[0886] おいしい仕事

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【日刊デジタルクリエイターズ】 No.0886    2001/06/22.Fri発行
http://www.dgcr.com/    1998/04/13創刊   前号の発行部数 18906部
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今年も夏がきます。P-Nutsの季節です。クリエイターネットワークP-Nutsが今
年もまた、展覧会を開催します。その名は第3回P-Nuts展。会場は、大崎ニュー
シティのO美術館。日程は、7月14日(土) ~17日(火)。
100名以上のクリエイターがおりなす、作品の世界と熱い思いを感じてください。
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 <ニュー・ヨークは私の約束の地となった>

■デジクリトーク
 おいしい仕事
 十河 進

■デジクリトーク インターネットの紆余曲折(11)
 サンタの音楽クロニクル "Hey santa8,take eight!" (前編)
 8月サンタ

■イベント案内
 フリーイラストレーター的ライフスタイル!?





■デジクリトーク
おいしい仕事

十河 進
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●「フィルムライブラリー」の試写室

銀座・和光裏に「シネスイッチ」という映画館が入ったビルがある。「シネス
イッチ」は「ニュー・シネマ・パラダイス」や「ライフ・イズ・ビューティフ
ル」などをロングラン上映した映画館だ。

そのビルには、昔、「フィルムライブラリー」が入っていた。「映画ペンクラ
ブ事務局」も一緒だったと思う。1970年代の後半、僕は仕事で「フィルムライ
ブラリー」に毎月通っていた。

当時、僕は月刊誌で映画評論家の双葉十三郎さんと佐藤忠男さんの連載を担当
していた。双葉さんの連載は新作映画の紹介が中心だったから、洋画の配給会
社や日本の映画会社の宣伝部を回ってスチールを借りてくればよかったが、佐
藤忠男さんの映像論の連載では、過去の名作や公開されてしまった映画のスチ
ールが必要になった。

そんな時は、「フィルムライブラリー」に行き、使用目的を書いて申請書を出
し、ライブラリーに保管してある膨大な数の過去の映画のスチールから必要な
ものを選び出し複写してもらっていた。スチール一枚の複写代は数百円だった
と思う。

同じフロアには100人ほどが入れる試写室もあった。ある時、僕は双葉さんの
原稿を受け取るために、そこの試写室の横にある休憩室で座っていたことがあ
る。見知った顔の映画評論家の人たちが続々と現れた。

双葉さんは目が悪いので、どんな試写室でも最前列の真ん中に座っていた。も
ちろん淀川長治さんと並んで業界の最長老だったこともある。当時、おすぎと
ピーコは、その双葉さんを挟んで座るのが定位置だった。

その日、おすぎとピーコは現れなかったが、淀川長治さんが現れた。淀川さん
は僕の斜め前に腰掛け、いきなり「こんにちは」と言ってニコリとした。淀川
さんが会う人誰にでも「こんにちは」と言う伝説は聞いていたが、真実だった
のだと僕は思った。しかし、シャイ(?)な青年だった僕は何の反応もできず、
思わず目で挨拶を返しただけだった。いや、目で挨拶を返したつもりだった。

淀川さんは礼儀にうるさいと聞いていた。昔、僕の会社のある編集者が淀川さ
んに原稿依頼をした時、「埋め草に使わせていただきます」と言ったことがあ
る。埋め草とは囲み記事、今で言えばコラムのことである。淀川さん(元は雑
誌編集者なのだが)は「失礼だ」と怒り、以後、我が社の雑誌には一切書いて
もらえなくなった。

その時も淀川さんは、はっきりしない僕の反応が気に入らなかったようだった。
挨拶したのに返事もしない奴、という視線を向けてムッとしていた。そこへ、
川喜多和子さんが登場した。川喜多さんは「先生、こちらへ」と試写室へ案内
した。

その後から現れた双葉さんは、いつものように原稿を僕に渡し試写室へ入って
いった。やっぱり前列真ん中の席に腰を降ろした。その時の映画は何だったの
だろう。フランス映画社が輸入した「1900年」だったような気がするが、記憶
違いかもしれない。

川喜多和子さんが突然亡くなるのは、それから数年後のことである。川喜多か
しこさんの娘で、伊丹十三監督の最初の奥さんだった(はずだ)。そして「フ
ィルムライブラリー」も、もうずいぶん以前に「川喜多記念映画文化財団」と
名前を変え、今では別の場所に移ってしまった。

