Otaku ワールドへようこそ![288]70年前の50年後を答え合わせする/GrowHair

投稿:  著者:  読了時間:23分(本文:約11,100文字)



1950年に書かれたのに、今読んでも新鮮な印象を受ける論文がある。アラン・チューリング(Alan Mathieson Turing、1912-1954)の書いた『計算機と知能(COMPUTING MACHINERY AND INTELLIGENCE)』と題するもの。

チューリングは、第二次大戦中、ドイツの暗号を解読する仕事をしていた天才数学者である。

数学者が書いていながら、数式がひとつも出て来ない。「計算機は思考することが可能か」という問題について論じている。計算機が実証手段として機能するほどの計算パワーをまだ備えていないあの時代にあって、純粋に自分の天然知能だけを駆使して、思考を巡らしている。

50年後には、計算機の性能が向上して十分なパワーを備えるようになり、計算機が思考するようになっているであろうと予想している。あれから68年経っている。われわれは、振り返って、答え合わせをすることができる立場にいる。これが、実に面白い。




意地悪な視点に立って、外れたことを冷やかして遊ぼうというのではない。むしろ、その逆だ。50年先を予測することがいかに困難であるかを考えると、ものごとの本質を見通す洞察力に驚かされる。

未来予測というのは、過去から現在までに至る流れを延長したらどうなっていくか、という発想で行ったのでは、せいぜい数年先ぐらいまでしか見通せない。

大きな変化は不連続的に起きるのだ。現時点では誰も正解を知らないような、ものごとの本質が解き明かされていき、理論の上で可能なことが、現実にも可能になっていくはずだという発想で迫ると、結構いい線いくのかもしれない。

ダートマス会議が開催され、人工知能が学術研究の一分野として確立したのは、1956年のことである。論文が書かれたのはそれよりも前のことで、計算機とは文字通り、計算する機械であって、知能を備えるということ自体、なかなか発想しづらいことだったであろう。

計算機は、軍の司令本部か科学研究施設の奥のほうに鎮座する巨大な装置であり、一般の人々が実物を目にする機会はまずなかった。入力用と出力用の磁気テープの大きなリールが断続的に回転するのが、大型計算機の象徴的な外見であった。映画の結末で悪の参謀本部が爆破されると、あれが派手に大爆発を起こした。

電卓が世に出たのは1979年のことであり、それより前、計算はそろばんを使ってするものであった。テレビのCMで「天下一そろばん」と「トモエそろばん」が熾烈な戦いを繰り広げ、なんとなく前者のほうが勢いがあるように見えていた。今現在、両社とも生き残ってはいる。

パソコンが世に出たのは1977年のことだが、実際に個人所有できるぐらい安価なのが登場してきて世に普及したのは1981年のことである。NECのPC8801シリーズや富士通のFM-7などが市場を寡占した。

専用機の上で走る『スペースインベーダ』というアーケードゲームが登場したのが1978年で、ゲームセンターが次々に開店した。

ついでながら、自分にからめて言うと、1980年代後半、容量が1MB(メガバイト)の8インチフロッピーディスクが一箱に10枚入ったのが、大学の生協で1万円で売っていた。これが9千円ぐらいで安売りしていると、3箱ぐらいまとめ買いした。

1988年に印刷会社に入社して、画像処理エンジニアとして勤務するようになると、その用途にはパソコンでは計算パワーが足りず、ひとクラス上位のワークステーションと呼ばれるコンピュータを使っていた。

1990年代、1GB(ギガバイト)のハードディスクが1,000万円ぐらいして、袖机一個分ぐらいの大きさがあり、空冷ファンがブオォとうなり続けてたいへんうるさく、電気をよく食った。今は、128GBのUSBメモリが2,000円ぐらいで売ってるし、ポケットに入っちゃうし、音はしないし、アクセスは速いし、もう笑うしかないね。

インターネットが一般にも普及しはじめるのが1992年ごろからである。今現在、パソコンや電卓やインベーダーゲームからまだたったの40年。インターネットの普及から26年である。

この50年間の生活や社会の激変ぶりを振り返ってみれば、内閣の現政権の支持派と不支持派とが、ネット上で互いを馬鹿呼ばわりしてののしり合う時代が来ることを、火炎瓶を投げ合っていた50年前に予見するのがいかに困難であるか、分かろうというものである。

