Otaku ワールドへようこそ![327]形而上学とは? ―「谷村ノート」への「森田リプライ」を読んで
── GrowHair ──

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「谷村ノート」に対する森田氏からの応答文書(ここでは「森田リプライ」と呼ぶことにする)が公開されたので、コメントしたい。

●「谷村ノート」は不当批判 ― 1ミリメートルも歩み寄らない平行線

通称「谷村ノート」は、谷村省吾氏(名古屋大学教授)がネットで公開した110ページに及ぶPDF文書であり、その前に出版された哲学者と物理学者による紙上討論形式の書籍『〈現在〉という謎:時間の空間化批判』(以下、「書籍」と略記)について、物理学者側の著者の一人である谷村氏が、言い足りなかったことを補足的に述べたものである。

内容は、ざっくり言って、物理学の観点から哲学を批判するものであった。私は以前に二度、話題に取り上げた。

2019年11月22日(金)
『哲学者に雷を落とした物理学者・谷村省吾氏に聞く:意識の謎について』
https://bn.dgcr.com/archives/20191122110100.html


2019年12月6日(金)
『「谷村ノート」にみられるすれ違いの根っこにあるものは?』
https://bn.dgcr.com/archives/20191206110100.html


11月22日(金)配信回で、私は「哲学者よ、言われっぱなしでいいのかい? 反論、待ってるぜ」と書いた。3人の哲学者による論説の不明瞭な点や論理運びの欠陥を指摘する谷村氏のコメントは、私からみて、論理的に筋が通っていて、どれもこれもごもっともだ。哲学者たちの論の多くの部分はつぶれているとみえた。

これに対して、「いやいや谷村のほうこそ間違っている。オレの言ったことは正しい」と真っ向から反論するのはほぼ不可能にみえた。かと言って、「参りました」と全面降伏してみずからの論を取り下げるのも、なかなかしづらいことだ。一人の哲学者としてこれまで積み上げてきた論考の実績全体が危うくなりかねないし、下手すると、哲学というジャンル全体の沽券に関わるかもしれない。さてさて、どう出るのだろう。





2020年2月19日(水)、哲学者側の著者の一人であり、書籍全体の編者でもある森田邦久氏(大阪大学准教授)からの応答文書がネットに上がった。

『谷村ノートへのリプライ』
http://kisoron.hus.osaka-u.ac.jp/events/reply.pdf


反論も降伏もしづらそうな情勢の中で、予告どおり応答文書を発表して、みずからの立場を明らかにした行為自体は誠実さの表れと受け取れるが、内容については、すでに述べたことを、前進も歩み寄りもなく繰り返すだけの部分が多い印象を受けた。

基本姿勢として、「表現のしかたには理解しづらい部分が残り、見直すべき点があるかもしれないのは認めるが、自身の能力不足によるだけでなく、哲学はそもそも誰にでも分かるように語ることが難しいものだ」と述べている。

いやいや、概念の定義の不明瞭さや、主張内容を論証する際の論理運びの欠陥を谷村氏が指摘したのだと思うのだが、哲学の考え方を専門領域外の人へ伝える際の表現のしかたの洗練不足に由来する誤解であって、論旨そのものは少しもぐらついていない、と、問題をすり替えていないだろうか。

さらに、「谷村氏の批判は見当はずれだ」、「私が何を主張しているのか分からないのに、私の主張を否定している」と述べ、谷村氏が不当な批判をしているかのように述べている。谷村氏からの「大胆な結論を導くなら、もっと緻密な議論を組み立ててほしかったと思う」という注文に対しては、いちおう認めつつも、「穴だらけと言われるようなものでもないと思う」と返している。

数学で言えば、定理の証明過程に欠陥が指摘されたけれど、定理が成立すること自体は依然として言い張っているような感じか。そういうときは「定理」から「予想」へと格下げになるんだけどなぁ、ふつうは。

また、「形而上学的に重要な差異」という言葉の意味が分からないという議論については、書籍の中ですでになされているやりとりが、少しも進展をみず、堂々巡りしている。森田氏は「私は明確に定式化している。もう少し具体的に何がどう分からないのかを示していただかないと回答しようがない」と述べている(書籍 p.196)。

谷村氏は「森田氏は、その差異とは「絶対的現在がどの時点であるかが世界の状態に影響を与えるということ」であると定式化し、種々のモデルを紹介しているけれど、「各モデルが形而上学的な意味で世界に与える影響」が説明されているようには私には見えない」と述べている(谷村ノート 3.10、p.45~47)。

