[4983] 古井由吉さん追悼◇Windowsとペン操作の遅れ◇「わたし」がわたしに気づくとき

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《まあ、やはり慣れの問題。》

■日々の泡[030]
 古井由吉さん追悼
 【古井由吉/哀原】
 十河 進

■グラフィック薄氷大魔王[650]
 Windowsとペン操作の遅れ
 吉井 宏
 
■ゆずみそ単語帳[28]
 「わたし」がわたしに気づくとき
 TOMOZO
 


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■日々の泡[030]
古井由吉さん追悼
【古井由吉/哀原】

十河 進
https://bn.dgcr.com/archives/20200401110300.html

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古井由吉さんが亡くなった。八十二歳だった。僕が初めて古井作品を読んだのは浪人生のときだった。十八である。「先導獣の話」という小説ともエッセイともつかない、不思議な文章だった。

ただ、その短編を読んでいる間、まったく別の時空間に連れていかれていたような気がした。本を読んでいるという現実感が消滅し、その文章の世界に完全に誘い込まれた。読み終わったときには、ハッと夢から覚めた気がしたものだ。

それから第一作品集「円陣を組む女たち」を読み、続いて「男たちの円居」を読んだ。「円居」を「まどい」と読むのだと知った。大学一年になったとき、「杳子/妻隠」が芥川賞を受賞した。「妻隠」を「つまごみ」と読ませるのだと知った。

それ以来、「仮往生伝試文」まではエッセイ集や対談本を含め、欠かさず単行本を買っていたが、その後は気になったものだけを買うようになった。「仮往生伝試文」についていけなかったからだ。その後も「陽気な夜まわり」や「野川」などを購入した。

しかし、「仮往生伝試文」まではすべて完読し、何度も読み返し、文庫本が出たらそれも買った。僕が気に入っていた処女長編「行隠れ」は単行本で読み、文庫版で読み、河出版「古井由吉作品集」で読んだ。文庫版で大幅に削除訂正されていたからだ。

ということから、僕の書棚には同じ作品が単行本、文庫本、作品集と揃っている。河出版作品集は全七巻で、七巻めのエッセイ編が刊行されたのは一九八三年のこと。六巻までが小説で「親」「椋鳥」などが最新の作品だった。

僕は作品社から出た「古井由吉エッセイ集」全三巻も揃えていて、その一巻めの見返しには、古井さんのサインが入っている。作品社は文芸誌「作品」を刊行し、その創刊号から休刊号までに「槿」が連載されており、僕はその「作品」全巻も持っていた。

古井さんは河出書房にいた編集者の寺田博さんと親しく、寺田さんが作品社を立ち上げた後、依頼されて「槿」を連載したのだろう。その後、寺田さんは福武書店(現ベネッセ)に移り、文芸誌「海燕」を立ち上げ「槿」の連載を再開した。

そのように一九七〇年代から八〇年代にかけて二十年以上、僕は熱烈な古井由吉ファンだった。試みに「古井由吉論」を三十枚ほどでまとめたこともある。その濃密な文章の魅力にとらわれていたのである。

さて、以前にも書いたけれどエッセイ集の見返しにサインが入っているのは、当時、月刊「小型映画」編集部で机を並べていたH女史が「杳子」の映画化を企画し、制作者として古井さんと知り合いだったからである。彼女に頼んでサインをもらったのだ。

彼女は、当時「自主映画の母」などと呼ばれる存在だった。十六ミリで「杳子」(1977年)を映画化し、「ぴあシネマブティック」として科学技術館地下ホールで公開した。「杳子」の姉の役は山口小夜子。杳子の姉も精神を病んだキャラクターだった。

古井さんの作品は映像化するのが困難だが、初期のものなら可能かもしれない。そう思ったのは、神代辰巳監督である。当時、古井作品としてはかなり評判になった「櫛の火」が神代監督によって東宝で映画化(1975年)されたのである。

