[4995] 時間論の哲学は相対論の物理学をないがしろにしているか

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《妄想ワールド。サイナラー。》
 
■Otakuワールドへようこそ![329]
 時間論の哲学は相対論の物理学をないがしろにしているか
 GrowHair
 



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■Otakuワールドへようこそ![329]
時間論の哲学は相対論の物理学をないがしろにしているか

GrowHair
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●哲学は科学をどうみるのか ― 例の議論の蒸し返しではない!

哲学者と物理学者との間の議論が、本題に進むどころではなく、入口のところでかみ合わずにすれ違い続けるさまを目の当たりに見せてくれた、いわゆる「谷村ノート」について、私は3回にわたってコメントした。この話題に触れるのは、もう、だいたいいいや、と私自身、思っている。

2019年11月22日(金)
『哲学者に雷を落とした物理学者・谷村省吾氏に聞く:意識の謎について』
https://bn.dgcr.com/archives/20191122110100.html


2019年12月6日(金)
『「谷村ノート」にみられるすれ違いの根っこにあるものは?』
https://bn.dgcr.com/archives/20191206110100.html


2020年3月13日(金)
『形而上学とは? ―「谷村ノート」への「森田リプライ」を読んで』
https://bn.dgcr.com/archives/20200313110100.html


言うべきことは、だいたい言い切った。谷村氏も「特に異論はない」とコメントしてくださった。


特殊相対論の(概観ではなく)外観的解説をしたが、基本的なところで重大な思い違いをしてはいなかったと受け取ってよいだろう。また、哲学擁護派からは、私の主張内容に踏み込んでの反論を特に受けていない。

もっともそっちは、必ずしも、納得してもらえたことを意味するわけではなく、そもそも読まれていないのかもしれない。あるいは、内容に賛同できないけど、ネット上で論戦するのが面倒くさいからと放置されたのかもしれない。

内容をよそに、場外戦のごとく、私が哲学に対して偏見を持っているという反感を抱いた人はいるのかもしれない。しかし、それは、そう思った人の主観にすぎず、私の側から関知するところではない。思うだけなら、ご自由にどうぞ。

もし、私の側に反省すべき点があるのだとしたら、具体的に何がどうよくないのか、私に理解可能な形で指摘してくれないことには、反省するとっかかりすらみえない。言ってくれれば、まずは聞くし、その上で、考えてみなくもない。不当批判だと思ったら、ちゃんと反論するし。反論に再反論してくれるなら、また聞くし。

また、ネット民の間での関心事としても、谷村ノートをめぐる話題はすでにほぼ終息しているようだ。総合的にみて、この話題は、もうだいたい片がついている。

当初、私は、誰から頼まれたわけでもなく、みずからの興味の赴くところにしたがって、この問題に首を突っ込んだ。関心事のひとつとしてあったのは、すれ違いの根っこを探り当てたいということである。哲学者と物理学者との間の議論が、内容に立ち入るどころではなく、入口のところで、こうまでひどくすれ違いつづけるのは、当事者たちが気づいていない、すれ違いの根っこがあるのではなかろうか。

もし私が「これじゃない?」と提示すると、全員が「なんだ、それかぁ」と納得するような何かがあるのではなかろうかと。ところが、考えに考えて到達した答えは、そんな深遠なものではなかった。哲学者諸氏が、もうちょっと本腰を入れて物理学を勉強すれば済む話だったのではあるまいか。

哲学者三氏がそこを認めたわけではないけれど。私自身は「谷村ノート」をめぐる議論への関心が急速にしぼんだ。なので、今回、引っ張りに引っ張って、第4回目をやろうって話ではない。

関心をちょいとシフトさせる。哲学の観点から時間について考えるとき、物理学における相対論をどんな位置に置いて取り扱っているのだろう。答えの候補はいろいろ考えられる。

第一に「相対論分離主義」。あっち行け、俺は関係ない。哲学の関心領域は、物理学のそれとは完全に分離しており、同じ「時間」という言葉を用いたとしても、それの指し示す対象概念は、まったく別個のものである。別領域の別概念なのであるから、矛盾のしようがない。哲学は科学に関心を払う必要がない。

