Otaku ワールドへようこそ![320]自分を実験台に奇妙な視覚現象を体験する
── GrowHair ──

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●左2007年11月28日・右2019年9月5日

片目しか見えていない状態を約3年も放置してから、白内障の手術を受けた。これ自体、そうとう稀少なケースだったようだ。さらに、眼鏡を新調するにあたって、眼科医からのアドバイスを蹴った。これもまあ、ふつうはしないことだわな? 言わば、自分を実験台にして遊んでみたようなものだ。

その結果、いろいろと奇妙な視覚現象を体験することができ、通常は客席から見えない舞台裏の様子をのぞき見た思いがしている。

ものを見ているとき、両眼の造形の出来の不揃いのせいで、両眼視に不具合が生じないよう、両眼と脳とが巧妙に協力しあって差異を吸収している。そんなこと、ふつうは気づかないようになっている。中には、眼科医も聞いたことないぞ、と見放すような、珍妙な視覚体験もあった。

左目の白内障の手術を受けたのは、2007年11月28日(水)のことである。その時点で、右目も白内障が始まっており、徐々に進行していきますよ、と言われていた。

白内障とは、カメラで言えばレンズに相当する水晶体が白濁する病気だ。原因はいろいろあって、ちゃんと分かっていないし、加齢によっても起きる。

すりガラス越しにものを見ているような状態であって、見る機能自体は、ちゃんと生きている。目の前で手をひらひらさせると、何か動いているのはちゃんと分かるのである。

右目がほぼ完全に見えなくなったのがいつごろだったか、はっきりしないのだが、まあ3年くらいは放置した。左目で一度受けた手術を、右目でまた受ければいいだけのことで、勝手は分かっているのだが、面倒くさがって先延ばししていた。

眼鏡が傷んできて、いよいよ新調しなくてはならなくなってから、見えない目の眼鏡を新調する馬鹿馬鹿しさに気づき、まず、目を治すのが先決だ、となった。右目の手術を受けたのは、2019年9月5日(木)のことである。

職場に□田というやつがいて、ものすごくイヤなことを言った。両眼立体視するためには、脳に非常に大きな計算負荷がかかるはずだ。今まで、それをサボってきたおかげで、計算リソースを別のことに回せていた。これからは、ボーナス分を返上して、元々の計算に充てるので、ケバヤシは頭が悪くなるに違いない。

えええっ! そういう二者択一だったの?! どっちが重要か、天秤にかけてみると、生活環境がわりと整備されて安全な都会で暮らす分には、目なんか一個で済ませておいたほうが得かなぁ、なんて。いやいやいやいや、視野角が狭くなるのは、決定的によくないことだ……などと、あれこれ悩んじゃうのである。

白内障やその手術のことについては、9月20日(金)に書いている。
今回は、その続編になる。

『数年ぶりの両眼立体視 ─ 白内障を治しました』
https://bn.dgcr.com/archives/20190920110100.html






●サッカードが意識できると鬱陶しい

通常は気づかないことになっているサッカードが、いちいち分かっちゃうという、たいへん鬱陶しい目に遭った。手術の翌日のことである。

サッカードとは何か。眼球が小刻みに、高速で動く運動のことである。なぜこれが必要なのか。視野の中で、しゃっきりくっきりとものが見えている範囲は案外狭いので、高精細な絵をあっちこっちから拾い集めてきて、脳内で貼り合せないとならないので。

丸いレンズの中心から垂直方向に延びる直線を「光軸」と言う。眼球において、それに相当する直線を「眼軸」という。

網膜において、その解像度は均一ではない。眼軸との交点の近辺には視細胞が高密度に配置されているので、高解像度の絵が得られている。しかし、周辺部ではまばらになっていくので、解像度が落ちていく。また、眼軸上でピント合わせすると、周辺部では収差が起きて、ピンぼけになる。

ものがはっきりと見えているのは、視野角 1°程度であり、これは伸ばした腕の先の親指の爪ぐらいの範囲でしかないのである。我々が、全域にわたってシャッキリ見えているような気がしているのは、サッカードで拾い集めた情報を脳内で貼り合わせているからだ。

網膜に映った映像が、もし、そのまま意識に上がってきていたら、たまらないことになる。視線の向きを右から左へと移したら、映像が左から右へと流れて見えるはずだ。そうならないよう、脳がうまく遮断してくれている。なので、通常、本人はサッカードに気づかないようになっている。