主人公は、美青年で人気抜群だった草刈正雄だ。最初の方で死んでしまう大学時代の恋人は、桃井かおり。主人公が後に知り合う人妻を、ジャネット八田(後に阪神の田淵と結婚した)が演じている。けっこうハードなセックスシーンもこなしていた。

しかし、映画「櫛の火」は撮影監督の姫田さんの証言によると「試写では全員が傑作だと思ったが、併映作品との関係で二十分もカットされて、わけがわからないものになった」という。併映は、蔵原惟繕監督の「雨のアムステルダム」。神代監督は蔵原監督の助監督出身で、師匠に「あんたの方をカットしろ」と言えなかったらしい。

それでも、原作を何度も読んでいたせいか、僕にはおもしろい映画だった。神代監督独特の曖昧な描写が、「内向の世代・朦朧派」と揶揄された古井さんの世界に合致したからだ。ちなみに題名は古典に精通している古井さんらしく、「古事記」に出てくる神話から採っている。

古井作品を読み込んだおかげで、僕も古典を読むようになった。古井作品に突然出てくる文章が「梁塵秘抄」だったり、「平家物語」だったりするからだ。「仏はつねにいませども」とか「遊びをせむとて生まれけむ」といった「今様」もよく出てきた。

しかし、僕が最も影響を受けたのは、古井作品の冒頭の一行であり、その後の展開方法だった。たとえば「行隠」の冒頭は、「その日のうちに、姉はこの世の人ではなかった」という一文である。しかし、実際に姉の自殺がわかるのは、ずっと後半になる。

古井作品の中でも、僕が特別に忘れられないのは短編「哀原」だ。冒頭の一頁をまるまる引用したいくらいだ。とりあえず冒頭の一行は「原っぱにいたよ、風に吹かれていた、年甲斐もない、と友人はおかしそうにいう」と始まる。

そして、幻想的な光景が語られるのだが、三番目の段落で「夢だったのだろうね、と私は毎度なかば相槌のような口調で答える」と、初めて語り手が「私」として出てくるのだ。この手法で、僕は初めてまともな短編を仕上げることができた。三十のときだった。

自分でも古井作品の影響がもろに出てるなと思ったが、それを「文學界」新人賞に応募して一次選考を通過し、作品タイトルと名前と住居地が載ったときには舞い上がるほどうれしかった。タイトルも古井さんの影響を受けていて、「橋姫」と付けた。


【そごう・すすむ】
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■グラフィック薄氷大魔王[650]
Windowsとペン操作の遅れ

吉井 宏
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●Oculus Rift SとOMENノート

「2020年はVRモデリングだ!」と、昨年クリスマス直前にOculus Rift Sと、比較的安価なゲームパソコン(HPのOMENノート)を購入。ただし、VR空間でのモデリングなど、制作作業についてはまったくの挫折中で、12月29日以来ヘッドセットを一度もかぶってもいないw そのへんについてはまた書きます。

で、意外だったのは、そのOMENノートのパワーが3年前のXeon12コアの黒筒MacProと同等以上だったこと。グラフィックは3DCGに最適だし、レンダリングも同等かちょっと速い。

AppleCare切れが迫るMacProの後継として、パワーも耐久性もあるOMENノートをメインマシンにしちゃってもいいんじゃないか? 普段はMacBook Airなどの手軽なマシンを使い、力作業はゲームパソコンで行う、という……。

●ペン操作が一瞬引っかかる

それでOMENノートをEIZO 27インチディスプレイに繋ぎ、Modo作業を集中的にやってみた。Windowsでどうしても慣れないのが、ワコムペンタブで操作しようとする瞬間の一瞬の遅れ。カーソルを置いたところから、右クリックのパネルを出そうかどうしようか迷ってるらしい動作。

タブレットPCの時代に搭載され、ずっと悩まされてる「長押し問題」だ。「設定」と「コントロールパネル」が別になってることを忘れてて手こずったけど、長押し関連の機能は全部オフにした。
http://www.yoshii.com/dgcr/windows10nagaoshi1