第二に、「相対論相対化主義」。まあ、それも流派のひとつではあるね。哲学の内部においても、「時間」という概念をどのようなものとして捉えるかは意見の統一をみておらず、いくつかの主義に分かれる。そのような多様な主義のうちのひとつとして、相対論をカウントしておいてあげてもいいよ。

第三に、「相対論絶対化主義」。科学から却下されるような哲学的学説は、もたん。哲学的観点から時間について論じるにしても、科学において得られた知見と整合しなくてよいものではない。哲学に多様な主義があったとしても、それぞれに応じて、現代科学の知見と矛盾するものではないことを論理的に示して、防衛しなくてはならない。

いま、候補を三つ挙げたけれど、それ以外にもあるかもしれない。さて、真相はどうなっているのだろう。

●ないがしろ論争から生じる、不安と疑問

今回の話題は「谷村ノート」から離れるとは言ったが、取り上げるきっかけは、もちろんそこに由来している。谷村氏と森田氏との間の議論の主要なすれ違いポイントのひとつとして「ないがしろ論争」がある。

書籍『〈現在〉という謎』の中で、谷村氏は次のように述べている。「哲学者は物理学を度外視した議論をしても平気なのだろうか? 物理学を無視することは、現実世界を無視することだと私は思うのだが、それでよいのだろうか?」(pp.186-187)。

同じ書籍の中で、森田氏は次のように答えている。「動的時間論者たちも相対論を無視してよいとは思っていない」(p.197)。

「谷村ノート」で谷村氏は次のように述べている。「物理学者たる私は、哲学者たちと議論すると、自分たちの知識の歴史的蓄積をないがしろにされているような気がするし、哲学者の問題提起や学説を聞くと「いまどき何を言っているのか、しかも、何だ、その稚拙なモデル設定と杜撰な論証は」と思ってしまうのである」(p.70)。

「森田リプライ」で森田氏は次のように述べている。「形而上学が自然科学の成果をないがしろにしているとか、自然科学の成果と矛盾するような主張を、少なくとも平気でしているとかということはない」(p.36)。

ここまでの文脈において、「ないがしろ」という言葉は、物理学ですでに得られている知見に反するような論考を述べ立てることを指している。森田氏は、付記的にではあるが、意味をずらして使ってもいる。時間を話題にする際に、相対論を無視せず、それについてメンションしているので、失礼をはたらいてはいないことをもって「ないがしろにしていない」と言っている。

「一般に、形而上学の入門書などで時間論の項目がある場合は、ほぼ必ず相対論の問題も取り上げられている(また、他の項目でも、言及するべき自然科学の成果があれば言及されている)。いま手元にある形而上学の入門書・教科書のうち、時間論の項目があるものはすべて相対論に触れている。これらは、哲学的に時間論を考える場合でも物理学の成果を踏まえてすべきだと哲学者たちが考えていることを意味していると私は思う」(p.36)。

もともとの文脈からすると、本筋の議論ではないのだが、私は気になった。というか、不安になった。触れただけ? 触れときゃ失礼にならないからいいの? 実際に触れている書籍をいくつか例に挙げているけれど、それらの中で相対論はいったいどんなふうに記述されているのだろうか。可能性だけで言えば、候補として、次のようなことが考えられる。

第一に、勝手解釈相対論。素のままの姿ではなく、哲学者が適当に味付けして調理しちゃった果ての原形をとどめない相対論料理。解釈がでたらめだったり、本質を外した部分の切り取りでしかなかったり。

第二に、スーパー難解相対論。物理学者が依頼を受けて原稿を書いたので、内容に間違いがないことにかけて完璧なのはいいとして、表現のしかたが専門的すぎて、ふつうの人には理解できないレベル。

第三に、サルでも分かる親切ガイド。相対論の肝を押さえた内容が、妥当な平易さで正しく記述されている。それでもなお、読んで理解できるかどうかは、読み手の理解力にゆだねられている。

さて、どれだろう。もし、第一や第二のケースが当たっていたとしたら、後に続く者たちがこうむる被害が大きいかもしれない。相対論を踏まえたつもりになって、自論を述べ立てたとき、実は、ちっとも踏まえたことになってなくて、おかしなことを言ってしまうとか。

