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【日刊デジタルクリエイターズ】 No.1005 2002/01/11.Fri発行
http://www.dgcr.com/ 1998/04/13創刊 前号の発行部数 19885部
情報提供・投稿・広告の御相談はこちらまで mailto:info@dgcr.com
登録・解除・変更・FAQはこちら http://www.dgcr.com/regist/index.html
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<いきなり話題が尽きた>
■デジクリトーク 108回
映画で単位がとれた頃
十河 進
■デジクリトーク 金曜ノラネコ便
帰ってきた人と巻き込まれる人
須貝弦+堀本真理美
■セミナー案内
Adobe Acrobat ビジネスイノベーションフォーラム2002
■展覧会案内
ウーヴェ・レシュ展
【日刊デジタルクリエイターズ】 No.1005 2002/01/11.Fri発行
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<いきなり話題が尽きた>
■デジクリトーク 108回
映画で単位がとれた頃
十河 進
■デジクリトーク 金曜ノラネコ便
帰ってきた人と巻き込まれる人
須貝弦+堀本真理美
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ウーヴェ・レシュ展
■デジクリトーク 108回
映画で単位がとれた頃
十河 進
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●佐藤忠男さんの新刊が続けて出た
昨年の12月に新書で佐藤忠男さんの本が立て続けに二冊出た。佐藤さんは著作
の多い人だが、二冊続けて出るのは珍しい。中公新書は「映画の真実」、ベス
ト新書が「映画で読み解く『世界の戦争』」というタイトルだ。
朝日文庫で出ている650ページもある「定本・小津安二郎の芸術」は、少しず
つ読んでいるのでまだ読了していないのだが、新書版の二冊はすぐに読んでし
まった。相変わらず論旨が明確でわかりやすく、実にまっとうな人だと思う。
佐藤さんは僕が尊敬する著作家(思想家と呼ぶべきかもしれない)のひとりで
ある。
現存する日本の映画評論家の中で、本当の意味での映画研究者・評論家という
のは佐藤さんしかいないのではないか。もちろん日本映画を論評し続けている
山根貞男さんなどもいるけれど、アカデミックな意味できちんと自分の仕事を
位置づけて映画史をまとめたり、体系だった映画研究をしている人は寡聞にし
て他に知らない。
佐藤さんは今村昌平監督が設立した横浜映画学校(現・日本映画学校)の校長
も務めている。テレビに出てきて新作映画の提灯持ちしかやらない映画レポー
ターみたいなのが多い中で、映画評論家の本来の仕事を見せてくれている。
20年も以前のことだが、僕は毎月、佐藤忠男邸まで通っていた。月刊誌の連載
をお願いしていたからだ。もっとも、いつも玄関にも入れてもらえず、門のと
ころで待っていると和服姿で無愛想な顔をした佐藤さんが現れて、何も言わず
原稿を差し出した。
佐藤さんの原稿は、当時では珍しいコピーだった。オフィスにさえろくにコピ
ー機がなかった時代に佐藤さんは自宅にコピー機を設置していたのだ。それだ
け自分の原稿を大事にしていたのだろう。
高価なコピー機を導入していることに、僕はちょっと尊敬した。そう言っては
何だけど、いくら高名な映画評論家だと言っても、そんなに原稿料は高くない
し、テレビに解説者で出て稼ぐような人じゃなかったから、コピー機の代金は
大きな費用だったと思う。
さて、当時の僕は完全なお使いさんで、佐藤さんは僕の顔もろくに覚えていな
かったと思う。2年間ほど通ったのだけど、一度も話しかけられたことはない。
それでも、佐藤さんの本を読むたびに小田急線梅ヶ丘から佐藤邸までの道順が
浮かんでくる。何だか懐かしい。
●岩崎昶という映画評論家を知っていますか?
