[5026] iPadを「鉛筆と紙」と思い込んで使う◇ドラマ「ウエストワールド」

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《29年かかってわかった》

■グラフィック薄氷大魔王[658]
 iPadを「鉛筆と紙」と思い込んで使う(笑)
 吉井 宏
 
■ゆずみそ単語帳[32]
 暴力的な楽しみの終わり方:ウエストワールド
 TOMOZO
 



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■グラフィック薄氷大魔王[658]
iPadを「鉛筆と紙」と思い込んで使う(笑)

吉井 宏
http://bn.dgcr.com/archives/20200610110200.html
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「不得意な板タブや液タブをなんとかしたい」は、デジタル移行以来28年も試行錯誤してる永遠のテーマなので、何度でも書くし、これからも書く。

いやしかし、28年間あらゆる工夫をしてるのに、ちっとも慣れないし、たいして進歩してる気がしないってのは、根本的に不向きなのかも……って、これも何度も書いたに違いないw

いつもは、鉛筆やコピックなどで描いたラフをスキャンしたものをPhotoshopに開き、iPad Proや板タブで「清書」するように描いてるのだが、紙に描いたときの伸び伸び感が失われてしまう。

苦労してる絵をあらためて紙に描き直してみると、伸び伸びしてる。クッソー。

ここで言う「伸び伸び感」は、線の勢いとか表情とかのアート的なものじゃない。手がクルクルと思い通りに動かせるから、満足行く形に早くたどり着け、結果的に絵が伸び伸びするのだ。せせこましくチマチマ苦労した跡が見える絵とは大違い。

iPad Proで描くのと紙に描くのと、動作的にはほとんど同じなのに、なぜこうも描きにくいのか? もしかして、単に苦手と思い込んでるだけなんじゃないのか? 単に気分の問題なんじゃないのか?

じゃあ、「iPad Pro+Astropad+Photoshop」を液タブの代わりとしてじゃなく、「これは鉛筆と紙なのだ」と自分に思い込ませてたらどうか?

iPadの上で紙と鉛筆で描いてみて感覚をつかんでから、しっかりした清書の線じゃなく、カスカスの2Hみたいな線でiPadで描いてみよう。ペーパーライクフィルム+筆圧硬くして。

あれ? 「鉛筆と紙」と同じに描ける! 今まで散々試してたのに不思議。カスカスの線を重ねて太くしていく、鉛筆っぽい描き方が手に緊張感なくていいのかもしれない。

なんか鉛筆風に自然に描けちゃうから、今回の作業ですでに清書したスケッチ300点、また描き直したくなるw

これにはもう一つ利点があった。鉛筆で描いたスケッチと、Photoshopで描いたスケッチにあんまり差がない。ってことは、鉛筆スケッチをあらためてゼロから清書する必要がない。あと、同じ描き方で板タブもイケそう。一発でキメの線を描く必要がないので。

ただ、気分の問題としたら、これが掲載される頃にはなぜ調子良く描けてたか、わからなくなってる可能性は高いw

●クリストとアンブレラ展

クリストが亡くなったそう。1991年のアンブレラ展の茨城会場は見に行った。ちょうどクリスト本人と、共同制作者で奥さんのジャンヌ=クロードがいて、チケットにサインしてもらった。
http://www.yoshii.com/dgcr/Christo1991-all

正方形の青と黄色の布は、日米会場のアンブレラの素材と同じものを、水戸芸術館で配布してたもの。

「雨天決行、アンブレラ展」とかコピーがついてたのを思い出したんだけど、今わかった。傘だから「雨天決行」だったんだw 29年かかってわかった、頭悪いなあw (「当たり前だけど、野外展示だから雨降っても関係ないよ(笑)」っていう意味だと思い込んでた)

Wikipedia「アンブレラ 日本-アメリカ合衆国、1984-91】
https://bit.ly/304AqRh

知らなかった件が。「アメリカ展示で、強風で死者が出て即座に中止を決定、日本展示も撤去中に作業員に死者」。何となくニュースの記憶はあったけど、そんなことになってたのか。

あと、アンブレラ展は「現地で大量のボランティアを動員するアートイベント」の走りと思い込んでたが、大きな誤解だった。

「日本側では600人、アメリカ側では960人、作業員には賃金が払われている。プロジェクトは一切の資金援助を受けず行う、との姿勢の徹底した表れ」、「2600万ドルかかったが、クリストとジャンヌ=クロードは全額を自分たちで、ドローイングや作品を売って捻出。彼らの他の作品でも共通した姿勢」。カッコエエ!