最悪の場合、日本において、時間について論じる哲学者たちが、実は誰一人として相対論をまともに理解していなかったという可能性はないだろうか。哲学における、あるひとつのサブジャンル(「分析形而上学」あたり?)が丸ごとだいじょうぶだろうかという心配が生じかねないのではないかと。

入門書も含め、哲学書に相対論がどんなふうに記述されているのか、もう気になって気になってしょうがない。ちょいとのぞき見してきた。

●調査方法は書店で立ち読み

哲学についてまったくの門外漢である私には、網羅的に調べ上げることなどできないし、代表的な書籍をピックアップするにしても、どれが代表的なのか、さっぱり分からない。大きな書店の書棚に並んでいる哲学書のうち、タイトルに「時間」が含まれているものを引き抜き、ささっと立ち読みしてきた。

まともな調査とは呼びがたい方法を採用しているので、書籍の選択に漏れがあるのはもちろん、各書籍における相対論への言及について、発見漏れがあるかもしれない。

下記の15冊を手に取った。順番は私の主観で、相対論を尊重しているほうからないがしろにしているほうへのランキングである。

[1]
村山 章『四次元時空の哲学 ― 相対的同時性の世界観』
新泉社(2007/10/26)
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4787707124/dgcrcom-22/


[2]
森田邦久『時間という謎(現代哲学への招待)』
春秋社(2020/1/7)
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4393323858/dgcrcom-22/


[3]
佐金 武『時間にとって十全なこの世界:現在主義の哲学とその可能性』
勁草書房(2015/1/20)
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/432610242X/dgcrcom-22/


[4]
中山康雄『時間論の構築』
勁草書房(2003/1/1)
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4326153679/dgcrcom-22/


[5]
セオドア サイダー(著)、中山康雄、ほか(翻訳)『四次元主義の哲学 ― 持続と時間の存在論』
春秋社(2007/10/1)
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4393323130/dgcrcom-22/


[6]
相沢義男『時間と存在の形而上学』
彩流社(2013/4/11)
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4779118786/dgcrcom-22/


[7]
スティーヴン・マンフォード(著)、秋葉剛史(翻訳)、北村直彰(翻訳)『哲学がわかる 形而上学』
岩波書店(2017/12/15)
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4000612409/dgcrcom-22/


[8]
川田彰得『時間論ノート』
ルネッサンスアイ(2018/1/1)
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/483440224X/dgcrcom-22/


[9]
首藤至道『時間認識という錯覚:2500年の謎を解く』
幻冬舎ルネッサンス(2013/7/17)
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4779009944/dgcrcom-22/


[10]
アール・コニー(著)、セオドア・サイダー(著)、小山 虎(翻訳)『形而上学レッスン ― 存在・時間・自由をめぐる哲学ガイド』
春秋社(2009/12/1)
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4393323173/dgcrcom-22/


[11]
大森荘蔵『時間と存在』
青土社(1994/3/1)
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4791753054/dgcrcom-22/


[12]
植村恒一郎『時間の本性』
勁草書房(2002/1/1)
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4326153598/dgcrcom-22/


[13]
佐々木俊尚『時間とテクノロジー』
光文社(2019/12/17)
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4334951295/dgcrcom-22/


[14]
伊佐敷隆弘『時間様相の形而上学 ― 現在・過去・未来とは何か』
勁草書房(2010/2/19)
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4326101938/dgcrcom-22/


[15]
青山拓央『時間と自由意志:自由は存在するか』
筑摩書房(2016/11/25)
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480847456/dgcrcom-22/


[2]と[3]! なんと皮肉なことに、森田氏と佐金氏は、『〈現在〉という謎』で、谷村氏とかみ合わない議論を繰り広げている相手ではないか! 予想に反して、ないがしろにしていなかった!