森田氏は「説明しているのに、なぜあたかもまったくしていないかのような書き方をするのか。説明しているのに、説明していない説明していないとだけ繰り返されても何を答えたらいいか分からない。どこが分からないか示してもらわないと、これ以上の説明ができない」と述べている(森田リプライ、p.7/36)。

うっわぁー、完全にループしとる! この議論を続けたとしても、同じループが延々と続いていくだけだろう。不毛だ。やめやめ。ちなみに、私はその「形而上学的に重要な差異」とやらがまったく理解できていない。もし、まともな概念なのだとしたら、理解したい気持ちはあるぞ。

森田氏は、最後のまとめにおいて、最も強調したいこととして、「哲学者は物理学の成果をないがしろにしていない」と述べている。谷村ノートでは、終始「哲学者が物理学の成果をないがしろにしている」かのような前提で論を進めているが、そのつもりは毛頭なく、ここが最大の誤解だ、と述べている。そもそも書籍の第5章の森田パートのタイトルからして「哲学者も物理学を無視しない」としているのに、なぜそんな誤解が生じるのか、と憤慨している。

さらに、「一般に、形而上学の入門書などで時間論の項目がある場合は、ほぼ必ず相対論の問題も取り上げている。いま手元にある形而上学の入門書・教科書のうち、時間論の項目があるものはすべて相対論にふれている。これらは、哲学的に時間論を考える場合でも、物理学の成果を踏まえてすべきだと哲学者たちが考えていることを意味していると私は思う」(森田リプライ、p.36/36)とも述べ、一般的にも、哲学者が時間論を考える上で、相対論をないがしろにしていないことを強調している。

この「ないがしろ論争」は、書籍、谷村ノート、と来て、この森田リプライに至るまで延々と続いている。これを受けて、谷村氏はtwitterで、やっぱり蹴っ飛ばしている。

TANIMURA Shogo @tani6s
本に載っている彼ら(森田邦久、佐金武、青山拓央3氏)の論説は、物理学的に見て荒唐無稽な部分が多いです。とくに「相対性理論は知っている」と述べながら、相対性理論に反することをどしどし書かれていました。
午後11:06 ・ 2020年2月29日・Twitter Web App


両者の主張を両立させようとすれば、次のようになるか。森田氏は、時間について論考する上で、「態度」としては相対論をないがしろにしていないつもりであるが、「内容」において相対論に反することを述べ立てている、と。

今回は、「森田リプライ」に対して私からコメントするが、別れの置き手紙のようなものでもある。このトピックは、今回限りをもって打ち切りたい。言葉を交わせども交わせども分かり合えない「すれ違いショー」を見せてもらった。

●文書公開クロノロジー

まず、公表された文書について、時系列的に振り返っておこう。

・2019年9月27日(金)、「書籍」が出版される

森田邦久(編著)
『〈現在〉という謎:時間の空間化批判』
勁草書房(2019/9/27)

・2019年11月6日(水)、谷村氏が通称「谷村ノート」をネットで公開する

谷村省吾(名古屋大学教授)
『一物理学者が観た哲学』(PDF文書)
http://www.phys.cs.is.nagoya-u.ac.jp/~tanimura/time/note.html

https://nagoya.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=28664&file_id=17&file_no=1


・2020年2月19日(水)、森田氏が「森田リプライ」をネットで公開する

森田邦久
『谷村ノートへのリプライ』(PDF文書)
http://kisoron.hus.osaka-u.ac.jp/events/reply.pdf


・2020年2月27日(木)、谷村氏がtwitter上での一連のツイートで「森田リプライ」にコメントする(「谷村ツイート」)

TANIMURA Shogo @tani6s
昨日のスレッド:研究の価値が問われる以前に、それは研究になっているかが問われる。
午後7:01 ・ 2020年2月27日・Twitter Web App


・2020年3月3日(火)、伊勢田哲治氏(京都大学准教授)がブログに書籍の感想を上げる(「伊勢田ノート」)

iseda503
「〈現在〉という謎』の感想」(ブログ「Daily Life」)
http://blog.livedoor.jp/iseda503/archives/1914158.html


最後のは、おまけだが、私は読んでけっこう参考になった。全面的に納得してはいないけど。

●「絶対的現在」が分からない、つまりは何もかも分からない

森田氏の論全体にわたって目を通した中で、私に理解できない点や、論理的にみて成立しないようにみえる点が多々あったが、そんなことがすべて取るに足らないこととして吹っ飛んでしまうくらい、入り口の基本的なところでつまずいており、森田城の中に入っていけないという感覚に終始さいなまれた。

