Otakuワールドへようこそ![263]意識は機械に宿るのか? 受動意識仮説と幸福学と仏教
── GrowHair ──

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「日本からシンギュラリティを起こそう」との狙いを掲げ、神戸大学名誉教授・松田卓也氏が議論の場として立ち上げた『シンギュラリティサロン』は大阪で開催されており、それの第22回:2017年5月27日(土)と第23回:7月9日(日)を聴講してきて、7月21日(金)にレポートした。

題して『意識は機械に宿るのか?人工知能研究の最前線より』。
https://bn.dgcr.com/archives/20170721110100.html


シンギュラリティサロンは東京でも開催されている。それの第21回が8月20日(日)に大手町で開催された。

登壇したのは、受動意識仮説についての著書のある、慶應義塾大学の前野隆司氏。演題は『受動意識仮説と幸せ』。今回はこれをレポートしたい。




●『シンギュラリティサロン@東京#21』8/20(日)聴講レポート

名称:シンギュラリティサロン@東京第21回公開講演会
日時:2017年8月20日(日)1:30pm〜4:00pm
場所:サンケイプラザ310号室
主催:シンギュラリティサロン
共催:株式会社ブロードバンドタワー
講師:前野隆司(慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネージメント研究科教授)
演題:『受動意識仮説と幸せ』
講演概要:まず、意識に上る「自由意志」は無意識的な自律分散的過程の結果を追体験し、エピソード記憶するための機能であるという受動意識仮説について述べる。次に、受動意識仮説と仏教の関係、幸せな心の状態との関係について述べる。
定員:100名
入場料:無料
http://peatix.com/event/288193



【タイムテーブル】

13:30〜15:00 前野隆司氏(慶応義塾大学)講演『受動意識仮説と幸せ』
15:00〜15:30 自由討論


【ケバヤシが聴講する狙い】

意識の謎については、私自身、自分の意識が捉えられていて、気になりすぎるあまり、それ以外の、特に実利追求的な方面への関心が霞んでしまうほどであった。

関連テーマの講演なら、ハナっから自分の理解を超越しているような超難解なものでない限り、一も二もなく聴講しなきゃ、という思いがある。その意味において、今回の講演を聴講しないという選択肢は、自分的にありえない。

受動意識仮説についての前野氏の著書は、以前に読んでいた。

前野隆司「脳はなぜ『心』を作ったのか『私』の謎を解く受動意識仮説」
筑摩書房(2010/11/12)

意識の謎について、理工学的な観点からアプローチし、真剣に考える姿勢に対して、僭越ながら、戦友的な共感をもった。

しかしながら、科学的に未解決のこの問題に対し、どの仮説を支持するかという、みずからの立場の置き方については、同類にくくるのがまったく不可能な、きっぱりとした相違があることも感じていた。

私は前野氏の上述の著書を読む前に、ベンジャミン・リベット氏の著書を読んでいた。

ベンジャミン・リベット(著)、下條信輔(翻訳)
『マインド・タイム脳と意識の時間』岩波書店(2005/7/28)

なので、「意識は遅れてやってくる」ことの科学的立証については、リベット氏からすでに衝撃を受け終わっていた。前野氏の著書で受動意識仮説について読んだときは、「ああ、あれのことね」と思っただけで、それ自体から新たな衝撃を受けることはなかった。

この領域の研究者であれば、リベット氏の実験について、知らない人はいないであろう。自由意志が発動するタイミングについて示された実験結果は、われわれの感覚と相容れないものがあり、たいへん衝撃的なので、一般の人々の間でも瞬く間に情報が広まるであろうと思っていたが、出版から12年経った現時点においても、それほどでもない。

リベット氏の著書が、あまりにも専門的すぎたというのも一因だったかもしれず、前野氏が平易に書いた著書を世に送り出したり、ユーモアたっぷりの講演をしたりする活動は、伝道師としての役割を負う、たいへん意義深いものと感じられる。

しかし、一方、不満がないわけではなかった。リベット氏の実験結果をストレートに受取ると、自由意志というものは錯覚であって、ほんとうはなかったってことになる。

昼飯にラーメンを食うか、ハンバーガーを食うか、自分で決められる気になっているが、そんな自由はもともとなく、あらかじめ決まっていたことを、自分が決めたと錯覚してただけ、ってことになる。

極端な解釈をすれば、宇宙の開闢以来、すべてのことが運命として定まっており、われわれは一本道のレールに沿って進んでいるだけってことになる。

いま書いているこの文章だって、物理法則にしたがって機械的に出力されているだけであり、自分で考えて創造しているわけではないのだ。

裁判だって成り立たなくなる。やっちまうか、思いとどまるか、選択肢があったのだとしたら、間違った選択をしたことに対して、あんた責任取りなさいよ、償いなさいよ、と言えるけど、もともとそんな選択肢はなく、一本道だったならば、「こいつが悪い」とは言えなくなるのだ。

