[4610] 「意識の謎」がなぜ見えづらいかという謎◇震度7の生存確率

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《誰か病名をつけてくれ》

■Otaku ワールドへようこそ![284]
 「意識の謎」がなぜ見えづらいかという謎
 GrowHair




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■Otaku ワールドへようこそ![284]
「意識の謎」がなぜ見えづらいかという謎

GrowHair
https://bn.dgcr.com/archives/20180720110100.html

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私の関心のド真ん中である「意識の謎」については、今まで何度も取り上げてきたが、この問いが有効な問いとしてそこにあること自体を、理解している人がいかに少ないかに、最近、あらためて驚かされている。

問いを端的に表現すれば「物質にすぎない脳に、どのようにして意識が宿るのか」である。別の角度から眺めなおせば、「人工物の上に意識を宿らせることは可能か」とも言い換えられる。

問いに対して正解を答えるのが非常に困難なのはもちろんのこととしても、問いがそこにあること自体は自明なことのように思っていた。ところが、この手の根源的な問いに限って、問いそのものがそこにあることが見えている人が非常に少ないのである。

まあ、薄々分かってはいたのだが、このところ、たまたま人と議論する機会が増えてきたことで、定量的に実感して、絶望的な気分に陥っている。

下手すりゃ、リストが書き出せちゃうんじゃなかろうかと。リストは大して長くならないんじゃなかろうかと。脳科学研究者ほぼ全部(だと願いたい)、プラス、ほんの一握りで終わっちゃうかもしれない。リスト掲載者は、お互いに、かなり高い割合で知り合いだったりするかもしれない。

問いの理解者率のある程度の高さが期待できそうな哲学方面が、もしかすると、かなりスカスカでヤバいかも。

選民思想じゃないけど、この問いを理解していることって、何かの特権だったりするのだろうか。おのれの無知を自覚することをもって賢いとする、「無知の知」を説くソクラテスの役割を背負わされているのか?

「意識の謎」という問いがそこにあること自体が、なぜかくも理解されづらいのか。「意識のハード・プロブレム・プロブレム(Problem of Recognizing Hard Problem of Consciousness)」と名づけたい。

あ。意識の謎を理解する人の少なさをここで嘆いてみたところで、読んで共感していただけなかったら、ムジナみたいな話になってしまうではないか。たとえがちょっと違うような気がしなくもないけど、意気込んで話したら、その相手も同類だったっていう……。

……って、いまさら気づいても、しょうがない。ほんの数人が超おもしろいと思ってくれて、大多数が、わけ分からん、つまらん、と思ったとして、平均すれば、そこそこおもしろいってあたりを狙うしかない。

考えてみれば、意識の話題を取り上げるときは、今までもそうしてきた。きっとある程度の関心をもって読んでくれるだろうなと期待できる想定読者は、私の側から見えている限り二人ぐらいしかいなくて、二人ともデジクリライターだけど、手応えはあの二人から感じ取ればいいか、と。

というか、異常な猛暑の折、暑苦しい話でどうもすみません。

●ネット上の議論の発端は「人工知能美学芸術研究会」

2018年6月24日(日)、神保町にある「美学校」にて「第19回AI美芸研」が開催された。この回のテーマは「感性と計算」。
https://www.aloalo.co.jp/ai/research/r019.html


「人工知能美学芸術研究会(AI美芸研)」を主宰する中ザワヒデキ氏は『心は計算である─美の定量と反芸術─』と題する小講演をおこなったが、事前告知文で次のようなことを述べている。

「心が宿る人間の脳も、人工知能を走らせる計算機も、100%物質であることに違いはない。そこで起きていることは、ただの計算以外の何物でもない。脳に心が宿るのであれば、人工知能にも心が宿る可能性がある。逆に、人工知能に心がないと言うなら、脳にも心はないことになる。議論を調停するには、計算と心は別物だという先入観を疑えばよい。心は(複雑な)計算である」

中ザワ氏は「美の定量、反芸術に話がつながる」と言っているが、私からみれば「意識の謎」にも話がつながる。そこに興味を惹かれて聴講しに行った。

記録ページでは、当日の写真や、中ザワ氏が使ったスライド資料が公開されている。
https://www.aloalo.co.jp/ai/research/r019_r.html


私の左隣りの席に、後から座ってきた人がいる。それを見た草刈ミカさんは、何にどうピンと来たのかは不明だが、お互いを紹介してくれた。

藤井雅実氏。Wikipediaによると、「在野の美術評論家、芸術哲学研究者」とある。その場ではお互いに「よろしくお願いします」ぐらいしか言ってなかったような気がする。

facebookで藤井氏を見つけて送った友達申請を承認してくれて、6月26日(火)10:56pmに友達になった。

28日(木)9:50pm、私はAI美芸研のfacebookグループに、やや長めの書き込みをした。内容は、第一に、中ザワ氏の「心は計算」説は、「意識のハード・プロブレム(難問)」に通じるものがあるという私の見立て。

