Otaku ワールドへようこそ![21]「萌え」を語ろう/GrowHair

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名言もあれば暴言もあるけれど。

 「萌えの世界では、万人が平等に恋愛できる」(本田透「電波男」)
 「萌える男は正しい」(本田透「萌える男」)
 「萌えとはある個人が偶像的理想人格を希求する快楽であり、純粋な感動を伴うもの」(竹林賢三「萌法序説」)
 「萌えとは、特定のキャラクターに関する不十分な情報を個人的に補う行為」(堀田純司「萌え萌えジャパン」)
 「萌え株30銘柄を『もえっくす30』に指定」(浜銀総研)
 「海外でも萌え(moe)は、わび・さびに次ぐ日本独自の美的感覚として認知が高まっている」(ウィキペディア、「萌え」の項)
 「萌えは別腹」(岡田斗司夫、シンポジウム「萌えてはいけない」にて)
 「萌え=ポルノグラフィ」(大塚英志「ジャパニメーションはなぜ敗れるか」)
 「フィギュア萌え族」(大谷昭宏、奈良小1女児殺害事件の犯人像を推測して)
  
このごろ「萌え」をめぐる言説が騒がしい。

もっとも「萌え~」が流行語大賞のトップテン入りを果たした'05年末には、流行のピークは過ぎていたということはある。しかしそれは絶賛の感嘆詞として発せられる「萌え~」が下火になりつつあるということであり、感情や社会現象を表す普通名詞としては健在、むしろ定着した観がある。

今回は、出来事の報告よりも、論じる方に主眼を置いて書いてみようかと。テーマは「萌え」。とは言え、きっかけの出来事はあって……。


●「萌え」論考に火をつけられた

それは昨年末のコミケである。イベントの趣旨からすると主客が逆転しているけれど、私はコスプレ広場でカメコったついでに、同人誌も見て回る。コミケ名物「男津波」の去った後に売れ残った中にも、掘り出し物はある。

今回は、「萌え」について客観的な視点から緻密な論理性をもって論考した秀逸な書に出会うことができた。竹林賢三氏の「萌法(ほうほう)序説」である。竹林氏は私大に通う学生で、「萌え」を卒業研究のテーマにしている。その傍ら、同人サークル「萌学協会」を主宰している。

'05年3月に発行され、ウェブ上でも全文が読める。
< http://www.geocities.jp/mhpcsouda/moe-thod-index-s.htm >
内容に感激したのと、聞きたいことがあったのとで、メールを送ったところ、丁寧な返事をいただき、以来、何回かやりとりしている。

●まずは定義から

「萌え」はネット上の辞書サイトgooで「新語」として見出し語になっており、中立的で、すっきりとまとまった説明がなされている。「マンガ・アニメ・ゲームの少女キャラなどに、疑似恋愛的な好意を抱く様子。特に『おたく好み』の要素(猫耳・巫女などの外見、ドジ・強気などの性格、幼馴染み・妹などの状況)への好意や、それを有するキャラクターへの好意をさす。対象への到達がかなわぬニュアンスもある。語源は諸説ある」。

堀田氏の「萌え萌えジャパン」ではもう一歩突っ込んで、「特定のキャラクターに関する不十分な情報を個人的に補う行為」としている。「補う行為」がどういうものか私にはピンと来なかったのだが、竹林氏の解説で合点がいった。「そのキャラクターを使ってどんどん想像を膨らませる楽しみ」。

竹林氏自身は「萌法序説」の中で次のように定義している。「萌えとはある個人が偶像的理想人格を希求する快楽であり、純粋な感動を伴うもの」。

これについては、メールで補足説明していただいた。それによれば「萌える」という行為は4つのプロセスからなるという。

(1)まず、個人の中に「自分が魅力的だと思うコンテキスト」が集積される。典型的には「美少女の理想像」。これはプラトンのイデアと似ているが、個人ごとに後天的に形成される点が異なる。
(2)あるキャラクターを見たとき、その外見的特長や設定、あるいは声などから「自分が魅力的だと思うコンテキスト」の片鱗を発見する。
(3)そのキャラクターは、ただのキャラクターから「『自分が魅力的だと思うコンテキスト』を実現する存在」となり、期待が発生する。
(4)結果、このキャラクターが、次にどんな表情を見せるのか待望する、あるいはこのキャラクターだったらどんなシーンが似合うのかを夢想するといった状態になる。

