まにまにころころ[178]ふんわり中国の古典(論語・その41)同志によるサロンといった感じ
── 川合和史@コロ。 Kawai Kazuhito ──

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コロこと川合です。

どなたも気にされていないと思いますが、前回の本編で「相手は君をないがしろにする季桓子ですから」と書いたのは、「〜三桓氏ですから」の間違いでした。訂正します。同族(季氏)ですが、季桓子の話でなく季子然の話でした。

と、いきなり訂正から入りましたが、いかがお過ごしでしょうか。世の中は、どうやら緊急事態宣言が解除されたとかで、明るい兆しも見えていますけども、まだ「緊急事態」であることには変わりなく。

とはいえ、ここらが色んな意味で限界なんでしょうね。お店も会社も、かなり傾いちゃったり潰れちゃったりしたと思いますし。

そのお店や会社から依頼を受けて、制作やらなんやらをする仕事の方にとっては、これからが本当の緊急事態だといったところでしょうか。うちもそうです。

月が変わる頃にはみなこぞって「これからの話」をするようになったりして、話題の中心が移っていくと思いますが、考えても仕方ないレベルの話もきっと多くて、それぞれがそれぞれの持ち場でそれぞれの役割を果たしていくという、シンプルな話にひとまず落ち着けて、後のことは後から考えたいところです。

だって、第二次世界大戦以降では最大規模の世界的混乱ですよね、たぶん。





いったん落ち着きましょう。

そう、『論語』でも読んで……と言いたいところです。それどころじゃないわと叱られそうですが、何か本でも読んで落ち着こう、って方にはちょうどいい本だと思いますよ。

二千年以上も前の話なのでどこか俯瞰して読めますし、変にスピリチュアルな話もまったく出てきませんし。山ほどのどうでもいい話の中に、時々ちょっといい話が出てくるというバランスも、疲れた心にちょうどいいのでは、と。

ということで、今回もその『論語』を読み進めていきます。

今回で「先進第十一」が終わりますが、ここの最後の章は珍しく長いんです。

で、長すぎて読みにくいので、いつもベースにしている岩波文庫の金谷先生の『論語』で「二十六」となっている章を、井波先生の『完訳論語』(岩波書店)に倣って四分割して読みたいと思います。

その後は、巻第六「顔淵第十二」に入っていきますが、それは次回かな。

「先進」とか「顔淵」というのは、その篇の最初の単語からついている名前で、「顔淵」篇も別に延々と顔淵の話が出てくるわけではありません。

実際、顔淵については最初の章でしか出てこないのですが、こうして篇に弟子の名前がついていると、なんかちょっとわくわくしますね。

さて、では先進のラスト二章を読んでいきましょう。


◎──巻第六「先進第十一」二十五

・だいたいの意味
子路が子羔を費(地名)の宰(長官的な役職)に就かせた。

孔子先生は仰った。
あの子をダメにしてしまうのではないか。

子路は言った。
民もおり社稷(土地神と五穀の神)もおられる地です。何も書を読むことだけが学ぶことではないでしょう、と。

孔子先生は仰った。
これだから口達者な者は嫌いだ。

巻第六「先進第十一」二十五について

前々回の十八で、「柴(高柴・子羔)は愚直だ」と評された子羔です。

季氏に仕えていた子路が子羔を、季氏の領地のひとつである費の宰に推挙したんですね。そしたら孔子先生が、あの子はまだ勉強中の身やで、まだ早いでと。

子路は、実践で学んだらええやないですか、と。

それに対して孔子先生は、口達者なやつめ、嫌いだ、と。

これまでに登場した子路を覚えている方には分かると思いますが、脳筋タイプの子路はむしろ、口達者とは真逆の人間です。ですから、孔子先生はここでは、実際には「まあいいや」くらいの気持ちで子路をいじってるんでしょう。

脳筋タイプでありながら政治力もあるので、季氏に仕え子羔を推挙できる立場にあるんですけどね。


◎──巻第六「先進第十一」二十六の1

子路、曾晳、冉有、公西華が侍座していた。孔子先生が仰った。
私はみなよりも少し年長ではあるが、遠慮無く話して欲しい。君たちはいつも、(世間が)自分を知ってくれない、と言っているが、もし(世間が)君たちを認れば、何をしたいのか。

──巻第六「先進第十一」二十六の1について

曾晳(は初登場ですね。曾子(曾参)のお父さんで、年齢的には子路の少し下。孔子先生とは十〜十五歳ほど離れている年代です。

公西華は四十歳以上離れていて、冉有は三十歳ほど離れています。

生年や年齢差は資料によって少し違いもありますが、だいたいそんな感じ。

顔回のお父さんの顔路、冉伯牛、子路、曾晳、閔子騫が、七〜十六歳ほど離れています。冉有、仲弓、顔回、子羔、子貢が三十〜三十二歳ほど離れています。公西華、有若、子夏、子游、曾子、子張が四十四〜四十九歳ほど離れています。

この章に出てくる四人は、ちょうど年長組から若手までバラバラですね。


◎──巻第六「先進第十一」二十六の2

まず子路がすぐに答えた。
千乗の国が大国間に接して、侵攻され飢饉も起こったとして、私は、この国を治めて三年におよぶ頃には、(この国の人々に)勇敢さを持ち道をわきまえるよう知らしめます。

孔子先生は笑われた。

(続けて孔子先生が尋ねて仰った)
求(冉有)よ、君はどうか。

(冉有は)答えて言った。
六〜七十里かもしくは五〜六十里四方(小さな国)を私が治め三年におよぶ頃、民を豊かにしましょう。礼楽については君子に任せます。

(続けて孔子先生が尋ねて仰った)
赤(公西華・公西赤)よ、君はどうか。

(公西華は)答えて言った。
これができるというのではなく、学びたいと願います。宗廟のこと、もしくは会同(諸侯の会合)に、端(礼服)章甫(礼冠)をつけ、願わくは小相として(進行係を)務めたいと思います。