森田氏は、「絶対的現在」という概念を持ち出してきて、それを以降ではカギカッコつきで〈現在〉と表記することにして、これが存在するかどうかを論考している。

私は、この概念が何を指すのか理解できなかった。ということは、全体にわたって一貫して設定しているテーマについて、それがいったい何なのか飲み込めていないわけで。何を話題にしているのかさえ分からなければ、当然のことながら、話についていけず、すべてがちんぷんかんぷんであった。

この稿で検討したいのは、「絶対的現在」とはいったいどんな概念なのか、ということ、この一点に尽きる。

物理学で「絶対的同時性」のように言うとき、「絶対的」の意味するところは、「空間上の位置を数値表現するためにどの座標系を選択するかに依存しない」あるいは「空間上のどの位置においてであるかに依存しない」ということである。宇宙空間のあらゆる位置にわたって、今現在が何時何分何秒であるかを示す、大きな時計が据えられているイメージである。

「日本三大がっかりスポット」のひとつとして有名な、札幌時計台をうんと巨大化して、宇宙空間に掲げておくイメージ。しかし、特殊相対論は、そのような絶対的同時性は成立しえないと教える。

森田氏が提唱する「絶対的現在」という概念における「絶対的」の意味が上記のように物理学で通常用いられる意味であるとするならば、この概念は、即座に特殊相対論に抵触する。

しかし、森田氏は、「哲学者は物理学を無視しない」(著書、p.194)と述べ、「哲学者たちはみずからの主張と現代物理学の帰結が矛盾するのを避けようとする」(著書、p.198)と述べている。森田リプライの中では、さらにはっきりと「形而上学的主張は現代物理学と矛盾してはならない」(森田リプライ、p.9/36)と述べている。

森田氏は、「絶対的現在」の概念を持ち出してくるにあたって、相対論ぐらいは踏まえて言ってるに決まってるじゃん、という趣旨のことを述べている。「私は相対論に抵触するモデルを作ることができる・作ろうとしているなどと一言も言っていない」(森田リプライ、p.9/36)。

「私は、相対論が絶対的同時性を経験的に検出できないと言っているのなら、そうだろうということは認める」(森田リプライ、p.11/36)。

「物理的手段で検出可能な絶対的同時性が相対論に反するということは分かっている。そういうものがあるとは言っていない」(森田リプライ、p.12/36)。

言葉尻を捉えただけの揚げ足取りになってしまうかもしれないが、森田氏の相対論の理解には危ういところがあると私は思う。宇宙的大時計に相当する絶対的同時性は、概念的には成り立ちうるかもしれないけれど、測定器などを用いて物理実験によって検出するのは不可能である、と相対論は教えるのではない。絶対的同時性が成り立ちうると仮定すると、「光速不変の原理」という、現実に測定された観測事実と齟齬をきたす、と教えるのである。そこを詳しく議論するのは後回しにする。

ここでは、森田氏の主張を字義通りに捉え、持ち出してきた「絶対的現在」という概念は相対論に抵触するものではないという前提でみていくことにしよう。そうすると、森田氏の言う「絶対的」の意味は、通常の物理学で用いるものとは別物と考えるしかない。そこについては、実は、記述がちゃんとなされている。追ってみよう。

森田氏は、「絶対的現在」という概念を登場させる前に、対照的な概念として、まず、「指標的現在」という概念を持ち出している。「指標的」か「絶対的」かの違いは、発話者に相対的であるか、そうでないかの違いである、と述べている。

「『発話者と相対的な時点である現在」のことを『指標的現在』と呼ぼう。つまり、『ここ』や『あそこ』が発話者と相対的な地点であるのと同様の意味で、発話者に相対的な時点のことであり、このような意味での現在の存在に異議を唱える者はいないであろう」(書籍、p.171)。

いやいや、異議以前に、その概念が理解できないんですけど。時間に関する点を空間に関する点にたとえて説明しているが、空間のほうでも分からない。「指標的地点」と「絶対的地点」の概念的な区別って、考えることができるのだろうか。発話者に相対的な「ここ」と相対的でない「ここ」との違いとは何であろうか。

発話者がここだと思っている主観的なここと、地図上にバッテンでもつけておけるような客観的なここの違いだろうか。それで合っているならば「指標的」vs.「絶対的」と言わずに「主観的」vs.「客観的」と言えばいいのに。しかし、私の勝手な憶測なので、合っているかどうかは確証がない。「指標的」の説明はこの箇所以外にないので、確認のしようがない。

では、絶対的なほうはどうか。「発話者に相対的でない現在のことを「絶対的現在」と呼び、これは客観的で特権的な時点である」。あ、やっぱり客観的という理解でよいのかな?