●特権的試写室使用状況

映画会社の試写室にはほとんど入ったことがあるけれど、なぜか「フィルムラ
イブラリー」のフロアにあった試写室には入ったことがなかった。その試写室
に初めて入ったのは、1980年になってからだと思う。

日大芸術学部教授の登川直樹さんは映画評論家として活躍している。その年、
僕は登川さんを解説者として名作短編の紹介ページを担当することになった。
ページ数は8ページあり、30分ほどの短編映画の全カットをコマ撮りして並べ
るのである。

登川さんが挙げてきた短編映画はヨリス・イベンスの「セーヌの詩」、アルベ
ール・ラモリスの「赤い風船」「白い馬」、フランソワ・トリュフォーの「あ
こがれ」、ロベルト・アンリコの処女作品「ふくろうの河」などであり、すべ
てフィルムライブラリーがフィルムを保管しているものばかりだった。

普段、会社で8ミリや16ミリの作品を上映してコマ撮りはしていた。しかし、
短編とはいえ35ミリサイズで撮影された映画ばかりである。一体、どこで上映
するのだ、と僕は思ったが、特別にフィルムライブラリーの試写室で上映して
くれるという。

前の人の頭が邪魔にならないように一列ごとに段になっているあの100人は座
れる豪華な試写室で特別に上映してもらえるのか、さすがは日大学長まで務め
た登川先生である、と僕は感心したものであった。

しかし、問題があった。フィルムは36枚しか撮影できない。昔のことだから、
カメラもすべて手動である。巻き上げも巻き戻しも手作業だし、フィルム交換
もしなければならない。社内でコマ撮りをする時には、8ミリにしろ16ミリに
しろ、その間は映写を中断している。

ところが、そんな無理は聞いてもらえるわけがない。それに登川さんも原稿を
書くために再見するのであって、通して見たいに違いない。僕だって通してみ
たい。「ふくろうの河」以外は、一度も見たことがなかったのだ。「ふくろう
の河」にしても、大学時代に日仏会館で英語字幕版でしか見ていない。

結局、三脚とカメラを2セット持っていくことにした。それをスクリーン中央
の最後列にほとんど接するようにセットして光軸を合わせる。最後列から長焦
点レンズで撮影するとスクリーンが不自然に歪むことはない。

フィルムは高感度のトライXを使い、絞りはf5.6に、シャッターは1/15秒にセ
ットし、スクリーンに合わせたピントリングをテープで固定する。巻き上げた
りする時にズレないように三脚をガムテープで床に固定する。

その後ろでノートを用意して、片手はシャッターボタンと巻き上げレバーにか
けておく。一台のカメラのフィルムが切れたら、フィルム交換しながらもう一
台のカメラでシャッターを切り続ける。ノートは、メモを取るためだ。全ての
カットを誌面に並べて、その下に映像の流れとストーリーを解説したキャプシ
ョンを書かなければならない。それは僕の仕事だった。

ふたりいれば簡単だ。交代でシャッターを切ればいい。でも、僕はすべてひと
りでこなした。登川さんは最前列の真ん中に座ってメモを取りながら映画を見
る体勢になっている。

広い試写室を二人だけで独占していた。映写してくれるのは、フィルムライブ
リーの主のようなおじいさんだった。映写室の窓からフィルムライブラリーの
主が「いいかい、始めるよ」と言った。

試写室の照明が落ちた。

●短編映画でしか描けない世界の魅力

一番最初の仕事は「ふくろうの河」だった。ロベルト・アンリコ監督の短編映
画である。ロベルト・アンリコは、1931年にフランス北部のパドカレーで生ま
れた。ソルボンヌ大学を1951年に卒業し、監督としてのデビュー作「ふくろう
の河/LA RIVIERE DU HIBOU」(1962/28分)でカンヌ映画祭短編グランプリ
を受賞した。

ロベルト・アンリコは、今年、69歳で亡くなり、シラク大統領は「フランスは
偉大な詩人を失った」と語ったという。大統領もおそらく「冒険者たち」が好
きだったのだろう。