それでも、一瞬引っかかる。カーソルを置いてこれから移動しようって時に、コンマ何秒遅れがある。ポイント移動のように何百回何千回も繰り返す操作が、いちいち遅延する。めちゃくちゃ気持ち悪い。

この点をクリアできないとメインマシンとしては使えない。しかし、Windowsでペンタブを使ってる人は、このへんをクリアして使ってるに違いないのだが、おかしいな……。

逆に、長押し有効にして、効くまでの時間を最大にすると、動かし始めの引っかかりが軽減されるような気もする。気のせいの範疇かもしれんけど。慣れりゃ大丈夫なのかなあ。
http://www.yoshii.com/dgcr/windows10nagaoshi2

●ペンの引っかかり問題、解決!

ワコムのドライバを古いものに代えたら、引っかからなくなった〜〜〜!!! OMENのメインマシン化を考えて以来2か月以上も困ってたけど、最新ドライバの問題だったとは。

リンクの2018/07/16 18:05:32のサポートからの返答、「6.3.29-6」を入れると直るそう。最新ドライバをアンインストールして古い「6.3.29-6」を入れる。これ、1年半たっても解決されてない問題なんだ。3年前のMac版ドライバの問題が9か月間くらいだったから、長い!
https://www.clip-studio.com/clip_site/support/request/detail/svc/54/tid/97644


引っかかり問題は解決したけど、やっぱMacとPCのキーボードショートカットの違いで混乱するのは面倒。そこ以外はModoやAdobe製品を使う分には、MacとPCでそれほどの違いはない。まあ、やはり慣れの問題。だから、今無理して慣れる必要もないけどね。

●おまけ、「AI画伯」で巨匠タッチ

https://ai-art.tokyo/


「AI画伯」がおもしろい。ポートレート写真を入力すると、巨匠のタッチで肖像画を生成してくれるもの。いくつかの写真をいくつかのタッチでやってみた。なんかよく映画に出てくる冷酷な悪者みたいにw
http://www.yoshii.com/dgcr/AIgahaku1

↑下段。生成された肖像画をもう一度処理すると、パタリロかスカウターをつけたナポレオンみたいになった。さらに繰り返してAI画伯したら、ついにメガネが消えたw

絵をソースにできるならと、「ヴァン・ゴッホの自画像をモジリアニが描いたら?」もやってみた。ヒゲが消えるのがオカシイ。
http://www.yoshii.com/dgcr/vangogh-AIgahaku

TDWキャラでもやってみようと思ったら「顔が見つかりませんでした」でNG。動物などにも対応する予定らしいのでそのうち。


【吉井 宏/イラストレーター】
HP  http://www.yoshii.com

Blog http://yoshii-blog.blogspot.com/


テレワークを経験した人たちに「自己管理・時間管理の困難を乗り越えて自宅で仕事するフリーランス」の理解が進んで、仕事しやすくなるかもしれない。と思ったけど、「ほっとくと延々ネットやSNSを見てるだろ?」という理解かもねw

◯ウォーキングアプリ「STEP ISLAND」

ミクシィのゲーム感覚のウォーキングアプリ「STEP ISLAND」がリリースされました(現時点でiPhoneのみ対応)。歩き回るキャラクターを数十匹提供してます。

App Store https://apps.apple.com/jp/app/id1456350500

公式サイト https://stepisland.jp



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■ゆずみそ単語帳[28]
「わたし」がわたしに気づくとき

TOMOZO
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前回、ちょっとながながと『意識と自己』を読んでの要点と感想を書いてみたのだけど、意識がどこから生じるかっていう部分の仮説についてはスルーしてしまったので、その部分だけもう一回まとめてみました。

●進化の中で生まれた意識:チェシャ猫の笑い

意識はどこに宿るのか。

大昔からいろんな賢人たちが頭を悩ましてきた問題だけど、脳神経学者のアントニオ・ダマシオ教授が『意識と自己』で紹介している理論によると、どうやら意識は「情報の間」に宿る、といえそうだ。

