[4634] 生体意識をもって人工意識を味わうことは可能か(後編)

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         《イケイケでノリノリで楽観的》

■Otaku ワールドへようこそ![287]
 生体意識をもって人工意識を味わうことは可能か(後編)
 GrowHair




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■Otaku ワールドへようこそ![287]
生体意識をもって人工意識を味わうことは可能か(後編)

GrowHair
http://bn.dgcr.com/archives/20180907110100.html
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前回、渡辺正峰先生の講演のレポートの前編を書きました。
http://bn.dgcr.com/archives/20180824110100.html

今回は、後編です。

【内容】

□意識のハード・プロブレム

脳において、意識を宿すために必要な最小限の領域であるNCCが特定できたからといって、意識の謎がすべて解けたことにはならない。

というのは、これだけでは、肝心の意識がいったいどういうメカニズムによって生じるのか、まったく説明がついていないからだ。

われわれの脳といえども、物質であることには違いない。物質であるからには物理法則に厳密にしたがうはずである。言うなれば、機械のようにしか、動作しようがない。

それなのに、その“機械”の上には、いったいどのようなメカニズムによって意識が宿るのか。これが「意識のハード・プロブレム」である。

たったそれだけの問いなのに、この問い自体が一般の人々に理解されづらいことは、報告者が以前に嘆いたとおりである。同じ問いを、手を変え品を変え表現しなおしたとしても、伝わらない相手にはぜったいに伝わらないという絶望感がある。しかし、それはそれとして、言い換えようはある。

ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz、1646─1716)は、ドイツの哲学者、数学者で、微積分法に大きな業績を残しているが、彼の思考実験に「意識を宿す風車小屋」というのがある。

仮に意識を宿す風車小屋があったとしよう。われわれが中に立ち入ったとしても、目にするのは歯車だの回転軸だの機械的な仕掛けばかりで、その仕組みが完全に理解できたとしても、肝心の意識そのものは、どうしても見ることができない。

実際に意識を宿すわれわれの脳についても、事情は風車小屋と似たり寄ったりで、視覚情報を脳で処理する仕組みについては、解明することができるかもしれない。しかし、それができたところで、なぜ視覚のクオリア(感覚的意識体験)が生じているのか、まるっきり説明されていない。

第三人称的な視点でいくら観察しても、第一人称的な感覚の説明がつかないのが、意識を扱う上での難しさになっている。

□「意識の自然則」の必要性

意識の問題は従来科学では解けない。なぜなら、従来科学がすべて、客観世界の中に閉じていたから。第三人称的視点しかなかったのだ。この枠組みの内側だけでは、主観と結びつけることができない。

主観と客観とを結びつけようとするならば、どうしても客観の外へ出て行かざるをえない。というか、自動的に外に出てしまう。

物理学には、いくつかの根本原理がある。宇宙のどこで測っても、光の速度は一定であるとか。あるいは、万有引力の法則は、「質量m1の物体と質量m2の物体とが距離rだけ離れて存在しているとき、両者の間には、それぞれの質量に比例し、距離の二乗に反比例する量の引力がはたらく」という形で記述されている。

なぜ距離1乗でも3乗でもなく2乗なんだと、問うても仕方がない。そうなっているとしか言いようがない。つまり、根本原理にまで行き着くと、それ以上、「なぜか」が問えなくなる。あらゆる科学の土台には一種の非科学がある。

意識の問題についても、物理学の扱う客観世界における根本原理と同じような土台が必要であろう。それは、主観世界と客観世界とを結びつける位置に置かれるべきものである。その中身がどんなふうに記述されるか、現時点では不明だが、「意識の自然則」と呼んでおきたい。

チャーマーズ(David John Chalmers、1966─)は、「すべての情報に主観的側面と客観的側面とがある」とする「情報の二相理論」を提唱した。寒暖に応じてスイッチが入ったり切れたりする仕組みになっているサーモスタットにも、小さな意識が宿ると言っている。

サーモスタットは、今現在スイッチがオンであるかオフであるかの1ビットの客観情報を保持しており、他方では、暑い/寒いという主観の原型みたいなものを備えている。

ただし、言った本人がその内容を本気で信じているかどうかは疑わしい。意識の謎は非常に深遠なので、それほど大胆な仮説が必要だという極端な例として挙げているだけかもしれない。

ジュリオ・トノーニ(Giulio Tononi)は、情報が統合されることによって、個々の情報量の総和以上の情報が湧き起こってくるとき、この情報湧出分が意識の本質だとする「統合情報理論」を唱えている。

デジカメはたしかに視覚情報を取得しているけれども、画素ごとにばらばらに色の情報を保持しており、それらの情報が統合されていないので、視覚のクオリアが発生していない。

しかし、disっちゃうのもアレなんだけど、統合情報理論は、非常に問題だと思っている。次回、これに詳しい大泉氏が登壇すると聞いて、ぜひ聞きたいと思っているのだけど、9月はまた日本にいないかもしれない。みなさん、聞いておいてください。