「ふくろうの河」は「悪魔の辞典」で有名なアンプローズ・ビアスの代表作の
短編を映画化したものだ。今しも、南軍の兵士が捕らわれて絞首刑になろうと
している。橋の欄干に首に巻いたロープの反対側を結びつけ、河へ身を落とせ
ば即席の絞首台になる。

刑が執行される。だが、重みでロープが切れ、兵士は河に落ちる。彼は目隠し
を外しロープもほどいて泳ぎ、向こう岸に着く。北軍の兵士たちは銃を撃ち、
ついには大砲を持ち出してきて彼を狙う。南軍の兵士は走る。砲撃を避け、森
を抜け、走る、走る。やがて、一軒の家が見えてくる。その中からは兵士の妻
が……。

最初に見た時に、僕は本当に衝撃を受けた。ヒッチコック監督の「サイコ」と
同じで一度だけしか効かないが、このショッキングな結末は決して見てない人
には明かせない。

映像詩人と言われたアルベール・ラモリスは「白い馬/CRIN BLANC」(1952
/40分)と「赤い風船/LE BALLON ROUGE」(1956/36分)でカンヌ映画祭短
編映画部門グランプリを獲得している。その中でも特に「赤い風船」は見事な
映像詩である。

ある日、学校に行く途中のひとりの少年が街灯にひっかかった赤い風船を助け
る。すると、赤い風船はまるで子犬のように少年の後をどこまでもついてくる。
見続けていると、赤い風船が本当の子犬のように見えてくる素晴らしい映画だ
った。

この仕事で僕が最も嬉しかったのはフランソワ・トリュフォーの実質的デビュ
ー作「あこがれ/LES MISTONS」(1957/26分)が見られたことだ。主人公の
少年たちが憧れるのはベルナデット・ラフォン。ヌーヴェル・ヴァーグを代表
する女優だ。

この映画の後、トリュフォーは「大人は判ってくれない」を撮るのだが、すで
に「あこがれ」で悪ガキたちの世界を描いていたのだと、映画史的な見方にお
いても僕は得をした気分になった。

昔は、ロードショーなどでも短編映画が併映されることがけっこうあった。カ
ンヌ映画祭にも短編映画部門があった。今でも、アメリカのアカデミー賞では
ショートフィルム部門があり、数年前には日本人監督の伊比恵子が受賞した。

短編映画の世界からいろいろな才能が出てくることもある。トリュフォーにし
てもゴダールにしても短編の自主映画的な地点から監督を始めて世界的映画監
督になった。

映像詩のようなスタイルも短編ならではのものだ。ラモリスの「赤い風船」は
映像というメディアの可能性を拓いた作品だと思う。最近は商業映画として公
開される作品がすべて長編劇映画になり、こういう映画が成立しなくなってい
て少しさみしい。

それにしても、あの時は世界の名作短編映画が見られて「おいしい仕事」だっ
た。できれば、スクリーンに集中して見ていたかったけれど、まあ、贅沢は言
えません。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
雑誌編集者。仕事でWebギャラリーを立ち上げました。風景写真の第一人者で
ある竹内敏信さんの作品と撮影データ・コメントを掲載し,ご本人の肉声が聞
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http://www.genkosha.com/gallery/photo/

昔書いた文章が「投げ銭フリーマーケット」に出ています。デジクリに書いた
文章も数編入っています。
http://www.nagesen.gr.jp/hiroba/

アンリコ監督死去
http://www.sankei.co.jp/mov/db/200102/0224obit_enrico.html

フランソワ・トリュフォー
http://village.infoweb.ne.jp/~fwkx5853/

短編映画専門 トリウッド
http://homepage1.nifty.com/tollywood/

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■デジクリトーク インターネットの紆余曲折(11)
サンタの音楽クロニクル "Hey santa8,take eight!" (前編)

8月サンタ
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●関西人にもいろいろいるのです

火曜日のデジクリ、No.883に、ロシア在住の関西人、東さんのコラムがあった。
私は関西人とひとくくりにされると、安西水丸画伯描くところの村上春樹のよ
うに、ちょっと「むっ」とした顔をしてしまうクールな京都人である(笑)。
関西人だから皆キンキーだと誤解されても困ります。へへへ。