……「情報のま」というお部屋ではなくて「情報のあいだ」である。

ダマシオ教授は、意識は一枚岩ではなく重層構造であり、脳と身体のあちこちが互いに信号をやりとりする中であらわれてくる、と言っている。

下から上へ並べると、
原自己(Proto Self)
中核意識(Core Consciousness)
拡張意識(Extended Consciousness)
という構造だ。

いちばん最初の〈原自己〉は進化上、古い脳の部分の機能で、〈拡張意識〉は進化の歴史のなかでもっとも新しい大脳皮質による機能。

〈原自己〉はいわゆる無意識の世界、〈拡張意識〉は言語と複雑な思考、推論などがひろがる世界。そうしてその中間にある、意識が生まれる場所が〈中核意識〉。

脳の中で新しい領域が損傷しても意識そのものは失われず、脳の機能の一部が失われるだけだが、古い領域が損傷すると意識そのものが失われることから、意識のプロセスは進化上古い領域に依存しているのがわかるという。

ただし、それぞれのレベルでの意識にとって不可欠な脳の部位というのはあるけれど、「ここに意識が宿っている」という特定の部位があるわけではない。きまったお部屋が一つだけあるわけじゃないんですね。

そうではなくて、脳のあちこちと身体のあちこちでやりとりされる信号のやりとりのなかに、意識が「動的に」生まれる。

すごくざっくりとまとめてしまうと、意識は情報のやりとりのなかから生まれる情報だ、といっていいのだと思う。

そして、これがまた大切なところなのだけど、その意識は情動として生まれる、とダマシオ教授はいう。

〈原自己〉というのは、ひとつの生命体が内面にもつ生命維持状態のニューラルパターンで、つまり「生きている状態を保ち、それを感じている状態」。でもここにはまだ、それを感じている〈わたし〉は生まれていない。

「情」が発生しているが、それを感じる主がいない。

まるで『不思議の国のアリス』にでてくる、チェシャ猫の「猫のないニヤニヤ笑い」みたいな話だ。

無茶な発想のようだが、でも脳が進化してきた過程に想像力をはたらかせれば、なるほどごく自然な話なのだ。

なにごとにも順序というものがある。

最初の生命であったごく単純な細胞から、何十兆個も細胞のある類人猿やクジラや、人間がでてくる間のどこかに、まずはシンプルな形での意識が発生したはず。

(ちなみに、カタツムリにはニューロンが1万個、アリには25万個、ゴールデンハムスターには9,000万個、ヒトは860億個、象は2,570億個あるそうです。By ウィキ先生)

ダマシオ教授の理論の特徴のひとつは、こうした生物進化の視点に立っていること。

意識が命を支える装置として非常に役に立っているということをみても、進化の中で意識が育ってきたに違いない、というのだ。

「特定の有機体の利益のためにイメージの効率的操作を最大にするような装置があれば、それは、そうした装置をもつ有機体に莫大なメリットをもたらしたはずで、進化において幅をきかせたに違いない。意識とはまさにそのような装置である」(アントニオ・ダマシオ『意識と自己』講談社、田中三彦訳、Kindle版 位置434)
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●〈わたし〉は〈対象〉の説明から生まれる

では、そのぼんやりしたチェシャ猫のニヤニヤ笑いのような世界のなかから、どのように自分を認識する意識が生まれるのか?

ダマシオ教授は「有機体がある対象と相互作用するとき、有機体の内部で起こることについての『説明』の構築から」認識が、つまり意識が「感情として」生まれるのではないか、と考えている。

ここでいう〈対象〉は、生命体(ダマシオ教授の言い方だと「有機体」)の内側に生まれるニューラルパターンであって、外から来る信号も、痛みなどの体の内側で生じた信号も、どちらも含まれるし、それが記憶である場合もある。

「原初的な物語…一つの対象が因果的に身体の状態を変えるという物語が、身体信号という普遍言語で語られるようになると、意識が浮上する。明白な自己が、ある種の感情として浮上する」(位置551)

たとえば、歩いているところに猛スピードで車が突っ込んでくる。そのとき、その情報を受けて脳と身体には瞬時にさまざまな反応が起こる。車が近づいているという情報を受け取り、それをプロセスするとほぼ同時に(同時に感じられる速度で)情動反応が生じる。

