ゆずみそ単語帳[32]暴力的な楽しみの終わり方:「ウエストワールド」
── TOMOZO ──

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人を殺しても、いたぶっても罪に問われない世界があるとしたら、人はどうふるまうだろう?

HBOの(日本ではスターチャンネルで配信されてるようです)ドラマ『ウエストワールド』をシーズン1(2016年)からシーズン3まで、一気に見てしまった。





■俳優陣は全員良い

設定にはいろいろツッコミどころがあるのだけど、とにかく映像が素晴らしく、俳優陣も素晴らしく(アンソニー・ホプキンスとエド・ハリスがすごいのはもちろん、エヴァン・レイチェル・ウッド、タンディ・ニュートンらの女性陣もめちゃめちゃ良い。全員良い)、脚本も面白い。以下、若干ネタバレありです。

舞台は(シーズン1と2では)、テーマパーク。そこには人間そっくりのアンドロイドの「ホスト」たちがいて、莫大な入場料を払ってそのパークに遊びに行ったゲストたちは、その「ホスト」たちを好き勝手に強姦したり、殺したりもできる。

「ホスト」たちは人間とおなじように血を流すし、痛みを感じるし、さらにひどいことに、自分が人間ではないことを知らない。何度も虐殺されては記憶を消されて、あらかじめ決められた設定のストーリーを生きるために、テーマパークのもともといた場所に戻される。

主人公のドロレスは、ドラマの最初では、清楚で純真無垢な牧場主の娘として登場する。古き良き時代にグレートなアメリカがあった、というファンタジーを信じる人たちも大絶賛するであろう、賢いが従順でナイーブな西部劇のヒロインのステレオタイプで、ゲストたちの暴力になすすべもなく、何度も殺されていく。

準主人公のメイヴも、娼館のマダムという別の種類のステレオタイプなキャラクター。頭の回転が速くて目端がきく役柄だけれど、けっきょくは娼婦でありさらにホストであって、ゲストの楽しみのために搾取されるだけの存在だ。

そういう圧倒的に弱い立場で生きていたホストたちが、なんども面白おかしい「なぐさみもの」として殺されてきた記憶、つまり自分の「歴史」に覚醒していき、自由の獲得と復讐のために立ち上がっていくのがシーズン1と2のストーリー。

全編、暴力描写がなまなましいシリーズで、血しぶきの量がものすごい。わたしは個人的に、暴力描写はこの半分でもじゅうぶんおなかいっぱいと思うんだけど、これがHBOの、というか21世紀初頭現在のアメリカ発エンターテイメントのスタンダードってことなんだろう。

とにかく毎回血みどろ。一回の放映にこれだけ血を流さなきゃいけない、という決まりでもあるのか。

ホストの脳天を吹き飛ばしてゲラゲラ笑うパークのゲストたちの姿には、画面にいつも血しぶきとアクションを見たがるわたしたち視聴者の姿が映し出されている……ともいえるわけだけど、シャレにもなってないよなと思う。

シーズン1の途中から何度も登場する、ナゾのフレーズがある。何度も殺されてはよみがえり、またパークに戻されという短い人生を繰り返しているホストが、思い出せるはずのない過去を思い出して口走るフレーズで、ドロレスの衝撃的な過去が明らかになる重要な場面でも、キメのセリフとなっている。

「These violent delights have violent ends」

このフレーズがずっと気になっていたのだが、シーズン3を見終わってからググってみた。これはシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』に出てくるセリフだった。

第二幕。どうしてもジュリエットと結婚したいのだ、ぜひ結婚させてくれ、とせまるロミオに、ロレンス牧師が答える場面。お若いの、まず落ち着きなされ。「暴力的な楽しみは、暴力的に終わるものだ」。それよりもほどほどの愛のほうが長続きするんだ、とお説教をする。

These violent delights have violent ends / And in their triumph die, like fire and powder / Which as they kiss consume. The sweetest honey is loathsome in his own deliciousness / and in the taste confounds the appetite. Therefore love moderately. Long love doth so. Too swift arrives as tardy as too slow.

