[4956] 「音と形」と「科学と哲学とアートの結婚と離婚と再婚」

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《哲学は一度サナギになって変態したらどうだ》

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「音と形」と「科学と哲学とアートの結婚と離婚と再婚」
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「音と形」と「科学と哲学とアートの結婚と離婚と再婚」

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http://bn.dgcr.com/archives/20200220110100.html
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●見ても聞いても美しい

デジクリの2020年1月28日(火)配信号で、武盾一郎氏は次のように述べている(要約)。

音楽と絵を結び付ける点が星のようにチラチラとあるけれど、そこに星座を見付けたい。1)見えない 2)楽曲とは限らない 3)聞こえるとは限らない、という私の音楽観を視覚化した作品を「線譜」と呼んでいる。

音が形と結びつく例として、妖怪、クラドニ図形、リサージュ図形などを挙げている。

『音と形の関係を追いかける!』
http://bn.dgcr.com/archives/20200128110200.html

この例はどうだろう。武氏へのお土産。

2020年2月16日(日)7:00pm~9:00pm、恵比寿の「NADiff a/p/a/r/t」一階にて、「第28回AI美芸研」が開催された。
https://www.aibigeiken.com/research/r028.html

この回は、『人工知能美学芸術展 記録集』が出版されたことを記念して開催される第2弾だ。この出版物については、イベントのウェブサイト上で、下記のように紹介されている。


「人工知能美学芸術展」は、人工知能美学芸術研究会(AI美芸研)と沖縄科学技術大学院大学(OIST)が主催し、ゲーテ・インスティトゥート東京ドイツ文化センターと協働して、2017年11月3日(金)から2018年1月8日(月)までの67日間、OISTにて開催した展覧会の名称である。同展は人工知能(AI)をテーマとした総合的な芸術展で、34項目の美術展示のほか、4つの音楽コンサートや8回の研究シンポジウムを含み、美学という観点
を前面に打ち出した大規模な展覧会としては世界初であった。本書はAI美芸研が2019年に最新の知見を盛り込み編纂した、日本語と英語のバイリンガルによる同展の記録集である。B4判/176頁/カラー図版多数/定価5,000円+税/編・著&発行:AI美芸研


OIST でのイベントの中で、2017年11月5日(日)に『コンロン・ナンカロウのロール紙自動演奏ピアノコンサート』が開催された。

楽譜に相当するのはパンチ穴が空いたロール紙で、これを自動演奏ピアノに食わせると、ピアノが自身を弾く。音が出る仕組みはふつうのピアノと変わりなく、あたかも透明人間が弾いているかのごとく、鍵盤が押下される。

自動演奏の模様は、YouTubeに動画が上がっている。


さまざまな点で、人間の演奏を超越している。超絶速いテンポで演奏できる。手幅と指の本数の制約を受けることなく、離れたキーでもたくさんのキーでも同時に押せる。長さが√2拍のような無理数の時間を表現できる。正確な等比数列でテンポを加速していける。

五線譜で記述可能な楽曲範囲の限界を、ロール紙が超えている。作曲家コンロン・ナンカロウ氏(1912-1997)は自動ピアノ向けに、ロール紙で作曲した。

今回のイベントでは、ナンカロウ氏の奥様である杉浦洋氏が登壇した。トークの中で、中ザワヒデキ氏が次のように発言した。「ロール紙に空けられたパンチ穴の配列は視覚的にも美しかった」。聞いた私の頭の中で、武氏のコラムとこの発言とがスパークしあった。

げげ。それは見てみたかったぞ。私は二度、OISTに行っているが、その回には参加しなかったのだ。音楽はズブのド素人だしなぁ、と。

美しいものは、見ても聞いても美しい。聞いてびっくり見てびっくり。あらゆるビット列パターンを入力とし、美しさの度合いを表す実数値を出力とする評価関数が人間には備わっており、音を表すビット列であれ、形を表すビット列であれ、同じ音楽を表しているのであれば、評価値は一致する。とか?