このように、意識の自然則の候補はすでにいくつかあるのだが、仮説が出たとしても、検証できなければ、……ええと、この中に哲学者はいますか?いませんね、じゃあ言っちゃいましょう、哲学と同じです。科学である以上、実験によって仮説を検証できなくてはならない。

ガリレオ・ガリレイは、ものが落下する速度はその物体の重さによらず一定であることを示すために、ピサの斜塔から大小二つの金属球を落とす実験をした。この実験の上手いところは、金属球を使うことにより、空気抵抗という余計な要因を排除できた点にある。

情報に意識が宿るという仮説を実験的に検証したければ、脳から情報以外の余計な要因を排除しなくてはならない。しかし、生きている脳のことだから、それはできない。

かくなる上は、人工意識を使うしかない。作ってみることによって、動作原理を知ろうとすることを、構成論的アプローチという。

□機械に意識は宿るか

チャーマーズの思考実験に、フェーディング・クオリア(fading qualia)というのがある。脳を構成するニューロンのうち、1個だけを、機械に置き換えたとしよう。

このとき、機械は、中身までそっくりにニューロンを真似する必要はない。他のニューロンとつながっている入力と出力のところだけ、同じはたらきをするように作っておけば、電気信号を中でどうやって処理するかについては、本物とは別の手法を使ってちょろまかしても構わない。だって、他のニューロンは気づくわけがないのだから。

このとき、脳全体としては、まったく同じように機能しているのであるから、宿っている意識に影響が及ぶはずがない。

では、1個から2個、3個……と次々に置き換えていったとしよう。そうしても、脳全体としては、まったく同じように機能しているはずである。最後の1個まで置き換えて、結局全体が機械だけになったとしても、同じことではないか。ゆえに、機械が意識を宿すことはありうる。

□人工意識をテストするには

意識は第一人称的であるという、いかんともしがたい制約に縛られている。つまり、他者の意識は見えない。哲学的ゾンビを見分ける手段は存在しない。

怪しい研究者が変な箱を持ってきて、「30年かけてこれを作りました。実は、この箱には意識が宿っているんですよ」と言ったとしても、ほいほい信じるわけにはいかない。かと言って、この機械に意識が宿っていることを客観的に判定する方法がない。

この手詰まり状態を打開することができなければ、人工意識の研究はちっとも進まなくて、困る。こうなったら、自分の主観をもって、機械に宿っている意識を味わうことによって確認するしかない、というのが渡辺氏のアイデアの基本である。

多くの方がご存知のように、脳は左脳と右脳に分かれていて、両者は脳梁でつながっている。脳梁もまた、脳神経細胞(ニューロン)の束である。

かつて、てんかんの治療法として、脳梁切断術が施されていた。文字通り、脳梁をバスッと切断し、左右の脳半球間の情報の連絡を遮断してしまうのである。

そうするとたしかにてんかんの症状は緩和されるのだが、とんでもない副作用が生じることが分かった。意識がふたつになってしまうのである。「分離脳」という。ロジャー・スペリー(Roger Wolcott Sperry, 1913─1994)は分離脳を研究してノーベル賞を受賞している。

健常者においては、どうなっているのか。潜在的には、左脳と右脳それぞれに一個ずつ意識が宿っており、ふたつあるのだが、脳梁を介して情報をやりとりしているがゆえに、何らかの形でひとつに統合されている。

意識がどっちか片方の半球にだけ鎮座してマスター(支配者)として機能し、他の片方の半球はスレーブ(服従者)として機能しているというわけではない。どっちも等価なマスター─マスターの関係である。

渡辺氏のアイデアは、脳の一方の半球を丸ごと機械で置き換え、脳梁に相当するところを細い電線の束で接続しようというものである。それでも左視野と右視野とがスムーズに連結されてひとつに見えたら、機械に意識が宿っているとしか言いようがないという。

この手法をもって、人類は初めて、他者の意識の有無を確認する手段を手に入れ、意識の第一人称性という限界を乗り越えられるはずだと主張する。

□意識は情報かアルゴリズムか

チャーマーズは情報に意識が宿るとの説を提唱しているが、これには大きな問題がある。情報は0か1かの数字の単なる羅列であって、それ自体に意味が内包されているわけではない。ソフトウェアを走らせて解釈することによって、初めて意味を取り出すことができる。

情報ではなくて、情報を解釈するアルゴリズムのほうにこそ、意識の本質的な役割があるのではなかろうか。

夢の中であっても、現実世界と変わらず、ものごとがリアルに感じられる。また、腕を失った人であっても、目の前にあるものをつかむ動作をしたつもりになって、手触りを感じたり、引っ張られると痛みを感じたりすることがあり、これを幻肢という。

