Otaku ワールドへようこそ![323]パンツから垣間見える、生命体の内部平衡状態維持の原理
── GrowHair ──

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夜10時過ぎ、通勤電車のドアが開くと、素足に短いスカートを穿いた女性が乗ってきた。空席はまばらにあるけど、あの短さだと気にするのではなかろうか。と思っていたら、真正面に座った。

おお! まぶしい白! 神々しき逆三角形!

20代後半ぐらいか。顔立ちはそれほどではなく、まあまあふつう。ケータイの画面に見入っていて、まわりのことなどまったく気にしていない。

気前がいいのはいいんだけど。私の頭の中はクエスチョンマークだらけ。今の日本だと、ここまで無頓着な人って、ほぼ絶滅してるよね?

数年前の中国だと、何につけ、公共の場では身だしなみや振る舞いをきちんとすべし、という世間からの圧力が限りなく希薄で、笑っちゃうほど警戒の甘い人を割と頻繁に見かけた。おっさんはおっさんで、いわゆる「北京ビキニ」になってるし。

そういう文化圏から日本に来たばっかりなのだろうか。持ち物やファッションや仕草の中に、外国人を示唆するものはないだろうか。ないか。





見えたと思ったのはこっちの目の錯覚で、実は、短パンみたいなのを重ね穿きしているのだろうか。よくよく目を凝らして生地の肌理まで観察できれば、下着か短パンかの見分けがつくだろうか。あるいは、精密なカメラで肉眼よりも高精細な写真を撮ることができれば、後で引延ばして調べられるかもしれない。

ひょっとして、社会実験か何かで、ケータイに気を取られているフリをしつつ、実は、向こうからもこっちを観察してるんだったりして。身を挺して卒論を書いてる社会学部生か文学部生とか?

この電車の終点の駅が近づいてきた。私は荷物に手をかけつつもなかなか立ち上がらず、ちょうど停車したタイミングで立ち上がった。すると、向こうもまったく同じタイミングで立ち上がった。

別々のドアへ向かう。私は、シートの位置からは近いけれども、方向は階段から遠くなるほうへ。その人は、近道のほうへ。そっちが合理的だったか。

私がその人の後ろを歩き、下り階段へ向かう。しかし、その人は非常にゆっくり歩いている。

声をかけようか、という気もほんの少し起きはした。しかし、この場面で何を言っても不適切な感じがした。「気前がいいですね」とでも言ってみればよかっただろうか。黙って追い越し、改札へ向かった。

今になって、やっぱり声をかけてみるべきだったかと後悔している。疑問に対して、答えが得られたかもしれないではないか。シャイな私だが、今度、同じような場面が生じたら、がんばってみよう。

●可能なケースからなる事象空間を眺め渡す

こんな話を引っ張りに引っ張って一回分のネタにするのは恐縮だが、もう少しじっとり、いやいや、じっくりと考察してみよう。

いま、私が置かれている状況を、一段抽象化したモデルで記述しなおしてみると、およそ次のようになろう。

見知らぬ他人Aさんについて、外見的な視覚情報だけが、私にとって入手可能な情報のすべてである。自分からの能動的なはたらきかけを伴わない、一方的な入力情報である。

Aさんはきっと、ある価値観や行動基準(かくかくの状況下では、しかじかの行動をとるべし)や嗜好や知識の集積を内部に保持しているはずである。これらをひっくるめてAさんの内部価値体系と呼ぶことにしよう。

Aさんの内部価値体系とAさんの外見との間には、前者から後者への緩い因果関係があるものとみてよかろう。例えば、仮に、Aさんが派手なファッションを好みにしているのだとすれば、ある任意の時点におけるAさんの服装は派手である確率が、一般の人々の平均値よりも高かろう、といったことである。

この抽象モデルにおいては、Aさんの内部価値体系からAさんの外見への確率的な因果関係がある、という設定にしておこう。

さて、先ほど、私にとって知ることが可能な情報はAさんの外見情報に限られるという制約を設けておいたので、私がAさんの内部価値体系を知りたいと思っても、それを直接的に知る手段は存在しない。

この制約の下で、私はAさんの外見を手掛かりにして、Aさんの内部価値体系について、可能な限りよい推測をしたい。このとき、どんな方法で推測すれば、どこまでよい推測結果が得られるだろうか。これが、この際の問題設定である。