ただ、逆に、自由意志は本当はなかったのだとすることで、すっきりする側面もある。

もしわれわれに意識があるのだとしたら、脳を構成する要素である、脳細胞の一個一個にも小さい意識が宿っているのか、って話になる。しかし、今のところ、そういう兆候は発見されていない。

また、さらに、もし脳細胞に意識が宿っているのだとしたら、それを構成する要素である原子一個一個にも小さい意識が宿っているのか、って話になる。それは、どうにもおかしい。

個々の構成要素が大量に集まり、非常に複雑に配線され、階層的な構造をもつとき、下位の構成要素になかった属性が、上位の階層において湧き出てくることがある、という考え方もある。創発説という。

創発的な現象って、たしかに世の中にあるにはあるけど、意識やら自由意志やらをそれで説明しようとするのは、どうも無理くりな感じがする。

自由意志なんて、最初っからなかったんだ、ってことにすれば、ここのモヤモヤが解消して、一気にスッキリする。受動意識仮説、目から鱗のコペルニクスの卵(←テキトー)なのだ!

ただ、われわれ自身が実は思いのほか不自由だった、というか自由なんてひとかけらもなかったんだ、って受け容れられるかどうかである。

リベット氏は、受け容れられなかった。自分で発見したことなのにねー。あまりにも感覚に反しすぎる。実験の組み立て方の論理にどっか穴が空いてたのではあるまいか、自由意志を発動する機会が他にどっかにはあるのではないか、と、さんざんあれこれ悩んでいる。

そこを大胆にばっさりと切り捨て、なーんだ、意識も自由意志も、本当はないんじゃん、と単純に割り切っちゃったのが、前野氏の著書である。その割り切りっぷりのよすぎるのが、ちょいとばかり不満なのだ。

真っ暗闇に球体を浮かべ、側面から強烈な光を当てれば、半月状にみえる。本当の実態は丸なのに、半分に光を当てないことで、見えなくしている。前野氏の著書から、そんな感じを受けたのだ。

意識や自由意志が本当はなかったのだとしても、われわれの側は、感覚的に、それらがあるかのように錯覚している。しかし、現時点のロボットには意識が備わってなく、そのような錯覚すらしていない。

この、錯覚しているか、いないか、の違いは大きく、そこが意識のあるなしを分かつポイントなのだと思う。

じゃあ、この錯覚は、一体どういうメカニズムによって起きるのだ、という疑問は、まったく解消されていない。「クオリア」の問題とも言い換えられる。

リベット氏の実験は、意識の謎を解く上では、たいへん基礎的なところでの大きな前進には違いないけど、しかし、謎は謎として、依然としてデンと横たわっており、少しも小さくなってはいないのだ。これが解けるまで、あと300年はかかると私は踏んでいる。

意識が錯覚だったからといって、即座に、われわれはロボットと同等の存在である、とはならないと私は思う。また、ロボットに意識を宿らせるのは、簡単にできる、ってことにもならないと思う。

人もロボットもいっしょくたとは、中間のところを一気にすっ飛ばして、ちとばかり短絡的なのではあるまいか。そこのところをよくよく聞いてみたい。

前野氏と私の立場の違いをもう少し明確化して述べると、次のようなことになるのだと思う。

まず、受動意識仮説そのものは、私も支持する。リベット氏があれだけ綿密な実験をおこなって出てきた結果なのだから。その後、研究者界隈で大論争が起き、検証実験がたくさんおこなわれたけれど、やはり否定されていないのだし。

意識は、たとえて言えば、優秀な部下たちが自分たちの裁量でチャッチャカ仕事を進めているのを、後から眺めて、「あれはオレが指示して、やらせているのだ」と錯覚しているマヌケな上司みたいなもんである。

こうしてみると、意識って、大したもんじゃないなぁ、と思えてくる。それが前野氏の立場である。

対抗して言うのであれば、私の立場は、科学って、大したもんじゃないなぁ、というものである。本当にそう思っているわけではないけど、対比的に言うなら、そうなる。

科学は、さまざまな謎を解き明かし、合理的に説明づけることに成功している。そこはすばらしい。けど、正解をいちばん知りたい根源的な問いに限って、現時点に至っても科学はほぼ無力で、ほとんど何も分かっていないのである。

意識の謎に関して言えば、重い鉄扉をこじ開けようとがんばった結果、ここ数十年の間に急速に発展した脳科学と人工知能の研究のおかげで、ほんのちょっとだけ隙間が空いて、中から漏れ出る光を垣間見ることができた、ぐらいの状況だと思う。

