[5081] 幸せ度を上げるリテラシー

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《機嫌よく暮らすための必須スキル》

■ゆずみそ単語帳[35]
 幸せ度を上げるリテラシー
 TOMOZO




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■ゆずみそ単語帳[35]
幸せ度を上げるリテラシー

TOMOZO
https://bn.dgcr.com/archives/20200911110100.html

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突然だが、幸せとは何であろうか。

1986年に明石家さんまが「それはポン酢しょうゆがあることだ」と断言した。ポン酢はたしかに、ある場面においては幸福度を決定するかなり重要な要素になりうる。が、とくに当分鍋物の予定がなく、パン食が中心の家庭ではあまり重要視されないだろう。

幸せの尺度については、誰もそれぞれ言い分があることであろうと思う。

しかし21世紀にはいって20年がたったいま、幸せ、とはいわないまでも、「機嫌のよさ」を保つための方法が、そろそろリテラシーとして認識されつつあるのではないかな、という気がしている。

自分を機嫌よくさせておくためには一定のスキルが必要だ。それは誰にでも獲得可能だし、慣れてしまえばそれほど難しいことではないけれど、意外にまだ浸透していないように見える。

突然だが、私はかなりダメな人生をおくってきた。10代のころはほぼ引きこもりだったし、自分はなんてダメな人間だろうと毎日絶望しながら生きていた。恐ろしく自己肯定感が低く、自分を攻撃することにほとんどすべてのエネルギーを注いでいた。恥の多い人生でした。

50歳をすぎた今も、人からみればかなりダメな人生をおくっているのだと思う。財産はないしパートナーもいないし病人だし。でも毎日がけっこう楽しい。

好きな仕事でそこそこ信頼をいただいて生活でき、私よりずっと徳が高くずっとまともな友人たちと家族が支えてくれている愉快な日常を心底、嬉しいと思って暮らしている。

負け惜しみだと思う人もいるだろうし、お花畑で気の毒だと思ってくれる人もいると思うが、イライラして自分を呪い続けていた30年前よりはずっと幸せ度が高いのは確かだ。

自己肯定感レベル最底辺だった私が、ちょっとやそっとではへこたれない上機嫌を保つスキルを身につけられたのは、15年か20年くらいかけてじわじわと、いろいろなメソッドをためしたり人の話を聞いたりしてきた結果だ。

私は何を学ぶときも特別にスローなほうなのでそんなに長くかかったけれど、きっとほとんどの人は本気で取り組めばもっと断然速く、さくさくと迅速に視野を変え、上機嫌のリテラシーを身につけられると思う。

偉そうに伝授するようなスゴ技があるわけでもないのだけれど、以前の私のように暗く辛い呪いの日々を送っている人がたまたまこれを読むことがあって、ちょっとでも機嫌よく暮らすためのヒントにしてもらえるなら嬉しい。


●不幸は迷惑

機嫌の悪い人というのは社会にとってかなり迷惑な存在であるし、時代遅れの存在になりつつあるのではないかと思う。

20世紀後半までは、日本でもアメリカでも、ある一定の社会的地位を持つ人には機嫌の悪さをむき出しにすることが許されていた。

昭和時代には「雷おやじ」という存在もあった。昭和40年代くらいまでは多くの家庭でお父さんに絶対的な地位が(形式として)付与されていたので、お父さんが子どものように癇癪をぶちまけることにも、家族のストーリーに沿った意味があり約束の範囲だった。

でも家族のかたちも変わり、社会のなかでも多様性が尊重されるようになった今では、機嫌の悪さを振り回して役割を演じることは非効率的になり、受け入れられなくなっている。

気に入らないコンビニの店員を怒鳴りつける客も、部下を感情的に叱り飛ばす上司も、おそらくは自分がそこで癇癪を爆発させる権利を持っていると信じているのだろうけれど、相手が同じストーリーを理解してそのプレイにつきあってあげないかぎり、それは単なるハラスメントにしかならない。

他人に怒りや不満をぶちまける人だけでなく、強い不安を持っている人や、自分自身をひどく攻撃している人も、実はかなり迷惑な存在だ。自分に向けたものであっても、憎悪や攻撃の念は世間にダダ漏れして、まわりの人を傷つけている。

不安や緊張は伝染する。どんな気分もたいてい伝染する。不思議なことに、人間のあいだでは言葉よりも感情のほうが正確に伝わる。

緊張している人を前にすると人は緊張するし、楽しそうにしている人を見るとホッとする(心が病んでいるときには幸せそうな人を憎んだりすることもあるが)。不幸せな時間を生きることは、まわりの人にもその不幸を配って歩いているということだ。


