[4957] 二足歩行を目指すか樹上生活に回帰するか

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《C3-POどころかR2-D2状態》

■はぐれDEATH[94]
 二足歩行を目指すか樹上生活に回帰するか
 藤原ヨウコウ
 



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■はぐれDEATH[94]
二足歩行を目指すか樹上生活に回帰するか

藤原ヨウコウ
https://bn.dgcr.com/archives/20200221110100.html

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引っ越しで“階段地獄”がでふぉになった。半年以上ほぼ引きこもりで、移動はチャリか原チャ、という怠惰な生活を送っていたボクの下半身が、まともについていけるはずもなく、引っ越し直後は下半身どころか全身の筋肉が、ばっきばきに筋肉痛を起こしていた。

ただの引きこもりならもう少しマシだったと思うのだが、とにかく鬱病というヤツが曲者で、常にビクビクしているもんだから、全身の筋肉が収縮しきって凝り固まっていたような状態で、生まれて初めて首と僧帽筋が痛くて仕方がないという、アホな事態になっていた。

それなりにストレッチをしていたつもりなのだが、そのストレッチを遙かに上回る筋収縮を起こしていたようだ。こんな状態で引っ越しというのは、なかなかにつらい。

引っ越し当日はなんだかんだで布団に入れたのが0時を回っていた上に、ストレッチどころではなかったし、翌日は前の部屋の引き渡しである。クソ寒い中、松ヶ崎から伏見まで原チャで往復し、これでまた筋肉が見事に強ばった。帰宅した頃にはC3-POを通り越してR2-D2状態である。

「とにかくまず血行を良くしてからストレッチをしないと大怪我になる」と、夕方から時間をかけてのんびり湯船に浸かり(カラスの行水のボクにしては異例中の異例)、セルフ・マッサージ。更に2時間ぐらいかけてゆっくりとストレッチをして、まずこの二日間の筋肉の張りをほぐすことに。

あくまでも直近二日分である。それ以前のは計算に入っていない。入れる気もなかったし。それでも、なんじゃかんじゃで毎日三回ぐらいストレッチを入念に繰り返して、三〜四日かかった。この状態で引っ越し前に戻った。

■年齢と経年劣化から言えば十二分に若い身体やで

本番はこれからだ。新しい部屋の急斜面の階段は本当にきつくて、出入りを繰り返すと確実に下半身にくる。酷い話、部屋に戻る度にストレッチしないと、下半身がぱんぱんになってしまうのだ。

ここで脳裏をよぎったのが、以前遭遇した「歩行困難」事件である。こんな所で歩行困難になったら、マジでシャレにならん。さすがにそれだけは避けたかった。

そもそも「寿命は50年」と信じて疑わなかったところがあったので、老後のことなど計算外。じっさい五十歳前に死にかけてるからね。完全に予定外の寿命になってしまったので、せめて「死ぬまでは自力で歩ける」状態をキープする必要がある。歩行困難の厄介さは、身に沁みて知っているので尚更だ。

手っ取り早いのはお散歩である。幸い、すぐ近所に深泥池(みどろがいけ)という格好の場所がある。池の端は南西から北東にかけて未舗装の道。落葉が降り積もってイイ感じのクッションにもなっている。

小学生の時の通学路にそっくりなのだが(どんだけ田舎やねん)、とにかく歩きやすい。人目も少ないし静かだし、とにかく妙な安心感を感じた。素直にここへ通い出したのは自然の成り行きだった。

賀茂川縁と異なるのは、本当にまったく道が手入れされていないところだ。人が歩いたところが道になった、という実に分かりやすい昔ながらの道。もちろん凸凹はやたらとあるし、アップ・ダウンだってそれなりにある。落ち葉はクッションにもなるが、濡れると滑りやすくなるし、木の根だってがんがん道を横断している。

自分でも笑ってしまったのだが、こういう道に入ると昔のクセがあっさり出るもんで、とにかくいきなり歩幅が広くなる。さらに軸足荷重が増えるので(歩いてる時に、前に出た足に荷重を思いっきりかけるのは、こういう道では危険なのだ。ちょっとでも前に荷重がかかるとこける原因になる)ほっといても体幹が機能し始める。