これは、結果の情報を手掛かりにして、原因を推測する問題であると言える。仮に私が、どんな原因からどんな結果が生じるかについての確率分布を正しく知っていたとしても、結果からさかのぼって原因を推測するのは、自明なことではない。

とは言え、このような設定の問題はすでに解かれていて、答えが提示されている。そのことは、前回、みてきたとおりである。その答えとは、「ベイズの定理」(あるいは「ベイズの反転公式」とも呼ぶ)である。

『「自由エネルギー原理」: 脳はどうやって外界のことを知るのか』
https://bn.dgcr.com/archives/20200131110100.html


Aさんの内部価値体系がどうなっているかについての推測情報は、この問題を解いた結果として得られるべきものであるから、解く前の時点においては、まだまったく何も分かっていない状態であると考えるべきである。

なので、ここでは、どの程度正鵠を射ていそうかという評価をいっさい削ぎ落として、可能性が少しでもあるケースについて、淡々と列挙していくことにしよう。

人に身に着けられた下着がどのようであるかという情報は、それを身につける者に帰属するプライベートな情報であるから、身につけられた状態のそれを、公共の場においてむやみに露出すべきではないとする考え方がある。たぶん。

私の感覚では、この考え方は、現時点において、日本人の少なくとも8割以上によって共有されており、なおかつ、「その通りである」と支持されているように思う。これをもって、日本における社会通念として成立しているとみなしてよいのではないだろうか。

もっとも私は、日本人全員に聞いて回る全数調査を実施したわけではないし、無作為抽出による標本調査を実施したわけでもないので、ぜったいに確かな前提としてよしとは言い切れない。私個人のまったくの思い違いである可能性もあるにはある。しかし、ここでは、いちおう、よしとしておきたい。

そうすると、まず、二つのケースに場合分けすることができる。[ケース1]は、Aさんがこの社会通念について知らないというものである。[ケース2]は、知っているというものである。両者は排他的であり、
なおかつ、網羅的である。つまり、両方を兼ねるケースはありえないし、どちらでもないというケースもありえない。

[ケース1]として、例えば、Aさんはそのような社会通念のない国で生まれ育っており、日本に移住して間もないため、日本にそのような社会通念があることにまだ気づいていない状況であることが考えられる。

このとき、座って楽な姿勢をとることによって、結果的に下着が見えているが、本人はそのことを別におかしなことだとは思っていない。

その可能性の多寡を評価することは、ここではしないことにしているので、少なくとも論理的には筋が通っていることをもって、ありうるケースとして、数え上げておくことにする。

あるいは、時間と空間は同一でありながら、そのような社会通念のないパラレルワールドから何かの拍子にこっちの世界へ瞬間移動してきたが、本人はまだそのことに気づいていないというシナリオがありうる。

[ケース2]において、A さんは社会通念について知っていることになっているけれど、その中で、場合がまた二つに分かれる。[ケース2 - 1]は、Aさんがこの社会通念に同調しないことを意図的に選択している、あるいは、無頓着であるというものである。[ケース2- 2]は、同調しているというものである。

[ケース2- 1]として、例えば、Aさんは、この状態でかまわないのだという主張をもって、意図的に見せていることが考えられる。そう言えば、小学校5~6年のとき、同級生にK瀬S子という女の子がいた。いつも短いスカートを穿いていて、階段を昇るときにも隠そうとせず、丸見えになっていた。

本人に聞くと、自然な動作の結果として見えるのであれば、パンツまでは見せてよいものと考えている、とのことだった。目の前でめくってよく見せてくれ、と頼んだら、断られたが。ポリシーをもってそうしているのであれば、それはそれで、たいへん好ましい。「見えてますよ」などとわざわざ言ってやるのは野暮ってもんである。ただ、あれから45年経っても、よくパンツが見えていた子として語り草にはなっている。

[ケース2 - 2]において、社会規範について知っていて、なおかつ、同調していることになっているが、その中で、場合がまた二つに分かれる。[ケース2 - 2 - 1] は、Aさん本人は対策済みであると認識しているというものであり、[ケース2 - 2 - 2]は、そのように認識していないというものである。