第二に、芸術はこの問いに直面したとき、何らかの新展開を迎えるのではないか、という期待。第三に、中ザワ氏は芸術の大転換の先駆的な立ち位置になるではないかという楽しみな予想。

最初の書き込み時点においても、ただ「意識のハード・プロブレム」と言っただけでは、通じない人がほとんどであろうことは容易に予想がついたので、かなりの長文をもって、ていねいに解説した。

研究会の場での質疑応答の内容からして、藤井氏も含め、哲学系の人がけっこういそうだという気配を感じ、軽く挑発するような言辞も混ぜておいた。

「哲学はもう終わっている。ソーカル事件は小気味よかった」。

「意識の問題は、科学の側から取り組むべきもの。科学者よりも遠くが見えて、マシなことが言えるのでなければ、哲学屋ごときはすっこんどれ。どっかのゲンロントイレで勝手に言葉の下痢をやってなさい」。

藤井氏が釣れた。「小林さん、素晴らしい! 人文系の専門家たちに対して、実に挑発的な投稿。という以上に、この問題、このAI美芸研にとっても、核心的な課題でもある」。

それから延々々々、延々々々議論は続き、すごい分量の言葉がお互いから吐き出されている。顔を真っ赤にしての、ののしり合い火炎放射大バトル。……ではない。それをやるには、お互い大人になりすぎていた。

かと言って、生産的な、噛み合った議論が展開しているというわけでもない。お互いに、話を整理しようしようとはしているのだが、自分のテリトリーの側へまとめ込もうとして、結局、行けども行けども、どこか根底的なところで分かり合えない、平行線の議論が続いているような感じがする。

公開グループなので、Facebookのアカウントさえ持っていれば、読むことはできるはず。

グループ:
https://www.facebook.com/groups/1155307841158207/


スレッド:
https://www.facebook.com/groups/1155307841158207/permalink/1930670040288646/


ただ、さすがに大量の言葉を吐き出し合っただけのことはあり、お互いの立ち位置の相違点が少し見えてきた気はする。もちろん、理系VS文系、って単純化されすぎたアレではない。

●根源的な問いと死闘せずに哲学ができるのか?

いつごろからかは忘れたが、私は、生きることの中心軸に「意識のハード・プロブレム」が据えられている。この問いに気づくと、意識に意識ががっちり捉えられ、それ以外のことがすっかり霞んでしまうのだ。

デキる人になって、お金をいっぱい稼ぎたいとか、南の島で青いカクテルを片手に「太陽がいっぱいだぁ」とつぶやきたいとか、ほんっと、どうでもいい。足許の土台がまるで固まっていないのに、その上に、いったいどんな建物を建てようというのか。

考えれば考えるほど不思議で不思議でしかたがなく、答えが知りたくて知りたくて、あまりの歯がゆさにクネクネしてしまう。しかし、とっかかりすら見えず、考えが堂々巡りに陥って、ぼーっとしてしまう。朝(あした)に道を聞かば夕べに死すとも可なり。

ただ、実際問題、人類が正解に至るまでにあと300年ぐらいはかかりそうな気配が漂っており、夕べに死すどころか、がんばってそうとう長生きしないと答えを見届けることができなさそうである。

問いに気づいちゃった同好の士は、見りゃすぐ分かる。同じような症状を呈するのだ。誰か病名をつけてくれ。哲学の世界を覗き見てみようと思うのも、この問いに対してその方面の人はどのように向き合っているか聞いてみたいからであり、それ以外に動機はない。

池田晶子氏(1960─2007)は、間違いなくこの病に捕まった。ただ、彼女のダメなところは、すべてを一人で考えようとした点にあり、何の進展もないまま、ぼーっとしただけで短い人生を使い切ってしまった。

問いに気づいたことをもって、何か高級な人間にでもなったかのように気取り、現世的な欲望に駆られて生きる衆生を見くだすことで孤独を埋め合わせていた。

もうちょっと違う方面の哲学に目を向けてりゃ、同好の士に出会うことができ、正解に至らないまでも、議論の進展を眺め、考えを整理できたはずなのだ。オーストラリアの哲学者デイヴィド・チャーマーズ(David Chalmers)氏(1966年─)が「意識のハード・プロブレム」を提示したのが1995年なのだから、間に合ったはずだ。