とは言え、最初はバランス感覚すら怪しかったので、体幹トレーニングも再開した。

タバコを部屋で吸いたくない人なので、タバコを吸いがてら深泥池にお散歩に行く。最低でも一日三回は行く。二週間ほどすると、身体はだいぶ慣れてきた。

が、ここで思わぬアクシデントが。新しい副業先の面接で、前のスケジュールが押してしまったので、無茶な早歩きをして両膝を痛めてしまったのだ。

最初は「一過性のものだろう」と高をくくっていたのだが、痛みは酷くなるばかり。挙げ句の果てに、なんか歩き方までおかしくなってきた。「頑張らない」の公約通りボクにしては、珍しく相当早い段階で整形外科行きである。

行った病院は以前にも一度お世話になり、その時にそっこー治して下さった。伏見の整形外科は金だけ取って何にもしてくれなかったので、結局自分で歩き方矯正までして、膝への負担を減らす羽目になったのだが、引っ越しでこちらの病院がご近所さんになったので、敷居は当然低い。過去の実績もあるので、迷わず行った。

前の診療から相当時間が経っていたのと、伏見での歩行困難事件があったので、正直かなり悲観的な状態を覚悟していた。前回は右膝に関節注射一回で済んだのだが、とてもではないが、その時のようにはいかないだろうと思っていたのだ。歳も取ったしね。

それはともかく、診てもらってて非常に安心できる先生なのだ。問診、触診、レントゲン、関節注射という流れだったのだが、触診の段階でいきなりピンポイントで痛いところを押された時には、激痛があったものの、心の底では安堵した。ちゃんと顔を見て問診も触診もしてくださるので、ありがたいことこの上ない。

前に書いたかもしれないが、最近のお医者さんは問診をしてる時もPCのモニターばっかり見ている。カルテが電子化されているのは理解できるが、患者さんの目を見て会話できない、というのは臨床医としては失格だとボクは勝手に思っている。

話を聞くだけで伝わるようなものではない。表情の動きや仕草にも、何らかの異常は出ているはずで、それも含めないとまともな問診にはならない。当然、治療方針だって明後日の方に行く。伏見のお医者さんが正にそれだった。

結論からいえば、前回の診療時からさほど症状は進行していなかった。関節の間(大腿骨と脛骨の間)もPC上で測定して下さったのだが(前の時のデータもしっかり残っていて、比較しながらだ)0.1mm狭くなっただけで、先生曰く。

「初期の初期症状」とのこと。下手すりゃ半月板とか痛めてるんじゃないかと思っていたので、拍子抜けである。

「急な運動のせいやろうなぁ……触診した限り筋肉もしっかりあるし、膝に水がたまっている気配もまるでないし。軟骨は多少減ってるけど微々たるもん。年齢と経年劣化から言えば、十二分に若い身体やで」とのこと。喜んでいいのか、ガックリするべきか、若干悩んだが喜ぶことにした。

前回もそうだったのだが、ヒアルロン酸を両膝に関節注射してもらった。「痛みは関節炎の可能性もある」とのことで、こちらは経口薬を処方してもらい、一週間後に経過をみるという流れに。

ちなみに、私感だがヒアルロン酸に鎮痛効果はない。少なくともボクの身体にはそういう効果はないし、前の時もそうだった。

薬液が関節内に充満するのだが、これが軟骨をコーティングしながら細胞を活性化させるらしい。内臓に関しては絶望的なぐらいボロボロだが、外傷レベルの細胞再生速度は未だに異常に早い。

注射当日はやはり膝が張ったような感じだったのだが、それなりに動かして軟骨全体に行き渡るようにした。翌日になると張りは消えていた。あとはじんわりと動かしながら、軟骨の細胞が活性化するように刺激するだけである。

一週間後の診療で、「順調ですね。この注射は生きている細胞じゃないと打っても無駄なんですよ。普通は一週間おきに全部で五回打ちますが、どうしましょう」と問われたので、「今回はコンプリートでお願いします」と即答した。

前の時は一回で治った気になったのだが、いくらまだボクの軟骨細胞が元気とはいえ、やれることはやっておきたい。それでも、先週注射をした時よりも膝の張りはなかった。効いてるみたいだなぁ。

それでも、注射だけでどうこうなるとは毛頭御思っていないので、それなりの
自主トレは必要である。

歩行が基本スタンスなので、当然のことながら「歩く時に刺激される部分」に軽い負担をかけないと意味がない。ここでにわかに浮かび上がったのが、深泥池縁の道である。上記したように下はクッション状態。膝への負担はアスファルトの舗装路よりも遥かに低い。

