[4907] 哲学者に雷を落とした物理学者・谷村省吾氏に聞く:意識の謎について

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《哲学については私も思うところがあり》

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 哲学者に雷を落とした物理学者・谷村省吾氏に聞く:意識の謎について
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哲学者に雷を落とした物理学者・谷村省吾氏に聞く:意識の謎について

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http://bn.dgcr.com/archives/20191122110100.html
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●「谷村ノート」への疑問:意識の謎を理解してる?

物理学者である谷村省吾氏(名古屋大学教授)は、2019年11月6日(水)、『一物理学者が観た哲学』と題する、総ページ数110ページにわたるPDFファイルを公開した。通称「谷村ノート」と呼ばれる。
http://www.phys.cs.is.nagoya-u.ac.jp/%7etanimura/time/note.html
https://nagoya.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=28664&file_id=17&file_no=1

これは、下記の書籍への補足ノートという形をとっている。

  森田邦久(編著)
  「〈現在〉という謎:時間の空間化批判」
  勁草書房(2019/9/27)

この書籍は、物理学者たちと哲学者たちとの紙上討論という形で編まれている。本は無事完成したけれども、本に書ききれなかったことで、哲学者たちに十分に伝えられなかったことや、哲学者たちの見解を理解しきれなかったことが残ったからとのことで、谷村氏は、番外編としてこのノートを書いている。

内容は、明らかに「哲学批判・哲学者批判」である。しかも、かなり強い調子でものを言っている。

・生体の内部だからと言って、既知の物理法則が通用しないわけではない

・体内の物理現象が、最終的に物理学では記述不可能な「非物理的意識現象」や「非物理的質感現象」を引き起こしている、とは考えられない

・物理学が正しいならば、心身一元論が正しく、心身二元論は間違っている

・心身二元論が正しいならば、物理学のどこかに重大な間違いか、見落としがある。しかし、物理学はそんなヤワなものではない

・物理学の支持をまったく受けない心身二元論を言語的に擁護することは、時間つぶしの、くだらない遊戯に見える

・哲学者は物理学者の視野や問題意識が狭いと考えるかもしれないが、物理学者には、哲学者は無謀な大問題をぶち立てて徒手空拳または自らに課した束縛ルールで挑んでいるようにみえる

・物理学者たる私は、哲学者たちと議論すると、自分たちの知識の歴史的蓄積をないがしろにされているような気がするし、哲学者の問題提起や学説を聞くと「いまどき何を言っているのか、しかも、何だ、その稚拙なモデル設定と杜撰な論証は」と思ってしまうのである

・率直に言って、私はそのような議論に寸分の価値も認めない。そのような問題を1秒でも(実際には何週間も)真剣に考えてしまった時間が惜しいくらいである

・世界の真理を知りたいと思うなら、私は哲学はやらない。ストレートに科学をやればよいと思う

●小林から谷村先生への質問

私は読んでスカッとした。「あはは、思ってた思ってたよく言った!」。私自身も、前々から同じような主旨で、哲学者を批判、あるいは、侮蔑・嘲笑してきたし。

まあ、哲学者や哲学好きからすれば、読んで快く思えるようなテキストでないことは、想像がつく。実際、「驚き、悲しみ、何度も頭に血がのぼった」という感想がネットに上がっている。

  2019/11/06 13:43
  note
  哲学者は物理学者の本気の拳をどう受け止めるか…
  谷村省吾「一物理学者が観た哲学」を読んで
  R. Maruyama
  https://note.mu/rmaruy/n/nd83e0544b286

言葉がキツくて不快に感じた、とか、尊敬する哲学者がけなされていて悲しくなった、とか、そういう反応が起きるのは分かる。しかし、ここでは、情緒的なあれやこれやは脇に置いて、冷静に論理で吟味したい。

「人工知能美学芸術研究会(AI美芸研)」主宰:中ザワヒデキ氏のFacebookページに私が話題を投下し、いろいろな人がスレッドに書き込みする中で、渡辺正峰先生(東京大学准教授)からちょっとした疑問が投げかけられた。

