まにまにころころ[176]ふんわり中国の古典(論語・その39)孔子先生による弟子の悪口リストです(笑)
── 川合和史@コロ。 Kawai Kazuhito ──

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●こんなこと、きっと一生に一度ですよ

コロこと川合です。一昨日が誕生日で、43歳になりました。不惑に入って三年。いまだ惑うことばかりです。誕生日を非常事態宣言の中で迎えるなんて初めて。惑うというか、戸惑うというか。いつも、誕生日は実家で迎えるマイルールを設けていたのに、今年はそれも自粛です。

ただ今年に関しては、それもちょうどよかった面もありまして。弊社、この週末、事務所を移転したんです。そのあれこれがまったく捗っておらず……。この土日になんとか、荷物運びだけはそこそこカタチにできました。

不要不急の外出は厳に自粛しつつも、要で急なことでしたので仕方ない。でも、少しでも人との接触が少ないようにと、できるだけ夜、人が少ない時間帯に、まるで夜逃げのようにせっせと事を進めた次第です。





繁忙期で高額、おまけにこのご時世ということもあって、引っ越し屋さんには頼まずに荷物を運んだんですが、何が困ったって、こんな状況ですので知人に気軽に引っ越しの手伝いを頼むことができない。

どうにか少数の関係者だけで大物を運び、手で運べるものには自力で運搬と。

大物の運搬には、デジクリデスクの濱村さんにも大活躍していただきました。パワフルにデスクを運ぶデスクの姿は、それはそれは頼もしいものでしたよ。その後、寝込んでいたようですが……(汗)

旧事務所から新事務所までは、歩いて二十分程度。電車での移動は微妙に不便な位置関係ということもあり、手で運べる小物の移動は基本的に徒歩で運んだのですが、数日かけて十往復くらいしたうち、三回だけタクシーを使いました。

で、乗るたびに新コロナの話をしたんですが、やはり大変なようです。

なんせ、人が外に出ることを自粛させられているのですから、お客さんが街にいない。特に夜。飲みに行って終電を逃す人もまあいない。遠くにも出ない。売上は四分の一ほどとのこと。

それでも公共交通機関に準ずるような存在ということで、営業しないわけにもいかない。タクシー会社によっては、仕方なく人を減らしたところもあるそう。

逆に、景気のいい業界もあるんでしょうけど、差し引きしても超マイナスかと思うと、どうにも暗澹たる気持ちになっちゃいますね。

でもここを何とか乗り越えられれば、歴史的事件に立ち会った生き証人の称号を手に入れることができるんじゃないでしょうか。

人類というでっかいくくりで見れば、膨大な経験値が日々加算されている状態。

こんなこと、きっと一生に一度ですよ。あって二度。三度はないでしょう。

だからといって、この状況を楽しめというのは無理でしょうけど、どうにかしてこの難局を乗り越えて、二十年後くらいに昔話として語りましょう。

二十年後には私も還暦過ぎて、昔話が似合う年になってそうですしね……

さて、気を取り直して、二千五百年ほど昔の話に移りましょうか。


◎──巻第六「先進第十一」十八

・だいたいの意味
柴(高柴・子羔)は愚直だ。
參(曾參)は魯鈍だ。
師(子張)は大袈裟に過ぎる。
由(子路)は粗野だ。

──巻第六「先進第十一」十八について

孔子先生による弟子の悪口リストです。(笑)

子羔は他に比べてマイナーですが、少し後でもう一度出てきます。

ここでは一見けなされているように見えますが、曾參、子張、子路と後に続くところをみると、子羔も孔子先生に認められている実力者ってことでしょう。

魯鈍=愚かで鈍いとされた曾參は、慎重な一面があったようです。曾子と尊称され、孝行の代名詞、孝の体現者である曾參です。

子張が陽キャな話は少し前にも出てきましたね。イケイケです。

子路が粗野なのはもうお馴染みですが、勇猛で実直、質実剛健な男です。

孔子先生による弟子評は次も続きます。


◎──巻第六「先進第十一」十九

・だいたいの意味
回(顔回・顔淵)は、(理想に)近いが、よく困窮している。賜(子貢)は、君命を受けずに(自分で商売して)貨殖し、予測をすればよく当たる。

──巻第六「先進第十一」十九について

お金について対照的なふたりです。

顔回は、もう説明不要ですかね。学問大好き。お金なんて気にしない。

子貢は、天才的な大商人です。どのくらいかと言えば、『史記』の「貨殖列伝」という財を成した人の特集ページに記されたり、後の世に財神とあがめられるレベルです。先を見る目があり弁舌にも優れていて、外交官としても有能です。

