ショート・ストーリーのKUNI[257]【番外編】桜・猫・電車
── ヤマシタクニコ ──

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世間では新型コロナウイルスの関係でメディアも医療ネタばかりの昨今、それと関係なく私も実は入院してたり、今は通院治療に切り替えたりしているのだが(へ~)、まあそのことについては今後くわしいことを書くかもしれないし、書かないかもしれない。なりゆきまかせにしたいので、皆さんは手洗い・うがい・そしてマスクの着用に努めてください。



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しかしまあなんですね。最近の病院ってのはすごいですね。今まであまり縁がなかったのでびっくりしました。

まず、診察券が違う。地元の開業医の診察券といえば、たいてい角丸の厚紙にプリントしたもので、裏面に診療時間や休診日の情報、たまにプラスティックのものもあるけど、大した情報が詰め込まれてるわけじゃない。ボールペンで事務の人がそこに日付けを書き込む程度。ですよね。

しかしベッド数900超、何十もの診療科と関連機関も多数抱える大病院となると話が違う。初診時に渡された診察券は見た目はクレカ風、8桁の数字が刻印されている。それを2回目以降は、広いロビーの一角にずらりと並んだ再診受付機に通す。すると、その日の予約内容が表示され、「確認」ボタンを押すと、それで受付完了。

病院って、とりあえず行ってみないと、その日何をさせられるかわからないもので、いきなり、「ではこれから3階で血液検査をしてきてください」とか、「一階でレントゲンを撮ってきてください」とか、その場でどんどん患者に指令が飛ばされる。

でも、このへんの連携がすごくて、行った先ではすでに担当者が待ち構えている。確認に用いられるのは診察券。これをリーダーに通してオッケー。検査のために採血・採尿が必要なときは自分で機械に診察券を通す。すると、採血だけのときは受付票が出てくるが、採尿が必要なときはそれに加えてカップがぽこんと出てくる。

──おまえ、何でも知ってるんだな…と、思わず診察券と尿カップを見比べて呆然とする私って… 変ですか? すごくないですか、これ? あ、そう。どうってことないですか。そうですね、そのくらいどうってことないですよね…。おしっこのカップくらい…。

つまり、診察券は身分証明書であり、患者一人一人のカルテにつながっている。そして、各部門のデータは一元管理されており、即時更新されている、ということになろうか。

入院すると、今度はバーコードがプリントされたリストバンドなるものを着けさせられ、これが診察券に代わる。どこに行っても「ピッ」で用が済む。看護師は全員、ポケットチャートと呼ばれる端末を携帯している。

さて、その病院にまずは検査のために2月下旬の4日間入院した。6人部屋で、いろんな科からいろんな症状の人が集められている。

幾多の癌を経験、満身創痍ながら「それでも生きてるで!」と豪快に笑い飛ばすムードメーカー的なOさん。すぐに涙ぐむ白髪の上品な老婦人、Kさん。他人の会話は意に介さず、ひたすら本を広げて何かの学習にいそしむインテリ風Hさん。最後まで言葉を交わす機会がなかった謎のTさん。そして私。

端のベッドは空いていたと思う。基本的にふだんは間仕切りのカーテンを閉め切っているので、お互いの様子はあまりわからない。

やがてHさん退院。入れ替わりにどこかの老人施設からかなりの高齢女性、Sさんが入ってきた。脳梗塞の後遺症で半身不随、かなり認知症が進んでいるようだ。そういう人が入ってきたとき、看護師さんが常にするべき質問らしい質問をする。

「今から私が言う言葉を言ってください。桜・猫・電車」
「さくらあ…ねこ…でんしゃ」
「この言葉は後でもう一度聞きますから、覚えておいてくださいね」と看護師。

声は筒抜けなので、いつのまにか残り4人もカーテン越しに聞き耳を立てている。しーん。さくら、ねこ、でんしゃ。さくら、ねこ、でんしゃ…よっしゃ、覚えたぞ。絶対みんな、そう思ったと思う。さあ、忘れないうちに聞いてくれ。早く頼むよ!

「今日は、何年何月何日ですか」
「何年? 何年やろなあ」
「西暦でも年号でも、いいです」
「そんな…西暦みたいなもん知らんわー」
「年号では?」
「…昭和?」
結局Sさんはこの質問に答えられなかった。
「では、100から7を引いてください」
あ、定番の質問。
「あー…93」
「ではそこからもう一回7をひいたら?」
「えー、まだひくのん?」
「はい」
「もうええやん」

そう言いながらもSさん、なんとか「86」をたたきだす。カーテンの中の4人、口には出さないがひそかに「おおおっ」と思ったに違いない。しかし、Sさんの健闘もここまで。

当然、その後で「では最初に私が言った言葉を、思い出して言ってください」にもてんで答えられなかった。私を含む4人はひそかに安心したと思う。だって、まだ覚えてるもん。桜・猫・電車。

私が一瞬どきっとしたのは、100から7を引いていくやつだ。実は私は引き算が大の苦手なんだもん。そもそもみんな、どうやって引き算してるの? いまさら聞けない疑問。私の場合は…内緒だ!