「谷村先生が『意識のハード・プロブレム』の存在を認めていない(or理解していない)可能性を感じ、哲学者があの手この手で諭しているやり取りだったのではないか」と。

ちょっと! せっかく物理学者に共感してたのに、引き裂かないでください。もし、それをめぐって、物理学者と哲学者との間で議論がかみ合ってなかったのだとしたら、哲学者の説明のしかたがよほど拙かったせいであって、私がやったほうがぜったい上手くできる。

気になったので、2019年11月15日(金)、私から谷村先生にメールを送って聞いてみた。


▽▼▽ここから引用

「意識のハード・プロブレム」についてお聞きしたく

谷村省吾先生

初めてメールします。小林秀章と申します。よろしくお願いします。

PDFドキュメント『一物理学者が観た哲学』を拝読しました。書かれている(詳細な内容はともかく)主旨につきましては、非常によく理解できました。

「科学vs.哲学」というテーマで大きく捉えたとき、哲学者との間の相互理解のための共通の土台がそもそもあるのかないのか見えてこないことから来るコミュニケーションのうまくいかなさに対するフラストレーション、深く共感できました。

私自身も、前々から哲学および哲学者に対して不平不満を述べ立てておりましたので。

ひとつ、お聞きしたいことがありまして。「意識のハード・プロブレム」をどう思われますか、というこの一点だけです。意味のある(ナンセンスではない、意味をなした)問いであるか。それは、取り組む価値のある問いであるか。科学における未解決の問題として、科学で取り扱う対象とすべきかどうか。というようなことです。

この質問は、やはりPDFドキュメントを読んだ渡辺正峰先生(東京大学)から出されたもので、聞いて私もたいへん気になったので、ご本人にお聞きしたくなったという次第です。

これだけではうまく伝わらないかもしれないと思い、以下は補足説明です。

【「現象的」という用語について】

物理学者に限らず一般的に「現象」というとき、「雨が降ってきた」とか「火山が噴火した」とか「原子が電子を放出した」とか「物体がブラックホールに吸い込まれた」といった、現実世界で実際に起きている、客観的に観測可能な自然現象のことです。
現象的:phenomenal

哲学者が「現象」というとき、これはフッサールの「現象学」から来ていて、心の中でどんな出来事が起きているかを指し、原則として本人にしか観測(?)できない、純然たる主観的現象のことです。
現象的:phenomenological

【「意識」と「クオリア」という用語について】

「意識」や「クオリア」という用語の意味や用法が、すべての人々の間で統一されているとは限らないので、この文章の中に限って、私は下記の意味で使います。

まず、「意識」にせよ「クオリア」にせよ、純然たる主観的現象に属する概念である以上、現時点における、客観を旨とする科学の言葉を用いて、明確に定義しようとしてもうまくいきません。

定義するのはあきらめて、共感的理解を求めて説明的に言うしかありません。

意識(consciousness)とは、主観的体験であり、覚醒時にはあって、全身麻酔がかかっている状態や死んでいる状態においては失っているアレです。浅い睡眠時、夢をみている状態においては、意識はあるものと考えます。

意識がある(consciousである)ことによって起きる具体的な主観的「現象」のひとつひとつがクオリアです。逆に言えば、クオリアがひとつでもあれば、意識があると言えます。

クオリアは2種類に大別できます。

(1)志向的クオリア 「私」という感覚。自分が何をしようとしているか、何をしているかを分かっている(気づいている)状態。メタ認知。

(2)感覚クオリア いわゆる赤の赤さ。痛みそのもの。視覚クオリア、聴覚クオリア、触覚クオリアなど、単なる情報伝達・保持ではなく、ありありとした感覚を伴った意識体験

意識もクオリアも科学の言葉でちゃんと定義できていない以上、議論が混乱するのは避けられない、という面倒くささがあります。

「意識」は科学の対象として取り扱うべきではない、という厳格な立場をとる
科学者もいます。論理的にはごもっともです。

が、私はそうは思っておらず、まだ地中に埋もれていて、これから掘り出して堂々と科学のマナイタの上に載せることができる、科学のタネぐらいにはなっているだろうと思っています。現時点においても、科学の側から取り扱うための、とっかかりぐらいはあるだろうと考えています。

【意識の「第一人称性」について】

意識そのものは「第一人称性」という性質があり、今のところ(あるいは本質的に永久に)、ある主体が宿している意識そのものを他者あるいは測定装置が直接的に観測する手段はありません。