白内障を3年も放ったらかされた右目はいじけていた。白濁に阻まれて、外界の映像が網膜にまで届いてこないだけであって、見る機能自体は正常に働いている。開店休業状態。どうせ見えないんだからと、サッカードをサボっていた。サボり癖がついて、すっかりナマっていた。

手術の翌日、右目を覆っていたガーゼが除去されても、急には再稼働できなかった。結果として、左目だけサッカードして、右目は2秒くらいかけてゆるりと追いついてくる。左目は、もっと高頻度でサッカードしたいのだが、右目が追いついてくるのをいちおう待ってから、すぐに次へ動く。

その結果、どう見えるかというと、左目が捉えた新しい映像と、右目が捉えっぱなしにしている古い映像とが、ぱっと重なって二重像ができ、それから、古い映像がぎゅーんと寄ってきて、二重像が合致する。その瞬間、また同じことが起きる。鬱陶しいこと極まりない。幸い、この状態は、数時間で解消した。

サッカードを本人が認識できるなんて症状は、眼科医でも聞いたことがないという。

両眼の視線の方向を揃えてサッカードするというのは、ピアノを弾くようなことだ。右手でドレミファソと弾けば、親指、人差し指、...、小指の順に動く。一方、左手でドレミファソと弾けば、小指、薬指、...、親指の順に動く。

身体はほぼ左右対称な作りになっているのに、平行に同期させようとすれば、非対称なコントロールが必要になる。眼球の向きを変える筋肉の構造も同様で、脳が巧みにがんばっていると言える。

●回旋斜視をどうするか? ― 眼科医のアドバイスを蹴る

手術を受けてから一か月ぐらいの間は、度が変化するかもしれないので、眼鏡を新調するのは待っておいたほうがいいと言われていた。なので、古い眼鏡を使用していた。当然、右目は常にピンぼけ状態。つまり、以前と変わらず、左目だけで片眼視していたわけだ。

手術から約一か月経った10月3日(木)、病院で診察を受けた際、眼鏡を新調するために度を測定してもらった。

このとき、主治医から薦められたことを私は蹴った。回旋斜視にどう対処するか。医者が薦めてきたのは、遠くを見る用の眼鏡では、あえて一方をピンぼけ状態にしておき、片眼で見るのがラクでよいというもの。

それに対して、私の主張は、脳がきっと可塑性を発揮して何とかしてくれるはずだから、両眼ともピントが合っている状態にしておきたいというもの。

これには、ちょっと説明が要る。少し長くなるかもしれないが。

まず、斜視とは何か。斜視とは、片眼は目標のほうに正しく向いているが、もう一方の眼が内側や外側、上下などに視線が逸れている状態のことを指して言う。つまり、眼球の向きが左右で揃っていない状態である。

斜視のある側の眼がそれぞれ
・内側に向くものを「内斜視」
・外側を向くものを「外斜視」
・上や下を向くものを「上下斜視」
という。

これが起きていると、両眼の見ている映像の位置が合わず、世界が二重に見える。この状態では非常に生活しにくいので、脳は片眼からの要らない映像を意識に上らないよう、遮断してしまう。映像情報は脳までは届いているのだが、脳がブロックして、意識に上げないのである。この機能を「抑制」という。

これによってダブることのない映像は見られるわけだが、両眼視機能は失われ、立体視ができない片眼視の状態になってしまう。また、これにより片眼は抑制による映像の遮断が続くので、視力が低下する傾向があり、弱視となる可能性もある。俗に「ガチャ目」と呼ばれる状態。

斜視に対応する眼鏡というのがあるにはある。これにはプリズムを使う。レンズで焦点距離を調整するのではなく、平行な入射光は平行なまま、プリズムで屈折させて、全体的に方向をカックンと曲げるのである。

内斜視や外斜視や上下斜視なら、これで何とかなる。ところが、光学系では対処することが不可能なタイプの斜視が、もう一種類あるのである。「回旋斜視」というやつ。

視線の向きが逸れているのではなく、眼球が眼軸まわりに回旋している状態である。どういう状態か、伝わっただろうか。

眼軸まわりの回旋とは、ネジを回す方向というか、時計の針の進む方向というか、ぜんまいを巻く方向というか。あ、もしかして、若い人はぜんまいを巻くというのが分からないか。

