[3746] 空を見上げてごらん、俺のハートが見えたかい?

投稿:  著者:  読了時間:32分(本文:約15,800文字)


《心は宇宙にある。》

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夏休みでちょっと暇ができたからって難しめの本を読んだら、もう頭の中が大混乱の嵐。どーすりゃいーのさ、蛸のふんどし。

「心はどこにあるか」という根源的な問いを提示されて、あれやこれやと思考をめぐらしてゆくうちに、ふんどしは八本の足にぐちゃぐちゃにからみつき、抜き差しならぬ状況に陥っている。あ、ここかなそこかなあそこかな、っと。

●そこじゃない

池田晶子『残酷人生論』。軽〜いノリで根源的な問題を語る哲学エッセイ。ライトな調子に引き込まれてほいほい読み進んでいると、いつの間にか思索の泥沼にどっぷり首まで浸かってアップアップしている。大変危険な良書である。

「心はどこにあるか」と問う。脳だと思ってるでしょ、んなわけありますかいな、と、木っ端微塵に粉砕してくれる。科学技術方面に毒された人たちにありがちな思い込みですよ、と。

いわく、「脳をどこまで仔細に腑分けしていったとて、[心]も[私]も出てこない。この部位が[心]であり、この細胞が[私]であると、ピンセットでつまみ上げて示すことができますか。できない理由は明らかだ。[心]も[私]も物質ではないから」。

いわく、「すると、[私]はどこに[居る]ことになるのか」。

この本を薦めてくれた同僚のT氏は、私よりも5年も後から入社してきたのに、体力にものを言わせてバリバリ仕事しまくってきたおかげですごーく偉くなっている、デキる人である。

しかし、そのデキるT氏が、池田氏の文脈を理解した上でのことなのかは不明ながら、いっそう退化した仮説を打ち出してきた。

いわく、「心臓にあるのではないか」と。心臓移植手術を受けた人が、そのときを境に性格や嗜好が変わったりすることがあるらしい。被提供者は原則として提供者に関する情報を一切知らされないルールになっているので、提供者の属性が移ってきたのかどうかは、不明のままであることが多いそうだけれど。

提供者を殺した犯人の顔が浮かんだ、なんて話もあるらしい。真偽のほどは定かではないけれど。

可愛いコを見かけると、脳というよりはハートのほうがドッキンとかずっきゅんとか反応しちゃったりするわけで、確かに心のありかとしては、そっちのほうが近いのかもしれない。

またいわく、「腸かもしれない」と。心配が募って断腸の思いというではないか、と。あるいは、すごい重責を負って心が休まらないと、胃腸の調子に如実に表われちゃったりして、どうも心の調子は胃腸の調子と直結しちゃっているのではなかろうか、と。

どうした? 仕事が忙しすぎるのかい? ものごとの本質にじっくり踏み入っていく心のゆとりがなくなっちゃったか? 京都大学を出ていて、頭はよかったはずなんだけどなぁ。

そんな寄席の大喜利みたいなんでいいんだったら、こっちだって負けずにじゃんじゃん仮説を打ち出しちゃうぞぉ。

「丹田」っていうのも、いい線いってないかい? 武道でもヨガでもダンスでも歌唱でも、体の中心を意識して、気を集中させるポイントとしては、ここだと言われているし。ちなみに解剖学的には、丹田という言葉によって指し示されると思しき臓器はないらしい。

くだんの問いを曹洞宗の坊さんに投げかけてみると、案の定、こちらから仮説を提示するよりも先に丹田説を打ち出された。道元の教えのひとつに「只管打坐(しかんたざ)」というのがある。つべこべ言わずにただ座っておれ、と。

なにも座禅しなくたって、ロダンの彫刻みたいな姿で思索に耽ったところで違いはないんじゃないかと坊さんに問うてみると、「座禅する姿そのものが仏なのです」という。あ、そうか、そもそも座禅においては頭は空っぽにしておくのであった。考えちゃだめなんだった。

そういえば、丹田の近所にもソレっぽい臓器がありますな。俗に「へそ下三寸」というとき、丹田を指すのかそっちを指すのか、ややこしいアレ。

世の中を広く見渡してみるまでもなく、下半身方面からの指令が行動の大部分をつかさどっていて、そのリビドーの命ずるまま忠実に生きているのではなかろうかとみえる面々、そこらへんによくいたりしますな。