●相対論を無視するならするでよい

しょせんは立ち読みなので、見落としている可能性はあるが、[9]~[15]は相対論にまったく触れていない。[5]~[8]はほんとうに申し訳程度にちょこっと触れただけである。

哲学において時間について論じる際、相対論を踏まえてすることは必須ではないらしい。(1)「相対論分離主義」の立場をとっているようだ。それならそれでよい。まったく接点のない別ジャンルですよ、と言って逃げていくのであれば、こっちからも追いかけない。

天文学と社会学との間にも、電磁気学と民族学との間にも接点はない。学者どうし、お互いの研究内容を紹介しあったとしても、あくびが出るだけであろう。

スピリチュアル系の人々がいくら「波動」だとか「宇宙」だとか、科学っぽい響きのある言葉を用いたとしても、科学者は見向きもしない。各自が現実をよそに妄想を語り、共感しあう者どうしが流派をなす、そういう世界であるならば、科学から関知するようなことではない。時間についても、現代物理学を無視して論考しているのであれば、同じことだ。

中身に立ち入って相対論を解説しているのは[1]~[4]だけであった。

●逃げない姿勢は買うけど防衛できていない

森田氏は[2]において、全8章のうち第3章を丸ごと使って、相対論を解説している。その解説ぶりは、驚くべきことに、(3)「サルでも分かる親切ガイド」にあたる。相対論の肝を外さず、正確かつ平易に解説しているのである。私が見つけた15冊の中で、堂々の第2位である。

まず「光速不変の原理」に言及し、どの慣性系で測定しても光の速さは同一にならなければならないという、私たちの直観からは大きく外れる奇妙な帰結がもたらされたことを言っている。特権的な慣性系である「エーテル」の存在は否定されたと明言している。

この奇妙な帰結から、時間と空間について、さらに奇妙な帰結がもたらされると言っている。第一に、時間の絶対性が否定される。地上から眺めると、走る列車の中の時計はゆっくりと進むようにみえ、逆に、列車内から眺めると、地上の時計のほうがゆっくりと進むようにみえる。また、列車内の観測者からは同時であったふたつの出来事が、地上の観測者からは同時でないということが起きうる。これを「同時の相対性」という。

第二に、空間的な長さの絶対性も否定される。地上から眺めると、走る列車は前後方向にすべてが縮んでみえるし、逆に、列車内から眺めると、地上のものがすべて縮んでみえる。これを「ローレンツ収縮」という。こういうことが、正しく記述されているのである。

私は頭を抱えた。分からん! 相対論をここまでちゃんと理解できているのであれば、いったいどのような思考に基づけば、「絶対的現在」などという概念の正当性を主張できるのであろうか。どう考えたって、矛盾している。

私は、てっきり、森田氏が相対論、特に、光速不変の原理あたりをまともに理解していないがゆえの変な主張であろうと思ってしまった。で、前回、そのように書いてしまった。いやぁ、困った。

「絶対的現在」という概念が相対論と両立しなさそうである旨は、森田氏も認識している。そして、次の第4章をまるごと使って、防衛しようとしているのである。

その前に、哲学において、「時間」をどうみるかについて、大きくふたつの立場に分かれると、第1章で言っている。ひとつは、時間経過が実在するという立場であって「動的時間論」と呼ぶ。もうひとつは、それが実在しないという立場であって「静的時間論」と呼ぶ。

動的時間論の中にも、(1)現在にあるモノの存在は認めるが、過去や未来にあるモノの存在を認めない立場と(2)現在と過去にあるモノの存在は認めるが、未来にあるモノの存在を認めない立場と(3)過去・現在・未来すべてにあるモノの存在を認める立場とがあり、それぞれ「現在主義」、「成長ブロック宇宙説」、「動くスポットライト説」と呼ぶ。

ここで「実在する」とは、「主観から離れて存在する」ことをいう。つまり、「時間が流れている」と主観的に思う主体としての人間がいようといまいと、時間の経過を客観的に保証することができることをもっていう。

そして、ここのところは私にはさっぱり理解できないのだが、時間経過が実在すると主張する「動的時間論」の立場をとるのであれば、必然的に、「絶対的現在」が存在することを認めなければならないと言っている。

ところが、相対論は、「絶対的現在」の存在をはっきり否定している。とすると、相対論は、動的時間論を窮地に追い込んでいる。森田氏も、そこは認めている。では、どのような論をもって逃れることができるのか。

(1)「相対論分離主義」や(2)「相対論相対化主義」に逃げ込まず、(3)「相対論絶対化主義」の立場を表明しているのは潔い。つまり、相対論をないがしろにせず、一見矛盾するようにみえても、実は矛盾していないことを論証しなくてはならない。潔いけど、ますます窮地だ。

