[2530] 不運は続くよどこまでも

投稿:  著者:  読了時間:28分(本文:約13,500文字)


<頼むからそんなに主人公をいじめる展開はやめてくれ>

■映画と夜と音楽と…[386]
 不運は続くよどこまでも
 十河 進

■Otakuワールドへようこそ![84]
 祭は終わった
 GrowHair


■映画と夜と音楽と…[386]
不運は続くよどこまでも

十河 進
< http://bn.dgcr.com/archives/20081107140200.html >
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●「蟹工船」が売れる時代に本工と臨時工の分類は通じるか?

先日、散歩をしていたら共産党の宣伝カーが「若者の三人にひとりは非正規雇用者です」とスピーカーからがなり立てていた。僕は、非正規雇用者であることがいけないことだとは思わない。雇用形態は、昔に比べて自由になってよかったと思う。問題は、非正規雇用と正規雇用に大きな賃金格差があることだ。

僕は長く組合活動(労働運動)をやっていたし、役員をやっていた出版労連の中央執行委員たちは日本共産党シンパが多かったけれど、特に共産党に好意を持っているわけではない。どちらかと言えば、その教条主義的な対応にはうんざりすることがある。

出版労連の役員をやっているときも、僕はどちらかと言えば反主流派だったと思う。その会議の中で僕がよく批判していたのは「労連も、結局、本工主義じゃないか」ということだった。「蟹工船」が売れる時代だから、本工と臨時工という分類は通じるかもしれないが、要するに正社員と非正社員ということだ。

自省を込めて言うのだが、日本の労働組合は正社員の賃金および労働条件の向上を最重要課題にして闘ってきた。個別の企業の中だけの組合だから自然とそうなるし、経営者も将来的に継続して働いてくれる(という前提の)正社員の待遇は考えるが、アルバイトや契約社員についてそこまでは考慮しない。

企業が非正規雇用者を雇うのは、人件費コストが安くすむからだし、人手が必要なときは増やし、必要でなくなったら減らすことができるからだ。しかし、そんな便利な存在だとすれば、ずっと面倒を見なければならない正社員より非正規雇用者の労働条件をよくすべきじゃないかと、皮肉を込めて僕は思う。

昔、神保町にある某大手出版社の正社員しか入れない労働組合が、僕の所属する組合に要請にきたことがあって応対した。その会社で発行している百万部の週刊誌編集部に臨労ができたのだが、彼らが支援要請にきても応えないでほしい、という内容だった。

週刊誌編集部なんてのは正社員の編集者より、圧倒的にフリーや契約社員やアルバイトなどが多い。そんな彼らが「臨時雇用者労働組合」を作ったというのだ。しかし、彼らは臨時工であることを前提にした条件闘争をめざしているので、正規組合としては支援できないのであると、その正社員組合員は言った。

そう言えば、彼らは、その数年前、数名の契約社員の正社員化を勝ち取ったことを誇らかに労連大会で報告していたな、と僕は思い出した。しかし、正社員化要求が正しくて、臨時工たちの条件闘争は正しくないのか、と僕は納得できず、以来、その組合には不信を抱いた。

正社員であることだけが正道ではない。雇用形態の自由さは認めるべきだ。いろいろな働き方が選べる現代は、昔よりいい。ただし、賃金や労働条件の格差は縮める方向であらねばならない。もう何年も前になるが、人材派遣業の規制が緩和された。以来、人材派遣会社は山のように生まれ、僕のところにも毎日、セールスの電話が何件も入る。そのことが問題の根にあるんじゃないだろうか。

僕は、若者に夢を抱かせることができない社会はロクなもんじゃないと思っている。向上心もあり、働く意欲もあり、社会に出て実現したい夢を持っているまっとうな若者が、いきなり職もなく、働いても生活できないような賃金しかもらえないような国だとすれば、情けないし悲しい。

