[2047] 写真が信じられていた頃

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<この映画を見てカメラマンになることを決意した>

■映画と夜と音楽と…[304]
 写真が信じられていた頃
 十河 進

■Otaku ワールドへようこそ![35]
 オタクの定義論
 GrowHair


●淀橋浄水場の近くにあった小さなカメラ店

テレビでニコンのデジタル一眼レフのCMが流れている。木村拓哉が「やっぱ、いいわ、ニコン」と言う。ニコン、自信満々だな、とそれを見て思った。その言葉には、ニコンブランドに対する誇りがうかがえる。「ナイコン」と発音されながら、世界中で愛用されてきた実績に裏打ちされた自信だろう。

僕も初めて使った一眼レフはニコンだった。名機と言われるニコンFである。高くて自分では買えなかったから、友人に借りたものだ。ニコンFは分解ができた。レンズと裏蓋(底蓋も一緒だった)とペンタプリズム部を外すと、本体部分はフォーカルプレーンシャッターしか残らない。

フィルム交換も大変だった。底蓋と一緒になった裏蓋を外し、フィルムをセットしてベロを引き出し右側のスプールに巻き付ける。連写なんてトンデモナイ話だった。露出計も内蔵されていないから、標準の露出で撮るか、単体露出計を使った。

友人のニコンFを借りて京都旅行をし撮影にはまった僕は、一眼レフを買おうと決意してアルバイトで貯めた金をおろし、当時、まだ淀橋浄水場跡が原っぱだった頃の新宿西口に向かった。そこに東京で一番安くカメラが買える店があるとカメラ好きの友人に聞いたのだ。

店ではなかった。小さな窓にカウンターが付いているだけだった。そのカウンターに人が群がり、それぞれに欲しいカメラの名前を言っていた(というより、怒鳴っていた)。そうすると店員が奥からカメラの入った箱を持ってくる。みんな、ここでカメラを見ようとは思っていない。カメラ選びは他の店ですませ、ここへは買いにくるのだ。

僕も「ニコマートELありますか」と大声で訊いたが、「今、ニコマートはないよ」と店員はにべもない。「じゃあ、キヤノンFTbはありますか」と僕はもう一度訊き、そのカメラを買った。キヤノンFTbは追針式の露出計が内蔵され、QL(クィックローディング)というフィルム装填がウリのカメラだった。

あの日、ニコマートがあれば、僕はそのままニコン党になっていただろう。ニコンとキヤノンはピント合わせをするためのレンズのヘリコイドの回転が逆なので、一度、キヤノンに馴れてしまうとなかなかニコンには移れなかったのだ。しかし、それもオートフォーカス全盛の今では関係のない話である。

しかし、あの小さな店が今や全国展開をするヨドバシカメラになろうとは、常套句で恐縮だがホントに夢にも思わなかった。先日、秋葉原のヨドバシカメラに買い物に寄ったら店内で迷いそうになったくらいだ。大阪の梅田店も外から見ただけだが、巨大な店舗だった。

もっとも、僕がカメラを買いにいったのは大学生のときだから、もう三十五年近く前のことである。その後、僕はヨドバシカメラの暗室用品売り場で引伸機などを買い自分で下げて戻ったこともある。大学時代は下宿で暗室作業をやりすぎて部屋が酢酸臭くなったし、夢中になってよく夜明かしをした。

そのおかげで、後年、カメラ雑誌の編集部に異動になったときも何とかやれたのだと思う。大学時代の僕は「アサヒカメラ」「カメラ毎日」「日本カメラ」を毎号読んでいたし、時々は「コマーシャル・フォト」という専門的な写真誌も覗いていた。

●写真に写っているのは現実なのか

モデルに馬乗りになったカメラマンは、モータードライブがひっきりなしにフィルムを巻き上げる音の中で狂ったようにシャッターを切り続ける。人々が想像するようなプロカメラマンの現場である。スタジオにセットされた大型ストロボがシャッターにシンクロして発光する。

そんなファッション撮影が終わった後、カメラマンはそれまでの狂騒が嘘のような静かで知的な男に戻り、カメラを一台肩から下げて町に出る。やがて、公園でキスをするカップルを見付けた彼は、何気なくスナップする。だが、それに気付いた女がしつこくフィルムを戻せと言う。