ないにもかかわらず、あるという感覚が生じるのは、脳の中で現実をシミュレーションするソフトウェアが走っているからだとしか考えられない。

現実世界をソフトウェアでシミュレーションすることが、意識の本質なのではないかと考えている。

現実世界を両目で見ることにより、視差による画像のズレから奥行きを推測して、頭の中に三次元情報を組み立てることができる。これを両眼立体視という。

3Dモデルを組み立てたらそれで終わりではなく、今度は逆に、コンピュータ・グラフィクス(CG)のレンダリング計算の要領で、今の視点からものがどんなふうに見えるはずだというのをシミュレーションする。

出てきた画像を、実際に目で見ている画像と照合して、合っているかどうかを確認する。この計算が脳の中で常に実行されている。

で、この計算そのものが、意識の正体なのだと考えている。そうだとすると、ニューロン一個一個の機能を忠実に機械で再現する必要はなく、全体として実行しているソフトウエアの機能を機械に実装すればよい。意外と早く、意識が機械にアップロードできてしまうのではないか。

【考察】

□その構想、ホントにだいじょうぶ?

意識についてド素人のただの変態の分際で、日本でも屈指の天才たちをつかまえて言うのもナンだけど、意識を研究する学者たちって、どうしてこう揃いも揃ってイケイケでノリノリで楽観的なんだろう。

私の中では、かぐや姫に求婚してきたあのオジサンたちとイメージが重なり合う。月の者にアプローチすんのに、地球の上でごちょごちょやってて、なんとかなったりしますかいな。

あのですねぇ、「意識のハード・プロブレム」って、ハードっちゅうぐらいで、むずかしいんですよ。生きてる間に何とかなっちゃうんじゃないか、って、どうして思えるんだろう。

渡辺氏は著書のあとがきで、「こんなイケイケな本にするつもりはなかった」と述べており、自覚があるのはいいとしても、そのイケイケぶりが、私は心配で心配でしょうがない。

だって、そうでしょ。自分の意識を機械にアップロードしておけば、生物としては死んで肉体が灰になった後でも、純粋精神みたいな格好で、機械の中で、事実上、永遠に生き延びることができますよったって、ほいほい信じて、ぱっぱと試してみるわけにはいかない。

意識をアップロードしたら、機械がしゃべり始めて、そのしゃべり口がまさに本人の生き写しで、しかも、以前にしゃべったことの再生ではなく、ちゃんと文脈に即して、いかにも本人らしいことを言ったとしよう。それを見た人たちは、「おおお! 大成功だ!」と歓声をあげるに違いない。

けど、本人にとってはどうなんだ? 実は、何も見えていない、何も聞こえていない、味覚も嗅覚も触覚もなく、夢もみない、意識の片鱗も宿っていない、いわゆる、哲学的ゾンビだったとしたら。

その状況に誰にも気づいてもらえず、伝える手段もなく、それどころか、そもそも意識がないのだから、困った状況になっていると思うことすらできないわけで、まさに死んでるのと同じ状態だ。コピー元が死んでしまえば、もはや、一巻の終わり。取り返しがつかないとはこのことだ。

もちろん、渡辺氏はそこをうっかりしているということはなく、この状況に陥る可能性を排除するために、非常に慎重に論理を組み立てている。私は、その論理に穴が空いていることを具体的に指摘できるわけではないのだけれど、ただ、心配なだけだ。

安全安全と言われていた原発だって、現にあんなことになっちゃってるわけだし。以前は、政府の安全キャンペーンを真に受けて、あれを安全でないという人は非科学的な信仰に染まっている、などと言い切る人もネットで見かけたぞ。

渡辺氏の機械脳半球─生体脳半球接続テストの構想は、意識の第一人称性という限界を乗り越えようとするものである。ヒトにせよ、ヒト以外の動物にせよ、機械にせよ、他者に意識が宿っていることを、自己申告を信じるという手段ではなく、客観的に確認する手段が確立されないことには、意識のハード・プロブレムに対して実験的に迫ることができない。

人間の意識を機械にアップロードできたといっても、それが哲学的ゾンビではないことを確認する手段がなければ、成功か失敗か判定することができないのだから。

意識を客観的に観察することが原理的に不可能なのであれば、せめて、ヒトの主観をもって、他者の主観をテストできるようにしたい。

渡辺氏の思考実験は、片側の脳半球を丸ごと機械で置き換え、脳梁に相当するところを電線でつなごうというものである。これによって、機械半球側に意識が宿っているかどうかを、生体半球側の意識をもって判定できるとしている。

この接続テストをちゃんと成立させるためには、脳の可塑性のすごさというものを考慮に入れておかなくてはならない。渡辺氏は、もちろん、そこを考えており、構想に穴は空いていないはずだと主張する。

脳の可塑性とは何か。脳の発達を自然な進行に任せておくと、どの辺がどんな機能を果たすようになるか、だいたい決まっている。しかし、それは絶対的なものではなく、状況によっては、本来の受け持ち以外の機能を果たし始めることができるという柔軟性がある。

生まれたばかりのフェレットの視覚野と聴覚野とをつなぎ替えたら、聴覚野が視覚情報を処理するようになったという実験結果があり、2000年に「NATURE」誌に発表されている。