●主人公夫婦の不運続きに「見ていられない」気分になる

アメリカの経済破綻から世界恐慌の怖れが言われている。円高・株安の影響で、新規募集を取り消す企業が相次いでいる。日本の若者たちの労働環境や就職状況は、ますます厳しくなった。そんなとき、僕が思いだしたのはフィンランドの映画監督アキ・カウリスマキの「浮き雲」(1996年)だ。中年夫婦の失業と職探しの物語である。

高給レストランの給仕長をつとめる中年女性がいる。アル中気味のシェフが酔って刃物を振り回しても平然とおさめる、職業的自信にあふれた女性だ。仕事を終えた彼女は、大通りにやってきた市電に乗り込むと運転手にキスをする。夫婦か恋人なのだろう。ふたりは、終電で車庫にいき、一緒に帰宅する。

ある日、夫が市電の詰め所に戻ると上司がやってきて「リストラで四人辞めてもらうことになった」と言う。それをカードで決めるのだ。カードを引いた夫の顔が写る。黙ったままだ。カウリスマキの映画はセリフや大仰な芝居で説明はしない。それだけで、夫が失職したことは伝わる。

夫の職探しが始まる。しかし、今度は妻のレストランがレストラン・チェーンを経営する会社に買収される。シェフもクローク係も給仕も、みんな失職する。主人公も職探しを始めることになるが、なかなか仕事は見付からない。あるレストランのオーナーには「不況だし、あなたは歳だ」と露骨に言われる。

ある日、夫がロシア行きの遠距離バスの運転手に採用になったと帰ってくる。健康診断を受けて問題なければそのままロシアだ、と張り切って出かけるが、その夜、失意の夫が帰ってくる。健康診断で片方の耳に異常が見付かり、免許も取り上げられたのだ。夫は絶望し、無気力になる。

主人公は就職斡旋業の会社にいき、なけなしの金を払って皿洗いの就職先を紹介してもらうが、その店はヤクザな主人がやっていて、すべてを押しつけられる。彼女は料理を作り、給仕し、レジも打つ。しかし、脱税がばれて店主が逃げ、その店主に「妻の給料をよこせ」と談判した夫は、店主と仲間たちにボコボコにされる。

妻は、昔の仲間と会い、レストランを開こうと持ちかけられる。その気になるが資金はもちろんない。夫がクルマを売って金を作り、その金を担保に銀行から資金を借りようとするが、まったく相手にされない。夫は、車を売った金でカジノにいくという。もちろん、夫はすべてスってしまう

この辺になると、見ている方は主人公夫婦の不運続きの人生に「見ていられない」気分になってくる。これ以上、追い込まれていく不幸な主人公を見たくない、という感じである。高給レストランの給仕長が皿洗いになり、そのみじめさがひしひしと伝わってくる。

アキ・カウリスマキ作品の主人公たちは、不運であり、悲惨であり、救いがない。そんなに不幸に追い込まなくたっていいじゃないか、と作者に文句を言いたくなる。どこまでいじめるんだ、と抗議したくなる。だが、その不運続きの物語は、最後の最後で必ず「ある救い」が用意されているのだ。

それは、ほんのささやかな救いなのだが、間違いなく本物の「救い」である。人生の本質的な救い、といってもいい。「浮き雲」もそうだ。ラストシーンの何とも言えない味わいを得るために、僕は不運続きの物語を見続けた。もちろん、すごく魅力的な映像なのではあるけれど…。

●不幸が続いた果てに何かが昇華したような気分になれる

僕がカウリスマキのファンになったのは、「過去のない男」を見てからだ。評判になった「レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ」(1989年)も「マッチ工場の少女」(1990年)も見ていない。しかし、初めて見た「過去のない男」の不思議な雰囲気に圧倒され、その記憶がいつまでも消えない。

カウリスマキ作品は、サイレント映画かと思うくらいにセリフが少ない。登場人物たちは何かを見つめて棒立ちしているシーンが多い。カメラは不必要に動かないし、直接、描写しなくてもわかることは映さない。少し北野武映画に似ているかもしれない。