というセリフの一部であった。

手もとに日本語訳の本がなかったので、Kindleで探したら坪内逍遥訳の『ロミオとヂュリエット』が無料だった。

《そうした過激の歓楽は、とかく過激の終を遂ぐる。火と煙硝とが抱き合へばたちまち爆発するがやうに、勝ち誇るさなかにでも滅び失せる。上なう甘い蜂蜜は旨すぎて厭らしく、食うてみようという気が鈍る。ぢゃによって、恋も程よう。程よい恋は長う続く。速きに過ぐるは猶遅きに過ぐるが如しぢゃ。》

というのが坪内先生の名訳。

「These violent delights have violent ends」

「暴力的な楽しみは、暴力的に終わるものだ」。(日本語版字幕/吹替でなんと訳されているのかわからないので、拙訳です)

これはシリーズを通したテーマのひとつで、長年暴力をふるわれつづけ、殺されつづけ、モノとして扱われてきたホストが、自分たちを犠牲にしておこなわれてきたゲストによる「暴力的な楽しみ」を、ものすごく暴力的に終わらせるよ、という暗示になっている。

わたしはシーズン1の最終回が一番好きで、3回も見てしまった。自分でもかなり暇だなと思う。

意外な展開がいくつもより合わされて、ホストたちの逆襲が始まっていくクライマックスにゾクゾクする。バックに流れるのは西部劇の音楽ふうの編成で編曲されたレディオヘッドの「Exit Music」。超絶好きな曲なので、それだけでもう泣けてくる。

シーズン2の予告編みたいな終わり方は、ちょっと物足りないといえばいえるけど、すぐにシーズン2を続けて見れば問題なし(シーズン2はさらに血みどろ度が増してました)。

虐げられていた人々の華麗な復讐劇は、カタルシスをさそう。でもホストたちの復讐はパークの人間を殺してハイ円満解決! とはいかなくて、紆余曲折のすえ、シーズン3では人類抹殺のシナリオ? という展開にまでいたる。

シーズン1ではこの「暴力的な楽しみ」がフォーカスされていた。

※以下、更にディープなネタバレあり。できればぜひ、シーズン1を最後まで見てから、読んでいただきたいです!)

■「真の自分」を発見

シーズン1の最終回で、パークの常連でパークのすべてを知り尽くしている、極端にサディスティックで極悪なゲスト「黒服の男」が、実はドロレスの白馬の騎士的な存在だった思いやりあふれるゲスト、「ウィリアム」の35年後の姿だったということがわかる。

ウィリアム君は、義兄に嫌々ながら連れてこられたパークで、必死に自分の運命を生きようとする純真なドロレスと出会い、彼女に心から惹かれ、彼女を守るためにそれまでの自分の殻を破るような冒険の旅に出る。

しかし、その旅の途中で暴力を経験していくなかで、けっきょく最後にはホストを平気で大量に殺戮するゲームを楽しむようになる「真の自分」を発見してしまう。

人に教えてもらうまでもなく、わたしたちの中には、暴力をふるう装置がもともとインストールされている。

このパークみたいに何をしても罪に問われない環境があったら、人は喜んで人を傷つけて、悪事のかぎりをつくすのかどうか。

パークは善人だった「ウィリアム」を悪人に変えたのか、それとももともとあった潜在的な悪を解き放ったのか、という問いが、たしかシーズン2と3で何度かほのめかされたと思うけど、それはわりあいにつまらない質問だと思う。

このドラマで残念なのは、ウィリアムがあまりにも簡単に、スイッチをぽんと押したように、ダークサイドに落ちちゃってること。

人格はけっこう変わるものだし、人は過激な環境に置かれれば、わりとすぐに、まさかあの人が! と思うようなことをしたりするものだ。でもそこにはやっぱり葛藤があるはずだ。