ちゃんと開くまであと300年くらいかかるとしたら、どっちの立場を支持しても、当面恥をかくことはなさそうである。

しかし、考えれば考えるほど、謎が深まる。たとえ錯覚にすぎないにせよ、感覚的にはあるように感じるこの意識という存在は、とてつもなく奇妙なもので、物質世界において、本来、あってはいけないことのような気がする。

この謎がちゃんと解明されるためには、新たに物理法則が発見されるのを待たなくてはならないだろうとロジャー・ペンローズ氏は予想している。

私の予想では、物理法則のみならず、数学においても、ゲーデルの不完全定理に匹敵するか、あるいはそれ以上の大ブレイクスルーがないと無理なんじゃないかという気がしている。

とてつもない発想の転換が必要で、現時点においては、どんなに頭のいい人でもとうてい思いつかないような、霧のかなたにあるのだ。けど、正解を聞いちゃえば「あーっ!!!」と思うような、そんなことなのだ、きっと。

この沼にハマった者たちは、少しばかり立場が異なっていたとしても、同じゴールを目指して共に歩む、同好の士である。

ところで、意識以外にも、関心領域にあとふたつ、共通するものがある。

ひとつは「幸せ」について。私は会うと幸せになれるおじさん、と噂されている。しかしながら、買った宝くじが当たるとか、受けた試験に合格するとか、具体的なご利益を授けられるような神通力を持ち合せているものではない。

だとしたら、望んだものが手に入る喜び、みたいな即物的な部分とは別次元の、もっと根源的な幸せを説ける人になることはできまいか。そんな思いがあって、幸せについて、よく考えることがある。

もうひとつは「仏教」について。根源的な幸せとはどのようなものかについて、どこへ行けば教えを授けてくれるだろうと探し回っていると、必然的に行き着く先として、ひとつ、仏教があるのだと思う。

その道筋がひとつあるのだが、私にはもうひとつある。意識の謎が、あと300年くらいは解けないような気がしているが、そんなに長いこと、生命を維持して待ちつづけるのは、ちょっと無理かもしれない。

そうだとしたら、せめて正解のニオイを嗅ぐくらいのことはできないだろうか。科学のような、事実と論理に基づいた着実な道をたどって行き着くのでなくてもいいから。

脳から直接送受信できる電波的な何かを介して霊的な何かと交信とか、菩提樹の下で座っていたら突然授かる天啓とか、ひきだしから急に出てくる未来の猫型ロボットとか、超常的なパワーでも何でもいいから駆使して、正解の雰囲気だけでも知りたいもんだ。

仏教は、そうとういい線いっているような気がしてならないのだ。

あと、性格的にも、どっか似たとこがあるような気がする。おちゃらけてて、お調子者なとことか。

この「3プラスアルファ」の共通項をもつことは、けっこうなミラクルなんじゃないかって気がするのだ。

共通点と相違点を携えて、いろいろ聞きたい。その機会を与えてくれた今回の講演は、たいへんありがたく思う。ツッコみに行ける研究者。

……前置きが長くなった。


【概要】

前野氏のお話の主眼としてまず、われわれの「心」というものは、一般的にイメージされているほど、主体的に機能しているわけではないことに気づきましょう、というのがある。

昼メシに何を食うかは、私が自分の意志で決めている、という感覚がある。身体をもつ存在としての「自分」の内側に、心の中の「自分」というものが住んでいて、そいつが身体をつかさどる司令塔となり、どう行動するかを主体的に意志決定しているのだというイメージが一般的であろう。

しかし、心の機能を5つの要素に分解して、それらについてひとつひとつ検証していくと、どれもこれも主体的には機能しておらず、ものごとが無意識下で機械的に決定されていくのを下流で眺めているだけであって、受動的にしか機能していないことが判明する。

心を機能の観点から要素に分解すれば、[知]、[情]、[意]、[記憶と学習]とからなる。これらの中で、いちばん主体的に機能していそうにみえるのは[意]である。

[意]とは、「意のままに」の「意」であって、自由意志のことである。これが、知らず知らずのうちに何者かに操られてた、なんてことになると、ゾンビみたいなことになってしまう。[意]とは、自分という存在を生きたものたらしめる中心的な役割を担っているように感じられる。

ところが、ここに、リベット先生による実験と、ガザニガ先生による実験とがある。それらの結果の示唆するところによれば、自由意志など実は存在せず、すでに行動がなされた後になってから遡って、あれは自分が企図してそうしたのだ、と錯覚していただけ、ってことになる。

