[4618] 病の名は「無限後退思考障害」─「意識の謎」がなぜ見えづらいかという謎 の反響

投稿:  著者:  読了時間:38分(本文:約18,900文字)



《だいぶ重症のご様子》

■Otaku ワールドへようこそ![285]
 病の名は「無限後退思考障害」─ 前回の反響
 GrowHair




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■Otaku ワールドへようこそ![285]
病の名は「無限後退思考障害」─ 前回の反響

GrowHair
http://bn.dgcr.com/archives/20180801110100.html
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●この病名は使えるかも

何かの拍子にふと「意識の謎」という問いに気づくと、その問いの不思議さと深淵さに意識がとらえられ、答えに遠く手が届かない歯がゆさにクネクネし、他のことへの注意がおろそかになってぼーっとする。

問いに気づいちゃった同好の士は、みな同じような症状を呈するので、見りゃすぐ分かる。誰か病名をつけてくれ。……ってなことを前回書いた。

「『意識の謎』がなぜ見えづらいかという謎」
http://bn.dgcr.com/archives/20180720110100.html

つけてくれた人がいる。広島の戸田氏だ。「全脳アーキテクチャ」のFacebookページで、私の書き込みにコメントしてくれた。

その病名は「無限後退思考障害」。上手い! 意識について考えるとき、無限後退に陥ることがよくあるのだ。

自分をメタな立場から見下ろすもう一人の自分がいる、という感覚をもつ人は多いだろう。しかし、意識の問題について考えるとき、脳内にある異なる機能を担当する無数の神経細胞のネットワークを鳥瞰する、ホムンクルスとしての自我意識を仮定すると、まずいことが起きる。

ホムンクルスの中にホムンクルスがいなければならず、さらにその中にも、……という話になって、マトリョーシカみたいなことになるのだ。これがひとつの無限後退。

ベンジャミン・リベット氏は、実験により、自由意志が存在しないことを示唆している。意識の側が、行動を始めるぞと決める瞬間よりも早くから、無意識側でその行動の準備が始まっていることを示している。

もし、どうしても自由意志の存在を担保したいのであれば、無意識側が先に決めたことを意識側で拒否するという、消極的な形で自由意志が発揮しうるのではないかと考えられる。

しかし、その拒否権を発動するのに、やはりその前から無意識側で拒否の脳活動が始まっていたら、無限後退に陥る。拒否権説を言ったリベット氏本人が、自分にツッコミを入れている。

この病名は使えるかも。「無限後退思考障害の発作が出ちゃいまして。本日、出社できません」。

って、ぼーっとしとるだけやんけ! 電車を乗り過ごしたり、会社の入口で社員証をかざして開けるべきフラッパーゲートにSuicaをかざしたり、なんてことは日常茶飯事だ。

「だいぶ重症のご様子」という戸田氏だって、「私も、気がついたら、エレベーターでつい考え込んでしまい、目的の階で降り損ねたり、バスでいつの間にか知らないところにいたりします」と。思いっきり罹患してますやん。

「あまり重篤化すると、私生活に支障をきたしますので、ご自愛ください」と戸田氏。コワい病だ。

●中ザワヒデキ氏の勉強会で3時間しゃべった

前回、7月20日(金)配信分の内容は、もともと中ザワヒデキ氏の「人工知能美学芸術研究会(AI美芸研)」のFacebookページでの議論に端を発したものであるから、その配信分についても同じ掲示板に書き込んでおいた。

21日(土)の夜、より正確には翌日2:00amごろ、カラオケの宴がお開きになって、へべれけ状態で名古屋のホテルに戻ると、中ザワヒデキ氏からメールが届いていた。

神保町にある「美学校」で、中ザワ氏が隔週で受け持っている「中ザワヒデキ文献研究」という有料講座があり、7月25日(水)の晩、ゲスト出演してくれませんか、という依頼だった。

意識のハード・プロブレムについて、気づいてしまったがゆえに抱えている問題系をぜひ存分に語ってください、と。無限後退闘病記ですね。

持ち時間が3時間も与えられているのに、準備期間が当日も含めて4日間しかないのはちょっとキビシイけど、嬉しい機会だ。そこに問いがあること自体、とかく理解されづらい「意識のハード・プロブレム」だが、これくらい時間をかけて語り倒せば、たいてい伝わるのではあるまいか。

……というのを試してみる、絶好の場だ。問いの存在を理解してもらえればいい、という一点だけを目標に掲げ、周辺をぐるぐる回りつつ、次第次第に距離を詰めていき、核心に迫っていくという構成をとった。

気持ちよくしゃべっているうちに3時間はあっという間に過ぎ、30分も延びてしまった。聴講者の方々も、退屈するということはなかったようで、成功だったと言える。まあ、内容は、私がこれまでに聴講したいろんな先生の講演のキメラみたくなったけど。

後から動画を見つけた人が、こんなツイートをしている。

「何気なく YouTubeみてたらセーラー服おじさんがめちゃ真面目な議論してる動画があって、内容も面白い。なんなんだこの人w 18:31-2018年7月26日」。

「美学校」サイトでの、この講座の案内:
https://bigakko.jp/course_guide/art_mediation/nakazawahideki/info

中ザワヒデキ氏のサイトでの、この回の案内:
https://www.aloalo.co.jp/nakazawa/2018/0725a.html

中ザワ氏配信版 Twitter Periscope 動画、プレゼン資料あり(1/2, 2/2):
https://www.pscp.tv/w/1lDGLXQdgjyGm
https://www.pscp.tv/w/1lPJqkArjzbKb