『ウエストワールド』のような世界を、人類はすでに何度も経験してますね。

「ここでは好き勝手に暴力を振るってよい」というプラットフォームは、歴史の中で何度も何度も登場してきたし、今この瞬間にも世界中に無数にありますよね。

たとえば奴隷制とか。戦争とか。ソーシャルメディアとか。

ローマ時代の市民は殺人の見世物に狂乱したし、コンスタンティノープルに攻め込んだトルコ兵も、第二次大戦のベルリンを占領したロシア兵や中国大陸に送られた日本兵も、家では優しいお父さんだったかもしれない兵士たちが、よその国の人たちに対しては残虐のかぎりを尽くすことができた。

いまこの21世紀の平和な日本でもアメリカでも、直接顔の見えない相手に対して、いくらでも凶悪な言葉をガンガン投げることができる人がたくさんいる。

密室のような家庭のなかで幼い子どもに暴力を振るう人も、いつの間にか脳内でそういう〈暴力OK〉プラットフォームを設定してしまっているのだと思う。

はい、もちろん、それぞれにレベルや性格や環境の違う暴力である。戦争と家庭内暴力と、二次元の暴力を一律に語るなという人もいるだろう。

わたしも、もちろん全部均質だとは思ってない。

でも脳のなかで起きてることを見れば、暴力にウェーイ! と喜ぶ部位とその働きかたは類似しているはずである。生物であるわたしたちであればこそ、内側にはいってる暴力の「素」と、それが出てくる「しくみ」について考えてみたほうがいいのでは、と思うのだ。

■ストッパーが外れて

あらゆる暴力は、究極的には「程度の問題」だとわたしは思う。

もちろん、わたしたちは暴力をふるえるようにできている。自分のふるう暴力にスカッとするしくみが、わたしたちの中にはひっそり入っている。

醜いもの、弱いもの、わけがわからないもの、自分をおびやかすもの、ムカつくもの、うざいものを貶めて傷つけるのが、わたしたちは好きだ。

とんでもない、わたしはアリ一匹も殺したことがないし、人の不幸なんか一度も願ったことがないという人も、きっと世の中に一定数いるにちがいないけれど、そういう人のなかにも、潜在的な暴力装置はちゃんと入ってる。

そして同時に、その暴力を抑制する装置も、わたしたちのなかに埋め込まれている。

文化とかことばとか習慣とか、信条とか信仰とか、いろんな形で、普通の人には「ここは暴力をふるってはいけないところ」「これ以上はやっちゃダメなこと」というストッパーが、何重にもかかっている。

そしてこのストッパーにもなる文化とか言葉とか習慣とか信仰とかが、逆に、「やっておしまいなさい☆」と暴力を推すことだってよくある。

どこのどんな状況下で「ここは暴力をふるって良いところだ」と判断してしま
うのか、そしてそれを普通だと思い始めてしまうのかは、時代と場所と個人に
よってまったくさまざまだ。

「ウィリアム」から「黒服の男」へ変身していくまでには、まだ何段階かのストッパーがぱかっと外れていく葛藤があってしかるべきだし、それをもうちょっと見たかったなあ、と思ってる。

たとえば映画『JOKER』は、主人公が病んだ世界観と暴力に向かう動機となっていく、かなしい屈辱の経験をこれでもかこれでもかと折り重ねて描いていて、いちおうの説得力があった。

あの映画には、ストッパーが外れて自分の暴力を解放してしまった瞬間が二度ほど描かれていて、それにはぞっとするようなリアリティがあった。

ウィリアムは義兄のローガンにバカにされまくるナイーブな若造の立場から、急にマッチョで冷血無比の殺人マシーンになっちゃうわけで、見ている側としては、えっ、はやっ、とキツネにつままれた感じで納得いかないのだ。

シーズン3では新キャラのケイレブ君が、悪を選ぶのか善を選ぶのかの選択肢に直面していたけれど、ちょっとそれもずいぶん簡単だなー、という感じだった。シーズン4では(なんと、まだ続きがあるのだった!)、そのへんをもうちょっとよろしくお願いいたしたいと思う。


【Tomozo】
英日翻訳者 シアトル在住
https://livinginnw.blogspot.com/