ゆずみそ単語帳[27]わたくしといふ現象:アントニオ・ダマシオ『意識と自己』/TOMOZO

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●意識や思考の重層構造

ふだん、気にして生きてる人は少ないのかもしれないけど、意識や思考というのは、ミルフィーユみたいに、何重にも重なった構造になっている。

自分で自分の状態に気づいていなかったことに気づく、ってことは誰にでもわりとよくあるのではないかと思う。

イライラしたり急に不安になったとき、その原因を正確に特定できないのはふつうだし、自分が何かの強い感情に圧倒されているのに、ぜんぜん気づかずに生活していることだって珍しくない。

自分の感情や、それが身体に及ぼしている状態を細部まで完全に把握している人間はたぶんいない。感情だけではなく、「思考」だって完全に把握なんかできていない。

自分がぼんやりと「考えて」いることを言語化する作業には、けっこうなエネルギーが必要だ。





わたしは英語を日本語にする仕事をしているので、言葉の意味について毎日のようにうだうだ考え込むのだけど、英語で書かれたある考えを日本語に置き換えるときには、その考えを英語でも日本語でもない薄暗い領域にいったん引き取って、そこで日本語に合った形に整えてから明るい場所に出力する、という作業をやっている。

薄暗い領域に言語のかたちをとる前の段階の思考があって、言語はその上にのっかっているものだということを、二つの言語の間を行き来する作業のなかではわりと日常的に実感する。

日常的な行動の大部分も、とくに意識しないでやっていることが多い。歩いたり車を運転したりりんごの皮をむいたりといった作業は、最初はすごく難しくて全神経を集中しなくてはならなかったはずだけど、慣れてしまうと「身体が覚えて」いるのであらためて注意を向ける必要はない。

「意識」に対して「前意識」と「無意識」があり、人間の行動は「無意識」の領域でなにやらかなりの部分が決定されているという「局所論」を19世紀にフロイトが提唱して以来、人間には無意識という領域があってそこで何かが起きているんだということは常識になったけれど、じゃあそもそも意識や無意識って一体何なのよ、どういうしくみになっているのよ、という話になると、それから100年たった今でも結論が出ていないのだ。

脳神経科学者のアントニオ・ダマシオ教授が書いた『意識と自己』(講談社、Kindle版、2018年、田中三彦訳。原書『The Feeling of What Happens』1999年出版)は、その無意識/意識のメカニズムについて、脳科学の知見にもとづく、とっても納得の、わくわくするような仮説を紹介してくれている。

意識と自己
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ダマシオ教授はそもそも、脳に障害を負った患者に正常人とはちがう意識状態が観察されることを手がかりに、長年かけてこの理論をみがいていった。

とくに欠神発作という症状を持つ患者の観察から、「意識とはなんぞや」と深く考えるようになったそうだ。

「意識を失う」というと、ふつうは深い睡眠や麻酔にかかったときのような状態をさす。まわりで何が起きているか一切感じられず、思考もなく、話しかけても反応しない。意識のスイッチがオフになっている状態。

でも、てんかんの一種である「欠神発作」の患者は、とつぜん数秒から数十秒、「覚醒しているのに意識のない状態」に入るのだという。その間、手に持ったカップからコーヒーを飲んだり、周りのものにさわったり、歩き回ることもあるが、話しかけても反応はないし、意識が戻るとその間の記憶はまったくない。

昏睡状態なのに目覚めている。まわりに注意を向けて行動することはできるが、それを意識していない。「そこにいるともいえるし、いないともいえる」奇妙な状態。

「注意」と「意識」が分離する状態があり得るということは、「注意」の機能と、自覚的・主体的に行動する「意識」のプロセスはそもそも別システムだってことだ。

この患者を観察したあと、ダマシオ教授は、意識が生まれるのに必要なのは「自己の感覚」じゃないかと考えるようになった。そして自己の感覚というのは「認識の感情」だという結論に達する。

●大きく分けると三層

ダマシオ教授は、人間の意識は大きく分けて原自己(proto-self)中核意識(core consciousness)【ここに中核自己(core-self)と自伝的自己(autobiographical self)がある】拡張意識(extended consciousness)に分かれている、という説を提唱する。