女を振りきってスタジオに戻ったカメラマンは、そのフィルムを現像しプリントする。女がなぜあれほどしつこく迫ったのか不審に思いながら、プリントを見ていくと、公園でカップルがいた奥のしげみにピストルを構えた男らしき影と死体のように見えるものを見付ける。

そこから、カメラマンの孤独な暗室作業が描かれる。彼は、プリントの一部をどんどん拡大し、しげみの中の影の正体をつかもうとするのだ。果たして本当に死体なのだろうか。

カメラマンは公園に戻る。しかし、そこには死体も何もない。この後、単なるミステリ映画ならだいたいのストーリーは予想できるのだが、現代の不条理を描く映画はどんどん不可解な世界へと入っていく。

イタリアの芸術派ミケランジェロ・アントニオーニ監督が初めてイギリスに渡って作った「欲望」(1966年)は、カンヌ映画祭でグランプリを獲得し、公開当時、日本でも大きな話題になったものである。原題は文字通り「BLOW-UP」という。

僕と同い年のカメラマンのFさんは、この映画を見てカメラマンになることを決意したという。確かに、最初のモデル撮影シーンからインパクトはある。主人公が黙々とプリント作業をするシーンのかっこよさも印象に残った。

しかし、この映画では「写真が写しているものは真実なのか」という疑問が提示されているのだ。現実とは何だ、というもっと根源的なテーマなのだろうが、そのテーマを端的に表現したのが「たまたまスナップした写真に写っていた死体らしきものの存在は現実か否か」ということなのである。

よく言われるのは、日本では「写真と名付けられたから、真実を写すものと間違われてしまった」ということである。フォトグラフィーとは「光で描いたもの」という意味だから、欧米では「描くもの」と認識されているのだろうか。

しかし、コンピーュータ・グラフィックスが全盛でデジタル画像が当たり前になった現在、写真が真実を写していると思っている人は少なくなっているのかもしれない。写真の証拠能力を疑わざるを得ない時代なのだ。

●写真が証拠として価値を持っていた頃

写真が証拠能力を疑われていなかった時代の映画が「死刑台のエレベーター」(1957年)である。後年、「刑事コロンボ」によって「倒叙もの」というミステリの一形式が有名になる。「倒叙もの」とは、犯罪者の側から描いたものだ。その犯罪がどのようにしてばれるか、いつ破綻するかというサスペンスで見せる。「死刑台のエレベーター」はその代表的なフランスの作品である。

社長夫人フロランス(ジャンヌ・モロー)と恋仲になったジュリアン(モーリス・ロネ)は、邪魔になった社長を殺す計画を立て実行する。しかし、社長を殺して会社を出る途中でジュリアンは会社のエレベーターに閉じ込められてしまう。会社は月曜日まで誰もやってこないし、エレベーターも動かない。

夫を殺した後に会うはずだったのに約束の場所にジュリアンがこないため、フロランスは夜のパリをさまよいながら疑心暗鬼にとらわれる。ジュリアンは夫を殺したのだろうか、会いにこないのは心変わりをしたのではないだろうか、という内面の声がさまようジャンヌ・モローの姿にかぶさる。

そのシーンの雰囲気を盛り上げたのは、マイルス・デイビスのトランペットだった。マイルスがパリにきているのを知った監督のルイ・マルは、マイルスにラッシュ・フィルムを見せ「音楽をつけて欲しい」と依頼した。伝説ではいきなり即興でトランペットを吹いたということになっていたが、それなりの準備はしたようだ。

さて、エレベーターに閉じ込められたままのジュリアンの自動車を若いカップルが盗む。ふたりはドライブに出るが、車の中から拳銃と小型カメラ(ミノックスかな)を見付ける。やがて、ふたりはスポーツカーに乗ったドイツ人の中年夫婦と知り合い、一緒にモーテルに泊まることになる。

しかし、その夫婦の車を盗もうとして見付かり、若い男はドイツ人夫婦を射殺して逃亡する。しかし、宿泊するときに若いカップルがジュリアンの名をかたったことから、ドイツ人夫婦を射殺したのはジュリアンだと警察は断定する。