  Laurie von Melchner, Sarah L. Pallas, and Mriganka Sur
  "Visual behaviour mediated by retinal projections directed to
  the auditory pathway"
  NATURE, Vol.404, 20 April 2000

目から来た情報が聴覚野に入ってくる。聴覚野は、自分に解釈できない情報が入ってきたので、視覚野に向かって「これ、お前んところのじゃね?」と言ってたらい回しするのではなく、自身で視覚情報を解釈しはじめたのである。たとえて言えば、ラジオに対して、テレビの電波を与えたら、ラジオが映像を映しはじめたようなものでる。

コンピュータに対して、外付けのデバイスをつなぐときは、デバイス・ドライバと呼ばれるソフトウェアが必要になる。最近のパソコンは、デバイス・ドライバが自動的にインストールされるようになっているので、その存在に気づかないユーザが多いかもしれないけど。

デバイス・ドライバがないと、コンピュータの側は、入ってきたビット列(0または1の列からなるデータ)が、文章なのか、画像なのか、音声なのか、何かの計測データなのか、判別のしようがなく、これを取り込むことができない。

ところが、脳は、生のデータだけを与えてやると、触覚などの情報と照合して、整合性がとれるようにそれを解釈する方法を自分で見つけ出してしまうのである。つまり、デバイスドライバを自分で勝手に開発してしまうということだ。これは、非常に高度な数学の問題を解いていることに相当するのだと思う。この柔軟性を脳の可塑性という。

意識領域においては、大人になってからも数学がからっきし苦手って人はザラにいるけれど、そういう人であっても、無意識領域においては、赤ん坊のときから数学の超難問をすいすい解いちゃうんだからすごい。というか、不思議だ。

ダニエル・キッシュ氏は先天的な目の病気(網膜芽細胞腫)があったため、生後13か月までに両眼を失っていた。ほどなく彼は「舌打ち音 (クリック音)」を立てながら動き回るようになった。

コウモリのように、エコーロケーション(反響定位)によって周囲の状況を把握できるようになったのである。弱いフラッシュを焚いたみたいに、一瞬だけ周囲が「見える」のだそうである。自転車にも乗れるようになっている。
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20130620/355092/

  2013年6月20日
  NATIONAL GEOGRAPHIC
  音で世界を「見る」ダニエル・キッシュ
  文=マイケル・フィンケル

米Wicab社は、目のかわりに舌を使って世界を「見る」ことができるデバイスBrainPortを開発した。この装置は、カメラから得た映像データを電気パルスに変換する。平べったいパネルを舌に乗せると、炭酸飲料のようなパチパチした刺激が来る。

はたしてそんなもので本当に「見える」のか。実際に使ってみれば、15分以内には情報が理解できるようになるのだという。

実験では、出入口やエレベータのボタンを見つけたり、手紙を読んだり、テーブルにあるコップやフォークを拾いあげたりといったことが可能になっている。
http://japanese.engadget.com/2009/08/19/brainport/

  2009年8月19日 04:15pm
  engadget 日本版
  視覚障害者のための舌で「見る」装置 BrainPort
  Haruka Ueda

この装置は、2015年に米当局が販売を認可し、実用化されている。
http://kenko100.jp/articles/150629003517/

  2015年06月29日 06:00 公開
  あなたの健康百科
  視覚障害者に“舌で見る”機器─米当局が承認
  文字の判読も可能に
  あなたの健康百科編集部

周辺機器からの信号が神経に伝わるように〈適当に〉つないでおけば、デバイスドライバは脳内で勝手に生成される、というわけだ。脳の可塑性、すげぇ!

ただ、このすごさゆえに、生体脳を他者の意識の判定に使おうとするとき、注意が要る。舌で見る装置自体に意識が宿っているとは考えづらい。にも関わらず、脳はその装置から視覚のクオリアを得ることができている。

ということは、機械から入ってきた情報に基づいて、生体脳にクオリアが生じたとしても、機械に意識が宿っていることの裏づけにならないのではあるまいか。生体半球側が、機械半球から渡ってくるデータを解釈するためのデバイスドライバを勝手に開発しちゃっただけかもしれないではないか。この可能性をちゃんと排除しきれているのか。

渡辺氏は、第一に伝達容量、第二に記憶容量、第三に適応時間の観点から、保証できているという。

まず、脳梁は細すぎて、機械の獲得した視覚情報そのものを丸ごと生で送り込んでくることはできない。つまり、生体脳半球の一部と機械脳半球の一部とにまたがって、視覚のクオリアが形成されている以外にない。

第二に、たとえ生体脳半球に視覚情報が丸ごと送り込まれてきたとしても、それを蓄えておくための十分な記憶容量がないため、同様の理由が生じる。

第三に、デバイスドライバを開発するにはそれなりの時間を要するため、もし、つないで即座に見えた場合は、脳の可塑性によるものではないと言える。

機械脳半球─生体脳半球接続のアイデアは著書に書いてあり、それが出版されたのが 2017年11月のことで、半年以上経つけれども、まだどこからも反論が出てきていないと、渡辺氏は自信をみせる。