[ケース2 - 2 - 1]として、たとえば、実は、短パンや見せパンなどを重ね穿きしているので、隠すべきものはちゃんと隠れている、ということが考えられる。

[ケース2 - 2 - 2]として、例えば、事故で見えていたことが考えられる。ケータイの画面に気をとられて、注意がおろそかになっていたとか。あるいは、本人の認識では、きっとこの角度では見えないだろうと思っていたら、実は計算違いで見えちゃっていた、とか。あるいは、見ようとしている人など誰もいないだろうと油断していたら、実はいた、とか。

いま、4通りのケースを挙げた。参照する際の名称を振りなおそう。
[ケース 1] → [ケース A]
[ケース 2 - 1] → [ケース B]
[ケース 2 - 2 - 1] → [ケース C]
[ケース 2 - 2 - 2] → [ケース D]

まとめると、次のようになる。
[ケース A]: 社会規範について知らない。
[ケース B]: 知っているが、同調しない。
[ケース C]: 知っていて、同調するが、対策済みと認識している。
[ケース D]: 知っていて、同調するが、対策済みと認識していない。

さて、どれが正解かを特定するに際して、いま仮に、手掛かりとなる情報がまったくない状態であるとしよう。このとき、どのケースも均等な確率で起きうると考えることに、ある種の妥当性があろう。

いま、[ケース A]が起きる確率を p([ケース A])と表記し、以下同様とすると、均等に割り振られた確率はそれぞれ次のようになる。
  p([ケース A]) = 1 / 4
  p([ケース B]) = 1 / 4
  p([ケース C]) = 1 / 4
  p([ケース D]) = 1 / 4
ここで、「1 / 4」とは「4分の1」という分数のことであり、「25%」と表記しなおしても同じ量を表す。

起こりうるすべてのケースを列挙して、それぞれのケースに対して、それが起きる確率を割り振ったリストを「確率分布」と呼ぶ。おのおのの確率は非負(つまり、正またはゼロ)の値をとり、なおかつ、すべての確率の合計は1になっていなくてはならない。上記は確率分布のあるひとつの例になっている。

●エントロピーはどうなっているか

一般に、確率分布が与えられると、その確率分布に応じて「エントロピー」と呼ばれる量が定義される。起こりうるすべてのケースに対して、それぞれの起こる確率の値が具体的に与えられているならば、定義式にそれを代入することにより、エントロピーの具体的な値を算出することができる。

上記のように4通りのケースがある例では、エントロピーHは次の式で定義される。

  H = - p([ケースA]) log(p([ケースA]))
      - p([ケースB]) log(p([ケースB]))
      - p([ケースC]) log(p([ケースC]))
      - p([ケースD]) log(p([ケースD]))

ただし、log() は対数関数であり、対数の底としては2を選択しておこう。

エントロピーという量は、いったい何を表しているのであろうか。一般には、「乱雑さ」であると説明されることが多い。これについては後ほど、もう少しよく考えてみよう。

さて、確率分布が均等の場合、つまり、いずれのケースについてもそれが起きる確率が1/4である場合について、エントロピーHの値を計算してみよう。上式の確率 p() のところにすべて 1 / 4 を代入することで、

  H = - ( 1 / 4 ) log( 1 / 4 )
      - ( 1 / 4 ) log( 1 / 4 )
      - ( 1 / 4 ) log( 1 / 4 )
      - ( 1 / 4 ) log( 1 / 4 )

が得られる。途中の計算は省略するが、結局、

  H = 2

となる。

さて、いま、何らかの情報が得られて、確率分布が変化したとしよう。例えば、よくよく目を凝らしてみたら、三角地帯の表面は、なんだかごわごわした厚ぼったい布のようなしわが寄っており、どうやら短パンなのではなかろうかという可能性が高まったとしよう。仮に、確率分布が次のように修正されたとする。

  p([ケースA]) = 1 / 5
  p([ケースB]) = 1 / 5
  p([ケースC]) = 2 / 5
  p([ケースD]) = 1 / 5

つまり、[ケースC]である確率が高まり、それ以外のケースに対する確率が減ったという状況である。

この確率分布に対して、エントロピーHの値を計算しなおしてみよう。

  H = - ( 1 / 5 ) log( 1 / 5 )
      - ( 1 / 5 ) log( 1 / 5 )
      - ( 2 / 5 ) log( 2 / 5 )
      - ( 1 / 5 ) log( 1 / 5 )