また、他者に意識が宿っているかどうかを直接的に判定する手段はありません。言い換えると、「哲学的ゾンビ」(あるいは「現象ゾンビ」)は見破れない。

間接的になら、脳活動をfMRIで観察するなどの手段はありますが、それはあくまでも脳の物理的な現象を見ているのであって、主体の宿している主観そのものを見ているわけではありません。

また、本人が「いま、何々が見えています」と自己申告すれば、その事実は観察可能ですが、「申告内容を信じれば」という「但し書き」つきで、やはり間接的に他人の主観を見ていることになります。

【「意識のハード・プロブレム」について】

「意識のハード・プロブレム」とは、次のような問いです。

脳といえども、物質であることに違いない。物質であるからには物理法則に厳密にしたがうはずである。いわば、機械のようにしか動作しえないはずである。本質的に、人間と機械を分かつ壁は存在しないと考えられる。
なら、その物質、あるいは、機械である脳に、いかなるメカニズムによって、意識が宿るのか。派生的な問いとして、人工物に意識を宿らせることは可能か。

そもそも他者に意識が宿っているかどうかをどうやって判定しうるのだ、という問いも裏に隠れています。

意識が純然たる主観の側の概念である以上、この問いは、主観側と客観側とにまたがって据えられています。

しかし、この問いは、「科学vs.哲学」というテーマとはほぼ関係ありません。この問いについて考えるために、哲学も哲学者もほぼ不要で、科学の観点だけから議論できるものと考えます。(問いを立てたのは、「心の哲学」方面の哲学者であるデイヴィド・チャーマーズ氏であり、「意識のイージー・プロブレム」との違いを明確化して問いを立てた功績は認め、敬意を表しますけど)

この問いについて、物理学者であるロジャー・ペンローズ氏は、意識が生じるメカニズムは波動関数の収縮と関係があり、物理学において、まだ発見されていない法則が発見されてからでないと説明がつかないであろう、とする「量子脳仮説」を提唱しています。もちろん、激しいブーイングを喫しています。

さて、これで冒頭の質問に戻るわけですが、谷村先生は、「意識のハード・プロブレム」を、問いとして成立しているとお考えでしょうか。また、科学からはどのように扱うべきであるとお考えでしょうか。

なお、もし先生からのご回答を公開されたい場合には、私からのこのメール全文あるいは一部も公開していただいて結構です。

よろしくお願いします。

△▲△ここまで引用


●谷村先生からの返信

2019年11月18日(月)、谷村先生から返信が来た。これを公開することについて、承諾をいただいている。

▽▼▽ここから引用(2)

小林秀章様

名古屋大学の谷村です。
『一物理学者が観た哲学』に関心を持っていただきまして、ありがとうございます。

質問の件ですが、意識のハード・プロブレムは、問い自体は、私から見れば、誰でも思いつくような問いだと思います。とくに物理を学んだ者からすれば、当然、不思議に思うことだと思います。

もちろん、問いを簡単に思いつくからと言って、答えは簡単だとは思いません。問い自体をきちんと定式化することも難しいと思います。決着のつくような答えを見つけることは、非常に難しいでしょう。

ですから、私は「意識のハード・プロブレムはハード・プロブレムだ」と認識しているつもりです。ただし、ハードさの認識は甘いかもしれません。

物質である身体・脳に、いかにして意識が生じるのか?
それは物理法則に反することなのか?
物理法則で説明できることなのか?
という問いは、科学的な問いとして成立していると私は思います。

ただ、この問いは
『〈現在〉という謎』という本の主題ではないし、『一物理学者が観た哲学』の主題でもありません。

私はこの問いについて論じられるほどの準備をしていません。それでも私の現時点での答えを言うなら、以下のようになります:

・意識という現象は、物理的な現象だと思います。

・意識は、物理学に反する部分は、まったくないと思います。

・しかし、意識の起源や性質を物理学で演繹的に説明するのは非常に困難だと思います。

・機械も、我々が「意識」と呼んでいるものを持つことができると私は思います。

・人間以外の生物も、我々が「意識」と呼んでいるものの萌芽的なものを持っていると思います。

・受精卵から胎児・乳児・幼児に至る過程で、どのように意識が生じるかは、興味ある問題だと思います。

・肉体が死んだら意識はなくなる、ということを私は当然のように思います。心身二元論を真剣に取り上げる人たちは、肉体死と意識死の関係を取沙汰しないように見えますが、死についてどう考えているのだろうか? と疑問に思います。