ジュリアンは何とかエレベーターから脱出するが、自分が別の殺人事件の容疑者として手配されているのを知る。その冤罪を晴らすためには、実際の殺人を告白しなければならない。ジュリアンは逮捕され、絶体絶命の窮地に陥る。

フロランスはジュリアンのために真犯人を捜す。ラストシーンは写真店の暗室である。ドイツ人夫婦と一緒に写っている証拠の写真をとりにきた男が暗室に入り、男を追っていたフロランスがやってくる。

ふたつの殺人事件を追うのはリノ・ヴァンチュラ扮する警部だ。彼は写真店に先回りして待っている。そこで、現像されたプリントからドイツ人夫婦と一緒に写っている若いカップルを確認する。しかし、その同じフィルムには別の写真も写っていた…

写真が犯罪の証拠になるという前提があった頃には、映画でも写真が小道具としてさかんに使われていた。「死刑台のエレベーター」は、その中でも非常にうまく写真を使った作品だ。ラストシーン、白い印画紙に次第に像が現れてくるという仕掛けがシャレていた。

先日、ハリウッド映画の大作の予告編を見たら、全編ほとんどCGだった。映画だって今やデジタルカメラで撮っている。後処理を考えたらフィルムからデジタル化するよりずっと効率的だし、経費が安くなる。スチルカメラも携帯電話に搭載されているカメラから一眼レフまでデジタル全盛だ。

しかし、動画にしろ静止画にしろ、ここまでデジタル画像が普及すると、昔のあのモノクロームの写真がとても懐かしい。大学時代に伸ばした写真を久しぶりに見てみようか。水洗だけはしっかりやったから、未だに変色はしていないと思う。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
九月は中途半端な月だと思う。まだ秋という感じにはならないし、もちろん夏でもない。着るものも中途半端だ。そろそろネクタイをしなければならないか、と思いながら一度外したネクタイを締めるのは気が重い。

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■Otaku ワールドへようこそ![35]
オタクの定義論

GrowHair
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いままで一年以上にわたって書いてきたことを、自分で否定しちゃうのも何だけど、そんなことが書きたかったわけではないのである。

●壮大なテーマ

本来書きたかったのは、オタク論。オタクをめぐる種々のテーマ、例えば、定義、分布(年齢、職業など)、変遷、市場規模、オタクの心理分析、社会全体の構造変化とオタク、今後の展望などについて、ある程度客観的な視点から、一般人にも通じる言葉で論じてみたかったのである。

しかし、それは実に壮大なテーマ。まず、資料として踏まえておきたい本だけでも下記のようにどっさりとあり、私はまだ半分も読めていない。

・岡田斗司夫「オタク学入門」太田出版、1996年
・斎藤環「戦闘美少女の精神分析」太田出版、2000年
・東浩紀「動物化するポストモダン オタクから見た日本社会」講談社、2001年
・木尾士目「げんしけん(1)〜(6)」講談社、2002〜2005年
・森川嘉一郎「趣都の誕生 萌える都市アキハバラ」幻冬舎、2003年
・大塚英志「『おたく』の精神史」講談社、2004年
・NRIオタク市場予測チーム「オタク市場の研究」東洋経済新報社、2005年
・堀田純司「萌え萌えジャパン」講談社、2005年
・本田透「電波男」三才ブックス、2005年
・本田透「萌える男」筑摩書房、2005年
・森永卓郎「萌え経済学」講談社、2005年
・杉浦由美子「オタク女子研究 腐女子思想大系」原書房、2006年

だからまず、これらを読むところから始めて、それから自分の見てきたオタクたちや、自分自身とも照らし合わせてじっくりと思索を練り、考えがまとまったら何か書こう、それまでのつなぎとして、現実の、オタクのいる風景などを描写することにより、各論の集大成の中から漠然とでもオタク像が浮かび上がってくればいいや、ということで、その時その時で書けることを自転車操業で書いてきた。

そろそろ真面目に取り組もうかと思って、ちょこっと資料にあたりはじめてすぐ壁にぶち当たった。オタクに関する情報はあまりに膨大で、このテーマはその道の大家でさえ、さじを投げかけているふしがある。

