[3556] 妄想学研究序説

投稿:  著者:  読了時間:23分(本文:約11,200文字)


《僕的に史上最高のWACOM製品という印象》

■ユーレカの日々[26]
 妄想学研究序説
 まつむら まきお

■グラフィック薄氷大魔王[361]
 「Cintiq Companion Hyblid」、「ブログ大更新」
 吉井 宏




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■ユーレカの日々[26]
妄想学研究序説

まつむら まきお
< http://bn.dgcr.com/archives/20131002140200.html >
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この夏、セブンイレブンの100円アイスコーヒーにはまり、しょっちゅう買って飲んでいた。ミニストップやサークルKでは随分前からコーヒー販売を実施していたが、セブンイレブンは今年からの本格参入だそうだ。

コンビニ各社、コーヒーメーカーシステムと販売方法は様々。アイスコーヒーの場合、他社ではレジ内のアイスメーカーで氷をカップに入れてもらう、というスタイルが多いが、セブンはアイスクリームコーナーなどにある「氷の封入されたカップ」をレジで精算、自分でコーヒーメーカーにセットするという方式だ。レジ内に製氷機を設置しなくて済むし、店員の負担もない。衛生的でもある。うまく考えたものだ。

なので、セブンの氷はロックアイスだ。他社の氷よりも硬くて溶けにくい(気がする)、暑い日にガリガリかじるのがうれしい。また、コーヒーメーカーはその場で豆から挽いてドリップするので、ホットでもアイスでも、香りがいい。実際、今年の大ヒット商品となったという。

コーヒーとして特別美味しいかどうかはわからないが、アイスコーヒーはかなり好みの風味だ。100円で呑めるコーヒーとしてのクオリティはトップクラスだろう。少なくとも缶コーヒーよりも断然美味く、安いのだ。

●フタが気になる

さて、セブンでコーヒーを呑む時、ちょっとだけ気になることがある。氷を入れたカップを封印している、フィルム製のフタだ。丁度カップヌードルのフタのようにカップに接着されていて、それをペリペリと剥がして、近くのゴミ箱に捨てるのだが、このフィルム蓋がどうも気になってしょうがない。

カップヌードルであれば、フタは麺やら、かやくやらを守る大切な役割がある。しかし、コーヒーカップのフタはコーヒーと出会わずに捨てられる運命なのだ。

フタは工場からロックアイスを保持し、レジまで安全に氷を運ぶための役割を担っている。しかし、「コーヒーを呑む」という本来の目的のためには「捨てなくてはならない」というなんだか矛盾したような存在で心が痛む。

さらに言えば、この円形のフィルムを生産するにあたっては、おそらく大きなフィルムのロールに印刷がほどこされ、型抜きされているはずで、じゃあ、その型抜きされた後の、「フィルムの使われなかった部分」の事を考えると。さらに無念でしょうがない。

恐竜だとか様々な生物の遺骸が100万年以上もかかって、地下で石油へと変化する。それが人間の手によって採取され、樹脂フィルムに姿を変える。それが何の因果か、たまたまコーヒーカップの蓋の用途に供されることになる(ドキドキ)。いざ、フタに成ろうかというその時、「余白」の方にあたってしまい、世にでる機会を失う。

もちろん、余白には余白の機能がある。余白がなければ、フタ部分を保持することができない。印刷も困る。立派な機能だ。そしてその余白部分はおそらくリサイクルされて、他の製品に使われる。

でも、である。せっかく、ツルツルのピカピカで透明で、衛生的にも完璧な状態のフィルムにまで加工され、光り輝くコンビニの店頭を飾る運命まであと一歩のところで、余白にまわってしまったばっかりに、再び溶かされ、違う運命を余儀なくされる。

職業に貴賎はないように、人種や思想信条に貴賎はないように、石油にもフィルムにも、再生プラスティックにも貴賎はない。

だけれども、やがてリサイクルされ、薄暗い倉庫の片隅で、運搬パレットかなにかに生まれ変わったフィルムが「ああ、一度は明るいコンビニの店頭でお客さんの手にとってもらいたかったなぁ。でもカップの蓋の人生なら、多分焼却されるんだから、今の人生の方が長生きできてよかったんだよな」とか思っているかと思うと、胸が締め付けられる。