哲学には「心の哲学(philosophy of mind)」という一分科があり、チャーマーズ氏以外にも、ジョン・サール(John Rogers Searle)氏(1932─)やダニエル・デネット(Daniel Clement Dennett III)氏(1942─)といった重鎮がいる。どちらも年上ではないか。

私は、ベンジャミン・リベット(Benjamin Libet)氏(1916─2007)の『マインド・タイム 脳と意識の時間』(2005)を読むことができ、自由意志の不在の可能性という脳科学からの示唆に触れることができたのは、とてつもなく恵まれたタイミングで生きていると言える。

そんな道筋から哲学にも足を踏み入れかけている私にとって、若くして哲学に目覚めて専門に研究してきていながら、根源的な問いにまだ目覚めていないという状態は、まったく想像がつかない。そば屋に入ってそばを食わないとか。プールに行って水に入らないとか。

ところが、いるのである。哲学のことを詳しく勉強していながら、あの症状をまったく呈していない、摩訶不思議な人たちが。むしろそっちのほうが、感覚的に9割以上を占めるようにみえる。キミたち、いったい何がしたいの?

私は、意識のハード・プロブレムや、関連する、自由意志や哲学的ゾンビ等の核心的な論題について、その問いを簡潔な形でポンと投げておくだけでは、問いの意味するところに気づく人が異常に少ないと察知しているので、問いの周辺をやや詳しめに見て歩き回ることで、手を変え品を変え説明している。

それは、問いの不思議さと切実さに気づいてほしいという願いを込めてのことなのだ。

ところが、あっち側からみると、議論のまな板の上に載せる素材を次から次へやたらと増やしているように見えているらしい。随伴意識仮説も、自由意志不在も、いろんな人がいろんな説を述べてきて、星の数ほどある学説のうちのひとつ、ぐらいの認識のしかたしかしていないのかもしれない。

時間軸の周辺に空間的に散りばめられた数多の思想について、どれがどれに影響したとか、ある時期のある地域では、ある一派のナニナニ主義が主流だったとか、それをダレソレが批判してどうなったとか、俯瞰的に系譜を把握することが「哲学を分かる」ことだと思っているんじゃなかろうかというフシがある。

みずから根源的な問いと格闘することなく、ただ歴史をなぞるようなしかたで哲学を勉強するって、暗記の苦役しかなくない? 音楽の理論をいっぱい勉強しながら、音楽を聴かないし、みずから演奏もしない、みたいな感じじゃないの? そんな苦役ができるって、ある種の才能とみえなくもないけど。ただの「思想かぶれ」って呼んじゃ、だめかな?

まあ、そういうわけで、藤井氏と私の長ーーーーーーい議論は、敵対的でこそなく、文脈的にある程度噛み合ってはいるものの、各々の視座において遠く離れたまま少しも近づいていかないのである。

●シンギュラリティをナンセンス扱いする人の不思議

「意識」と「自由意志」と「知能」はそれぞれ互いに異なる概念だが、親戚筋とも言える。

計算機やロボットなどのような機械に備わった知能のレベルが、人間のそれを追い越す日を「シンギュラリティ(技術的特異点)」と呼ぶ。その日が実際に来るかどうかは、未来のことゆえ、誰にも分からない。

言い出しっぺはレイ・カーツワイル氏で、2045年ごろに来るだろうと予想している。

可能性として、大雑把に分類するなら、こんな感じか。

(0)もう来ている
(1)数十年以内ぐらいに来る
(2)原理的には可能だが、実際に技術が編み出されるまでには当分かかり、数世紀の単位で先の話である
(3)原理的に不可能であって、未来永劫来ない

どれもこれも、即座には否定しきれない、一理ある仮説である。なので、個人個人のとる立場として「私は仮説(2)を支持する」という言い方をするのは、たいへんまっとうな線である。

あるいは、問いそのものを精査して、問いとしてちゃんと成立しているかに疑問を投げかける立場というのも妥当な線としてありうる。

実のところ、知能とは何か、ちゃんと定義できていないのだ。定義できていない以上、そのレベルの評価方法も確立していない。人間にせよ、他の生物にせよ、機械にせよ、ある個体に備わった知能がどの程度なのかをどうやって測ればいいのか。

知能テストがあるではないか、と言うかもしれないが、あれは人間を対象とするもの、という前提がある。

モラベックのパラドックスというのがある。人間と機械とでは、得手不得手の領域が異なり、簡単/難しいの価値観が往々にして逆転するのだ。そこを考慮に入れて、知能を備える媒体によらず、その知能のレベルを公平公正に評価するための手法がまだ出来ていないのだ。