「絶対的現在」という概念の定義に相当する記述はこれだけである。いや、定義というものは、簡潔であるのがよいのではあるが。しかし、ここで理解できないと、以降の話にまったくついていけなくなる。この先は、その絶対的現在が存在するかしないかの議論に突入していくので。

ただ、森田氏の「絶対的」は、物理学の「絶対的」とは異なる概念であって、座標系の選び方に非依存とか、空間上の位置に非依存という意味ではないらしいということだけはだいたい読めた。空間上のこの地点、たった一点だけについても「絶対的現在」という概念が考えうると主張しているようだ。もしそうでなく、ある空間的広がりにわたる「絶対的現在」があるとなると、即座に相対論に抵触することになるので。

「絶対的現在」の概念を理解するための手掛かりになりそうなヒントは、以降の記述からも拾い出せる。

・「絶対的現在」が存在することはかならずしも自明ではない。(書籍、p.171)

・「絶対的現在」が存在するとは「絶対的現在がどの時点であるかが世界の状態に影響を与える」ということである。ただし、ここで言う影響とは、経験的に分かるような影響ではなく、あくまで形而上学的なものである。(書籍、p.172)

・形而上学と物理学の関係について論じておこう。時間をめぐる形而上学的な立場として、例えば(1)動的な永久主義(2)成長ブロック宇宙説(3)現在主義などがあるが、各立場どうしは、少なくとも一見して経験的に区別できるものではない。それゆえ、これらの優劣は科学によって決められることではなく、哲学・形而上学によって決められるべきことである。そのような経験的に区別できない理論を考えることに意味がある。(書籍、p.197)

・形而上学的主張とは、(異論はあるが)基本的に必然的な主張である。必然的な主張とは、「どのような可能世界であっても成り立つ主張」という意味である。現実世界は可能世界のうちのひとつであるゆえ、形而上学的主張は現代物理学の帰結と矛盾するのを避けようとする。(書籍、p.198)

・物理学で言う光学的同時性だけが同時性だとは思わない。光学的同時性以外の(形而上学的)同時性がありえたとして、この同時性は相対論と矛盾しない。(書籍、p.198)

・物理的手段で検出可能な絶対的同時性があるとは言っておらず、物理的に検出不可能な絶対的現在がありうるという話をしている。それゆえ、相対論に反することを主張しているのではない。(森田リプライ、p.12/36)

・哲学の話をしているのに、なぜ「物理学としての」という要件を出してくるのか? 物理学として議論できるような定義が可能であれば、物理学がやればいいのであって、哲学の出番はない。(森田リプライ、p.15/36)

・哲学(形而上学)が扱っているのは、物理学では扱いえない領域なのだから、物理学的手法が適用できないのは当たり前である。むしろ、物理学としての実在論争に(現時点では)乗らないから、形而上学として議論しているのである。(森田リプライ、p.15/36)

・これは形而上学の問題であって経験的方法では分からない。経験的方法で分かることしか追求しないのなら科学をすればいいのである。(森田リプライ、p.23/36)

・物理学の枠内に入っていくなら、物理学者でなくとも物理学の問題を理解することができる。同様に、哲学の問題も、哲学の枠組みに入ってくるなら、哲学者でなくとも理解できる。むしろ、谷村氏が「物理学の思考の枠組み」から出てこずに、哲学の思考の枠組みに入ってこようとしないことが、私の考える今回のすれ違いの最大の要因である(森田リプライ、p.33/36)。

これらを総合すると、「絶対的現在」の意味そのものは依然としてみえてこないのであるが、森田氏がだいたい次のようなことを言わんとしているのだと想像できる。

「絶対的現在」とは現代物理学の中から湧き出てきうる概念ではなく、あくまでも、形而上学の中で発生する概念である。形而上学では、物理学的な手段では検出不可能な概念を取り扱う。それゆえ、形而上学的な主張は物理学から検証することができない。それを考えることに意味がある。形而上学と物理学は、守備範囲を異にする。

形而上学の中で発生する「絶対的現在」という概念を理解したいのであれば、形而上学の枠組みの中で考えるしかなく、物理学の枠組みに固執していてはとうてい理解できるものではない。

形而上学はあらゆる可能世界において成り立つ原理を探求するものであり、現実世界もまた可能世界のひとつであるのだから、形而上学的主張は現代物理学の帰結と矛盾するのを避けるべきである。

