エセー物語(エッセイ+超短編ストーリー)[43]五年読んでも終わらない話◇永遠凝視者
── 海音寺ジョー ──

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◎五年読んでも終わらない話

生来がケチなので、本は図書館で読んでる。前職はラーメン屋で、本を読む時間がなくて、でも習性で町の図書館で限界冊数まで借りてた。

そして留守電に「返却期限を過ぎてます」と督促メッセージを入れられ、全冊未読のまま謝りながら返却するという、不毛なローテーションを続けていた。

介護仕事に鞍替えし、収入が激減したが一日八時間しか働かないようになったので、本を読む時間が確保できるようになった。

以来、超併読術を駆使し、複数冊を同時進行で読み進めている。(超併読術について、詳しくはバックナンバーズ『超併読術のはなし』を御参考ください)
https://bn.dgcr.com/archives/20180123110100.html






もう、絶対一生かかっても読み終わらんと諦めてた古川日出男さんの『アラビアの夜の種族』や、飯嶋和一さんの『狗賓(ぐひん)童子の島』、ジュンバ・ラヒリさんの『低地』、冲方丁さんの『光圀伝』など、一年から三年かけて読破していった。

アラビアの夜の種族
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狗賓童子の島
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4094066853/dgcrcom-22/


低地
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4105901109/dgcrcom-22/


光圀伝
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途中で停滞期間を挟みつつ、粘り強く読み抜いてゆくことに少なからぬ達成感があり、精神に快い高揚をもたらしていると思う。

おのれの教養の限界というものがあるんで……すべてを吸収した、とか内容が血肉になった、と偉そうなことは言えぬが、「オレ、こんだけのページを全部読み切ってんで!」という満足感は、自尊心を慰めてくれる快感は、筆舌に尽くしがたい。

しかし、数々の長編小説と併読、という形ではあるものの……今年で六年目となってしまい、まだ読み終えてない作品がある。

『失われた時を求めて』でも、『大菩薩峠』でもない。『徳川家康』でも『死霊』でもない。これらも、いつかは読みたいけど。

その本とは、船戸与一さんの『満州国演義』シリーズ全九巻である。二〇二〇年二月二日現在、第七巻『雷の波濤』第四章「発熱する午後」……頁でいうと、288ページを読んでいる最中である。

満州国演義
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この長編は、手強い。

ぼくが在東京時代、荻窪のブックオフで発見したときは、確か五巻が刊行されたところだった。仕事のハードさからどうせ読み切れまい、と諦めて買わなかった。

滋賀に越して来て隣町の図書館で第一巻を借りた時、第八巻が刊行されたばかりだった。第八巻『南冥の雫』の表紙が、新刊コーナー棚に平置きで並んでたので、鮮明に覚えている。

かつて「週刊新潮」に連載されてたのが、四巻以降書下ろしになって、定期的に出版されていた。執筆途中で公開されたことだが、船戸与一さんは肺がんと闘いつつ書いておられて、当時は御存命だった。最終第九巻を刊行し終えた二か月後他界され、この作品が遺作となった。

著者の生と死の時間を渡りながら、まだこの船戸与一さん畢生の、ライフワーク作品を黙々と読み続けているのだった。

『満州国演義』は日中戦争時代を生きた四兄弟の物語である。

船戸与一作品はガキガキのハードボイルド路線で、ラストは主人公以外、皆全滅か、主人公もろとも登場人物全員死亡、というパターンが殆どで、とても正気でいられない読後感が、何とも言えない。

もちろん『山猫の夏』とか『夜のオデッセイア』など、凄惨ながらも滅茶苦茶爽快な読後感を抱けるものもあるのだが、今まで読了出来得た作品群から鑑みれば、少数派と言える。

台詞回しに独特のくせがあり、その事で批評家の意見がばっさり割れてる、と勝手に思ってるのだが、めちゃくちゃザックリ描かれるのだ。本作もそうだ。ついでに、主人公四兄弟の名は、一郎、二郎、三郎、四郎である。

わかりやすいが、えっ、それでええのん? と美食家的読書家は絶対思うはず。しかし、それは決して適当にネーミングしたのではないことに、六巻ぐらいまで読んだ時点で気づいた。

この四人は日中戦争を演義ものとして物語化するために、極めて記号的に組まれた駒なのだ。一郎が外交官、二郎が馬賊、三郎が憲兵、四郎が映画会社の社員と、四方向の視点から立体的に「戦争」が描かれる。

狂言回し役として頬に傷がある男、関東軍特務機関の間垣徳蔵が、局面が変わるごとに登場し、物語の横糸をかがっている。

そして歴史上実在する人々は主人公たちの、伝聞の形で登場し、それらは影、黒塗りの人形のように背景に出てくるのみで、主人公四人と間垣だけがモノクロの舞台にカラーで登場し、動く。そんな舞台装置で演義が進行するのだ。

六年もだらだらと読んでいると、もう永遠に終わらないでいいやん、というモラトリアムな気持ちになってくる。しかし、船戸さんは何処かの雑誌のインタビューで「現代情勢への警笛として、この泥沼の戦争を書きたかった」という意味のことを訴えておられた。

その記事を思い出すにつけ、この緊迫する現在においては、やはり読破せねば、と仕切り直しの気持ちになるのだった。

これだけ長々と書いておいて、図書館から五年半も借り続けで、というのは悪いので ……すみません、次の賞与支給日に文庫版で、全巻買わせていただきます。(おわり)

◎永遠凝視者

フランス人・ルイブライユが発明した六点表記法によって、日本語点字も六点の凸(突起)の組み合わせで表せる。

一桝に六点、さいころの六の目の右上から下にかけて第一点・第二点・第三点、左上から第四点・第五点・第六点と定められ、一,二,四点の組み合わせで母音、三,五,六点の組み合わせで子音を表し濁音、半濁音、拗音、拗濁音、拗半濁音は六点×二桝で表現される決まりである。

読む人は凸面から、書く(打つ)人は凹面からの読みをまず習うが、凸面からも凹面からも同表記の字がある。一,二,四点でエ段、三,五,六点でマ行を示す、「め」である。

点訳者が催事などで点字板を打つ速さを競う目打ち競争は、「め」をひたすら打つ競技である。一分間に、小さい点字枠に点筆で「め」を何桝打てるか? というゲームだ。

目目目目…

慣れた点訳者はダラララと心地よい打音で「目」を量産していく。

もう一つ、凸面からも凹面からも同じに読める字がある。一,四点でウ段、三,六点でハ行を示す「ふ」である。目打ち競争で延々と打ち込まれる「め」に対して、「ふ」は話題にもならない。


【海音寺ジョー】
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