アラン・チューリング(Alan Mathieson Turing)氏(1912─1954)が考案した「チューリング・テスト」というのがある。けど、そのテストは、知性を使って知性を測るようなもので、論理的にみれば、知性を定義するのに、その定義の中で知性という言葉を使っちゃっているような自己撞着に陥っている。

チューリング氏本人はおそらく百も承知で言っている。とにかく、定義にもなっていなければ、客観的なテストにもなっていない。

機械が人間を追い越す、と言っても、知能の評価方法が定まっていないのに、何をもって判定すればいいのか。それをもって問いとして不完全であると言うのは、まったくもって、ごもっともである。

ただ、私は、問いの不完全さを認めつつも、問いの表現が未熟なだけであって、問いそのものが成り立たないわけではないと考えている。

人工知能(AI)の技術の現時点における到達レベルを見てみれば、囲碁でプロを負かしたりと、「なかなかやるな」というところまで来ているのは確かだが、われわれが「知性」と呼ぶもの(その「知性」がちゃんと定義できていない以上、議論が不完全になっちゃうのはしょうがないとして)が、備わったかというと、まだぜんぜんで、いろいろ欠けている機能がある。汎用性、自律性、実世界の意味的理解(記号接地問題の解決)、自己言及能力、行動動機(欲望)、感情、仮説生成能力、等々。

AIにはかくかくしかじかの機能が備わっていないから、人間のようにふるまうのはぜったいに無理だ、という論をよく聞くが、その機能が備わっていないのは今現在の話であって、未来永劫にわたってそれを備えることができないとは限らない点に注意が要る。

1956年のダートマス会議からまだ60年ちょいしか経っていなくてここまで来ているAIの進歩の早さを考えると、数十年のうちには大きなブレイクスルーが来たとしてもおかしくはない。

私自身は、人間機械論の立場をとり、意識でも知性でも、機械に宿らせることは原理的に可能だと考えている。いつ来るかについては、まったく確信はないが、じゅうぶんな知性を機械に搭載するためには、意識を宿らせないと駄目で、そのためには、意識のハード・プロブレムを解明しないと駄目で、それにはあと300年くらいかかるとみている。

しかし一方、意識の宿っていない、いわゆる「弱いAI」であっても、数十年のうちにはそうとういい線行くかもしれないという論も、ある程度支持している。

私にとって、どうにもこうにも理解しがたいのは、シンギュラリティの問題を、論じる価値もないナンセンスだと、切り捨てて終わりにしようとする人たちの思考回路だ。

たとえば、マルクス・ガブリエル氏。インタビュー記事の中で言っていることが、もう、支離滅裂で、ひどい。

7/13(金)10:31 配信
Yahoo! ニュース
コンピューターは哲学者に勝てない
──気鋭の38歳教授が考える「科学主義」の隘路
ライター・斎藤哲也(Yahoo! ニュース 特集編集部)
https://news.yahoo.co.jp/feature/1016


1月の邦訳刊行から半年で2万部以上売れている哲学書『なぜ世界は存在しないのか』を書いたドイツの哲学者マルクス・ガブリエル氏(38)が語る「危機の時代の哲学」とは。

>> 「近い将来のシンギュラリティ」はばかげているし、ナンセンス。
>> 「ウンコな議論」そのもの。

みなさん、聞きましたか? ウンコですよ、ウンコ! 来ましたね。どういうことでしょう?

>> 彼らの根本的な過ちは、知性(インテリジェンス)というものを
>> 理解していないことにあります。

あのですねぇ、「知性というものを理解していない」のは、「彼らの根本的な過ち」ではなくて、「我らの根本的な謎」なのだよ。ここはガブリエル君の根本的な過ち。

「彼らの根本的な過ち」と言っちゃうあたりに、「オレは正しく理解しているけどな」という含意が読み取れ、かえって何もわかっていないのが露呈してますね。

誰も正解を知らないということを知っている、というのが正しい態度であって、ソクラテスの「無知の知」みたいなもんだね。

ずけっと言っちゃっていいかな? 私は、まったく飾り気のない純粋な気持ちで、嘘偽りなく正直に、心底から「頭の悪い人なんですね」と思った。これもまた根源的な問いの見えていない人の実例なのだ。

とは言え、新進気鋭の哲学者が頭悪いというのも不自然な感じがする。深い謎だ。

●頼む、もうちょっとマシなことを言ってくれ

根源的な問いにかかわる、意識や自由意志のこと、あるいは知能やシンギュラリティのことを論じるなら、学際的にやるべきではないか、という意見は、科学の側からもよく言われることである。

客観的な実験・観察の手続きにより、「自由意志」は主観の側の錯覚にすぎず、実際には発動不可能という結論に至りました、と科学の側が宣言して、以上終わり、でよいのか?