チューリングは、まず、ゲーデルの不完全性定理に言及している。知能について考察するに際して、これを持ち出してくるだけでも、天才っぽい香りが漂う。

なんと、私の興味の一番の対象である意識についても言及している。意識の第一人称性に相当することも言っている。これは今現在、突破できない壁として立ちはだかる。

論じる価値のある本質的な問題だと私は思うが、チューリングは、唯我論(solipsism)という不毛な議論に陥るだけだ、というような調子で、立ち入るのを避けている感じである。

知能と意識は別物だと言っているのは慧眼。前者だけあって後者がほとんどない状態や、その逆を、思考実験的に想像することができる。

知能の問題を解決するのに、意識の問題が解かれている必要なないだろうと言っている。これは、松田卓也氏(宇宙物理学者、神戸大学名誉教授)と同じ立場だし、私もだいたいそうかな、と思う。

計算機が振る舞いの多様性を備えるには、十分な記憶容量さえあれば解決すると予想しているが、そんな簡単なものではないことを、現在の我々は知っている。計算機がチェスや将棋や囲碁において人間のチャンピオンに勝つようになっても、汎用人工知能(Artificial General Intelligence; AGI)は、いまもって、実現していない。

チューリングがもし現在も生きていたら、なんかやってくれそうな気がして怖いけど。

機械が、経験から学習する機能を備えることが可能だと言っている。賞罰を与えると、機械は報酬の総和を最大化するように振る舞うような仕掛けにしておけば、機械を教育できるとする考えは、人工知能における強化学習のモデルに近い。

計算機に有限個のルールのセットを与えることにより、その振る舞いを規定するという考え方は、第二次人工知能ブームのときに流行ったエキスパートシステムにおける、(哲学用語ではなく、情報科学用語としての)オントロジー(ontology)に近い。これが、なかなかうまくいかず、ルールを増やしても増やしても、世界の理解には至らないという目に遭うことを我々は知っている。

いきなり大人のように賢く振る舞う機械を作るのがたいへんだとしたら、子供ぐらいの知能程度をもった機械を作っておいて、徐々に教育していけばいいのではないか、と提案している。いやいや、そういうふうにはいきません。

たしかに、機械学習というのはあるけれど、あれは、数理的な問題を解くためのひとつひとつの手法の集大成であって、子供が学校へ行ってする「学習」とは、言葉は同じでも、意味がまったく違う。

ここ30年ばかりの脳科学の急速な進展により、脳の仕組みが詳しく解明されてきているが、それによって、いっそう謎が深まったとも言える。

一個一個の脳神経細胞(ニューロン)は、ほんの数行のコンピュータ・プログラムで記述できる程度の、ごくごく簡単な計算しかしていない。

それが860億個ばかりあって、シナプス結合によってネットワーク構造を形成し、約100ビット/秒程度のビット列(オンかオフかの信号の列)をやりとりしていることが分かっている。

しかし、脳細胞の下位レベルのメカニズムと、我々が、ものを握っている手を放せばそれは落下するとか、壁はすり抜けられないといった世界の法則を体得したり、日常の生活のしかたを覚えたり、学校で勉強して知識を習得したりする上位レベルの学習との間が、ちっとも結びつかないのである。

では、内容を見ていきましょう。と言っても、ここに書き出すのは要約です。全文を参照するには、ネットで検索をかけてみてください。元の論文を複写したPDF、OCRで読み取ってテキスト化したけど、ところどころに読み取りミスがあるPDF、全文和訳が出てきました。


●第一節:イミテーション・ゲーム

【要約】

「機械は考えることができるか」という問いを投げかけたい。まず、「機械」と「考える」をそれぞれ定義するところから始めたい。しかし、言葉の定義や問いへの答えを一般投票で決めたのではしょうがない。

イミテーション・ゲームというのを考える。男性Aと女性Bとどちらの性でもよい質問者Cが参加する。Cは、一方が男性で他方が女性であることを知らされているが、どっちがどっちかは知らない。これを正しく言い当てるのがCの目的である。