●機嫌よく暮らすためのスキル

機嫌よく暮らすための必須スキルはいくつかある。

一番大切なのはたぶん、「感情を整理する」スキル。自分や他人の感情に思考や行動を振り回されないように、感情から距離を置く技を習得することだ。

そのための前提として、自己肯定感を持つことと、「自分軸」を持つことが大切になる。

自分自身が無条件に意味ある存在であると、とにかく無条件に認める。「自分が嫌い」という情念や劣等感を持っている人にとっては、これは大きな壁だと思う。

私も自己否定に全力を費やしていたので、この壁を超えるのにかなり苦戦した。でもこの壁も一度越えてしまえば、そんな壁があったことさえ忘れてしまう。練習あるのみ、なのだ。

そのためには、自分軸を持つこと、自分は何がしたいのか、何が好きなのか、どういう自分でありたいのかを常によく考えることが、ぜひとも必要だ。

感情を整理するためのメソッドはいろいろある。今世紀に入って上機嫌がリテラシーになってきたと感じるのは、こういったスキルを身につけるためのメソッドが、ウェブ上にも書籍にも、いくらでも見つかるからだ。

無数のセルフヘルプ本が同じゴールをめざして無数のメソッドを提供しているし、企業でも積極的に福利厚生に取り入れられている「マインドフルネス」もメソッドの一つだし、もともと仏教の教えも同じ方向を目指しているのだと思うし、スピリチュアル系の人たちも皆同じようなことを言ってるし、アドラー心理学もたぶん類似のメソッドを提供しているのだと思う。

20世紀前半まで、こういった自己改革のメソッドは宗教界が独占的に提供していた。欧米においてはそれはほぼキリスト教の独占市場だったし、近代的自我が出現したあとでニーチェさんはそれを神なしに自力でやろうとして爆発した、のだと思う。

20世紀の半ばから、アメリカ西海岸を中心に、仏教やインドのヨガ行者の思想など、西洋にとってはあたらしい思考体系が輸入されて、カウンターカルチャーやドラッグカルチャーと融合しつつ、独自の進化をとげていった。

お手軽な思想とバカにされつつも、60年代の西欧のカウンターカルチャーに輸入された東洋思想が残した遺産は大きいし、それが現在のさまざまなセルフヘルプ・メソッドとして進化を遂げた。

メソッドは何であれ、始めるにあたって必要な態度はふたつ。

機嫌よく生きるという姿勢を「選択する」ことと、それを「習慣にする」こと。つまり、これからは機嫌よく暮らしますからね、と自分に宣言することと、それを日常生活に取り入れると決めること。それだけだ。

で具体的に何をするかというと、自分の内面を点検し、自分と一体化してしまっている役に立っていないストーリーを解体する、というのが、感情を整理するために必要なとりあえずのゴールだ。

私が20年近く前に出会って以来親しんできたメソッドのひとつは、バイロン・ケイティという人の「WORK」というもの。


●WORKのメソッド

バイロン・ケイティは、学者でもなくスピリチュアル界のグルでもセラピストでもなく、もとは主婦で、鬱を患っていたときに絶望の中で突然ふと啓示を受けてこのWORKのメソッドを編み出したという、セルフメイドのカウンセラー。今たぶん70代の、かわいらしいおばさまだ。

こういうセルフヘルプの人にありがちな押しの強いイケイケ感がまったくなく、いつもニコニコしながらとても静かに話すが、切れ味が半端なく鋭い。

「WORK」のメソッドを実際に対話形式で実践する動画(ウェブサイトで公開されている)を見ると、相談者がとらわれているストレスフルな物語を、質問を繰り返すだけであっさりと解体していく手腕がすごい。

ウェブサイトは38カ国語に翻訳され、著作も日本語はじめ多言語に翻訳されている。興味のある方はどうぞ。

https://thework.com/sites/nihongo/



ケイティのメソッド「WORK」はとてもシンプルで、紙と鉛筆があればどこでもできる。

まず、自分にとって嬉しくない感情を引き起こす状況を思い浮かべ、その状況の原因となっている(と自分が思う)人物によって自分がどんな気持ちになるか、その人物の行動の何がいけないか、その人はどのように変わるべきか、思うところを書き出す。これは「相手をジャッジするワークシート」と呼ばれている。

そして、そこで自分が書いた一つ一つの文章に対して、4つの質問をしていく。

それは本当か。
その考えが本当に真実だと言い切れるか。
その考えを信じているとき、自分はどのように反応するか。何が起きるか。
その考えを持っていなければ、自分はどんな人になるか。

この4つの質問に照らし合わせて自分の書いた言葉、自分の考え、そこにあるストーリーをよく点検したあとで、「相手をジャッジするワークシート」に書いた文章を、180度反対の視点から「ひっくり返して」見てみる。