形而上学で言う「絶対的現在」は、物理学で言う「光学的同時性」とは異なる概念としての「同時性」なのだから、相対論と矛盾しない。

さて、ここまで踏まえた上で、「絶対的現在」がどういう概念であるかが理解できたのかといえば、結局、できていない。つまり、私にとって、森田氏の論は、徹頭徹尾、何もかも分からない。

物理学の枠組みから出てきて、形而上学の思考の枠組みの中に入ってきなさい、と言われても、それはどうやったらいいのか、私には分からず、とうていできることではない。やり方が分からないだけでなく、そこへ行っては、何でもアリになってしまって、世界の真理の探求など、とうていおぼつかないと思える。そっちへ行ったらオシマイだ、という抵抗感がある。

特定の宗教に入信しなさい、とか、オカルトだかスピリチュアルだかの世界に入ってきなさい、と言われても「いやだ」というのと、ほぼ同じ感覚である。テキトーな思いつきを何でもかんでも言いっぱなしにできて、客観視点からの検証もしないで済まされる、他人の妄想ワールドなんて、私にとっては、まったくもって、どうでもいい。

・私は、仮に「形而上学」という言葉を用いなかったとしても、意味が通るような書き方をしているはずだ(森田リプライ、p.7/36)。

いくらなんでもそりゃねーだろ、と思う。「絶対的現在」とは、物理学の概念ではなくて、形而上学の概念なのだとさんざん言っておきながら、じゃあ、形而上学とは何だ、と問えば、これですかい。

Yo羽ichi @Clancyy81
この一連の遣り取りの上で《谷村氏が「物理学の思考の枠組み」から出てこずに哲学の思考の枠組みに入ってこようとしないことが、私の考える今回のすれ違いの最大の要因》とよくもまあ言えたものだと思う。森田先生は自分が言ったことを覚えているのか、主張の整合性維持にまともに意識を割いているのか 午前4:01 ・2020年2月25日・Twitter Web App

TANIMURA Shogo @tani6s
返信先: @tani6s さん, @rmaruy さん 他2人
そして Yo羽ichi @Clancyy81 さんの「森田先生は自分が言ったことを覚えているのか、主張の整合性維持にまともに意識を割いているのか」という一言が、森田論説の問題点を最も的確に捉えています:午後10:27 ・ 2020年2月26日・Twitter Web App

Hideaki Kobayashi @GrowHair
返信先: @GrowHair さん, @tani6s さん
森田氏はそこをもうすでにちゃんと説明しおわった気になっているようだが、私にはさっぱり伝わっていない。もっと精読しろってことなのだろうか。なんとなく、もう、どうしようもないような感じがする。どうでもよくなってきた。午後2:59 ・ 2020年2月26日・Twitter Web App

TANIMURA Shogo @tani6s
返信先: @tani6s さん, @rmaruy さん 他2人
JK爺 @GrowHair のこの受け止め方が、もっとも常識的な受け止め方だと思います:午後10:27 ・ 2020年2月26日・Twitter Web App

ああ、なんというか、かんというか……。損害賠償請求でもしたくなるような、この徒労感!

●この世界で現実に起きている物理現象自体がクレイジー

哲学は物理学と守備範囲を異にするとは言いながら、21世紀のいまこの時代に時間をテーマに論考しようというなら、相対論を踏まえた上でものを言わなきゃ、箸にも棒にもかからない。そこはおろそかにしてないぞ、と、森田氏も繰り返し強調している。

けど、ぶっちゃけ、相対論はそう易しくない。おいそれと理解できるものではない。相対論それ自体は、かのアインシュタインが発見した画期的な物理理論として有名だから、この理論が存在することを聞き知っている人は多かろう。けど、同時に、難解な理論としても有名なわけで。中身がどうなっているのだろうと一歩を踏み出すだけでもハードルが高い。

日本の人口が約1億人として、特殊相対論の基本的なところをある程度押さえている人って、何人ぐらいいるだろう。超テキトーなフェルミ推定で、10万人ぐらいかな? 街角で通行人をランダムにつかまえて、「相異なる2つの慣性系の間での位置と時刻の座標変換を何と呼ぶ?」と質問したとき、打てば響くように「ローレンツ変換」と返してくる人は、1,000人に1人ぐらいしかいないんじゃないかな? 筑波の街角だったら、もっといるかな? 原宿…… あ、いやいや。

難解さの本質は、道具として用いる数学が高度すぎるからというよりは、主張内容があまりに直観に反するもんだから、すっと腹に落ちていかなくて苦しむというほうにある。ありていに言って、ものすごくクレイジーなのだ。