計算すると、

  H ≒ 1.921928

が得られる。先ほどは 2 であったのが、減っている。その減少分をΔ H と表記することにする。この三角は「デルタ」と読む。その値は

  ΔH ≒ 2 - 1.921928 = 0.078072

である。このように、エントロピーは単純に足したり引いたりしてよい量である。「ごわごわなテキスチャ」という獲得情報の価値の大きさがすなわちエントロピーの差分 Δ H であり、それの量は 0.078072[ビット]であった、ということである。

さて、さらによくよく目を凝らして見てみたら、はっきりと形状が見えてしまい、これは間違いなく短パンだった、ということになったとしよう。このとき、正解は[ケース C]だったと確定し、確率分布は次のようになる。

  p([ケースA]) = 0
  p([ケースB]) = 0
  p([ケースC]) = 1
  p([ケースD]) = 0

このとき、エントロピー H の値を求める式は、下記のようになる。

  H = - 0 log( 0 )
      - 0 log( 0 )
      - 1 log( 1 )
      - 0 log( 0 )

0 log(0)という形は、一般には不定形だが、エントロピー計算においては、これの値は 0 であるという約束事を設けておく。そうすると、

  H = 0

を得る。

何も分からない状態におけるエントロピーHの値は2であった。起こりうるケースが4通りの場合、実は、さまざまな確率分布に対してエントロピーHのとりうる値の最大値は2である。この値をとるためには、確率分布は均等なものに限られる。

何らかの情報が得られて、可能性が少しでも絞り込まれるとHの値はその情報量に応じて減少し、すべてが分かって可能性がひとつに確定するとゼロになる。Hの値は、ゼロよりも小さくは決してならない。

つまり、エントロピーとは、分からなさの度合いである、とみることができる。

机の上が散らかっていると、「爪切りはどこへ行った?」などと探し回る羽目に遭う。いちばん情けないのは、まったく情報がなく、どこから出てくる確率も均等である状態である。このとき、エントロピーは最大値をとる。

机の上が片づいていれば、爪切りは定位置にあるはずであり、一瞬にして見つけることができる。このとき、確率的な不確定さはまったくなく、エントロピーの値は最小値ゼロをとる。エントロピーが乱雑さの指標であると言われるゆえんである。

私が三角地帯を凝視することによって何らかの情報を得て、少しでも可能性を絞り込もうとする行為は、自己の内部で保持している確率分布を変化させてエントロピーHの値を下げようとすることに相当する。

われわれ生命体は情報を食って生きている。食った情報を消化して自己内部のエントロピーの値を減少させるためには、外からエネルギーが供給されることがぜったいに必要である。そのために、ついでにメシも食う。三度のメシよりパンツだ。

カール・フリストンの提唱した「自由エネルギー原理」によれば、「エージェント vs. 環境」のモデルにおいて、エージェントが自己の内部のエントロピーを下げようとする働きは、「変分自由エネルギー」F の値を下げようとすることと同等である。

変分自由エネルギーFの値を下げるとは、定性的に言い換えれば、次のようなことであると述べている。「いかなる自己組織化されたシステムでも、環境内で平衡状態でありつづけるためには、そのシステムの(情報的)自由エネルギーを最小化しなくてはならない」というものだ。

また別の表現では、「適応的なシステムが無秩序へ向かう自然的な傾向に抗して持続的に存在しつづけるために必要な条件」とある。

「自由エネルギー原理」の根本思想について、お分かりいただけたであろうか。三角地帯を凝視して情報を得ようとすることは、熱力学の第二法則によってエントロピーの値を上昇させようとする環境からの同化圧力に抵抗して、自己の内部のエントロピーを下降させようとする努力に相当する。

これは、自己の内部の安定性を保ち、自己存在を持続させるのに必要な、実に合理的な行為だったということである。デルタエッチを獲得するのは、生きるために不可欠なことなのである。