いやいやいやいや、私は心配だ。

□分離脳の不思議

機械脳半球─生体脳半球接続によって生体半球が機械半球に宿る意識を確認することができ、これをもって意識の第一人称性の壁を突破することができれば、意識のハード・プロブレムについて、正しくない仮説を排除するための非常に強力な実証手段になりうるとしている。

例えば、何の量子的効果も利用していない機械に意識が宿っていることが確認できれば、量子脳仮説は即座に却下できる。

ということは、この時点では、まだ、意識のハード・プロブレム自体は解けていないことが仮定されている。大雑把すぎる議論で申し訳ないが、肝心の問題が解けていない段階で、そのテストが間違いなく他者の意識の確認方法として成立していると保証できているのだろうか。

分離脳は、まったくもって不思議すぎる現象で、その現象自体をすっと受け容れるのがむずかしい。左脳と右脳をつないでいる脳梁をバスッと切断することによって、両者間の情報のやりとりを完全に遮断すると、意識がふたつになってしまう。

右手がシャツのボタンをかけていく端から、左手がそれを外していくとか。右手に持ったフォークで食べ物を取ると、左手が払い落とすとか。言語野をもたない右脳は、視野の左半分に何が見えているか言葉で報告することはできないけれど、見えているものを左手でつかむことができる。

では、分離脳状態から、どちらかの半球をうまく二分割すると、意識はさらに増えたりするのだろうか。実際問題として、半球内はがっつりと複雑に配線されているので、きれいに切れるところがなく、無理な気はする。しかし、理屈の上では、不可能な話とは言い切れないのかもしれない。

逆に、あなたの脳と私の脳とを、脳梁を渡るニューロンの本数ぐらいの電線の束でつないだとすると、二人の意識が一人になっちゃうのだろうか。目と耳と手と足が4つずつ、鼻と口がふたつずつある、ひとつの個体。なんだか、人類補完計画っぽいぞ。まあ、ならないような気はするけど。

脳梁を切断するのではなく、しばらくの間、例えば10分間とか1時間とか、強制的に情報伝達機能を停止させておくことができたら、その間だけは一時的に分離脳になっているはずだが、機能が回復すれば、また元の一人の意識に戻るはずである。

しかし、脳梁を渡っている情報は、単なるビット列である。ニューロン1本あたり、100ビット/秒ぐらいの伝達容量があるらしい。ふたつの意識の間をビット列が行き来することで、意識はひとつに統合される。これって、非常に不思議な現象ではないだろうか。

ひとつに統合された意識はいったいどこに宿るのか。脳梁は、たしかに、意識が統合するために必要不可欠な働きをしているし、その脳梁自体、ニューロンの束なので、脳梁自体の上に統合意識が宿ると考えることもできなくはない。しかし、それは、たぶん合っていない。脳梁の役割は、左脳と右脳との間で情報を運搬する、単なる電線にすぎないのだと思う。

じゃあ、統合意識は左脳と右脳とにまたがって、もわーっと存在しているのか。

こんな思考実験はどうだろう。一個のニューロンは、樹状突起において他のニューロンから1か0かの情報を受け取り、それぞれに係数を掛けて足し合わせ、その結果が一定の閾値(しきいち)を上回ると、「発火」する。

発火したかしないかによる1か0かの情報は、一本だけある軸索から出ていき、その先の枝分かれによって多数の別のニューロンへ、シナプス結合を介して伝達される。すなわち、軸索内を通り抜ける情報は、一方通行なのである。

脳梁を形成するニューロンの束には、左脳から右脳へ情報を送るものと、逆向きに送るものとが混在しているはずである。道路の片側車線だけを閉鎖するかのごとく、右向きのニューロンだけを選択的に機能停止させ、脳梁全体にわたる情報の流れを右脳から左脳への一方通行にしたら、何が起きるだろう。

正常な脳と分離脳との中間みたいな状態になるはずである。それはいったいどんな状態か?

左脳にとっては、入ってくる情報に不足はなく、平常運転なはずである。たぶん、意識がひとつに統合される条件はそろっている。

ただし、左脳から右脳に対して、「こんな情報をください」と要求を出して、右脳がそれに応じて答えを返してくるような対話は、元の要求が届かないので、成立しない。

左脳が左手を動かそうと決断したとして、それを右脳に依頼しても、伝わらないので、左脳の発案で左手を動かすことはできない。

一方、右脳にとっては、ふだん左脳から入ってきている情報が完全に遮断されている。分離脳が起きる条件が成立しているはずだ。

しかし、アウトプットの道について不足はなく、右脳が右手を動かそうとするとき、左脳に対して、動作要求を出し、左脳が拒否しなければ、右手は動くはずである。

この状況において、意識はひとつに統合しているだろうか。

□アルゴリズム仮説はどうか

意識は情報に宿っているとする、チャーマーズの情報二相理論に対抗して、渡辺氏は、アルゴリズム仮説を唱える。情報そのものはただのビット列にすぎず、それ自体が意味を内包しているわけではない。情報を処理する主体の側が、情報から意味を取り出す方法を知っているからこそ、意味を受取ることができ、そこにこそクオリア生成の本質があるのだとする。

