ユーレカの日々[73]さよならデジクリ
── まつむらまきお ──

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まず最初に。この原稿はいつもの『ユーレカの日々』ではありません。

デジクリに寄稿しはじめたのは、デジクリの創刊3号、1998年4月。なんと21年になる。今のシリーズ『ユーレカの日々』をはじめたのは2011年6月。これもすでに8年たった。

唐突ではあるが、今回でデジクリに寄稿するのを止めることにした。また、バックナンバーに掲載されている過去の原稿(まつむら単独のもの)も、すべて削除していただくよう、編集部にお願いする。




その理由は、もうこのメディアに自分の文章が載っていることが耐えられないからだ。

なぜそう思うに至ったかを説明しよう。後に詳しく述べるが、要するに、柴田編集長の編集後記が、私にはもう耐えられない。特に6月〜7月はひどかった。歴史修正主義的な立場をとる人たちの本ばかりが続く。

もともと柴田編集長がそういうのが好きなのは知っていたが、まぁ、個人がどのような信条を持つのも自由なので、とスルーしてきた。

以前、十河 進さんが連載を辞められた2014年6月13日の記事。
映画と夜と音楽と...[635]最終回 虐げられた者たちの決意
https://bn.dgcr.com/archives/20140613140000.html


これを受けて、2週間後のわたしの記事の近況欄で、次のように書いた。

“十河さんがデジクリのレギュラーを降りられた。実は僕自身、十河さんと同じ理由でこの一年以上、連載から降りようと何度も思ってきた。編集長の主義主張は別に個人の意見だから構わないが、偏見や嘲笑うような表現は人を不愉快にさせる。また、本文と編集後記というステージの違いもずるい。十河さんが降りたことで、この数週間散々考えたが、一つだけ続ける理由が見つかったので、もう少し続けてみることにします。”
https://bn.dgcr.com/archives/20140702140000.html


ちなみにこの回の本文は、『間違えてはいけないという社会のしんどさ』について書いている。十河さんの記事と、それに対する柴田編集長の後記を読んで書いたものだ。

その後、家庭の事情で連載のペースを隔月にしてもらったこともあり、柴田編集長の後記もあまり読まなくなっていた。

今回、原稿の準備中に、編集長の編集後記が目に止まった。気になって、3か月ほど遡ってみた。いつのまにこんなことになっていたのだ。いくらなんでも度が過ぎている。

そして、7月10日〜12日の三日間の後記を見て、決心した。今回は看過できないと決めた。できるだけ詳しく、感情論ではなく論理的に述べたいと思う。とても気が滅入る原稿だが、やらないわけにはいかない。とても大切なことだから、いつも以上に丁寧に、そして自分に正直に書きたいと思う。

●これらの政治的な意見に反感をおぼえる

4月12日〜7/12の三ヶ月間、デジクリは57回発行されている。本の紹介は36回あり、本としては27冊が紹介されている。以下がそのリストだ。

4/15 「問答無用」櫻井よしこ
4/17 「日本の生き筋 ─家族大切主義が日本を救う─」 北野幸伯
4/18 「日本人が勘違いしているカタカナ英語120」キャサリン・A・クラフト 里中哲彦・編訳
4/22〜23 「なぜ韓国は未来永劫幸せになれないのか」黄 文雄
4/26 「絶対、世界が『日本化』する15の理由」日下公人
5/15~16 「精日 加速度的に日本化する中国の群像」古畑康雄
5/17 「人生は美しいことだけ憶えていればいい」佐藤愛子
5/21〜22 「壊されつつあるこの国の未来」辛坊治郎
5/23 「最新研究でここまでわかった 幕末 通説のウソ」日本史の謎検証委員会編
5/27 「唐詩和訓 ひらがなで読む名詩100」 横山悠太
5/29 「朝日新聞がなくなる日」宇佐美典也・新田哲史
5/30 「未来年表 人口減少危機論のウソ」高橋洋一
6/3〜4 「中国・韓国に二度と謝らないための近現代史」渡部昇一
6/6 「東大から刑務所へ」堀江貴文・井川意高
6/10 「韓国への絶縁状 変見自在セレクション」高山正之
6/12 「事故物件に住んでみた!」森 史之助
6/13〜14 「韓国『反日フェイク』の病理学」崔 碩栄
6/18 「証言でつづる日本国憲法の成立経緯」西 修
6/19 「日本の『老後』の正体」高橋洋一
6/21〜22 「米中壊滅 日中スワップ協定なんてとんでもない」宮崎正弘・大竹愼一
6/26、28 「偽善者の見破り方 リベラル・メディアの『おかしな論議』を斬る」岩田温
7/3 「超孤独死社会 特殊清掃の現場をたどる」菅野久美子
7/4 「日本の『中国人』社会」中島 恵
7/5 「文豪たちの悪口本」彩図社文芸部編
7/8 「美しい日本語」金田一春彦
7/9 「大マスコミが絶対書けない事 この本読んだらええねん!」辛坊治郎
7/10〜12 「なぜ韓国は未来永劫幸せになれないのか」黄文雄