裁判の土台となる意義づけはだいじょうぶか、とか。

美学・芸術方面は、何か影響を受けて新たな風が吹き始めたりするのか、とか。

哲学者はどういう形で思想体系に取り込むのかな、とか。

ロジャー・ペンローズ氏は、みずから提唱した量子脳仮説について、哲学者に意見を求めたことを著書『心は量子で語れるか』に書いている。

「意識の研究をしたいなら、物理学じゃなくて、生理学あたりでやるのが適当でしょうに。カテゴリを間違えてない?」ぐらいのコメントしかもらえていない。私は読んで、なんでそんなくだらないことしか言えないんだろう、と甚だがっかりした。

ユヴァル・ノア・ハラリ氏は、ダボス会議でのスピーチで、「少数のデータ支配者による人類全体の生命支配の危機」について語り、この問題については、広く哲学者や詩人まで巻き込んで議論すべきだと提言している。

しかし、ガブリエル氏のこれへのコメントが、科学至上主義という心がけの悪さのせいで、価値そのものを幻想や虚構だと考えるニヒリズムに陥っている、という感じの、これまたがっかり感あふれるもので。

「民主主義的な価値について話したところで、それを幻想や虚構と捉えるニヒリストには空疎な話にしか聞こえない」とか。なーんか、違う土俵にすっ飛んでない?

歴史学者であるハラリ氏が、科学至上主義なんて唱えてたっけ? 「神や貨幣や国家といった虚構を信じる力が人間には備わっていて、そのおかげで、赤の他人どうしの暗黙の協力がなしうるようになった。これは他の動物にはない、人間独自の特性である」と言っているのだが、それってニヒリズム?

ハラリ氏は、歴史の視点から科学の進展の方向性を見据え、現時点でここまで来ていることを踏まえた上で未来を予測し、我々人類がここで対応を誤ると、データという巨大な価値の寡占による命の格差という危機的な状況が発生しかねないと警告している。明晰な分析にみえる。

科学が何を解き明かしそうになっているのか、それが社会の構造にどのような影響を及ぼしうるのか、ハラリ氏が見ている現状と近未来が、ガブリエル氏にはまるで見えていないようで、もう愚鈍で愚鈍で、だめだこりゃ、と思った。

どうもなぁ。根源的な問いまわりのことを学際的に議論しようとしても、空振りばっかだな、という印象が否めず。

客観を旨とする科学といえども、土台の土台の部分では、鉄壁というわけにはいかないという原理的な限界があって、そのあたりに哲学の出番をうっすら期待してたのだが。どうなんでしょ?

科学と二人三脚で走れる哲学って、ないの?

……という中で、ジョン・サール氏、デビッド・チャーマーズ氏、ニック・ボストロム氏あたりは、科学者たちの固定観念に一撃を食わせて揺さぶりをかける、非常にいい仕事をしているとは思う。

余談。先日、渡辺正峰氏と話す機会があり、ガブリエル氏の著書『なぜ世界は存在しないのか』について聞いてみた。渡辺氏は東京大学大学院准教授であり、著書に『脳の意識 機械の意識─脳神経科学の挑戦』がある。

「読まなきゃと思って読み始めたんだけど、嫌気が差して、途中で挫折しました。ぜひ読んでみてください」。これを聞いて、完っっっ全に読む気が失せた。ごめんちゃい。

私の意識談義の想定読者二人のうちの一人である武盾一郎氏は、図書館で借りてきたという。おお! 読んだら噛み砕いて解説してくだせーまし。武いわく、「マルクス・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』を寝ないで読める人から内容をきちんと教わりたい」。ぶっ。だめじゃん。

あらゆる哲学が、あらゆる観点に照らして無価値だとまでは言わない。しかし、意識の謎など、根本原理の解明を指向する者にとって、なぜこんなにも響かないのだろう。

哲学よ、頼むから、もうちょっとマシなことを言ってくれ。

●今に始まったことではなかった

物理学者のリチャード・ファインマン(Richard Phillips Feynman)氏(1918─1988)が、こんなことを言っていたのか!「科学哲学は、鳥類学が鳥の役に立っている程度にしか、科学者の役に立っていない」。

いい皮肉だ! ただ、今は、鳥類学は鳥の保護などで役に立っているらしいから、こうかな? 「科学哲学は、鳥類学が鳥の役に立っている程度に、科学者の役に立ってくれればいいのに」。