可愛いコを見かけると、頭で考える前に、気がつくと口説き始めてるやつとか。「ハートがビンビンだぜぃ」とか。あ、そこ、ハートじゃないから。行動の根っこを支配しているのは、やっぱり下のほうにぶらぶらしている根っこなんじゃないかと。下心とは文字通り、下のほうにある心だったと。

って、高尚なテーマで始めたはずなのに、議論は質量をもつとみえて、重力に引っ張られて下へ下へと下がっていきますな。続ければ続けるほど、どんどん不毛な領域に陥っていきそう。

ちなみに私はすね、毛を剃った際、勢い余ってついついソッチのほうまで剃っちゃって、パイパン状態である。あ、それは無毛な議論だったか。

やめやめ。だからそもそもそっちじゃないんだってばさってばさってばさ。

●ない

変な方向に行っちゃった議論は一度リセットして、最初っからやりなおすしかない。先ほどの池田氏の言説に立ち返って、しかし、結論をほんのちょこっとだけいじってみましょう。

「脳をどこまで仔細に腑分けしていったとて、[心]も[私]も出てこない。この部位が[心]であり、この細胞が[私]であると、ピンセットでつまみ上げて示すことができますか。できない理由は明らかだ。[心]も[私]も気の迷い、錯覚・幻想のたぐいであって、そもそも存在しないのだから」。

私はこの立場をとる。決定論的唯物論。ド・ラ・メトリの『人間機械論』には次のように書いてある。「人間は機械である。また、全世界には種々雑多な様相化の与えられたただ一つの物質が存在するのみである」。

さらに、魂について、次のように言っている。「魂のすべての能力は脳の組織そのものならびに体全体に依拠しており、否、あきらかにこの組織そのものにほかならない以上、これは誠に経験を積んだ機械と言うべきである」。

我々人間といえども、肉体という現実存在は、物質によって構成されている。物質と別個に精神が存在するわけではない。物質の構成のしかたによって、われわれが「精神」と呼称するような現象が生じるにすぎない。物質である以上、ニュートン力学のような物理法則の支配からまぬがれることはできない。

万有引力と電磁気力の作用を受けた物質の動的挙動を扱う古典力学において、物理法則は、線形の微分方程式で記述されている。その解は、初期値が定まれば、一意に定まる。つまり、最初の状態さえ設定しておけば、その後の時間経過にともなう振る舞いは、すべて必然の法則によって決まっていくのである。神様でさえ、途中で手出しすることはできない。この宇宙は運命をただなぞっている にすぎない。

自意識とか自由意志とか感情とか欲望とか、我々にはそういったものが確かに備わっていて、また、肉体とは別個に精神というものが働いていて、その作用によって、創造的に活動することができるものと感じることができる。それをもってして、われわれは機械とは一線を画する高等の存在であると自己認識したいものである。その感じは認める。

しかし、真相はどうかというと、それらは全部錯覚・幻想であり、実は、[私]も[心]も存在しない。たぶんしないと思う。しないんじゃないかな。

しばらく前に『ドラえもん』の「ひみつ道具」のひとつである「どこでもドア」の動作原理について解説した。あれをもう一度引っ張り出そう。

これは思考実験の一種である。今現在、科学技術の到達度が未熟であるために「どこでもドア」がまだ実現できていないということではなく、もしかすると実は原理的に不可能であって、将来にわたっても実現されないのかもしれない。

しかし、そうだとしても、もし実現できたらという仮定の上で、いったいどんな帰結が引き起こされるだろうかと論理的に思考することは可能である。根源的な問いに 対して答えを探求し、モノゴトの本質に迫るためのアプローチの方法論として、思考実験はある。「シュレーディンガーの猫」も「マクスウェルの悪魔」もその例である。

「どこでもドア」は二つのユニットからなる。

第一のユニットは究極的に精密なCTスキャナ。任意の物体を非破壊でスキャンして、分子レベルの精度をもって三次元的構成情報をアウトプットする。

第二のユニットは究極的に精密な3Dプリンタ。分子レベルでの構成情報をインプットとし、そのレベルの精密さをもって三次元物体を形成する。

「どこでもドア」の場合は、いちおう「移動装置」なので、移動対象のコピーを出力した後、コピー元を消去する必要があった。しかし、その工程を省略すれば、3次元コピー機として機能する。