脳は神経の先につながっているのが、目であるか耳であるかをあらかじめ知っているわけではないのだから、見る聞くよりも、ビット列の評価のほうがプリミティブ(原初的)なのかもしれない。

ビット列とは、0と1とがひたすら並んでいる列にすぎない。その列の中の0と1との組成のしかたいかんで、美しかったり醜かったりするものなのか。ビット列の美しさとは、圧縮のしづらさにあるのではないかと私は思っている。

長いビット列でも、その中身がすべて0だったら、「全部ゼロ」という短い表現で置き換えても同じビット列が表現できる。ほかにも、「0と1が交互に現れる」とか「00101のセットがずっと反復する」とか。こういうビット列はつまらない。生気が感じられない。

フラクタルな文字列は少し面白い。例えば、次の27文字からなるビット列を考えよう。

111111111111111111111111111
これの中間の9文字を0で置き換えよう。
111111111000000000111111111

9文字の1の列が2か所にあるが、両方とも中間の3文字を0で置き換えよう。
111000111000000000111000111
3文字の1の列が4か所にあるが、両方とも中間の1文字を0で置き換えよう。
101000101000000000101000101

こうやって作った文字列は、粗密にメリハリがついて、生きた感じが少ししてくる。しかし、この置き換え規則そのものを言葉で表現してしまえば、圧縮可能である。なので、まだつまらない。

まったくランダムな文字列は、たしかに圧縮しづらい。しかし、それは、別のランダムな文字列に置き換えたとしても、価値は大して変わらない。そのように、圧縮・伸長した結果、完全に元に戻らなかったとしても、価値がだいたい同じであればよいという非可逆圧縮を許せば、「0と1のランダムな文字列」と表現できてしまう。これまたつまらない。

どのような観点からも圧縮を許さない文字列というのは、個性をギンギンに放射するような気がする。大きく見ても粗密にメリハリがあり、細かく見ていってもメリハリの中にまたメリハリがあり、さらに細かく見ればさらなるメリハリがあり、と階層化されていて、なおかつ、それらのメリハリに規則性がないような形。規則と不規則の中間。

こういうのを心地よく感じる評価関数が、人間の中に備わっているのかもしれない。

その評価関数は、ビット列から実数値への関数なのであるから、人間の脳によってしか体現しえないと決まったものではなく、もしかしたら、外部に引っ張り出して、数式的に表現可能なものであり、コンピュータでも計算可能なものであるかもしれない。ビット列にも美しいやつとそうでないやつの区別があり、その主観は客観化可能である、と。

鑑賞する主体側が下す美醜判定によって認定された美は、鑑賞者が誰であるかに依存した相対美であるのに対し、鑑賞される客体側の属性として備わった美があるのだとしたら、それは計算可能な絶対美。人が判定しても機械が判定しても同じ美。

ここまでの考えがもし合っていて、その評価関数が解明されてきたならば、中ザワヒデキ氏の「AI美学・AI芸術」の思想はいよいよ現実味を帯びてくるかもしれない。

●科学と哲学とアートの結婚と離婚と再婚

デジクリの2020年2月18日(火)配信号で、武盾一郎氏は次のように述べている(要約)。

意識の謎について哲学側から突破するのは、ちょっと無理っぽい感じがする。乱暴に言うと「哲学は現象学が出て突破口を切り開いたけど自ら崩壊した」印象がある。科学と哲学の議論のかみ合わなさについては、「谷村ノート」の例もある。そもそも「科学」とは「哲学」の中の一つだったのに、どうしてこうなってしまったのか。そして、「アート」には何ができるのか?

『音楽と意識と絵』
http://bn.dgcr.com/archives/20200218110200.html

私は、『科学と技術の離婚』と題する講演を2月16日(日)に聴講したばかりだった。約300年前、「科学」が「自然哲学」から独立した。相性のよかった「アート」と「技術」が産業革命で疎遠になり、「科学」と「技術」が結婚した。しかし、今、両者は離婚しそうな雲行きで、「アート」と「技術」が再婚するのではあるまいか、という内容。講演者は高橋恒一氏(理化学研究所、全脳アーキテクチャ・イニシアティブ)。

哲学から独立した科学が、もはや生みの親とのコミュニケーションが断絶するまでに遠くへ行ってしまった事態を嘆く武氏の論を読んで、私の頭の中で、高橋氏の結婚・離婚論とそれとがスパークしあった。

事前にアナウンスされていた講演概要を見てみよう。


古代ギリシア以来形而上学的な性質が色濃かった自然哲学から経験主義的な一分派が独立して現在我々が「科学」と呼ぶものが成立したのは300年ほど前のことである。自然法則の形式的な理解が巨大な利潤と効用に結び付くという歴史的な大発見であり、その後の産業革命や現代技術の歴史までつながっていく。それ以前はアート(アルス)と関係の深かった技術(テクネー)が疎遠になり、科学と技術の結婚生活が始まったのがこの時期である。

近年の情報技術の発展により、我々は認識と複雑な判断を人間から独立して行う技術を手にしつつあるが、これは現代の美学と芸術の根本にも影響する。自然科学の領域では将来的に人間の生物学的な認知能力を超えた領域で自動的に科学的知識を発見するAIロボットシステムの開発が現実化しつつあるが、さらにこの先には科学(=自然哲学)と技術の離婚、さらには技術とアート(=制作)の再婚という次の必然が待っているのかもしれない。


どうです? これは聴講しとくべきだったと思いませんか?