外向きの眼軸に対して眼球の回旋の方向が時計回りなら、世界は反時計回りに回転して見える。水平な直線が左下がりに傾いて見え、鉛直な直線が左へお辞儀して見える。

私は最初、眼球が眼軸まわりに回旋したところで、見える映像には何の影響も与えないのではないかと勘違いしていた。網膜には、現実世界の倒立像が実際に映っている。眼球が回旋したところで、網膜上の像には何の影響も与えない。物体側に一本の直線があったとしたら、両眼の網膜上の像において、必ず平行線になる。

うっかりしていた。眼球が回旋しているとき、網膜も一体となって回旋しているのである。像の段階では左右の眼球の網膜像の向きが揃っていても、それを受ける網膜自体が回旋することで、視神経から脳に伝わる像は回転してしまうのだ。

どんな光学系を組んだところで、像を回転させることはできない。そこで、あきらめて、片眼をピンぼけにして、使わないことにしてはどうか、というのが眼科医側からの提案であった。

それに対して、私が考えたのは、脳がきっと可塑性を発揮して、うまく対処してくれるだろう、というものだった。脳の可塑性とは、ざっくり言えば、脳が、送り込まれてきた情報の解読のしかたを自力で見つけ出し、これをうまく利用して世界を理解しに行くという、すばらしく柔軟な能力のことを指す。

以前にも取り上げたことのある例だが、舌で「見る」装置というのがある。この装置は、カメラから得た映像データを電気パルスに変換し、平べったいパネルの表面に出力する。これを舌に乗せると、炭酸飲料のようなパチパチした刺激が来る。15分間ほどで「見える」ようになるのである。

この装置は、2015年に米当局が販売を認可し、実用化されている。

  2015年06月29日 06:00 公開
  あなたの健康百科
  視覚障害者に“舌で見る”機器 ― 米当局が承認
  文字の判読も可能に
  あなたの健康百科編集部
  http://kenko100.jp/articles/150629003517/


脳は、舌から来た情報だからきっと味に違いない、という仮定を置かず、これが映像情報であることを自力で見破るのである。

これまた以前に取り上げたことのある例だが、生まれたばかりのフェレットの視覚野と聴覚野とをつなぎ替えたら、聴覚野が視覚情報を処理するようになったという実験結果があり、2000年に「NATURE」誌に発表されている。

  Laurie von Melchner, Sarah L. Pallas, and Mriganka Sur
  "Visual behaviour mediated by retinal projections directed to
  the auditory pathway"
  NATURE, Vol.404, 20 April 2000

目から来た情報が聴覚野に入ってくる。聴覚野は、自分に解釈できない情報が入ってきたので、視覚野に向かって「これ、お前んところのじゃね?」と言ってたらい回しするのではなく、自身で視覚情報を解釈しはじめたのである。

たとえて言えば、ラジオに対して、テレビの電波を与えたら、ラジオが映像を映しはじめたようなものでる。

この例でもまた、脳は、耳から来たはずの情報であるからきっと音に違いない、という仮定を置かず、やはり映像情報であることを自力で見破っている。

その情報が、どの神経を通じて脳に届いたのかには依存せず、また、その情報が映像なのか、音なのか、味なのかという区別(モーダルという)をあらかじめ知っておく必要がなく、脳は、そのモーダルをも自力で探り当て、その上で、信号を解読してしまうという、スーパー柔軟性を発揮してくれる。

この柔軟性はすばらしいというだけでなく、謎である。現時点において、このアルゴリズムを明示できた人はいない。それができたら、コーディングして、コンピュータ上で走らせることが可能になるはずだが、これこそがまさにすべてのアルゴリズムを生み出す親玉たる「マスターアルゴリズム」に相当するのではないかと私は考えている。

余談だが、このアルゴリズムを手に入れたら、勝者総取りで、世界の富をかっさらっていける。ずばり "The Master Algorithm" というタイトルの本が出ている。

  Pedro Domingos,
  "The Master Algorithm:
  How the Quest for the Ultimate Learning Machine Will Remake
  Our World"
  Basic Books(2015/9/22)

ロシア語と中国語に翻訳されており、プーチンや習近平は読んだと言われている。日本語版はまだ出ていない。

話を脳に戻す。うんと単純化して言えば、脳は何でもやってくれる。情報さえ来ていれば、解読してくれる。そうだとしたら、脳内のソフトウェア的な処理で、画像の回転ぐらい、思いついて、やってくれるのではあるまいか。