しかしながら、そのクレイジーさは、アインシュタインのクレイジーさに由来するのではなく、現実に起きている物理現象がまさにクレイジーだからなのだ。今住んでるこの現実世界がクレイジーなのだ。

この現実世界がどういうふうになっているのかをきちんと記述しようとすると、必然的に、ああいう理論にならざるをえないのだ。ここのところを、もう少していねいに噛み砕いて解説してみたい。

それは、特殊相対論という名のきらびやかな建物の入口の手前のドアマットにあたる。今までの人生における経験から培った、時間や空間についての思い込みという名の頑固な泥をここで払い落としておけば、案外すっと建物の中へと入っていきやすいのではないか。

建物の中を案内する手引書は、なにしろ有名な理論なもんだから、きっと山ほどあるのでしょうけど、私が見つけた限り、下記のをお薦めしたい。[1]は書籍(ムック)、[2]はウェブサイトである。

[1]Newton 別冊『ゼロからわかる相対性理論』ニュートンプレス(2019/1/21)
[2]『EMAN の物理学』サイトの [相対性理論] の項
https://eman-physics.net/


[1]は、ほとんど数式を用いず、時空間のイメージを平易に描き出している。ほんのちょっと、なめるとかかじるとか、味見でよい、という一般人向け。数式を用いないということは、定性的な説明にとどまるという限界はあるけれど。本格的に中身を理解したい人も、一度この本を通り抜けておくと、後がラクかな、とも思う。

[2]は、入門者向けの易しい解説だが、数式はふんだんに出てくる。筆者が学生の頃、これがありさえすれば助かった、というような「中級レベル」の良い教科書がなかった。「中級」と謳った教科書はあっても、書き方が不必要に難しすぎるし、生徒がどれだけ単純なことでつまづいているのか想像が及んでいない。だから自分で作ることにした。

物理学の難解な理論といえども、順を追って説明すれば高校生にだって理解できるはずだ、という信念の下で書かれている。非常にありがたい。

中身の話はよそに譲り、この稿でもう少しだけ踏み込みたいのは、特殊相対論のドアマットのところ。この世界が現実にあるがままの姿が、実は、意外とクレイジーだよ、って話。

この世で起きているクレイジーな物理現象の代表格のひとつとしてあるのが、「光速不変の原理」である。特殊相対論という変てこりんな理論をひねり出さざるをえなかった動機にあたる切実な事情は、まさにここにある。この話をぜひしておきたい。

初めて聞く人は、めまいが起き、魂が抜けるほど、びっくりする。えっ? この世界って、本当にそんなふうになってたの? 思ってたのと違うぞ、と。一通り勉強した人からみると、「はいはい、またあの話ね」と思うかもしれない。しかし、そういう人だって、過去に一度は度肝を抜かれているはずだ。もう慣れたってだけのことで。

せっかく21世紀にこっちの舞台へ出てきているのだから、この驚きは経験しておいて損はない。そうでないと、19世紀までの時空感覚にいまだにしがみついていることになり、天動説を笑えない。

光の速さは、どうがんばっても超えられない、と聞いたことはないだろうか。いやいや、そんなの簡単じゃん、って思うかもしれない。走行中の列車が前方に向けてヘッドライトを点けたらどうだろう。走行する列車から発射されたこの光は、この列車にとって、光速で前方に飛んでいくはずである。

この同じ光を地上から観察したら、どうだろう。光速に、列車の走行速度分だけ加算されているはずではないか。そうしたら、その加算分だけ、この光は光速を超えているはずではないか。一丁上がり。

これが、理性的な推論ってもんである。ところが、現実は、そうはなっていない。地上から見たって光速は光速のままであり、1ミリメートル・パー・セコンドたりとも、加速も減速もしない。

光をいったん脇に置いて、野球のボールで考えてみよう。時速100キロメートル(以下では「100[km/h]」と表記する)の速度でボールを投げることのできるピッチャーがいるとしよう。

実際に投球すれば、初速は100[km/h]であっても、空気抵抗でだんだん減速していくし、重力で弓なりに落下していく。けど、ここでは、話を簡単にするために、ボールはずっと同じ速さを保ったまま、どこまでも水平に一直線に飛んでいくことにしておこう。

いま、ある列車が100[km/h]の速度で走行しているとして、ピッチャーはこの列車の中にいて、進行方向前方に向かって投球したとしよう。列車の中の閉じた世界だけでみれば、地上で投球するのと何ら変わりない。

これを地上から眺めたら、どう見えるだろう。列車の走行する速さ100[km/h]と、その列車からみたボールの速さ100[km/h]とが加算されて、ボール自体は、地上からみて200[km/h]で飛んでいくように見えるはずではないか。それは、まったくもって(実は、「ほぼ」)、その通りである。