たとえば「浮き雲」の冒頭、キッチンで酒を呑み刃物を振り回すシェフを主人公がおさえようとしたとき、主人公とシェフはフレームアウトする。カットはそのまま続き、取り巻いたスタッフたちが彼らを見つめている。やがて、パチっと頬を張る音がして主人公が刃物を持ってフレームに戻ってくる。彼女が刃物を取り上げるカットはない。しかし、観客には充分に伝わる。

「街のあかり」(2006年)は、今のところカウリスマキの最新作のようだが、そのスタイルはさらに徹底している。主人公は、ほとんど何もしゃべらない。しゃべっても、ひと言だ。しかし、何て魅力的な映像だろう。でも、やっぱり、頼むからそんなに主人公をいじめる展開はやめてくれよ、と途中から思い続けながら見ていた。

警備会社に勤める男がいる。彼は職場でも同僚とつきあいがなく、孤独な浮いた存在だ。自宅近くに大型バスの改造車に「グリル」と描いた店を出す女性に話しかけるくらいだ。「いつか最新設備の警備会社を起こして見返す」と彼は買ったソーセージを食べながらつぶやき、女は気怠そうに煙草を吸いながら相槌を打つ。

ある日、主人公がコーヒーを飲んでいるとある女が話しかけてくる。「さびしそうだったから…」と言う。その女とデートの約束をし、男はいそいそと出かける。女は積極的だ。男がショッピングセンターを巡回しているときにもやってくる。女はドアを開ける暗証番号を盗み見る。

ある夜、仕事中に女とコーヒーを飲み、男は眠らされる。女はギャングのボスの情婦で、ボスの命令で男に近づいたのだ。男は鍵を盗まれる。ギャングたちは、暗証番号と鍵を使ってショッピングセンターの宝石店から宝石を盗む。男は警察につかまるが、女のことは何も言わない。男は宝石泥棒の仲間だと疑われる。

証拠不十分で釈放された男の部屋に女がやってくる。女が椅子の下に隠したものを見ると、鍵束と盗まれた宝石の一部だった。女の通報で警察がやってくる。それでも男は女のことをしゃべらない。男は窃盗罪で二年の刑期を言い渡される。グリルの女が判決を聞く男を心配そうに見つめている。

男が出所する。レストランの皿洗いに雇われる。その店でギャングのボスと女に出会う。ギャングのボスが店のオーナーに告げ、前科を隠していたからと男はクビになる。男はナイフを持って店の外でボスに切りつける。初めて見せた男の激情。しかし…、男はボディガードに簡単に取り押さえられ、半死半生の目に遭わされる。

お願いです、どうか主人公に復讐をさせてやってください、と僕は本気でスクリーンに向かって祈った。あんまりだ。不運続きの人生だといっても、これじゃあひどすぎる。みじめなだけじゃないか。見る方だってフラストレーションがたまってしまう。

しかし、港の隅にボロのように捨てられた男をカウリスマキは見捨てない。最後の最後に、救うのだ。もちろん、それは精神的な意味でだが、それゆえに崇高で、純化されたものである。不運と不幸が続いた果てに、何かが昇華したような気分にさえなれる。もちろん、カウリスマキはそれを延々とは見せない。ブツっと切ったように映画は終わる。

フィンランドというなじみのない国の話だが、どこで生きていても人間は同じだ。格差はある。不幸はある。金持ちと貧乏人がいる。しかし、社会の底辺で生きる人々を、そして過剰なまでに彼らの不幸を描くカウリスマキは、間違いなく彼らへの熱い共感を抱いている。職探しに疲れ果てる夫婦、女に裏切られ「負け犬」と罵られる男への想いが、静かな画面から伝わってくる。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
人間というのは、自分はいつまでも若いと思っているようです。どこかのブログで「親戚の年とったおじさんから昔話を聞いているようなコラム」と書かれていて、ちょっと複雑な気分でした。しかし、若い人が読んでくれているのは、素直にうれしいですね。