孫悟空は、自分の毛をピッと抜いてプッと吹くと、自分のコピーが量産されるという妖術を心得ていたが、それに相当することができるようになる。

ここで、二つの問いを提示しよう。

(Q1)出力されたのび太くんのコピーは、いかなるものか

(A1_1)そこには肉体だけあって生命が不在なので、のび太くんの死体のようなものがごろっと転がっているだけである
(A1_2)そこには生命を宿した肉体があるが、精神が不在なので、植物人間のような状態でただ生きているだけののび太くんがいる
(A1_3)そこには生命も精神も宿した肉体があるが、過去の経験が不在なので、精神は生まれたてのようなのび太くんがいる
(A1_4)そこには生命も精神も宿した肉体があり、過去の経験の記憶もコピー元のものが移植されてきており、本人にとっても周囲にとってもコピー元と判別のつかない完全なのび太くんのコピーがいる
(A1_5)その他

(Q2)コピー元ののび太くんとコピーののび太くんとでじゃんけんをするとどうなるか

(A2_1)通常のじゃんけんと同じく、それぞれがそれぞれの意志で出した手にしたがって勝敗が決まる
(A2_2)いつまでもあいこが出続ける
(A2_3)その他

私は、いまここでは、いちおう(A1_4)、(A2_2)の立場をとる。

宇宙空間を満たしているのは物質である。我々の肉体もその例外ではなく、物質である。物質の背後には、その挙動を支配する統一的な物理法則が、おそらく存在して、すべての物質の挙動はその物理法則の支配をまぬがれることはできない。

どこかに反逆分子(←この「分子」はシャレですよ)がいて、人間の観察をまぬがれつつ、自由意志をもって、物理法則に逆らった挙動をとっているとは考えづらい。

仮に物質とは別個に精神というものが存在していたとしよう。宇宙は物質と精神との二つの要素から構成されるという実体二元論。

精神とは抽象概念であって、物理的な現実存在とは別なんだ、と。だから、精神のことと物質のことは分けて考えましょう、と。

物理界隈は物体を関心対象として、数式などを駆使して物理の言葉で語ればいいし、思想界隈は精神を関心対象として、自由な言葉で語ればいいし。はい、さようなら〜、っと。それはそれで分かりやすいし、別に構わない。

ただしそれは、精神界が物質界になんら影響を及ぼさないという条件の下でのことである。

数学者が、複素数とかイデアルとかベクトル空間とか多様体とか、抽象概念を次々にひねり出してきたところで、それらの抽象概念がこっちの物質世界に直接的に手出ししてくるわけではないので、日々忙しく現実生活を営む我々は、そーっと放っておけばいいのである。

しかし、もし、精神が「俺はこうしたいんだ」という意志をもって、物質世界に手出しできるのだとしたら、それはゆゆしき問題である。そこで物理法則が崩れることになる。もし精神が、物理法則に逆らって、物質世界に手出しができるのだとしたら、それはいったいどういうメカニズムにしたがってなされるのか、物理学は、それまで取り込んで探求しなくてはならない。

それよりか、「自意識も自由意志も心も、気の迷いから来る錯覚であって、そんなものはありませんよ」と言い切ってしまったほうが、物理学者にとっては楽である。私は物理学者ではないけれど、とりあえず、楽をしたい。

これもまた、物質界から思想界への「はい、さようなら〜」の決別宣言には違いないのだが、「あんたら、何をどう語っても構わないけど、精神なんて丸ごと全部錯覚ですからねー」と最後っ屁をかまして去っている点が異なる。二元論ではなく、唯物論。

我々は、原理的には機械と変わりない。ソニーのAIBO(アイボ)の、もうちょっと出来のいいやつ。

なので、もし分子レベルの精密さで、私のそっくりなコピーが生成されたとしたら、そこにいるのは、生命も、自意識も、心も、感情も、欲望も、自由意志も、過去の記憶も、趣味嗜好も元と同等に備えた、完璧なコピーそのものであろう。よって、上記(A1_4)の立場をとる。

ついでに言い添えておくと、コピー元である我々本体の側でさえ、分子レベルでの入れ替えはしょっちゅうやっている。食ったものを原料として、各パーツを新しい材料で置き換えている。機械であれば、傷んだパーツを交換すれば修繕されるわけだが、生物においては、傷んだパーツも傷んでないパーツも、しょっちゅう新品と交換している。