みそに氏配信版 Twitter Periscope 動画、人のみ(1/2, 2/2):
https://www.pscp.tv/w/1LyxBQbewaLJN
https://www.pscp.tv/w/1YqJDQbzplExV

中ザワ氏配信版 YouTube 動画、プレゼン資料あり(1/2, 2/2):




●識者のコメント

頭のよさのレベルが超越的な著名人の方々から、コメントを頂戴しました。


○中ザワヒデキ氏………………………………………………………………………

美術家、「人工知能美学芸術研究会(AI美芸研)」発起人代表

コメント:

自分はどうやら小林さんを失望させてしまっている当の張本人のようです。つまり「意識の謎」と言われてもピンと来ないのです。何がどう謎なのでしょうか。とは言わずに(哲学的ゾンビよろしく)Facebook上での議論を見守っていたら、小林さんは私を「消去的唯物論」(意識など最初から無いと考える立場)に分類し、この人たちにとっては謎は最初から無い、と解説されました。

はい、確かにその通りかもしれません。私が起草した「人工知能美学芸術宣言」の注8(※)にも書いたとおり、厨二期以来、鳥のオウムと私の間に違いはなく、つまり自分は最初から機械で結構と考えております。

但し今回のこの問いが「意識の謎」ではなく「意識の難しさ」であるとするならば、それは原子論とイデア論の仲介という原理的困難を孕むはずのものだとは認識しているつもりです。

機械的情報と意味的情報の仲介と言い換え可能です。

※「人工知能美学芸術宣言」
https://www.aloalo.co.jp/nakazawa/2016/0501b_j.html


○原島博氏………………………………………………………………………………

東京大学名誉教授、「日本顔学会」発起人代表。著書に『顔学への招待』などがある。

コメント:

あくまで個人的な印象ですが、科学は普遍的な解を得ることに意味があり、哲学は問うこと自体に意味があるように思います。そのことを互いに理解しないとすれ違いは続くでしょうね。

(ケバヤシ:ちょっと心配なのは、哲学側で問いをばんばん粗製濫造することは、やろうと思えばおそらく可能で、そのとき、それぞれの問いに、それを問う価値があるのか、という問いがくっついてくるのをどうしよう、というのがあります)

哲学はその時代あるいは社会を背景としていますから、たとえばいまのアメリカは政治哲学が盛んです。僕は「自由」にテーマが粗製濫造されることは良いことだと思っています。粗製濫造されたテーマは自然淘汰されていきます。

むしろ科学の方が問題で、いまテーマ選びが、たとえば経済再生に役立つかどうかというような評価基準で、国によって誘導されています。そのもとで営まれる科学は中立ではなくなっています。


○渡辺正峰氏……………………………………………………………………………

東京大学大学院工学系研究科准教授。著書に『脳の意識 機械の意識 ─ 脳神経科学の挑戦』がある。

コメント:

私も意識の話がなぜにこれほどまでに理解されづらいのか、不思議に思うことがよくあります。

昔、クリニカルニューロサイエンスという医者向けの雑誌で、意識特集が組まれたことがあって、茂木健一郎さんや大泉匡史さん(株式会社アラヤ)などといっしょに寄稿しました。その中で、茂木さんが似たような視点で記事を書いていて面白いと思いました。
https://www.fujisan.co.jp/product/1281683673/b/1089760/


○金井良太氏……………………………………………………………………………

株式会社アラヤ代表取締役。著書に『個性のわかる脳科学(岩波科学ライブラリー)』などがある。

コメント:

僕は意識への気づきが三段階あると思っています。最初に、意識という問題の深さと特異性に気づくことです。そこにまず気づいていない人がそれなりにいます。この第一段階の時点で、たぶんちょっと色即是空的な感じになります。

次に、ハード・プロブレムに気づくというのがあります。この段階で、これは科学で扱える問題なのかと一旦絶望的になり、ほとんどの脳研究者のやっていることが無意味に思えてしまいます。

そして三段階目で、ハードプロブレムは一見無敵っぽいけれど、実はけっこう攻めどころがありそうだということに気づきます。解くべき具体的な問題に落とすことが可能なのではないかと気づきます。

このすべてを実感として感じることが重要です。

意識の研究において、科学と哲学の関係にはよく考えさせられます。僕のこれまでの体験から、思うところをコメントします。

まず意識研究という観点からは、哲学者でも科学者でも、意識の解明に貢献しているかどうかという観点で見ています。そう思うと、哲学者と科学者を区別する必要はないと思います。

むしろあらゆる学問分野を縦横無尽に使いこなして、意識の解明に臨むのが正しい態度だと思っています。

ところが、哲学者も科学者も8割ぐらいの人は、他の分野の人を充分に知っていないように思います。

なので、科学者の視点からすると、哲学者のコメントが、素人の域を出ないものに見えることが多々あります。科学のトレーニングを受けていない人や、数理がわからない批評家みたいな人がたくさんいます。意識の解明を第一のテーマにはしていないのかもしれません。

意識研究では、哲学者の人たちにも、神経活動の詳細や、情報理論で使われる数理まで知り尽くした上で活動してほしいです。そして、むしろ哲学もテクノロジーとサイエンスの領域で、過去の遺物にこだわらずに新しいものを作っていくべきだと思います。