次に、ピッチャー自身は地上で投球するものとしよう。このピッチャーは線路脇すれすれに立っている。いま、ある列車が、ピッチャーから見て前方から、ピッチャーに向かって100[km/h]の速さで走行してくるとしよう。列車の最前部にキャッチャーが括りつけられていて、ミットを構えているとしよう。

ピッチャーは、このキャッチャーを目がけて投球する。すると、キャッチャーは、ピッチャーにとってのボールの速さ100[km/h]に、自分が乗っている列車の速さ100[km/h]が加算されて、200[km/h]の速さのボールを捕球した衝撃を味わうであろう。

試しに実験してみたら確かにその通りの結果が得られるであろうけれども、そのような経験的な知見であるだけではなく、理屈で考えたって、それ以外になりようがないだろうという理性的な知見でもある。

ボールでなくたって、何を持ってきたって、例外なく、そういうふうになっているはずだと考えられる。もちろん、光だって、例外であるはずがない。

ところが、そうではなかったという現実を突きつけられてしまう。理性的な帰結だと思っていたことが、単なる思い込み・先入観のたぐいだったと思い知らされる。

光について言えば、その光を発射する「ピッチャー」が動いていようと止まっていようと、その光を観測する「キャッチャー」が動いていようと止まっていようと、どんな組み合わせの設定をしても、その光の速さは、ピッチャーにとっても、キャッチャーにとっても、常に一定の「光速」でしかないのだ。

光については、少し大きめのスケールで見てみましょうか。そのほうが、イメージが湧きやすくなるんじゃないかと。

光は、1秒間に地球を7回り半すると言われている。実際に回るわけではなく、直進するのだけれど、それだけの距離を1秒間に進むということである。

「秒速〇〇メートル」という単位を、以降では[m/s]と表記することにする。光速は、正確に299,792,458[m/s]である(※)。

※もっと測定精度が向上すれば、小数点以下、桁数が増えていくのかと思いきや、そうではなくて、これが時間の長さの定義なのだな、実は。

赤道上の地点、どこでもいいけど例えばエクアドルの首都キトは、地球の自転により、丸一日かけて地球を一回りする。それだって、そこそこ速い。24時間で4万キロ移動するのだから、割り算して、1,6667[km/h]だ。音速より速い。

一方、光は1秒間に7.5周するということは、何倍速いでしょうか。

60[s/min]×60[min/h]×24[h/day]×7.5 = 648,000

約65万倍。6桁違う。

太陽にとってみれば、四方八方に光をまき散らし、発射する光の速さは、光速そのものである。太陽から地球まで約8分19秒。

この光を地球側で受けることを考えるとき、地軸の傾きみたいな細かい話は抜きにしておこう。キトという都市は、日の出のころの時間、地球の自転によって、例の1,667[km/h]という速さをもって、太陽に近づく方向へ移動している。日の入りのころは、同じ速さをもって、太陽から逃げていっている。

なので、キトで受ける太陽光の速さを測定すれば、朝のほうが速く、夕方のほうが遅く観測されるはずである。光速と自転速度が6桁ずれているということは、9桁の精度で計測すれば、ケツの3桁ぐらいは違ってくるはずである。理屈では。

ところが、現実には、そうはならない。日の出のときも、日の入りのときも、地表から観測される太陽光の相対的な速さは、速くも遅くもならず、やっぱり光速なのである。実際に計測した実験例があるかどうかは知らないけど。

そんなアホな! と思うかもしれない。しかし、これは、誰かが仮想的に考え出したモデルではない。計測可能、観察可能な、れっきとした現実の姿がそうなっているのだ。どうです? これ、びっくりしませんか?

何だかとても理屈に合わないものを見てしまい、この世のありのままの姿は、自分が今まで思ってきたのと違っていたのか、という絶望感に襲われないだろうか。引き裂かれ感というか、別天地への生まれ変わり感というか。

光速不変という現実の観察結果を包摂した理論を打ち立てようとすると、そうとうやっかいなことになる。光だけが特別におかしいのではなく、電車にもボールにも、すべてに影響が及んでくるのだ。走行する電車の中の時計は、地上からみると遅く進む、とか、走行する電車は、地上からみると前後に縮むとか。えらいクレイジーなことになる。そのあたりは特殊相対論の中身の話になるので、文献をあたってみていただけると。