しばらく経つと、分子レベルでは、ほぼ総入れ替えになっているのである。これって、コピーとなんら変わりないのではないかと。

機械と、その複製がじゃんけんをしたら、あいこが出続けるであろう。

通常の感覚からすると、グー、チョキ、パーのどれを出すかは、この私が自由意志を発動して決定している。そうは言っても、いったいどこからグーが浮かんできたのか、なかなか説明しづらいのではあるまいか。

ぱっと浮かんだのではなく、さまざまな思考を経て決めたのかもしれない。相手の頭にもグーが浮かんでいるかもしれないから、その裏をかいてパーを出してやろうとか。そのまた裏をかいてチョキを出してやろうとか。

しかし、人間機械論の立場に立つならば、相手の頭の中でも、同じ物理作用が起きていることになるから、まったく同等の思考経路を経て、その結果、あいこしか出ませんわな。よって、上記(A2_2)の立場をとる。

すべてが一定の物理法則の下で、必然の運命をなぞって進行している世界を「決定系(deterministic system)」という。決定系の物理法則にしたがって、いま、この文章が生み出されているというのも、それはそれで、なかなか不思議な感じのすることではあるのだけれど。

これまで自分の強固な意志をもって、さまざまな努力をしてきたつもりだったのに、実はパチンコ台の中を落下していくパチンコ玉となんら変わりなかったとは、って、この文章を読んだら急にやる気をなくしちゃったよ、と思う人がいるかもしれない。それは、そもそもこの文章を読むことになったということまで全部ひっくるめて運命だったのである。お気の毒さま。

エルディシュは「数学者とは、コーヒーを定理に変換する機械である」と定義づけた。

●デカルトの方法的懐疑を懐疑する

デカルトは著書『方法序説』の中で、「われ思う、ゆえにわれ在り」と述べている。その意味するところは、およそ次のとおりである。

感覚はあざむかれやすい。腕を切断した人に聞くと、感覚的にはまるで腕がまだあるかのように錯覚することがあるという。だから、宇宙の真理を探究するためのツールとして、感覚は当てにならない。

どんなに疑っても、否定しきれない、絶対に確実に正しい命題が、この世にひとつくらいはないものかと思索した。そしたらはっと気がついた。思索していること、そのこと自体だけは疑いようがないではないか。

そうだとしたら、論理的に言って、その思索ということを為している主体は必ず存在しているはずだ。

「動作が起きていること」が確実なのであれば、「その動作をなしている主体が存在する」ことも同等に確実であろう。これは、論理。感覚よりは、論理のほうが、宇宙真理探究ツールとして信頼するに足る、強固な力をもつはずだ。

だから「われ思う、ゆえにわれ在り」。哲学は、ここを出発点として、論理をツールとして用いつつ、発展させていくのがよいのではないか。これが『方法序説』の主旨である。

この論理の部分を、もうちょっと精査してみよう。

例えば、「何かが空を飛んでいる」という現象が起きているのが確実である場合、その飛んでいる主体は鳥かもしれないし、飛行機かもしれないし、あるいはスーパーマンかもしれないし、使い古しのコンビニ袋かもしれないけれど、少なくとも、その飛んでいる主体たる「何か」は確実に存在しないわけにはいかないだろう、と。

例えば、いま「1たす1を計算して2という答えをアウトプットした」という現象があったとしよう。計算したのは、コンピュータかもしれないし、人間かもしれないが、少なくとも「計算する」主体が存在していたことは確実であろう。

「思索している」という現象が確実なのだとしたら、その思索内容が正しいか正しくないかにかかわらず、その思索を為している主体は確実に存在しているであろう。その主体がスーパーマンかゴミかは分からないけれども、少なくとも何かが確実に存在しているので、それを仮に「私」という名前をつけて呼んでみても構わないであろう。

その限りにおいて、「われ思う、ゆえにわれ在り」は正しい。

しかし、しかし、である。その思う主体が、我々が通常言うところの「心」や「自意識」や「自由意志」を備えた「私」であるのかどうか、そこは論理的に言って自明ではないのだ。思考する主体が存在したからといって、その主体が自意識を備えた「われ」であることについては、ちっとも証明できていない。

先ほどの 1 + 1 の計算の例を振り返ってみよう。計算する主体が存在していること自体は確実だったとしても、もしその主体がコンピュータだったとしたら、それは「われ」という言葉で言い表されるような自意識をもった主体ではないかもしれない。