今回・次回はそんな私の、京都で始まりロンドンで終わった10代の、街と音楽
への想いをありったけ、つづりたいと思う。すべては、つながっているのだ。

●ニュー・ヨークへの想い

久々にビリー・ジョエルを聞きながらこの原稿を書いている。ビリーの歌には
ニュー・ヨークへの愛を歌った傑作がある。

中学一年生の時に、地元京都三条河原町のソニー・プラザでマンハッタンの地
図を買ってきて、それを壁に貼って眺めていた。地図という紙には奇妙な魅力
があって、特に海外の都市の地図というのはまるで宝探しの迷宮のようだ。暇
さえあればほおづえをついて、飽きずにずっと眺めていた。

その年、二人組のミュージシャン、サイモンとガーファンクルがNYのセントラ
ル・パークで復活コンサートを行なった。その50万人というとんでもないコン
サートの番組を親父と一緒にTVで見た。こと音楽にかんする限り、親父と趣味
が合ったのはこのサイモンとガーファンクル(S&G)くらいだ。親父がしょっち
ゅう歌っていた「明日に架ける橋」くらいしか曲を知らなかったけれど、おと
なしく膝を抱えて見ていた。

その番組はSONYが独占提供していて、曲の合間に流されるCMも彼らが歌う「ス
カボロー・フェア」をバックに、SONYの「TVでなくてディスプレイ」プロフィ
ールという製品の控えめな宣伝が流されるという好ましいものだった。CMが番
組と一体化していて、無粋なCMが割り込むことがなかった。

●サイモンとガーファンクルが音楽を連れてきた

私はそこで初めて聴く彼らのヒット曲に酔いしれた。最初の出だしはもちろん
「ミセス・ロビンソン」で、イントロが流れた瞬間、「待ってました!」とい
わんばかりの、生まれて初めて聞くようなもの凄いどよめきが、画面の後から
伝わってきた。その「ミセス・ロビンソン」が、名画「卒業」のサントラにも
使われた有名曲だと知るのはその数年後のことで、歌詞に歌われたジョー・デ
ィマジオがメジャー・リーグ・ベースボール史に残る前人未踏の記録、56打席
連続安打の名ヒッターだと知ったのは、イチローが連続安打記録を伸ばしてい
た、つい先月のことだ。

 落ち着きなさい ミセス・ロビンソン 神様は 
 あなたが思うよりずっと あなたのことを愛していますよ

ラストの「サウンド・オブ・サイレンス」まで夢のような二時間だった。初め
て聴く曲が多いにも関わらず、その歌詞(字幕が下に出ていたのです)と相ま
って、いっぺんで心に染みた。世代も言語も全然違うのに、とっつきにくい所
がまるでない音楽。親父も好きで、中学生の私も好き。きっと音楽知らずの母
親も、必ず気に入ってくれそうな音楽だった。

特に一番気に入ったのは「59番街橋の歌」(Feelin' groovy)だった。二人がハ
ミングでバッハ風の掛け合いをするのもいいし(このフレーズは山下達郎さん
のクリスマス・イヴにつながっているような気がする)、小さな幸せを歌った
歌詞もいい。ポール・サイモンが連日の作業で疲れ、煮詰まった徹夜明けにふ
っと浮かんだ曲だそうだ。最近出たアート・ガーファンクルのアルバムでは、
アーティが4歳の息子とともに舞台でこの曲を歌っている。外国の人が、自分
の言葉で「がんばりすぎじゃないか? 気楽に行こうよ」というような内容の
歌を、こんな大舞台で堂々と歌っているのがおかしかった。

●ニュー・ヨークへの想いとアメリカン・ヒーロー

アート・ガーファンクルの「ハート・イン・ニューヨーク」の歌い出し、
「NewYork...」というところで心が本当に飛んでいってしまった。
ポール・サイモンの「Still crazy after all these years」も良かったけれ
ど、頭の中には、NYという街への想いを、透明な声で歌う、アーティの姿が
刻まれた。

まだ見ぬNYという街にぞっこん、「惚れてしまった」のはこのときだ。
NYの地図を買ったのは、たまたま同じ売り場にあったサンフランシスコやロサ
ンジェルスより形が面白かったからだけど、サイモンとガーファンクルのコン
サートを見たその日から、ニュー・ヨークは私の約束の地となった。

