ショート・ストーリーのKUNI[260]今日の予想最高男
── ヤマシタクニコ ──

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ある朝のこと。マリコはいつものようになんとなくトーストをかじり、なんとなくコーヒーを飲みながら、テレビの画面にときどき目をやっておりました。

「今日は晴れたり曇ったりのお天気でしょう」

外ではもう団地の草刈りの業者が仕事を始めています。草刈り機のウイーンという音が離れたところから近づいてきます。

ウイーン。ウイーン。

「波の高さは1メートルくらいでしょう」

ウイーン。ウイーン。

するとその時、画面のお天気お姉さんがマリコに向かって言いました。

「マリコさん、よく聞いてください」

え? とマリコは思いました。

「あなたの今日の予想最高男は」

その時、草刈りの業者は窓のすぐそばまでやってきていました。

ウイーン! ウイーン!

「そして予想最低男は」

ウイーン!

肝心のところが全然きこえません。むかっ。

マリコは窓から身を乗り出し、外を見ました。ヘルメットに手袋、それと迷彩柄のマスクで完全装備した業者の男がウイーン、ウイーンと一心不乱に草を刈っています。

「あいつのおかげで私の予想最高男も予想最低男もわからないままだなんて!」





まあ仕方ないのでマリコは出勤しました。それにしても、予想最高気温とか予想最低気温ならわかりますが、予想最高男や予想最低男など聞いたことがありません。耳がおかしくなったのでしょうか。

通勤の電車の中でも、マリコはぼんやりと考えておりました。今日の予想最高男。今日の予想最低男。誰なんだろう。ていうか、どんなやつなんだろう。

ふと、迷彩柄のマスクの草刈り男が浮かびました。ひょっとしてあれこそが予想最低男かも?! そうかも! すでにけっこう迷惑だし! あいつさえいなかったら!

会社に着いてしばらくしたとき、課長に呼ばれました。

「◯◯マリコくん。今日は出張に行ってほしいんだ」
「出張? 私が?」

マリコはこの会社に勤め始めて30年になりますが、出張をしたことがありません。マリコの仕事は会社の中にいて、日々のこまかなデスクワークをこなすことです。

「ああ、そうだよ。**市にある###事務所まで書類を届け、ハンコをもらってきてほしいんだ」
「**市にある###事務所。というと電車で3回乗り換え、さらにバスで1時間ほどですね」
「そうそう。一日がかりになるかもしれないなあ」
「書類を届けて、ハンコをもらうんですね」
「そうだ。ああ、言いたいことはわかる。デジタル化のいまどき、どうしてもハンコは必要なのかと。一日がかりで出張してまで必要なのかとね」

課長はにっこりと笑った。

「ハンコ自体はそれほど必要じゃないかもしれないよ。でも、行くことに意味があるんだ」
「はあ」
「君の体はすっかり左に傾いているね」
「えっ」
「気づかなかったかね? 君はこの会社で30年、ずっと同じ部屋の右隅の位置でデスクワークをしてきた。僕やその前の課長、前の前の課長、いやもっと前の上司たちにいつも左から指示され、何かと君を頼りにする同僚たちも左からあれこれと頼んできた。それで君の体はすっかり左45度に傾いてきた」

知らなかった。そんなこと。

「たまには外に出て、ふだんと違う空気の中を歩いてみたりしてもいいんじゃないかな。幸い###事務所の所長はとてもいい人だ。君は有意義な一日を過ごせると思うよ」

なんだか腑に落ちない感じではありましたが、マリコはそんなわけで出張することになりました。予想最低男はこの課長ではないだろうか。それとも###事務所の所長。いや、所長さんが男かどうかもわからないけど。そんなことを思いながら。

電車を乗り継ぎ、バスに乗り換える間もマリコはついきょろきょろしてしまいました。どこで予想最高男や予想最低男に出会うのかわかりません。今、こうしている間にも私の、今日の、予想最高男は私に近づき、私を退屈な毎日から救ってくれようとしているのかもしれない。一方で予想最低男も私に近づき、私の毎日の生活の基盤をおびやかし、不幸のただ中に陥れようとしているのかもしれない。そんなことを思うとマリコの心は落ち着かないのです。

電車の中でマリコはスマートフォンを出し、検索してみました。もちろん、予想最高男と予想最低男についてです。

「予想最高男とか予想最低男ってどういうものですか?」という質問とそれに関する回答のページが見つかりました。やはり同じような経験をした人はいるのです。

「──なんですか、それは? 天気予報で聞いた? あなたは疲れているのです。単なる聞き間違いでしょう」
「──病院に行くことをおすすめしますよ」
「──冗談にしてもあまり面白くないですね」
「──釣りですか?」

ばかにしたような回答が並ぶなかで一つだけ、「おやっ」と思う回答がありました。

「──私も聞いたことがあります。人間は一生に一回だけ、そのような予報を聞くことがあるのだと、ある人から聞いたことがあります。そして、私も聞いたのです! 私の場合には」

その回答は途中で終わっていて「続きは会員のみ読むことができます」となっていました。会員になるページにジャンプすると、何やらあやしげな商品の広告。マリコはがっかりしました。ちっ。なーんだ、こりゃ。