「私は、意識も注意もさまざまなレベルで起きていて、一枚岩ではなく、いわば上方へ向かうらせんの中で相互に影響しあっていると考えている」と、ダマシオ教授はいう。(1575)※Kindle版『意識と自己』掲載ページ 以下同※

意識のある人間のなかには、生物が進化するなかで比較的古い時代にできあがった脳の部分(脊髄、脳幹など)のはたらきと、わりあいに新しい部分(大脳皮質など)とそのはたらきが、互いに信号をやりとりしながら、ものすごく複雑で繊細なネットワークをつくっている。

そのネットワークの信号のやりとりのなかで、「イメージ」がニューラルパターンとして形成される。「イメージ」というのは視覚だけじゃなくて、あらゆる感覚器官から入ってくるすべての信号と、脳のなかで信号がつくるすべてのパターンをさす。

目にうつるもの、音、振動、香り、温度、動きの感覚、痛み、身体の内側で生じるさらに微妙な感覚。もっと上のレベルでは、記憶や感情なども「イメージ」の単位になる。

意識の問題は二つにわけられる、とダマシオ教授は言う。ひとつは、そういうイメージがどうやってできてくるのか、という問題。

こういうイメージは、意識のある間じゅう流れ続けている「脳内の映画」のもとになる。感覚器官や身体の中の器官から受け取る信号から、ニューラルパターンから、いったいどうやってこのようなイメージができてくるのか、という問題だ。

視覚を例にとると、網膜からはいった光が像を結び、さまざまなニューロンを次々に刺激するあいだにどうやって「イメージ」ができるのか。ひとつひとつのイメージ形成に、莫大な数の小さな部位と信号とプロセスがかかわっている。神経学の分野でかなり解明が進んでいるが、まだ肝心な部分は明かではない。

そしてもうひとつが「脳がどのように『認識のさなかの自己の感覚』(sense of self in the act of knowing)を生み出すのかという問題」だという。つまり、脳内の映画を見ている自分を認識する自分がどのように生まれるか、という問題。(162)
 
●意識と情動は切り離せない

ダマシオ教授の説で一番面白いのは、「認識は感情である」と喝破しているところだと思う。

そもそも情動・感情とは何か。

ダーウィンやフロイトは19世紀に情動を進化の文脈でとらえ、基本的な情動がいろんな生物のあいだに共通して見られることを指摘したが、それ以降、哲学でも科学でも情動はまともな研究対象として見られてこなかった、とダマシオ教授は指摘する。

哲学の世界でも神経学や認知科学の世界でも、情動というのは理性とは対極の関係にあって「完全に独立している」もので、考える価値すらないと考えられてきたが、これは「ロマン派的人間観にもとづく屁理屈」だ、とダマシオ教授はいうのだ(648)。また、意識や認知についての議論では長いあいだ、進化的視点、そしてホメオスタシスの視点が無視され続けてきた、と指摘する。

そして、情動は生命の維持(ホメオスタシス)にも、推論と意思決定のプロセスにも、なくてはならないシステムだという。情動とは、進化の古い段階で意識が生まれる以前から生命体に備わっていたものであり、個体にとっても、意識が生まれるために不可欠なシステムなのだ。

ダマシオ教授は、情動(emotion)と感情(feeling)を三つの層に分けて考える。まずは情動。これは意識以前に生命体に存在し、外側から観察可能な現象で、複雑な化学的/神経的反応により生じる。具体的には内臓や筋骨格の変化として外から観察可能。そして、情動が起きている本人には気づかないレベルで、つまり意識よりも前に起こる。

次に、もっと複雑な生物の脳内では、情動が「イメージ」になる。このプロセスも、本人が意識する前に自動的に起きている。

そしてこのイメージに脳が「気づいて」内的にとらえてはじめて、いわゆる普通にいう「感情」になる。

情動は、生物に備わっている代謝調節や反射作用などの「サバイバルキット」的な機能よりも上の層にあり、認識や理性といったもっと複雑な機能よりも下にあるプロセスで、生体調節装置の一部であり、生化学的に決定され、脳の諸装置に依存する、自動的に起こるニューラルパターンだという。