■木から降りたお猿さん状態

最初は自然にできた道だけをぼやぼや歩いていたのだが、さっさと好奇心に負けて道を外れ、山の中を思うがままにうろちょろし始めてしまった。「やばいかなぁ」とは思ったのだが、その時の気分を我慢する気はなかったので、元気過ぎる小学生よろしく、ずんずん登りだしてしまった。

しばらくして気がついたのだが、登りも下りもとにかく足の指で地面を掴もうとしている動作である。最初は「歩いている時にえらい足の指が開くなぁ」と思っていたのだが、開きっぱなしではなく地面を掴もうとしているらしい。

当たり前の話だが、靴を履いているので直接地面を指で掴まえることは出来ない。それでも、とにかく指が動く。踵に体重を載せていないので、当然と言えば当然なのだが、「お猿さんか……」とまたまた思ってしまった。

というか、木から降りたお猿さん状態である。どこまでも原始的なようだ。京大の霊長類研究センターに、自薦しようかと思ったぐらいである。恐らく興味深いデータが取れるだろう(笑)

それはともかく、筋肉である。お医者さんが仰った「十分な筋肉」は、あくまでも「人として」十分な量であり、お猿に近いボクの身体では不足しているのが、たちどころに判明してしまった。

おまけに、柔らかいのはいいのだが弾力が落ちている。一言で言えば「枯れた筋肉」になりかけていたのだ。運動不足もさることながら、食生活もむちゃくちゃなので、あたり前と言えばあたり前なのだが、このまま放置するわけにもいかない。

これ以上無茶な食生活を送るのも、さすがに無理がある。筋肉を作るだけなら、プロテインでも飲んでいればいいのだろうが、いつの間にかプロテインは苦行にしかならなくなったし、今さらこんなもんを飲む気にもならない。そこで目をつけたのは卵である。

一日一食のペースは相変わらずなのだが、おやつ代わりにゆで卵を食べるようにすることにした。ゆで卵など相当長い間食べていなかったので、珍しさもあったし、「完全食品」と言われる優れもんである。

おまけに無駄に美味しい。塩で食べるも良し、七味で食べるのも良し、海苔の佃煮をつけて食べるも良し、とにかくつけるもんを変えるだけで、味のバリエーションはアホほどできる。まぁ、ボクは塩で十分満足なんですがね。

筋トレは相変わらず器具を使うのがイヤなので、「歩く」の延長線で「走る」を選択してみた。が、こっちはもう最悪である。息が上がる前に太腿が上がらなくなるのだ。

ちょーゆっくり走ってもこのざまで、さっさと長距離は捨てた。50mくらいをインターバルを置きながら走る程度で十分、と思ったのだがここで筋肉の弾力が極端に落ちていることに気がついて愕然とした。

そもそも、飛び跳ねることが出来なくなっているのだ。というわけで、軽いその場ジャンプから始めることにした。これだって量をこなしているワケじゃないし、いちいちインターバルを置いて、ストレッチをしながらじゃないとどうしようもないのだ。

さらに、腰のキレが落ちていることも判明。もうズダボロである。よくサッカー選手がアップの時にやっている「片足を上げながら上半身をひねり歩く」を導入したのだが、やり始めはこれまた悲惨だった。お尻の筋肉痛まで出てきた。

しつこいようだが、量はこなしていないのだ。とにかくなまっている。こちらは深泥池のすぐ横にある公園(地面はむき出しで、これまた落ち葉がイイ感じのクッションになっている)で、早朝の人目がない時間帯にやっている。

ところでこの公園だが、深泥池のお散歩道に行く時に当然のことながら通るのだが、先日二〜三歳くらいの女の子が、きゃーきゃー言いながら走り回っているのを見て羨ましくなった。

バネがやっぱりすごいんですよ。それに姿勢がすごくイイ。よくよく観察していると、どうも腰が少し落ちて足全体がクッションのように伸縮するよう、最初から少し曲がっている。足を真っ直ぐ伸ばしきっていないのだ。

考えてみれば這い這いの状態から歩きはじめというのは、二足歩行に必要なバランスと引力との戦いになる。まぁ誰でも一度は通る道だが、この状態をキープするのはけっこう難しい。