ベスト新書「映画で読み解く『世界の戦争』」は、映画で描かれた戦争を様々
な観点で論評していく労作だ。特にアフガン戦争を意識して書かれており、イ
ラン映画を始めアジア諸国の映画に通じている佐藤さんだけあって、イスラム
文化を映画を通じて理解しようとする姿勢が明確だ。
その中で日本における太平洋戦争時代の戦争映画などについての章がたてられ
ていた。映画人を「積極的に戦争を支持した人」「積極的ではないが大真面目
に戦争に協力した人」「適当に協力した人」「協力するつもりはあってもうま
く協力できなかった人」「戦争反対の意志を持っていた人」に分類している。
黒澤明も「一番美しく」(1944)という映画で軍需工場に勤労動員された女子
挺身隊を賛美する戦争協力映画を作っているし、戦後、反戦映画ばかり作った
今井正だって戦争協力映画を作っているから、まあ、当時の映画人は多かれ少
なかれ戦争に協力しているのだが、佐藤さんは「戦争反対の意志を持っていた
人がふたりだけいた」と記述する。「戦ふ兵隊」を撮った亀井文夫監督と映画
評論家の岩崎昶さんである。
佐藤さんは「結論的に言うと戦争反対を表現して逮捕された日本の映画人はた
ったふたりしかいなかった。戦争中には大多数の映画人たちは戦争に協力して
せっせと戦争宣伝映画を作ったのである。まあ、そこにさまざまのニュアンス
で態度の違いはあったのだが、必ずしも権力に強制されただけではない」と書
いている。
岩崎昶さんは、僕の恩師である。戦後26年たった1971年に僕は大学一年になっ
たのだが、カリキュラムの中に「映画論・岩崎昶」の名前を見付けて迷わず選
択した。それどころか、二年生になっても選択したから二年間も教えていただ
いた。その岩崎先生も亡くなり、ずいぶんの時間が流れてしまったが…。
敗戦後、岩崎先生はニュース映画の制作責任者として被爆間もない広島・長崎
に入り長編記録映画を作った。この映画が占領軍に没収された時にプリントを
一本隠して保存した。テレビなどで今も放映される被爆の惨状のシーンは、こ
の映画からプリントされたものが多いという。
しかし、僕はそんな立派な人だとは知らなかった。岩波新書「映画の理論」の
著者として僕は高校生の時から馴染んでいたから、迷わずに授業を選択したの
である。授業は大きな階段教室で行われ、大勢の学生が一緒だった。
最初の授業は黒澤明の「羅生門」の上映だった。僕は大学では授業で映画が見
られるのだと感激した。「羅生門」は名作の誉れ高く、上京してすぐに銀座並
木座で見たのだが、その時には岩崎先生の「映画の理論」でこと細かく分析さ
れている文章を思い浮かべながら見ていた。
翌週から「映画の理論」をテキストにして岩崎先生の講義が始まった。一学期
は「羅生門」の論評で終わり、二学期の最初の授業はやはり映画の上映だった。
もちろん「映画の理論」で扱われているエイゼンシュタインの映画史上の名作
「戦艦ポチョムキン」だった。「戦艦ポチョムキン」がテキストだから、テー
マは「モンタージュ理論」である。
●単位がとりやすかった「映画論」の授業
「ねっ、モンタージュ理論なんてもう流行らないよね」と、隣の席に座ってい
た女子学生が僕に囁いた。1971年の9月末のことだ。遅めの夏休みがあけて二
週間くらいたっていた。「はあ」と、僕は自分に話しかけられたのかどうかわ
からないまま生返事をした。
「キミ、一学期から熱心にノートとってたよね」と、僕の生返事は無視して彼
女は畳みかけてきた。まだ東京弁をきちんと喋れない僕は、「よね」と語尾が
少し上がる調子で話しかけられると、かえって無口になって首を縦に振るだけ
だった。
「前期試験が近いでしょ」と彼女は続ける。何だ、そうなのか、と僕は安心し
たが反面ではがっかりしていた。女子学生に話しかけられたのは初めてだった
から、少し期待していた部分もあった。
フランス文学専攻のクラスの仲間たちは、岩崎昶という名前に拒否反応を示し
て誰も「映画論」を選択していなかったから、その授業ではほとんど知った顔
がいなかった。話しかけられること自体が僕には少し嬉しかったのだ。
岩崎先生は日本共産党(当時、反代々木系の学生たちは日共と呼び捨てた)系
の左翼評論家であると、僕はクラスの仲間のひとりに教えられた。「『映画の
理論』にはそんなところはないじゃないか」と僕は反論したけれど、彼は「ロ
シア革命の映画ばかり扱っているだろ。今さら、『戦艦ポチョムキン』や『十
月』でもないよな」と笑った。
さて、前期試験のことを言われ「この授業はレポート提出ですよ。先週、そう