●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/suiyosha/1400yomim/1429ei1999.html >
受賞風景
< http://homepage1.nifty.com/buff/2007zen.htm >
< http://buff.cocolog-nifty.com/buff/2007/04/post_3567.html >

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■Otakuワールドへようこそ![84]
祭は終わった

GrowHair
< http://bn.dgcr.com/archives/20081107140100.html >
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腑抜け状態です。この原稿、書かなきゃと思うのですが、思った端からシャボン玉みたくどっかへ飛んでいってしまい、頭を働かすとか、手を動かすという方向につながっていきません。というわけです。以上。

というわけにもいかないので書きますけど、別に自分に鞭打って無理やり書いているとかではないんです。ただ、展示のことを振り返ると、山で撮ったり壁紙作ったりしたときの大変な思いやら、終始閑古鳥が鳴いてたらどうしようという不安を笑い飛ばせるくらい多くの人に来ていただけた驚きと喜びと感謝の気持ちやら、4人とも大きなイベントに乗っかって作品を展示したことはあってもグループ展には不慣れで、来廊していただいた方々に礼を尽くしきれなかったという忸怩たる思いやら、それでも、とにもかくにもやり遂げて、全体的には成功と言える出来栄えだったという充足感やら、祭りが終わってしまったという感傷やら、「で、これからどうすんだ」という放心状態やら、いろんなものが入り混じって、わっと泣いてしまいそうな、たまらん気持ちになって、考えが進まなくなってしまうわけですよ。それで、ぽや〜んと。ああシャボン玉が飛んでいく……。

●ひっそりと開催された展示なのに盛況

いろいろと反省点が多かったとはいえ、銀座の「ヴァニラ画廊」で催した人形と写真4人展「幻妖の棲む森」は、10月23日(木)〜11月1日(土)の日程を、盛況のうちに無事終えることができました。これも、来廊していただいた方々、宣伝などで協力していただいた方々、花束やお菓子やメッセージを送っていただいた方々、心の中で応援していただいた方々のおかげと、感謝の気持ちでいっぱいです。

では、どんなふうだったか、まず大まかなご報告から。展示したのは、橘明さん、林美登利さん、八裕沙さんの人形作家3人が作った人形(人の形をしていないものも含めて)26体、そのうち10体を私GrowHairが山で撮った写真(半切サイズ)19点、写真に加工を施して作った壁紙、その他、物販品など。

今回の展示の狙いとして、ワンフェスやデザフェスやGEISAIなどの大きな企画に乗っかっての展示ではなかなか表現しきれないことを、思う存分表現しようということがひとつあった。売れたらうれしいけど、それはまた別の次元の話。それで、空想の産物に過ぎないとされているような、しかし、実在したらしたでうっかり受け入れてしまいそうな、天使、妖精、人魚、鳥女、空飛ぶ首、大きな卵を内側から割って生まれ出ずる手などを、あたかも森の奥深くに棲んでいるかのごとく、禍々しさいっぱいに展示しようというコンセプトで進めてきた。それともうひとつ、内面的にあるいはフィジカルに傷ついた少女のエロティシズムというのも、裏のテーマとしてあったかもしれない。

一般常識的な観点からすると悪趣味と言われかねないんだけど、こういうことは人によって受け止め方がずいぶん異なるもので、共感を覚えたり、美を見出したりしてくれる人はきっといるはずで、そういう人のための展示なのである。ダークでゴシックでホラーで少しばかり病的で、だけど、そういう精神の沼地にしか営むことのできない美の饗宴。

打合せで我々4人が集まって話をすると、瞬時に分かりあえるようなことも、一歩引いて、一般の人々の身になったつもりで考えなおしてみると、とうてい受け入れがたいだろうなーと思うことがよくあった。ひょっとして、我々って、はたからみたら、アダムス・ファミリーみたく見えてたりして。