「あなたに向かってくる車は、あなたが望もうと望むまいと、恐れと呼ばれる情動を引き起こし、あなたの有機体の状態の中の多くのものを変化させる。とりわけ、腸、心臓、皮膚が即座に反応する。」(位置2532)

この反応は〈原自己〉に起こっている。この反応が〈有機体〉つまり身体と脳のシステム中に起きたということと、それを「経験する」というのは別のこと、とダマシオ教授は指摘する。

「意識はわれわれが認識するときに起きるのであり、われわれが認識できるのは、唯一、われわれが対象と有機体との関係をマッピングするときだ」(位置2579)

〈対象〉によって〈有機体〉の状態が変わる。ニューラルマップに変化が起きる。たとえば、車が突っ込んできた、音を聞いた、ニオイを嗅いだ、何かにぶつかった、何かを思い出した、などの結果、〈有機体〉の状態が変わる。

車の比喩でいえば、車が突っ込んできて心臓が止まりそうになり、血管が収縮する。この心臓バクバクの状態が、新たな〈イメージ〉となる。

そうすると、この〈対象〉との出会いによって〈有機体〉の中のあちこちの状態が変わったことについて、その因果関係の説明が別の「二次のマップ」にあらわされ、これもニューラルパターンになる。(位置2941)

〈対象〉のイメージは何度も繰り返し強化され、この〈対象〉が〈わたし〉を変えた、という説明の情報が、つかの間の〈わたし〉という認識になる。

これは一回限りのやりとりではなく、常に外界にセンサーをはたらかせている感覚器官と脳と体の各部の間での、目まぐるしい交換の中で絶えず起きている。

「あなたは感じとられた中核自己として、一時的ではあるが間断なく、認識の海面上に顔を出している。その中核自己は、脳の外から感覚装置へと入ってくるものにより、あるいは脳の記憶倉庫から感覚的、運動的、または自発的想起へ向かうものにより、繰り返し更新される」(位置2970)

もちろんこのレベルには言語はまだないので、この「説明」は〈イメージ〉あるいは感覚であり、身体的な表現としては情動になる。

〈有機体〉全体からの信号と「対象のマップ」からの信号を結びつけているこの二次のマップも、脳のいくつかの箇所、おそらく帯状回や視床などで個別に生成されて、楽器の「合奏」のような形で生まれるのではないか、というのがダマシオ教授の仮説だ。(位置3117)

この中核自己そのものは「パルス」の形で生み出されるごく瞬間的なパターンであり、この上にさらに脳のあちこちで書き出された記憶がくっついてくると、それが継続して認識できる「自伝的自己」となる。この上にさらに推論や言語がごちゃごちゃとのっかって、わたしたちが普段感じている自分、つまり〈拡張意識〉ができあがる。

ここで肝心なのは、このプロセスがものすごーく複雑な重層的なしくみであって、しかも一方通行ではなく、双方向のプロセスが無数にある中であらわれてくるものだ、ということ。

●意識に必要なデータと時間、スケール感

そして、ダマシオ教授の理論で大切なのは、意識が複雑な情報システムであること、重層的であること、一枚岩ではないこと、であって、「身体がないところに意識は生まれない」理由は、身体が取り込んで生成する(外界と体内の)情報の量と質が必要であるという意味だ。

つまり身体という「モノ」がつくるのと同じ条件ニューラルパターンがつくれるのであれば、理論的には細胞である必要はなく、炭素でできている必要はない、ということ。

身体は膨大な情報をプロセスし、同時に生成する「場」「システム」であるということである。ここを間違えると、ダマシオ教授が『意識と自己』の中で繰り返し指摘しているように、「骨相学」的な考え方におちいってしまう。