一方で、哲学者には意識研究への貢献度の高い人もいます。けっこう哲学者の考える概念や枠組みというのは、意識の科学者の考え方へ影響を与えていると思います。

例えばアクセス意識・現象的意識などの概念は、意識を科学として扱うときにも使っている概念です。こういったものをズバリ言い当てて言語化してくれることは、哲学者の強いところだと思います。

僕は北大の田口茂さんという現象学者の方と交流がありますが、その方の説明する現象学や「媒介」の概念などは、意識を考える上で、非常に役立っていますし、自分自身の研究の位置づけを明確にしてくれます。

それから、最近出会ったLisa Miracchiという哲学者は、Mechanism Readyという面白い概念を出していて、人工意識を作ることの意義を説明するのに使わせてもらっています。

そういう意味で、実質的な貢献のある現代の哲学者というのは、意識研究ではある程度はいるように思います。

一方で、例えば色について哲学をやっているような人が、視覚処理の仕組みを現代の科学の基準で知らないまま、哲学者として研究しているような話を聞くことがあり、そういう場面で理解の浅さが明らかに見て取れます。それでがっかりしてしまうことが多いのです。

哲学の分野にもよりますが、わかりやすいかも重要です。哲学の古典的なものは、とてもわかりにくいので、文献学みたくなってしまっています。そういうのは、ほとんど現代の意識研究では役に立ちません。

知識というのは共有できることが素晴らしいので、ちゃんと理解したら、二次的に説明できることが重要です。

例えばフーリエ変換は、教科書を読めば理解できて、自分自身で利用可能な知識になります。フーリエが原文でなんて言っていたかの解釈についての議論は、フーリエ変換の知識を得るのには不要です。

哲学者のアイデアも、二次的に説明が可能なものになっていることが非常に重要なのではないかと考えています。そうでないものは、意識の解明のために哲学も使うという立場からは、あまり生産的ではない議論に陥ってしまうように見えます。

文章として読んでわかりにくい哲学は良くない風習だと思いますが、心の哲学の分野では、英語圏ではクリアな文章が多いので、哲学全体で、そのやり方をしてほしいと思っています。

できれば、哲学を学問分野として分けるのをやめるべきだと思います。哲学専攻の学生も、数学や生物の実験を経験したり、ディープラーニングのプログラムを書いたりできて、幅広い科学の分野に触れられるような学際的な学部が必要です。科学者も哲学をもっと教科書的に学ぶ機会があると良いです。

科学者の哲学者嫌いを個人的な観点からまとめると次の2点です。
1.哲学者は科学の勉強が足りていない
2.哲学は科学ほど知識をクリアにしていない

でも、これをクリアしている哲学者もいるので、そういう人は尊敬できるし、耳を傾けるに値することを言っていると思います。

日頃、思っていることはこんなところです。


○津田一郎氏……………………………………………………………………………

中部大学教授。
著書に『心はすべて数学である』などがある。

コメント:

科学と哲学については、昔から類似の議論はあります。特に物理学者は一部の例外はありますが、哲学嫌いです。日本の科学哲学は基本的に物理学出身者がやっているので、物理哲学です。故に、実証主義的な物理学者からは嫌われている。

本来は科学哲学は物理だけでなく、生命、情報、機械、さらには社会や人類といったパースペクティブをもって行うものだと思いますが、アメリカでもなかなかそういう人は出てないのではないかと思います。

私は哲学は好きな方ですが、哲学者の文章は難しいですね。人によって使う言葉の定義が違っているので、共通項が見出しにくい。だから、デカルトの専門家、カントの専門家、ハイデガーの専門家といった感じにならざるを得ないのかなあ、と残念に思います。

例えば、ハイデガーの「現存在」は「人間」のことですが、かれは「人間」という言葉を使わない。使わないのは理由があるからです。人間は時間の中で生きている、不確定な未来を確定して現在が決まる、という時間構造の中で生を営むから、「人間」とは言いたくない、あくまで「現存在」なんだ、と言うことなのでしょう(勝手な解釈で申し訳ない)。

私は研究、特に科学研究には二種類あると思っています。

I型:解決が難しいと思える、あるいは解決すべき問題を解決する=ノントリビアルな問題をトリビアルにする。

II型:そこには何ら問題がないと思っているところに根本的な問題を見出す=トリビアルな問題にノントリビアルな問題を見出す。

たいていの人はI型の研究に終始しますが、しばしば科学で大事なのはII型の研究です。

小林さんが言われる意識の研究は、まさにII型の研究だと思います。II型の研究には哲学的な、すなわち対象のカテゴリーを超えた地点を見据える根本的な問題に対する嗜好性が必要ですが、このセンスのない科学者が多すぎるのかもしれません。しかし、II型は重要な科学研究であります。


○松田卓也氏……………………………………………………………………………

神戸大学名誉教授、「シンギュラリティサロン」代表、「Japan Skeptics」会長。著書に『人類を超えるAIは日本から生まれる』などがある。

コメント:

意識をめぐる大冒険

意識とは何か? という問題は、従来は一部の脳神経科学者と哲学者、それに多分SF作家だけが関心を持つテーマであった。近未来を扱ったSF小説や映画では、ロボットや人工知能が意識を持ち人間と対立するというテーマがよく描かれる。しかし意識への真面目な関心は一部のものであったことは確かだ。

しかし近年、人工知能理論の発達により、近い将来に機械にも意識を植え付けることができる、あるいは自発的に発生する可能性が見えてきた。すると意識を持ったロボットとかアバターが単なるSFのテーマではなく、現実的な問題として浮上し得る。そこで問題となるのは

1.機械にも意識は宿りえるか?
2.意識を備えた機械はつくれるか?
3.人間の意識を機械に移行できるか?
4.人間の意識と機械の意識を統合できるか?