自由意志ですら実は錯覚であったとなると、心全般について、主体的に機能している要素など何もなかったってことになる。これが受動意識仮説である。

一方、脳を調べてみると、意識領域と無意識領域とからなる。

意識領域においては、自分というものがたった一人だけいて、実体としての自分を取り巻く環境のすべてを統合的に把握しており、ひとつの時刻においては、ひとつのことにだけ注意を向けており、時間の流れに沿って、エピソードが紡ぎ出されていく。

無意識領域においては、たーくさんの小びとたちがいて、それぞれがそれぞれの受け持ちの仕事をしており、全体として、同時並行的に活動が進んでいく。

一人の小びとは、ひとつの仕事だけを担当し、休むことなく常にせっせせっせと黙って働いている。

五感から入ってくる情報を常時受信しているが、特に異常がなければ、意識の側に報告せず、放置している。

歩くのに、はい右足を出して、次は左足を出して、といちいち意識せずとも、自然に遂行できちゃうのは、無意識の小びとたちのおかげである。

では、意識と無意識の小びとたちとの関係はどのようになっているか。

一般的なイメージとしては、意識がボスであって、無意識の小びとたちを部下のように使っている、というものであろう。これが、旧来の「サーチライトモデル」である。上司は部下たちを主体的に監視して回っている。

このモデルでいくと、意識は万能でなくてはならなくなる。ロボットに心を宿らせようとすると、意識の主体的な働きをすべて、コンピュータのプログラムで記述しなくてはならないことになり、途方もないことになる。

ところが、現実はこのモデルのようにはなっておらず、心がさほど主体的に働いてはいないことが判明したのは、前述のとおりである。これが、受動意識仮説。

機械的に黙々と仕事をなす無意識の小びとたちのほうに主権があり、肝心なことはすべて小びとたちが勝手に決めており、意識の側は、いちばん大きな声で何かを主張した小びとのほうへ、受動的に注意を向ければよいだけってことになる。

このモデルをロボットに組み込むのは、割と簡単にできそうである。なので、心をもったロボットは、遠からず、実現できるであろう。

ところで、われわれ人間の側は、受動意識仮説をどのように受け止めたらよいのだろうか。

自由意志や主体性など錯覚にすぎず、本質的にゾンビと変わりなかったってことになると、ちょっと絶望的な気分になり、モチベーションが下がるかもしれない。

しかし、受動意識仮説は、実は、仏教の教えとまったく同じことを言っているのである。色即是空、空即是色。仏教用語で言うところの「色」とは、色彩のことでもなければ、色恋沙汰のことでもなく、「存在する実体」という意味である。一方、「空」とはいわゆる「無」のことである。実体は無い。無いのが実体。

「私」とか「心」とか、そういうものは実はなかったのだと知ることが、幸せへの近道なのだ。


【内容】

□イントロ

オープニングで、松田卓也先生が登壇し、導入的な話をした。

前野隆司氏の本を読んでいたし、YouTube動画で上がっている講演を見ていたし、非常に面白かったので、一度シンギュラリティサロンにお呼びしたいと思っていた。つてができて、実現した。

□受動意識仮説と幸福学

最近、「幸せ」の研究をしている。

「幸福学」とは、幸福という対象にサイエンスからアプローチする学問だが、「幸福の科学」というと、どうしても宗教になってしまう。

元々は、エンジニアで、ロボットのハードを作る分野の出身。

「受動意識仮説」が示唆すること:意識なんて大したことない。幻想である。

□脳をめぐる、前野氏の関心の変遷(図)

(1)機械工学、設計
(2)ロボットの身体と心
(3)人間の身体と心
(4)イノベーション教育、システム論
(5)幸福学、共創学、社会システムデザイン

□茂木健一郎氏との立場の違い

前野氏が「脳はなぜ『心』を作ったのか」を出版すると、茂木健一郎氏から猛烈な批判が飛んできた。「ものすごく間違ってる!」と。

茂木氏は、「クオリア」(感覚の持つ質感)をキーワードとして脳と心の関係(心脳問題)について研究する脳科学者。

その後、日経サイエンスから、茂木氏と対談する企画が持ち上がった。言わば論敵。討ち死に覚悟で戦いに臨んだ。

実際に会って話をしてみると、科学的な理解についてはほぼ同じであることが判明した。「心は存在してないようなもんじゃないか」と。

違いは、そこから先の受け止め方にあった。言わば哲学の違い。

茂木氏は、重要な問題である、と。西洋的な捉え方? 前野氏は、だったら意識なんて、大したもんじゃないだろ、と。東洋的?