高橋氏が講演したのは、2020年2月16日(日)7:00pm~9:00pm、恵比寿の「NADiff a/p/a/r/t」一階にて開催された「第28回AI美芸研」においてである。って、さっきのと一緒だ。
https://www.aibigeiken.com/research/r028.html

講演会の模様は YouTube に動画が上がっている。


yosider @piconic_X
人工知能関係の講演会でスライドの写真を撮ると、高確率でセーラー服おじさんの後頭部が写り込む現象
午後2:44 ・ 2019年12月7日・Twitter for Android

どうもすいませんね。この動画もそれですね。

私は「意識の謎」が気になってしかたがないが、問題の根が深すぎて、解明に向けて前進させることは天才にしかなしえないだろうとみている。自力で考えるのは休むに似たりなので、正解の一番近いところにいる人は誰かな? と、他力をあてにしている。アンテナを張って天才っぽい人を見つけ、動向を見守る。天才ウォッチ。

『ゲゲゲの鬼太郎』の主人公が頭頂部に備えている「妖怪アンテナ」は、どんな微弱な妖気も感知して、ピピッと立つスグレ物である。あれの亜種みたいな「天才アンテナ」があるといいなぁ。私のは、どうも感度がイマイチだ。

そんな出来の悪いアンテナだが、高橋氏にはピピッとくる。どうも天才っぽいところがある。全脳アーキだと、あと一杉裕志氏(産総研)とか。他の構成員にはピクリともしない(アンテナのせいです)。

高橋氏は、「科学のプロセスを自動化する」ことを構想している。現実の種々の現象について、観察や実験によって得られたデータから、法則性をあぶり出して仮説を生成し、その仮説を検証するところまで、全工程を機械にやらせようという話。リンゴが木から落ちるのを見て、万有引力を発見するロボットとか。実現したら、科学者は職を失うよね。

素人がちょっと聞いたくらいじゃ、壮大なホラ話なのか、現実味を帯びた話なのか、区別がつきゃしない。しかし、本人は大真面目だし、現実的な構想として話をしている。ニューラルネットなどによるパターン認識の領域と、記号論理の領域とが今まではつながっていなかったが、そこを結びつける手立てが「そろそろ見えてきた」と言っている。言い換えると、「シンボルグラウンディング」の問題が解決しそうってことなのか?

高橋氏は、2017年11月26日(日)に沖縄科学技術大学院大学(OIST)で開催された「第11回AI美芸研シンポジウム」でも講演している。講演タイトルは『人類を再発明するために必要なこと』。


AIが人類を超越した創造性を備えるシンギュラリティー、そこへ至る道筋、そしてシンギュラリティー以後の文明について考えます。特に、人類の歴史と本性を踏まえて知能爆発前後の危険なフェーズをどう乗り越えてゆくのか、そこでは東洋的、生態系的な考え方が活かせるのではないかということについて問題提起します。


なんか、曼荼羅が出てきたりして、非常に深遠な話だった。やっぱ天才っぽい。

動画。やはりセーラー服おじさんの後頭部がたまに映り込む。


ここからは私の勝手な妄想。哲学については、ここらで二手に分裂するのがよく、実際にそうなっていくのではないかとみている。「谷村ノート」がちょうどよいきっかけだったんじゃなかろうかと。ラベルの選択で挑発する意図はないけれど、まあ、「理系の哲学」と「文系の哲学」の二潮流への分岐だ。

そして、理系の哲学は科学と結婚すればいいと思う。今の哲学の中の先鋭的なごくごく小さい部分領域を誘拐してきて、理系の側にひっつけちゃおう、って妄想。

科学はさまざまな謎を解き明かし、迷信を木っ端微塵に粉砕してきた。これからもその流れは続くだろう。しかし、ここまで来てしぶとく残っている謎は、根源的な問いにかかわる、根の深いものが目立つ。宇宙の起源の謎、生命の謎、意識の謎など。行き詰って足踏みしているわけではないだろうけど、ブレイクスルーをもたらすのも容易ではない。

