぁ分からんでも不思議じゃないか」になってしまうので、さっさと飛ばす。

「used book」になりやすいものの一つに、「名のある文学賞を取ってベストセラーになった本」がランク・インするのは当然であろう。「なぜこの本を買ったのか?」という一点に絞っても、恐らく相当曖昧な動機が多数派だろうからだ。

「話題になっているから」とか、「(その時の)会話についていけるように」とかが多数だと思う。もっとも、これをきっかけにその作者の作品に興味を抱いたり、他の作者の著書にまで裾野を広げていく読者もいらっしゃると思う。

そもそも文学賞(特に文芸系)には、そういう側面だってしっかりある。「多くの人に広く知ってもらうに値する」という価値だって、賞には含まれているはずなのだから当然と言えば当然である。

が、悲しいぐらい一過性にしかならないのはナゼか?

ここだけで、もうそれこそ数回分のネタがあるのだが、別にボクが書くこともなかろう。ものすごくざっくり言うと「審査する側」と「読者」(本当はもう「消費者」でいいのかもしれない)の間にある価値観に、マリアナ海溝のごとき深く長い溝が存在するからだ。ここに書評家が加わると、さらにややこしいことになるので、ボクはさっさと放棄する(笑)

「used book」になりやすい例として、ビジネス書やいわゆるソフトのHow to本も含まれるだろう。これは素直に「時代遅れになった」という理由で、興味の対象にすらならないことが多いと思うのだが、ボクに言わせればとんでもない話だ。

デジクリなので、「ソフトの〈How to〉本」にしぼってみよう。

アップデートされる度に、雨後の筍よろしく本も新たに出てくるが(本当はちゃんと確認していないので憶測だ)、ソフトの基本機能そのものが根底から引っくり返る事はまずない。そんなコトしてたら、ソフトそのものが売れなくなるしね。

比較的ボクと距離が近いのはPhotoshopだが、これについては過去に記事も書いていたので実感として理解できる。ある時点で「基礎機能しか使ってないし、目新しいことしてるわけでも何でもないから、記事にすらならんやろう」という理由でやめたのだが、なんだか一周回ってきたような例が、記事として上がっていたので参考までに。

https://wired.jp/2016/08/28/damion-berger-black-powder/?fbclid=IwAR2i8X6vNdJ2u094yRYp1wn4vVa-cN-4wO4Hd25H0W8cx9diWGN59rWVAzU


記事そのものは2016年だから、ご存じの方もいらっしゃるだろう。

技術的に詳しい事は書いていないので、ここからはボクの推測に過ぎないのだが、おそらくトーン・カーブの操作でこうした効果を生み出しているのだと思う。素直なネガポジ反転ではないような気がする。

というのは、ボク自身が「反転」機能を使わずに、トーン・カーブで処理しているからだ。これは使い始めた頃からの話で、酷い言い方をすれば「手垢のついた」ネタに過ぎないのだが、こうして記事になっているところを見ると、それなりのインパクトはあるのだろう。

話をHow to本に戻す。上述したように、基本的な機能はPhotoshopの場合、ほとんど変わっていない。むしろ「余計な機能が多すぎ」ということは、この連載でも再三書いているのでパス。

むしろ、基礎に徹するなら(こっちの方が本来は楽なんですがね)古いバージョンの本の方がページ数にゆとりがある分、細かい説明をしてくれている可能性が高い。

もっともボクは、Photoshopに関しては参考書どころか、マニュアルすらロクに読んでいないので(別にPhotoshopに限った話じゃないけど)実際のところどうかは知らない。

ボクが〈How to〉本でそれなりにお世話になったのは以下の二冊だけだ。

『MACROMEDIA DIRECTOR Lingo』(広鉄夫:著 技術評論社 1993)
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/487408561X/dgcrcom-22/


