ゆずみそ単語帳[34]ヘイトという生き方
── TOMOZO ──

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ヘイト発言についていろいろ考えていたときに、さる知人がフェイスブックのリンクを送ってきた。

警官によるジョージ・フロイド殺害事件の翌週、アメリカ中で大きな抗議活動が巻き起こった6月はじめのこと。

キャンデイス・オーウェンズという保守派の黒人女性が20分間独白する動画で、「私はジョージ・フロイドをサポートしない」という、#blacklivesmatterの抗議活動を否定する内容だった。

オーウェンズの主旨は、1)ジョージ・フロイドはひどい犯罪者だから殉教者として持ち上げるなんてもってのほか、2)黒人社会は底辺の人間を持ち上げるのをやめるべきである、3)黒人男性は実際に犯罪者である割合が高く、人種にもとづく警察の蛮行というのは真っ赤なウソであり、政治的プロパガンダにすぎない、黒人社会は被害者意識を持つのをやめるべきだ、というもの。

(フェイスブック動画へのリンク)
https://www.facebook.com/watch/live/?v=273957870461345





「この数日間心が乱れていたけれど、ブラックコミュニティからどんなにプレッシャーがかかっても、これは言わなければと思って」と語り、フロイドが殺害されたのはもちろん言語道断で、あの警官がひどい人間であるのは論をまたないが、フロイドは殺害された当日も薬物でラリっていたし、コカイン所持で何度も収監され、重大な犯罪歴もある「危険で最低の人間だった」と断言する。

その上で、ブラックコミュニティは被害者意識にまみれている、と主張。人種にもとづく警察の蛮行というのは幻想で、実際は警察に殺される人の数は白人のほうが多いし、暴力的犯罪の半数は黒人によるものであり、そんな「底辺の層」の権利にフォーカスしているのは黒人の社会だけだ、黒人社会はそんな犯罪者に迎合していないで、もっと自助努力をすべきである、という。

彼女が挙げている数字は誇張されたもので、サンプリングによって問題の見え方を変えることができる見本のようなものだが、それはさておき、この発言はブラックコミュニティとblacklivesmatterをサポートする人からはもちろん激しく叩かれ、反対の立場からは「勇気ある発言」と称賛された。

私はそれまで知らなかったが、もともとオーウェンズという人は、以前からBlacklivesmatterに反対の立場をとり、挑発的な発言でポジションをとってきた人だ。

この動画を見ていて、あーこれ、こういうの、どこかで見たことがある、と思った。そうだ、はすみとしこだ!

報道写真をもとに「人のカネで楽するために難民しよう」とほくそ笑む難民少女の「風刺画」を描いて炎上し、セクハラ被害を訴えた女性を「枕営業大失敗」というコンテクストでこきおろして、当事者から訴えられている、あの「風刺画家」。

オーウェンズもはすみとしこも「保守」を自称していて、ある一定のグループから大歓迎されているのも共通しているが、今はその思想的なポジションを問題にしたいのではなくて、考えかたと行動のパターンに注目したい。

彼女たちに共通して見られるのは、こんな点だ。

1)世間でポジティブな注目を浴びている人や活動を「みんな騙されているけれど本当はやつらにそんな価値はない」と引きずりおろすことに使命(と、恐らくは快感)を感じている。

2)引きずり下ろす対象の意図を完全に「知っている」と信じて断罪し、一切の共感を拒否し、自分の信じるストーリーの文脈に沿ってのみ理解しているようだ。

3)それらの対象の中に弱さ、醜さ、ずるさを見て、そうした特性を持つと考える人や運動が注目を浴びていることに感情を乱され、憤りを感じている(自分でそう主張している)。

4)ポピュラーではない意見をあえて主張することで批判を浴びることを承知しつつ、正義のために戦っているという信念を持っているようである。

はすみ氏は自分のTwitterのプロファイルに「嫌いなもの→偽弱者、偽被害者、パヨク(反日野郎)、権威主義、スプーン野郎(手柄乞食)、卑怯者」と書いている。

知らない人の中に「ニセ弱者」「ニセ被害者」を見て、たまらないほどイライラする、というのは、いったいどういうことなんだろう。

と考えていたら、ちょうど、先日たまたま読んだコラムにこんな一文を見つけて、そうそうそう! 同感! と思わず声をあげた。高機能自閉症を持つジャーナリストの方のコラムだ。

「私は、嫉妬や差別の根本原因は、誰かが自分と誰かの人生を比較して『この人の人生は自分の人生よりもイージーモードだ』と勝手に断じることにあるのではと思っています」
https://h-navi.jp/column/article/35027765

(宇樹義子:勉強ができることは「勝ち組へのパスポート」ではなかった――生きづらさから傲慢だった発達障害の私。就活挫折と仕事での苦難から気づいたこと)

この方は、自身に能力のアンバランスがあるために嫉妬や差別の対象になりやすかった経験をふまえ、「人からの『◯◯ができる』という評価には、育つ環境や世相といった運が大きく関わっているのです。生活上おおよそすべてのスキルについて、何かが人よりできることに傲慢になってもいけないし、何かができないことについて本人の努力の問題にしてはいけない」ということを身にしみて感じてきたという。