私は科学を万能視するわけではないが、科学は、事実と論理を重んじる態度に裏打ちされて成立するものであるから、他の学問に比べれば、相対的に確実性の高い、信頼のおけるものだとみている。しかしながら、最終的に明文化される理論体系において、論理の飛躍を許さない分、歩みの堅実さと引き換えに、スピードがのろい。

そういうとき、少しばかり飛躍してでも、超越的な発想力をもって、前方を照らしてくれるだけでもありがたいということがある。あるいは、問いを上手に立てることによって、問題や仮説をきれいに分類整理してくれるだけでもありがたいということがある。そういうあたりを担ってくれる哲学があったらいいな、とは思っている。

もう一方の文系哲学のほうは今までどおり、無理のない自然な流れに沿って続けていけばよい。言っちゃあナンだが、私の関心の埒外だ。思弁するために思弁する「純粋思弁」みたいな営みは、それが好きでやっている人に対して「やめなさい」と忠告する立場ではなく、まあ、好きにやったらよい。

しかし、この世界の謎について、科学と整合する形で正解を発見しようという指向をもたないただの思索は、私の興味を喚起しない。私の目に触れないどこかで粛々と続けていてもいいし、ひからびて死んでしまってもいいし、発狂して華々しく散るのでもいい。

哲学を二系統に分岐させるに際し、どこに鋏を入れてジョキジョキすればよいか、これがけっこう難しい。哲学全体をサブジャンルの集まりに区分けして、これはこっち、あれはあっちと、ヒヨコの雌雄みたいに類別できればいいのだが、そうはいかない。

意識の謎に関係の深い哲学のサブジャンルとして、「心の哲学」がある。ジョン・サール氏やデイヴィッド・チャーマーズ氏は、問いを上手に立てたり、根の深さを示唆したり、新しい方法論や大胆な仮説が必要であることを示したりして、ゆく手を照らし、議論の見通しをよくし、無駄な混乱を回避した点において、非常に大きな功績があったと思う。

ところが、同じサブジャンルの中にも、あれじゃあ科学者からカミナリを落とされてもしょうがないな、と思えるようなダメダメな人たちが棲んでいることもみえてしまった。科学的観点からものごとを考察するセンスがない。論理の飛躍に対して無頓着だ。論理の何たるかが分かっていないのではあるまいか。はっきり言って、科学方面の勉強が足りない。

そういう人たちは「こっち」へ来る必要はなく、「あっち」で続けていればよい。ジャンルで簡単に切り分けできないのだ。

哲学は、一度、サナギになって変態したらどうだろう。昆虫は、幼虫から成虫に変態する過程の途上でサナギになる。サナギの内部では、青虫や毛虫が徐々に徐々に形を変えて蝶や蛾になっていくのではない。一度、ドロドロに溶けて、あらためて成虫の形になっていくのである。

哲学の体系も、昆虫の体形にならって、一度、ドロドロに溶かして、再構築してみてはどうだろうか。

私は哲学書なんてほとんど読んだことがないし、大きな主語を立てて包括的な論を展開するのは慎もうと思うので、哲学全般がどうのこうのとは言わない。けど、「谷村ノート」にみられるように、哲学者たちの中には、科学者を苛立たせるような粗雑な論の展開のしかたを平気でする人たちが、少なからずいるという印象をもっている。

あるひとつの概念を話題に取り上げて論じようとするにあたって、その概念の定義すら述べずに進めるとか。論理の筋道を精密に追って、論理展開に欠陥がないかどうか確認しながら読み進めようと思っても、そもそも論理的厳密性に無頓着な書き方しかなされていないとか。論理の本体を述べてから、補足的に比喩を用いて理解の助けにするならいいけれど、本体抜きに比喩しか書いてないとか。

フッサールの「現象学」についても、私は著書を一行たりとも読んでないので、大きな口を叩くわけにはいかないのだが。うわさによると、あれは読むのがたいへんらしい。想像でものを言うけれど、上記のように、科学者を苛立たせる書き方をしているのではあるまいか。しかし、もしかしたら、内容そのものは、いいことを言っているのかもしれない。