●妄想という文化

......てなことを、アイスコーヒーのフタを捨てるたびについつい考えてしまうのだが、そういう話をするとわかってくれる人は、あまりいない。人はこれを「妄想」と呼ぶらしい。

子どもの頃はみな、妄想好きだ。男の子も女の子もゴッコ遊びに興じる。石ころや動物や昆虫や植物や雲や月に話しかける。それらの存在を擬人化し、考え方や行動を勝手に想像する。

童話の影響もあるだろうが、知識や経験に乏しい子ども時代は、何事も自分自身に照らし合わせるしかないから、自ずとそういった発想になるのだろう。

物語が好きなのは、人間の本能のはずだ。お伽噺であれ、史実であれ、ウワサ話であれ、様々な物語に皆、興味を持つ。それは物語が人間にとって有用な参考、「リファレンス」として機能するからだ。物語に興味が持てない人間は、自分の経験しかリファレンスにできない。そういった人間が様々な問題に対処できる可能性は低い。

さらに、日本人は昔から、自然のモノや現象に触れて、そこに人格を見てきた。八百万の神々だ。巨木を見て、いきなりそれに人格を見るわけではない。その巨木がたどってきたであろう長い歴史という物語を想像し、感情移入する結果、人格化する。

つまり物語の方が先なのだ。外来宗教である仏教が入ってきても、神仏習合といって日本の古神道と混じり合い、仏教世界の様々なキャラクターが信仰の対象となる。

そういった文化的な土壌があるから、日本人は現代でもキャラクター好きだ。日本中ありとあらゆるところにキャラクターが存在する。今年の「ゆるキャラグランプリ」のエントリーは1000キャラを越えている。城だろうがクマだろうが食べ物だろうが、身の廻りのありとあらゆるモノを人格化している。ドラマを想起してもらうために、広報キャラクターは活躍する。

こういった傾向は世界的にはあまり類を見ないと思う。アジア文化圏のキャラクターが好きに対し、欧米文化圏ではキャラクターは子ども向きのもので、大人向きの商品や企業キャラはほとんど見られない。キリスト教やイスラム教では偶像崇拝が禁止されていることが文化的な背景にあるのだろう。

日本ではキャラクター以外でも、様々なところで妄想力を見ることができる。庭に岩と砂利を配置したものから多島海を妄想させる枯山水。富士山のミニチュアを作って詣でた富士講の富士塚。落語でも茶道でも、様々なものを何かに「見立てる」。リアルに語ったり描いたりするよりも、あっさりと語るだけで相手の妄想力を刺激することを好む。

日本文化を語る上で、妄想力は欠かすことができないのだ。

●社会と妄想の関係

さて、子どもの頃は妄想力全開だった人間でも、色んな事を学んだり経験するうちに、妄想力がだんだん弱まってくる。漢字の形から色々妄想を楽しむことが許されるのは低学年だけで、書き順や読み方を憶えさせられる。

「花子さんは100円のチョコレートを三枚買って」という算数の問題で、花子さんが選んだのはどんなチョコなのか、お店の人は男性なのか女性なのか、というような事ばかり気にしていると「そういうことは無視しなさい」としかられる。妄想力はどんどん、弱くなっていく。

しかし、もうちょっと成長して中学二年生になるとまたまた妄想が発病する。自分は実は超能力を持っているはず、だとか、世界を変える運命にあるといった妄想に取り憑かれる。中二病というやつだ。

中二病は思春期のハシカみたいなもので、たいていの人はふたたびリアルな世界と向かい合うようになるのだが、一部の人間は中二病をこじらせてしまう。二十歳になっても妄想癖が治らない人を世間では「おたく」とか「腐女子」と呼ぶ。

たとえばおたくは、ガンダムのような巨大ロボットが大好きだ。物理的に絶対成立しないのをわかっていながら、小さなフィギアを手にあれこれ妄想する。

たとえば腐女子は、擬人化が大好きだ。わたしは腐女子ではないのでよくは知らないが、あれやこれやを見ると、なにやそれやと妄想するらしい。

おたくや腐女子も、社会に出ればそういった部分は相手に隠して、社会に適応して生活をしている。なぜ隠すのかといえば、妄想というのは社会的にはあまりよいイメージで考えられていないからだ。

「人の話を聞いていない」だの「集中力がない」だと言われてしまう。人の話は聞いていなくても、虫や石ころの話はものすごい集中力をもって聞けるのだからいいようなものだが、この年頃になるとそういった人間はすっかり少数派になっているため、なかなかわかってもらえない。