画廊に入ると中は薄暗く、まず目に入るのが壁紙。普段は真っ白な壁が、暗い森の色を基調として、白っぽい軟体動物のようなものがいっぱいぐにゃぐにゃと這い回っているような、サイケデリックな模様の変てこりんな壁紙でほぼ覆いつくされている。一見すると、コーヒーにたらしたミルクのような平面的な模様なのだが、近づいてよく見ると、著しくゆがめられた顔やゴムのようにびろーんと伸びた人魚の体が見つかる。壁紙にオーバーラップする形で、額装された写真が架かっている。おのおのの人形は独立して置かれているが、それぞれ森の中にいることをイメージしたディスプレイがなされている。

当初の心配を吹き飛ばすように、初日から多くの方々に来廊していただけた。多めに刷った案内はがきをがんばって配りまくったのだが、開催間近になって人形作家さんにお渡ししようとすると「すでにあちこちで見かけますね」と言われることがあった。それで、なんとなく、伝わるべき人たちには、ちゃんと伝わっているのだな、という感触は得ていた。

今の時代の特徴として、情報の流通はほぼ自由に任されているにもかかわらず、実際に人々の間を流れるときは、興味のある人の間だけで濃く流通し、なかなか壁の外へは流れ出ていかないということがあるように思える。これを私は前々から勝手に「情報のセグメンテーション化」と呼んでいるのだが、この特徴が、我々の展示の情報の流通にも現れていると感じた。世の中全体から見れば、ほとんど誰にも知られずに、ひっそりと開催された展示なのだが、人形の世界の人たちにはよく知れ渡っていた模様だ。

同じ空気を持ち、人形の世界のすぐ隣りぐらいにいる人たちに告知する意味で、「トーキングヘッズ叢書(TH Series)」という季刊雑誌で紹介してもらえたのは大きかったと、非常にうれしく思う。アート・文学・映画・ダンスなどをオルタナティヴな視点から取り上げるマニアックな雑誌で、私は以前からこの雑誌の文章が好きだった。一般にアート評論などは主観にまかせていかようにも書くことが可能で、誰も間違ってるとは言えないので、不得要領な文章が横行しがちだが、THの文章はいつも言わんとすることが明快で、的をしっかりと捉えて気持ちがいい。
< http://www.a-third.com/ >

10月25日(土)には、簡略なレセプションパーティを開き、永井幽蘭さんと由良瓏砂さんからなるユニット「電氣猫フレーメン」に、人形にちなんだ曲の演奏と詩の朗読を演じていただいた。幽蘭さんは八裕さんの高校時代からの友人。自身で作詞作曲した歌を、自身のピアノ演奏に乗せて、伸びやかな美声で歌う。高度な音楽的実力もって、ゴシックでダークな世界を表現するとこうなるか、という、すごい迫力の音楽を奏でる。

瓏砂さんは人形作家でもあり、お人形さんのような美貌をもち、劇団MONT★SUCHT(モント・ザハト)の看板女優でもあり、多彩な芸がある。私は夏ごろ撮影させてもらったというつながりがある。お二人からは、私の壁紙を絶賛していただけた。演奏の気合が乗るような、居心地のよい空間だったそうで。高く評価してもらえたうれしさもあるが、音楽とグラフィックという違いがあっても底流をなす意識において、近い波長を感じあえた共犯者的な感覚がうれしい。

パーティは予想を上回る大盛況で、室温が急上昇して、いらしていただいた方々には限界に近い辛抱を強いてしまったことは、大変申し訳なく、反省しています。それと、いろんな方面の知り合いが一堂に会し、ひとりひとりとゆっくりお話しできなかったのが、心残り。

会期中を通じて、多くの人に来廊していただけた。吉田良先生や、この世界ではけっこう有名な人形作家さんや、イラストレータさんのご来廊の栄にあずかれたのは、非常にありがたいことで、うれしくもあり、誇らしくもある反面、もったいなさすぎて申し訳なくもあり、わざわざ見に来ていただくに値する展示だったかとはらはらする気持ちもあり。