・「意識は純然たる主観である」という見方をしてしまっては、この問いに科学でアプローチすることはできません。科学の問題にしたければ、「意識」の定義を変えるべきだと思いますし、私はそういう定義を模索しています。ただ、そうやって新たに定義された「意識」は、いま皆さんが定義しているつもりの「主観的で一人称的な意識」ではなくなると思います。

・他人も私と似たような意識を持っていると思います。ちなみに小林様が与えてくれたクオリアの説明も、私には通用している、と思います。

・科学的な手段で自分の意識と他人の意識は比較できるようになると私は思います。

・哲学的ゾンビについては、そういうものを想像するだけなら私もできますが、物理的に人間と同一のシステムでありながら特定の性質だけは持たないシステムを、物理的に構成する方法があるとは思えません。哲学的ゾンビは、「頭の体操」のための「空想の産物」であって、「あり得るか・あり得ないか」という議論の対象するのはやめた方がよいと思います。

私は以上のように考えます。おそらく私の考え方は「極めて楽観的な物理学万能主義」の部類に入るでしょう。

しかし物理学者の立場で考え始めると、どこかで物理学の立ち入ることができなくなる境界線があるとは思えない、むしろそんな立入不可領域があったら大変だ、というのが私の考え方です。

ここで私の一番のメッセージは、「主観的で一人称的な意識」という定義のみを金科玉条としていては、意識に対する科学的アプローチの道を永遠に閉ざしていることになる、という点です。それが唯一の絶対的定義だと信じている人には、私は言葉がないのです。

こういったことをツイッター上で言うと、哲学者たちから猛反発を受けることは間違いないと思います。彼らは「それは証明になっていない、谷村の信念を述べているにすぎない」と騒ぐでしょう。そうです、これは私の信念です。

物理学は実験観察証拠と数理的理論構築を積み上げる学問です。物質の基本構成要素とそれらの相互作用については、多くの、しかも精密なことを物理学は解き明かしてきました。もちろん物理学では解明できていない問題や物理学では扱えそうにない問題も多々あります。

ただ、ここからここまで探した限りでは未知の要素はない、という探索と決着を物理学者たちは繰り返してきました。そういう種類の自信が、我々、物理学者にはあります。

心身二元論をどう定式化すべきか私にはわかりません。心身二元論が「精神と物質は別ものだよー」と、ふわっと言っているだけなら、私も、ああそうですかと思います。

しかし、心身二元論が「精神世界と物質世界とが独立のものとして存立していて、それらのものごとが互いに連絡し合っている」という真剣な主張だとすれば、人間精神のみに関して自然法則の及ばない部分があることを認めることになります。それこそ、天動説の上を行く、「人間中心」と言うよりも「人間別もの」的な世界観のように私には思えます。

『〈現在〉という謎』で私が何を問題にしていたか、もう一度述べます。『〈現在〉という謎』において青山拓央氏は、「意識状態が変化する直前の最終的な物理状態が定まる時刻と、クオリア的な質感が生起する時刻の間に、時間差はあるか?」という問題を提起しています。

つまり、「フィジカルな身体状態と、スピリッチュアルな意識状態とが、物理的な時間差をおいてコンタクトしている、物理的なものごとはすべて起こっており意識状態だけがまだ変化していない時間がある」という情景を思い浮かべないと、青山氏の問題提起は頭に入ってきません。

もう一度言いますが、青山氏の問題設定は「物理状態と意識状態とが、真に別ものとしてあって、連絡し合っていて、時間差もあるかもしれない」というぎりぎりのところを描写しているのです。

しかし、このような問題設定が実装できるとは私には思えない。私には、物理システムと意識の間の接点と距離を保ちながら青山拓央氏の問いに意味を持たせることができないのです。そのような物質と非物質の相互作用は、自然法則にないのです。これが、こと青山論文に関して私が言い争っている問題点なのです。