言ってました」と、僕はまだ名前も知らない女子学生に向かって答えた。「授
業のノートはあまり役に立たないと思うな」と続ける。後半の言葉は気安く話
しかける感じにしたのだが、東京弁を真似た喋り方に自分で恥ずかしくなった。
まったく似合わない。
「いいの、私、前期の授業はほとんど出ていないから、ノートだけでも見せて
よ」と、いきなり彼女は僕の前のノートを覗き込む。サラサラとした清潔そう
な髪が僕の目の前にあった。エメロンシャンプーという言葉が意味もなく頭に
浮かぶ。長い髪ではなかった。白い首筋が少し見えている。
当時、女子学生はだいたいふたつの派に別れていた。付属高校からきた連中に
多かったのがスカートにブラウスというお嬢さん風の酒井和歌子タイプで、も
うひとつはジーパンにTシャツ(絞り染め?)にヤッケ(死語か?)で男のよ
うに喋る桃井かおりタイプだった。
彼女は、そのどちらのタイプにも分類不可だった。ジーンズを履いていたが、
流行のベルボトムではなくストレートだった。色は褪せていたが、きちんと洗
った清潔感があった。黄色いポロシャツを着て、一番上のボタンを外していた。
シンプルなスタイルだが印象的だった。
美人ではなかったが、個性的な顔をしていた。当時の女子学生は「美人」と言
われるより「個性的」と言われることを好んだが、彼女がそう言われて喜ぶか
どうかはわからなかった。ただ、屈託のない喋り方(それに押しつけがましさ
がなかった)につられて表情が魅力的に変化した。黙っていれば目立たないか
もしれないが、話し始めると生き生きするタイプだった。
結局、その日、僕はノートを大学の近くでコピーし彼女に渡した。お礼に彼女
にコーヒーをご馳走になり、そこでようやく名前を聞いた。専攻は英文だとい
う。「ジョン・アプダイクを研究したいのだけど、講読の授業はイギリス文学
の古典ばかりなのよ」と彼女が言い、僕も「カミュを読みたいのに、バルザッ
クばかりやらされる」と嘆いた。
それ以来、僕が映画論の教室にいると彼女が隣に座るようになった。もっとも、
彼女は必ず授業には遅れてきたし、それにほとんど授業にはこなかった。岩崎
先生は出席はとらなかったし、試験はレポートだった。だから、単位がとりや
すいという理由で「映画論」を選択する人が多かった。
授業にはあまり出なかったけれど、彼女が単位がとりやすいから「映画論」を
選択したようには思えなかった。ずいぶん、いろいろな映画を見ていたし、時
々は彼女から映画論を吹っ掛けられることもあった。
僕と彼女は二年間「映画論」の教室で顔を合わせたが、三年になって共通科目
がなくなるとほとんど会わなくなった。時々、中庭で見かけて手を振ることは
あったけれど、お互いに友人たちが一緒のことが多くて話す機会もなくなった。
●さかしまに覗いた望遠鏡の中の十年
卒業後、彼女がニューヨークへ渡ったと聞いたのは誰からだっただろう。仏文
科にいてまったくフランス語を覚えなかった僕と違い、きちんと英語を学んだ
彼女は、不況にぶつかり就職難の時代に新天地を求めてニューヨークへ旅立っ
たのだという噂が聞こえてきた。
彼女と再会したのは、僕に最初の子供が生まれた頃だった。僕は30を過ぎ、生
まれたばかりの子供の顔を見て「俺も覚悟を決めなきゃな」と言い聞かせてい
た。子供は可愛かったが(というより珍しかった?)、こんなに世話がかかる
ものかとカミサンとふたり、毎日、子供に振り回されて生活していた。
彼女と会ったのは、ある洋画の配給会社だった。僕は佐藤忠男さんの連載ペー
ジに掲載する映画のスチル写真を配給会社の宣伝部に依頼し、それを受け取り
に行ったのだった。そして、そこに彼女がいたのである。
彼女はニューヨークでその映画会社に就職したのだが、二年ほど前から日本支
社(極東支社と彼女は言った)に配属になったのだという。僕は数ヶ月に一度、
宣伝部には顔を出していたが、彼女は別の部署で、その日はたまたま宣伝部で
打ち合わせをしていたのだった。
もう夕刻だった。僕らは近くのコーヒーショップに入り話をした。しかし、仕
事のことを話してしまうと、いきなり話題が尽きた。十年ぶりの照れがあった
のかもしれない。話題が「映画論」の授業になり、僕らは学生時代の思い出を
覚えている限り出し合った。
――私ね、大学の頃、好きな人がいたのよ、と思い出話のついでに話しておく
けどという調子で彼女が口にした。遠い昔の話だ。
――知ってたよ。相手も……。
――そいつと結婚したのよ。ニューヨークで偶然に会ってね………、でも、二
年で別れた。キミは?