例えば「私は花子に対して怒っている。なぜなら花子は私を理解しようとしないから」を、「私は私に対して怒っている。なぜなら私を理解しないから」「私は私に対して怒っている、なぜなら私は花子を理解しないから」というように、ひっくり返してみる。

こうすることで、自分が相手との関係(またはどんな状況でも)の前提としていったいどんなストーリーを信じているのかを、ちょっと離れた視点から見てみることができる。

そして、そのストーリーを信じることで自分がどんな反応をしているのかを観察する。さらに、その反応(わきあがってくる悲しさ、怒り、恥、嫉妬などの感情)を持たなければ自分はその状況でどう振る舞うかを考えてみることで、新しいあり方を心象の中に創造する。

そして、「ひっくり返す」ことで、自分が想像もしなかった感じ方、考え方、視点を体験する。

ここで大切なのは、「そんな感情を持ってはいけない」とか、「持つべきではない」と考えるのではない、ということ。

そうではなくて、そのような感情を、理解を持って外側から見るだけ。それだけで、自然にその感情が去っていく。

自分が何に反応しているのか、何に対して不機嫌になるのか、何を怖れているのか、何に傷つくのか、それはなぜなのか、相手や自分に何を期待しているのか、を徹底的に見つめる。

これを繰り返していると、だんだん自分に隠し事ができなくなっていくし、まわりの人の感情の動きがよく分かるようにもなってくる。


●呪いがとけるとラクになる

私たちは、朝起きてから寝るまで、無数のストーリーで自分が置かれている状況を説明している。そのほとんどは(ケイティや仏陀に言わせれば、そのすべてが)でたらめだ。

その多くは、自分や他人が「こうであるべき」「こうでなければならない」という、呪いの言葉であることが多い。コンビニの店員は客である自分をこのように遇さなければならない、とか、向かいの席に座っているあの人が顔をしかめたのは、私の何かが気に入らないからだ、とか。

その呪いを点検していき、「本当にそうか?」「その考えに自分はどう反応するか」「その考えがなければどうなるか」というシナリオを使い、理科の実験で細胞を顕微鏡で見るように、とりだして仔細に見てみる。

そうすると、名前を知られてしまった魔物が魔力を失うように、それだけで呪いがするすると溶けていくのだ。

私はこのWORKのシンプルさがとても気に入っているし、何より無料で、鉛筆と紙だけでいつでもどこでも、トイレの中でもお風呂の中でも、ちょっとした空き時間にもできるのが素晴らしいので推しているけれど、世にメソッドはいくらでもあるので、自分がピンと来るものを選んで次々にためしてみればよいと思う。

感情を整理する準備ができると、人生が嘘みたいにラクになるし楽しくなる。

精神的にベストコンディションでいられる時間が長くなるし、他人の感情や考えがあまり気にならなくなるので、自分のしたいこと、好きなことに集中できる。自然に目的意識が備わり、自分が何らかの価値につながっているという確かな実感を得ることができ、じわじわと幸せ度が上がってくるので、人にも、人でないものにも、自分にも、ますます優しく寛容になれるという幸せループに入っていける。

思い返せば、30代くらいまで、私は感情や思考を自然災害のように避けられないものとして扱っていた。でも自分の感情や、自分が自分に絶え間なく説明しているストーリーを自分自身と切り離して見られるようになったとき、ニーチェさんのいう超人にはならずとも、自分のいる世界を自分でつくっていく自由を得られると感じた。

もちろん、気分が落ち込むことは当然ある。たとえば本格的に体調が悪くなったりすっかりお金がなくなったり、11月にトランプが再選されたりしたら、相当の打撃を受けると思う。

でもきっと何があっても、機嫌よくあるという選択をする前の自分よりもずっとうまく、ずっと長く、自分を機嫌よくさせておくことができると考えている。

ドロドロした感情の軋轢と葛藤が大好きで、あくまでもそのドラマの中に生きていきたい人もいるかもしれない。それはそれで良いと思う。

でも、私自身は、自分のいたらなさを笑い、世の中の不条理に落ち込みながらも、出来る範囲でヘラヘラと機嫌よく楽しく暮らしていくほうが、不機嫌と不幸の渦中に暮らすよりもずっとお得で快適だと考えている。


【Tomozo】
英日翻訳者 シアトル在住
https://livinginnw.blogspot.com/



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編集後記(09/11)

●偏屈BOOK案内:本郷和人「怪しい戦国史」

「専門バカを疑え! 軍事忌避は戦国史研究にもある」と東京大学史料編纂所本郷教授が定説を疑いまくる。戦いを決する「兵力」の謎、秀吉の天下取りと「行軍力」、武将が「城を攻める」意外な理由、関ケ原と大阪の陣にみる「大名」の実像、信長・信玄たちの古戦場で見えること、家康の隠れた「遺産」、三成はなぜ「忖度」できなかったのか、全7章。ですます調のゆるい文体だ。