『ダバカンのようこそ3Dグラフィックパラダイス―STRATAスクール開講!』
(駄場寛:著) アスキー 1997)
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4756110878/dgcrcom-22/


前者はLingo Scliptの辞書的な側面が強く、一時期使いまくった。おかげで怪しげなプログラムの基礎知識も身についたのだが、この後マジメにプログラムにいかなかったのは、ボクの個人的な性格に起因する(笑)

ちなみに、Action Scriptはもう完全にお手上げで(ここが良く分からない。基礎はほぼ同じなのに)、完全に離脱した。

後者は実を言うと、今でも重宝している。本当に基礎中の基礎を分かりやすく説明してくれているので、3Dの敷居が高かった当時としては、画期的だっただけではなく、今でも理論的には十二分に通用する。

まぁ応用次第なんですが、ボクはこの本で教えてもらった事を、Blenderというまったく別もんのソフトでやっている。とにかく基礎をしっかり解説してくれているので、応用などし放題である。

当時はハードの処理能力からポリゴン数は上限がかなり低かったのだが、書いてある事はまんまなので使えます。素直に本としても楽しい。

ボク自身はSTRATAからLightWaveに乗り換え、更に今のBlenderに至っているのだが、Shadeとはあんまり縁がなかった。というか、よく分からないのだ。面の作り方が違うのだが(詳細は勝手に調べて下さい)、ボクはバカみたいに分かりやすい「ポリゴン見えるのが嬉しい」人なので、上記したような経歴になったのだが、やはりこの本の影響は大きいと思う。

話が逸れたが、この二冊に関してはボクの場合「old book」になる。普通なら「used book」になりそうなところだが、ここがボクの価値観の偏りをものの見事に明らかにしているといってもいいだろう。

リンクを辿った人ならもう一目瞭然だが、前者がそこそこの値段なのに、後者は1円というのは正直いかがなものかと思うが、結局こういうコトなのだろう。悲しくて仕方がないけど。恐らく「ソフトがもうないから」なのだろうが、それにしてもなぁ……愛読書だけに悲しさ倍増である。

まともに参考書でも「ない!」という例が『モダン・デザインの源泉―モリス/アール・ヌーヴォー/20世紀』(ニコラウス・ペヴスナー:著 小野二郎:翻訳 美術出版社 1976)である。
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000J922IU/dgcrcom-22/

https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4568500478/dgcrcom-22/


ボクが学生時代に散々お世話になった本だが、モダンデザイン史の初歩に関していえば、この本と同じ著者による『モダンデザインの展開』を越す本に出くわしていない。あくまでもボクの私感です。
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/462201503X/dgcrcom-22/


大事なことはこの二冊にほぼ網羅されているのだが、未だに絶版扱いなのが正直信じられない。もしかしたら突っ込みどころもあるのかもしれないが、そんなもんは補完すればいいだけの話で(!)厄介この上ないモダンデザイン史をざっと見渡す分には十分である。

特にバウハウスまでの歴史となると、正直これ以上の本は見つからない。細かい専門書の類はそれこそ腐るほどあるのですが、なぜかこの二冊がすっぽり抜けているのがワケ分からん。

代替本らしき本はいくつかあるが、揃って参考文献として上記した二冊が含まれているのが興味深い。無視は出来ないのだろう。

技術本でいえば、『絵画技術入門―テンペラ絵具と油絵具による混合技法』
(佐藤一郎:著 美術出版社)が絶版になって久しい。ボクも古書で買った。
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4568321468/dgcrcom-22/


これまた基礎から丁寧に解説してくれているのだが、なぜか絶版扱いである。この本には相当お世話になったし、この系列で他の本も何冊か読んだのだが、正直この本を上回るものは『絵画技術体系』(マックス・デルナー:著 佐藤一郎:翻訳 美術出版社 1980)ぐらいなのだが、前者の著者と後者の訳者が同一人物であることからも、なぜ上回ったのかは容易に推察できるだろう。この本は改訂版まで出ていて、アクリル絵の具にまで言及しているところが興味深い。
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4568300347/dgcrcom-22/