そうだとしたら、現象学も一度サナギになるべきだ。原形などまったくとどめなくてよいから、換骨奪胎して、科学者が読んで「ほほぅ」とひざを打つような表現に仕立てなおしできないだろうか。

私のイメージだと、そのあたりのことをやろうとしている哲学者に、田口茂氏(北海道大学教授)がいる。田口氏は、科学と整合する哲学の構築を目指しているのだと思う。

以前、何人かの科学者に「哲学をどう思うか」と聞いて回って、一本書いたことがある。2018年08月1日(水)配信回。

『病の名は「無限後退思考障害」─ 前回の反響』
http://bn.dgcr.com/archives/20180801110100.html

意識研究の第一人者である金井良太氏(株式会社アラヤ代表取締役)は、哲学に対して部分的には批判している。「科学者の視点からすると、哲学者のコメントが素人の域を出ないものに見えることが多々あります。科学のトレーニングを受けていない人や、数理がわからない批評家みたいな人がたくさんいます」。

しかし、田口氏には多大なる信頼を置いている。「僕は北大の田口茂さんという現象学者の方と交流がありますが、その方の説明する現象学や「媒介」の概念などは、意識を考える上で、非常に役立っていますし、自分自身の研究の位置づけを明確にしてくれます」。

「谷村ノート」で物理学界隈の外からも一躍有名になった谷村省吾氏(名古屋大学教授)は、哲学の方法論の粗雑さにあれほど批判的だったのと対照的に、下記の著書に対しては好意的にコメントしている。

 西郷甲矢人、田口茂『〈現実〉とは何か』筑摩書房(2019/12/13)
 https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480016902/dgcrcom-22/

TANIMURA Shogo @tani6s
「哲学ぽい」と評したのは、これまでに見た、あからさまに哲学と銘打っている哲学書と違って、私にわかりやすい本だったからです。「苦も無く読めた」と言ってもよいと思います。午後10:59 ・ 2020年1月24日

TANIMURA Shogo @tani6s
とくにこの本で強調されている「非規準的選択」という概念はよかったと思います。何かを述べるために特定の基準や特定の記述様式を選ばないといけないけれども、じつは選んだ基準や記述様式には依らないことを言いたかった、そういう選択のことを指しています。午後11:01 ・ 2020年1月24日

TANIMURA Shogo @tani6sそういうことって物理学にも数学にもよくありますよね。午後11:02 ・ 2020年1月24日

TANIMURA Shogo @tani6s
いろいろ考えを刺激される本でした。午後11:08 ・ 2020年1月24日・Twitter Web App

北大から哲学がメタモルフォーゼを遂げて、科学と結婚したらいいな、と私は期待を抱いている。


【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
セーラー服仙人カメコ。アイデンティティ拡散。
http://www.growhair-jk.com/

《 言われても思い出せない 45年前のこと 》

2月4日(火)5:54pm、東京都杉並区立杉並第八小学校(通称「杉八」)の同級生だったI田N子からメールが来た。いま、杉八仲間と高円寺で飲んでるんだけど、来れないか? と。今飲んでるから来ないかというお誘いは、原則としてお断りしてるんだけど。

ハワイに移り住んで、サーフィンのインストラクターだかをやっているM村M子が帰国してるから、と。あ、いたなぁ、M村。3~4年で同じクラスだったんだっけ。存在を丸ごと忘れていたよ。卒業以来、一度も思い出さなかったんじゃないかな。わかった、じゃ、行くよ。

実は、たいへん仲がよかった。席替えのとき、どうしても隣りどうしになりたいペアーは、みんなの前で堂々と挙手し、二人の希望が一致すれば、そうしてもらえるという粋な制度があった。M村と私は、それを使って隣りどうしになったのだった。え? そうだった? 言われてもなお思い出せない私。

でも、仲がよかったのは、言われてうっすらと思い出してきた。格段にべったりした関係ではなく、むしろサバサバしていた。お互い変に意識しあわない空気みたいな存在で、二人で雑談すると延々と続いた。私の場合、後にも先にも、そういう相手はあまりいなかったと思う。

45年ぶりに再会した人があと二人いる。O久保MとM木Rえ。O久保は顔にいっぱいあったほくろが目立たなくなっていた。M木は体格の巨大さから「ジャンボ」というあだ名で、当時、よく先生と間違われた。しかし、あれから3cmしか背丈が伸びてないそうで、われわれがすっかり追いついた。

自分のことなのに、言われても思い出せないことがもうひとつ。和田アキ子が好きだったらしい。「えー、あんなのが? なんで?」などとからかわれると、顔を真っ赤にして「和田アキ子の悪口を言うな!」と怒ったらしい。えー、好きだったっけ?