さらに、這い這いをしている時に体幹が相当鍛えられているので(嘘だと思ったらやってみると面白い。本当にしんどいから)歩くための基礎体力は、この頃から既に発達している。そう思うのが妥当だろう。専門家じゃないから、知らんけど。

さらには、身体の柔らかさである。個人差はあるにせよ、関節の可動域の広さはやはりすさまじい。さすがに、ボクがこのレベルに目標を置くのは無理がありすぎるので、せめて筋肉のバネと体幹ぐらいはある程度どうにかしたい。

あくまでもそれなりです。こっちはもう半世紀以上生きているのだ。やつらと同じようにいくはずがない。

仕方がないので、ストレッチついでに体幹トレーニングを再開した。いやもう、めちゃめちゃトロトロやってます。根性ないし、気合い入れる気にもならないので、暇に任せて思いついた時に休み休みやっている。

一応、早朝のダッシュとストレッチ・体幹トレーニングだけは日課にしているが、ほぼ遊びになってきた。

■またウエストが細くなった・・・_| ̄|○;

お散歩道をただ歩いているだけならまだよかったのだが、段々アホな好奇心が出てくるのがボクの悪いクセである。ちなみに、こっち方面を我慢する気は毛頭ない。自然道を外れて登るのは本当にそっこーだったのだが、まさか木に登り出すとは思いもしなかった。

そう、手頃な木を見つけちゃ、片っ端から登っている。鉾立の足場の悪さとは比較にならないぐらい安定しているので、じゃんじゃん登ってしまうのだ。

歩くためのストレッチのはずの股関節ストレッチが、こういう時に威力を発揮する。三点手掛かり(足がかり)を確保できれば、まぁだいたい安全に登れる。

で、片足をどうしても極端に上げないと、上の枝に引っ掛からないことがよくあるのだが、これはあっさりクリアした。姿勢にもよるが、顔の目の前くらいまでは余裕で足が上がるし、足の先さえ引っかけてしまえばもうこっちのもんである。疲れたら幹と枝の間に坐り込めばよろしい。

こうなってくると、二足歩行を目指しているのか、樹上生活に回帰しようとしているのか分からなくなるが、もうこの際だからどうでもいいことにした。

ただ、上半身(特に背筋)が弱いのがネックである。エビぞりぐらいはできるのだが、やはり身体を引き上げようとすると、腕だけではどうしようもなく、背筋まで動員しないとどないもならん。むしろこっちがメインだったりする。

上半身の筋力は本当に弱い上に、マジメに筋トレをするような根性など持ち合わせていないので、ほったらかしにしていたのだ。絵を描く分には何の問題もないし、大工さんも今の筋力でどうにでもなる。握力だけは無駄にあるのだが、他は貧弱そのものである。

幸い、筋肉が少ないせいか関節の動きは極めて良好で、肩関節の可動域は未だに背中で両手を余裕で合わせられるくらいあるし、両手を上に伸ばせば首の後ろから、肘の辺りから、ぴったり両腕がひっつくくらいの柔らかさもある。

普通の人ならここで筋トレに行きそうだが、ボクは肩胛骨の可動域をさらに拡大する作戦に出た。

美術解剖図をマジメに見たことがある人なら、すぐに分かってもらえると思うのだが、筋肉は各部位に名前が付いているが、バラバラなわけではない。むしろバラバラなのは骨格で、これを筋と筋肉でつなぎ合わせていると思っていただきたい。

で、筋肉が硬いとバラバラの骨格はしっかり固定されるが、可動域は当然狭くなる。逆に言えば、可動域の広さは、筋肉の柔らかさと各筋肉の連動がスムースに行える状態だと言ってもイイだろう。筋力そのものは後から勝手についてくるもんなので(ボクだけかもしれないけど)ほったらかしだ。

更に筋肉の繋ぎ目だけで、筋肉同士が繋がっているわけではない。筋肉の上に筋膜という皮状のものがあり、これが面でカバーするようになっている。

厄介なのはこの筋膜が筋肉にへばりついてしまい、柔軟性を失うケースがやたらとあって、最近になってやっと「筋膜ストレッチ」だの「筋膜剥がし」だのという言葉をよく目にするようになった。

密林でもこの手の本が、最近ベストセラーになっていたような気がするが、ボクはブルース・リーの『ドラゴンへの道』のラストのアクション前に行っていたストレッチと筋膜剥がしから注目している。