「よーし、これから 1 + 1 を計算するぞぉ!」という意志をもって計算を始めたわけではなかろう。また計算し終わって、「ドヤァ! 見てみぃな!」と勝ち誇った気持ちになったわけでもなかろう。

しょせんは機械である。あらかじめプログラムした通りに動作しているだけのことである。そこに自由意志や感情は介在しない。2という答えを出力したついでに「ドヤァ!」という言葉も出力して、勝ち誇ったように見せかけるプログラムを書いておくことはできるけど。

デカルトは、動物までは機械のように動作しているけれども、人間だけは別で、精神という特別なものが備わっているという世界観をもっていたようである。しかし、それは感覚的なものなのか、論理的な根拠があってのことだったのか。

精神界と物質界とを橋渡しする器官として「松果体」というものを考えたようだが、あれはどうも後の世の人々の検証に耐えうるものではなかったようで、あっちの世で恥ずかしさに七転八倒したりしてないだろうか。

かと言って、あれから400年近く経った今、「精神と物質とを橋渡しするものは何か」という問いに対して、答えが見つかったわけでもない。じゃあ、やっぱりないんだよ。精神のほうが、丸ごと。

「われ思う、ゆえにわれ在り、されどわれなし」では、いかがだろうか。

●ポストニュートン物理学ではどうか

線形微分方程式の解の存在と一意性の定理に依拠した、決定論的世界観は、ニュートン力学のものである。それ以降、ニュートン力学では説明しきれない現象が発見され、物理学者はそれらの現象をも包摂する新たな理論の構築を余儀なくされた。

第一に、光速が不変であることや、一定の力を受けた物体が光速に近づくにつれて加速しづらくなる現象などが観察され、相対性理論が生み出された。

時間軸というのは、宇宙全体にわたってその進行を仕切る、一本の座標軸のようなものではなく、この物体に流れる時間、あの物体に流れる時間、と相対的に規定されるべきものという見方が主流になってきた。

遠くの星から地球に届く光は、何万年にもわたって宇宙空間を旅してきたものがあるが、しかし、旅している本人の光にとっては、時間はまったく経過しておらず、いつでも生まれたてのほやほやだったりする。

第二に、二重スリット実験によって、粒子の波動性が観察され、量子論が生み出された。粒子というのはパチンコ玉のようにパッキリしたものではなく、観察・特定の手をすり抜ける、茫洋としたものだという見方が主流になってきた。

それら二つの理論をがっちゃんこして統一理論を打ちたてようとしたら、数学的におかしなことになっちゃって、両者を矛盾なく包摂した統一理論を打ち立てるためには、この世界は11次元であるという妙な仮定を導入しなくてはならないという、とてつもなくややこしい事態に陥った。超ひも理論である。

我々が日常の実生活を指していう「現実」という言葉と、物理学者が正しく捉えようとして必死になっているものを指していう「現実」という言葉とは、なんだか著しく乖離しているような気がする。

ニュートン以降の物理学の進展により、この世はいったいどういう仕組みになっているんだ、という根本的な原理にまつわる世界観が著しく変化してきた。特に、決定論的な世界観は過去の遺物のようになってきている。

では、その世界観の修正にともなって、先ほどの人間機械論は、どれほどの修正を余儀なくされるであろうか。さほどでもないように思う。

非ニュートン物理学を導入しないと説明しきれないような現象というのは、やたらと壮大な天体レベルのことか、やたらと微小な素粒子レベルのことに限られる。

日常起きる現象において、そんなたいそうな理論を持ち出さないと説明のつかないような現象は、そうそう見かけない。シュレ猫は実際にはいないし。

脳内で起きている意識作用のレベルの現象について、素粒子レベルの特殊な現象が関与しているとは考えづらい。超ひもみたいな大仰な理論を持ち出す必要性を感じないのだ。

それに、ポストニュートン物理学をざっと眺めてみても、それによって自意識や自由意志の存在が示唆される方向になってきているという感じがぜんぜんしないのだ。

そんなものは錯覚・幻想であるという強弁を押し通しておいても、まだまだ行き詰りそうな感じがしないのである。

●あっちあっち

我々の脳は、約140億個の神経細胞(とその他の細胞)によって構成されている。神経細胞どうしは、シナプス結合によって、情報のやりとりができるようになっている。

一個一個の神経細胞は、今までのところ人類が得た知見によれば、まるで機械のようにしか動作していない。一個の神経細胞は、シナプス結合された周辺の神経細胞から、強弱の値をもった電気信号を受け取り、それらの重みつき総和をとり、得られた値に対してシグモイド関数を通すことによって出力値を獲得し、その値にそれぞれの重みをつけて周辺の神経細胞に伝達する。