精神科医の斎藤環氏は「戦闘美少女の精神分析」(2000年)の文庫版が今年5
月にちくま文庫から出版された際、文庫版あとがきで「2000年以降、質的にも
量的にも拡散を極めたおたく文化の動向は、もはや個人がその全貌を語りうる
対象ではなくなりつつある」と述べている。とすれば、私にできることはせい
ぜい先人の述べてきたことを紹介し、感想を添えるくらいがいいとこである。
今回は、定義だけでもこんなに大変、っていう話。

●定義の形式

定義するだけなら、自由にすればよいのだが、「オタク」に関して言えば、すでにある種のイメージを伴って広く世の中に浸透している言葉であるため、それを損なわないように後付けの定義を与えてやるのが大変なのである。そのイメージだって使う人の立場によって異なるし、変化もしている。

定義のしかたで形式的に分けると、興味の対象で範囲を明確化するもの、性格的特徴の列挙により抽象化するもの、それらを併用するものがある。分野のみでくくった場合、他方面の人たち、たとえば切手収集などのいわゆる「マニア」との性格的差異を明確化したり、オタク内部でのメンタリティの共通性を検証したり、定義とは別個になす必要が生じる。

一方、興味対象に入れ込む姿勢や性格的特徴からの定義には、さらに、ネガティブ、ニュートラル、ポジティブの指向に分けられる。もともとがネガティブ、反動で岡田氏がポジティブ、冷静に斎藤氏がニュートラル。性格的特徴だけから定義づけようとすると、思いもかけないジャンルから該当者が出てきてしまう危険性があるので、併用するのが無難かもしれない。

●もともと蔑称だった「おたく」

これは以前にもちょこっと書いたことだが、コミケに集まるようなタイプの人々を称する言葉としての「おたく」が最初に登場したのは、大塚英志氏が編集していた月刊誌「漫画ブリッコ」の1983年6月号から8月号まで掲載された、中森明夫氏の「おたくの研究」においてであるとされる。かなり悪意をもってオタクをこきおろした文章で、読者から猛反発を受けて、大塚氏の判断により、3回で連載が中止されている。

全文掲載サイト:
< http://www.burikko.net/people/otaku01.html >
< http://www.burikko.net/people/otaku02.html >
< http://www.burikko.net/people/otaku03.html >

この時点ではまだ見かけがダサいとか、性格が暗いというレベルに留まっていたが、追い討ちをかけたのは、1989年に宮崎勤容疑者(当時27歳)が逮捕された連続幼女誘拐殺人事件である。家宅捜索でおびただしい本数のアニメビデオが押収されたことから、「おたく」という言葉に「犯罪予備軍」というニュアンスが上乗せされて、一気に世の中に浸透していった。

●大塚氏の慧眼(1992年)

大塚英志氏は「仮想現実批評」(新曜社、1992年)で、おたくの特徴について、世間のイメージからはかけ離れた描写をしている。

・おたくは異性の友人の数が一般よりも多い。社交的。
・おたくは総じて金持ち。エンジニアや医師が多い。
・収入に占める遊びへの投資率が高い。
・テレビの視聴時間が異常に短い。
・趣味の数が多い。

私はつい最近、斎藤氏の本に引用されているのを読んで知り、驚愕した。あの時点でここまでバレていたのか、と。

●大澤氏の精神分析学的定義(1995年)

大澤真幸氏は、「電子メディア論」(新曜社、1995年)でオタクを純粋に精神面から定義づける試みとして、「オタクにおいては、自己同一性を規定する2種類の他者、すなわち超越的な他者(自我理想)と内在的な他者(理想自我)とが、極度に近接している」という仮説を打ち出した。

これは、フロイトとラカンの精神分析学に基づいた記述である。自己同一性(アイデンティティ:自分は何者か、自分が従うべき規範は何か)を確立するためには、自分の中に2人の他者が住んでいないとならない。自我理想とは「なりたい自分の理想像」である。スポーツ選手とか実業家とか芸術家とか声優とか。これだけだと、なれない現実とのギャップに苦しむだけで終わってしまう。理想自我とは「どうあろうと、そんな自分をほめてくれる人」である。よくがんばった、えらい。ああ、なんてすばらしい私。