デジクリ書き仲間や、その関係の知り合いの方々にも来ていただけた。べちおサマンサさんは人形たちからテレパシーで声をかけられて、あっちの世界へのお誘いを受けて、ずいぶん抵抗してたようだけど、抵抗せずに引き込まれちゃえば、楽になれるかもよ。高橋里季さんと会うと、ニュートンは本当は何を考えていたか、みたいな話になって、非常に楽しかったです。

関西方面に在住のやましたくにこさんからは、代わりに花束が来廊。ずっと在廊した後にウチに来てるけど、黄色いバラはしおれかけても芳香を放ち続け、すごい自己主張。今に、花が本人に化けるんじゃないかって感じ。

個人的な知り合いとしては、行きつけのメイドバーのメイドさんや常連さん、駅前留学の同窓仲間、会社の同僚、師匠(=高校時代に通っていた塾の先生/故人)の奥さんなど、いろんな方面から来ていただけた。それもうれしいけど、出展者の誰ともつながりのない方々が、どこかで情報を得て来廊してくれて、じっくりと作品を見ていってもらえたのもまた、うれしい。みなさん、ありがとうございます。
< http://www.geocities.jp/layerphotos/FigDGCR081107/ >

●リアル桜田ジュン、現る

11月30日(木)、開廊して一人でいると、まもなく、全身黒づくめの男が入ってきた。黒いシャツに黒いネクタイ、黒いズボンに黒い靴。やや小柄でやや痩身。若そうに見えるが、大学生ぐらいか。

黙ってひととおり展示を見た後、展示物の写真を撮ってもいいかどうか聞いてきた。実は神奈川県の県立高校に通う生徒で、校内に人形の同好会を立ち上げようとしているところで、創作人形がどのようなものかを顧問の先生に伝えるためのサンプルにしたいとのこと。ウェブなどで公開しないことを条件にOKした。

シルヴィアと名乗り、16歳だという。小学生時代はイラストばかり描いて明け暮らし、中学生時代は学校に行かずに引きこもり、服飾やアクセサリー制作に没頭する日々を過ごし、15歳のときからビスクドールの創作を始めたのだという。ドールスペースピグマリオンの生徒で、本城先生に師事しているという。
< http://pygmalion.mda.or.jp/ >

ケータイに蓄えている画像で、作品を見せてもらった。おお、きれい。ビスクドールの顔が繊細だし、何よりもドレスがひらひらで豪華。色合いもセンスがいい。私はアート方面に専門知識があるわけでないし、ケータイの画像は小さいこともあって、ちゃんとした判断は下せないが、ぱっと見、プロの域に達しているようにみえる。

本人によると、服飾については、すでにそれで食っていけるレベルで、今着ている服も、自分で制作したのだという。しかし、今は人形制作に目覚め、できればそっちに進みたいという。私の中では「リアル桜田ジュン」確定。「ローゼンメイデン」の主人公、ひきこもり中学生だ。

ジュンは、洋裁の素養のあることが校内に知れ渡り、女みたいだとからかわれ、学校に行かなくなる。毎日、明らかに怪しいグッズを通販で注文し、届いたのを笑ったらすぐに返品するという遊びを無為に繰り返している。ある日、「まきますか、まきませんか」と書かれた紙切れがどこからともなく現れ、「まきます」に丸をつけておくと、アンティークドールが届く。真紅である。背中のネジを巻くと、目を覚ます。闘う宿命を負った人形たちとの関わりの中で、次第に成長し、自立していく、という話。

日本全国にジュンみたいなひきこもり中学生はいっぱいいるんだろうなぁ。紙切れが現れず、真紅が届かなかったら、いったいどうなっちゃうんだろう。永久に通販遊びなのかな? 恐ろしいことではないか。なんて思ってたんだけど、やっぱりいたか、リアルジュン。ははぁ、こうなるわけね。別に、悪くないじゃん。