あと、情報伝達の結果はその神経細胞自身にフィードバックされ、結合状態や重みづけは常に変更されている。

しかし、ただそれだけ。およそ機械のようにしか動作しておらず、その機能自体の中に、自意識や自由意志の存在を示唆するような要因は見当たらない。

そんな単純な機構しかもたない脳神経細胞が140億個も集まると、その総体として、我々が精神とか自意識とか自由意志とか思考とか感情とか趣味嗜好と称するような諸現象が起きるらしい。

とうてい信じがたい感じのする説ではあるが、今のところそうとされているらしい。個々の構成要素はごく単純な機能しかもたないのに、それらが大量に集まると、その総体として新たな性質を帯びてくる現象を称して「創発 (emergence)」という。脳は創発の実例と考えられている。

そうは言っても、機械はいくら大量に集まったところで、しょせん機械であることには変わりない。自意識や自由意志は、見かけ上、あるようにみえるというだけであって、実際には、やはりないのではなかろうか。

まあ、自意識や自由意志が錯覚だったとしても、ではいったいなぜ、どんなメカニズムによってその錯覚が引き起こされるのであろうか、という疑問は、根源的な問いとして、あるのだけれど。

機械とそのコピーがじゃんけんをしたら、あいこが出続けるであろう。

しかーし。

脳は、外界から入ってくる情報を常に取り込んでいる。五感というセンサから入ってくる信号が、神経細胞をリレーして脳に伝えられ、それによって、脳神経細胞のうちのいくつかが影響を受けて、結合状態や重みづけが変化する。

終わりなき連続あいこのじゃんけんを続ける二人に、一陣の風がさっと吹いたとしよう。風は、一人にはよく当たり、もう一人にはよく当たらなかったとしよう。当たったほうは「ああ涼しい」と感じ、当たらなかったほうはそう感じなかったとしよう。

この瞬間、二人はもはや同一ではなくなっている。脳神経細胞の状態に差異が生じ、二人は分岐した。その時点ではまだ、取るに足らない、些細な差異が生じたにすぎないかもしれない。しかし、そのちょっとした分岐を端緒として、二人の軌道はどんどん離れていき、ついには、アウトプットに影響を及ぼすまでになり、いつかはあいこではない手が出て、勝敗がつく。

勝ったという経験を獲得した一人と、負けたという経験を獲得したもう一人。この経験の違いは、二人を決定的に別離させる。

外界からの刺激なしには、我々は各自が独自の存在として分化していくことはできない。個性を作り出す要因は、中にではなくて、外にある。すなわち......

心は宇宙にある。

宇宙は我々みんなを包み込み、我々みんなで共有している。我々の心のありかは、そこである。かくして、我々みんなの心は、みんなで共有する宇宙を通じて、原理的につながっているのである。これを「絆」という。

心の在宇宙論は、私の発明ではない。

道元は『正法眼蔵』という95巻にわたる書を遺した。そこには、下記のような意味のこと(と私が解釈したこと)が書かれている。

宇宙のことすべてを知りたいのであれば、宇宙の隅々まで旅行して、見てこなくてはならないのか。いやいや、そんなことはない。

宇宙全体にわたる空間内の各点は、自分の心の内部全体にわたる空間内の各点と1対1に対応している。だから、自分の心の中をくまなく精査すれば、それは、宇宙の隅々まで行ってきたのと同等のことに相当する。

だから、只管打坐。つべこべ言わずに、座っておれ。

全宇宙などという馬鹿でかいものが、自分の内部なんていうせせこましいところに入ってきたら、容れ物たる自分は、壊れてしまいはしないか。

いやいや、そんなことはない。それはあたかも月が水面に映っているようなものである。月は濡れないし、水面はゆらぎもしないでしょ。

さて、ここまで論を運んでくる過程で、私は心のありかについて、三つの仮説を提示した。
(1)心は脳か内臓にある
(2)心はない
(3)心は宇宙にある
ある ─ ない ─ ある。