CはAとBにいくつでも質問を投げることができるが、AとBは正直に答える必要はない。AはCが間違った答えを出すことを狙い、BはCが正しい答えを出すことを狙う。

容姿や声や筆跡が手掛かりにならないよう、CからはAとBの姿が見えず、対話は画面に表示、または、紙に印字された文字を介しておこなう。

さて、Aの役を機械に置き換えたらどうなるか。機械が、人間と同等の割合でCを不正解に導くことができたら、この機械は考えることができているものとみなすことにする。これが、ここでの「考える」の定義である。

【コメント】

このゲームはチューリング・テストと呼ばれる。よく考えて設計されているものの、知能の定義にはなっていない。知能を定義するのに、その定義の中で知能という言葉を使ってしまっているようなものである。

知能とは何かを直接的に定義するのではなく、まず、人間には知能が備わっていることを前提としている。人間ではないAが、人間である審判者Cからみて、人間でないことが見破られない程度に、人間のふりが上手ければ、Aには人間並みの知能が備わっていると言ってよいことにしましょう、と定めているにすぎない。

仮に、このテストに合格する機械を作ることができたとして、この機械は、ほんとうに知能を備えているのか、それとも、知能を備えた者の真似が上手いだけであって、ほんとうは知能を備えていないのか、区別がつくのかという疑問が残る。

外からの観察によって区別をつけるのが不可能なのだとしたら、意識の第一人称性(哲学的ゾンビは見破れない)という限界が、知能についてもあるのかもしれない。チューリングはこの論文の中では何も言っていないが、おそらく、外から観察して区別がつかないのだったら、本質的にも同等とみてよいのだという立場をとっているのだと思われる。

哲学者であるジョン・サール(John Rogers Searle、1932-)は、「中国人の部屋」をもって反論している。外見上、いくら知能があるように振る舞えたとしても、内実は単に辞書を引いて答えを書き写しているにすぎないのだとしたら、ほんとうに知能を備えていると言えるだろうか、と。私はこの立場を支持する。

●第二節:このテストについての議論

【要約】

機械はこのテストに合格しうるか、という問いへの答えを追究する以前に、このテストに意味はあるのか? という疑問が残ったままだと、議論が無限後退してしまう。

少なくとも、知能という要素を、姿や声といった物理的な特性から、はっきりと切り離したという点において、優位性がある。印字された文字を通じて質問と回答をやりとりするという形式によって、機械と人間とを比較する際の基準として、容姿とか走る速さといった余計な要因が除外される。

【コメント】

しかし、知能がちゃんと定義されていないという批判や、「中国人の部屋」のような反論は想定されていないようだ。

●第三節:このゲームに関わる機械とは

【要約】

「考える」の定義ができたところで、次に、「機械」の定義をどうするか。機械にもいろいろあるけれど、考える主体の役割を果たす機械としては、デジタル計算機に限定してよいだろう。ただし、今現在稼働しているスペックのデジタル計算機にそれが可能かを問うているのではなく、想像上の架空のもの中に、出来るものが存在しうるかを問題にしている。

【コメント】

そういうものを日常的に使いこなしている今の我々にとっては、何の違和感もないですね。

●第四節:デジタル計算機

【要約】

デジタル計算機は3つのパートからなる。
(1)記憶装置
(2)実行ユニット
(3)制御装置

記憶装置は情報を記憶しておく場所。プログラムもデータもここに置いておかれる。実行ユニットは、足し算や掛け算などのオペレーションが実行される場所。制御装置は、プログラムが正しい順序で正確に実行されるよう制御する。

制御装置は、通常、プログラムに書かれている命令を順々に実行していくが、無条件である番地にジャンプせよ、とか、ある番地の内容が0だったらどこそこへ飛べ、そうでないなら順次実行を続けよ、といった条件分岐の制御もある。

記憶容量は無限にあるとする、という仮定が現実の計算機と異なるところだが、有限時間で停止するプログラムが使う記憶容量はしょせん有限なので、実行途中でメモリ不足に陥らない程度に十分に大きな容量を備えている、ということでよい。

【コメント】

現在のパソコンやスマホなどの計算機も基本的な構成はこれに則っている。デジタル計算機の定義を、この構成をもつものに限定しても、まったく窮屈さを感じないと思う。チューリング・マシンと呼ばれている。これを具現化した現実の計算機アーキテクチャはノイマン型と呼ばれている。

●第五節:デジタル計算機の万能性

【要約】

前節で取り上げたデジタル計算機は、離散的な状態をとる機械に分類される。現実には、状態間の移行が不連続に起きることはないけれど、機能的には、たいていのデジタル計算機は離散状態をとるものとみなすことが可能である。