何度も言っているつもりですが、意識やクオリアの「実在性」は『〈現在〉という謎』と題したシンポジウムと本のテーマではないし、『一物理学者が観た哲学』の議題でもありません。「時間」や「現在」や「意識の時制」についての、哲学者たちの、私から見ればじつに粗雑な議論を見聞して、「そんなやり方で真理に近づけるのだろうか?」という強い疑念を私は抱きました。その疑念を表明したものが『一物理学者が観た哲学』なのです。

多くの人々は、科学に頼り、迷信をバカにする態度を取りながら、いざつつかれると、心身二元論という素朴で非科学的な人間観を捨ててはいないということが、今回の件で如実になりました。私には、こちらの方が衝撃的です。

私は、人間の自由意思も物理学と織り合いのつく形で存在していると思っています。ここまで物理学を信じられる人間は珍しいでしょうね。でも、「人間別もの」的な主義を信じるよりも、よっぽど心が開けていると思います。

谷村省吾
2019年11月18日

△▲△ここまで引用


●小林からのコメント

【意識の謎の伝達のしかたの巧拙の問題ではなかった】

まず、まったく面識がなく、学術畑にいるわけでもない素人から突然送りつけられた質問に、真摯にご回答いただけたことに、深く感謝します。

「うをー、回答来たぜー!」とたいへん気持ちが盛り上がり、感激した。また、回答のスパッと切れ味のよい明晰さが、たいへん気持ちよく感じられた。

聞きたかったことにはきっちり答えられていて、重ねて何かを聞く必要がなく、一往復で完結している。なるほど、意識のハード・プロブレムの何たるかについて、哲学者の伝え方が拙かったせいで、科学者にうまく伝わらなかったというのがごたごたの源ではなかった。

意識の謎を科学で解明すべく取り組むとしたら、どのようなアプローチが必要あるいは有望か、という点について、谷村氏と私との間で立場の相違が若干あるようには感じられたが、そこは議論して決着をつけるような性質のものではない。

全貌が未知の山に登るのに、どのルートを取れば行けそうか、という問題であって、自分の直感を信じて思い思いの道を選択すればいいだけの話である。

もっとも、私はとるべきルートさえ見えてなく、ふもとで途方に暮れているようなもんなのだが。脳の機能を数理的にモデル化しようとする試みとして、カール・フリストンの「自由エネルギー原理」やジュリオ・トノーニの「統合情報理論」などがあるけれども、意識のハード・プロブレムに直接的にアタックしようとしてはいないようだ。

意識を科学の側から取り扱えるようにするためには、どのような方法論がありうるか、そこから掘り起こさなくてはならない点に、ハード・プロブレムのハードたるゆえんがある。

しかしながら、意識のハード・プロブレムの伝わらなさが、今回の議論のすれ違いのポイントではなかった。となると、やはり、議論の中心は、哲学の方法論の粗雑さや、主張内容の不合理さを糾弾するという点にあったということに
なろう。

【哲学については私も思うところがあり】

中心的なテーマから外れたところをごちゃごちゃつつき回すよりは、ド真ん中の議題を取り上げたいのは山々だが、こと哲学批判に関して、私は谷村氏に全面賛成で、議論すべきポイントが見当たらない。むしろ「哲学者よ、言われっぱなしでいいのかい? 反論、待ってるぜ」と言っておきたい。

哲学者の議論のしかたの稚拙さに対して苛立ちをおぼえたというのは、私自身、経験してきたことだ。

例えば、シンギュラリティが来るかどうかの予想について、自分とは異なる意見にこそ積極的に耳を傾けてみるべきだとの思いから、来ない派の主張する言説を読み回ってみた。

西垣通氏は「生命知」と「絶対知」という聞きなれない概念を持ち出してきている。なのに、ろくな定義を述べていない。すべての知をどちらかに弁別するための手段としての手続きも述べていない。わずかな例を挙げてはいるが、それだけではこれらがどういう概念なのか明確になっていない。二律背反的な概念なのかどうかもよく分からない。

なのに、来る派の論理に矛盾があることを見出したというようなことを言っている。その矛盾を導く過程は、証明などと言えるものではない、お粗末なものだ。生命知と絶対値の二律背反性を前提条件として使っているようだが、それが成り立つことをいったいいつ確認してたっけ?