すると、通路を隔てた左のほうに座っていた中年の男が立ち上がり、マリコのほうに向かってやってきました。

「おれに何か不満でもあるのかよ」

マリコはどきっとしました。

「いえ、あの、なにも」

「じゃあおれの顔を見ながらいやそうな顔したり舌打ちしたりするなよ!」

「そ、そんなことは、何も!」

言いながらマリコははっとしました。思い出しました。

──君の体はすっかり左に傾いているね

つまり…自分はこの男のほうに向かって、舌打ちしたり顔を思い切りゆがめたりしていたのです。

「誤解ですから!」

**市の中心部からはずれた寂しい一角にある###事務所では、マリコはていねいにもてなされました。所長さんは血色の良いほほと、笑うとなくなってしまう細い目をした、だれがどう見てもいい人でした。マリコが持ってきた書類をうやうやしく受け取り、それはそれは丁寧にハンコを押してくれました。従業員も愛想よく、マリコにおいしいお茶とお菓子をすすめてくれました。

でもなんとなくさびしいとマリコは思いました。街も、事務所も。どうしてそう感じるのかはわかりませんでしたが。

帰りの電車でふと見ると左の窓に退屈そうな自分が映っていました。右を向こうとして無理矢理体をねじると、腰に痛みが走りました。自分の体は課長のいう通り、長い年月の間にすっかり傾いてしまって、もう治らないのだと思いました。

左の列にはまだ若い、髪を短くカットしたさわやかな印象の男性も座っていましたが、ずっとパソコンを使って仕事をしており、マリコと目が合うことはありませんでした。ターミナル駅が近づくとパソコンをしまい、リュックに詰め込んでそのままさっさと下車してしまいました。

マリコの今日の予想最高男はどこにいるのでしょう。あのあやしげなサイトによれば、それは一生に一度であるらしいのに、すでに午後の陽も傾き、今日という日は終わりに近づきつつあるのです。

夕方になって帰社したマリコはすぐに課長に報告に行きました。

「お疲れさまだったね。うん、うん、所長さんはいい人だったろう」
「はい、みなさんとてもいい人たちでした」

課長は何度も頷きました。そして、急にまじめな顔でマリコを見つめました。

「ところで」
「はい?」
「君にはほんとうに長い間、勤めてもらった。仕事ぶりも申し分ない。女子社員の模範となってくれた」
「いえ…」
「このへんで気分を変えて、あの事務所に勤める気はないかい?」
「えっ」
「言いにくいことだけど、君の年齢的なこととか、将来のこととか…そのほかいろいろ考慮したうえでのことなんだが。君は一人暮らしで、引っ越しなども身軽にできるよね」

マリコは課長の声がまともに聞こえなくなってきました。いったい何を言ってるんだろう、課長は。

「いや、別に今のままここにいてくれてもいいんだけど…その場合は…週3日のパートとして…」

何か言おうとしたマリコは自分の唇がぶるぶるとふるえ、それどころか膝も手もふるえてまともに立ってられないことに気づきました。課長になんと答えたのか覚えていません。まだ5時まで少し間がありましたが、机周りだけを片付けると会社を出て、1時間後には自宅の最寄りの駅の改札を通っていました。涙をぼろぼろこぼしながら。

家の近くのコンビニの前まで来たとき、マリコはついふらっと入りました。お客が来店したことを知らせる陽気なメロディが鳴り響き、店員たちが「いらっしゃいませ!」と声をかけました。マリコはほほに涙が伝うまま、店内を歩きました。色とりどりのケーキやクッキー、サラダやお弁当、日用品たちがマリコを慰めるかのように無言でなにかをささやきかけました。

おいしそうな三角のおにぎりが並ぶ棚を見ていたときでした。右のほうからそっと何かが差し出された気配がありました。それは真っ白で清潔そうなハンカチでした。まだ若い男性が、ハンカチをマリコに向けて差し出していたのです。

「あの。よかったら。これ」

マリコは自分の右に立っている男を見ました。まっすぐに自分を見ている目を、マリコも見ました。それから、男性の胸ポケットに無造作に差し込まれた迷彩柄のマスクに気がつき、あっと思いました。よく見ると男はヘルメットをかぶり、作業服姿でした。今日の草刈りが終わったばかりでしょうか。

「ありがとう」

マリコはハンカチを受け取り、遠慮なく涙をふきましたが、涙はふいてもふいても止まることがありませんでした。草刈り男は何も言わず、そんなマリコを見守っていました。


【ヤマシタクニコ】
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ポケモンgoからもしばらく遠ざかっていた私だが、また復活した。何か月ぶりだったかな。去年の秋ごろはうちの近所ではレイドバトルがけっこう盛んで、駅前のジムにシニアのグループが集まるのをよく見たものだった。

それが、私が中断していた期間は世間でもコロナのおかげで外出自粛が叫ばれていた期間だったし、やはりポケモンにも影響が出ていた模様。6月から「リモートレイドバトル」ができるようになったのは、当然、外に出てバトルをする人が減少したせいだろう。

そして、以前はシニア男性でいつもいっぱいだった、近所の図書館の新聞閲覧コーナー。図書館は5月から開館となったが、まだ滞在時間が限定されているし、前のようにじっくり新聞を読む(あるいは読んでいるふりをしている…)シニア男性の姿はまだ見られないままだ。

となると、質量保存の法則的に、みんなどこにいったのであろうか。ポケモンのレイドバトルからも、図書館からも、去っていったじいさんたち。どこかにいるはずなのだが、それはいったい…どこなのだ?!