これだけだと、仮説と言っても、「これこれのメカニズムにより意識が生じる」と具体的な過程を説明しきっているわけではなく、仮説の土台部分みたいな段階である。

その土台自体は、現段階では肯定も否定もできず、もしかするとその上に有力な仮説を打ち立てうるかもしれない、としか言いようがない。

一方、「生成モデル」と呼ばれる計算が脳内で実行されていることは、ほぼ間違いないと思う。

現実世界を両眼立体視したり、触れたりして得られる情報から、自分の周囲に何がどう配置されているのかを記述した3Dモデルをまず形成する。次に、コンピュータ・グラフィクス(CG)のレンダリング計算と同じ要領で、自分視点で見たときに、どんな絵が目に入ってくるはずであるかをシミュレーション計算する。そして、計算結果が合っているかどうかを、照合する。

脳内でそんな計算が進行しているのはいいとして、この計算自体が視覚クオリアの正体であるかどうかは、疑問だ。

2016年が「VR元年」と呼ばれているが、このところ、仮想現実(Virtual Reality; VR)や拡張現実(Augmented Reality; AR)が流行っている。

どちらも、ユーザはゴーグルやメガネを装着し、そこに映った映像を見ているのだが、前者は現実をまったく見ていなくて、CGで生成された両眼立体視画像だけを見ているのに対して、後者は、ガラスを通じて見ている現実に対して、一部分にCG画像が重ね合わせられるだけという点が異なる。

AR用のメガネとして、Microsoft社から「ホロレンズ(HoloLens)」という製品が販売されている。このデバイスは、ユーザが見ているものの表面を片っ端からポリゴン(多角形)のつなぎ合わせの形式で3Dモデル化していく。動き回って、新しい側面が見えてくると、それまでに作ったモデルの限界の先に、どんどんポリゴンをつなぎ足していく。

家の中を隅々まで歩きまわって、全部の方向を見回せば、家の内側が完全に3Dモデル化される。戸外に出て振り返れば、家の外側も3Dモデル化される。

ホロレンズは、見た景色をCGでレンダリングするのではなく、それに、犬とか架空の生き物とかを、周囲の物体の配置と整合性が取れる形で重ね合わせて表示する。(アルツハイマー型ではなく)レビー小体型の認知症で現れる、リアルな幻覚みたいなものを見せてくれる。

Nest+Visual社は、ホロレンズ用のゲーム「JK Bazooka」を製作し、2017年10月に発表している。
https://vimeo.com/238889418

現実世界の床やテーブルをちょろちょろ走り回る、小さいセーラー服おじさんをミサイルで撃つシューティングゲームである。人差し指で狙いをつけて、親指とパチョンと合わせるとミサイルが発射され、命中するとおじさんはハートをいっぱい撒き散らしながら昇天していく。

テーブルがあればその上を歩き回るし、その下に隠れれば姿が見えなくなるし、現実世界とちゃんと整合性が取れているところがARのミソである。

理屈の上では、これをVR化するのは簡単である。ただ、リアルタイムの状況変化に追随できるよう、じゅうぶんなマシンパワーをもってレンダリング計算の重さを克服しないとならないが。そうすると、ユーザはデバイスが生成した映像だけを見ていることになる。

このVR装置が実行している計算は、まさに先ほどの生成モデルそのものである。この装置に意識が宿ったと言えるだろうか。私は、そんな感じが全然しない。生成モデルの計算は、実際に脳内で実行されているだろうけど、それが意識の正体だという感じがぜんぜんしないのである。

ただ、意識の第一人称性から、他者の意識を確認する方法は今のところなく、このVR装置にも意識が宿っているのだと主張されると、それを否定する根拠を提示するのは難しい。

□ゲーデルの不完全性定理がどう絡むか

7月21日(土)、名古屋の居酒屋「我楽多文庫昭和ビル店」でべろんべろんのへべれけに酔っ払いつつ、それでもなお脳と意識の問題について渡辺氏とエクストリーム・ディスカッションしているとき、あたかも天啓のごとく、「あっ、そうか!」と気がついたことがある。

意識の問題を論じるとき、ゲーデルの不完全性定理を持ち出してきた人にアラン・チューリング(Alan Mathieson Turing、1912─1954)やロジャー・ペンローズ(Sir Roger Penrose, 1931─)や津田一郎氏がいて、それぞれ別々の文脈で関連づけているのだけれど、私はいずれにしても、どうしてそれとこれとが結びつくのか、さっぱり分からなかった。

不完全性定理とは、クルト・ゲーデル(Kurt Godel, 1906─1978)が、1930年に証明した数学の定理で、煎じ詰めれば「神はいない」と言っている。それはいくらなんでも煎じ詰めすぎなので、もう少し湯戻しすると、こういうことになる。