小学校ではどんなふうに習っただろう? まったく記憶がない。以降の人生、ごまかしごまかし生きてきたような気がする。認知症になったら「93」も危ういと思う。

割り算も苦手だ。なんとなくイメージ似てませんか? 引き算と。「これをこれで割る。まず何が立つか」と、考えさせられるというか、推測させるられるのが、なんか、もうあかん。めんどくさい。かけ算や足し算はそうじゃなくて、なにも考えず手を動かしていけば(筆算の場合ね)答えが出るのに。と思ってしまう。

子供の頃、父が教えてくれたそろばんの割り算は、ちょっと違った。かなり昔、某SNSに書いたことがあるが、大正生まれでそろばんの段位を持っていた父の教えるそろばんは昔風のもので、かけ算と同じく割り算にも九九があった。

つまり、九九さえ覚え、それに従って手を動かしていけば、そろばん上に正解が示されるのだ。これは私みたいな人間には朗報! だった。うれしくて、割り算の九九を一生懸命覚えた。

二 一 天作の五(にいちてんさくのご)
二 進 一 十 (にっしんのいんじゅう)

三 一 三十一(さんいちさんじゅういち)
三 二 六十二(さんにろくじゅうに)
三 進 一 十(さんしんのいんじゅう、さっしんのいんじゅう)

四 一 二十二(しいちにじゅうに)
四 二 天作の五(しにてんさくのご)
四 三 七十二(しさんななじゅうに)
四 四進 一 十(しっちんのいんじゅう)

以下略。興味のある人はくわしく説明されているサイトもあるので、そちらを見ていただくとして、要は2の段には2つ、3の段には3つ、4の段には4つの九九…があって、たとえば「三 二 六十二」は2を3で割ったら6が立って2が余るという意味で、忘れても復元できるけど、もちろんいちいち考えていては話にならない。とにかく理屈ぬきに覚える。

覚えさえすれば誰でも割り算が楽にできるというものだ。開平(平方根を求める)や開立(立方根を求める)の場合も、ある程度このように機械的な操作を使ったような気がするが、自信ない。違ったかな。結局そろばんの練習はすぐにやめてしまったし、あっという間に忘れた。そもそも計算なら電卓使えばいい…しね。

亡くなった夫は数学が大好きな人だったので、理論より徹底的なトレーニングの世界、そろばんをはなから馬鹿にしていた。「計算なんか電卓でできるやないか!」と。父の前でもその態度を隠そうともしなかったので私はひやひやしたものだ。

だが、そろばんができるというのは普通、暗算が出来るということだ。上級者はみんな「私の頭の中のそろばん」を自在に操ることができるので、電卓もそろばんさえ必要としない。そこはまあ小さな誤解として。

実業学校を出た後、丁稚奉公も経験した父は高等数学とは無縁だったろう。生涯学歴コンプレックスを抱え、酒に酔っては恨み言をぐだぐだ並べた。その父のプライドであり、実際、職探しで役立ったのは、全盛期には開立まで暗算でこなしたというそろばんの能力だったろう。

えっと。だからさ。まあいいけど。話それちゃったし。

同室のSさんはこのとき、自分で食事が摂れず、24時間点滴で栄養補給していたが、そのような自分の状態が理解できてなく「おなか減った」「なんで食べさせてくれへんねん」「ひと殺す気か」と、時々周りをを笑かすために言ってるのかと思えるようなことを大きな声で叫んだり、点滴をはずしたりして大暴れしていたが、翌日にはどこかの部屋に移動となった。4人のうちの誰かから苦情が出たのかも知れない(私じゃない)。

しかし、今日が何年の何月何日かなんて、割とどうでもいいと思いませんか?まして、平成でも昭和でも令和でも、全然どうでもいいですよね? 知りたければそこらに書いてあるし。

それより、いまからでも引き算や割り算の方法を勉強したほうがいいですか? それより、いまだに無駄に覚えている「桜・猫・電車」はどうなるのだ? と私は聞きたい。

よく考えたら春にぴったりのこのお題。なにやらイメージが浮かんでくるようである。満開の桜の枝が重なり合う観光鉄路。折からごとごとと電車がやってくる。開け放しの窓からのぞきこめば、なあんと猫たちが昼間から酒盛りだ。楽しそう。私もまぜてほしい。

【ヤマシタクニコ】koo@midtan.net
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入院中はパソコン持ち込み禁止だったし、週刊誌でも買ってきてと妹に頼んだら、女性週刊誌は売り切れだったそうで持ってきたのは「週刊文春」と「週刊新潮」。私はおっさんか。と言いながら結局そこそこ斜め読みした。いや、眺めたというか。

何しろ女性週刊誌でも美容院にでも行かない限り読まないし、ましておっさん週刊誌。何十年ぶりかで手に取ったわけで、一体この世界は今どうなってるんだろうという好奇心で。

ところが、「週刊文春」をパラパラと見てたら、(多分)昔と変わってない昭和な雰囲気で驚いた。どことなく垢抜けしないレイアウト。手書き風のタイトルカット。全体にゆるーい雰囲気。

うわーと思いながら「週刊新潮」の方を見ると、こちらはもう少しスッキリしていて、若干洗練されている。

ただし、「週刊新潮」を見ていたら、手作り感の残った、わちゃわちゃと落ち着かない紙面の「週刊文春」の方が、なんだかパワフルで親しみやすいものに思えてきた。「週刊新潮」、何を中途半端にすましてるんだ、みたいな。

コラムの執筆陣も「週刊文春」は土屋賢二、みうらじゅん、福岡伸一、クドカン、町山智浩、桑田佳祐とにぎやかで楽しい。櫻井よしこ、百田尚樹の名前が目立つ「週刊新潮」は柴田編集長にまかせておこう。