●直感が提示してくる「正解」を盲目的に信頼できる不思議

いま、Aさんの内部価値体系がどうなっているかについて、4通りの可能性を列挙した。そのうちのひとつだけが正解であることは間違いないとしても、高い確信度をもってその正解を特定するに足るだけの情報が、私の側に獲得しきれていないので、私にとって正解は不明である。

このとき、すでに獲得できている少ない情報を有効に活用して、できるだけよい推測をせよ、というのがもともとの問いであった。

それに対し、「そんなの、直感を働かせるなり、常識を動員するなりすれば、分かるじゃん。正解は明らかにこれでしょ」と決めてかかる人がいるかもしれない。

実際、「そういう場面では、自分のハンカチを取り出して、その人の膝に掛けてあげるのがよい」と言った人がいる。うわぁ。その発言が出たということは、正解は[ケースD]、すなわち、隠しているつもりだったのに、事故で見えてしまっている、以外にありえないと確信しているのであろうか。

[ケース A ~ C]に対してこの対応ではちぐはぐだ。[ケース A]なら、何をされたのか意味が理解できないであろう。[ケース B]なら、余計なお世話というものだ。[ケース C]なら、バカじゃねーの、となる。直感や常識を頼りにして正解はこれこれ以外にないと決めてかかる考え方は、私をたいへん不安にさせてくれる。

繰り返すが、いま、私が置かれているのは、自分の側に取得できている情報が不足しているために、論理的には、確信をもって正解が特定できない状況である。これは、一種の宙吊り状態である。不安定きわまりない。不安感がつきまとって落ち着かず、別のことへ関心を移すことができない。できるだけ早く正解を獲得して、緊張状態を解消したい。ここまでは、私も同意できる。

その緊張解消の手段として、直感だか何だかを動員することで、正解が分かったかのようなつもりになって、一丁上がり、という片づけ方をするのは、しかし、どうなのだろう。そのやり方で安心が得られるという人に対しては「どうぞご自由に」としか言いようがないけれど、自分がその方針をとるかとなると、どうにも抵抗がある。

だって、本当は正解が分かっていないのに、分かったつもりになっているだけの、ただの思い込みにすぎないではないか。その錯覚に気づいちゃうと、不安が解消されるどころか、かえって増幅されてしまう。

私だったらどうするか。まだ複数の候補が残っていて、十分に確定的なところまで絞り込みきれていないという今の状態を積極的に意識化し、この宙ぶらりん状態を丸ごと風呂敷に包んでアーカイブ化する。これで不安が解消するわけではないが、風呂敷包みをほどけば、いつでも今の状況が再現できることをもって、問題を塩漬けにしておける。

どれが正解かという判断を、現時点では保留にしておく。いつか答えが分かればよい課題として、先延ばしにしておく。これをもってこの問題を一旦棚上げにして、関心を別のことへ移す。

ここに、人間の分水嶺がある。目の前にある、正解が分からない問題について、思い込みで分かったつもりになって、即座に不安を解消するか。分からないということを認めて、問題を棚上げにし、解決を未来に託すか。私の感覚だと、どうも、95%以上の人は、前者に属するような気がする。

こっち側からそっち側をみると、うっわぁ、安直だなぁ、と思えてしまうのであるが。そっち側からこっち側をみると、私の論などは、もともと答えが自明な問いを取り上げて、わざわざ変な理屈を貼りつけてこねくり回している、無意味な思弁遊戯にすぎないとしか映らないのかも。ふぎゃあ。

そっちの側に立つ限り、ベイズ脳仮説とは、いったいどんな問題を解決しようとしているのかという根本的なところで、まったく理解できないかもしれない。分からないことを分からないと分かることによってしか、話は始まらないのだ。

論理的に考えて正解が確定できないはずの状況下で、直感的に正解が見えるような気がするとき、おそらく、脳の無意識側がなんか仕事をしている。

脳の無意識側は、全力をあげて、意識側をだまそうとしている。だます、というのは、正しくないことを正しいと信じ込ませようとする、悪辣な詐欺みたいなことではなく、情報を総合的に編集し、ストーリー立てして、一種のショーのような完成形に仕立て上げ、意識という観客に分かりやすく鑑賞させてくれるのである。