それらについて以下で考察する。

1.機械にも意識は宿りえるか?

この問題は科学上の問題というよりは、世界観の問題だ。どういうことか? 多くの人は意識とは人間の特権であり、動物すら意識はない、いわんや機械に意識などあるはずはないと思っているであろう。動物が好きな人なら、自分の犬や猫には意識の存在は認めるかもしれない。しかし、たとえばゴキブリには認めないだろう。いわんや機械には認めないだろう。

これは理屈というよりは、世界観だ。哲学といっても良い。人間は万物の霊長であるという人間中心的世界観だ。これは極めてキリスト教的、西欧的世界観ではないだろうか。

ヒューマニズムということばがある。これは多くの日本人は博愛主義のこととでも思っているだろうが、そうではなく世界の中心は人間である、世界は人間のためにあるとする人間中心主義のことなのである。

キリスト教的世界観では、世界は神、人間、動物、その他の階層構造になっている。だから神を除けば、世界の中心は人間である。機械は神が作ったものではないから、多分、最下位であろう。

西欧中世に人間界を支配した神は、ルネッサンス以降だんだん力が弱くなり、19世紀末にはニーチェが叫んだように、死んだ。その後を継ぐのは当然人間である。ヒューマニズムは近代の思想である。だから意識という尊いものは人間にのみ許された特権であるとする。

しかし日本には「一寸の虫にも五分の魂」という言葉があるように、意識とか心というものは人間の特権ではないとする思想がある。だから「サーモスタットにも1ミリの魂」(※)があっても良いわけだ。

※David Chalmers氏(1966年4月20日-)が1994年に提唱した仮説。「すべての情報に客観的側面と主観的側面とがある」。熱膨張率の異なる2枚の金属板を張り合わせたバイメタルの湾曲により、温度が上がるとスイッチが切れるサーモスタットは、スイッチがオンかオフかの1ビットの客観的な情報を保持するとともに、暑いか寒いかの主観の原型をもつとする。「情報の二相理論」と呼ばれる。

西欧で神が世界の中心から滑り落ちて、人間が世界の中心に座るに至ったのは、コペルニクスによる天動説から地動説への転換が大きな役割を果たした。地動説は単に天文学上の一学説に止まらず、思想的にも大きな役割を果たした。

キリスト教では神が世界を作り、人間が動物たちを支配するように命じたとされている。だからキリスト教的には人間の住む地球が世界の中心であり、太陽のような天体は地球の周りを回るべきであったのだ。

その天動説が確固とした科学的証拠により否定され、太陽が世界の中心に位置した。ということは、もはや人間は世界の中心ではないということになる。

コペルニクス説はさらに、太陽すら宇宙の中心ではなく平凡な星に過ぎないとする宇宙原理に発展して行く。コペルニクス原理の行き着くところは平凡性原理、つまり地球も太陽も人間も宇宙の中にあって極めて普通のもの、平凡なものであるという思想である。

キリスト教的世界観への次の打撃は、ダーウィンの進化論によりもたらされた。人間も特別な存在ではなく、要するに動物界の一員に過ぎないという。つまり聖書の記述はうそだということだ。

現代の科学者にとって、人間はごく平凡な存在にすぎない。だから人間にだけ意識が宿りうるという考えは自明のことではない。機械に意識が宿っても何の不思議もない。

だから最初のテーマ「機械に意識は宿り得るか?」というのは、科学的な質問ではなく、世界観に関する質問だ。科学者対哲学者を含む科学者以外の対立だ。科学者としての私には「十分考慮に値するテーマです」という答えしかない。

ちなみに私はいろんな学問に対して次のように考えている。数学はこの宇宙を含む全ての宇宙で成立する。物理学はこの宇宙で成立する。哲学は人間界のそれも人文系でのみ成立する。西欧哲学は西欧の人文系人間と、その思想にかぶれた非西欧人の間でのみ成立する。

2.意識を備えた機械はつくれるか?

この問題を議論する前に、意識と知能は別物であるという点を主張しよう。これはイスラエルの歴史学者であるユバル・ノア・ハラリも強調していることだ。知能とはなにか? いろんな定義があるだろうが、生物が自己保存や種族保存の目的に合致した合目的的な行動をする能力としよう。

そうすると植物にも知能があることになるが、知能とは程度問題であろう。この観点ではゴキブリははっきりとした知能を示す。私からの打撃を巧妙にすり抜ける能力を持つからだ。しかし、ゴキブリが意識を持つかどうかは定かではない。

人間の知能は動物の中で最も優れているだろうが、人間の合目的的行動の多くは無意識下に行われている。高度な数学的思考ですら無意識下に行われる事が多い。実際、効果的な勉強法は意識的な思考の他に無意識下の思考も重視する。

だから、ここは私の感じなのだが、意識というのは多彩な脳活動のほんの上澄みにすぎないのではないだろうか。

慶應大学の前野隆司教授の受動意識仮説というものがある。要するに意識は脳活動の主役ではなく、いわば会社の社史編纂室長のようなものだという。脳活動の大部分は無意識という社員(前野教授はそれを「小人さん」とよぶ)が行なっていて、意識は小人さんの行動の報告を受けて記録するだけにすぎないとする説だ。