これに対する藤井氏のコメント。「ファインマンのその見解は単なる無知の放言…あるいはファインマンの周辺の科学哲学者がアホなのでしょう。科学者にせよ哲学者にせよ素人にせよ、一面的な放言は下らないものが多いので、いちいちそんなものに引っかからぬよう」。

いやいや、引っかかったのではなく。あのファインマン氏も哲学について、オレと同じフラストレーションを抱いていたんだ、っていう、深〜い感動と共感と大はしゃぎです。

あと、こんな本があったのか! 見つけたばかりで、まだポチってもいないけど。

須藤 靖(著)・伊勢田哲治(著)
『科学を語るとはどういうことか ──科学者、哲学者にモノ申す』
河出書房新社(2013/6/11)
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/430962457X/dgcrcom-22/


この著書について、下記のような記述を見つけた。

……………………………………………………………………………………………

哲学者の議論を「的外れ」と憤慨する科学者と、科学者の視野の狭さを精緻に指摘する哲学者による妥協なき徹底対論。価値観の異なる者同士が科学を捉え、語り合うためには何が必要か。

科学者から見ると、哲学者はアホ ?! 哲学者から見ると、科学者は視野が狭い ?!

須藤:最新の自然科学を取り込むことなく、ずっと以前から繰り返されている哲学者のための哲学的疑問をいじることに意味があるのだろう。

伊勢田:もしかして、世の中には物理の問題と趣味の問題の二種類しかないと思っていらっしゃいませんか?

……………………………………………………………………………………………

ああ。もし最初っからこの著書を知っていれば(って、読んでないけど)、今回のコラムはそもそも書く必要がなかったかもしれない。

藤井氏のコメント。

「あの対談本は、哲学VS自然科学という対決となっていないのでご用心。ボクの観点から捉えても、科学代表の須藤の見解の方に分があるところが多いものでした。自由意志や因果性などについてもしばしば哲学的にまっとうな応答をしている。伊勢田の哲学的力量が未熟すぎる。

哲学的センスというのは、専門知識の量ではないし、学会などでの権威でもない。専門が自然科学だろうと芸術だろうと、キャリアが長老級だろうと学部生だろうと、課題を成り立たせている存立条件や、その課題対象を捉える認識のフレーム、そこで働いている価値基準などを、徹底して問い返すセンスです。その点で、伊勢田より須藤の方が哲学者ですね。ソーカル問題にしても、伊勢田の評価は素人レベルだし」。

このコメント自体は、ものすごく参考になり、たいへんありがたい。けど、立ち位置の相違がにじみ出ている感じもする。科学から哲学を見たときのあのたまらないフラストレーションという、私が反応したポイントにピンと来ていないようで。

科学者が、哲学よりも科学のほうが上だと言い、哲学者がその逆だと言い、決着をつけるべく論戦が起きるなら、それは一種のスポーツのようなもので、楽しいかもしれない。双方が了解しているルールがあるのであればの話だが。

しかし、そうではなく、たとえ科学と哲学がお互いに相手を理解しようと努めて、慎重に言葉を交換しあったとしても、どうしても噛み合わないようにできているのかもしれない。なんか根源的なすれ違いが見えるのである。

●問いを無効化する論には一理ある

意識の謎について、問いそのものの有効性を否定する立場がある。それに対しては、「問いに気づけないなんて、馬鹿だなぁ」という批判は当たらない。

理由いかんによっては、たしかに一理あると納得できるものもある。本来は精査すべきなのだが、それをやっていると、とてつもなく長くなりそうなので、ざっと眺めながら走り抜けたい。

まず、カテゴリー錯誤とするもの。脳が存在するというのは、物質的実体として、この客観世界における空間に体積を占める形としてであるのに対して、意識が存在するというのは、主観世界における感覚体験という形としてである。

同じ「存在」という言葉で言い表したからといって、両者は意味が違う。「脳に意識が宿る」という記述は、別々のカテゴリに属する概念をごちゃ混ぜにしているため、意味をなさない。

一理あるような感じはする。しかし、私はこれを支持しない。主観世界と客観世界とを橋渡しする位置に問いが置かれているからこそ「難しい」のであって、問いそのものが存在しないわけではない。

第二に、問いを構成する用語の定義に不備があるとするもの。つまり、「意識がある」というのは、主観的な体験として、感覚的な共感をもってお互いに理解しあえるものであって、客観世界の言葉でちゃんと定義することが出来ていない。未定義の言葉を使った問いは無効である。

これは、私はアリだと思う。しかし、賛同はしない。表現が未熟なのは認めるけれど、問いがそこにないわけではない。

第三に、支持する仮説に基づいて、自動的に問いが消滅するというもの。「消去的唯物論」という立場がある。「心は存在しない」とするものだ。意識があるフリが上手いけど、実は意識を宿していない、思考実験上の仮想的存在を「哲学的ゾンビ」という。