「意識的であろうがなかろうが、行動には情動とそれを支える生物学的機構が必ず伴う」(1003)とダマシオ教授はいう。

生命体のありとあらゆる行動、経験、思考のベースには情動があり、究極的に「生存指向」の行動をもたらしている。

つまり、生きるという目的のために身体にとって良い状態を保つ装置が情動で、その処理のほとんどは脳が「気づく」前に終わっている。

不快感や緊張といった身体全体の状態も情動の一種で、これをダマシオ教授は「背景的感情(background emotion)」と呼ぶ。こうした状態は「現在進行している生理的プロセスや環境との相互作用によって生みだされる内部状態の条件」により引き起こされる。(908)

人間の脳のなかで起こるすべてが生化学的&神経パターンの結果であり、そのもっともオリジナルなかたちが情動なのだから、認識、つまりは意識のはじまりも情動であるというのは理解できる。

●わたしの中のわたしの雛形

人間の身体には、細胞内の化学的特性と変化を感知してホルモンを分泌したり、腸、心臓、皮膚、血管などの平滑筋を収縮させたりして、身体を生存に適した一定の状態に保つ為の無数のシステムがあり、絶えず微細に連係しあっている。

ひとつひとつは「ほとんどがゲノムにより先天的にさだめられた」はたらきをする部品からなる、いわば複雑な交通システムみたいなものだ。

そしてその全体が脳と連絡をとりあっていて、脳内に完全な「ひな形」として存在する(389)。つまり脳のなかに、身体に対応するマップがある。

「この雛形は何も『知覚』しないし、何も『認識』しない。話もしないし、意識をつくったりもしない。この雛形は脳の中の一連の装置であり、その主たる役目は有機体の命の自動化された管理である」(412)

この自動化された自己管理機構を、ダマシオ教授は「原自己(proto-self)」とよぶ。これが、意識がはじまるのに必要な「自己の感覚」を生む装置だというのだ。

有機体の生存のために身体を安定した状態に保っている脳のさまざまな装置が、意識の「前兆」的存在。つまり、ミルフィーユのいちばん下の層、ティラミスでいうとレディーフィンガーにあたる部分だ。

ただし、この層は下にとどまっているだけではなくて、上の層や身体のほかの部分と、化学物質または電気信号をつかって活発にやりとりをしている。

ここでもダマシオ教授は、身体が「単一のシステムではない」ことを強調する。身体は「いくつかのサブシステムの組み合わせであり、その一つひとつが多様な身体的側面の状態について、脳に信号を伝達している」といい、そのサブシステムが進化の異なる段階で生まれてきたものであることにも着目する。(2588)

そのサブシステムの連係の中から、生命体の「物質構造の状態をマッピングしている、統一のとれたニューラルパターン」が生まれ、これが意識の前段階である「原自己」だというのだ。

●時間のなかの動的な存在

ダマシオ教授はこの原自己が生まれるのに必要なシステムは、脳幹核、視床下部と前脳基底部、島皮質、S2皮質、内側頭頂皮質などだと考えているが、ただし、これらの箇所に原自己が宿っているのではなく、原自己は「脳幹から大脳皮質までの多くのレベルに、神経経路により相互に結ばれたいくつもの構造の中で」多種多様の信号から、「動的に、継続的に生み出されている」と考える。(2674)

「動的に、継続的に」生み出され続けている信号のパターン。それが「自己の素」だというのだ。

これを読んですぐに思い出したのは福岡伸一ハカセの『動的平衡』。細胞、さらには分子のレベルで見ていくと、生命活動というのはアミノ酸の並べ換えであり、常にゆらぎ、物質的には激しく入れ替わりながら平衡を保っている、という解説だ。

「生命現象のすべてはエネルギーと情報が織りなすその『効果』のほうにある。……テレビを分解して精密に調べても、テレビのことを真に理解したことにはならない。なぜなら、テレビの本質はそこに出現する効果、つまり電気エネルギーと番組という情報が織りなすものだからである。そして、その効果が現れるために『時間』が必要なのである」(『動的平衡』福岡伸一、木楽舎、137ページ)

生命について福岡伸一ハカセはこう述べているが、ダマシオ教授も、意識が生まれる条件である「感覚的表象の統合」は、「おそらくタイミング機構に依存している」と述べている。意識が生じるには、時間が必要だということだ。