この説の当否はともかくとして、きわめて高知能でありながら、つまりきわめて合目的的な行動をとりながら、意識は希薄かまたは存在しないような人工知能を作ることは十分に可能だと思える。十分に可能どころか、現在の人工知能はそれだと思う。

例えば、アルファ碁は人間のチャンピオンに圧倒的に勝利する能力を持っている。囲碁をする能力を知能と呼べば(多くの人はそれに反対しないと思うが)、アルファ碁のその方面での知能は極めて高い。しかしアルファ碁に意識があるとは、私には思えない。

つまり意識と知能は別物である。生物、特に人間は知能を持ち、かつ意識も持つ。しかし機械ではそれは必ずしも必然ではないのではないか。だとすると、極めて高知能で、しかし意識のない存在、つまり哲学的ゾンビを作り出すことは可能ではないか。私は意識を備えたロボットやアバターを作り出すよりは、哲学的ゾンビの方が人間にとっては望ましいのではないかと思う。

さて意識と知能は別物だとしても、人間には明らかに意識があるのだから、意識を備えた機械を作ることも可能であろう。人間のように高知能でかつ汎用的な知的能力を持つ人工知能を「汎用人工知能」とよぶ。ここで定義として、汎用な知的能力を持つ人工知能を「汎用人工知能」、狭い知的能力しか持たない人工知能を「特化型人工知能」とよぶことにする。

この分類とは別に、意識を備えた人工知能を「強い人工知能」、備えていない人工知能を「弱い人工知能」と呼ぶことにする。

この分類では現行の人工知能は全て弱い特化型人工知能である。人間は強い汎用人工知能である。それとは別に弱い汎用人工知能という分類があり得る。極めて高知能であるが、意識はないか、あったとしても希薄な人工知能だ。つまりあまり自我の強くない人工知能である。私にはそれが望ましい方向だと思う。

これは4. の問い、つまり「人間の意識と機械の意識を統合できるか?」に対して、それが可能な技術ができれば、人間にとってはきわめて好都合だと思うからだ。極めて高知能な人間、超人間を作りうるからだ。

意識を備えた機械を作れるかという当初の疑問に関しては、アラヤの金井良太氏は作れると考えている。人間の脳とそっくり同じような機能をもつ人工知能を作れば良い。脳を完全に模倣するか、機能だけを模倣するか、行き方はいろいろあると思う。

現状での最も野心的な試みは、著名な脳神経科学者であるヘンリー・マークラム氏が主導する EU のヒューマン・ブレイン・プロジェクトであろう。それはニューロンの精緻なコンピュータモデルを作り、スーパーコンピュータで脳全体をシミュレーションしようというものだ。

そのニューロンのモデルは、現在の人工知能で大流行のディープラーニングで用いられる人工ニューロンのようなチャチなものではない。ニューロンを一つの単位として、それを積分発火モデルとか、もっと精密なホジキン・ハクスレイ方程式を解く以上のものだ。一つのニューロンを多数のコンパートメントに分割して、それぞれでホジキン・ハクスレイ方程式を解くという途方もないものだ。

しかし一番の問題は、ニューロン間の結合、つまりコネクトームがわからないという事だ。人間を含む動物は生まれた時は、コネクトームは基本的なものしかない。成長とともに、さまざまな感覚入力を受けて学習しながらコネクトームは成長していく。つまりいくら精緻な脳のモデルができても、それだけでは意識も知能も生まれないだろう。意識や知能に必要なコネクトームを備えていないからである。

その人工脳に体と感覚器官(それは本物の目でなくてもテレビカメラなどでも良い)を与えて、成長とともに学習しながら、それと平行してコネクトームも成長していく。だからこの人工脳を人間の親や教師が教育する必要がある。そうすれば、人間の子供に意識が芽生えるように、この機械脳にも意識が芽生える可能性はある。

ただし注意すべきことは、この人工脳につないだ感覚器や体は人間とそっくり同じものではないことだ。だからたとえ意識が生まれたとしても、それは人間のものと大きく異なる可能性がある。この人工脳はテレビカメラという目、マイクという耳、ロボットの手足をもつ生き物なのだ。人間とは大きく違う体をもった生物に生まれた意識と、人間の意識は果たして交流できるだろうか?

3.人間の意識を機械に移行できるか?

人間の意識を機械に移行する、これはシンギュラリティを喧伝しているレイ・カーツワイルの夢である。マインド・アップローディングという。これは人工知能の問題だけではなく、脳・コンピュータ・インターフェイスの問題である。

カーツワイルの考える究極の脳・コンピュータ・インターフェイスはナノボットである。それは赤血球くらいの大きさをしたロボットで、血管に注入されると体のいろんな部分に行くが、特に脳に行ったナノボットはニューロンの電位を測定して、それが発火したかどうかを電波か赤外線で外部に送信する。人間は頭に帽子のような受信機を被り、その信号を受信し、それを身につけたコンピュータか、あるいは外部のサーバーに送り解析する。

こうしてその人間の脳内のニューロンのあらゆる活動をモニターすれば、その人が何を知覚し、何を考えているかすべてを把握できる。つまりその人物の個性を完全に把握できる。そしてその個性を外部のコンピュータに転送して、その人の脳のモデルを作る。その人が死んだ後に、そのモデルを稼働させると、そのモデルに意識が発生して自分だと思い込むであろう。これがマインド・アップローディングのひとつの在り方だ。

もっとも現状ではそのようなナノボットができる可能性は少ない。もっと実現性の高い、もっと粗い脳・コンピュータ・インターフェイスでもどれくらい通信が可能だろうか? 私は個人的にはマインド・アップローディングにはそれほど興味はない。

4.人間の意識と機械の意識を統合できるか?