意識を宿す実体と、哲学的ゾンビとの間には、外から観察したときの見かけ上、区別がつかないだけではなく、中身にまで及んでも、すべてにおいて同一であり、本質的な差異はまったくないのだという見方をする。

これは、たいへんごもっとも。この立場をとるのであれば、問いを無効化されても文句は言えない。心はそもそも「ない」というのだから。

アラン・チューリング氏がこの立場だ。中ザワヒデキ氏もだ。いわく、「私は機械で大いに結構」。チューリング氏は数学者であり、第二次世界大戦中、ドイツの暗号を解読した実績のある天才である。頭がよすぎると、消去的唯物論へ行っちゃうのかなぁ。


【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
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《TOMOZOさん、初めまして》

私の意識談義の想定読者二人のうちの、もう一人であるTOMOZOさんと、7月11日(水)に初めてお会いした。何年かにいっぺん、翻訳の研修があって、日本に来るのだそうで。夜、中野で会って、私の行きつけの焼き鳥屋で飲んだ。『有吉ジャポン』の収録に使われた思い出の店だ。

いつもおもしろい文章を書いていただきまして、ありがとうございます。言葉は背景に文化を背負っていること、翻訳しようとして初めて気づく、概念は存在しても、それを簡潔にぴったり表現できない言葉の空白、言葉の味わいある奥深さを教えていただいています。

意識の謎という問いに、人々はなぜかくも気づきづらいんだろう。気づいたら自分がなんらかのダメージをこうむるもんだから、気づかないように防衛機構がはたらくのだろうか。

「そうなんじゃない?」とTOMOZOさん。これまでに築いてきた価値観の土台から崩れちゃうような、危機感覚みたいなのがあるのかもね。われわれって、なんかの拍子に鍵が外れちゃったのかなぁ。

《三遊亭とむさんと飲む》

三遊亭とむさんからお誘いが来て、共通する行きつけである薩摩郷土料理のお店「ぢどり亭」で一緒に飲んだ。

私は、もみのこゆきとさんとお会いしに鹿児島に行ったとき、「大安(だいやす)」というお店に連れて行ってもらい、そこで食べた鶏もも焼きがすごくよくて、同じようなのを出すお店が東京にないかと探して見つけたお店だ。

とむさんは実家がご近所で、このお店にはずっと前からよく来ていたんだそうで。私がとむさんの講演会を見にいくようになったのは、このお店から教えてもらい、チケットを都合してもらったからだ。二度行っているが、二度とも最前列の席だった。

売れっ子芸能人がいかに多忙な日々を送っているか、垣間見た気がする。この日も、3つ4つ用事があって、あっちゃこっちゃ飛び回っていたのだとか。最後の用事が近くであったため、ついでに、ってことで、飲みに誘っていただけた。ところが、前の用事が押して、最後の用事が果たせず、結局、この場所では飲んだだけになったんだとか。

常に気を張って生きている感じ。最後はタクシーで帰って行かれた。時間というリソースが一番価値が高いので、それをお金で買えるなら迷わずそうするってことのようだ。

白鳥は優雅に水に浮かんでるけど、水面下では忙しく足をバタつかせていると言われる。売れる芸能人は、水面下でものすごい努力をしてるんだろうなぁ。まず体力がないと、もたん。そこからして真似できん。

それだけじゃなく、奇跡のような偶然を引っ張り寄せる、不思議なパワーをお持ちだ。そういうエピソードに事欠かないってとこがすごい。

(売れっ子芸能人)=(努力)×(運)

まあ、まず間違いなく成り立つ鉄板方程式だろう。尊敬の念を新たにした。私はこの日、大量の言葉を吐き出したが、それはキーボードからネットに向かってテキストで投げられたものであり、実際には一人で沈黙して過ごした。藤井氏との例の論争である。

夜、とむさんとお会いする前は、「トマトラーメン全部のせ」が、この日、口から出た唯一の言葉であった。

弟弟子にあたる三遊亭らっ好さんをお連れになっていた。らっ好さんの格好が尋常でなかった。Tシャツを着ているところまではふつうだが、そのTシャツが、真正面、首から下20cmほどにわたって縦にびりっと破れていて、それを内側からセロテープで修復してあるのである。

やっぱこの世界、縦の関係が厳しくて、日々、暴力が絶えないのであろうか。んなわきゃあるかいっ! らっ好さんは、この日、高座があった。しかし、家まで着物を取りに帰っていると間に合わない。後輩のを借りることにした。

素肌に着たら汗を吸ってしまう。かと言って、中にTシャツを着ていると、襟の間から見えてしまう。で、鋏で上部を切り、あとは手でびりっと引き裂いて左右に分け、見えなくしたというわけだ。

状況の異常さと理由のまっとうさの対比が意外すぎる!