私はどうしても実験してみたくなった。失敗した場合、眼鏡を作りなおすことになり、最初に作った眼鏡の費用がパアになる。でも、成功するような気がしていた。

両眼ともピントの合った状態を測定してもらい、眼鏡屋さんに渡すための処方箋を書いてもらった。プリズムも入れていない。

ここまでは総合病院でやってもらった。もともと町医者にかかっていたのだが、手術の設備がないため、病院を紹介してもらったのである。今度は、病院からの紹介状を持って、町医者へ戻る。10月7日(月)。

そこでも同じことを薦められたが、やはり蹴る。
私:「何とかしてくれるんじゃないかなあ、と」
眼科医:「誰がですか?」
私:「脳が」

焦点距離の違いから来る、像のサイズの不揃いを補正する拡大縮小の画像処理は、脳がソフト的にやってくれるそうだが、回旋斜視に対処するために脳が回転の画像処理をしたという実例は、まだ報告されていないのだとか。うっ。気持ちが若干ひるむ。いやいや、やってくれるさ。オレの脳だもの。

●眼鏡を新調 → 世界が二重に見えて苦しむ

10月19日(土)、処方箋を眼鏡店を持っていき、眼鏡を新調する。これが、一本では済まない。天然の水晶体では、周辺から筋肉で引っ張ることにより、レンズの厚みを調整して、遠近に対応していた。

これを除去して、人工の眼内レンズに差し替えたことにより、筋肉はお役目御免となり、焦点距離は固定となる。

すごい近眼に設定してある。すぐ近くを見るときは裸眼でよい。本を読んだり、パソコン画面を見たりするために、近く用の眼鏡を一本作る。うんと遠くを見るために、遠く用の眼鏡をもう一本作る必要がある。

私の場合、それだけではない。A面用に、かわいらしい赤い縁のやつが要る。さすがにそっちまで二本作る余裕はなく、近く用だけで間に合わせてるけど。

屈折率が1.4のふつうのガラスでは、凹レンズの周辺部が非常に厚ぼったくなってしまうので、高屈折率の材料を選ぶ。これだと薄く作れて見栄えが悪くないし、軽くていい。しかし、値段が高い。3本で115,500円。なぜいっぺんに作った、といまさらながら、自分にツッコミ。

11月7日(木)、新しい眼鏡を受け取る。かけてみる。うっわぁ~、世界が二重だ。商店街の向かいにあるそば屋の看板の文字が、互いにうんと離れてふたつに見える。気持ちを集中させて、じーっと見ていると、だんだん寄ってくるはずだ。

ふんっ! はあっ! 合え! 合え! うう、ダメだ。

しばらくすればだんだん適応してくるだろうかと、20分ほど待ってみたが、二重像はいっこうに接近して来ない。

眼鏡店には、両眼立体視できているかどうかテストする装置がある。丸が4つ表示されていて、これらの奥行き方向の位置が異なって見えればOKというもの。そもそも像がひとつになっていないのだから、どうにもならぬ。

眼鏡を外して、お店の測定用フレームにレンズを何枚か重ねて入れ、斜視補正用のプリズムも入れてもらうと、ちゃんと立体視できる。

待ってもどうにもなりそうになかったので、新調した遠く用の眼鏡をかけて、外に出る。うっわぁ。人が2倍いる。全員で分身の術。ほんとうは誰がどこにいるのやら。おっかなびっくり、そろそろ歩く。これで何とか電車に乗って、職場までたどり着いたけど、疲労困憊だ。

仕事は案外、なんとかなったようである。というのは、近く用の眼鏡をかけて近くを見ている分には、両眼の視線の角度にズレがあっても、二重像の絶対的な距離の開きはそんなに拡大していないので、何とか合わせられていたのだと思う。

帰り、また遠く用の眼鏡にかけかえて、歩いてみる。前日の夜、約6.6kmのコースを歩いており、Googleマップでは1時間24分と表示されているところを、1時間18分で歩けている。同じコースをまた歩いてみる。今度は、1時間37分もかかっている。恐くて早歩きできないのだ。

行く手にまっすぐな歩道が延びている。これがどう見えているかというと、左目で見ている像は、右上に向かって上り坂になっていて、右目で見ている像は左下に向かって下り坂になっている。

自分の位置で道が分岐しているというか、右上へ上る道に穴が開いていて、左下の地下へ降りていく道が開けている。遥か遠くのほうは、あっちとこっちにかけ離れて分離している。

前進すると、両方の道を同時に歩けている。読んで想像してみるだけで、気持ち悪くなってきませんか?