分析的にみるよりも、統合的にみて、あるような、ないような。もはや禅問答のような領域。

これから約一時間半、意識について話をします。

どうして「幸福学」に取り組むようになったか

科学方面から明らかになってきたところによれば、心は幻想であって、心は実は存在していないようなものである。

つまり、われわれは、すでに死んでいるようなもんである。すでに死んでいるのなら、死を怖がる必要はまったくない。だって、すでに死んでるんだもん。

幸せ、……なような、むなしいような……。

心がないと分かって、やる気をなくしていた。

しかし、心がないと分かっても、なお、われわれがどうあるべきかという問題が残るではないか。それを扱うのが倫理学。

心がほんとうは「無い」と分かったとしても、問いとして、「在る」。

心がないと分かって安心すればいいのに、世の中の人々の多くは、損得や優劣など、余計なところに関心を払い過ぎて、幸せになれていないようにみえる。どうすれば、世の中の人々がみんな、私のように(!)幸せになれるのか。

□仏教に通じるものがある

心がないという発見から、幸せのあり方について啓示を得るというのは、仏教と構造が同じである。

仏教における「悟り」とは、心が「無」であると知ることである。

仏教では、欲を抑えるようにと教える。しかし、欲を抑えるぞ、抑えるぞとがんばると、そのがんばりの方向性自体がまた「欲」になってしまう。この矛盾を解消するには、「欲」というものは本当はなかったのだと知るしかない。

欲は幻想であって、本当はなかったと知ることが「悟り」である。その意味においては、私はすでに悟りを開いて、ブッダと同じ境地に到達しているのかもしれない。

いやいや、それは言いすぎかもしれない。

「幸福学」は宗教ではないと言った。けど、宗教の教条のようなことが、AIによってかなり解明されてきている。

20〜30年前は、科学からアプローチするお膳立てが整っていなかったため、宗教や哲学の領域だった。今は、科学がこの領域にアクセスできるようになってきている。

□著書『脳はなぜ「心」を作ったのか』について

自由意志は錯覚であって、本当は存在していないと示唆するリベット先生の研究は、学術界ではみんな知っている。

自分がこの領域を研究テーマとした理由について。

学者であるからには、いい研究をしたい。

私たちがどうしても知りたい二つの謎は、第一に、宇宙の謎、第二に、生命の謎である。

宇宙は非常に遠いのに対し、心は自分の内部という、これ以上ない近いところにある。それでありながら、正体が明らかになっていない。そこに興味を惹かれた。

□心とは(図)

・心は、[知]、[情]、[意]、[記憶と学習]、とからなる
・[記憶と学習]は、[宣言的記憶]と[非宣言的記憶]とからなる
・[宣言的記憶]は、[エピソード記憶](ダイアリー)と[意味記憶](ディクショナリー)とからなる
・[非宣言的記憶]とは、スポーツがだんだん上手くなっていくときの、体で覚えるあの感じ
・一方、別の切り口から、心は、「意識」領域と「無意識」領域とに分かれる

エピソード記憶できるのは、哺乳類と鳥類だけ。カラスは画像を記憶する能力がものすごい。蜂や蟻は、意味記憶ならできる。「人間が来たら、逃げなきゃ」。

□ロボットと意識

昨日のみなさんと、今日のみなさんとは、違っている。新聞を読んだりして、情報をインプットし、自分自身を更新している。

ロボットにも、できるようになってきている。知・情・意「もどき」。人間は、本当の知・情・意。

われわれが気づいてないだけで、もうすでにロボットに意識が芽生えているの
ではないか、という説も、否定はしきれない。

□ロボットに意識を実装するには

どうしたら意識が芽生えるのか。考え方に二つの立場。

モデルA:「意識」という特別のモジュールが必要

前野氏は、この立場。

モデルB:構造が複雑になっていくと、勝手に意識が芽生える

創発説。

□ロボットのふるまい

練習すると、けん玉がどんどん上手くなるロボットがすでに実在する。総合的な運動能力において、いつか人間を超える日が来ないとも限らない。

笑うフリをするロボットはできている。しかし、本当に可笑しくて笑っているわけではない。そういうロボットは、まだ出来ていないと思う。

意識のはたらきをするモジュールがまだ作れていないから。

人間と(現時点での)ロボットの違いは、意識があるかないか。

「哲学的ゾンビ」とは:外からみると、あたかも意識があるかのごとくふるまうけど、実際には意識をもたない。

□意識は何のためにあるのか

たくさんの小びとたちが同時並行的に間断なく働いている「無意識」の出力情報を統合するため?