ちなみにこの二冊、デジタルでも余裕で応用可能なネタが満載です。実際ボクはやってる(笑)。ちなみに『絵画技術入門―テンペラ絵具と油絵具による混合技法』を教えてくれた友人はPhotoshopで応用技を披露しているし、Painterでも同様である。ボクも両方でやってます。

なんだか美術出版社の本がやたらと出てきているが、あくまでも偶然です。

基礎に関して言えば、このように明後日の方向からだって引っ張ってこれる。「実際のソフトと違う」と思う方の方が圧倒的に多いとは思うのだが、ソフトなんてなのはひどい言い方をすれば「現実のシミュレーション」レベルなので、どこから引用してきても、やろうと思えばいくらでもできるのだ。

むしろ、デジタルだからやりやすいという面だって大いにある。特に混合技法なんて、まともにやりだしたらいくらお金があっても時間があっても、追いつかないぐらいの勢いである。ちゃっちゃとデジタルでやった方が、お気楽この上ないし、いくらでも描き潰せる。

なんか段々、主旨と違う方に行き始めてるなぁ……。

あくまでも参考である。ボクが普段ほとんど読まないHow to本や、技術書ですらこうなのだ。本命の文芸書となると、例そのものがとてつもなく多くなってしまうのでパス。

とはいえ、ボク自身が「used book」としてではなく、「old book」として古書と向き合っていることはご理解いただけると思う。

ボク自身は別にビブリオマニアでもビブリオフィリアでもない。ただ「読むのが好きな人」で、「古書にはもっと面白い本があるんちゃうか?」としか思っていない。

実際「こんな本があったんかい!」というような本に出くわしているだけに、無下に出来ないだけの話である。こういう人間が好んで行きそうな古書店となると、もう大体想像はつくだろうし、ブックオフに幻滅するのもご理解いただけると思う。たまに買うけどね。滅多に出くわさない、探してた本が見つかったら。本当にたまぁにあるんですよ。

「used book」になるか「old book」になるかは価値観だと上述したが、ここはかなり端折っている。「消費する本」か「愛読する本」かにも分けられるだろうし、コレクション目的となるとボクにはさっぱり分からない。

いわゆる「初版本」ですら、ボクはあまり興味がない。たまたま買った本が初版本になることはあります。重版がかかっていないという実に分かりやすい理由なので、こうなっちゃう。

コレクション目的(?)で値段が高騰して辟易したのが、サンリオSF文庫。普通に買える時に買ってた本はまだ良かったのですが、撤退後に「ああ、あの本」と思ったら、すさまじい値段になっていて手を出せなくて悔しい思いをした。

もっともこっちは早川書房さんや東京創元社さんが復刻してくれたので、事なきを得たのですが。

この手のネタでは、レフ・トロツキーの『永続革命論』が岩波文庫で永らく絶版(?)になっていた上に、古書店で見つけても得体のしれない書き込みがあったりするもんだから、読みたくても読めなかった。

本の書き込みに興味がある人や、気にならない人は大丈夫だろうが、他人の思考が混じるとボクはその本に集中できなくなるのだ。「汚いから買わない」ではない。

幸い、光文社さんが「光文社古典新訳文庫」で復刻してくれたので、そっこーで手に入れた。
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4334751555/dgcrcom-22/


正直、古書市場については疎いのですが、まず元になる本が出版されないと古書にすらならない、ということくらいはボクでも分かる理屈。これが需給バランスとなるとお手上げである。なにせ新刊本ですら追いついていないのだ。ここから古書市場に流れるとなるともう見当もつかない。