なので、仮に、身体の感覚器官から吸収する情報のすべて、身体から脳が受け取る情報のすべて、さらには脳から出た信号が身体に働きかけてかえってくる反応も含めて、生きている脳が受け取っている情報のすべてが完全にほかの方法で再現できるとしたら、そして生命またはそれと同様のドライブがあれば、箱の中でも、水槽のなかでも、なにもない空間でも(なにもない空間で膨大な情報をやりとりする方法を考えるのは、チェシャ猫の笑いを思い浮かべるのと同じくらい難しいけど)、意識はきっと生じるわけなのである。

ミソは、この情報の莫大さ、ちょっと容易には想像できないほどのスケールと複雑さだ。

ともかくも、私たちは、あらゆるレベルで、情報でできている。

そして、意識は時間のなかで生じるものである。

ニューロンの発火にかかるのは数ミリ秒。心の中の事象、イメージが発生するには数十〜数千ミリ秒かかるという。

「あなたが特定の対象に対する意識を「生み出す」までに、分子からみれば…永久とも思えるほど長い間、あなたの脳の装置の中でものごとが時を刻んでいたのだ。意識のプロセスを引き起こす実在に関して、意識には時間がかかるという考え方を裏付けるものに、刺激が意識されるまでの時間に関するベンジャミン・リベットの先駆的実験がある。意識までにはたぶん500ミリ秒かかる。」(位置2221)

●異物がわたしを作る

ちょっとポエムな言い方でダマシオ教授の理論を言い換えてみると、「わたし」が存在するためには、わたし以外の何かとの出会いによってわたしの中に変化が起きる必要がある、といえる。

あたたかいスープの中に浮いているような〈原自己〉に、ちいさな稲妻のように何かが起こる。ていうか、何かが常に起こっている。突進してくる車、コーヒーの香り、靴下の香り、痛み、かゆみ、悲しみ。それが自分に変化を起こして初めて、その対象と、その結果を体験している自分を初めて認識する。

あまり安易に一般化するのは考えものではあるけれど、「外」の「異物」との間に起きた現象が「わたし」の認識につながるというのは、意識の上層部にある言語レベルの思考でも起きていることだと思う。

思考というのは外の世界の情報と「わたし」が出会って、その結果「わたし」の状態が変わり、それに驚いた脳がその関係性を学び、新しい説明/物語を作り出していくということだ。

言語もきっとそうやって生まれてきたのに違いないと思う。言語は、きっと世界の現象の名づけからはじまったはず。

意識とか思考というソフトウェア面だけでなく、身体というハードウェア面でも、生命そのものが外部の情報を取り込んでいくことによって成り立っている。福岡伸一ハカセが『動的平衡』で説明してくれたように、食べるという行為は食物を分子レベルで分解して、体内で利用可能な分子やエネルギーに変換し、身体に取り込むということだし。

相手とそれに対する反応があって初めて自分があらわれる。少し「意訳」になるけれど、意識は情報の間に生じるというのはそういう意味だ。

●まとめ

ということで、かなり衝撃を受けた本だったので、二回にわたってながながと書いてしまいました。

有機体には重層的な意識構造があって、安定状態にある有機体が自分の内部に起きた変化とその原因に「気づく」ときに意識が生まれる。そしてその意識とはどこか一か所にあるものではなく、動的なシステムの中からイメージとして生まれている。

……ちょっと世界を塗り替えるような把握だとわたしは思ったのだけど、その感動が少しでも伝わっていれば嬉しいです。

【Tomozo】
英日翻訳者 シアトル在住
https://livinginnw.blogspot.com/



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編集後記(04/01)

●偏屈BOOK案内:波多野聖「ダブルエージェント明智光秀」

ダブルエージェントとは、光秀が将軍足利義昭の側用人として上洛したが、信長にも仕える身でもあったということ。武家最上位の将軍、もう片方は将軍を奉じた絶大な力を持つ武将。現代に置き換えると、財閥系企業の総務部長でありながら、破竹の勢いで一部上場を果たした新興企業の平取締役としても働く、二重職籍を持つ存在だ。光秀も横文字で表されるとは思ってもなかっただろう。