しかしまあ、ものすごい自信家。すでに一端の何かになったような気でいるみたい。それと、どこかトゲトゲしてて、敵を作りやすそう。アート方面だと、案外そのくらいでちょうどいいのかな? 今に大成しそうな感じもしなくもないけど、一方、神童も二十歳過ぎればただの人、ってパターンもようけ見てきたしなー。今は「若いのに」すごい、という形容詞つきだけど、今にその形容詞がとれて実力だけで勝負していかなきゃならなくなったとき、もう一山、越えなきゃならんかもね? ちょっと危うげなものを感じる。

それはそれとして、面白いやつだ。私にはない何かを、確実にもっている。その点に関しては、さわやかに打ちのめされたぞ。これからの活躍が楽しみだ。

●一段上の写真とは?

今回、ハガキサイズや2Lサイズの写真を3枚組500円で販売したら、そっちはかなりよく売れたんだけど、壁に掛けていた19枚の半切サイズのは、まったく売れずじまい。一枚2万円という値段は、そんなに高すぎる設定ではないと思うんだけど。

まあ、売れるような写真を展示するのが目的だったわけではないのだから、これをもって失敗だったとは思ってない。見知らぬ来場者が一点一点の前でずいぶん長く立ち止まってじっくりと見ていってくれたり、知っている人たちからは、「背景とよくマッチして、森に棲む感じが現れている」とか「森での写真をもって人形の完成形を見た気がする」とかほめてもらえたのは身に余る光栄で、がんばって何回も山に足を運んで撮ってきたのが報われた気がした。

しかし、今の自分の腕前をもって撮ることができた最良のものを展示しても、世の中に数多いる「撮る人たち」の中で自分はどの辺にいるのかと突き放して考えてみたとき、せいぜい「アマチュアの中では、まあけっこう上手いほう」くらいのレベルどまりであろうという「伸びきった」感は否めず、もう一段上の写真を目指すとしたら、何が足りないのか、というようなことはずいぶん考えさせられた。

ひとつ自覚していることとして、整った構図に縛られすぎている、というのはある。まずは何の奇も衒いもない、普通のポートレイトというのを撮っておかないと安心できない。まあ、それはいいのだが、どうもそれだけで安心してしまい、次の段階へ進めていないような気がする。

普通誰でも考えつくような写真、という枠をぶち壊して、もっと広い発想力をもって、嘗め回すようにあっちからもこっちからも撮ってみるとか、常軌を逸した構図であえて撮ってみるとか、ブレやピンボケを駄目と決めつけないとか、むちゃくちゃな光線を入れてみるとか、そういうことをもっと徹底的に試してみるべきなのかもしれない。

書道で言えば、楷書の段階。たぶん、行書な写真や草書な写真ってあるんだろうなぁ。芸の道が、守・破・離であるなら、まだ守の段階。破へ行け、離へ行け。逆の道もある。楷書なら楷書で、もっと徹底的に極めろ、という方向性。写真というものは、絵画や造形に比べればとんでもなくお手軽で、とにかくシャッターさえ押せば誰でも、ある程度のものは撮れちゃう。美術の造詣が大したことない人でも、とにかくそれなりのアウトプットが得られちゃう。その代わり、絵画や造形に比べれば、アウトプットの自由度は非常に低い。

こういう制約の中で、撮影者の個性の光る作品を提示しようとするならば、それは、絵画や造形よりもずっと難しいことなんじゃないかと言えそうだ。だからこそ、自分の写真とは何かを考え、自分にしか撮れない写真を撮るべく、シャカリキになるわけなんだけども。しかし、それをやめちゃえ、という方向性もアリかと思う。

人形という存在と、写真を見る人との間に立ち、自分は無になる。姿の見えない、通訳のような存在。通訳が自己主張したんじゃ、しょうがない。通訳の役目は、話し手の言わんとすることを100%汲み取って、聞き手の理解できる言語で伝えること。撮る者は、人形に隷属する無の存在となり、その姿をただ伝えるだけの仲介者の役目を負う。ただし、人形自身が満足してくれるように、最良の形で伝えること。