【吉井 宏/イラストレーター】
HP http://www.yoshii.com
Blog http://www.yoshii.com/dgcr/blueimpulse-IMG_2672

ユニバーサル・スタジオ・ジャパンのダンサーたちが、リモートでモーションキャプチャー、そのままCGに置き換わって映像で群舞。すごい!
https://bit.ly/3gYyYWu

全部リアルタイムではないだろうけど、こういう作り方が可能なのがおもしろい。複数人が絡む動きはむずかしそうだけど。リモートで何かやってるという分割画面自体がトレンドになってて、「私たちもやってますよ」的アピールなのかもね。

○吉井宏デザインのスワロフスキー

・三猿 Three Wise Monkeys
https://bit.ly/2LYOX8X

・幸運の象 LUCKY ELEPHANTS
https://bit.ly/30RQrqV

・十二支 MOUSE
https://bit.ly/2AnkKxz
 
 
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■ゆずみそ単語帳[32]
暴力的な楽しみの終わり方:「ウエストワールド」

TOMOZO
http://bn.dgcr.com/archives/20200610110100.html
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人を殺しても、いたぶっても罪に問われない世界があるとしたら、人はどうふるまうだろう?

HBOの(日本ではスターチャンネルで配信されてるようです)ドラマ『ウエストワールド』をシーズン1(2016年)からシーズン3まで、一気に見てしまった。

■俳優陣は全員良い

設定にはいろいろツッコミどころがあるのだけど、とにかく映像が素晴らしく、俳優陣も素晴らしく(アンソニー・ホプキンスとエド・ハリスがすごいのはもちろん、エヴァン・レイチェル・ウッド、タンディ・ニュートンらの女性陣もめちゃめちゃ良い。全員良い)、脚本も面白い。以下、若干ネタバレありです。

舞台は(シーズン1と2では)、テーマパーク。そこには人間そっくりのアンドロイドの「ホスト」たちがいて、莫大な入場料を払ってそのパークに遊びに行ったゲストたちは、その「ホスト」たちを好き勝手に強姦したり、殺したりもできる。

「ホスト」たちは人間とおなじように血を流すし、痛みを感じるし、さらにひどいことに、自分が人間ではないことを知らない。何度も虐殺されては記憶を消されて、あらかじめ決められた設定のストーリーを生きるために、テーマパークのもともといた場所に戻される。

主人公のドロレスは、ドラマの最初では、清楚で純真無垢な牧場主の娘として登場する。古き良き時代にグレートなアメリカがあった、というファンタジーを信じる人たちも大絶賛するであろう、賢いが従順でナイーブな西部劇のヒロインのステレオタイプで、ゲストたちの暴力になすすべもなく、何度も殺されていく。

準主人公のメイヴも、娼館のマダムという別の種類のステレオタイプなキャラクター。頭の回転が速くて目端がきく役柄だけれど、けっきょくは娼婦でありさらにホストであって、ゲストの楽しみのために搾取されるだけの存在だ。

そういう圧倒的に弱い立場で生きていたホストたちが、なんども面白おかしい「なぐさみもの」として殺されてきた記憶、つまり自分の「歴史」に覚醒していき、自由の獲得と復讐のために立ち上がっていくのがシーズン1と2のストーリー。

全編、暴力描写がなまなましいシリーズで、血しぶきの量がものすごい。わたしは個人的に、暴力描写はこの半分でもじゅうぶんおなかいっぱいと思うんだけど、これがHBOの、というか21世紀初頭現在のアメリカ発エンターテイメントのスタンダードってことなんだろう。

とにかく毎回血みどろ。一回の放映にこれだけ血を流さなきゃいけない、という決まりでもあるのか。

ホストの脳天を吹き飛ばしてゲラゲラ笑うパークのゲストたちの姿には、画面にいつも血しぶきとアクションを見たがるわたしたち視聴者の姿が映し出されている……ともいえるわけだけど、シャレにもなってないよなと思う。

シーズン1の途中から何度も登場する、ナゾのフレーズがある。何度も殺されてはよみがえり、またパークに戻されという短い人生を繰り返しているホストが、思い出せるはずのない過去を思い出して口走るフレーズで、ドロレスの衝撃的な過去が明らかになる重要な場面でも、キメのセリフとなっている。