十兵衛は堺衆のインテリから鉄砲や玉薬の知識、医学や薬術、天文学、航海術、占星術、南蛮の政や戦について学んだ。なかでもマキャベリの「第一の者(君主論)」は十兵衛に大きな影響を与えた。それは信長の「天下布武」と重なる。持つべきものは良き法と良き軍備である。深謀遠慮の信長は、幕府の組織を法の形をとって意のままに動かすと同時に、将軍義昭の力を制約した。

戦国の世を終わらせ、天下統一を成し遂げる巨大プロジェクト。その成功にはどのようなキャラクター(人材)、ファクター(要素)、プロセス(過程)が必要であったか。天下統一プロジェクト遂行が、誰によって・何が・どのようにして行われていったのか。信長はヒト・モノ・カネが複雑に絡む土地問題を部下に取り組ませることで、複雑なマネージメントを学ばせた、と筆者は説く。

50歳前後に財閥企業に中途採用され、課長待遇で入社、三年後に筆頭取締役に昇進した光秀。実力主義の信長家臣団の中でも、その早さは図抜けている。だが表立ってはその理由が分かっていない。合理主義者の信長が理由もなく光秀を厚遇したとは考えられない。表に出せない重要な役を光秀が請け負っていたのではないか、という仮説が成立する。光秀は信長にも義昭にも仕えている。

二人の主人を持ちながら最終的に信長につき義昭を見限る、という結論から逆算すると、早くから義昭の情報を信長に伝えていたと考えられる。信長は油断のならない義昭を、光秀を使って諜報・監視していて、信長暗殺を未遂に終わらせたのだ。報告・連絡・相談、三つの違いを意識すると意思疎通の重要性が理解できるし、どのタイミングでどう行えばよいか、光秀は分っていたはずだ。

信長は光秀に囁く。「天下布武が終わった後、朝廷を滅する。儂は天子になり織田家は皇族となる。儂が太閤となり信忠を将軍にすることや、儂を大御所という立場にすることも悪くない。信長があらゆる権威の頂点に立つ。そしてそれを未来永劫持続する」。光秀は信長を滅することを決意する。そして、下剋上を行った者はあっけなく惨めな最期を遂げれば、この連鎖は断てると考える。

だが、誰に俺を討たせる? 人たらしの秀吉に決めた。光秀は万感の思いを込めて「時は今天が下しる五月かな」を残す。光秀は、信長の朝廷を滅する企てを阻止するため、という真実は誰にも語らず、「主君信長を殺し、愚かにも天下取りを狙った明智光秀」を演じた。そして、秀吉との一戦で惨めに負ける。そこまで完璧に演出した。その意識を武士に刷り込めば下剋上の抑止力になる。

本能寺の変から8年後、天下は羽柴秀吉による統一で定まろうとしていた。小田原城を囲み兵糧攻めの長期戦。そこへ伊達政宗が遅参する。秀吉は怒って謁を許さない。政宗を助け、秀吉との間を取りなしたのが千利休だった。茶室の秀吉、政宗、そして利休。二人とも陶然とさせられる利休の点前。ここまで来ると、そうきたかと思う。なるほど、納得のいくエンディングである。(柴田)

ダブルエージェント明智光秀 波多野聖 幻冬社 2019
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4344429230/dgcrcom-22/



●「発酵ぬかどこ」続き。ぬか侍からのアドバイス「ノーベル賞作家の大江健三郎氏もこういっている。『もう取り返しがつかない、ということはない。いつも、なんとか取り返すことができる、というのは、人間の世界の〝原則〟なのです。』」

「ぬか漬の基本はぬか漬けを続けること。」

「ぬか床には、おもに乳酸菌と酵母菌が住み着いています。乳酸菌は酸素を好みません。酵母菌は酸素を好みます。」

「ぬか床を混ぜる頻度により、酸味と旨みのバランスを取ることができます。よく混ぜれば酸味を抑えることができます。」(hammer.mule)

ぬか床の手入れ(ぬか侍)
http://apple-weblog.com/care/


ぬか漬けQ&A
http://www.bea.hi-ho.ne.jp/michinaga/nuka-q-a.htm