実は、こういう姿勢で撮ることを、来場者のひとりから教えてもらった。彼は、八裕さんが作った、私が山で撮ったのと同一の人形を、彼自身の撮り方で撮ったポジフィルムを見せてくれた。「私の撮り方はあなたとは正反対です」と言って。その「正反対」ということを私なりに解釈すると、こういうことになる。撮る人の個性を出そうとするか、消そうとするか。

彼の撮った写真は、あたかも人形がこういうふうに撮ってほしいと言っている声が聞こえているようで、並ならぬすごさが見えた。私はどっちの方向性を目指すにせよ、次の段階に行けるのかどうか甚だ自信がなく、もしかすると本当にこれが伸びきり状態なのかもしれないけど、今後も撮る機会はまだまだありそうなので、今いるところに安住しないことだけは心がけて続けたい。

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
やられた。ネットにさらされてる。またかよ。しかも今度は顔アップで。2ちゃんのまとめサイト「カナ速」の「すっごく哀れな画像くれ」スレに148枚の画像が放り込まれているうちの、47番。アキバのメイド喫茶で、左手の薬指にはめた指輪を自慢してるとこ。「真紅は妻です」とかなんとか。やりやがったなー、表を歩けなくなるじゃないか。って、これ、テレビのキャプチャじゃないか。「ロンリープラネット」という旅行ガイドのテレビ版の東京の回。DVDも出てるんだっけ。そう言や、収録した時点での予想視聴者数は1億8千万人だとか言ってたっけ。試しに "Lonely Planet" と "GrowHair" で検索かけてみると、5か国語ぐらいでひっかかる。ひえ〜、表どころか、世界中どこにも逃げ場がないぞ。
※リンクを張る気がしないので、ご覧になりたい方は各自検索して見つけてください。

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■編集後記(11/7)

・プロ野球ナイトゲーム中継における掛布の「選手名に君づけする」解説については、聞き苦しいからやめろと何度もしつっこく書いているが、同じように君づけする解説者が二人もいた。工藤公康と桑田真澄である。日本シリーズでは工藤がしゃべっているが、アレ? 君づけに抵抗がない。耳にひっかからない。とっても自然だ。桑田も同様だ。なんだよ、いろいろ理由つけたが、ただ掛布がきらいなだけか、わたし。あの発声がめちゃんこ悪いから、耳が不愉快なのか。内容もそうとうレベルが低いけど。桑田も好きではないが、解説は桑田が一番上等で、工藤はやかましい。掛布は…来年こそ消えて欲しい。それにしても、中継アナウンサーの度々の絶叫、いい加減しろ。(柴田)

・USB季節もの。GreenHouseからイルミネーション。高さ25cm、17cmのクリスマスツリー2種、10cmの雪だるま。同じくGreenHouseから「ペットボトルウォーマー」。暖かい飲み物をいつでも。USB電源なので省電力=エコなのだとか。ペットボトルがエコかどうか意見の分かれるところだけど、お役立ちだと思うわ。サンワサプライはドライアイにもいいという「USB加湿器」。アロマポットとしても使用可。これからの季節、のどの乾燥に注意よね。サンワサプライは保冷もできる「USB保温保冷器」やマグカップ用保温器「USBカップウォーマー」2種も。そして「USB座布団」に「USBスリッパ」。スリッパは2段階の温度調節可能。(hammer.mule)
< http://www.green-house.co.jp/products/usb/christmas2008/ >  ツリー
< http://www.green-house.co.jp/products/usb/eco/usb_pet/ >
ペットボトルウォーマー
< http://www.sanwa.co.jp/product/syohin.asp?code=USB-TOY41 >  加湿器
< http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000MM0YZC/dgcrcom-22/ >
座布団
< http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000MM0YZW/dgcrcom-22/ >
スリッパ
< http://www.sanwa.co.jp/product/peripheral/usbtoy/ >
カップウォーマー類。商品詳細には開発担当者の語る製品紹介動画が