東京大学の渡辺正峰准教授は、人間の脳の半球を模擬した人工脳を作り、それと現実の人間のもう一方の半球と人工軸索でシナプス結合を行なって、機械に意識があるかどうかを、人間の脳の半球が確認する実験を提案している。これが唯一、機械脳にクオリアがあるかどうかを確認する手段である、と主張している。

この考えは非常に興味深い。だから当初の質問「人間の意識と機械の意識を統合できるか?」に対しては、渡辺氏はイエスと答えるであろう。私はその前提を受け入れて、そのあとは妄想をたくましくしてみたい。

渡辺氏は人間の脳の半球と機械脳の半球を結合して、人間の脳で機械脳のクオリアを味わうことを考えている。しかしその実験が成功したとすれば、何も半球である必要はなく、人間の全脳と機械脳の全脳を結合できるであろう。機械脳に意識が宿ると仮定して、かつジュリオ・トノーニの唱える統合情報理論を信じると、人間脳と機械脳の結合が十分に強ければ、意識は一つに統合される。つまり人間脳の私の意識が機械脳にまで浸透して、ひとつの私という自我になるであろう。

機械脳の性能が人間脳の性能と等しければ、それは単に人間脳の大きさが倍になっただけである。それでも単位時間に2倍の知的作業をこなせるのだから大したものではある。

密接にコミュニケーションを交わし合う二人の人間を考えよう。例えば同じ生活を営む双生児とか。この二人は密接なコミュニケーションを交わし合うので、相手の考えていることもわかるようになるだろう。でもどんなに密接にコミュニケーションをしても、その情報交換量はしれている。

しかし人間脳と機械脳をニューロンの軸索単位で密結合すれば、その情報交換量は格段に大きいだろう。まさに一心同体的感覚をあじわい、究極には人間と機械はまとめて一人になる。

頭の回転の速い機械脳

はたしてそうか? ここにクロック差という問題が発生する。コンピュータのクロックは平均1GHzとする。つまり1秒あたり10億回の単位で物事が進む。人間のクロックは判然とはしないが、ニューロンの動作する最小時間単位は1ミリ秒程度であり、なんか意味ある動作をするには最低10ミリ秒かかるとすると、人間のクロックは100Hzになる。本当はもっと遅いかもしれないが、いちおう100Hzとしよう。するとコンピュータのクロックは人間の1000万倍ということになる。

もし人間脳のニューロン数、シナプス数と機械脳のそれらが同じとすると、クロック差のせいで機械脳は人間の1000万倍速く動作することになる。単純に言えば1000万倍、頭の回転が速い。1000万倍頭の回転が速いとどうなるか。1年は3000万秒である。それを1000万で割ると3秒になる。つまり並の人間が寝ずに1年かけて考えることを、機械脳は3秒で考えつく。囲碁の3000年の歴史を1000万倍速くすると、2時間半になる。つまり囲碁のど素人から始めて、2時間
半、頭の中で強化学習の試行錯誤を繰り返すと、囲碁の世界チャンピオン並みにまで成長する。

実際、アルファゼロという囲碁のための人工知能は8時間の学習で、世界チャンピオンを圧倒するまでに成長している。映画「マトリックス」でネオは短時間で格闘術をマスターした。トリニティは短時間でヘリコプター操縦法をマスターした。そんなことができるだろう。

こんなやつと、一心同体になれるか? 人と話していて、自分より頭の回転が半分の遅さであれば、話していてイライラするであろう。10倍も頭の回転が遅ければとてもやっていられない。そこで通訳を入れることにする。通訳は人間脳より2倍程度、クロックが速い。この通訳はさらに上位の、さらに2倍クロックの速いやつとコミュニケーションする。このように階層を23も積んでやれば、最上位の1GHzのやつと話は通じるかもしれない。

究極のカンニング脳

ここまでして意思疎通をする必要がなければ、1000万倍頭の回転の速いやつが考えた結論だけを通訳からもらえばよい。この場合は意識が統合している必要はなく、またクオリアを味わう必要もなく、ようするに結果の情報をもらえれば良いわけだから、機械と交換する情報量も少なくて良い。それでもあなたが例えば試験問題、クイズ、質問を受けた場合など、1000万倍頭の回転の速いやつにそれを投げて、答えをもらい、さもあなたが考えたように他人に答える。究極のカンニングみたいなものだ。

カンニングの場合は、自分の地頭で考えたわけではないので、多少の後ろめたさが伴う。もし意識が統合していれば、たとえ機械が考えたことでも、自分が考えたように感じるから後ろめたさは少ないだろう。意識統合の必要性は地頭が良いように自分が錯覚するためのものである。

タイムシェアリング脳、マルチタスク脳

機械脳のクロックの速さに対する対抗策を提案したが、もっと別の考えもある。1000万倍速く考える代わりに100Hzの脳を1000万人分用意して、タイムシェアリングして、1000万人に一人分の頭脳の働きを提供することも考えられる。映画「her/世界で一つの彼女」でサマンサが一度に数千人の人間とコミュニケートしていたが、それの1000万人バージョンである。