もし神がいるとしたら、定義により、全知全能であるはずである。全知全能であるならば、どんな命題を与えても、それが真であるか偽であるか、たちどころに示せるばかりでなく、証明するかあるいは反例を挙げることができるはずである。ところが、それができると仮定すると矛盾が生じる。ゆえに、神はいない。

神はともかく、数理体系内で記述可能な任意の正しい定理が、必ずしもその体系内で証明できるとは限らない、と言っている。だから、どんな数理体系も不完全である、というわけだ。

神はいなくても、ヒトならいるぞ。とは言え、ヒトの意識の謎と、ゲーデルの不完全性定理は概念として遠すぎて、どう結びついてくるのかさっぱり分からない。遠い概念のつながりを見つけ出すのが天才ってもんで、凡人からみれば、そこが超越的たるゆえんである。

さて、ゲーデルの不完全性定理をコンピュータのプログラムの停止判定問題に置き換えたのは、チューリングである。第二次世界大戦中、ドイツの暗号を解読する仕事をしていた、数学の天才である。

コンピュータ・プログラムのバグにもいろいろな種類があるけれど、プログラマにとってけっこう困るのは、それを実行したときに、待てど暮らせど答えが返ってこないやつである。

まだ計算の途中なので、もう少し待っていれば答えが返ってくるのか、それとも、プログラムにバグがあって無限ループに陥っていて、永久に戻ってこないやつなのか、分からない。

意図的に無限ループを引き起こすのは簡単だ。プログラムは通常、一行ずつ、上から下へと順々に実行していくが、ある行に、それよりも上の行へ処理を飛ばす“go to”文を書いておけばよい。ループしている中に、そのループから抜け出すための“if ナニナニ go to ドコソコ”文を書いておかなければ、ループしっぱなしだ。

こういうのは、ソースコードを読めばすぐに分かる。しかし、うっかり紛れ込んだバグのせいで無限ループするやつは、えてして見つけるのがたいへんだったりする。

プログラムを実行してみなくても、ソースコードを読むことにより、無限ループするかしないかを判定することができませんか、というのが、「停止問題」である。細かいことを言えば、停止しないやつの中には、円周率πを小数展開した数字列のように、ループに陥ることなく、永久にさまよい続けるやつもあるのだが。

ゲーデルの不完全性定理が、コンピュータ・プログラムの停止問題と同じことだと見破ったチューリングは、まさに遠い概念の間の結びつきを発見する能力によって特徴づけられる、天才だ。

人工知能の手法にニューラル・ネットワークというのがあるが、あれは脳神経細胞(ニューロン)のシナプス結合によって形成されるネットワークにヒントを得て作られたモデルだ。

しかし、いまよく使われているニューラル・ネットワークは、水が高いほうから低いほうへと流れるがごとく、フィードフォワード(前方送り)しかない、一方通行のモデルだ。

ところが、ヒトの脳のニューロンのつながりは、フィードバック(後方送り)がそこらじゅうにある。外部から脳に入ってきて、下位層から上位層へとフィードフォワードしてくる情報と、脳の上位部分で常に次に起きることを予測していて、上位層から下位層へとフィードバックしてくる予測結果とを、どこかで照合し、ほぼ一致していれば平常進行だが、大きな不一致があるとびっくりする。

びっくりしたら、次回も同じことでびっくりしたら馬鹿みたいなので、その差分情報を上位に送り、予測の機構を修正する。脳はそういう仕組みになっているに違いなく、これを「意識の生成モデル」という。

現行の人工知能でよく使われているニューラル・ネットワークは、フィードフォワード一辺倒なので、これではとうてい脳の機能を模倣することは無理だ。

じゃあ、フィードバック機構を入れりゃ済む話かと言えば、そう簡単にはいかない。不用意にフィードバックを入れると、すぐ無限ループに陥ってしまうのだ。じゃあ、人間の思考はなぜ無限ループに陥らないのだろうか。

どうですか? このあたりで停止問題、すなわち、ゲーデルの不完全性定理のニオイがしてきましたね。

なんか、自分をメタな立場から常に監視していて、思考が無限ループに陥っていると「おいおい、回ってまっせ」とツッコミを入れてくる、もう一人の小さな自分、みたいなやつがいるって感覚、ないですか? 中村うさぎ氏の言うところの「ツッコミ小人」みたいなやつである。

すごい心配事があるときなど、ツッコミ小人がなぜか黙ってしまい、思考が無限ループに陥ることがある。ツッコミ小人が死ぬと、人は発狂していくのだと思う。小説や映画などで、人が発狂していく過程が、無限ループ思考をもって描写されるのを見ることがある。

しかし、ツッコミ小人に対してツッコミを入れる、もうひとつ上の階層のメタメタ自分みたいなものがいなくてはならないことになると、マトリョーシカみたいなことになって、無限後退してしまう。ヒトの脳は、そこも巧みに回避しているんだろうな。