私としては、きっちり反論しようというつもりで、必死で論理の筋道を追おうとしたのに、その論理運びがもうダメダメすぎて、反論どころの話ではないのである。落第。

しかし、本人はすっかり論破したつもりになってお花畑に行ってしまったようで、シンギュラリティ来る派をグノーシス派にたとえて、宗教的狂信者のように扱い、そっちの論のほうにより多くの言葉を費やし、ナンセンスな悪口をぐだぐだぐだぐだ述べ立てている。これが苛立たずにいられようか。

煽りでも何でもなく、純粋に心の底から、真摯な思いで、真っ正直に、大真面目に、西垣、バカだろ、と思う。私の中で、「バカ」とラベルのついたゴミ箱に捨ててある。

まあ、編集者の責任なんだろうけど、これに『AI原論』なんていうクソ恥ずかしいタイトルをよくつけたなぁ。幸い、AI研究者たちは、この書物の存在にすら気づいていないほど関心が薄いようだが、もしうっかり読んじゃったら「うわぁ、くっだらねえ!」って、ぜったい言うと思う。

部分的な情報だけで全体をジャッジするな、哲学をほんのちょっと読みかじった程度のことで哲学全体を否定できたような気になるな、という批判はごもっともである。実際、私は哲学方面の書物なんてろくに読んでなく、知識が浅いのはまったくその通りと認めよう。

じゃあ、全部読んでから言えばいいのか。500年ぐらいかけて哲学書を全部読み尽くした挙句、やっぱりダメでしたってことになった場合、そんなことに時間を費やしてしまったオレの人生を返してくれるのか。

目の前に腐ったバナナがあったとして、よくよく精査してみれば、どっかに食える箇所が残っているはずだ、と言われても、そんなのどうでもいい。

件の対談本に登場する哲学者諸氏だって、まったく個人としての立場からものを言っていたわけではなく、いちおう哲学というジャンルを代表する立場であることを意識して言っているはずである。

それであの調子では、哲学という分野が丸ごと、杜撰な議論がまかり通る世界なのですよ、と紹介しているようなもので、あとは推して知るべしだ。

「鳥なき里の蝙蝠」と言う。「鷹がいないと雀が王する」とも言う。

たとえダメな論であったとしても、それを仮説として提示する自由はあってよい。多くの人々が多様な視点からつつき回す中で、ダメな論は自然に淘汰されていき、よい論が持ちこたえて生き残るというのが学術環境の健全な姿だ。

ところが、哲学という分野はソーカル事件あたりで科学からほぼ完全に見放され、科学者たちから見向きもされなくなっている。鷹のいない世界。雀が大きな顔してはびこり放題。

特に、哲学者の多くは数学の素養がないのが丸見えだ。一般人の多くが数学を苦手としているのは現実であって、いたしかたない。しかし、そういう人は哲学者になるべきではないと思う。

粗雑な論理運びは議論を混乱させるだけで、有害でしかないと思う。大学の哲学科も入試に数学を課すべきだ。現役の哲学者の多くは落ちるだろうけど、それでよい。

現実世界や数理世界において、根源的な謎にアタックし、真理を解明したいという科学の精神に照らしてみるとき、哲学だってもともとは同じ方向性を共有していたはずである。ところが、あちらさんは、文学やら社会学やらの方向に横滑りしていったとみえる。

それはそれで、まったく無価値だとまでは言わないけれど、もともとの科学の精神からすると、こんな議論をいくら続けていたところで謎の解明や真理の発見には至りそうもなく、壮大な言葉の無駄遣いにみえる。

やめろとまで言っては、余計なおせっかいだ。喫茶店にいるとき、隣りのテーブルでおばちゃんたちが雑談しているのがたまたま聞こえてきちゃったからといって、「もしもしご婦人方、そんな議論をいつまで続けても科学的発見に至る見通しはゼロなのだから、今すぐやめなさい」などとちょっかい出したりはしないもので。本人たちが好きでやっている分には、どうぞご自由に、としか言いようがない。

哲学にもし価値があるとするならば、能や狂言のような古典芸能に類する文化的価値なのではないかと思う。

今回の谷村ノートについて、私からみえた景色は、哲学者たちがその閉じた世界の中で勝手にやっている分にはよかったのに、物理学者をわざわざ呼びつけちゃったもんで、哲学の方法論の粗雑さや、主張内容の不合理さが露呈し、怒りの鉄拳を食らったってところだ。