「絶対的現在」という概念が相対論と矛盾しないことを言っただけでは、それが存在したとしてもおかしくないと消極的に肯定しているにすぎず、存在することの積極的な証左にはならない。存在すると主張したいのであれば「立証責任は動的時間論者側にあるのではないだろうか」とゴシック体で述べている。みずからますます窮地へ。

ここまで大見得切っておいて、いったいどうやって防衛するつもりなのか。「特殊相対論の経験的妥当性は認めつつ、それが真であることは否定する」のだそうで。うわっ! 相対論を否定する! それがもしできたら、きっと大きな賞がもらえると思いますけど。

で、結局、言っているのは、特殊相対論は一般相対論の一部にすぎないので不完全だ、とか。一般相対論まで含めても量子論と統合できていないので不完全だ、とか。いやいや、そこはみんな知ってます。それじゃ相対論を否定したことになってないと思いますけど。

また、相対論における時間の概念は、光の奇妙なふるまいに由来する「光学的時間」であって、それとは別概念として「非光学的時間」を考えることができるかもしれないじゃないか、とも述べている。別系統の時間? いやいや、そりゃ無理だ。光だけが特殊なふるまいをするのではない。先ほどの列車の例は比喩でもなんでもなく、実際にそうなのだ。時間も空間も、この世のぜんぶが奇妙なのだ。

100億年に1秒もずれない高精度の時計をふたつ用意して、高さ450mの東京スカイツリーの展望台と地上とで24時間測り、展望台のほうが地上よりも10億分の4秒早く進むことを確かめたと、2020年4月6日(月)、東京大学と理化学研究所が発表した。相対論は、机上の理論ではなく、現実にそうなっているのである。スカイツリーの上と下とでも「現在」がずれていくのだ。登って降りてきた人はプチ浦島太郎になっている。

  2020年04月14日 15時00分 公開
  ITmedia NEWS
  東大、スカイツリー展望台と地上で「相対性理論」検証
  セシウム原子時計より100倍高精度の「光格子時計」で
  井上輝一
  https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2004/14/news092.html


結局、特殊相対論を否定できていないし、矛盾を解消することもできていないし、絶対的現在の実在を積極的に論証できてもいない。動的時間論の立場をとるなら絶対的現在の存在が必須の前提、という謎の主張を受け容れるのであれば、動的時間論は丸ごと潰れていると私は思う。

●そっちへ逃げるならサヨナラと言うしかない

佐金氏は[3]で、全5章のうち、第3章を丸ごと使って相対論と取っ組み合っている。純然と相対論の解説に充てているのではなく、相対論のせいで窮地に追い込まれた「現在主義」をなんとか救い出してやろうと反論を試みる流れの中で、相対論を解説している。相対論と自論とが絡み合って話が進行していくので、切り分けながら読むのが煩わしい。

現在主義を窮地から救い出したいのは山々だが、相対論とあまりにもガッツリと矛盾するもんだから、それを解消しようとする戦いには勝ち目がないとみたようである。(1)「相対論分離主義」へと逃げ込むしかなかったようだ。逃げ込んだ場所の拠って立つべき土台の心許なさがヤバい。

「科学の埒外にあるような、時間に関する真正の問いが存在する。すなわち、今ここに存在する我々と絶対的に同時であるものは何かという問いである。光学的手段では絶対的同時性が否定されるにしても、その絶対的同時性を検出することを可能にする別の手段を科学が提供できずにいるのは、絶対的同時性の問題が単に科学者にとっての関心事ではないということにすぎない」(p.97)。

ぜんぜん違います。物理学は、現実に起きている物理現象を余すところなく説明しきる理論を構築すればよいのであって、そのためには、絶対的同時性が不合理だと分かったので棄却した。それだけのことです。

「絶対的同時性をめぐる問いが科学の埒外だということは、それが取るに足らない擬似問題であることを意味しない。むしろそれこそ、時間の哲学におけるもっとも重要なテーマのひとつだと言える」(p.98)。

「相対論は、本当の空間と時間に関するものではない。相対論の「時間」は、観察された事実を可能な限りもっとも単純な仕方で結び合わせるために科学者が構成した人工的な枠組みの一部にすぎない」(p.98)。