その際、鑑賞の邪魔になる情報は意識側に見せないようにカットするし、逆に、足りない情報は平気ででっち上げたりもする。

意識側は、見えない舞台裏で無意識側がどんな情報操作をしているか見破ってやろうとの疑いの姿勢でショーを眺めることは、通常、しない。無意識側の手によってショーに仕立て上げられた情報を意識側が「分かりやすく編集してくれてありがとう」と受け取るのであれば、実際の役割分担や協力関係を正しく反映していて、好ましい。

しかし、もし無意識の働きなどあたかも存在しないかのごとく思い込み、意識側がすべて自力で外の世界をありのままに眺めているのだと錯覚しているのだとしたら、それは無意識側にまんまとだまされている。

まあ、例えば、眼球のサッカードなどは、決して意識にのぼらないよう、うまい仕組みになっているのであって、いま見えている景色が編集結果だと気づくことができないのも、いたしかたないことだとは言える。無意識側がせっせと仕事をしているのが見えてしまう、というのは、コロボックルが見える、みたいなことで、案外、特殊な能力なのかもしれない。

もともとの問いは、次のようにも焼きなおせる。もし、あなたが、直感的に正解が分かるじゃん、と思っているのだとしたら、無意識側がいったいどんな計算過程を経てその結論を導き出したのか、それを明示してください、と要求しているのである。

「直感で分かるじゃん」は答えになっていない。そんな便利な直感というものを、コンピュータなどの人工物に搭載しようとするならば、いったいどういうふうに設計すればよいだろうか、と問いなおしてみれば、いよいよ答えに窮するであろう。

●いろいろ受け取り損なっているかも

多くの人々が感覚的に了解しあっていることを、私は論理で理解しようとして空回りに終わる、そんな概念が他にもいろいろありそうだ。暗黙のメッセージをずいぶんたくさん受け取り損なっているかも、という気がしてきた。

下着というものは着用者のプライベートな領域に属するものであるから、むやみに公共の露出に供するべきではない、という社会通念が日本にはあるようだ、と述べた。多くの人々がその内容を支持しているようではあるけれども、その支持したくなる指向はいったいどこから湧いてくるのか。

私の場合、根拠がはっきり示されれば、支持しようとの気持ちが湧いてきそうではあるのだが。ではそこに普遍性はあるのか、となると、どうもよく分からない。

数学の場合、まず公理系を取り決めておくと、そこから論理を道具として用いて演繹することで、種々の定理を導くことができ、数理体系が構築される。社会通念もそんな構造の上に成り立っていたら、ありがたいのに。

まず公理系のごとく、社会運営の原理原則が明示的に取り決められており、そこから演繹的手段によって、あらゆる社会通念が導き出される。もし、そういう構造になっていれば、すべてに整合性がとれていて、きっと理解しやすいのに。実際にはそうなっているような感じがしない。

下着不露出の社会通念は、根拠があるのだろうか。多くの人々に支持されているけれども、しかし、本当のところ、その本質は、社会全体にわたって人々に共有された集団幻想だったってことはないだろうか。

世界の僻地まで探し回れば、どこかの国か地域では、そんな社会通念が存在しないかもしれない。街を小一時間も散歩すれば、いつだって、20回ぐらいはパンツが露出しているのが自然に目に入ってくる。みんなそれがあたりまえだと思っていて、特段気に留めてもいない。

それで社会秩序が乱れることもなく、平常運転で回っている。だとしたら、下着不露出の社会通念なんて、まったくの無駄な縛りだったってことになり、今すぐにでも撤廃してよいのではないだろうか。

あるいは、手のひらサイズのカメラつき通信デバイスが普及しているなどの文明事情に応じて、この社会通念が意味あるものとして定着してきたのかもしれない。

あるいは、試しに緩めてみたり、うっかり露出したときに、何らかのものすごく不快なリアクションに遭っており、そこから学習した結果なのかもしれない。だとしたら、論理的根拠を伴わない集団幻想だったとしても、それを遵守することには、ある種の合理性があったってことになる。

あるいは、パラレルワールドにおいて、一時的にその社会通念なしに回っていたとしても、結局は漸近的に寄ってきて収束してしまう、吸引性の平衡ポイントなのかもしれない。

そういうところが、私には分からない。分からないけれども、だからといって、わざわざ反論するほどのことでもないし。もし、反論したらしたで、今度は、こっちの言わんとすることが相手に決して伝わらないような気がしてくるし。