わたしたちという現象は、時間のなかで断続的に光っている信号なのである。

 わたくしといふ現象は
 仮定された有機交流電灯の
 ひとつの青い照明です
 (あらゆる透明な幽霊の複合体)
 風景やみんなといっしょに
 せはしくせはしく明滅しながら
 いかにもたしかにともりつづける
 因果交流電灯の
 ひとつの青い照明です
 (ひかりはたもち、その電灯はうしなはれ)

 宮沢賢治『春と修羅』

宮沢賢治のこの詩を読んで、子どもの頃にひどく衝撃を受けた。なぜなのかは説明できないながら、自分という存在が「仮定された有機交流電灯の照明」のひとつであるという把握に、殴られるような衝撃を受けたのだった。

自分が、そして自分のまわりのあらゆる人たちが、自然界または人間の歴史という仮定された世界の中の、実体があるようなないようなネットワークの上で点滅しながら「いかにもたしかに」灯るあかりである、というのは、すべてを塗り替えるような世界観だった。その見方に圧倒されて、なんだかふわっと軽くなったような気がした。

わたしはダマシオ教授のこの仮説に、賢治が描いたこの世界観を連想する。生命が時間の中で動的な平衡を保つシステムなら、意識も、その前段階のシステムもしかり。いずれも、ゆらぎの中で生まれてくるものであり、確固とした「一枚岩の」存在ではない、というダマシオ教授のこの理論は、「わたし」という存在のありかたに、まったく新しい鏡を用意してくれたように思う。

「わたし」という存在とか認識とか意識とかっていうものは、不変ではないにしても、デフォルトでしっかりしたモノである、とわたしたちは漠然と考えて生活している。

社会制度も多くの哲学も多くの宗教も、「自分」と世界をとりあえず不変の存在だとみなしている。自分という存在は世界認識の基礎なのだから、フワフワ動いてしまっては困ることになる。でもわたしたちというのは実は、毎秒揺れ動く「現象」なのだ。

わたしたちの身体そのものが、無数の細胞がめいめいに忙しくはたらいて動的な平衡を保ち、部分が死んでは生まれ変わっている、ひとときたりともじっとしてはいない「現象」である。

そしてその上に乗っている「意識」も、無数の錯綜する電気信号や化学物質の信号のレイヤーがいくつも重なるという条件が整った上に「いまここ」で、はてしない点滅の連続として生じている現象なのだ。

言語や思考や性格というのは、さらにその上にのっかっているソフトウェアのようなもの。

「自分」が実はそんなたよりないパーツでできている暫定的な存在であるという考えはわたしにとってはとても衝撃的だったし、同時になにか解放されるような明るさを感じた。

これは般若心経にある「色即是空空即是色」ってやつと同じじゃないかな、とわたしはひそかに思っている。

わたしたちの世界というのは、個人的な内面のレベルから政治経済のレベルにいたるまで、ありとあらゆる物語で構成されている。

モノとしての自分も、自分の意識も、揺れ動く更新可能な存在なのだということを、賢治の詩もダマシオ教授のこの理論も、実感させてくれるのだ。

ちょっと話が壮大にそれてしまったが、ダマシオ教授の説、なかなか刺激的ではないでしょうか。

まとめると、

・意識は一枚岩ではなく、注意行動と意識は分離することもある
・脳内には身体感覚のひな形があり特定の脳の部位にそれぞれ表象されている
・「自分」のなかには、生命保持装置としての「原自己」、自己の意識が生じる「中核自己」、そして言語活動など理性のベースである「拡張自己」がある
・原自己は脳の比較的古い部分に、拡張自己は新しい部分に頼っている
・感覚も感情もニューラルパターンのイメージとして脳のなかにあらわれる
・身体と脳、脳の各部分はお互いに入出力を繰り返し、影響を与え合う、重層的な存在である
・認識は感情の一種としてあらわれる。意識には情動が不可欠である

といったところ。意識がどう始まるかについてのダマシオ教授の説は、また別のときにあらためてまとめてみたいと思います。


【TOMOZO】yuzuwords11@gmail.com

米国シアトル在住の英日翻訳者。在米そろそろ20年。マーケティングや広告、雑誌記事などの翻訳を主にやってます。

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