あるいは機械脳に1000万の別々の作業をさせて、その成果をあなたが独り占めにするという案もある。いわばあなたは従業員が1000万人の会社の社長になって、その成果を、さも自分がしたように独り占めにするのだ。あなたは社長だから、細かい途中経過はどうでもよく、ようするに結論だけを貰えばいいのだ。だいたい人間社会とはそんなものだから、あなたは一人で1000万人の社会を代表するのである。ちょっとした国家並みである。これをマルチタスク脳と名付けよう。

超知能

さてここまではニューロン数とシナプス結合数が人間と同じ機械脳を考えた。人間の脳は頭蓋骨の容積に制限があるために、これ以上大きくなれない。しかし機械脳にはその制限はない。だから例えばクロックが人間と同じとしても、機械脳の大脳新皮質に相当する面積を大きくしてやれば、領野数がいくらでも増やせるので、いくらでも抽象的な思考ができるようになるだろう。つまり単に頭の回転が速いだけでなく、深い思考ができるようになるだろう。超知能である。

クロックが同じなら意識の統合に問題はない。その場合、あなたは天才的数学者を遥かに凌駕する抽象的思考が、ポッと頭の中に湧く。なぜこんなアイデアが生まれたかは知らないが、考えた結果はあなたのものだ。あなたの地頭が理解しなくても良い。あなたは大統領報道官のごとく、さも自分の考えのごとくにスラスラと受け答えしていく。

人間の頭脳で、意識的思考の他に無意識の思考が大きな発見や新しいアイデアにつながる場合がある。このとき、意識的思考のみがあなたのもので、無意識的思考はあなたのものではないとはいわないだろう。だから機械脳が考えたことは、無意識的思考とみなせば良いのだ。つまり機械のものはあなたのもの、あなたのものはあなたのものという究極に都合の良い状態になる。

このように考えると、ニューロン数とシナプス数を人間の1000倍にすると、100億人分の頭脳と等価になり、つまり全人類の知能をあなたひとりで担えることになる。つまりはあなたが超知能になるのである。

人間一人分のニューロンとシナプスに相当する機械脳の体積は、齊藤元章さんの試算では1リットル以下にできるという。すると1000リットルつまり1立方メートルあれば全人類に相当する機械脳を作れる。このような機械脳が作れる時期は齊藤さんによれば2025年だそうだが、もっと保守的に見て2045年としても、シンギュラリティを起こせる技術的基盤はあるだろう。

楽しいシミュレーション現実の世界

私の夢は実は次の案だ。一人に1000万倍速い機械脳ではなく、1000倍程度速いものを与えるとする。1年は8700時間程度だから、8.7実時間が1仮想年に相当する。つまり一晩寝た時間が1年経過したことに相当する。眠りについて機械の脳の中で1年間を過ごすという仮想の夢を見るとする。次の日に起きた時は、実時間は1日しか経過していないのだが、経験としては1年が経過したことになる。多分、これより長くすると、昨日のことが思い出せないだろう。仮想の夢から覚める直前の1日は、実際の昨日の出来事を思い出すのに使う。

このように1日を1年に仮想的に引き延ばすことができれば、実時間で10日は10年、1月で30年、1年も経てば365仮想年、生きたことになる。タイムマシンは過去に行ったり未来に行ったりする機械だが、実現性は乏しい。今述べた案は現在を引き延ばすタイムマシンである。人間が実時間で100年生きるとすると、仮想世界では36,500年生きることになる。これだけ生きれば、十分だろう。

その仮想世界は、行く人の理想の世界に設計することができる。男ならハーレムを作るもよし、竜宮城を作って乙姫様と楽しく過ごすもよし、(本物そっくりの)アドベンチャーゲームや戦闘ゲームに興じてもよし、他人の世界と相互作用しない限り好きなように過ごして良い。また他人と相互作用したい場合は、恋人同士の二人だけの世界を構築するもよし、価値観を共有するものだけ、たとえばイスラム教徒とかキリスト教原理主義者だけのコミュニティを構築するのもよし。そうなれば世界人類はそれぞれが幸せになれるであろう。

地球人口を100億人として、彼ら全員を収容するコンピュータは10 メートル立方程度でできる。それほど大きなものではない。このようなコンピュータを作り、全人類はそこに移住する。ただし原案では人間世界はそのまま存在して、単に1年を1000年に引き伸ばしただけだが、いっそのこともっと巨大なコンピュータを作り、現実世界は捨てて、地球人類全員すべてが仮想世界で末長く楽しく生きることも考えられる。

宇宙人はなぜ地球に来ていないか?

フェルミパラドックスというものがある。原子炉を発明した有名なイタリアの
物理学者であるエンリコ・フェルミが言ったパラドックスだ。それはなぜ宇宙
人が地球に来ていないのかという疑問である。この宇宙には我々とは異なる宇
宙人がたくさんいても何の不思議もない。それなのになぜ彼らと交信できない
のか、彼らが地球を訪問していないのかという疑問である。

いろんな答えがあるだろうが、私は可能な一つの案として、知的な宇宙人は一定の進化をとげると必ずシンギュラリティを起こし、そして上記のような仮想世界を構築して、全員がその中に引っ越して楽しい夢を見ている。

ニック・ボストロムのいうシミュレーション現実の世界に宇宙人は住んでいるのである。だから宇宙人は、生身の肉体を損傷する恐れのある宇宙旅行のような愚かな行為はしないのではないだろうか。


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松田先生、すでに超知能を実装していらっしゃいませんか?