とにかく、あの肩胛骨剥がしはエグい。「天使の羽根」と言うらしいのだが、(つい最近知った)肩胛骨が自由自在に動く上に、盛り上がり方も半端じゃない。これは割と以前からやってるかな? でも筋肉そのものがないので、ああいう風にはなりません。

そもそも目に見える筋肉を、五十過ぎてから鍛えるというのはリスクが大き過ぎるのだ。上記したように、弾力が失われているので、筋肉断裂の原因にもなる。目に見えない内臓まわりの筋肉は、それこそ内臓を動かしたり支えたりしているので、生きている限り動きっぱなしと言ってもいい。

ボクが体幹にこだわる理由は、ここにある。一番、無理がない筋肉なのだ。見えないけどね(笑)

ボクは身体のプロポーションだの、ダイエットだのとは、縁のない人だし、そもそも自分の身体に関しては、骨格レベルでおかしいので、最初から諦めている。腹筋のシックス・パックがどうこうなど気にしたこともない。

いや、確かに腹筋割れてますけどね。単純に筋肉の上を覆うものがないから見えているだけの話で、これは全身そうである。

で、なんじゃかんじゃで半月近く経っているのだが、悲しいぐらいまたウエストが細くなった・・・_| ̄|○;

レディースのジーンズを愛用しているのだが、サイズは24インチ。それでも履く時と脱ぐ時にお尻が引っ掛かる。骨盤でかいからな。買った時はほぼジャストだったのだが、段々ゆとりが出てきた。

まぁ胴がしまっているのだろうが、急激に細くなるとあまった皮膚が縮緬皺状態になるのが情けない。これまた歳のせいだ。ここまで効果があっさり出るのは、ボクの細胞の再生速度の速さだけである。内臓はさっぱりだが。

筋繊維は一度切れて再生する時に強くなる。どう強くなるかは人それぞれだが。ボクは悲しいぐらい筋繊維が太くならずに、密度がどんどん過密になるタイプなので、どうやってもマッチョにはならん。見た目の変化はめちゃめちゃ少ないのだ。

まぁ、マッチョなんぞになる気もないけど。しつこいようだが、見た目は最初から度外視している。あくまでも日常生活レベルでの機能が最優先である。再生速度の早さが効果として出てはいるが、上記したような副作用(!)もある。これまた仕方ないので、あきらめるしかない。

で、頑張っているのかと問われると「全然」である。山や木に登るのが素直に面白いだけでやっているし、お散歩も物見遊山の傾向の方が圧倒的に高い。要は緩い遊びだ。

余談だが、ボクはラジオ体操のあのペースについて行けない。早すぎるし、終わる頃にはもうくたくたになれるほど体力はないのだ。こんな人が、なぜひょいひょいと木に登ったりできるのか、とか不思議に思う必要はない。休み休みゆっくり登ってるしね。けっこう無茶な格好をしてるけど。

ちなみに、木登りを推奨するほどボクはアホではありません。そもそも危ないから。木の上から撮った写真も実は沢山あるのだが、載せません(笑)。丘の上の一番高そうな木の上(ちなみに一度登った木には二度と登らない)から撮っているので、写真の見晴らしはいいのだが、勘違いされる方が出ると困るので。

二足歩行が勝つか、樹上生活が勝つか、段々分からなくなってきた。もう死ぬまで自力で動けりゃ、何でもいいか(笑)


【フジワラヨウコウ/森山由海/藤原ヨウコウ】
YowKow Fujiwara/yoShimi moriyama
http://yowkow-yoshimi.tumblr.com



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編集後記(02/21)

●偏屈BOOK案内:ドナルド・キーン「私と20世紀のクロニクル」

ノーベル文学賞の順番が日本に回ってきたのは1968年だった。ドナルド・キーンは、受賞は三島由紀夫以外にありえないと確信していた。しかし受賞者は川端康成で、三島ではなかった。「この最も権威ある賞を川端が受賞したことは、確かに喜ぶべきことであったに違いない。しかし、このことが二人の死の一因となったかもしれない」と、欧州で権威ある賞の審査を経験している彼は書く。

次の10年間に起きた最初の重要な出来事、とくに筆者にとってのそれは1970年11月25日の三島の死だった。佐藤栄作首相は、三島の自決を「狂人」の行為だと断定する心ないコメントを出した。筆者と三島は16年の親交があったが、秘密を共有しなかったし、互いに助言を求めることもしなかった。二人の付き合いは、いつも折り目正しいものだった。三島は筋の通った礼儀正しさがあった。