この状態はたまったもんじゃないが、ずっと我慢していれば、さすがに脳が、何とかしなくてはと追い込まれて、手を打ってくれるのではあるまいか。と思って、ずっと我慢していたのだが、いっこうに合ってきそうもない。

この見え方って、今だけ経験できる特別なものなのか、それともこの先ずっとこうなのか。

ついに脳があきらめて、一方の像が意識から消えた。例の「抑制」である。あー、それ、やっちゃうんだー。これが、だんだん意図的に選択できるようになってくる。右目の映像を頼りに歩くぞ、と決めると、左目の像を消せるのである。いやいや、そういう適応のしかたしてくれ、って頼んでないから。

しかし、近くに視線を移したときなど、両方ともバッと出てきちゃう。そうでなくても、急に両方現れたり、別のほうへ切り替わったりする。

「んもう、じれったいなぁ。早う気がつかんかい、この大馬鹿者!」。言っているのは他ならぬ脳だし、言われているほうも同じ脳だ。意識ってややこしい。こんな調子で、最後まで、どうにもならなかった。敗北か。

翌日、11月8日(金)~10日(日)はA面で札幌に行っている。この間も、遠景は、相変わらず上り坂と下り坂とに分離していたはずだ。どう見えていたか、ちゃんと記録をつけておかなかったのは不覚だ。いつから、どんな変化が現れたのか、記録が残っていない。

はっきりしているのは、11月13日(水)の朝、6.4kmのコースを1時間17分で歩ききっていることだ。これは、自己内比較で、割といいペースだ。つまり、ほぼ不自由なく歩けるようになっているということだ。

両眼の像のズレは、回旋成分も含め、解消していた。当初、目論んだとおり、脳が状況に気がついて、対処のしかたを考え出してくれたのだ。医者ができないと思っていたことを、オレができると言い張って、結果として、できちゃったわけだ。ふふふん、オレの脳、ざっとこんなもんよ。

ただし、起き抜けはダメだ。当初とまったく変わらないズレ方をしており、合ってくるまでにたいへん時間がかかる。

11月16日(土)、「シンギュラリティサロン」を聴講するため、大阪に向かった。9:33東京発のひかり507号新大阪行に乗った。ひかりは先頭から5両が自由席で(のぞみは3両だけ)、私は先頭車両1号車の右側窓際、9番E席に座ることができた。

新横浜あたりで寝落ちして、目が覚めたら名古屋駅を発車したところだった。11:18。窓の外には地平線が二本。右目で見ているほうのは、位置が左下へずっこけているだけでなく、左下がりに傾いていた。これが岐阜羽島でもまだ戻らず、揃ってきたのは米原でのことだ。11:44。30分近くかかっている。

●どうやって合わせているのか → 眼球を動かしていた

さて、ここで疑問が残る。両眼の像の位置ズレと回転ズレが解消できたのはめでたいことだが、どうやって合わせているのか。まず、「抑制」が働いて、実は単眼で見ていた、という可能性は排除される。二重に見えていた像がギュイーンと互いに接近してきてピタッと重なるし、また、ちゃんと両眼立体視できているので。

あとふたつある可能性の一方は、筋肉で眼球を引っ張ることで、眼球の向きを物理的に一致させているというもの。ハードウェア解。もう一方は、眼球を動かすのではなく、脳内画像処理で平行移動と回転を施しているというもの。ソフトウェア解。

この二種類の対処法は、実際に可能なことなのか。どちらも結構、何とも言い難いところがある。

まず、ハードウェア解について。これは、まあ、理屈では可能なはずである。実際、目をきょろきょろさせることができているということは、眼球を筋肉で引っ張って、向きを変えることができるような機構になっているということだ。

これを左右で独立にコントロールすることができさえすれば、斜視を力づくで引っ張り戻すことができるはずだ。

眼球には、片方あたり、8本の筋肉がついている。うち二つは「内眼筋」と言い、眼球の内部にある。「虹彩筋」は絞りを調整するのに働き、「毛様体筋」は水晶体を周辺から引っ張ることでレンズの厚みを変えてピント調整するのに働く。

残る六つは「外眼筋」と言い、眼球の外部についている。外眼筋のうち四つは、それぞれ「上直筋」、「下直筋」、「内側直筋」、「外側直筋」といい、眼球の上下内外から後方(脳のほう)向きに引っ張っている。