新刊本の需給バランスに関する認識ですら、けっこう怪しいのだ。知人の作家さんから漏れ聞こえてくる話で何となく想像はしているが、実態となると手にあまる。

最近は100部単位での増刷があるのは知っている。印刷コストが抑えられているのか、倉庫が足りないのか、その両方なのかは分からん。ただ初版部数の桁がじゃんじゃん減っているのは目の当たりにしているので、ある程度は想像がつく。そこからいけば、100部単位の増刷も「そうなんやろうな」にしかならない。

ほとんど都市伝説の域に達していると思われるのだが、版元にも在庫のないベストセラー本がなぜかブックオフのような本屋さんにあるとかいうネタである。真偽のほどはボクにも分からない。なぜならボクの興味対象外の本だからだ。新刊本で目にしたことはあるが、これまたどういう経路でどう辿り着いたのかはさっぱり分からない。

ここまで来るともう胡散臭さしか感じないのだが、実際のところはどうなんでしょうね?

さて、ブックオフのような本屋さんでまず驚けるのが、異常なまでのコミックの量である。一般書店も似たようなものだが、とにかくボクのメインターゲットになる文庫本となると、それなりに書棚はあっても中身が薄すぎる。

前にも書いたかもしれないが、井上ひさしや北杜夫、挙げ句の果てには筒井康隆ですら、滅多にお目にかかれない。池波正太郎や司馬遼太郎だって怪しいもんである。隆慶一郎も最近見ないなぁ。(これ前に書いた気がする)

一時は所狭しとばかりに置かれていたラノベも、相当肩身が狭いような雰囲気である。コミックは最近ほとんど読まないので、書棚を見てもピンと来ない。ただ、それなりの量もヴァリエーションもあるので、売れ筋には違いないのだろう。知らんけど。

それでも悲しいくらい、100均コーナーにもあったりするのだ。ここまでくると本当に「どういう基準で、どうやったらこの値段になるのか?」になってしまう。もっとも答えは単純で、買い値を叩いているに他ならない。

こういう本屋さんに必ずと言っていいほどあるPOPやポスターが、「読み終わった本、売って下さい」である。まぁ、表記は色々あるが意味的には一緒ですな。で、ボクの場合は読み終わって終わりにならない、ということは散々書いているのでパス。とにかく「読み終わったら終わり」という心理がよく分からないのだ。

ただ読むだけなら、図書館で借りるという手は大いにありだと思う。もちろん、図書館で読むというのも選択肢の一つだ。幸い、京都市内には「京都国際マンガミュージアム」なるものまで存在する。ネットカフェでも読めそうだが、個人的にはこっちの方が気楽かな? 建物の雰囲気もいいしね。

ただ、ボクはほとんど利用しない。一人でゆっくり読みたいので、公共の場で本を読むという習慣がないからだ。さすがにとてもではないが手が出ないような文献は、図書館まで読みに行きますが。

図書館の話まで入れ始めたら、なんだかワケが分からなくなりそうなのでこのへんでやめる。実際、分からないし。おまけに相当迷走してるし、この作文。毎度のことながら上手くいかんなぁ……。

以前にも書いたが、ボクは新刊本にしろ古書にしろ、繰り返し読み返すことを前提にしているようなところがある。読み終わっても終わらない、という現象は正にここにあるのだが(記憶が怪しくなってからは)、そんなにイレギュラーなことなのだろうか?

度々、引き合いに出す(例として成立してないけど)おねえちゃんにすら、こういう読書行動は見られる。百歩譲って「うちがおかしい」としても、少なからず堆積しているはずの本の行方は何処になるのか?

一つは購入者自身だろうし、古書店も含まれるだろう。それにしてもなんかおかしい気がしてならない。これ以上追及し出すと、本当に「本」そのものの価値観の話になりそうなのでやめておく。もう十分迷走してるし、ボクも混乱し始めてる(笑)


【フジワラヨウコウ/森山由海/藤原ヨウコウ】
YowKow Fujiwara/yoShimi moriyama
http://yowkow-yoshimi.tumblr.com