このように、あるキャラクターに、自分の好みのコンテキストを仮託し、そのコンテキストが実現する期待から、そのキャラクターを好きになっていくことが「萌える」ではないか。

なるほど。自己の内部に形成された「美少女のイデア」と、外部から感覚器官を通じて入ってきた信号とのパターンマッチングによって誘発される「えもいわれぬ純粋な感動」が「萌え」であるが、マッチングの点数に応じてその度合いが決定されるような単純な機構ではなく、理想像の「片鱗」を契機に想像を膨らませる喜びに本質がある、というわけである。

●「萌え」の機能

人は(というか、オタクは)なぜ萌えるか、というテーマに関して、本田氏は「萌えには人の心に働きかける機能がある」と説いている。それは、ルサンチマンを昇華させ、自我を安定させる効果である。人は、善良な意図を疑われたり、まじめな姿勢を嘲笑されたり、寄せる思いを拒絶されたりしたとき、内部に負の感情が鬱積する。これを「喪闘気」と呼んでいる。

このとき、鬼畜ルートへ駆り立てられて自爆するか、萌えルートへ導かれて救われるかの分岐点に立っている。どっちに進むかは、妄想する力があるかないかにかかっている。脳内の妄想で一発逆転を遂げることさえできれば、現実には何の事件も起こさずとも、心の安定を取り戻すことができる。

本田氏自身、漫画に描いたようなキモメン(イケメンの反対)で、複雑な境遇を経てきたこともあり、「俺の魂を救えるのは萌えだけだ」と断言している。「オタクは仮想世界に埋没するあまり現実との区別がつかなくなって犯罪に走る」といった、よくある俗説をばっさりと斬り捨てて気持ちがいい。

●「エロ」との区別

「萌えはエロとは違うのか」。これも核心を衝いた問いである。

大塚英志氏は、「ジャパニメーションはなぜ敗れるか」の中で「萌え=ポルノグラフィ」と言っている。しかしながら、これは「萌え」を定義づけようとしてのことではなく、日本発の萌え系コンテンツが海外でどう捉えられているかという実態をありていに言ってしまえばこうなる、という文脈で語られたものである。国策にするのもいいけど、国際社会における日本の位置付けが「ポルノグラフィの供給源」でいいのかな、という論である。

「萌え」と「エロ」とを区別するいい例として、池袋にあるメイドバー「モエドール」の美談が思い起こされる。かつて、サービスの一環として、床に鏡が張ってあり、あらぬ角度からメイドさんの姿を映し出していた。これがすこぶる悪評で、ネット上の掲示板では「そんなところに萌えはない」と辛辣に叩かれた。それを聞き入れる形で鏡は撤去され、まっとうな店舗として生まれ変わり、今は繁盛している。いい話でしょ?

「萌法序説」でも近い立場をとっている。個人の内部に形成される「美少女のイデア」には多かれ少なかれエロの要素も含まれるだろう。その意味で関連性は否定できない。しかし、不可分なものではない、としている。

「長い髪を風になびかせる美少女の光景に萌えるとき、スカートがめくれて下着が見えることが必要かと言えば、そうは思えない。たとえめくれたとしても、萌えのポイントは下着が見えるか見えないかよりも、あわててスカートを押さえた後にどのような表情を見せるかにある」(竹林氏)

●キャラ vs 生身

「萌え」をめぐるもうひとつの大きな問いに、「架空世界の住人たるキャラに萌えること」と「現実世界の住人たる人間に恋をすること」の関係がどうなっているのか、あるいは、どうあるべきか、がある。

最も分かりやすくは「萌え界とは恋愛敗残者の難民キャンプ」と見ることができる。いまどきの恋愛市場で勝ち残るのは容易なことではなく、特に、顔がまずかったり懐が寒かったりすると、大苦戦を強いられる。