□意識のサーチライトモデル

意識とは、無意識下で進行する様々な処理の一部にサーチライトを当てている、心の中の主体的な機能とする、ひとつの仮説。

講義に集中して聞いている最中は、触覚などの余計な情報入力機構は、スイッチをオフにしているように思うかもしれない。しかし、実際にはスイッチは常にオンである。

ケツの下にある椅子の感触も、足が靴を履いている感触も、常に、脳までは届いている。言われたら思い出すけど、意識はしていない。

頭の中にスケジューラが備わっていて、必要になったら、ふっと思い出すようにできている(という仮説)。

無意識の領域で、脳の中にたくさんの小びとがいる。あまりに多いので、司令塔が必要。

人の話を聞くことに集中しようと思ったら、そこへ主体的にサーチライトを向けている。

→旧来の、よくある考え方ではある。

□旧来の意識のモデル

無意識の小びとたちvs.主体的に注意を払う「意識」

無意識下の小びとたちは、特定の職務だけを担当し、機械的に仕事を遂行していればよいが、「意識」というモジュールだけは、万能でなくてはいけない。

「私」という名の社長みたいなやつ。

□旧来モデルの破綻

「意識」の中にも「小びと」が必要だとすると、小びとの中の小びとの中の小びとの中の小びと……、と無限縮退を起こしてしまう。(※ここのくだり、ケバヤシはよく理解できていない。)

「バインディング(結びつけ)問題」。個々の小びとが、総ボスたる「意識」に対して上げてきた情報を、意識の側でどうやって統合して、自分の周辺にある世界として一体化したイメージを築き上げているのか、そのアルゴリズムが解明されていない。世界の最高の謎。

「社長モデル」自体が正しくないのかもしれない。

□受動意識仮説

旧来モデルとは異なる、新モデル。

意識は、無意識下の自律分散的情報処理結果に対して受動的に注意を向け、あたかもみずからがおこなったかのように幻想体験し、エピソード記憶するための存在。

自分で「決めた」気になっている。けど、それは後づけの錯覚。

意識とは「ものすごくエラい司令塔」ではなく、エピソード記憶するための事後編集者であるというモデル。

□知・情・意は受動的か

ひとつひとつ検証してみよう。

□知は受動的か

思っている以上に受動的である。

例えば、直角三角形の斜辺の長さを求める問題。直角を挟む二辺の長さが3,4であるとき、斜辺の長さはいくらか。

解く過程は、主体的ではない。大勢の小びとたちが、それぞれ勝手に、同時並行的に、いろんな推論を試してみている。そのうち、たまたま答えに到達できたやつが「解けたぞー!」と大声を挙げる。意識はそれを拾い上げるだけ。

□情は受動的か

感情・情動は、もちろん受動的である。

「さあ、今から怒るぞー!」と企図して怒る人はいない。怒りの感情が勝手に湧きあがってくる。「情」はそもそも受動的なものである。

□意は受動的か

「意」とは、自由意志のこと。意図。

やっかいなのは、これ。感覚的には能動的。無意識の小びとにやらされているのではなく、私が主体的にやってる感。しかし……。

□リベット先生の実験

ベンジャミン・リベット氏が1983年におこなった実験。

指を動かそうと決断する瞬間よりも0.35秒前から、脳内で行動の準備が始まっていることが判明した。

リベット氏は、自身の発見を受け容れられなかった。

脳内で先に始まっている準備を、意識の側で主体的に思いとどまる「禁止権」があるのではないか、などと考えた。

(※しかし、中止するという決断の0.35秒前から中止の準備が始まっていたとすると、無限後退してしまう、と本人自身が禁止権説に疑義を投げかけている)

□国による受け容れ度の違い

自由意志は錯覚であって、本当は存在しないんじゃないか、と示唆するリベット氏の説に対する受け容れ度は、国によって大きく異なる。

インドは、だいたいすんなり受け容れる。逆にアメリカは、ほとんど受け容れない。日本は中間で、だいたい半々に分かれる。

□ガザニガ先生の実験

「意」が受動的であることを示唆する、もうひとつの実験がある。マイケル・ガザニガ氏によるもの。

マイケル・S.ガザニガ(著)藤井留美(翻訳)「〈わたし〉はどこにあるのか:ガザニガ脳科学講義」
紀伊國屋書店(2014/8/28)

かつて、てんかんの治療として、脳梁を切断する手術がおこなわれていたことがある。

人の脳は、右脳と左脳に分かれていて、両者は脳梁を介して情報をやりとりしている。これを切断すると、情報の行き来がなくなり、結果として、右脳と左脳がそれぞれ別々の意識をもったような状態になる。

右脳に対して、「前に歩いてください」と指示を与えると、実際に歩く。しかし、指示を受けたことを左脳は知らない。左脳に対して「なぜ歩いたのですか」と聞くと、「のどが渇いたので、ジュースを買おうと思って」と、適当な出まかせを言う。