僕は、彼女と会わなくなってからの十年近い時間を一分もかからずに話した。
就職した。結婚した。子供ができた。いろいろあった。でも、特に印象に留め
るべきこともなかった。今も平凡な日常を生きている……。話しているうちに、
本当に僕の十年間はそれだけだったような気がしてきた。
しばらくして、彼女がポツリとつぶやいた。
――あの頃は映画で単位が取れたのよねえ……。
僕は、コーヒーーショップのガラス越しに夕暮れの街角を眺めた。勤め帰りの
人々の流れが駅へ向かって進んでいく。学生時代と違って、僕には彼らの生活
が想像できた。共感ではないが「みんな、大変だなあ」という気分だった。早
く帰って子供を風呂にいれなければ、と僕は考えていた。
その時、岩崎先生が教壇でマイクを持って「戦艦ポチョムキン」のモンタージ
ュについて話している姿、階段教室の後ろの方に座って聞いている僕自身、そ
の横から僕のノートを覗き込んでいる黄色いポロシャツの女子学生の姿が、望
遠鏡を逆さまに覗いたように遠近感がつかめないまま目の前に浮かんできた。
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
出版社勤務。年末年始、最も遠出したのは、柴田編集長と飲むために四つ向こ
うの駅まで行ったこと。それ以外は半径2キロで終始した。毎日、利根川の土
手に通ったけど、我が家からは歩いても20分で行けてしまう。
投げ銭フリーマーケットに旧作掲載しています。
http://www.nagesen.gr.jp/hiroba/
ネットギャラリー&オリジナルプリント販売、広告・写真撮影関連情報サービス、
求人情報などをやってます。
http://www.genkosha.co.jp/
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■デジクリトーク 金曜ノラネコ便
帰ってきた人と巻き込まれる人
須貝弦+堀本真理美
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●よりによって帰ってきた
あ、どうも須貝です。そうなんです、2002年からデジクリのレギュラー執筆陣
に勝手に復帰することになりました。勝手に抜けて勝手に復帰するワタクシを
受け入れてくれる柴田さんと濱村さんには、この場を借りて感謝したいと思い
ます。
2001年に一度デジクリから離れてから今日まで、いろいろな変化がありました。
まず私のトレードマークであったタンジェリンの初代iBook、めでたく第一線
を退きました。というのも年末にiBook Dual USBの500MHz/DVDモデルを購入
しまして、今はそちらがメインとなっているからです。
いちばん大きな変化と言えば、秋葉原に定期的に出向く仕事がなくなったこと
です。クライアントのリストラと、そのリストラの中で新コンテンツを立ち上
げなければいけないという事情の中、我が秋葉原取材班が予算削減策の目玉と
なってしまいました。
したがって、秋葉原のガード下のスターバックスでタンジェリンのiBookを恥
ずかしそうにカバンから出すというお馴染みの行動も、実は昨年の10月をもっ
て見納めだったのです(誰が見ていたか知らないけれど)。でも、秋葉原にも
行かずタンジェリンのiBookを持ち歩かない自分などもはや自分でない! と思
えるくらい、私はドップリとつかっていたのですね。
――とまぁそんな感じです。これから毎週、デジクリレギュラー陣の末席とし
てお世話になります、どうぞよろしくお願いいたします……と言いたいところ
なんですが、実は隔週での登場となります。
ただ単に帰って来て、以前と同じようにチンタラと書いてもつまらないので、
他人を巻き込むことにしました。巻き込まれるのは、堀本真理美さん(通称
mariさん)。mariさんと須貝とで、日々の仕事や暮らしのことについて、隔週
交代のリレー形式でユルく書いていくことになりました。また、「毎週必ず画
像をひとつ用意する」という厳しい(?)お約束もあります。
下記の自己紹介で「須貝君との出会いは……なんだっけなぁ?」とか言われて
ますが、某サイトのオフ会で会って、たまたま共通の知り合いがいたので「へ
~そうなんだぁ」となったのがきっかけです。
その「共通の知り合い」は、日本初?のPDFオンラインマガジンを作ったり、
バーチャルアイドルの研究をしたり、日刊のメールマガジンを発行したり、自
転車に乗ったり、おじいちゃんになったりしている人です。mariさんとその人
とは会ったことがありますが、僕とその人とは3年くらいメールだけのやり取
りで、いまだ実物を知らず。面白いでしょう?