その中学時代の私のあこがれのヒーローは、まずは「ミスター・ペパーミント
・ヴォイス」ことエア・サプライのボーカルの、ラッセル・ヒッチコックTV
ドラマ「アメリカン・ヒーロー」の主人公の高校教師ラルフ・ヒンクリー、
(演じていたのはウィリアム・カット)、「誰が何を言おうと、これは僕の人
生だよ」と歌うピアノの詩人ビリー・ジョエル、そしてアート・ガーファンク
ルだった。(今気が付いたのだが、全員同じハゲ方をしている)

アメリカン・ウェイこそがあこがれだった。ジョーイ・スキャベリーの歌う
名曲「アメリカン・ヒーローのテーマ」は未だに時折ラジオから流れてくる。

"The Greatist American Hero" (Believe it or not)

 信じようと信じまいと 僕は今空の上を歩いている
 こんな自由な気分は初めてなんだ

 ねえ君 信じようと信じまいと これが今の僕なんだよ

ご存じない方のために書いておくと、「アメリカン・ヒーロー」とは、普通の
高校教師のラルフ・ヒンクリーがある日UFOと接近遭遇、「地球を救え」と赤
いスーパー・スーツを渡されるのだが、その場で取り扱い説明書を無くしてし
まい、見かけはスーパーマンだが空を飛ぼうとして壁に激突、まっすぐ飛べな
いので左手にヤカンを持って飛んだり、抱腹絶倒のヒーローとして活躍する。
いかにもアメリカらしい、脳天気なヒーロー物のTVドラマである。

長く再放送されていないが、先日NHKの海外少年ドラマシリーズがDVDで出ると
いう目を疑うようなニュースが流れてきたので、(「アトランティスから来た
男」など傑作多し!)根強いファンを持つこのドラマも、きっと見られるよう
になるだろう。少年時代の思い出が蘇る、楽しい時代になってきた。

●80'sが始まった

1980年代らしきものはMTV、バグルスの「ラジオ・スターの悲劇」のビデオ・
クリップで明けた。当時、ビリージョエルの「オネスティ」という曲がココア
のCFで流れて大ヒットしていた。このメロディアスな曲が日本人は大好きだ。
私も好き。ビリー・ジョエルの魅力は何より親しみやすいメロディ、日本語じ
ゃないのだけれど、何かそのまますっと言葉として受け取れそうなのびのびと
した歌声。素晴らしい歌詞。私は友人からアルバム「52nd Street」をテープ
に録音してもらって、飽きることなく聴いていた。洋楽を、歌詞とともに楽し
むようになったのはサイモンとガーファンクルとビリー・ジョエルのおかげだ。

レコード屋に行くとTOTOが「ターンバック」という新譜を出していた。クィー
ンは映画「フラッシュ・ゴードン」のサントラを手がけた。ジェイ・グレイド
ンとデヴィッド・フォスターのアルバムは「エアプレイ」。洋楽ロック・ポッ
プス好きには、遠い夢のような時代に思える。

そんな音楽をバックにしながら、毎夜眺めていた写真集があった。立木義浩さ
んの「マイ・アメリカ」だ。写真集といいつつ文章もふんだんに入っていて、
ドキュメンタリーとしても楽しめる。中でもNYについては、当時荒廃の極みに
あったサウスブロンクスの写真がエピソードとともに衝撃的で、クールに殺人
を犯したがる少年ギャングたちと、そのギャング達に逆にたったの1ドルの賞
金を掛けられているブロンクス暑の刑事たち、まるで映画そのものだった。

その「マイ・アメリカ」のなかに、ビリー・ジョエルのポートレートがあった。
「不遇な時代を耐え抜いた男」と紹介されている。私は未だに、このアロハシ
ャツを着て、ちょっと眠たげな「マイ・アメリカ」の中の、ビリーの顔が一番
好きだ。

その立木義浩さんが、とびきり愉快で素敵なミュージシャン、と写真集の中で
取り上げていたのがマンハッタン・トランスファーだ。立木氏が、彼らがステ
ージで歌い、踊る写真を撮って帰国したあと、「僕の事務所では、今も彼らの
曲がずっと流れている」と書いていて、早速レンタル・レコードに行ってアル
バムを借りた。