おたくや腐女子は、そういったことをわかってもらえない人に、それを説明するのがとても大変で報われない、ということを子ども時代の経験上よく知っている。

こういった人間は現在確認されているだけでも59万人存在している。この数字はこの夏のコミケの3日間での総動員数で、鳥取県の人口よりも多い。コミケに行っていないおたく、腐女子も多数存在しているので、実数はもっと多いはずだ。だいたい、この10倍くらい居るとして、590万人。日本の人口から見れば4%、25人に一人の確率となる。

●妄想は不要なのか

おたくや腐女子をさらにこじらせると、作家やマンガ家やアニメ作家や映画監督や美大の先生や評論家になってしまう人が出てくる。お台場に18mのロボット像を建てるビジネスマンや、マンガやアニメを海外に輸出しようという役人も間違いなく、こじらせている。ここまでこじらせれば、なぜか社会的な信頼や地位が出来る。

妄想の巨匠が引退を発表すると、日本はおろか、世界中からそれを惜しむ声が出てくる。世界中の人がもっと巨匠の妄想が見たい、という。どうやら学生時代や社会人にあれだけ忌み嫌われた妄想癖は、社会的に求められているもののようだ。

ならば、妄想癖のある人はそれを仕事や活動にすれば幸せになるように思えるが、なかなかそうはいかない。先に述べたように、妄想が止められない人間は、それをわかってくれない人間に説明をすることを避けようとするし、説明も下手だ。

妄想を妄想としてちゃんと人に説明することができれば、様々な可能性がひらけてくる。多くのSF小説が、文化のみならず、現実の科学技術に影響を与えたように、妄想の中には様々なヒント、可能性、示唆が含まれているはずだ。

たまたま、文章や絵で説明ができる人は作家になったり事業に展開したりできるのだが、「妄想」と「表現」を結びつける教育を受けていないため、そういったことが出来るか出来ないかは個人の資質に頼っているのが現状だ。

●妄想と現実の境界

おたくや腐女子は、妄想というものが現実ではないことをよく知っている。知っているからこそ、それを隠して社会に溶け込んだり、密かにコンテンツにして、評価を得たりする。さらに妄想者は、相手も妄想者なのかもしれない、ということを考えるので、相手の言うことを鵜呑みにしない注意深さも兼ね備えることになる。

しかし、時々、妄想をこじらせる過程で、その対象を虚構の世界ではなく現実世界に向けてしまう人がいる。計画や事業において、事故を想定してはいけないとか、士気が下がるような発言はつつしむべきだとか、国民はこうあるべきだとか。

こういった発言は冷静な態度で現実に対峙できない人が、自分の「そうあってほしい」という妄想を現実社会に持ち込んでいるから出てくる発言だ。おそらくは妄想というものを禁じられる過程で、それが内面や虚構世界に向かわず、現実世界と見分けがつかなくなってしまっているのであろう。

どんなに無茶苦茶で非論理的でも、現実世界を題材にした夢を語る人は評価され、どんなに論理的で思慮に満ちていても、妄想を語る人がさげすまれる。

なんだかおかしな世の中だ。

●妄想学への道

妄想とはなにか、人はなぜ妄想をするのか。人は妄想と現実をどう区別して認識しているのか。心理学分野では「被害妄想」など病理的な面での研究がなされているが、文化面での「妄想」はまだまだではないか。

妄想学会というのを作って、そういうことを研究するのはどうだろうか。世界中から妄想に興味のある人が集まる。様々な事例や研究発表をして、情報を交換する。もちろん二次会は薄い本の即売会だ。そういうのがあればぜひ参加してみたい。

そんなことをしても役に立たない、と思う人は妄想力が変な方向で固まっている可能性がある。そもそも学問はなにかの役に立つからやるのではない。謎と興味を一般化するのが学問の役割だろう。とすれば、妄想学は必然だ。

ただひとつ、心配なことがある。妄想学会では妄想に耽る人ばかり集まって、ちっとも建設的な場にならないような気がしてならないのだ。

【まつむら まきお/まんが家、イラストレーター・成安造形大学准教授】
< twitter:http://www.twitter.com/makio_matsumura >
< http://www.makion.net/ > < mailto:makio@makion.net >

iPhone 5sに機種変した。前のがiPhone4だったので、OS、画面比率、処理速度、電波などなど激変。あ、10月13日(大阪)20日(東京)のコミティアに出ます。スペースは大阪はP-42、東京はG-05。お出かけの節はお立寄ください。


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■グラフィック薄氷大魔王[361]
「Cintiq Companion Hyblid」、「ブログ大更新」

吉井 宏
< http://bn.dgcr.com/archives/20131002140100.html >
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●Cintiq Companion Hyblid、良い!