政治的では無い本も多少あるものの、ほとんどは政治的もしくは歴史についての本で、こうやって並べると既視感に襲われる。まるで「月刊will」か「Hanada」、極右言論雑誌の見出しだ。ざっくり言えば、南京大虐殺はなかった、ねつ造であるとする歴史修正主義で、中国や韓国を敵視し、朝日新聞の陰謀という主張。実際、後記を読むと、紹介だけでなく、編集長はその意見に賛同されているようだ。

“南京事件は米国がつくった話(でっちあげ)だと考えてまず間違いない。”
(4月5日 編集後記より)

こういった意見は、ぼくは賛同しかねる。ぼくは特に支持政党もないし、政治や歴史には疎い方だが、ぼくなりに世界を良い方向にしていきたいと考えている。その信念の元、傾向はリベラルで、改憲には反対し、朝日新聞を購読し(他紙はネットで読む)、大日本帝国時代の日本の行為は正当化されるべきではないと考えている。韓国や中国、インドネシアより、日本が優れているとは思っていないし、劣っているとも思っていない。細かいことは切りが無いが、ざっくり言えばそんな感じ。

つまり、ぼくは編集長とは反対の意見を持っており、だから編集長がこれらの本を引用しながらディスっている対象は、ぼく自身ということだ。ぼくは攻撃されている、と認識した。

柴田編集長は、十河さんが辞めた時の後記で、こう書いている。

“朝日新聞の読者数よりも多い日本人が、朝日新聞のプロパガンダによって翻弄されている状態を黙って見てはいられません。朝日の主張の反対側が「ほぼ」正しいという認識は変えようがありません。”

同様にぼくは、産経新聞や、安倍政権のプロパガンダを黙認できない。もちろん朝日新聞のプロパガンダに翻弄なんてされておらず、自分で考えてそう判断している。

政治的意見の見解の違いは、今回原稿をひきあげる理由の根拠だが、ここで意見を戦わせるつもりはない。とはいえ、一方的に相手の意見に屈服して逃げると思われても困るので、反論として一冊の本を紹介しておく。

歴史戦と思想戦 ――歴史問題の読み解き方(集英社新書)山崎雅弘
https://www.amazon.co.jp/dp/4087210782/


「歴史戦」を繰り広げることがなぜ問題なのか、わかりやすく論理的に解説されているので、これをぼくの意見として提示しておく。

とにかく、ここでは、どちらが正しいかということは問題ではない。意見の相違がある、ということだ。

●編集後記であるということ

さて、こういった考え方を編集長個人が、Twitterなどで語るのであれば、それは言論の自由の範疇だろう。記名記事で書くのもまだ許容しよう。しかし、編集長がその肩書きでデジクリの編集後記に書くということは、それがデジクリの「編集方針」ということだ。

個人的には古くからのつきあいで、そうは思ってはいないが、社会的にはそう捉えられるだろう。デジクリのような小さなメディアは、特にそう受け止められる。

そもそも、デジクリは政治思想言論のメディアではないはずだ。政治的、思想的な言論を語ってはいけないわけではないが、そういったことを語りたい人を集めているわけではないだろう。ほとんどの記事はアート、デザイン、テクニカル、カルチャーなどについてだ。