うっわぁ~。もう、完全にアッチの世界に行っちゃいましたね。妄想ワールド。サイナラー。

●著者自身の理解の甘さが露呈して残念

[4]では、全9章のうち、第8章を丸ごと相対論の解説に充てている。だいたいよいのだが、ところどころに、思わず「うげっ」と顔をしかめてしまうような記述があり、著者自身が相対論をじゅうぶんに理解しきっていないのがバレバレだ。出版する前に誰かにチェックしてもらっとけよ。

「特殊相対論にあっては、同時性という概念は、もはや自明なものではなく、定義により操作的に導入されるべき概念となる」(p.204)。うげっ。

同時性を操作的に導入すると言っているのは、発信した光が相手先に届いて反射して戻ってくるまでの時間を計測し、それを2で割った時間だけ経過した時点が、相手に届いた時点と同時であろうとする同時性の同定方法を指して言っているものと思われる。

これは、一見すると、妥当であり、自明な方法である。ところが、そんなに自明でもないよ、と主張するのが特殊相対論である。離れた2地点での出来事は、それらの時刻と位置を記述するための慣性座標系をどう選択するかに依存して、同時であったりなかったりしうる。絶対的同時性という概念は成立せず、棄却されるべきものだと示された、というのが正しい。

「相対性原理はマクスウェルの電磁気学にも当てはまるということが重要である」(p.204)。うげっ。合っているような、合っていないような、気持ちの悪い記述だ。

マクスウェルの方程式から、電磁波(つまりは光)は、その波長によらず、真空中を進む速さが一定値 c をとることが導き出される。そこは、相対論以前から分かっていた話だ。この速さ c が何を基準にしてのものかが謎だったのである。

電磁波は波なのだから、それを伝播させる媒質がきっと存在するであろう。その媒質はまだ発見されていないけれども、存在するものと仮定して、仮に「エーテル」と呼んでおこう。エーテルは、慣性座標系のうちでも、絶対的に静止した特権的なものである。

基準の座標系が静止していないことには、電磁波のほんとうの速さが定まらなくなってしまう。このように考えられていた。それはまだニュートン力学の範疇である。

特殊相対論によって、このエーテルの存在が否定された。これが大転換であり、肝要なところだ。この著書の中で、エーテルのことにまったく言及されていない。森田氏の著書では、適切に解説されている。

選考文献として、勝守真氏の書いたものがしばしば参照される。そっちは割と信頼できそうな感じがするが、残念ながら、著書の現物に出会えなかった。

●相対論を最大限に尊重する哲学もあるようだ

[1]では、全4章のうち第1章を丸ごと充てて、相対論を解説している。初っ端、第1章においてである。まず、相対論を踏まえておかなくては、話が始まりませんよ、と言っているようなもんだ。すばらしい! そういう哲学もあるんだね。

しかも、(3)「サルでも分かる親切ガイド」にあたる。「同時性の相対性」を説明するのに挙げた例が生々しい。地球系では、父が死んだ時点で長男はもう死んでいる。宇宙船系では、父が死んだ時点で長男はまだ生きている。このとき、相続はどうあるべきか。

相対論を初めて勉強するにも役立ちそうな親切さだ。すばらしいなぁ。著者の村山章氏は、法政大学文学部哲学科を卒業し、出版された2007年時点では、コンピュータのソフトウェア開発の業務に従事、とある。
http://www.infonia.ne.jp/~l-cosmos/


●まとめ:ないがしろにしていたりいなかったり

全体をまとめると、こうだ。哲学において時間について論じる際、現代物理学における相対論をないがしろにしている書物もあれば、言及している書物もある。言及していても、申し訳程度だったり、著者自身の理解不足が露呈しているものもある。

しかし、相対論を踏まえることが必須とする立場もある。相対論の肝を見落とさず、妥当な平易さで正しく解説している書物もある。

しかしながら、動的時間論は相対論と相性が悪いどころではなく、ガッツリと矛盾する。相対論をないがしろにしないのであれば、動的時間論は窮地に追い込まれている。救い出そうとする論考は成功していない。

現在主義を含めて、動的時間論は、丸ごと潰れていると思う。


【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
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http://www.growhair-jk.com/



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編集後記(04/17)