今回の一件で、ソーカル事件あたりですでにひどかった、科学の哲学離れがますます確定的になるかもしれない。あいつら、要らんよ。

哲学は時代遅れのみじめな学問もどきの営みだ。価値があるとしたら、せいぜい古典芸能としてである。

哲学は、まっとうな批判者という天敵からみずからの存在の気配を消すことに成功し、未開の楽園でのびのびとゲンロンのさえずりを謳歌している。

ダメな議論が自然淘汰される機構が健全に働かなければ腐臭がしてくるとは思うが、知ったこっちゃない。

【そうは言っても科学にだって限界はある】

ここまで言ってから言うのもナンだが、科学至上主義者とのレッテル貼りをされるのは、それはそれで困る。

人が生活していく上で生じるすべての問題が科学で解決可能だ、などとは言っていない。科学以外のものには価値を認めない、などとも言っていない。実際、橋本環奈はかわいい。キュンキュンだ。

科学はさまざまな自然現象を合理的に説明づけることに成功してきて、さまざまな迷信を粉砕してきた。しかし、現時点で解明できずに残っている、手ごわい、根源的な問いについて、いつかは解けるだろうかということについて、あんまり楽観してもいない。

科学の基礎の基礎の基礎のところを徹底的に問い詰めていったら、科学は持ちこたえうるだろうか。そこが、一番の不安としてある。

測定装置がこれこれの値を示したと言えば、客観的な観察結果のように、いちおうはみえる。だけど、その測定装置の実在は、ほんとうに間違いなく、確かなことだろうか。その測定装置は、あなたの脳に写っている視覚クオリアにすぎない。触覚クオリアと照合できているかもしれないけど、主観側の出来事であることに違いはない。

外界に測定装置が実在としてあると考えるのは、主観から推測した計算結果にすぎない。その推測が正しいという保証は、どの程度のものだろうか。主観に映ったとおりに、外界に実在があるとは、絶対的に確かなこととして保証できないのではあるまいか。これは、「素朴実在論」の否定ということである。私はその通りだと思う。

思考実験だが、仮に、私の脳の現実の姿は、むき出しで培養液に浸けられていて、仮想的な現実世界のシミュレーション結果がビット列信号という形で送り込まれてきているのだとしても、きっと私はだまされて、普通に生活しているものと思い込んでしまうであろう。これを「水槽の脳」という。映画『マトリックス』の世界。

現実の姿が実際にこうなっている可能性は低いようには思えるけど、この可能性を論理的に否定できるような気がしない。現実にもそうなっているんじゃないか、という考えは「シミュレーション仮説」と呼ばれる。

ここまで突き詰めて考えると、客観的な観察結果といえども、最後の最後には主観で捉える以外に手段はなく、客観領域と主観領域との交差領域に立ち入らざるを得なくなってくる。ここに、客観を旨とする科学の土台の部分での心配が残る。

徹底的に突き詰めていった先に、科学の方法論だけからは対処しきれない病的な深淵があるような気配が、濃い霧の向こうにぼーっと漂ってはいないだろうか。そのあたり、どうしたって哲学の香りがしてこないだろうか。

さんざんくさしてきたけど、哲学の出番はあると思う。「心の哲学」とか「科学哲学」のあたりは割と支持しているのである。ただ、青山拓央氏が心身問題を扱う「心の哲学」方面の哲学者であるらしいと知って、若干、ショックを受けた。ジャンル丸ごと手放しで支持してはいけないのだな。

科学の土台固めは非常に大事な仕事なので、論理運びの粗雑な哲学者がやるべきではなく、科学者がやるべきだとは思う。

実は、けっこう哲学に期待してたりするのである。だからこそのフラストレーションであったとも言える。「ラブレター」みたいなもんだと思って受け取っていただければ。


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編集後記(11/22)

●「天安門事件」から30年経った。あの頃の日本はバブルの真っ最中、40代前半のわたしは好況の出版社で、好きな企画をやりたい放題、経費も使い放題の不良編集者だったから、時事問題など深く考えることなく毎日を楽しく遊び暮らしていた。だから、世界情勢はもとより天安門事件なんか殆どスルーしていた。そのため、今に至るまで事件の顛末は詳しく知らない。愚かである。