「いちおう人間扱いしてあげるけど、気があって特別に優しくしてあげてるわけじゃないから、そこんとこ勘違いしないでよね」と言わんばかりの仕打ちを受けたりする。泣いて帰ってきて、萌えの世界に逃避する以外に癒される道はないのである。つまり、本当は恋愛第一なのだが、不幸にも手中にできなかった人のための代替満足として「萌え」がある、というわけである。

酒井順子氏は「負け犬の遠吠え」で、30過ぎの独身女性を、自分も含めて「負け犬」と称しているが、その負け犬でさえ、そこそこの恋愛経験はある。その下の層には、恋愛のステージに上がることすらあたわぬ負け犬の中の負け犬がいる。負け犬からも笑いものにされ、つきあう相手の候補にも挙げてもらえないみじめな「インヴィジブル」(不可視な存在)たち、彼らを暖かく迎える「萌えの世界では、万人が平等に恋愛できる」(本田氏)。

しかし、同じ現象も反対側から見ると違って見える、ということはある。あの負け犬本の中では本音がひとつも語られていなくて、実は、一冊丸ごと使った壮大な皮肉なのではないかと私は睨んでいる。ホントは自分のこと、負け犬とは思ってないだろ。もし勝ち犬への扉を開けてもらっても喜んで飛びついたりはしないだろ。実は萌え界の住人もそんなフシがあって。

「心の通い合う喜び」としての恋愛がすばらしいというのは否定しないが、そこへ到達できるのは恋愛勝者の中でもごくごく少数の上澄みだけであって、現代の都会的な恋愛はもっと異質なものにゆがめられているという実情がある。虚栄心を満足させるために利用する飾りとしてパートナーを位置づけ、財布(特に他人の)からお金がばさばさと飛び立っていく「消費の快感」をもって「恋愛の喜び」にすり替えている偽者が横行する。

物・サービス・エンターテインメントなどの売り手側がプロモーションのダシに恋愛を使い、人々を消費へと駆り立てる仕組みを本田氏は「恋愛資本主義」と名付けている。それもまた「代替満足」にすぎない。本来、精神性の領域であるべき恋愛が、消費という即物性の満足に置き換えられて大衆化している。この安っぽさが見えてしまうと、アホらしくてやってられなくなる。砂を噛むような即物世界にはとっとと見切りをつけ、豊穣な精神世界へと引越しだ! かくて「萌える男は正しい」(本田氏)となる。

ところで、「電車男」のように、運良く萌え界から救済されて純愛を獲得できた場合、「萌え」はお払い箱なのか。これについて、「オタキング」の異名をもつ岡田斗司夫氏は「萌えは別腹」と言っている。純愛のフルコースを平らげた後でも「萌え」はデザートのようにおいしいらしい。

●少子化と萌え

日本の社会が抱える問題として晩婚化・少子化がよく言われる。これを考える上では、そういうトレンドの背後にある意識のありようをよくよく調べてみる必要性を感じる。声高な要求を鵜呑みにして、子育て奨励金をばら撒いたり託児所などの環境を整備したりすることには疑問を禁じえない。

喜ぶのはすでに子育て中か計画中の人たちであって、総体的には、バケツ一杯のリソースを注ぎ込んで耳掻き一杯の効果を得るにとどまるような気がするのである。

子育ての手前に結婚があり、その手前に恋愛があり、その辺で脱落した難民の急増が無関係ではないような気がする。世の中の意識を一新し、顔はまずくとも、懐は寒くとも、心が豊かなら恋愛に参加できる、そんな明るい社会が到来しない限り、恋愛難民は萌え界から出て来ませんぞ。かと言って、短絡的に「萌え禁止法」みたいなのが制定されても困るけど。

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
カメコ。1月21日(土)の晴海のコスプレイベントはシュールな眺めだった。コスプレはキャラへの愛を表現する手段、とはよく言われるけれど、降りしきる雪にもめげずとは、もはや難行苦行のレベルだ。傘なんか差したら絵にならんので、みんな頭や肩に雪を積もらせつつ撮影している。ああ、美しき求道者たち!
< http://www.geocities.jp/layerphotos/ >