ところが先の編集後記のリスト、まるで「月刊will」か「Hanada」と書いたが、これらの雑誌の方がまだましだ。これらの雑誌を手に取らずにすむのは、あの表紙のおかげだからだ(電車の中吊りは公害だと思うが)。先に断ってくれれば、その雑誌や本を読んで不愉快になることはない。

なにも知らない読者の立場から見てみれば、記事を読んだあと編集後記を目にする。それまで読んでいて、ライターの記事に関心をもってもらっても、それが極端な政治思想の元に編集されていたのだと思うだろう。それは困る。

政治的な話がタブーだと言っているのではない。意図や内容がどうあれ、「見た目はクリエイターの情報発信、でも芯は極右思想」というような編集方針には、ぼくは同意しかねるのだ。柴田編集長が信念に沿ってこれらの本を紹介するのであれば、メルマガ「日刊Shibata」でも発行すればよい。なぜデジクリでそれを行うのかが問題だ。

メディアにおいて、ライターと編集者では、編集の方に優位性がある。掲載権は編集者にあるうえ、後記の方が「後出し」できる。編集者は記事の内容をひっくりかえすこともできる。悪質な場合、改訂すらできるし、誘導もできる。

もちろん、そんなことをされたことは一度もない。その点において、デジクリ編集部との信頼関係は保たれているから、今まで続けてきた。また、小さなメディアのことだ、たまにであれば個人の見解でもよいだろう。

ただ、今回のように、政治的な意見を一方的に連発されては、メディアそのものがそういった意見であると判断される。少なくとも、ぼくはそう捉える。そこに自分の原稿が掲載されているのは、とても困る。ぼくが編集方針に同意していることになるからだ。

●他者に対する敬意に欠けた発言

三つ目の理由は、後記の文章や内容に、他者に対する敬意が欠落していると感じるからだ。

“日本を貶めるものなら、捏造の疑いがあったとしても、検証もせず教科書に掲載し(中略)日本への「憎悪」と「反感」の洗脳の成果である。”(No.4807 2019/06/13 編集後記)

“朝日や岩波などに論陣を張ってきた学者、評論家、ジャーナリストなどの手によって、洗脳が延々と続けられてきた。”(No.4800 2019/06/04 編集後記)

前者は本の引用なのか、編集長の意見なのか不明瞭だが、後者は編集長の意見として書かれているようだ。前者は韓国の国民が、後者は日本の国民がそれぞれ「洗脳されてきた」ということを言っている。

そもそもが教育や報道は洗脳ではないので、まったくのナンセンスだし、内容もどうかと思うが、それは今は問題視しない。問題は、「洗脳」という言葉は、「洗脳されている」とする他者の人格を否定している点にある。

だってそうでしょう? これらの文章は、まつむらは洗脳されている、ということを言っているのであり、それはぼくが自分で考えていない、と言っていることになる。

ぼくの書いた原稿はすべて、ぼくが感じて考えたことではなく、洗脳の結果だと言われているわけだ。ぼくだけでない。多くの人々の意志、意見、思想、すなわち人格を否定していることになる。これを看過するわけには行かない。

個人の意見を否定するのに、「あなたが間違っている」と言うのではNAく、「あなたはだまされている」と言った方が、いいくるめやすい。「間違っている」というのは対立構造だが、「だまされている」というのは、共感構造だ。

だから、相手もつい聞いてしまう。特に自分に自信がなかったり、不安をかかえている場合は効果的だ。昔からあるごく単純なレトリックだが、カルト宗教の勧誘や、ブラック企業から抜け出させない手口、毒親が子を支配する時の方便として、今もつかわれている。

だからぼくは、柴田編集長の言論について、彼が紹介している論客に洗脳されている、とは言わない。それは柴田編集長が自分で選び、考えて判断している、ということを尊重しているからだ。