──巻第六「先進第十一」二十六の2について

まずは四人のうち、子路、冉有、公西華の三人の答えから。

真っ先に答えて、でっかいことを言うのは子路らしさ全開ですね。ですから、孔子先生も笑われています。馬鹿にしたのではなくその「らしさ」に笑われたのでしょう。詳しくは後で出てきます。

「千乗の国」というのは、前にも出てきた表現ですね。戦争が起こった時に、戦車を千台出す国、諸侯の国のこと、つまり大国です。ちなみに天子は万乗。

続く冉有は、そこまでの大国ではなくて、小さめの国を富ませますと。これもまた、少し控えめな冉有の性格がよく表れています。

前回「求(冉有)は自分を押さえる性格だから」って言われてました。

子路、冉有、公西華とこの三人は、前回出てきたそのメンバーそのままですね。

公西華は若者らしく控えめに、まずは学んで国際会議の進行係など務めたいなと願っています。控えめですが立派な夢ですね。

これ、この後に曾晳の答えが続くわけですが、孔子先生が最初に、お前たちはいつも世間が認めてくれないって愚痴ってるけど、認めてくれたらどうしたいと思っているのかって形で話を振っていますが、内容からいけば、おそらく、そんなこと愚痴ってるのは、四人のうち、子路と冉有の二人だけです。

それなりの年齢の曾晳はともかく、公西華は巻き込まれただけですね。


◎──巻第六「先進第十一」二十六の3

(続けて孔子先生が尋ねて仰った)
点(曾晳)よ、君はどうか。

瑟(大琴)を弾いていた手を止め、かたりと瑟を置いて立ち上がり、答えた。
三者のような答えとは異なりますが。

孔子先生は仰った。
構うことはない、各々がその志を述べているだけだ。

(曾晳は)答えた。
春の終わり頃、すっかり整った春服で、冠者五〜六人、童子六〜七人を連れ、沂水(河の名前)で水を浴び、雨乞いの壇で風を受け、歌でも詠じながら帰路につきたいものです。

孔子先生は嘆息して仰った。
私は点に賛成するよ。

──巻第六「先進第十一」二十六の3について

世間に見いだされたらどうするか、って話で、この変化球。

冠者は成人、童子は未成年。ようするに家の者を連れてのんびり川にでも遊びに行きたいと。国を治めたいだの何だのって話はさておいて。

問いの答えとしてはちょっと反則ですが、私も大賛成です。(笑)


◎──巻第六「先進第十一」二十六の4

三名が退室し、曾晳が遅れて残った。

曾晳が言った。
あの三名の言葉はいかがでしたでしょうか。

孔子先生が仰った。
各々その志を述べただけだよ。

(曾晳が)言った。
先生はどうして由(子路)を笑ったのですか。

(孔子先生が)仰った。
国を治めるには礼をもってせねばならない。子路の言葉には謙譲の心がなく、だから笑ったんだよ。

また求は、(控えめなようで結局は)国家の話だったね。六〜七十里もしくは五〜六十里四方で国でない土地もないだろう。

赤もやっぱり国家の話だったね。宗廟や会同に関わるのは諸侯しかいないから。(それにしても)赤が小相なら、いったい誰が大相を務められるのだろうな。

──巻第六「先進第十一」二十六の4について

瑟の片付けもあったんでしょう、曾晳が残って孔子先生と二人になったので、先に出た三人のことを尋ねたんですね。

孔子先生の感想としては、子路は相変わらず血気盛ん、後の二人は中途半端に控えめ、面白いね、ってなところでしょうか。

論語中で最長とされる章ですが、他愛ない雑談の回でした。

でも、それぞれの性格がよく表れた会話で、かつ和やかで、いい雰囲気ですね。

この章も色んな解釈があるのですが、細かい話になるのでパスします。

孔子先生とその一門は、師弟ではありますが、学校のような感じではなくて、同志によるサロンといった感じだったんでしょうか。

なんとなく、吉田松陰先生の松下村塾もこんな感じだったのかなって思います。あちらはもう少し殺伐とした話題が多そうですけれども。

こんな場を作ってみたいなと、たまに思います。できればのんびり系で。


◎──今回はここまで。

ということで、全十巻二十篇のうち、十一篇が終わりました。

『論語』って短いイメージがあったんですが、こうして読むと意外に長い。

原文、読み下し文、現代語訳、解説、注釈全部入れて文庫本一冊に収まるので、短いと言えば短いうちに入るんでしょうけども。何かの教科書にするには、まあちょうどいい感じの長さではあります。

メルマガの連載ネタにするには長すぎたかと、ちょっとは思っていますけどね。

でも月に2〜3回、こうして少しずつ『論語』を読むというのは、個人的にはとてもいい習慣になっています。

冒頭でも書きましたが、二千年以上前の人の言葉なので、穏やかな気持ちで、肩の力を抜いて読めるんですよね。

よくもまあこれだけばらっばらの話を並べたなと思いながらも、だからこそ、次は次はとせき立てられるようなこともなく。今はこうして前から順に読んでいますが、どこからでも読めて、どこでも止められるものですし。

どうしても暗い話の多い今日この頃、気分転換にどうぞ。

『論語』に限らず、気分がすっきりしない時、古典はおすすめです。

まず直接的には喫緊の課題を突きつけてきたりしませんから。(笑)


【川合和史@コロ。】koro@cap-ut.co.jp
合同会社かぷっと代表
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喫緊の課題が山積みで古典に逃げる今日この頃。