この本は産経新聞に連載中の「本郷和人の日本史ナナメ読み」を加筆、修正したものだという。とりあえず疑ってみる、というスタイルで読みやすい。とってつけたような難解な疑問ではなく、「言われてみればたしかにそれは問題だ。なんでだろう?」と思うような、ごく自然な疑問だ。でも、そんなことどうでもいいやン、と思っちゃう退屈なテーマもある。自問自答だから仕方がないが。

筆者がずっと疑問に思っていたテーマは「なぜ石田三成は忖度をしなかったのか」だという。三成は優秀な頭脳を持っていた。だから秀吉は彼を政権の中枢に据えた。だが武断派の加藤清正、福島正則らに憎悪された。諸将の融和を図っていた前田利家が没すると、武断派は直ちに三成襲撃の挙に出る。家康が間に入り、三成は危機を脱し五奉行を罷免され、近江・佐和山に隠居する。

筆者には武断派と文治派の対立という認識だったが、加藤、福島が狙ったのは五奉行メンバーのうち三成だけ。どうみても「三成憎し」が昂じた激発である。家康も構造的対立にしたくなかったので、「喧嘩両成敗」どころか、三成の失脚劇に留めた。三成ほどの優れた頭脳が、なぜ加藤、福島らを秀吉政権時代に懐柔できなかったのか。なぜ当然の感謝やサービスをせずに、憎まれたのか。

脳科学者の中野信子が「三成はもしかしたらアスペルガーだったのではないか」と診断する。アスペルガーの人はゲシュタルト知覚(ものごとを全体の枠組みで理解する知覚)に乏しい、文脈を理解できない、空気を読まない。こういう場面で言ってはいけない、が分からない。それは頭の良さとは無関係。だから、三成は秀吉の命令には忠実なのに、加藤、福島を平気でバカにした(らしい)。

三成は頭脳明晰だけど、「忖度する」ことができない人間だったと推察できる。中野は、文学などが「鋭い人間観察」として、感性を磨いて解釈してきた(国語の領域)ことを、数字や理性に基づいて(数学の領域)明らかにした。理系コンプレックスの筆者には反論の余地ナシ。さらに中野は、信長もサイコパスだったんじゃないか、人の痛みが分からないから平気で人を殺せる、と分析。

信長がサイコパスだとすると、多くのことが理解できる。筆者は、ただ一点、「美」についてだけがひっかかる。サイコパスは美については無頓着なはずなのだが、信長は茶の湯を好み、「新しい城」を創造した。これは美の追究ではないのか。ナイスつっこみ。それに対して中野は「茶の湯を好む、城を造ることが生じるメリットを、信長が計算していたとは考えられないか」と応じる。

きわめて計算高いのというのも、サイコパスの特徴だという。ああ言えばこう言う。脳科学者は無敵である。中野と筆者の共著「戦国武将の精神分析」(宝島新書)の宣伝にもなっているこの章。わたしは大学時代、議論で窮地に陥ると「ゲシュタルト崩壊」と力なくつぶやき、潔く負け逃げしていた。(柴田)

本郷和人「怪しい戦国史」2019 産経新聞出版 
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4819113690/dgcrcom-22/


東北楽天イーグルスのEロゴが「毛」に見えてしかたがない。
↑これを読んだら、もうだめ、必ずそう見えてしまうぞ。


●「不機嫌は怠惰の一種である」というゲーテの言葉は、今でも頭に残っている。しかし、人はお腹が空いていたら不機嫌になるのだ。特に男性陣! お腹が空く時間帯に飲み物だけで会議しちゃダメ!

先に何かお腹に入れるか、おやつを食べながらして! あ、殺伐とした本気会議なら、真剣での戦い会議ならお腹空いてても。だけど、私のいない時にしてね(笑)

トヨタの社長さんが、誰に対しても腰が低いって聞いた。いつどこにお客さんがいるかわからないって。

思考の無限ループはよくある。自分の中でやることを決めているのに、別のことをしなければならない時に、手や思考が止まることがある。ダムができる。

ずーっと我慢しているが、溜まりすぎて我慢できなくなって、その「別のこと」を諦めたら、先に決めていた「やること」をしたら、止まってた全部が一気に前に進んだり。

「やりたくないこと」や「我慢してやらないといけないこと」「どう考えても、私の考えの方が正解だと思うのに、指示された無駄だと思うことをしなければならない」などがボトルネックになっているんだなぁと後から思う。などなど色々書いては消し、消しては書き。仕事にもどろ。(hammer.mule)