他人を嫉妬、差別、嫌悪することの基本には、その相手について必要なことはすべて知ってるという思い込みがあるのだ。なんならその当人も知らない真実を私は知っている、と思う気持ちがある。

上に挙げた2)の、「ある人たちの意図を完全に『知っている』と信じて断罪し一切の共感を拒否し、自分の信じるストーリーの文脈でのみ理解する」のと、3)の、それらの人たちの中に怠惰とかズルさとかのネガティブなキャラクターを見て嫌悪する、というのは、セットなのだ。

はすみ氏の場合は、難民やセクハラ被害の女性を「ニセ」の弱者と認定して、「不正な方法で楽をしようとしているズルいやつら」という憤りをもっている。

「こういう人はこういうパターンでこういう行動に出る。それはずるい意図があるからだ」というストーリーにあてはめてしか相手を見ていない。最初からネガティブなフィルターが入っているので、このポジションからは絶対に相手に共感することができない。

オーウェンズは、ジョージ・フロイドを「最悪の犯罪者」と断罪している。重大な犯罪に加担したし、何度も薬物所持で収監されているから。

ここにも、1ミリの共感が入る隙間もない。善人か悪人か。悪人ならかえりみる必要なし、という判断。「なぜ」少量の麻薬所持で何度も収監されたのか? 何が間違ったのか? 本人のため、コミュニティのため、社会の安定のために何かが変えられないのかという疑問も、オーウェンズは持つことはない。自助努力が足りなかった当然の結末。私だって頑張ってきたんだからあんたにできなかったはずはない。イージーモードを選んだあんたが悪い、という、そういう結論なのだろう。

そしてはすみ氏同様、オーウェンズも、自分には犯罪者にしか見えない人物が注目を浴びていることに「とても感情を乱される」と滅茶滅茶憤っている。

黒人のコミュニティが「底辺」の人々に迎合しているのがたまらなく恥ずかしい、というオーウェンズの感情も、「ズルい人」たちに向けられるはすみ氏の感情も、純粋な嫌悪である。

二人とも、大変な努力をしてきた、真面目な人なのだと思う。自分はものすごく苦労して嫌な思いもたくさんして頑張ってきた、それに比べてほかの奴らはイージーな選択をしてより多くのものを得ようとしている。それが許せない、ズルい、という感情なのだろう。そして、「そんな人が増えたら私たちの社会は大変なことになる」という恐怖を抱いているのかもしれない。

ああいう人たちって「駄目だよね、害悪だよね」というストーリーがいったんできあがってしまうと、次はそういった人たちを制裁し排除するのが正義、という理屈になるのは容易に想像できる。

「自粛警察」が話題になったが、正義の執行にはカタルシスがある。オーウェンズもはすみ氏も、「叩かれるのはわかっているけど、これが私の使命」という正義感をもって悪を撃つ役回りを自ら引き受け、その役回りに生き甲斐を感じているようにみえる。正義は甘美で恐ろしい。それはつまり暴力だ。

ちょっと前に、デンマーク人と結婚してデンマークに住む知人が、犬ぞりの話をしてくれたことがある。

彼女の旦那さんは以前、軍の関係でグリーンランドを犬ぞりで調査する仕事をしていたという。犬ぞりに使う犬たちは、チームの中の一匹が少しでも弱ってくると、よってたかっていじめるのだそうだ。

それを聞いたとき、うわー、動物って、弱いものをいじめたくなる本能があるんだ。と思った。人間がほかの人の弱さや欠点に嫌悪を抱くというのは、つまりそういうことなのではないだろうか。とも思った。

わたし自身、子どもの頃から、欠点のあるもの、弱いもの、みじめなものが嫌いだった。はげしい憎悪を抱くことさえあった。いま冷静に考えてみると、それは自分がもっていた強烈な不安と劣等感の投影だった。「評価されるものでなければ」「抜きん出ていなければ」「望まれるものでなければ」いけないという焦燥感と、追いつかない現実にさいなまれた子ども時代だった。暗かった。

犬ぞりの犬たちが弱ってきた犬をいじめるのは、恐怖からなのだろうと思う。厳しい土地で生き延びることのできなくなる弱さを見たとき、自分がそんなふうに弱くなることを怖れている犬は、それを攻撃せずにいられないほど動揺するのではないか。

それは脳のなかにあらかじめ埋め込まれ、進化に有利にはたらいてきた仕掛けの一部なのかもしれない。

おそらく、南の島でまったり暮らしている犬の群れのなかでは、弱って走れなくなった犬がいても、好き好んでいじめたりしようと思う犬はあまりいないのではないかと思う。

激寒の苛酷な環境で、死ぬほど頑張っている犬たちには、弱いものは許せない。犬たちは弱さを嫌悪し、攻撃する。それは、自分の中に決して見たくない特性であり、恐怖の対象なのではないか。

人間も、犬ぞりレースのような環境でいつも疲れて、気を張って、イライラし
ながら生きていたら、人の弱さや愚かさが許せなくなることが多くなるのでは
ないかと思う。

嫌いな人のなかには、自分が一番怖れている何かがある。その嫌悪の感情にストーリーを与えて正当化することで、たぶん、私たちはどんどんそのストーリーを強化して、理解と問題解決から遠ざかる。


【Tomozo】
英日翻訳者 シアトル在住
https://livinginnw.blogspot.com/