道元の95巻の『正法眼蔵』の中で、最も中心的で、なおかつ最も難解であると言われている巻が『現成公案(げんじょうこうあん)』である。そこには次のことが書かれている。

 諸法の仏法なる時節
 すなはち迷悟あり 修証あり
 生あり 死あり 諸仏あり 衆生あり

 万法ともに われにあらざる時節
 まどひなく さとりなく
 諸仏なく 衆生なく 生なく 滅なし

 仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに
 生滅あり 迷悟あり 生仏あり

ある ─ ない ─ ある。

「心は宇宙にあり」とは、道元の教えなのである。

みなさん、空を見上げていただくと、私のハートが見えることでありましょう。
あ、ここかなそこかなあそこかな、っと。

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
セーラー服仙人カメコ。アイデンティティ拡散。
< http://www.growhair-jk.com/ >

最近もちょこちょこ活動してます。

7月13日(日)、早稲田塾の特別公開授業があり、「Rich & Happy人生のススメ!」というテーマで一席ぶってきました。レポートが早稲田塾のサイトに掲載されています。
< http://www.wasedajuku.com/school/wasedane/all/detail.php?itemid=3491 >

CNNが取材に入り、レポートしてくれました。
< http://edition.cnn.com/2014/07/19/world/asia/japan-inspirational-cross-dresser/ >

7月17日(木)、プールに行ってきました。飛込み台からジャブーン。ポニーキャニオンから今年4月にデビューしたアモウミコ (Amour MiCo)さんの新曲『JaBoom JaBoom feat.B-Bandj』のプロモーションビデオ収録だったのでした。

Ladybeard氏から来た話。アモウミコさんがツイッターでネギを散歩させてる人を目撃したとつぶたいていたので、長沼真彦氏にも声をかけてみた。ネギやトウモロコシやタワシを散歩させてる人。

声をかけたのが収録の前日だったにもかかわらず、来てくれて、スーツ姿でタワシを散歩させながら、ジャブーン。ずっと前に行った秋葉原の女装メイド喫茶「雲雀亭」の茶漬けたんにも久々に再会。

PV 動画:
< >
メイキング:
< >

8月2日(土)、3日(日)お台場で「東京アイドルフェスティバル(TIF)2014」が開催され、見てきました。「世界最大のアイドルフェス」と謳うイベントで、お台場・青海周辺エリアの8か所のステージで同時進行でした。
< http://idolfes.com/2014/ >

「天使すぎるアイドル」としてネットで話題になっている「Rev. from DVL」の橋本還奈さんのステージを最前列で見てきました。福岡の地元アイドルに可愛いコがいると、写真がネットにアップされて、話題に火がついた人。まあ、可愛いのもさることながら、ステージパフォーマンスやMCがちゃんとできてて、盛り上げ上手。グループとして、すごくしっかりしている印象でした。

1日目、「アイドリング!!!」の菊地亜美さんと握手。ステージ前と後の2回。立ち見エリアの脇を通るときに。向こうから手を差し伸べられて。どうやら私のことを知ってたようで。何も買ってないのに、すみません。目立つって、得かも。2日目に卒業宣言してびっくり。

「さくら学院」は、派生グループの「BABYMETAL」と掛け持ちしている二人のメンバー、菊地最愛と水野由結が欠席。レディー・ガガのライブに出演するためにアメリカに行っていたため。その埋め合わせ(?)に卒業生の堀内まり菜と飯田來麗がサプライズ出演。ファン、感涙。
すげー日焼けしました。

8月11日(月)、赤坂BLITZで「東京コレクションズパーティー」というファッションと音楽とコメディーのイベントが開催されました。豊田冴香と私はファッション枠で出演。セーラー服のペアルックで。
< http://www.tokyo-collections-party.com/ >

トウモロコシおじさんの長沼氏が、タワシを散歩させていたら、主催者にナンパされて出演話を持ち掛けられたんだそうで。目立つって得かも。本人は出演せず、会場をうろうろ。Ladybeard氏は音楽枠で単独出演。

8月15日(金)〜17日(日)はコミケ。最近は撮られてばっかりで撮ってるヒマがぜんぜんありません。撮らないカメコはただの豚。Ladybeard氏も来てるって何人もの人が教えてくれたんだけど、会いに行けませんでした。

日々がばたばたばたばた過ぎていく。


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編集後記(08/22)