例の「パソコンに繋げば液晶タブレット、単体でAndroidタブレット」のWACOM Cintiq Companion Hyblid。実家制作のときに「液タブがあればなあああ〜〜」って思うことが多いのでそれ用として16GBバージョンを購入。

< http://cintiqcompanion.wacom.com/ja/?country=jp&language=ja >

使ってみたとたん、僕的に史上最高のWACOM製品という印象。非常に良い!!

< https://pic.twitter.com/MSLmgQb8l2 >

まずMacBook Airと接続してみた。普通に13インチCintiqそのもの。13インチCintiqを買おうかどうしようかずっと迷ってたけど、ここまで迷っててよかった。アクリルが薄い上に、カーソル補正が一発で決まり、ほぼズレなし。画面の隅でもずれない。すごい。最高! ただ、僕的にはツルツル画面がツラいので、いつものビニールを貼った。

< https://pic.twitter.com/NbHrfmdTR9 >

コネクタを抜けばAndroidモード。WACOMオリジナルの描画アプリ「Creative Canvas」もなかなかなのだが、投げ縄等で選択・移動できる機能があるのに使おうとするとそこで落ちるorz マンガのコンテ用アプリ「Manga Canvas」は描き味が抜群。スケッチ用のメインに使ってもいいかもしれん。

とはいえ、やはりSketchBook Pro for Tabletsを購入。まともなペンが使えないiPadで苦労してたのが完全解決。夢のような書き味。iPadとちがって描画も速い。スケッチ用アプリはもうこれ一本で十分。

Androidモードの場合、キーボードを使わなくていい利点はあるんだけど、ビニールを貼ってるとマルチタッチの感度がかなり落ちる。ビニールなしなら快適。ツルツル画面対策としては、エラストマー芯を使うしかなさそう。エラストマー芯の大人買いでもするか。

Photoshopでお絵描きだけでなく、modoでも使ってみた。先日の10インチSurfaceと3インチしか違わないのに、画面全体でカーソル位置がバッチリ決まるのは快適。細かい作業でも大丈夫。

22インチのCintiqで感じていた「無駄に広い。手を伸ばすのが疲れる。老眼的に画面との距離がビミョー」がすべて解決。メガネをはずして近眼モードでは、13インチHDは非常に具合がイイ。正直言えば、もう一回り大きい15インチだったらもっといいのにな。

こういった小型のタブレットPC的液晶タブレット的製品って、数日から数か月かけて慣れる、というよりも、どうにか自分を騙し騙し、快適と思えるほうへ持って行く感じ(最後までダメなのも多い)なんだけど、Cintiq Companion Hyblidは使い始めた瞬間からバッチシ。

しかしこれ、完全に普段使いで大丈夫っぽい。で、Cintiq 12インチ用バッグに余裕で入るのだよ! これで持ち運び仕事環境セットは完璧!

とか言って、Windowsメインの人ならWIndows入りCintiq Companion一台持っていればたいていの仕事がこなせちゃうってところが、ちょっとクヤシイ。まあ、Macメインなので、Windowsマシンも持ち運ぶことになるといろいろ煩雑になるのでやめとくけど。

ん〜〜、電源含むコネクタ差したままAndroidモードにできないのかな??