「These violent delights have violent ends」

このフレーズがずっと気になっていたのだが、シーズン3を見終わってからググってみた。これはシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』に出てくるセリフだった。

第二幕。どうしてもジュリエットと結婚したいのだ、ぜひ結婚させてくれ、とせまるロミオに、ロレンス牧師が答える場面。お若いの、まず落ち着きなされ。「暴力的な楽しみは、暴力的に終わるものだ」。それよりもほどほどの愛のほうが長続きするんだ、とお説教をする。

These violent delights have violent ends / And in their triumph die, like fire and powder / Which as they kiss consume. The sweetest honey is loathsome in his own deliciousness / and in the taste confounds the appetite. Therefore love moderately. Long love doth so. Too swift arrives as tardy as too slow.

というセリフの一部であった。

手もとに日本語訳の本がなかったので、Kindleで探したら坪内逍遥訳の『ロミオとヂュリエット』が無料だった。

《そうした過激の歓楽は、とかく過激の終を遂ぐる。火と煙硝とが抱き合へばたちまち爆発するがやうに、勝ち誇るさなかにでも滅び失せる。上なう甘い蜂蜜は旨すぎて厭らしく、食うてみようという気が鈍る。ぢゃによって、恋も程よう。程よい恋は長う続く。速きに過ぐるは猶遅きに過ぐるが如しぢゃ。》

というのが坪内先生の名訳。

「These violent delights have violent ends」

「暴力的な楽しみは、暴力的に終わるものだ」。(日本語版字幕/吹替でなんと訳されているのかわからないので、拙訳です)

これはシリーズを通したテーマのひとつで、長年暴力をふるわれつづけ、殺されつづけ、モノとして扱われてきたホストが、自分たちを犠牲にしておこなわれてきたゲストによる「暴力的な楽しみ」を、ものすごく暴力的に終わらせるよ、という暗示になっている。

わたしはシーズン1の最終回が一番好きで、3回も見てしまった。自分でもかなり暇だなと思う。

意外な展開がいくつもより合わされて、ホストたちの逆襲が始まっていくクライマックスにゾクゾクする。バックに流れるのは西部劇の音楽ふうの編成で編曲されたレディオヘッドの「Exit Music」。超絶好きな曲なので、それだけでもう泣けてくる。

シーズン2の予告編みたいな終わり方は、ちょっと物足りないといえばいえるけど、すぐにシーズン2を続けて見れば問題なし(シーズン2はさらに血みどろ度が増してました)。

虐げられていた人々の華麗な復讐劇は、カタルシスをさそう。でもホストたちの復讐はパークの人間を殺してハイ円満解決! とはいかなくて、紆余曲折のすえ、シーズン3では人類抹殺のシナリオ? という展開にまでいたる。

シーズン1ではこの「暴力的な楽しみ」がフォーカスされていた。

※以下、更にディープなネタバレあり。できればぜひ、シーズン1を最後まで見てから、読んでいただきたいです!)

■「真の自分」を発見

シーズン1の最終回で、パークの常連でパークのすべてを知り尽くしている、極端にサディスティックで極悪なゲスト「黒服の男」が、実はドロレスの白馬の騎士的な存在だった思いやりあふれるゲスト、「ウィリアム」の35年後の姿だったということがわかる。

ウィリアム君は、義兄に嫌々ながら連れてこられたパークで、必死に自分の運命を生きようとする純真なドロレスと出会い、彼女に心から惹かれ、彼女を守るためにそれまでの自分の殻を破るような冒険の旅に出る。

しかし、その旅の途中で暴力を経験していくなかで、けっきょく最後にはホストを平気で大量に殺戮するゲームを楽しむようになる「真の自分」を発見してしまう。

人に教えてもらうまでもなく、わたしたちの中には、暴力をふるう装置がもともとインストールされている。

このパークみたいに何をしても罪に問われない環境があったら、人は喜んで人を傷つけて、悪事のかぎりをつくすのかどうか。

パークは善人だった「ウィリアム」を悪人に変えたのか、それとももともとあった潜在的な悪を解き放ったのか、という問いが、たしかシーズン2と3で何度かほのめかされたと思うけど、それはわりあいにつまらない質問だと思う。

このドラマで残念なのは、ウィリアムがあまりにも簡単に、スイッチをぽんと押したように、ダークサイドに落ちちゃってること。

人格はけっこう変わるものだし、人は過激な環境に置かれれば、わりとすぐに、まさかあの人が! と思うようなことをしたりするものだ。でもそこにはやっぱり葛藤があるはずだ。