さて、ここまで説明しても、ちっとも驚かず、「それの何が不思議なの?」と返してくる人がいる。今度は、こっちが絶句して、ひっくり返っちゃう。あまりのことににわかには受け入れられないというのではなく、どうやら、こっちの言っていることが理解できていないようなのだ。

もはや、こっちからはいかんともしがたいのであるが、まあ、そういう人は案外100人中50人ぐらいはいるのかもしれない。

すでに知ってたよ、って方以外は、驚いていただけているとよいのですが。

●時間を取り扱う哲学者には資格試験を

さて、光速不変の原理という、現実世界のクレイジーさにびっくり仰天し、相対論を勉強してアハ体験を得たそのあとで、なお、「絶対的現在」みたいな概念を提唱したくなるだろうか。そんな時間の概念を振り回したところで、光速不変という現実に起きている事象を説明づけるところからしてできないと思うのだが。

・物理学を無視することは、現実世界を無視することだと私は思うのだが、それでよいのだろうか(書籍、p.187)。

「よいとは思っていない。哲学者は物理学の成果をないがしろにしていない」といかに声高に主張しようとも、その人の提唱する時間論の内容が、相対論に照らしてどうもなぁ、という感じがするとき、その人は相対論をどこまでちゃんと理解したのか、と疑わしくなる。

特殊相対論の理解度をチェックするテスト問題って作れないだろうか。物理学科の期末試験みたいな本格的なやつではなく。数式をぜんぜん持ち出さず、一般の人々が、光速不変の原理や、座標系の選択のしかたに依存して変化する時間や空間の概念について、感じが分かってますか、と問うような問題。

時空の相対性とは誰かの提唱した架空のモデルではなく、現実のあるがままの姿なんですよ、分かってますか? と問うような問題。例の「Newton」の文章の一部を穴埋め問題にするとか。

森田氏がこれに合格するかどうか、私は知らない。

・少なくとも今回の谷村ノートを読む限り、「確かに私たちは物理学の成果をないがしろにしているなあ」とはならなかった(森田リプライ、p.35/36)。

これだけ大見得切って言っているんだから合格する自信はあるのでしょうけど。

「伊勢田ノート」の次の記述が気になった。

△  △  △

本書のテーマとなっているのは形而上学寄りの「時間の哲学」で、これと別に科学哲学の一分野として、相対論を前提として時空の存在論などを検討する「時空の哲学」がある。この2つの分野は大変相性が悪いので、哲学の外の人を巻き込む前に、哲学を専門とする同士で認識のすりあわせなどやってはどうかとは以前から思ってはいた。しかし、国内に時空の哲学の専門家がほとんどいないこともあって、今回の企画はいきなり時間の哲学を物理学者にぶつける形になったようである。その「ワンクッション」がなかったことが、谷村さんがノートを書かざるをえないような行き違いの原因になったのかもしれないとは思う。

▽  ▽  ▽ 

ふーん、「時間の哲学」と「時空の哲学」というのが別々のサブジャンルとしてあるのか。「時空の哲学」の人たちは、相対論をちゃんと理解していて、「時間の哲学」の人たちは、理解しているつもりになっていながら、実はぜんぜん分かっちゃいない人たちだと考えると、「相性の悪さ」の説明がついちゃう気がするのだが。

で、「時空の哲学の専門家が国内にほとんどいない」ということは、国内に相対論を理解している哲学者がほとんどいない、ということでよろしいか?(論理が多少飛躍したことは自覚している)

私個人の感想だが、19世紀までの古典的な時間の概念を今さら持ち出してきたところで、光速不変の原理のような観察事実を説明づけることができないし、何も解き明かさないと思う。特に、こんなのを振り回して、「時間に始まりがあるか」などという壮大な問いにアタックするのは、まずもって荒唐無稽以外の何物でもない。この点、谷村氏の見解に全面同意。

こういう思弁遊戯が好きだというのなら、私は「やめろ」と言う立場ではない。好きなように続けたらよい。しかし、趣味とか伝統芸能の一環として実践するならいいけど、さすがにこんなのを学術とは呼びたくないなぁ。

私は谷村ノート以前から哲学を虚仮(こけ)にしてきたが、今回の一連のゴタゴタは、この見方をますます強化してくれる材料になった。

ただ、もちろん、これをもって、哲学全体がダメだと言っているのではない。私から哲学という分野の全体像なんて、見えているわけがない。自分から積極的に探しに行ったりはしないけど、今後、自分の見方をひっくり返してくれるすばらしい人が発見できるといいなぁ。というか、もし、いないんだったら、学科丸ごと、つぶしていいぞ。学術ごっこしたいなら、サークル活動でやれ。


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