子貢は字で、姓は端木(たんぼく)、名は賜(し)です。

現実的な才能で言えば、『論語』の登場人物中トップじゃないですかね。子路に武力で劣るくらいで。

最終巻の中に出てくるんですが、三桓氏の叔孫武叔が、子貢は孔子先生よりも優れていると言ってたよと聞きます。それに対する子貢の返しが子貢らしい。

屋敷に喩えれば、私の塀は肩くらいの高さなので、きれいにしている家の中が覗けるんですけど、孔子先生の塀は何メートルもある高さなので、門を見つけ中に入らなければ、超すごいのが見えないんですよ、って。

その話に続いて、叔孫武叔が孔子先生をけなす話があるんですが、子貢はまた喩え話で返します。

他の賢人は丘陵みたいなもの、超えることもできるけど、孔子先生は太陽や月のようなもの。超えられないし、けなすこともしないほうがいいでしょ、って。

頭の切れも弁舌も随一。そんな子貢は、孔子先生のことを心底敬愛しています。


◎──巻第六「先進第十一」二十

・だいたいの意味
子張が善人の道について尋ねた。孔子先生が仰った。先人の後をただ追うだけではないが、聖人の域には達しない。

──巻第六「先進第十一」二十について

善人は「ぜんにん」でなく「ぜんじん」で、まあ、善き人、立派な人のこと。子張がその道を問うくらいなので、かなり立派な人と思えばいいと思います。

そして孔子先生の回答ですが、「迹を践まず。また室に入らず」(あとをふまず。またしつにいらず)と、これが様々な解釈がありまして。

「先人の事蹟を踏まえて行かなければ、深奥には至れない」
「先人の事蹟を辿るだけでなく独創性もあるが、深奥には至れない」
「先人の事蹟を踏まえずとも事を成せるが、深奥には至れない」
などなど。

まあ、なんでもいいですかね。

イケイケ子張が質問してることを踏まえると、訊いてる側は、「善人、かっこいいっすよね!善人の道ってどんな風に進むんんですかねっ?」といったノリだったんじゃないでしょうか。

とすれば、孔子先生の回答としては、ややたしなめ系かなと。

先人の事蹟を踏まえずともそこそこいい線いくのが善人だけれども、それでは聖人の域に達することはできない。しっかり先人に学んだ上で、その向こう側を目指すようにしなさい、といった感じでしょうか。


◎──巻第六「先進第十一」二十一

・だいたいの意味
論じる内容だけで高く評価しても、それでは君子なのかうわべだけの者なのか。

──巻第六「先進第十一」二十一について

ここ、さっきの善人の話の続きとする説と、独立した章とする説がありますが、いずれにしても、なんとなく言いたいことは分かるような。

立派なことを言ってるからといって、それだけで評価するのは早計だよと。

口だけ立派な人、山ほどいますしね。

口だけでも立派な方が、口も行動もサッパリな人よりマシかもしれませんが……

というか、孔子先生、論じた内容はこうしてまとめられて残っていますけど、成し遂げた実績ってこれといって残ってないですよね。(爆)

教団が形成されて二千五百年も残るような論がまとめられているくらいなので、何も成さなかったとも思えないですが、少なくとも私たち現代人は孔子先生を論じた内容だけで評価しちゃってますね。孔子先生、ごめんなさい。


◎──今回はここまで。

どうしても何かと暗い話が溢れる今日この頃ですが、一日ひとつくらい良い話もあるはず。笑える話もあるはず。ひとつでいいから、ポジティブなものにも意識的に目を向けるようにしましょう。

心だけは折れないように。そこだけは感染以上に気をつけるくらいの気持ちで。

最後に、星野源さん「うちに踊ろう」の大石昌良さんコラボバージョンを。
https://bit.ly/34wjkM1


一日も早く平穏な日常が戻りますように。


【川合和史@コロ。】koro@cap-ut.co.jp
合同会社かぷっと代表
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