その両者が近接した人というのは、字義通り受け取ると精神異常にあたる。その仮説はいったいどこから浮かんできたのかと読んでみると、論拠があまりにもずさんで、発泡スチロール製のでっかい岩を頭の上に落としてやりたくなった。アイドルの追っかけが、大物よりも小粒の駆け出しに入れ込むのも、男性オタクの興味の対象が成熟した女性よりも少女に向けられるのも、自我理想のレベルが引き下げられたことの表れだという。

ブー。大はずれ。理想を引き下げたかのように見えたって、アイドルや少女と結婚できるわけでなし、ましてや自分がなれるわけでなし、依然として自我理想は遥か彼方にある。むしろ「自我理想が超越しすぎて別次元(あるいは異空間)にテレポートしてしまった人」と定義したほうがまだ近い。とはいえ、大澤氏の論は「オタクのダメ志向」という側面をよく捉えている。

●岡田氏はオタクを超越的存在とみる?(1996年)

岡田斗司夫氏は「オタク学入門」でオタクの特徴を次のように述べている。

・進化した視覚をもつ
・高性能のレファレンス能力をもつ
・あくなき向上心と自己顕示欲

これは、オタクを一般人よりも上に置く見方が反映されている。

●斎藤氏は精神分析の観点から(2000年)

斎藤環氏は「戦闘美少女の精神分析」で、岡田氏のオタク論を「おたくの病理的側面をあえて見ないのは、一面的な印象を与える」と批判し、オタクとは下記のような特徴をもつ人をいう、としている。

・虚構コンテクストに親和性が高い人
・愛の対象を「所有」するために、虚構化という手段に訴える人
・二重見当識ならぬ多重見当識を生きる人
・虚構それ自体に性的対象を見い出すことができる人

大変難解なので、具体例で置き換えてみると、

・2次元美少女に萌える人
・脳内妻をもつ人
・「マリア様がみてる」を読んで、自分の性別を忘れてる人、あるいはコスプレでいろいろなキャラになりきれる人
・コミケでおかずを買って帰る人

これはいくらなんでも狭く限定しすぎで、相当濃ゆいオタクしか残らないだろう。だいたい、斎藤氏自身、1960〜1990年代のマンガやアニメの膨大な作品群をなぞり、スポ根系、変身少女系、同居系など13種に分類して語り倒すほどのオタクっぷりを発揮していながら、2次元をおかずにしないことをもって、自分はオタクではない、と言い抜けているのはずるい。

●東氏は分野のみであっさりと(2001年)

東浩紀氏は「動物化するポストモダン」で「オタクとは、コミック、アニメ、ゲーム、パソコン、SF、特撮、フィギュアそのほか、たがいに深く結びついた一群のサブカルチャーに耽溺する人々の総称」としている。「そのほか」にどこまで含めるか、とか、耽溺の度合いをどこで線引きするか、などのあいまいさはあるにせよ、ある程度客観的に範囲を限定している。

●森川氏のオタク定義批判とダメ志向(2003年、2004年)

森川嘉一郎氏は「趣都の誕生」の本文中でオタクをあえて定義しなかったことについて、あとがきで言及し、オタクを定義すること自体を批判している。曰く、「これまでの定義はおおむね特徴の列記という形で書かれているが、正確に枠づけようとすればするほど抽象的になっていく。その結果、定義通りのオタクが今どき存在するのか、とか、オタクという枠組みがもはや無効なのではないか、といった、議論のための議論に走りがち」。

とはいえ、"en"というウェブマガジンの2004年2月号と3月号では、オタクを決定づける特徴としてダメ志向を取り上げている。

< http://web-en.com/backnumber/0402/main3.cfm >
< http://web-en.com/backnumber/0403/main3.cfm >

これは、精神分析学の言葉で記述しなおすことができそうで、興味深い。

●野村総研の市場調査(2004年、2005年)

野村総合研究所は、2004年と2005年にオタク市場の調査結果を発表している。1回目は5分野で延べ285万人、2,900億円規模だったのが、2回目には定義を修正し、分野を広げる一方、メンタリティで限定した結果、12分野で延べ172万人、4,110億円規模と推測している。
< http://www.nri.co.jp/news/2004/040824.html >
< http://www.nri.co.jp/news/2005/051006_1.html >