最初に借りてきたのは「ザ・ベスト・オブ・マンハッタン・トランスファー」。
ロック育ち?の私には、最初は「トワイライト・トーン」しかいい曲と思えな
かったが、中学から高校へ進む頃には、だんだんと全部の曲が好きになってい
った。何でもこなすスーパー・ヴォーカル・バンドだが、スウィング・ジャズ
的な音楽に入っていくきっかけになったのは彼らマンハッタン・トランスファ
ーのおかげだ。

そしてこのアルバムの最後には世にも美しいアカペラの曲、「バークリー・ス
クエアのナイチンゲール」という曲が入っていた。その6年後、私はそのバー
クリー・スクエアで、一人でベンチに座って、二十歳の誕生日を迎えることに
なる。           ("Hey santa8,take eight!" (後編)へつづく)

【8月サンタ】ロンドンとル・カレを愛する32歳 santa@londontown.to
来週から木曜日に掲載していただくことになりました。そごうさんと一緒なら
長いのが目立たないと思っていたのに大ショック(笑)では素敵な週末を!

ロンドン好きのファンサイト
http://www.londontown.to/

▼デジクリサイトの「★デジクリ・スターバックス友の会★」よろしく~
http://www.dgcr.com/

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■イベント案内
フリーイラストレーター的ライフスタイル!?
http://www.dhw.co.jp/calendar/cal.cgi?branch=KOB
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<主催者情報>

「HotDog PRESS」「Popteen」など多数の雑誌にイラストが掲載され、いま東
京で注目されているフリーCGイラストレーター"ナオッキ"をゲストに迎え、
フリーで活躍する方法をお話いたします。当日は彼も制作プロジェクトメン
バーの「デジタル所さん」(日本テレビ系にて放送中)の未発売ステッカー
を抽選でプレゼントいたします。

特別講師 フリーCGイラストレーター 北沢直樹(ナオッキ) 氏
今夜はトキメキ(ナオッキサイト)
http://www.os.xaxon.ne.jp/~naocky/

日時 6月23日(土)13:00~14:30
会場 デジタルハリウッド神戸校
   神戸市中央区加納町4-3-5 御幸三宮ビル4F
   http://www.dhw.co.jp/2001/dh/kobe/map.html

定員 30名(要予約/先着順)
費用 無料
参加申込:お電話またはE-mailにて
※メールにてご予約される場合は、メールの標題を「デジクリSP」とし、希望
イベント名/氏名/住所/メールアドレス/電話番号を必ず明記の上、送信下さい。

お問い合わせ先:デジタルハリウッド神戸校
TEL:078-334-6622 E-mail:kobe@dhw.co.jp

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■編集後記(06/22)
・昨日、元同僚だった女性の娘さんからメールが来た。デジクリに広報用資料
を送りたいという。こんな近くにいたんだ。世間は狭い。中学、高校と一緒だ
った友人(女性)からもメールが来た。こちらは、娘さんがなんとデジクリの
読者なので、彼女の助けを得てときどき編集後記を覗いていたという。ううむ、
なんだか同年輩の子供たちと話が合いそうだ。そういえばうちでも一番話が通
じるのは、妻よりも娘なんだ。わたしはあやしいな年寄りに違いない。(柴田)

・フラッシュイベント「FlashPowerSession 2001」の参加申込の勢いが凄い。
交流会は半日ほどで満員御礼。今朝、セミナーの方も満席に。キャンセル待ち
の問い合わせメールが相次いで届く。平日開催だし、大きな会場が埋まらなか
ったらどうしよう、なんて思っていたのだが、杞憂で終わってしまった。追加
席を出せないか検討中。もし出たらサイトでアナウンスするのでよろしくです。
参加者の分布は北海道から沖縄、妊婦さんまで。ひぇー。  (hammer.mule)
http://www.dgcr.com/fps2001/

・プレゼント、応募少ないです。同じ賞品に集中していて、物によっては、ほ
とんど全プレ状態。
http://www.dgcr.com/present/index2.html

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発行   デジタルクリエイターズ
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編集長     柴田忠男 < mailto:tdo@green.ocn.ne.jp >
デスク     濱村和恵 < mailto:zacke@days-i.com >
アソシエーツ  神田敏晶 < mailto:kanda@knn.com >
        森川眞行 < mailto:morikawa@siliconcafe.com >

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