上直筋を収縮させることによって、眼球を上部から引っ張れば、目は上を向く。こんな調子で、四つの筋肉を使いこなすことで、視線を自由な向きに向けることができる。組合せ技で、斜めに向けることも可能だし、ぐるりんと周回させることも可能だ。

二つの眼球が水平方向に並んでついていることから、水平方向と垂直方向とで、事情が異なる。水平方向については、左目の外側直筋と右目の内側直筋とを同時に働かせることで、両眼の視線を左へ向けることができる。

また、両眼の内側直筋を同時に働かせることで、寄り目にすることができる。これは、うんと近くのものを見るときに必要なことだ。

つまり、水平方向については、両眼の内側直筋と外側直筋とを独立に動かすことに慣れている。なので、内斜視と外斜視については、両眼の内側直筋と外側直筋との力加減を独立に調整することで、力ずくで向きを揃えるということがしやすい。実際、これができている人は多いそうである。

ところが一方、上下方向については、両眼の上直筋と下直筋とを独立に働かせなくてはならない場面が、まず生じない。試しに、右目を上に向け、左目を下へ向けようとしてみてください。これができた人は、その両眼の状態を写真に撮って、私に送ってください。笑ってさしあげます。

これが難しいということは、上下斜視を力づくで矯正するのはたいへんだ、ということを意味する。実際、これができている人は、少ないそうである。でもなぁ、とも思う。脳がそれさえ思いつけば、上下斜視をなおせるのであるからして、どうしてもできないというのは、それはそれで腑に落ちない。

視線の向きを変えるためだけなら、外眼筋はこの四つあれば、理論的には事足りるはずなのだが、実際にはあと二つある。「上斜筋」と「下斜筋」である。これらは眼球のそれぞれ上側と下側とから、奥へではなく、鼻のほうへ引っ張っている。つまり、眼球を回旋させることができるのである。

では、眼球を回旋させる必要性が生じるのは、どのようなときか。頭部の傾斜をキャンセルさせるように、反対向きに旋回させるのだという。

「眼球反対回旋運動」と呼ばれる。三半規管が頭部の傾斜角度を検出し、同じ角度だけ両眼球を逆向きに回旋させるのである。なるほど、頭部を非常に小さい角度で左右にひょこひょこ傾斜させても、見えている像は回転しない。

斜筋は眼球を鼻側へ引っ張ると言ったが、実は、滑車を通っていて、結局は奥側へ引っ張るのである。実にうまくできすぎている。恐れ入りやんした。こういう機構は、いったいどちら様が設計なさったのでしょうか。ランダムな突然変異と自然淘汰でほんとうに起こりうることなのか? 進化論って、どうもなぁ、と思う。

眼球の回旋を意図的にできる人は、たぶん、そうそういないと思う。少なくとも私には無理で、そんなことができそうな感じすらしない。上斜筋と下斜筋とをうまく使いこなして、回旋斜視を解消している人が著しく少ないというのは分かる。

だけど、やっぱり腑に落ちない。脳が、左右の眼球の回旋を独立にコントロールすればよいと気づきさえすれば、回旋斜視は補正できるのであるから、使わない手はないと思う。

さて、ここまではハードウェア解の話だったが、一方、ソフトウェア解の可能性はどうだろう。内斜視と外斜視と上下斜視を、この手で補正するのは無理だと私は思う。なぜか。

脳内画像処理で、見ている絵を平行移動させたら、中心だったところを別の位置に移し、中心から外れたところを中心位置に持ってくることになる。

ところが、解像度が高くて、なおかつ、ピントが合っているのは中心付近のごく狭い範囲内だけだったので、いちばんいいところを脇へ追いやって、クオリティの低い絵を真ん中に持ってこなくてはならず、これはよくない。なので、内斜視と外斜視と上下斜視については、脳内画像処理で補正するのは、よい対処法ではないのだと思う。

では、回旋斜視はどうか。これなら、少なくとも解像度の問題は生じない。たぶん、回旋斜視の補正のしかたには、ハードウェア解とソフトウェア解のどちらもありうるのではないかと思う。

斜視は、それがいつも現れているか、現れたり現れなかったりするかによって、「恒常性斜視」と「間欠性斜視」とに二分類される。用語は文献によるようで、「恒常性斜視」だけを「斜視」と呼び、「間欠性斜視」のことを「斜位」と呼ぶ流儀もあるようである。また、「間欠性斜視」は「隠れ斜視」と呼び替えることもあるようだ。