つまり、意識というのは、行動後から行動前へ時間をさかのぼって、あのときこれこれの理由があって自由意志を発動したのだ、と後づけの動機をでっち上げて、割と平気でいられちゃうもんらしい。

自由意志は、ほんとうは働いていないのに、働いたかのごとく錯覚しているのかもしれないことを示唆している。

「意」もまた受動的なもんらしい。

□ロボットへ実装できるか

意識が受動的なもんであれば、その仕組みをロボットに実装するのは簡単。(ケバヤシの心の叫び:「言ったなー」)

□受動意識とエピソード記憶

意識は受動的。知・情・意の幻想体験とは、すなわち、並列分散処理を適切なタイミングで直列体験に書きなおしているということ。それが、エピソード記憶となる。

ケツの下の椅子の感触がどうだったとか、足のまわりの靴の感触がどうだったとか、そんなことまでいっしょくたに記憶していたのでは容量がすぐ足りなくなるし、話が薄まって、ポイントが散漫になるだけ。

認知症にかかるとエピソード記憶が苦手になる。意識がないのか。あるけど、エピソードに落とし込む能力が低下するのか。

□旧来モデルvs.受動意識モデル

旧来モデル:「意識」がボスで、すべてをコントロールしている
新モデル:意識は無意識の結果を眺めているだけ

たとえて言うならば……。

ワンマン社長(統合、統括)vs.社史編纂室長(事後、振返ってエピソード化)

独裁政治vs.民主主義政治(多数決の原理)

天動説vs.地動説(中心にあると思っていたやつが、実は脇役)

□受動意識仮説と仏教

受動意識仮説って、仏教の教えと似てる。……って、いろんな人が教えてくれた。

本を出したら、海猫沢めろんさんが会いに来た。石飛道子さんからも教えてもらった。

無我  ブッダ:無我(私はない)前野:現象的意識は幻想
非我  ブッダ:非我(私ではない)前野:機能的な意識は無意識の小びとたちの結果に追従

仏教では、欲を捨てるんじゃなくて、本当はもともと欲ってなかったんだなぁ、と知るべしと教える。

受動意識仮説を知ることをもって前野氏が到達した境地は、ブッダの悟りの境地と同じと考えられる。畏れ多いんで、あんまり言ってないけど。

あまりにもみんなが近い近いって言うもんで、仏教を勉強してみた。

□受動意識を備えたロボットは作れる

受動意識を付加すれば、疑似的な「心」は作れるはず。(ケバヤシの心の叫び:ツッコみたい!!!)

モジュールは簡単に作れる。人間の意識と同じように機能するものは作れるんじゃないか。

(ケバヤシのコメント:前野氏の著書が出版されたのが2010年11月で、その中でも、意識を機械に実装することは、すぐにでもできちゃいそうなことが書かれている)

現時点で実装が完了していないのは、その機構が意外と複雑だったため、手間どってるだけ。本質的に困難な問題の壁にぶち当たったからではない。(ケバヤシの心の叫び:そう言うからには、さっさと実装してみせてね。)

□幸福学の基礎

意識は実は主体的なものではなかった、つまり、われわれはすでに死んでるようなもんだ。

「おまえはすでに死んでいる」(『北斗の拳』)

本当は死んでいるのに、生きてるんだから、これはたいへんめでたい。

前野隆司(著)『幸せのメカニズム実践・幸福学入門』講談社(2013/12/18)

□おわりに

・心は幻想
・そう悟ると幸せになれる

【所感】

著書の中で、意識をロボットに実装するのなんて、すぐにでもできちゃう、みたいなことを言っていた。あれから7年経つが、できたという話を聞かない。

そろそろ音を上げて、見解を修正しているかと思えば、まったくブレていなかった。そこは潔いと言える。ツッコみ甲斐があるとも言える。

シンギュラリティサロンのいいところは、質疑応答の時間がたっぷり30分割り当てられているところ。なんなら、その後、もう30分ぐらいは立ち話で延長戦ができちゃったりもする。

いちばん聞きたかったところのド真ん中をバシッとぶつけてみたところ、「それは茂木さんの立場ですね」とあっさり片づけられてしまった。あ、いや、まあ、そうには違いないですが...。

同行した武盾一郎氏は、そこには大いに不満なようであった。武氏もやはり根源的な問い方面の沼にハマっている口で、いくら酒を飲んでもかったるくならないようで、元気に抽象論をぶつけてくる。

武氏は、リベット氏の本を読んでなくて、前野氏の本で受動意識仮説について知った。なので、衝撃を与えてくれたすごい先生に直接お目にかかれる機会をめっちゃ楽しみにしていると同時に、少し緊張しているようでもあった。