『ウエストワールド』のような世界を、人類はすでに何度も経験してますね。

「ここでは好き勝手に暴力を振るってよい」というプラットフォームは、歴史の中で何度も何度も登場してきたし、今この瞬間にも世界中に無数にありますよね。

たとえば奴隷制とか。戦争とか。ソーシャルメディアとか。

ローマ時代の市民は殺人の見世物に狂乱したし、コンスタンティノープルに攻め込んだトルコ兵も、第二次大戦のベルリンを占領したロシア兵や中国大陸に送られた日本兵も、家では優しいお父さんだったかもしれない兵士たちが、よその国の人たちに対しては残虐のかぎりを尽くすことができた。

いまこの21世紀の平和な日本でもアメリカでも、直接顔の見えない相手に対して、いくらでも凶悪な言葉をガンガン投げることができる人がたくさんいる。

密室のような家庭のなかで幼い子どもに暴力を振るう人も、いつの間にか脳内でそういう〈暴力OK〉プラットフォームを設定してしまっているのだと思う。

はい、もちろん、それぞれにレベルや性格や環境の違う暴力である。戦争と家庭内暴力と、二次元の暴力を一律に語るなという人もいるだろう。

わたしも、もちろん全部均質だとは思ってない。

でも脳のなかで起きてることを見れば、暴力にウェーイ! と喜ぶ部位とその働きかたは類似しているはずである。生物であるわたしたちであればこそ、内側にはいってる暴力の「素」と、それが出てくる「しくみ」について考えてみたほうがいいのでは、と思うのだ。

■ストッパーが外れて

あらゆる暴力は、究極的には「程度の問題」だとわたしは思う。

もちろん、わたしたちは暴力をふるえるようにできている。自分のふるう暴力にスカッとするしくみが、わたしたちの中にはひっそり入っている。

醜いもの、弱いもの、わけがわからないもの、自分をおびやかすもの、ムカつくもの、うざいものを貶めて傷つけるのが、わたしたちは好きだ。

とんでもない、わたしはアリ一匹も殺したことがないし、人の不幸なんか一度も願ったことがないという人も、きっと世の中に一定数いるにちがいないけれど、そういう人のなかにも、潜在的な暴力装置はちゃんと入ってる。

そして同時に、その暴力を抑制する装置も、わたしたちのなかに埋め込まれている。

文化とかことばとか習慣とか、信条とか信仰とか、いろんな形で、普通の人には「ここは暴力をふるってはいけないところ」「これ以上はやっちゃダメなこと」というストッパーが、何重にもかかっている。

そしてこのストッパーにもなる文化とか言葉とか習慣とか信仰とかが、逆に、「やっておしまいなさい☆」と暴力を推すことだってよくある。

どこのどんな状況下で「ここは暴力をふるって良いところだ」と判断してしま
うのか、そしてそれを普通だと思い始めてしまうのかは、時代と場所と個人に
よってまったくさまざまだ。

「ウィリアム」から「黒服の男」へ変身していくまでには、まだ何段階かのストッパーがぱかっと外れていく葛藤があってしかるべきだし、それをもうちょっと見たかったなあ、と思ってる。

たとえば映画『JOKER』は、主人公が病んだ世界観と暴力に向かう動機となっていく、かなしい屈辱の経験をこれでもかこれでもかと折り重ねて描いていて、いちおうの説得力があった。

あの映画には、ストッパーが外れて自分の暴力を解放してしまった瞬間が二度ほど描かれていて、それにはぞっとするようなリアリティがあった。

ウィリアムは義兄のローガンにバカにされまくるナイーブな若造の立場から、急にマッチョで冷血無比の殺人マシーンになっちゃうわけで、見ている側としては、えっ、はやっ、とキツネにつままれた感じで納得いかないのだ。

シーズン3では新キャラのケイレブ君が、悪を選ぶのか善を選ぶのかの選択肢に直面していたけれど、ちょっとそれもずいぶん簡単だなー、という感じだった。シーズン4では(なんと、まだ続きがあるのだった!)、そのへんをもうちょっとよろしくお願いいたしたいと思う。


【Tomozo】
英日翻訳者 シアトル在住
https://livinginnw.blogspot.com/


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編集後記(06/10)