私の場合、外斜視と上下斜視と回旋斜視が入っており、恒常性か間欠性かの分類で言えば間欠性のほうだ。というか、上下斜視と回旋斜視はほとんどの場合で恒常性になってしまうらしいところ、私の脳が自力で、外眼筋を両眼で独立にコントロールすればよいことに気がついたおかげで、間欠化することができたというわけだ。

●画像サイズの不揃い → 脳内画像処理で対処

斜視とは別に、もうひとつ、問題が生じていた。両眼で見ている絵のサイズが一致していないのである。

起き抜けなど、斜視による二重像が解消されていない状態において、像はどう見えているか。左目の見ている像を基準にすると、右目の見ている像は、第一に、位置が左下にずっこけていて、第二に、向きが反時計回りに10°以上回転していて、それだけでなく、第三にサイズが小さくなっている。しかも、半分近くまで縮んでいるのである。

これがなぜ起きるのかというと、新調した眼鏡のせいだ。左右で近視の度が等しくなく、右目のほうがきつい。なので、それを補正する凹レンズは、右目ようのほうが度が強くなっていて、それのせいで像の縮小度合いが高い。

じゃあ、右目用の眼内レンズを選択する際に、左目と同一の焦点距離のものを選んでいれば、この問題は起きなかったはずだ。それができなかった理由が二つある。

角膜から網膜までの長さを「眼軸長」という。つまりは、眼球の奥行き方向の長さである。これが左右で揃っていないのは、ふつうによくあることらしい。

眼内レンズを選ぶ際、裸眼で、両眼から等距離のどこかに焦点を合わせようとする。もし、右目のほうが眼軸長が短かければ、度の強い凸レンズを選択せざるを得ないのである。なので、選ぶに際して、外から、眼軸長を測定しておく。

ここで、第二の問題が生じていた。手術前、長らく放置していた右目の白内障が進みすぎて、白濁がひどくて、うまく測定できなかったのである。測定誤差が大きく、実際の眼軸長よりも短く測定されてしまっていた。なので、必要以上に厚い(焦点距離の短い)レンズが選ばれてしまった。

これは簡単に確認できる。裸眼で、片目ずつ、本などを近づけたり遠ざけたりして、いちばんピントのよく合う位置を見つける。左目でちょうど合った位置で、右目に交代して見るとピンぼけになっており、もう少し近づけたところで、くっきり見える。

つまり、白濁による測定精度の低下のせいで、必要以上に厚い眼内レンズを選択していたというわけだ。これを適正なやつに入れ替えるという選択肢は、あるにはある。やりましょうかと提案してはくれた。だけど、それって、角膜を切開する手術をもう一回やるってことだ。うぎゃあ、もういいです。

天然の水晶体が近視になっている状態においても、その近視の度合いが左右で異なるというのは、ふつうに起きることである。今の状態が、そんなにおかしいわけではない。

というわけで、左右で像のサイズに不揃いが起きているのはしょうがないとして、どう対処すればよいのか。眼鏡ではどうにもできない。眼球の運動でもどうにもできない。眼軸長を変化させる筋肉というのはないので。となると、脳内画像処理で拡大するしかないのだ。私はこれができるようになっている。

ただし、脳内で拡大の画像処理をするケースがあることは、眼科医も把握していた。そんなに特殊な能力ではないのだ。両眼のサイズの不揃いによる悪影響を解消するために、太古の昔から習得していた方法なのであろう。

片目だけ5秒ほど閉じていて、ぱっと開くと、もうそれだけで、先ほど述べたとおりに、左右の像にズレが生じる。このとき、脳内での画像拡大処理も、もうサボっている。スイッチを入れたり切ったりできるのか!