分からないなりに、同調しているフリをして場をやり過ごすのが、平和だし、安全だし、簡単だ。世の旦那のカミサンに対する気持ちって、だいたいこれではないか。

あと、これを言われたら、どうしよう。「そうやって理屈っぽいこと言ってごまかしてるけど、ホントは見たいだけなんでしょ、このドスケベ!」。

ええと...。そういう要因がゼロだとは言いませんが、もしそれがすべてだとしたら、ここまでの議論はいったい何だったのでしょう。「スケベ心を隠蔽しようとしてインテリぶってるだけの、見え透いた屁理屈でしょ」。

あー、仰せのとおりでございます。バレてましたか。どうもすみません。


【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
セーラー服仙人カメコ。アイデンティティ拡散。
http://www.growhair-jk.com/


《 人面瘡 》

左脚の大腿部に昔の女の顔が現れて、ぎゃーすかぎゃーすかやかましくてしょうがない。除霊してもらってきた。……ではなく。

2月3日(月)の朝、皮膚科へ。本当のホラーはここからだった。局所麻酔を打たれるが、「組織が死んでいると効きづらいかもね」。膿みを除去される。うおおお、痛ててっ! なるほどぜんぜん効いてねぇ! オレがいったい何したってんだー。

細菌が入り込んでいるのは間違いないけど、その種類を特定したいという。それに応じて効く抗生剤を出すとのことで。組織のサンプルを提供。培養して、調べてくれるそうで。とりあえず、あてずっぽうの抗生剤を処方される。

空洞に詰め物をされ、厚いガーゼがかけられ、幅の広いテープを3本貼られて全体が覆われる。翌日までそのまま。

4日(火)の朝、再び皮膚科へ。どうせ効かない麻酔など、打ってもくれない。空洞の中から詰め物を除去される。痛ってぇ! 針なし注射器で空洞の中を洗浄される。痛ってぇ! 空洞を残したまま表面がふさがると、後で再発する恐れがあるとのことで、幅5mmほどの長いガーゼの帯をピンセットで空洞に丸め込まれた。どわっ! 痛っっってぇー! 前日と同様に覆われる。

夜、ウチに帰ってから、自力でガーゼを引っこ抜く。「必ず抜けますから」の言葉を信じて引っ張るけど、猛烈強烈に痛い。毎分1cmぐらいの超低速でそろりそろりと。んぐぐ……。

6日(木)の朝、再び皮膚科へ。麻酔する気なし。表面がふさがっているのをメスでぐるりんと円錐状にえぐられ、貫通。ぐはっ。洗浄とガーゼの帯詰め。

相変わらず腫れてるんだけど、これ、少しは快方に向かっているのか? 抗生剤を別なのに差し替えられる。夜、ウチでガーゼを引っこ抜く。

7日(金)、8日(土)も同様の流れ。土曜は院長が休みで、女性医師の方。「空洞がふさがってきていて、ガーゼがもうあんまり入りませんね」と言いながら、ぐいぐい押し込んでくる。痛ってぇーーー!

夜、引っこ抜いてみれば、いつもより長く入っているではないか。容赦ねぇな。

2種類目の抗生剤はそれなりに効いているようで、腫れが引いてきている。

10日(月)、検査結果が出ていた。2種類のやつに侵入されてた。
(1)Staphylococcus aureus(MSSA)(黄色ブドウ球菌)
(2)G群溶血連鎖球菌

どちらもありふれたやつで、常在させてる人もよくいるようだが。睡眠不足や飲みすぎなどで免疫力が弱ってくると発症するようだ。(2)は劇症化するとたいへんなやつ。いわゆる「人食いバクテリア」。

この細菌に対して、ガーゼを詰めておく必要はないとのことで、今回は、ガーゼをねじ込まれず。ぶっ。

2種類目の抗生剤は(1)には効くけど(2)には効きが弱いとのことで、両方に効く3種類目の抗生剤を処方される。だいたい収束が見えてきた。

諸君! 別れるときはきれいに終わらせておかないと、ほんっとに恐ろしい目に遭うぞ。