●偏屈BOOK案内:曽野綾子「病気も人生 不調なときのわたしの対処法」

曽野綾子さんの書くことはサッパリしてて好きだが、ここ数年で読んだ彼女の本はすべて、安易な編集本だった。これまで各社が出版した本の中から、編集者がテーマに沿って適当な一文を抜き出してまとめるスタイルだ。たとえば海竜社「老いを生きる覚悟」、中央公論新社「自分流のすすめ」、小学館「老境の美徳」、光文社文庫「中年以後」、小学館新書「人生の引き際」などから。

興陽館の編集者がたくさんの「曽野綾子本」を集めて、今回は「不調なときの対処法」をテーマに読み漁り、関係ありそうな一文をたくさん拾い出す。集まったそれをテキストデータ化し、分類し、たとえば「死の直前までにやるべきこと」とか「身体の不調や疲れを受け入れる」といった章を立て、章毎にそれらを並べる。データ化はどの段階か知らんが、問題があるような、ないような。

1コラム2〜3ページだから、1ページに2行しかなくあとは白地というみっともない見開きもでてくる。ほんと、見るからにイージーな編集である。まあ、いいや。その中からいくつか抜き出してみる。曽野さんは健康診断を受けないのが信条である。また苦痛を感じない限り病院には行かない。それは「趣味」として、国民健康保険をできるだけ使わないためだというが、韜晦だろう。

人間、適当な年齢で命を終わる方がいいし、いま自覚してしていない病気を探り出されるのもいや、老年は病気とあまり丁寧に付き合わないほうがボケもせず、健康のように見える。子供や施設の世話になっている人、安心した人の方がボケやすい。「老年には、他人に迷惑をかけない範囲で自由に冒険をして遊び、適当な時に死ぬ義務を果たさなければならない」おっしゃるとーり。

人間には、適当な時にこの世を去るという義務がある。それだけは決まった現実なのに、それを正視しない人もいる。世間の人は、病気と律儀に付き合い過ぎる。80歳でもガンの検診を受け、健康診断の日と重なるというと、楽しみにしていたグループの遊びの計画まで止める人がいる。ほとんど病人である。

「中年を過ぎたら、私たちはいつもいつも失うことに対して準備をし続けていなければならないのだ。失う準備というのは、準備して失わないようにする、ということではない。失うことを受け入れる、という準備態勢を作っておくのである」。それは分かっている。気持ちでは十分に。嗚呼めんどうくさい。

「年寄りの醜さが発揮されているのが、自分が払った社会保険や健康保険を、『使い倒して死ぬ』などと臆面もなく口にすることだ。(略)浅ましい言葉だ。社会問題を扱う学者や評論家までそんなことを言う。『とことん使い切らないと損』と言っているわけだが、『差し上げる側に回るほうがいい』という美徳は、もう薄れてしまっているのだろうか」。確かにいます、そんなジジババ。

曽野さんは、世間の中年以降の女性たちが、数人集まればすぐ病気の話をするのが好きではない。あそこが痛いここが痛い、どこの医者がいい、というような話を延々とし続けて、傷をなめ合っている。それで心理的に苦痛が解消されるのならまあいいが、「個人にとって大切でも、他人にとってはまったく興味のない話というものも世間にはあるものだ。その筆頭が病気の話」(柴田)

曽野綾子「病気も人生 不調なときのわたしの対処法」2020 興陽館
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4877232508/dgcrcom-22/


●『ウエストワールド』はAmazonプライムビデオで見られる。見てみたいような怖くて無理のような……。

/新型コロナウイルスのことで、大阪の動向が知りたくて、遠のいていたTwitterへアクセスするようになっていた。

近所の書店が閉店したり、美味しそうなお店の紹介を見たり、仕事関係の力強いツイートがあったり、共感できる愚痴があったり。

自分がフォローしている人なのに、真反対な意見が読めたりすると、ちょっと面白い。そうか〜、あの発表や発言をこう捉えるのか〜、いくら何でも悪く捉えすぎなんじゃないのかなぁ、などと思ったりする。

気がつくと「いいね」ばかりになるので、意識して頻度を落としているのだが、それでもクリックしてしまう。これって見ていない時期に面白い・役立つツイートを見落としているってことだよなぁ。

で、まぁなぜ長々と書いているかというと、KNN神田さんのお子様誕生ツイートを目撃して、なんてタフな人なんだと思ったりしたのであった。おめでとうございます!(hammer.mule)

昭和の長女、平成の次女、令和の長男、3元号コンプリート!