連続的な状態をとるシステムでは、非常に微小な誤差が、先々の状態に多大な影響を及ぼす、いわゆるカオスが生じることがあり、現在の状態から未来の状態を予測するのが難しい。一方、離散状態のシステムでは、それが起きない。すべてが決定論的であると言える。

デジタル計算機の優れた特性として、十分なメモリ容量と計算速度を備えさえすれば、どんな離散状態機械の機能をも代替することができるというのがある。つまり、ソフトウェアを差し替えさえすれば、ひとつのハードウェアでどんな機能でも実現できてしまうということだ。これをデジタル計算機の万能性と呼ぼう。

「機械は考えることができるか」という最初の問いは、次の問いに置き換えることができる。「イミテーション・ゲームにおいて、参加者Aの役割をそこそこよくこなす架空のデジタル計算機は存在するか?」。

【コメント】

まあ、自然に受け容れることのできる話ですね。パソコンやスマホにイミテーション・ゲームができるか、って話です。もしそれができるなら、パソコンやスマホに「考える」能力があるとみなしてよいでしょう、と言っています。

●第六節:

【要約】

地盤整備ができたので、問いについての議論に進む準備が整った。この件について、まず、自分が信じるところを表明しておこう。約50年もすれば、イミテーション・ゲームにおけるAの役をうまくこなすように、デジタル計算機をプログラムすることが可能になるであろう。

今世紀末ごろには、「機械は考えることができるか」という問いに対する、教養ある一般的な人々の意見は大転換を遂げ、反論攻撃に遭う心配なく、考える機械についてふつうに話すことができるようになるであろう。

では、現時点での私の考えに対する反論について、ひとつひとつ取り上げていくことにしよう。

(1)神学からの反論

考えることは、人類の不滅の魂の一機能である。神は、すべての人に不滅の魂を与えたが、それ以外のどんな動物や機械にも与えていない。ゆえに、どんな動物や機械も考えることはできない。

(2)砂に首を突っ込む反論

機械が思考するようになったら、その帰結として起きることは、恐ろしすぎる。そういうことは起きないと望み、信じることにしよう。

(3)数学からの反論

離散的な状態をとる機械にできることには限界があることを示すために使われる、数学的な論理の帰結がたくさんある。一番よく知られているのはゲーデルの不完全性定理(1931)である。

どんな機械を設計したとしても、その機械にとって、正しい答えが出せないか、あるいは、いつまで待っても応答を返してこないような質問が存在する。そのような質問を投げかけられれば、その機械はまったくお手上げである。しかし、人間は、そんな制約は受けない。

(4)意識に基づく議論

この議論は、ジェファーソン教授による1949年のLister Orationで、たいへんうまく表現されているので、引用しよう。

「偶然による記号の羅列によってではなく、機械がその思考や感情のおもむくままにソネットを書いたりコンチェルトを作曲したりするまで、我々は機械が脳と同等だと認めることはできない。機械は書くだけでなく、それが自分の書いたものであるということを知っていなければならない。

どんな機械であっても、成功を喜ぶことはないし、ヒューズが飛んで悲しむこともないし、お世辞を言われていい気分になることもないし、失敗してみじめな気持ちになることもないし、セックスに昂ぶることもないし、欲しいものが手に入らなくて怒ったり落胆したりすることもない」。

この反論への反論は、こうなる。この議論を極端なところまで突き詰めると、機械がものを考えていることを確かめるためには、その機械になってみるしかないということになる。

同様に、人がものを考えていることを確かめるためには、その人自身になってみる以外にないということになる。その見方は、唯我主義(solipsism)に他ならない。

ものを考えているのは唯一自分だけであって、すべての他人はいっさいものを考えていないと信じるのは、論理的にはもっともかもしれないが、すべての人がそのように考えたとすると、コミュニケーションがむずかしくなってしまう。それよりは、みんなが考えていると考えたほうが、ふつうだし、礼儀にかなっている。

(5)さまざまな能力の欠如からの議論

「そのようなゲームをする機械を作ることができるのはいいとして、その機械にはこれこれのこと(X)ができないでしょ」という形式をとる。このXには非常に多くの能力が挙げられる。