「あれで片づいちゃったって、どうして思えるんだろ。クオリアの不思議さに、どうして関心が向かないんだろ」。

武氏は、2016年9月6日(火)、Facebookに次のようなことを書いている。

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クオリアって不思議すぎて鼻血が出そうになるくらいなんだけど、なぜかこの感触を分かってくれる人が少なくて、歯がゆくクネクネしてしまう。

例えば、受動意識仮説が正しいとして、僕らは無意識の小人さんたちがあれこれ考えて動いていて、最後に意識が自分の意志で動いていると捉え、この情景をエピソード記憶として保存し、生存に役立てる、ここまでは分かる。

意識を「自分の動作を眺めて記憶するモジュール」として設計図的に記述できても、この主体をありありと感じているクオリアの説明にはなっていない。

どんな仕組みで「見てる」とか「そう思ってる」とかいう、この感触、このクオリアが生成されているのか、まったく分からないではないか! と興奮するのである。

この話しを鼻息荒く誰かに話しても、「はぁ?」(全然興味なし)という反応が返ってくるばかりなのだ。

茂木健一郎さんはクオリアの謎は深いという立場をとってらっしゃるので、きっと僕のこの鼻血が出そうなほどのもどかしさを分かってくださるとは思うのだが、クオリアの解明が進んでいる兆しはなさそうだ。

てことは、ひょっとしてこのクオリアって問題にする意味すらないことなのだろうか? と心細くなってくる感じもする。

確かに、受動意識仮説に基づけば「意識の機能」は説明できる。ひょっとしてクオリアに反応しない人たちはみんな「それでいいじゃないか、なにか問題でも?」と思っているのだろうか?

「エピソード記憶する機能」があればいいだけならば、なにも〈クオリア〉、
この感触〉が湧く必要なんてないではないか!

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Facebookのよく分からん機能で、「一年前の思い出」として、これが再びタイムラインに上がってきていた。すかさず、シェアする。前野氏にタグをつけて。

すると、前野氏から、リプライが来た。


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クオリアの不思議さは、ビッグバンが生じた不思議さと同じで、僕も強烈に知りたいですよ。だからクオリアの問題に取り組んだのです。で、受動意識仮説で、おっしゃるようにとりあえず機能の説明の方はできたと思っているというわけです。僕も、クオリアもビッグバンも今でも不思議すぎて鼻血が出そうになるくらいで歯がゆくクネクネしますが、まあ、当分わかんないんじゃないかなあー、それでもいいかなー、とも思っているというのが現状です。茂木さんもそう思っているんじゃないかなあ。

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なんとっ! 前野氏もクネクネされるのですね! そこはすっかり誤解してました。クオリアには関心がないんじゃないかと。

強烈に知りたいけど、当分は解明されないであろうと考えているということは、立場の違いがそれほど明確ではなくなってきたかもしれない。

ロボットに意識を実装しようとするとき、解明しなきゃ無理だろ、と思っている私の立場と、そこは置いておいても可能であるとする前野氏の立場の違い、ということになろうか。

もう一点気になるのは、現時点において受動意識仮説は、一般の人々にはさほど広まっていないようだけど、これがもっと浸透していったときの社会への影響はどうなんだろう、という点。

これについては、どなたかが、初っ端で質問してくれた。私は、それに乗っかる形で、裁判の不成立についても聞いてみた。

裁判は原理的に成立しないけど、かと言って、廃止しちゃうと社会の秩序がもたなくなるから、茶番と知りつつ便宜的に続けるって感じでしょうか。

「そういうことって、よくあるじゃないですか」と前野氏。

まさにその話を裁判官や弁護士の前でしたことがあるという。なんてオソロシイことを!

で、法曹関係の方々の反応はどうだったのだろうか。そこを聞くのを忘れた。受動意識仮説自体を信じてくれなかったのだろうか。信じたら信じたで、すごーくモチベーションが下がりそう……。

前野氏は、9月23日(土)に大阪で開催される『シンギュラリティサロン#24』でも、同趣旨の講演をされる予定になっています。
http://peatix.com/event/296002/


写真:
https://goo.gl/photos/XhUQBxoybZVZiFXa9



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今度の大阪のシンギュラリティサロンにも行って、前野先生のお話をもう一度聞いてこようかな、とも。

しかし、今週末、9月9日(土)、10日(日)は『アーカイブサミット2017』で京都だし。次の週末、16日(土)、17日(日)は『京都国際マンガ・アニメフェア2017(京まふ)』で、また京都だし。

三週末連続で関西かぁ……

先週末、2日(土)、3日(日)は『ニコニコ学会βサマーキャンプ2017』で筑波だったし。遠征の週末が続くなぁ……