※注意、映像入力はHDMIです。MacBook AirではMini Display Port - DVIアダプタに、さらにDVI - HDMIアダプタを挟まなくちゃいけないです。届いてからそれに気づき、しかたないのでアダプタだけ家電量販店に買いに行ったよー。

※追記。Windows8のCintiq Companionもパソコンに接続してCintiq 13HDと同等に使えるものだと思い込んでた。Hyblidだけが他パソコンに繋いで使えるのでした。前々回の「WACOM新製品を見てきた」はその誤解に基づいてます。

いや、最初はそう正しく理解してたのに、購入前に確認した詳細ページの「外部モニタ接続の図」を見て、あ、こっちもパソコンに接続できるんだ、って思っちゃってました。誤解したまま、購入のときに間違えるところだった。ヤバかった。ってことは、僕的にはHyblid一択で間違いなかった。

●ブログ大更新

わ、ブログのテキストを8か月も放りっぱなし。2日かかって、TDW以外ほとんど更新してなかった2月以降の分を94本! アップしました。不完全な部分や大きな出来事が抜けてたりしますがとりあえず。

毎日ちゃんとアップすりゃ、こんなにまとめてアップしなくていいのにねえ。普段から更新してないと、新しい記事や告知が唐突に見えちゃうから載せにくい弊害もあったりして。

「TwitterやFacebookに書き散らかしたものから選抜してブログにまとめ、そこから選んでデジクリ用に膨らませる」スタイルが基本のはずなんだけど、ブログ用にまとめるのが追いつかず、結局先にデジクリ向けに書いて出しちゃうもんだから、ブログが手薄に。で、デジクリに載せたものをブログ用に「復元」してるわけです。その作業を8か月さぼってました。

夏の大型作品集中制作とGWのIam8-bit作品制作も、さかのぼってアップしました(立体造形/Sculptureのラベル)。まだまだ4〜5年前からの立体制作で載せてないものがいろいろありますが、写真はまとめてあるんで、そのうちアップする予定。

何でそんなことを? ってのは、自分用の記録としてまとまった形でブログに置いておきたいのです。特に制作日記のようなものは、他の人のを見るのが大好きなんで、自分でもやりたいのです。SNSやFlickr等にはすでにアップしてあったりしますが、やはり分散しちゃって全体が見えない。なので、ブログは重要。

あと、ブログは途切れなく連続していることに価値があるとか思ってます。Bloggerに移転する前を含めて10年以上やってるんで、めんどくさいからと止めてしまうともったいない。最近はFacebookに先に書いちゃうからややこしくなる。ブログに書いてそれをリンクすりゃいいだけなのに! 次からはそうしよう。

・レイアウトを変えてみた

テンプレートを今風の動的なものに変えてみた。2〜3年分くらい簡単に見渡せて便利! 従来の表示だと一か月分を見渡すのも一苦労。ざっと一覧するには便利だし見た目も楽しい。見る人が自分で7種類のテンプレートに切り替えられる。

ただ、ラベルやアーカイブなどが右のタブに入ってて、ちょっとわかりにくい。Bloggerの「ページ」を活用すれば、いろんなリンクや案内を置けるわけだけど、やっぱ常時見えてないとわかりにくいな〜。以前もこれにしたことあるけど不評で戻したのでした。表示の不具合もあるけど、飽きるまでしばらくこのままにしておこう。

・Bloggerの容量の謎

ところで以前、Bloggerに載せる写真は800pixel以下は0KBとして扱われるって知って以来、800pixelにしてきた。ふと容量どのくらい使ってるのか見てみたら、Googleのアカウント全体(BloggerやGmailやGoogle+)で消費してる容量は500MBもない! 15GBが無料分で、残り容量97%!! こんなに使っててこの容量ってことはほとんど無限みたいなもんじゃん。

800pixelが効いてるのかなと思ったら、Google+にアップする写真は2048pixel以下は無料って書いてある......800pixelとは別の基準なのか、それとも変更された? 記憶ではBloggerの容量はPicasaウェブと共有で1GBだったと思ったけどなあ。

Twitterで教えてもらった。「Google+が始まったころに、2048px以下無制限に変わってますね」。そうなんだ〜〜〜!! 2048pixelまで0KB扱いって!!! ついさっき、大型作品集中制作の写真を50枚以上、800pixelに加工しなおしてアップしたばっかし。

【吉井 宏/イラストレーター】
HP < http://www.yoshii.com >
Blog < http://yoshii-blog.blogspot.com/ >

先週書いた「僕の3Dプリント作品のストアがオープン」、ぼちぼち告知しますね。3Dプリンタ大手の3D SystemsのCubifyというサイトの中です。この件については後日くわしく書く予定。
Cubify < http://cubify.com >
< http://cubify.com/community/stores/yoshii_store.aspx?hp_bn_yoshii >


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編集後記(10/02)