老人だから新聞は定期購読している。読売ジャイアンツ新聞だ。11月24日(木)の「解説」ページは「天安門事件30年」だった。民主化を求めて天安門広場を占拠した指導者のひとり、張倫さんを亡命先のフランスでインタビューしている。いまセルジー・ポントワーズ大学教授、社会学者である。今年、ドキュメンタリー漫画「TIANANMEN(天安門)1989 砕かれた希望」を出版した。

天安門事件の証人として中国の未来の子に向けて、事件の記憶を刻む義務があると考えたからだ。「もう一つ。中国に習近平政権が出現し、汚職摘発の名のもとに政敵を次々に排除し、毛沢東時代に回帰しているかのような様相です。危うい。私見では、中国は先の見えない時代に入った。その起点が天安門だったと考えます」。文化大革命で、張倫ら一家は遼寧省の寒村に下放された。

毛沢東が死に四人組が失脚し、トウ小平が改革開放に着手、張倫一家は瀋陽に戻り、彼は北京大学大学院に入る。知識人や民主活動家、政治家らと交わる。事件の端緒は改革開放を指揮した胡耀邦の89年4月の死にある。胡は民主化運動に理解を示した責任を問われ解任されていた。北京の知識人、学生らは名誉回復を求めて、天安門広場に集まった。追悼集会は10万人の規模だった。

それが改革運動につながった。学生らはそれまでの改革開放をおおむね評価していた。ただ、胡解任の示すように反動が起き、改革は停止された。党中枢で改革派と保守派の権力闘争が続いた。運動の主体であった学生らは、改革が経済に限らず、政治に広がることを望んだ。張倫は秩序維持担当だった。当局に強制排除の口実を与えないのが任務だ。彼らは党の改革派とも接触を続けた。

しかし、トウ小平が「反革命暴乱」と糾弾した。その反発で市民を含む100万人が広場に参集し、党批判が高じた。学生らは運動を「愛国的」と認めさせるため、捨て身のハンストに突入。リーダー達は弾圧を予見し、流血を避けるために、広場から撤収するよう学生達を説得したが、一部の急進化した学生達に拒まれ出口を失う。6月3日夜から4日未明の夜陰に虐殺が繰り広げられた。

トウ小平は約35万の兵士を動かし、力を見せつけ改革派を一掃した。張倫は、「中国では軍を動かした以上、武力行使を命じなければ権威を失う。血塗られた重大事の責任は、改革派と『反革命暴乱』側が負うのです」と語る。彼は不眠と過労で弾圧の数日前、広場で意識を失い病院に搬送された。退院後、地下に潜り、内モンゴル自治区などを転々、89年9月、英国領香港から密出国。

パリに着いたのは89年末だった。天安門事件後、党は政治の自由を完全に封じる一方で、経済の自由は維持し、高度経済成長を現出することで権力独占を正当化してきた。シンガポールに倣った中国モデルである。しかし高度成長は永続しない。張倫は断じる。習政権は盤石ではない。ITを駆使して国民の監視を徹底している。北京で包丁を買うとき、身分証明書の提示が必要だ。笑える。

「香港争乱、そして弾圧の伝えられる新疆ウイグル自治区情勢も変調の予兆と言えます。帝国の崩壊は周辺から始まるものです」これがタイトルになっている。知りたかった天安門事件のディテールはほとんどないに等しい。「天安門事件30年」といいながら、当事者に取材しながら、天安門の深掘りをせず平凡な記事にまとめた責任者、出て来い。だが、朝日にはできない記事。(柴田)


●今更ラグビー、アルゼンチン対トンガ続き。事前注文を受け付けるのもアリだな。事前に決済しておけば、当日は商品手渡しのみ。

当日販売と併せてさばける商品数も予測できる。来なかったら着払いで送る……あぁ、これは手間がかかりすぎてダメか。では事前注文はナシで。いや、何か方法があるに違いない。

話を戻すが、並ばせ方によっては、5〜10分あたりでさばける人数もわかるから、「このあたりからは開始時間に間に合わない可能性があります」などのアナウンスができる。間に合わないかもと思いながら待ったり、長く待った後に離脱するのは、イベント時にはつらい。

イベント後には欲しいグッズは売り切れていたりするし、これまたいつまで待たされるのか、物販終了時間がわからないので諦める。(hammer.mule)