コロこと川合です。新コロナ騒動、落ち着きつつある一方、再び感染が広がる地域もあったり、そんな中でアメリカでは新コロナどころじゃない状況が発生していたり。まあアメリカの話は別にしても、新章突入って感じでしょうか。
この土曜、久し振りにショッピングモール的なところへ買い物に出たのですが、人出は新コロナ前と変わらない感じでした。緊急事態宣言中を知らないので、戻ったのかそもそも変わらなかったのか不明ですけども。
経済云々を無視して言えば、まだもうしばらくステイホームで様子見するのが得策かなあと思ってはいるんですが、なんかいつの間にか季節も変わったので、涼しい服が必要になって。春服というか夏服というか。
季節と言えば、そろそろ梅雨。夏日が増えてきてるんで夏気分でもありますが、その前に梅雨ですよ。既に南の方は梅雨入りし始めていますが、今週後半には全国的に入梅ってとこじゃないでしょうか。
仕事も外出予定も何もなければ、雨自体は嫌いじゃないんですけど、外に出るとなると、面倒くさいんですよね。常に荷物多いタイプなので余計に。しかも自転車通勤始めたので。歩いて行ける距離だし、雨の日は徒歩かな。
そうそう買い物行った先で、紫陽花を見ました。梅雨入りを前にほぼ満開で。今週あたりどこも見ごろかも知れませんね。名所でなくてもあちこちで咲いていると思いますので、まだ密を避けてお楽しみください。
さて、新コロナや季節に続いて、論語も今回から新章突入です。
◎──巻第六「顔淵第十二」一
・だいたいの意味
顔淵が(孔子先生に)仁とは何かを尋ねた。
孔子先生は仰った。
克己復礼が、仁というものである。
一日、己に勝ちて礼に立ち返れば、天下が仁に心を寄せる。
仁をなすのは己によるものである。どうして他人によるものか。
顔淵は言った。
その子細をお聞かせください。
孔子先生は仰った。
礼にあらざれば、観ることなかれ。
礼にあらざれば、聴くことなかれ。
礼にあらざれば、言うことなかれ。
礼にあらざれば、動くことなかれ。
顔淵は言った。
この私、愚かではありますが、そのお言葉を実践いたします。
──巻第六「顔淵第十二」一について
克己復礼(こっきふくれい)という四字熟語の出典がこれです。
我欲に打ち勝って、礼に立ち戻った振る舞いをすること。自分がそうすることで、天下もまた仁に心を寄せるようになる、と。
ひとりひとりがそう心がけるようにという話であるとともに、為政者の心構えとしての話でもあります。天下人民に仁を求めるのではなく、己が欲望に勝ち礼を重んずれば、天下も仁に染まっていくと。
日本で新コロナによる死者が少ないのは民度が違うからだ、という趣旨の発言をした大臣がいましたが、だとすれば国民が仁を実践したのに対して、大臣の発言はいささか礼に欠けるところがあるというもので。この場合は、天下人民の側が仁をより実践して、為政者の方を感化していくべきなんですかね。
仁とは克己復礼に務めることである。
具体的には、
礼にあらざれば、観ることなかれ。
礼にあらざれば、聴くことなかれ。
礼にあらざれば、言うことなかれ。
礼にあらざれば、動くことなかれ。
これを実践することである。
これがこの章の要旨ですが、「仁とは何か」について孔子先生は、いつも通り、相手によって異なる答えを返しますので、実際に仁とは何であるかというのは克己復礼に限ったものではなく、なかなかに掴みにくいものです。
まあとりあえず、麻生さんには日頃から「礼にあらざれば、言うことなかれ」を実践して欲しいところですね。麻生さんに限らないですけど。
与野党問わず日本の政治家には、もう少し発言に気を使って欲しいです。ほら、フィクションの世界だと政治家って、口では上手いこと言いながら裏で悪事をはたらくものでしょう?