旅行やファッションを趣味にする人たちまでオタクなのか、など、既存のイメージに合わないという批判はあるだろうが、もともとあいまいなのだから、一度、新基準ですぱっと整理しなおしてみる試みもよいと思う。

●岡田氏再登場「オタクは死んだ」(2006年)

本当はこれの話をするつもりだったのだが、紙幅が尽きた。またいつか。

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
自由奔放な変人。先週金曜の後記に濱村さんに取り上げていただいた星座占いの結果。奇をてらうのは好きではないが、自由奔放に生きた結果が変人なら何も言うことはありません。素敵な称号を頂戴しました。
そのサイト < http://ura-seiza.cplaza.ne.jp/12stars/ >

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■編集後記(9/15)

・今朝の読売に歴代内閣(福田以降)の支持率が載っていた。面接方式の世論調査である。それによれば、小泉は平均56%と高率で2位。それより高いのは誰かといえば、思いつくのは細川しかいないだろう。業績じゃなくて「見かけ」である。世論なんてそんなもんだ。この5年間で日本にとって何一ついいことをしてこなかった最低の小泉でさえ、女たちからは純ちゃんステキなんてキャーキャー言われて、いまだに人気者なのはただただ「見かけ」である。3位は海部、4位羽田、5位中曽根と続くが、この中で「見かけ」と業績がいかにも首相らしかったのは中曽根しかいない。ワーストは森、2位福田、3位宮沢、4位村山。あの宇野は平均支持率欄が「-」だった。ほれ見ろ、「見かけ」による支持率であることは明白だ。いや、こっちは業績もろくでもない人たちだ(ベストのほうもそうだけどね)。では、いまの自民党総裁選の3人の「見かけ」はどうかというと、けっして安倍がトップとはいえまい。谷垣や麻生のほうが断然ステキだと思うが。話のおもしろさでいえば麻生、理論的なわかりやすさでは谷垣(明快とはいえないが、言い淀まないところがいい)、全然おもしろくも理論的でもないのが安倍で、どうしてこんな魅力のない人物が次期首相なのだ。ところが、同じ読売の「次の首相としてふさわしいと思う人」世論調査では、安倍が54%、麻生11%、谷垣8%なのだ。これでは、「見かけ」論が成立しない。どうなっているんだ。女性は安倍がステキと思うのか?(柴田)

・まだGrowHairさんにメールのお返事してない〜。すみません。私のオタクの定義は「何かにのめり込み精通している人」だ。1996年の岡田氏のオタク学入門や、大塚氏の慧眼に近いのか、な? そのジャンルの話になると夜通し話していても尽きないような人。興味のないジャンルを一年中はなされるとつらいかもしれないが、初めて会う時に会話がないよりは、熱く語られる方がいいし面白い。知らないことを知ることができて、好奇心が満たされるし、わくわくする。周りをみわたすと、車オタク、格闘技オタク、タカラヅカオタク、ゲームオタク、アニメオタク、パソコンオタク、Web制作オタク、音楽オタク、演劇オタクなどがいて、私はこんな人たちに囲まれて幸せだなぁと思う。私が一番何に対してものめりこめず、中途半端に知識をつまみ食いしているような奴なのだ。ずっと書いているがスペシャリスト体質じゃないことがコンプレックス。もちろんGrowHairさんの原稿にあるオタク定義も理解しているつもりだ。いまオタクの祭典と言われるコミケの前身のような、同人誌即売会(路上でやってたぞ)に参加したことだってある。その時はほとんどがコピー誌、オリジナル作品だった。って私はいくつやねん! 一度はコミケに行って、何がそこまで人をひきつけるのか知らないとなぁ。あ、今のコミケはオリジナル洋服やアクセサリーも売っているようなところなんだって(友人からの情報)。オタクの人たちの中にはトンデモな人がいるから、オタク全員が好きなわけじゃないけど、それはオタクに限った話じゃないし。蔑称を受けつつ、開き直り、自分を笑う余裕を持ち、まわりに何を言われようが、のめり込んでいくオタクがいてこそ。(hammer.mule)

投稿:2006年09月15日  著者:デジタルクリエイターズ編集部

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