●オールタイム・ベスト日本映画遺産【心に残る珠玉の10本】を、この夏休みですべて見た。じっさいは12本であった(7位が4本、10位が2本)。名作となると図書館でもいくらかはDVDを備えている。川口市と戸田市の図書館で見つけたのが7本あったから、レンタル料は600円くらいで済んだ。わたしは大きな音声では再生しないから、ときどきセリフが聴き取れないことがある。むしろ昔の映画の方がよく聴き取れると感じるのは、役者の発音がはっきりしていたからではないだろうか。最近の日本映画DVDを見る時、聴覚障害者用字幕があれば使う。ストレスなく見られる。

第2位の「七人の侍」を見た(1954)。解説の見出しは「映画の枠に留まらないエンタテインメントの金字塔」とある。それは認めざるを得ない。もう何度も見ているので、ストーリーはすっかりわかっているが、飽きることがない。3時間半はさすがに長いので、二日かけて見た。前半は七人の侍集めのエピソードと村で戦いの準備、後半は野伏りの集団との戦いが描かれる。じつに面白かった。さすがの黒沢作品であるが、長すぎるからカットしてもいいようなエピソードもあるような気がする(言い切る自信はない)。

第7位「羅生門」も黒沢作品である(1950)。日本映画初となるヴェネツィア国際映画祭金獅子賞とアカデミー賞名誉賞を受賞した名作だ。ストーリーは芥川龍之介の短編「藪の中」をアレンジし、語られる舞台が短編「羅生門」ということか。平安時代、とある山中で起こった侍殺しを、当事者である3人(盗賊、死んだ侍の妻、霊媒師に降りた侍の霊)がそれぞれ異なった証言をする。その証言通りの3つの異なった顛末が展開される。見ていておおいに混乱させられる。だが最後に、現場の一部始終を見ていたという杣売りが真実を語る。3つの言い分はそれぞれ自分を有利に導く偽りだった。杣売りにしてもそうだ。人間のエゴイズムとは醜いけれど面白い。自分に関係なければ。

第7位「丹下左膳餘話 百万兩の壺」は1935年(昭和10年)の作品だ。片目片腕のニヒルな剣豪・丹下左膳や「こけざるの壺」は知っているが、それは漫画で得た知識である。子供の頃テレビ映画で見たことがあるかもしれない。この映画の山中貞雄監督も、主演の大河内傳次郎も知らない。出てくる役者の誰も知らない。左膳は矢場の女将のヒモで、ニヒルどころか陽気なお人好し。女将と孤児ちょび安との疑似家族的エピソードが笑える。百万両の在処が塗り込められたこけ猿の壺をめぐり、柳生一門との争奪戦もあるが、全体にコメディ演出がなされていて、今見てもモダンで明るい時代劇だ。79年も前にこんなに面白い映画があったとは驚きである。最高です。(柴田)

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七人の侍

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羅生門

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丹下左膳餘話 百万兩の壺


●GrowHairさんで驚くのはもうやめだっ(笑)!/名作をいつかは見ようと思いながら......。

「アナと雪の女王」をBDで見た。この映画の人気は、オラフ(夏に憧れる雪だるま)が引っ張っていると思う!

超ポジティヴで、最初の「なんだこいつ?」な印象から、呆れに変わり、そのマイペースさにぐいぐい引っ張られ、だんだんと好きになり、この映画には君がいないとだめよ、という気持ちになっていく。

雪だるまのくせに、顔が細長く、向こうではどうかわからないが、日本ではかわいいという部類には入らない。なのに終わった後は愛しい。キーホルダーやぬいぐるみが欲しいのだが、どれも顔が丸っこくて、オラフじゃない。そっくりなキーホルダーがあるが、樹脂製で持ち歩くには重すぎる。

予告とBDに収録されている台詞が違っていて(「ハグがだーいすき」→「ギューッとだきしめて」)、わかりやすく変更されていくんだなぁ、工夫されているんだなぁと思ったよ。(hammer.mule)

< http://ugc.disney.co.jp/blog/movie/article/anayuki-olaf?category=anayuki >
オラフ

< http://ugc.disney.co.jp/blog/movie/category/anayuki#videoArea >
MovieNex予告。「ハグがだーいすき」

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アナと雪の女王 本編プレビュー映像

< http://ymall.jp/store/asshop/toy-olaf/ >
ぬいぐるみだと、これが一番似てる。売れ切れか

< http://www.toysrus.co.jp/s/dsg-472748700 >
重い