親切だとか、才覚があるとか、美しいとか、友好的だとか、自発性があるとか、ユーモアのセンスがあるとか、善悪の分別があるとか、失敗するとか、恋に落ちるとか、苺クリームに心躍らせるとか、他人を恋に陥れるとか、経験から学ぶとか、言葉を適切に使うとか、自分自身について考えるとか、振る舞いに多様性があるとか、まったく新しいことをするとか。

(6)ラブレス夫人の反論

「解析機械には、自発的に新しいことを始める気配がまったくない。我々が、どう指示したらいいか知っていることについては、どんなことでも遂行する能力があるにも関わらず」。

(7)神経システムの連続性からの議論

我々の神経システムは、連続値をとるアナログ装置なので、離散値をとる機械とは違う。

(8)行動パターンの形式化の不可能性からの議論

考えうるすべての状況において、どのように行動すべきかを記述したルールのセットを作ることは不可能である。赤信号が見えたら立ち止まれ、青信号が見えたら進め、というルールを記述しておくことは可能だろう。

しかし、何かの間違いで、赤と青が同時に点灯していたらどうだ。まあ、さしあたって立ち止まっておくのが安全というものだ。

人間だったら初めて遭遇する事態にも、それなりの柔軟な対応ができるからいいけれど、言われた通りにしか動作しない愚直な機械向けに、偶発的に起きうるすべてのことをあらかじめ想定して、ルールの形で記述しておくのは、不可能ではないか。

(9)超感覚的知覚からの議論

超感覚的知覚(extrasensory perception; ESP)に馴染みがあるだろうか。テレパシーとか、千里眼・透視能力とか、予知能力とか、念力とか。

【コメント】

論文が書かれてから70年近く経って、答え合わせができるというのは楽しいことだ。

チューリング、楽観したね。

50年でできるだろうと言ったけど、70年経ってもまだできてないね。ただ、現実の技術の進歩が予想よりも遅れている、というか、問いの難しさが予想以上だったということであって、そのような機械が原理的には存在しうる、とする結論の予想については、私は支持する。50年と思ってたなら、保険をかけて、100年と言っておけばよかったんじゃないかな。

なぜ、多くの人々は「人間の尊厳」みたいな概念にしがみつきたがるのだろう。そんなの、セーラー服を着て往来を闊歩すれば、一瞬にして吹っ飛んじゃうんだけど。尊厳なんて吹っ飛んだって別に何も困らないし。

人間の尊厳を木端微塵に粉砕して、徹底的に否定しようというわけでもないんだけど。ただ、ものごとを正しく知りたいと思うなら、その手の幻想に阻まれて真理に近づけないのでは、かえって前近代的な暗闇に閉じこもったまま出て来れなくなっているという劣等性を背負い込むことになる気がする。

せめて仮定の上だけでも、一時的に棚上げにしてみるのが、ものごとと客観的に向き合うための第一歩だと思うのだが。

機械がものを考えていることをちゃんと確認しようとするなら、その機械になってみる以外にない、というのは、まともな議論だ。意識の第一人称性という限界にも通じる。不毛な唯我主義と決めつけて捨ててしまうわけにはいかないと思う。

偶発的に起きうるすべてのことをあらかじめ想定して、ルールの形で記述しておくのは不可能という議論は、至極まっとう。それ、オントロジー派がまさに陥っている泥沼だ。書いても書いても世界の記述が終わらない。

●第七節:学習する機械

【要約】

我々自身の心や脳の機能について考えるとき、ある部分は、まったく純粋に、機械のようにしか動作していない。しかし、それは心の真の姿を反映したものではなく、たとえて言えば、たまねぎの皮みたいなものだ。それを剥いてしまえば、その下から本当の心が現れるに違いない。

ところが、剥いてみれば、その下にもまた皮がある。剥いても剥いても、また皮。どんどん剥いていくと、最後には心の本体が現れるのか。それとも、最後の皮を剥ききったら何も残らないのか。

イミテーション・ゲームをうまく戦うよう機械をプログラミングする作業が、途方もないもので、やってもやっても終わらないのだとしたら、次のようにしたら、簡単になりはしないだろうか。