「何か一言いただけないでしょうか」とメールでお願いしたのが 7月24日(火)3:08pm。「ハイ、早速執筆にかかっています」と返信が来たのが、翌朝7:33am。

Facebookのコメント程度のものを考えていたのに、「執筆」って何? って思っていると、原稿が届いたのが、8:26pm。わずか29時間18分で、9,206文字。で、この内容。京都にあるという秘密研究所とやらが、どうも怪しい。てか、どうもありがとうございます。たいへん恐縮です。

寄稿してくださった他の先生方も、ありがとうございます。雲の上におわしましまする偉〜い先生方が、一介の変態にすぎない私なんぞのお願いを聞いてくださったとは、もったいなさすぎまする〜。しかし、それは考える変態である。

《『よろずや探偵談』ニューヨーク上映》

7月6日(金)と26日(木)にそれぞれ7人と6人、オウムの死刑囚全員の死刑が執行されたこのタイミングで言うのもアレだが、私が怪しい宗教団体の教祖様を演じる映画『よろずや探偵談』が、26日(木)、ニューヨークで上映された。

「アジアン・アメリカン国際映画祭」で、上映されたのは、6:00pmから「ヴィレッジ・イースト・シネマ」にて。行きたかったけど、学生が夏休みに入ったこの時期、飛行機代が高すぎた。

http://www.galacollection.com/main/news/%E3%80%8C%E3%82%88%E3%82%8D%E3%81%9A%E3%82%84%E6%8E%A2%E5%81%B5%E8%AB%87%E3%80%8D%E6%B5%B7%E5%A4%96%E5%88%9D%E5%85%AC%E9%96%8B/


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編集後記(08/01)

○お暑うございます。ご愛読ありがとうございます。デジクリは明日8月2日(木)から19日(日)まで夏休みです。次号は8月20日(月)の予定です。

●養老孟司「半分生きて、半分死んでいる」を読んだ(2018/PHP新書)。東京農業大学の昆虫学研究室に行ったら、学生が寄ってきて「養老さんじゃないですか、もう死んだと思ってました」と言うではないか。少し言い過ぎかと思ったらしく「もう歴史上の人物ですから」と付け加えてくれた、というが……。

学校の先生方の集まりがあって、講演を依頼された。控え室でひとり待機していたら、若い先生が来て「先生、間もなくお迎えが参ります」と言われた。間もなく80歳だから、お迎えが来るのは分かっている。その意味でのお迎えは困らないが、あなた方がお困りになるのでは? わたしの講演時間をどう消化するのか。

そう思ったが年の功でむろんむきつけにそうは言わない。素直に謝辞を述べる。若い先生はなにも気づかない。ともあれ、この「お迎え」とはいい言葉だ。鷹揚な養老先生でも、疲れて機嫌が悪くなると文句をいいたくなる。よくある「発展をお祈りします」って、いったい誰に祈るのか。神頼みは無責任ではないか。あんたは具体的に何をしてくれるんだ。でも、このいい加減さが日本文化の良さだ。

先生が大好きな虫の分類という古い世界にも、コンピュータが与えた影響が大である。膨大に溜まったデータを処理をしているうちに、肝心の虫のことを考える暇もなくなってくる。そこで手段と目的という古い問題が浮上する。コンピュータは人の手段だったはずだが、どうもだんだん目的化してきている。

「ヒトなんて、古くさいアナログ機械は要らない。ヒトをコンピュータで置換すればいいじゃないか。その問題自体をコンピュータに任せようというので、シンギュラリティーなんて言葉すらできた。コンピュータが自分の能力以上のコンピュータを自分で開発するようになる。その時点でヒトは不要になる」

という解釈をして、「はて人生とは何なのだ。そういうことをあらためて考える時代になりましたなあ」と述懐される先生であった。「死とは何か、親しい人の死、専門的にいうところの二人称の死に決まっている。人が死を感じ、死が人を動かすのは、その場合だけである」とキッパリ。清々しいなあ。

先生の住む鎌倉でいちばん普通に見られる蝶は、アカボシゴマダラとツマグロヒョウモン、アゲハならナガサキアゲハ。わたしの高校時代生物部の頃には見られなかった、南方の蝶である。五月蠅いをウルサイと実感する人はもういない。ハエが減った、虫が減ったからだ。この自然の変化の真の意味に人類が気づくのは、ずっと先にことであろうという。なんだか深いことを言っている。

この本とは無関係だが、毎日正午前に必ず聞こえてくる妙な言葉遣いが気に障る。NHKの天気予報だ。なんとなく前原誠司っぽいアナが、「雨降るでしょう」「(低気圧が)発達をし……」と言う。必ず言う。「が」抜き「を」付けの人である。天下のNHKがこんなアホな日本語使いをずっと放置している。(柴田)

養老孟司「半分生きて、半分死んでいる」
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4569837565/dgcrcom-22/


●昨日のに派生して、「早い者勝ち!」「残りわずか」「今だけ」もクリックしない。欲しければ、その文言関係なく買うが、なるべく煽り文句のないところから買う。

なんていうか、昨日のもそうだが、領空侵犯されているようなのよ。自分で決めたいからほっといて、である。

「こういうのがありますよ」「こういうのはどうですか?」はいいけど、「これが最高です」「使わなければ〜ですよ」「これをお友達に知らせてあげましょう」は、イラッとくる。いいと思ったら、話題に出た時に、自然に勧めるからほっといてほしいなぁ。

/デジクリ夏休み! とはいっても、サーバの移転作業がぁぁぁぁ。常時SSLにするには、新しいサーバに移転してくださいって。CMSって、こういうとき大変だなぁ。 (hammer.mule)