好きな芸能人というと、つき合いたい異性の理想像として憧憬の念をもってみる向きが多い中、私は芸のレベルの高さを重んじて尊敬の念をもってみていたってことだろうか。

タイプで言えば、むしろ、相良直美のほうが好みだった。あ、それを言うのが恥ずかしくて、隠れ蓑に和田アキ子を使ってたのかも。

杉八、今年度いっぱいで廃校になる。


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編集後記(02/20)

●偏屈BOOK案内:加門七海「着物憑き」

怖い話が好きだから、加門七海の本は御馳走なのだが、今回は違った。着物を巡る11の話は、いかに自分が着物に惹かれるのか(取り憑かれたのか)を語り尽くすような構成で、確かに怪談の雰囲気も漂うが、わたしは着物に関心がないので、殆ど斜め読み。やっと最後のほうの2編が少し怖かった。自分の趣味でない物を突然欲してしまったときは、怪異が潜む。充分気をつけるべし。

筆者が女友達から聞いた恐ろしい話。祖母が持つ素晴らしい振袖は、母もその娘たち(女友達ら)も着た。やがて祖母は亡くなった。遺品の整理をしたところ、件の振り袖が見当たらない。父の妹が遺族に黙って、持っていってしまったという。窃盗に等しい行為だ。友人は返却を迫るも、叔母は返さない。自分の娘三人のために振り袖が欲しかった。娘より年下の姪を侮っていたのだ。

そんなやりとりが続いて数年後、遂に友人は激怒し、有耶無耶を狙った叔母に「もういい。あんたたち一生振袖着てろ!」と言い放つ。四半世紀後、叔母は振袖を返してきた。半年も経たないうちに、50過ぎの娘たちはバタバタと結婚が決まった。友人は知ってか知らずか、非礼な叔母一家に完璧な呪いの言葉を放っていたのだ。一生振袖着てろ!=一生独身でいろ! ということだ。

「これは着物の怪談というより、言霊による呪詛かもしれない。いや、振袖が呪いの依代ならば、やはり着物の怪異となろうか」。出自や質はなかなか見抜けないから、アンティークやリサイクル着物を敬遠する人がいるわけだ。会社経営者で金に飽かして絵を買い漁り、折りに触れて自慢を聞かせる知り合いがいた。所蔵品は悪くはなかったが、ある時持参したのが怪しい作品だった。

完全に素人の絵で、こんな絵を自慢げに見せにくること自体が不可解。どこで手に入れたのかと聞くと、菩提寺につきあいのある尼さんから無理に譲ってもらったのだという。怪しいので褒めるわけにはいかない。正直に言おうとしたとたん、一瞬にして霧が晴れたがごとく「見えた」。それは幽霊画だった。紗の着物の下が骸骨だった。誰も気づいていなかった。誰にも見えなかったのだ。

心霊写真でもよくある話で、渦中の人には見えない。筆者はお寺に返したほうがいいと諭した。筆者は忠告する。「自分の趣味ではない物を突然欲してしまったときは、着物にしろ掛け軸にしろ、充分、気をつけたほうがいい。そういうときは、きっと何かが潜んでいるのだから」。着物に関心のないわたしにはせっかくの宝の山がまったく見えない。着物好きの人、読むベし。(柴田)

加門七海「着物憑き」2019 集英社
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4087880257/dgcrcom-22/


●「シルバー川柳」の姉妹版「女子会川柳」は3巻まで出ている。1は2013年1月発売、3は2016年01月。

「王子様 落馬したまま 迎え来ず」
「十年目 部長が席まで 来てくれる」
「検診の 数値で上司と 盛り上がり」
「5時までは 体の調子 いまひとつ」

「ほっとする 女子会よりも 赤提灯」
「お礼言う 神社ばかりが 増えていく」
「四十路超え 婚活改め 終活へ」

「特技なら 書道二段に 腹三段」
「玉の輿 よりも今では 麺のコシ」
「自分への 褒美で埋まる 4畳半」

シルバーとは違い、三巻までしか出ていない理由が少しわかる。シルバーの方が断然面白いもん!(hammer.mule)

女子会川柳
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4591132064/dgcrcom-22/