向きがだんだん揃いつつ、位置もだんだん接近してくる。しかし、ピッタリ合う直前までは、サイズが不揃いなままなのだ。みょーんとした変な感触が脳内で起き、気がつくと、サイズが合っているのである。

●正解探しの旅 ― 専門家に聞いてみる

左右の像のズレをどうやって解消しているのか、自力で考えて、だいたいの見当はついた。内外と上下の斜視の補正は眼球の運動でやっているはずだ。回旋斜視の補正は、眼球の回旋運動でやっているのか、脳内画像処理でやっているのか、はっきりしない。サイズの不揃いの補正は脳内画像処理でやっているはずだ。ここはひとつ、専門家の意見も聞いてみたい。

12月14日(土)、町医者に行って聞いてみた。どこも具合が悪くないのに、医者を訪ねていくのもどうかとは思いつつ。

自覚できるサッカードなんて、聞いたことがないという。拡大処理を脳内でやってのける例は、すでに報告があるという。回旋斜視の補正を眼球でやっているか、脳内画像処理でやっているかは不明だという。

なんか、変な議論になっちゃった。「小林さんの質問には答えられません」。脳内でどんな処理を実行しているのか、未解明なことがまだまだたくさんあるのだそうで。頭蓋を開けて人体実験してみるわけにもいかないし。

いやいやいやいや、そりゃそうでしょうけども、非侵襲的な実験に制限したとしても、解明可能なことは、まだまだあるはずでしょ。

舌で見る装置がうまく働かなかったら、どこへ相談すればよいのだ。耳鼻咽喉科ではないと思う。やっぱり眼科でしょ。それとも脳神経外科?

私は声を大にして言いたい。眼科よ、もっと真面目に脳を調べろ!

学術研究の分野分野で手分けして覆いつくすべき全対象領域において、このあたりに手薄な領域が残っているような気がしてならない。眼科は目という器官に特化するのではなく、視覚全般を担当してはどうか。

翌日、12月15日(日)、眼鏡店に行ってみた。何も買う気がないのに、お店に行くのもどうかとは思いつつ。

この前、どうしてもうまくいかなかった両眼立体視テスト、今度はちゃんと成功した。片目をカバーして、数秒後にそれを外したときの眼球の動きを観察してもらった。その結果、上下と内外の斜視は、思っていた通り、眼球の動きで補正していることが判明した。

回旋斜視についてはどうかというと、眼球の回旋は、見た目では判別がつかないという。虹彩紋理を追跡することで、ちゃんと計測する装置が世の中のどこかには存在しているらしいけど。

12月17日(火)、総合病院にも行ってみた。町医者へ紹介状を書いてもらった日をもって病院の役割は終了しているし、どこも具合が悪くないのに、病院に行くのもどうかとは思いつつ。

サッカードが自覚できたなんて、やはり聞いたことがないという。余談だが、プロ野球において、一軍選手と二軍選手とで、サッカードのパターンに相違があることが分かっているという。練習の成果なのか、先天的なものかは判明していないという。え? もし先天的なものだったとしたら、がんばって練習しても一軍に上がれる見込みは薄いってこと? むなしい話にならないか?

やはり、脳がどんなことをやっているのか、未解明な部分が多いという。回旋斜視の補正は、おそらく脳ではなく、眼球運動でやっているだろう、とのこと。もし選択肢があるのなら、画像処理よりも眼球運動のほうがラクだから、と。なるほど!

装置を使って測定してみましょうか、とは言ってくれなかった。そりゃそうか。具合が悪くて困っているわけじゃないもんね。病院へ遊びに来るな、っちゅうことですわな。

今回書いた、斜視の類型や眼球運動のしくみについて、私はあらかじめ知識を持っていたわけではなく、すべて、解決後になってから調べたことである。

眼科医の薦めを蹴った時点では、ほぼ何も知らなかったに等しく、ただ、舌で見ることができるくらいだから、脳が何でもやってくれるんじゃないかな、と思っただけである。

しかも、それは間違っていた。おそらく、脳内画像処理は、拡大・縮小以外、やってくれない。根拠なんかなくても、ぜったいになんとかなるはずだと信じることが、治癒への第一歩ってわけか。

そう言えば、武盾一郎氏が、こんなの書いていたなぁ。お知り合いの方が、末期とみえた前立腺癌の切除手術を受ける少し前になって、「私は癌を完治します」と宣言した手紙を、武氏に宛てて送ってきた。そしたら、手術後、癌がすっかり消えて、完治していたという話。

武 盾一郎『「意識の力」を実感したとき』
https://bn.dgcr.com/archives/20190903110200.html


私はいちおう科学的にものを考えることを習慣としており、神秘主義的な話を無条件で受け入れたりはしないのだが、しかし、それにしても不思議なことっていうのは、間々あるもんだよなぁ、という感覚は持っている。

無自覚的に、自分自身に対して、呪文みたいなパワーを使っていたってことか。病は気で治せ。


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