ゲーデルの不完全性定理によって提示された限界を知った上で、フィードバック機構を備え、なおかつ、自分を監視するメタ自分が働いて無限ループに陥るのを防止し、なおかつ、メタ自分が無限後退に陥らない、そんな新しいニューラル・ネットワークのモデルを構築すること、これが次世代の人工知能の課題なのだと思う。

これは、機械に人工意識を実装する話にもつながっていくはずである。自意識が備わり、自己言及が可能になるよね。

それはニュートンやアインシュタイン級の、大天才によってのみなしうる大仕事であり、いったいいつ誰がやってくれるのか、楽しみだ。それを見届けるために、がんばってあと300年ほど生きていたいものだ。


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編集後記(09/07)

●辛坊治郎「こんなことを書いたら日本中を敵に回す本 禁断のアホワールドへ」というおそろしくセンスのないタイトルの本を読んだ(光文社/2018)。週刊誌「FLASH」連載の「辛坊治郎のニュース食い倒れ!」に大幅な加筆修正を加えて書籍化したもの。太平洋でヨット漂流して自衛隊に救助された人ね。

テレビの人が何を言うのかなと、たいして期待せずに読んだら、じつに面白かった。みごとなニュース解説だった。次の元号は何になるのか。大胆な予言をしている。漢字二文字は変わらない。明治、大正、昭和、平成を略してM、T、S、Hと表記するから、頭文字がこれと重なる漢字は使わない。縁起がよくて、誰でも知っている漢字でなければならない。過去最も多く採用された漢字は永。

続いて天、元、治などだが、天(T)は使えない。永はローマ字で頭文字を考えるとYかEか迷う。となると「元:G」「文:B」「応:O」「慶、建:K」「仁:N」「立:R」「長:C」「和:W」あたりで始まる漢字二文字の元号が有力である。なるほどねー。わたしが考えたことにして、妻に解説して感心させよう。

団塊の世代が全員75歳以上になる2025年、もしかしたら大阪万博の2025年、医療費急増で健康保険制度が破綻する。団塊の世代、自己主張の激しい世代、この塊が日本の社会福祉の枠組みに組み込まれていく。日本の医療、介護、年金はどうなるのか。いまのままだと、団塊の世代が日本の福祉システムを喰い荒らすことになる。年金は将来設計が可能であり、介護もある程度予測可能だ。

しかし、予測がまったく不可能なのが医療である。日本では制度として「有効性が証明された医療や薬は健康保険の対象にする」と決まっている。どんな高価な薬でも健保が使える。75歳以上は自己負担率が原則1割、公費が9割である。年間何千万円もかかる医療を受けても、高額医療制度によって自己負担はわずかである。この医療費は2016年度で約41兆円、2025年には54兆円になるという。

しかし医療費の伸びは予測不可能なのだ。最大の要因が医学の進歩だ。さらに新型の抗がん剤、iPS細胞を使った再生医療など、高齢者の需要の大きな新技術の登場が重なる。制度上、医学的に有効な新医療は健康保険でカバーされる。1割しか負担しない高齢の病人にかかる費用は、莫大なものになる。公金を野放図にばらまき続け、健康保険制度が破綻するのは目に見えている。

日本の医療にも「費用対効果」という概念の導入は、早晩避けられないであろう。そうしなかったら、日本の健康保険制度は完全に行き詰まる。年齢で切るか、所得や私有財産で切るのか、方法はいくつかあるが、とにかく「現状の制度のたんなる延長線上に、日本の医療の未来派はないんです」。2025年って、もう目の前ではないか。早急に手をうたないと日本は終わってしまうのだ。

ところで、万博を目指す大阪が当初掲げたスローガンの柱が「長寿」だったというからド真ん中である。本気か皮肉か、本気なんだろうな。さすがにもう少し世界に通用するものを、ということで「いのち輝く未来社会のデザイン」に変更された。それもなんだかなあ。長寿なんていいことないよ。本人にとっても、家族にとっても、社会にとっても。トわたしは思う。続く。(柴田)

辛坊治郎
「こんなことを書いたら日本中を敵に回す本 禁断のアホワールドへ」
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4334979831/dgcrcom-22/


●辛坊さんは「太平洋でヨット漂流して自衛隊に救助された人」のままなのだな。近畿だと、アナウンサーまたはキャスター。毎日テレビに出ていて、元号の話なんかもされていたよ〜。

/台風前日時点の話続き。明後日までの食材を買っておかなければ! 明日は流通が麻痺する可能性があるから、明後日に欲しいものがない可能性がある。いや、今から(18時)スーパーに行っても、備える人たちがいて、物がない可能性があるっ。

スーパーに着いた。クーポンデーということもあって人が多い。野菜やお肉の陳列台がスカスカ。早じまいすることが考慮されて、入荷が減らされたのかもしれない。数日分の買い溜めかもしれない。

ということでお肉は買えず、かろうじて残っていた海のものをいろいろ。缶詰やレトルトパウチされているもの、パンなども買ったよ。続く。(hammer.mule)