(a)初期状態として、生まれたての赤ん坊の心のような機械を作る
(b)教育を施す
(c)経験を積ませる

【コメント】

答え合わせ、楽しいなぁ。

脳科学は、たまねぎの皮をほぼむききったと言ってよい。結果、何も残らなかったことにより、ばかでかい謎が残る。

ライプニッツの風車小屋みたいなことになっている。意識を宿す風車小屋があるってんで、どういう仕掛けになっているのだろうと思って中に立ち入ってみると、歯車だの回転軸だのがごちゃっと組み合わさって、がったんごっとん動作している。

そのメカニズムを完全に解き明かしたところで、結局、意識がどこにあるのか、さっぱり見当たらない。脳科学が解き明かしたのはまさにそういうことで、我々は今、そういう目に遭っている。

脳神経細胞の機能に注目すると、われわれ自身も機械のようにしか動作していないと言える。しかし、脳の活動と、昼メシに何を食うか考える、という実際の思考との間が、ちっとも結びつかない。ミクロ視点の動作原理と、マクロ視点の思考原理とがつながらないのだ。

大人の思考パターンをすべてプログラムで記述するのは、途方もない作業になりそうだからといって、まっさらな赤ん坊の脳をこしらえておいて、後から教育を施したり経験を積ませたりすることによって、難しい問題を易しい問題に置き換えることができるって、どうして思っちゃったんだろう、チューリング。

私自身は、そのアプローチにまったく魅力を感じることができず、チューリングの長ったらしい真剣な語りを引用するのも面倒くさくなってしまった。

ひとつ扉を開けても、その奥に、また扉がある。開けても開けてもまた扉。

しかも、その扉は徐々に重くなっていく。我々が脳の機能について新たな知見を得ることで、ひとつの小さな謎が解明されたとしても、それによってもたらされるのは、最終的に解き明かしたい問いの不思議さがいっそう際立つという、混迷の深まりである。

扉を開けることにより、答えに近づいていっているはずなのに、感覚的には、答えがますます遠のいていく。問いのむずかしさについて楽観していたと思い知らされるという進歩。

この傾向が続くかぎり、当分、出口は見えてこない。知能はともかく、意識のハード・プロブレムの正解に至るまでにはあと300年はかかるであろうという私の予想は、そのへんから来ている。

●まとめ

土曜日の夜にオンラインで実施している、松田先生主宰の秘密勉強会で、この論文を取り上げてくださったS津製作所のI坂さんに感謝したい。

この論文自体は有名だけど、いまさら中身を読んでみようという発想はなかった。意識や知能の謎について、けっこう本質的ないいところを衝いた議論が、あんな何もなかったころにすでになされていたとは。

過去を振り返るのは簡単だけど、未来を予測するのはとてつもなくむずかしい。今現在の常識という縛りから抜け出すには、卓抜した発想力を要する。答え合わせをするのは簡単だけど、それをしてみる価値が、70年も生き永らえているというのはすごいことだ。読んでうならされる洞察が随所にみられる。

凡人がうっかり手を出すと、ろくなことにならないのだ。そう言えば、そういうの、あったな。

「15社もの外国車メーカーがすでにいるというのに、日本車がアメリカ市場でシェアをとれるとは思えない」
─ビジネスウィーク、1968年8月

「個人が家庭でコンピュータを持つ理由なんてない」
─ケン・オルセン、DEC(当時の大手コンピュータ会社)社長、1977年

「彼らの音楽はダメだね。ギターのグループはもう流行りじゃないよ」
─ビートルズをオーディションで落としたデッカレコードの幹部、1962年

「iPhoneのようなものが流行るわけがない」
─スティーブ・バルマー、マイクロソフト CEO、2007年

たった 10年先をもまるっきり見誤っている、悲惨な予想のオンパレード。恥ずかしいなぁ、凡人。

今までの50年間よりも、これからの50年間のほうが、いっそう劇的に変化するのは目に見えている。その分、むずかしさのハードルも上がっていくだろう。

あいつは、意識のハード・プロブレムが解けるのにあと300年かかると言ってたぞ、なんて10年後に笑われていたら、ちょっとたまらんなぁ。


【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
セーラー服仙人カメコ。アイデンティティ拡散。
http://www.growhair-jk.com/

セーラー服おじさんで食っていけたらいいんだけど、世の中、そこまで甘くない。本業はサラリーマンなのだけど、期の変わり目で、ちょいとばかりいい感じにばたばたしてます。ひー。