●テアトル東京で70mmシネラマ「2001年宇宙の旅」を見て感動したのは45年前だ。その前後も東京の映画館で、SF大作をいくつも見たはずだ。もしかしたら「インデペンデンス・デイ」という珍作を池袋で見たのが最後かもしれない。すると、もう15年以上も映画館に行っていない。それから今までは、WOWOWやビデオやDVDで映画を見ている。浦和の一戸建てに住んでいた頃は、大型テレビをセットした映画部屋にこもってSFやホラーを中心に見ていたものだ。しかし、映画館に行かない人生とは正しくないのではないか、そう思わされた本を読んでしまった。

原田マハ「キネマの神様」を読む(文藝春秋/2008、文庫化)。40歳を前に17年かけて積み上げて来たキャリア(シネコン担当課長と年収1000万円)のすべてを捨て去った娘。ギャンブル好きで映画好き、気持ちいいほど無責任、夜逃げも自己破産もひととおり経験して、ようやくマンションの管理人に落ち着いた父・80歳、急病で倒れたあげく多額の借金が発覚。おかしくなるほど似たふたりである。あるきっかけで娘は映画雑誌の編集部で働き出す。そのきっかけとは、誰に読まれるあてもなく、けれど書かずにはいられない映画に対する愛情あふれる、父による文章の数々だ。

映画雑誌社がその文章をつかってブログ「キネマの神様」を開くと大ヒット。専門家が読めば馬鹿馬鹿しいほど一本調子だが、映画愛が満載のお気楽な文章は絶大な支持を得る。ようやく見つけた新しい生きがいに熱中する父。やがて英語版を公開すると、理論は明快、語り口は痛快、熟練の物書きローズ・バッドが参戦してくる。ふたりの戦わす白熱の映画論が絶品である。しかし、しょせんは素人の父、はたしてどうなるか。これに潰れかけた名画座のエピソードも加わり、物語は気持ち良く(出来すぎともいえるが)ソフトランディング。いや〜、面白かった。ちょっと泣けたし。

この小説で繰り返し語られるのは、「いい映画ってのは、映画館で観る。でなきゃ、ほんとの価値はわからない」である。「莫大なお金と時間、情熱と持てる力のすべて。映画人は人生を賭けて映画を世に送り出している。スクリーンに広がる世界に観客をどれだけ引き込めるか。それこそが、もっとも重要な結果なのだ。DVDで観ればいいや、と思われるような映画を作りたい映画人がいるものか」である。「映画は映画館で観てもらう。そのために、すべての映画人が努力してるのよ。そんなこともわかんないの、あんたは」

それは分かる。分かったうえで、わたしは映画館にいる無作法な人がいやでいやでたまらないのだ。申しわけないけど、パソコン画面で勘弁して欲しい。映画への敬意をもって鑑賞しますから。「聞き覚えのあるヴァイオリンの調べ。心に染みわたる、柔らかなピアノの音色。シチリアの海の風景。テーブルの上に盛られた黄色いレモン。潮風の吹き渡る、おだやかな窓辺」で始まるあの名画、久しぶりに見たくなった。市川崑の「東京オリンピック」もな。(柴田)

< http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00DVJ112S/dgcrcom-22/ >
原田マハ「キネマの神様」


●りんごのカタラーナ。サブウェイのサイドメニュー。とても美味しい。おす
すめ!/「毎日ちゃんとアップすりゃ、こんなにまとめてアップしなくていい
のにねえ。」あああ耳が痛い。仕事落ち着いたら、後回しにしている諸々を消
化したらと思っているうちに......。

続き。仕事スケジュールの都合で外出できず。修理しに行く時間はないわと考
えて、ふと以前使っていた3GSのことを思い出す。そうだよ、3GSがあったじゃ
ない! SIMを入れようとしたら、サイズが違う。よしヨドバシで注文だ。

ヨドバシなら当日中に配達してくれる。アダプターを購入し、3GSを取り出し
て充電。やっぱりいいわ、3GSの形。手に持った時しっくりくる。この子の時
はトラブルなかったんだよなぁ。

4Sを買っても3GSは処分しようとは思わなかった。3GSは残しておきたいけど、
4Sは完全に道具扱い。5sを買った後、4Sの処分をどうするか話題になったのは
一週間前。聞いていたのか〜! 続く。         (hammer.mule)

< http://www.subway.co.jp/menu/sidemenu/limited_sideorder/1389.html >
りんごのカタラーナ