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編集後記(07/20)

●日本防災教育振興中央会 仲西宏之/佐藤和彦「震度7の生存確率」を読んだ(2016/幻冬舎)。わたしはマンションの防災委員会のまとめ役だから(誰もなり手がないので、仕方なく何年もやっている)この手の本はよく読むのだ。他の防災本との大きな違いは、「発災の瞬間」に焦点を合わせていることだ。

準備や発災後の生活も大事であるが、「発災の瞬間」で生き残れなかったら人生は終わりである。震度7の巨大地震に直面したときの、ありそうなシチュエーションの中で、行動の選択肢が示される。そして、読者が選択した行動の、生存確率を%で示すというわかりやすい、興味深い構成が第一章にある。

質問:地下鉄に乗車中、激しい地震に遭遇。その時のあなたのとる行動は?
1.両手でつり革につかまったまま踏ん張る 
2.片方の手はつり革をにぎり離した手で頭部を防ぐ 
3.その場にしゃがみこむ

回答:
1.最も危険度が低く生存確率を高める(生存確率70%)
2.片手ではつり革をもつ力が弱まり身体ごと飛ばされる可能性が高い。致命傷となる頭部の保護も片手では不十分(生存確率50%)
3.最も危険度が高い。他の人の下敷きになり骨折や内臓破裂などの重傷を負う可能性が高い(生存確率30%)

といった、18の質問と回答があって、生存確率が%で示されるから家族でゲーム感覚でトライするといいと思う。生存確率は場所と状況と行動の関数で決まる。一般的に災害時は、落ちてこない、倒れてこない、移動してこないの3点に注意することを基本とするが、「自分が落ちない・倒れない」を加える。

そのためには、しゃがむ、つかまる、動かないの三つが基本で、さらに、離れる、隠れる(逃げ込む)の二つを加えて発災時の危険を軽減する。とくに「しゃがむ」行動をとるべき状況が増えている。同じしゃがむという行動でも、正しい姿勢でしゃがむことで、生存確率をさらに高めることができる。これ重要。

筆者らが考案し提唱するのが「ゴブリン・ポーズ(鬼の格好)」だ。片膝をついてしゃがみ(床や地面を3点で支える体勢)、後頭部に握りしめた両手の拳をしっかりとのせ、顔を両腕で挟み、あごを引いて完成。このポーズは、危機に直面したときに最も身体ダメージ軽減できるだけでなく、次の行動に移りやすい。頭上からの落下物に対し拳をクッションにし、脳への衝撃を和らげる。

拳が骨折する覚悟で脳を守るのだ。脇を締める動作で拳が後頭部と密着し、あごを引く動作に自然とつながる。しっかりあごを引くのは万一頭上に落下物があった場合、頸椎への衝撃を和らげるためだ。ゴブリン・ポーズは素晴らしい生存テクニックである。早速あなたもやってみよう。みんなに教えよう。

この本の後半は、発災後に始まる長い戦いを描いている。20XX年7月1日、東京湾北部を震源とするM7.3の地震が発生(首都直下地震)。3か月後にM9.0の南海トラフ巨大地震発生という、日本の息の根が止まりそうなドキュメンタリー。

……そういえばあの年は、西日本豪雨があり、関東甲信の梅雨明けが異常に早い猛暑で、何かおかしな感じがした、と後に言われるようになるのか。あ、ミンミンゼミが鳴いている(19日午後)。いつもより早い。早すぎる。(柴田)

日本防災教育振興中央会 仲西宏之/佐藤和彦「震度7の生存確率」
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●1.だった。というより、他の動きなんて咄嗟にできないと思う。固まる、踏ん張る。建物の中で、揺れている最中に逃げたり、ドアを開けて出口を確保できる人は凄いと思うわ。

/雰囲気で買う、の続き。あとよく言われるのが、%や倍などの比率。100倍効果アップと言われたって、最初は1で100になるだけかもしれない。別の商品は元から200って可能性はあるが、比較しようがない。

いまはサイトがあって、情報があるから、まだマシなんだろうけれど、時間制限もあって、全部の商品を吟味していられないので、日用品は有名なメーカー、宣伝文句頼りだわ〜。

だいたいその宣伝文句の性能が自分に必要かどうかも怪しいのに、なんか性能ついてるから〜と付加価値に思えて買っちゃうことあるわ。 (hammer.mule)