●偏屈BOOK案内:広瀬公巳「インドが変える世界地図 モディの衝撃」

「インド人もビックリ!」を知らない人のほうが多いのかな。東京オリンピックの開催、東海道新幹線営業開始、日本がすごく元気だった1964年頃のヱスビー食品のCM。そのインド(って、イントロはムリヤリw)、10年後には中国を上回る世界最大の人口となり、日本、ドイツを抜き世界3位の経済大国になると予測されている。NHK元ニューデリー支局長によるインド最新情勢レポート。

ナレンドラ・モディ。インド北西部グジャラート州の貧村生まれ、叩き上げの政治家、69歳。2014年、第18代の首相に就任、貧しい途上国を一気に主要国に作り変えている男。強いカリスマ性と国民の支持を背景に、全土に流通していた高額紙幣を不使用にしたり、一億個のトイレを作るなど、次々に斬新な政策を打ち出す。日本とは原子力協定を締結、インド西部に新幹線を導入(予定)。

2019年、首相再選。インドは何を考え、どこに向かおうとしているのか。日本の将来を左右し、世界地図を塗り替える政治経済の大国「巨象」の密着レポート。じつに興味深い。インドは今、情報通信の力を他の産業を牽引する力として生かそうとしている。三度目の来日で、日本とインドはAIなどのデジタル分野で新協力関係「日印デジタル・パートナーシップ」を推進することで一致した。

GAFA対BATの米中情報戦争の時代である。次世代をリードする技術開発で米中がしのぎを削っている。「こうした微妙な分野で日本が協力関係を深める相手国は、ただ優秀な人材を獲得できるというだけでなく、互いに友好関係や信頼関係のある国でなくてはならない。頼りにできる相手国の選択肢は限られてくる」。その答えがインドだ。インドと日本は戦争をした過去がないのだ。

第二次大戦中にはインド国民軍が、大日本帝国陸軍とともにイギリス軍と戦ったこともある。日本にとって無二の友好国で、民主主義や法の支配といった価値観も共有しているため、こうした国家間の信頼が求められる分野では重要な存在である。なぜインド人は理系に強いといわれるのか。西暦2000年「Y2K」対策、金融機関の決済システムなど、IT分野での目立った成功があるからだ。

IT産業はインフラの開発が遅れたインドの弱点をカバーする、新しい産業だった。先行投資があまりいらず、生産ラインや原材料は必要なく、パソコンがあれば、あとは頭脳だけでいい。世界の最先端産業のノウハウが、ソフトウエア開発委託という形でインドに提供された。そうした経験をもとに多くの技術者が生まれ、その分野におけるソフトウエアの開発を独占する慣行が生まれた。

IT人材大国インドには世界一の難関大学IIT(インド工科大学)がある。受験者約100万人、合格者1万人、競争率100倍、現在23校の大学の総称がITTだ。世界中で活躍するそうそうたる卒業生たち。ITTという、全国規模で激烈に優秀さを競う教育機関のあったことと、貧困からの脱出という強力なインセンティブがあったことが、インドから優秀な技術者が生まれる大きな要因だった。

貧困を動機付けとするなら、アフリカや中南米の人口大国でも同様にIT技術者が生まれてもおかしくないが、そうはなっていない。インドには独自の社会や経済の構造と結びついた背景がある。カースト制度、労働法、そして独自の産業構造である。そこにインド人が優秀とされる本当の理由がある(略)。日本の小学校から高校までプログラミング教育2020年必修化に、インド人の手助けが要らないはずはない。「インド人もビックリ!」の現場を見たい。(柴田)

広瀬公巳「インドが変える世界地図 モディの衝撃」2019 文春新書
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4166612379/dgcrcom-22/



●オンラインで打ち合わせすることになった。普段は電話とメール、チャット。ビデオ会議はほぼなし。

仕事関係のiPhone率が高く、ちょっとしたことは一対一でのやり取りになっていて、FaceTimeで事足りることも多かったのだ。

MacBook Proには、マイクやカメラはついている。が、自宅からだと雑音が多そうだし、スピーカーからの音も良くなさそう。インターネット会議システム自体の音質は電話より劣るし、聞き取れないからと、何度も聞き直したくない。

AirPodsを持っていない。古いBluetoothヘッドセットを持っているが、音声やマイクの質が悪く、一度しか使っていない。ジャックバウアーやクロエみたいなことは無理だった。国産メーカーのもので評判良かったんだけどなぁ。続く。 (hammer.mule)