編集長がどこかに拉致監禁され、精神的に追い詰められるような行為を受けたという事実があるのなら、それは洗脳されたと言えるかもしれないが、自由市民としてメディアを自由に選択できる状態であるのに、「洗脳されている」というのは、相手の人格を否定する行為であり、自由な言論においても、許されることではない。

だからぼくは、自分が「洗脳されている」とは言われたくない。「影響されている」というのと、「洗脳されている」というのとでは、全くレベルが違う。こういう言葉を使うことは、他者に対してとても失礼なことだと思う。

また、他者をバカにしたような表現も、他者を尊重する姿勢に欠けている。

“朝日新聞は本気でLGBTを守ろうと思ってはいない。問題の本質をそらしている卑怯者だ。”(5/22後記)
“「韓日」が「兄弟」なんて、んなバカな(笑)”(7/10後記)
“「ウソつきは泥棒の始まり」と親にしつけられる日本とは大きな違いがある。ウソつきでないと生きられない中華の不幸……。”(7/11後記)

これら、人の意見を小馬鹿にしたような書き方も、洗脳されていると同様、相手の意見に反論しているのではなく、人格を否定していることになる。

なぜなら、こういう書き方が頻発していると、編集長はぼくが知らないところで「まつむらは洗脳されていて、ウソつきでヒキョウモノだ」と吹聴してるんじゃないかと感じるからだ。つまり、他者への配慮が無い文章を書くことは、編集者とライター、いやだれに対しても、信頼関係をゆるがす行為だ。

●さよならデジクリ

以上がぼくが原稿を引き上げることにした理由である。まとめておくと
・柴田編集長とは政治的な意見が異なる。
・柴田編集長の意見が、デジクリの編集方針という形式で発表されている。
・柴田編集長の編集後記には、他者に対する敬意が感じられないので、信頼が失われた。

個人の思想信条は自由だし、柴田さんは色々と気を遣ってくださる。よい人だと思うのだが、偏見と差別、悪意に満ちた本ばかりを、うれしそうに紹介されるのは、耐えられない。やり方が卑怯だと思う。ぼくの思想信条からそれを許すことはできない。

要は「自分が読みたくないメディアに、自分の文章を載せられない」ということだ。ライター諸氏や濱村デスクには大変失礼だが、柴田編集長の編集後記の一点において、今のデジクリは「読みたくないメディア」だ。

みなさんに気を遣いたいのは山々だが、このままではぼくの大切な人たちと、自分自身を裏切ることになる。

というわけで、今後デジクリには書かないことを決めた。ユーレカ以降のものはバックナンバーも、削除していただこうと思う。ユーレカシリーズは、ぼくにとってとても大切な原稿である。残しておくわけにはいかない。切り出したページだけでなく、メルマガ本文からも削除していただきたい。〈著者の意向で削除しました〉とでも入れておけば、不自然でもあるまい。無かったことにする歴史修正は嫌だ。

それ以前の対談形式のものは、ぼくの発言だけ消してもらうわけにもいかないだろうから、そのままでかまわない。20年前の初期の連載は、今さらどこかに再掲載しても意味がないので、歴史的証拠として置いてもらってかまわない。もちろんどちらも、編集長が不愉快なら、消してもらっても文句は無い。

今回のこの文章は、何が起きたのかを記録するために残していただきたいと思うが、こちらも編集部におまかせする。

最後に読者の方へ。

長い間ご愛読ありがとうございました。引き上げた原稿はnoteかどこかに置くつもりです。紙の本にもしたい。ユーレカシリーズもなんらかの形で続けたいと思っています。Twitterで告知しますので、よろしければ引き続き、よろしくお願い致します。

デジクリとの21年間。ぼくの人生の1/3以上だ。これだけ長い期間、書く場を与えてくれたデジクリに感謝を込めて。さらば。もう戻らない。


【まつむら まきお/まんが家、イラストレーター・成安造形大学教授】
twitter:http://www.twitter.com/makio_matsumura

http://www.makion.net/

mailto:makio@makion.net

p.s. 濱村デスク。あなたが居たから今まで続けられました。本当にありがとう。ごめんね。