で、悪事に気づいた主人公が、化けの皮を剥ぐってのが王道じゃないですか。なのに、昨今の現実では表での発言からして微妙な政治家が多すぎて、主人公の出る幕なんてないという事態。
政治家たるもの、外面は聖人君子。悪事は裏で。そうあってもらいたい。
◎──巻第六「顔淵第十二」二
・だいたいの意味
仲弓が(孔子先生に)仁とは何かを尋ねた。
孔子先生は仰った。
門を出て(人に会う時)は、賓客に会うがごとくにし、民を使う時は、大祭に仕えるがごとくにする。己の欲せざるところは人に施すことなかれ。そうすれば、国にいても恨まれることなく、家にいても恨まれることがない。
仲弓が言った。
この私、愚かではありますが、そのお言葉を実践いたします。
──巻第六「顔淵第十二」二について
顔回の時とは違って、今度は同じ仁の話でも、人との接し方について。
人に会う時はいつでも、大切なお客さんに会う時のように礼を尽くしましょう。人を使う時は、大切な祭祀を執り行う時のように、丁寧に取り計らいましょう。自分がされて嫌なことは、人にもしないようにしましょう。
それが仁だよ、と。
さっきは、身を律して己の振る舞いを見つめ直しなさいと、内に向けた態度を。今回は、他者には礼を尽くしなさいと、外に向けた態度を示した話です。
仁とは何か。この後、もうひとつ続きます。
◎──巻第六「顔淵第十二」三
・だいたいの意味
司馬牛が(孔子先生に)仁とは何かを尋ねた。
孔子先生は仰った。
仁者はその言葉が訒(じん)である。(訒=しのぶ、控えめ)
司馬牛が言った。
その言葉が訒であれば、それで仁と言っていいでしょうか。
孔子先生は仰った。
仁を実践することは難しい。(自然と)言葉は控えめにならざるを得ない。
◎──巻第六「顔淵第十二」三について
司馬牛の発言は単なる揚げ足取りみたいなもので、スルーですね。
この司馬牛という人は、口数が多く騒がしい人だったと言われています。ここでは仁がどうのという以前に、それを踏まえて忠告しているんでしょう。
べらべらべらべらとうるさい司馬牛に対して、仁者というのは言葉が控えめなものだぞと。仁を知りたいならとりあえず黙れ、と。
司馬牛は、苦言を意に介さず、じゃあ言葉が控えめなら仁なんですか、と。
私ならこの時点で破門にしています。(笑)
口ばかりが達者で実践が伴わない人は、仁者ではありません。
そして、仁を行うのは難しいものです。
つまり、難しい仁の実践において言行を一致させるためには、必然的に言葉は控えめにならざるを得ないという話です。
口数が少なければ仁者なのかって、そんなはずはありませんが、少なくとも、仁者は口数が少なくなると。司馬牛、てめーはダメだ。
そんな司馬牛ですが、次章も司馬牛の話です。
◎──巻第六「顔淵第十二」四
・だいたいの意味
司馬牛が(孔子先生に)君子とは何かを尋ねた。
孔子先生は仰った。
君子は憂えず、怖れず。
司馬牛は言った。
憂うこともなく、怖れることもなければ、それで君子といっていいでしょうか。
孔子先生は仰った。
内に省みてやましいところがないなら、何を憂うことがあろうか。何を怖れることがあろうか。
◎──巻第六「顔淵第十二」四について
司馬牛の発言は単なる揚げ足取りみたいなもので、スルーですね。(再)
自身にやましさがなければ、憂いも怖れもないもの。だから君子は憂いもせず怖れもしない。そういう話です。
なるほどね、と思う一方で、そんなこともないだろうとも。世の中の憂いには、自身が関与しようもないことによるものだって多々ありますから。
新コロナによるあれこれなんて、それこそ憂慮することばかりですが、自分にやましいところがあるかどうかとは関係ないでしょう。
ですのでおそらくこの話も、あくまでもこの時の司馬牛に向けたものでしょう。
実は次章も司馬牛の話で、そこで司馬牛はまさに憂いているんです。
◎──巻第六「顔淵第十二」五
・だいたいの意味
司馬牛が憂いて言った。
人にはみな兄弟がいるのに、私だけいない。
子夏が言った。
私はこう聞いた。「死生には運命がある。富貴は天命による」と。君子は慎み深く過失を犯さない。人と恭しく接して礼を重んじていれば、四海の内はみな兄弟だ。君子はどうして兄弟のいないことを憂うだろうか。
──巻第六「顔淵第十二」五について
一人っ子がどうとかって話ではありません。この司馬牛、兄弟がいないと憂いていますが、兄がいたと言われています。カンタイという名の男で、孔子先生を襲撃したことのある人物です。
誰も覚えていないと思いますが「述而第七」の二十二で名前が出てきています。孔子先生が、カンタイなどに私をどうこうできるものか、と言っています。宋でカンタイに襲われたあとに言った言葉です。
詳しくは省きますが、何かと問題を起こす男で、そんな奴を兄に持つからこそ、司馬牛は「私にだけ(まともな)兄弟がいない」と憂い嘆いているのです。
それに対して子夏が、そんな兄がいることも運命であってお前のせいじゃない。君子にとっては人類皆兄弟、嘆くなよ、と慰めているんですね。
そう考えれば、さっきの章とこの章は逆の方が、話が繋がって分かりやすい。
兄のカンタイの振る舞いに、私には兄弟がいないと嘆く司馬牛。
君子にとっては人類皆兄弟となだめる子夏。
君子ってなんですかと孔子先生に尋ねる司馬牛。
憂うこともなく、怖れることもないのが君子だと孔子先生。
憂うことがなければ君子なんですかと、くってかかる司馬牛。
内省してやましいところがなければ憂わないだろう、と孔子先生。
君子が何かは分からないままのようなやり取りですが、要するに、ここでは、「お前のせいじゃない」って、みんなで司馬牛を慰めているんですね。
兄がやらかしたことも、そんな兄を持ったことも、運命であってお前のせいじゃない。内省してもお前にやましさはないだろう、ならば憂う必要はない、と。
憂いていないで、君子たれ、と。そうすれば世界中みんなお前の兄弟だよ、と。
あったかい仲間、やさしい世界です。
◎──今回はここまで。
今回の新コロナ騒動で、動画配信サービスが賑わっています。興業が打てないので、音楽ライブに始まって、舞台演劇、落語、講談、狂言などが続々と配信されるようになりました。
無観客で行うため、なかなか難しいようですけども、それぞれの世界に触れたことがない人がその世界を知る入り口として、お互いとても良い機会になったように思います。
未曾有の出来事に世の中が大きく揺れ動いていますが、その中でも何かしらの良い部分を見つけて、前向きに過ごしましょう。
【川合和史@コロ。】koro@cap-ut.co.jp
合同会社かぷっと代表
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