三島は鮨屋ではいつも中トロばかりを注文した。彼にはつまらない魚に時間を潰している暇などなかったのだ。「豊饒の海」四部作に、作家として身につけたすべてを注ぎ込んだと言う彼は、笑いを浮かべながら付け加えた。あと残っているのは死ぬことだけだ、と。筆者は誓いを破って「何か悩んでいることがあるんだったら、話してくれませんか」と聞くと、目をそらして無言だった。

しかし三島は3か月後に自分が死ぬことを知っていたのだ。9月、筆者はニューヨークへ向かうため羽田にいた。姿を現した三島は無精髭で目が充血していた。いつもと違う彼の行動が、何かを予兆しているとは思いもしなかった。これが、彼が三島に会った最後だった。三島は同行した友人たちに「つまらない死に方はしたくない」と言った。ニューヨークと東京で、数通の手紙交換があった。

なぜ「豊饒の海」というタイトルをつけたのかを尋ねると「『豊饒の海』は月のカラカラな嘘の海を暗示した題で、強ひていへば、宇宙的虚無感と豊かな海のイメージをダブらせたやうなものであり、禅語の『時は海なり』を思ひ出していただいてもかまひません」という返事だった。筆者はその意味が分からなかった。三島は世界が全く意味がないものだという結論に達したのだろうか。

事件の起きた日の24時ごろ、ニューヨークの筆者の部屋の電話が鳴った。読売新聞ワシントン支局からで、数時間前に起きたことを手短に述べ感想を求めた。呆然として理論的に返答できなかったが、同じ問いの電話は一晩中鳴り続けて、次第に理路整然と語れるようになった。東京に戻ったのは、三島の葬式の直前で、弔辞を述べることを引き受けたが、親しい友人三人は葬式に出るなという。

筆者が弔辞を述べることで、三島の右翼思想を擁護しているように取られてはまずいというのだった。最終的に彼らの説得に応じたが、それ以来彼は、勇気を示さなかったことを何度も後悔したという。葬儀委員長は「葬式の名人」として知られる川端康成、三島の文学的才能を認めた最初の一人である。なぜスウェーデン・アカデミーは、三島ではなく川端に賞を与えたのだろうか。

後に筆者は、川端に賞を取らせたのだのはおれだと宣う、日本文学の権威として名声を得た男に会う。政治的に極めて保守的な見解の持主で、三島は比較的若いため過激派に違いないと判断した。そこで彼は三島の受賞に強く反対し、川端を強く推した結果、委員会を承服させたというのだ。ばかげた話だ。筆者はこのことを、三島に話さずにはいられなかった。三島は、笑わなかった。

三島は川端の受賞を喜び、その気持ちに嘘はなかった。しかしノーベル文学賞の順番が回ってくる地理的要因から考えて、次の日本人の受賞まで20年はかかることを知っていた。彼はそれまで待てなかった。ライフワーク4部作も終わりに近づき、死への道を遮るものは何もなかった。2006年に出版されたこの本に三島自決の真相があった。わが書棚の三島全集、未だに手着かず…(柴田)

ドナルド・キーン「私と20世紀のクロニクル」2007 中央公論社
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4120038459/dgcrcom-22/



●笑える川柳ばかりが川柳じゃない。「平成に生まれた最高の一句」という本があった。編集は「川柳マガジン編集部」。

「現在活躍する日本全国の川柳作家および海外在住の川柳作家の1012句に加えて、川柳結社が推薦する『平成のベスト川柳』51句を掲載。」とのこと。

「だんだんと百年生きる気にもなり」平間大恵
「雲ひとつない青天で恥ずかしい」安藤敏彦
「回り道した分花もたんと見た」佐藤千四
「虹だよと庭であなたの声がする」岡本恵
「健さんになって出て来る映画館」石川和巳
「佳人薄命きっと早死してみせる」小林かりん
「飲みなはれあんたの金で好きなだけ」井丸昌紀
「尊敬をしますと言われ手が出せぬ」片山忠
「上の子は足だけ母にふれて寝る」丸山弓削平(弓削川柳社)
「人生は別れぞパピーウォーカー」堤日出緒
「アメリカも住めば都の今となり」石口玲

平成に生まれた最高の一句
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川柳マガジン 2020年2月号
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