というワケで、mariさんの自己紹介です。
●堀本真理美の自己紹介
初めまして、堀本真理美と申します。柴田編集長とライターの須貝君とは以前
からの知り合いでして、今月からこちらにに書かせて頂くことになりました。
今回は簡単な自己紹介をさせて下さいね。
わたしが柴田編集長と知り合ったのは、知る人ぞ知る実験的オンラインマガジ
ン「WONDER-J」の制作に携わったときです。デジクリでいうなら、私はおそら
くデスクの濱村さんのような役割でした。ネット黎明期に家内制手工業でした
ねぇ……シバタさん(遠い目)。当時のわたしは某コンテンツ制作会社のデザ
イナーでしたが、今はよちよち歩きのフリーランサー。フォトエッセイストと
して活動を広げるべく奮闘中です。
一方、須貝君との出会いは……なんだっけなぁ? 別の某ウェブマガジンのス
タッフとして一緒に活動していたことがあるのですが、一番始めにどう知り合
ったのかがはっきりと思い出せない……まぁいいか。
ともかく、彼のデジクリ復帰に際して「マリさんもなんか書いてみれば~」と、
声をかけてもらったのが運のつき。勢いでリレーコラムを書くことになりまし
た。年下ながら案外しっかり者の須貝君とわたしでは、やはり彼がツッコミで
わたしがボケなのか。今後の展開でそれが明らかになるかもしれません。
明らかになったからといってどうということではありませんが(?!)、どう
ぞよろしくお願いします♪
●今週の画像 はじめは、自己紹介&年頭のご挨拶ということで。
http://www.macforest.com/dgcr/
【すがい・げん】sugai@macforest.com
2002年は、半会社人・半フリーとして過ごすことになったライター。コンピュ
ータ関係以外の媒体への進出を目論みいろいろと準備中。2001年は人にだまさ
れた年だったので、今年は引き締めていくぜっ!
・macforest.com
http://www.macforest.com/
【ほりもと・まりみ】boxmh@air.linkclub.or.jp
フォトエッセイスト、ウェブデザイナー、猫とロック愛好家。Webマガジン
「I'M HERE」でフォトエッセイ連載中。女性向けメルマガCosmosLabを共同執
筆、melma!より配信。
・box
http://www.linkclub.or.jp/~boxmh/
・I'M HERE
http://www.imhere.com/
・CosmosLab
http://www.melma.com/mag/46/m00015246
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■セミナー案内
Adobe Acrobat ビジネスイノベーションフォーラム2002
http://www.adobe.co.jp/events/acrobat5/seminar/main.html
───────────────────────────────────
詳細、プログラム、申込み方法などはサイトを参照
日時 1月30日(水)
会場 ウェスティンホテル東京 B2F「ギャラクシールーム」
東京都目黒区三田1-4-1(恵比寿ガーデンプレイス内)Tel.03-5423-7000
定員 キーノートセッション、ソリューションセミナー 約600名
ユーザー成功事例セッション、パートナー企業セッション 各約100名
受講料 無料
主催 アドビ システムズ 株式会社
問い合わせ先 アドビセミナー事務局 Tel.03-5676-7119(平日10時~17時)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■展覧会案内
ウーヴェ・レシュ展
http://www.dnp.co.jp/gallery/ggg/gki/g188/g188ki.html
───────────────────────────────────
ウーヴェ・レシュは、グラフィックデザインの原点とも言えるポスターデザイ
ンにおいて、最も独創的かつ急進的な作風で知られ、現代ドイツを代表するデ
ザイナーである。最小限のかたち、最小限のことば。極限のミニマリズムだか
らこそ伝わってくる、強烈なメッセージ。今回の個展では、代表作のポスター
を一堂に展示する。
会期 1月11日(金)~1月31日(木)11時~19時(土曜18時)
会場 銀座グラフィックギャラリー
東京都中央区銀座7-7-2 DNP銀座ビル1F
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
訂正■デジクリトーク
Powerbook Publishing Project ~ PowerBookで出版社開業! (1)
<誤>
重量2.2kg
<正>
重量約2.4kg
訂正■無料セミナーの案内 (1/10掲載分)
続・FIRECRACKERサイト編・Vol.1発売記念無料セミナー
http://www.siliconcafe.com/firecracker/site/event/index.html
<誤>
●1月26日(土)11:00-13:00
●1月26日(土)14:00-16:00
<正>
●1月20日(日)11:00-13:00
●1月20日(日)14:00-16:00
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■編集後記(1/11)
・堀本真理美さんがたしかにいまの濱村和恵さんだったのは、1995年から96年
にかけて制作していた実験的オンラインマガジン(月2回刊)「WONDER-J」に
おいてであった。自分でインターネットをやっていないのに、オンラインマガ
ジンの編集長をやるなんて無謀なおっちょこちょい。いま考えると劣悪な環境
の中で、わけがわからず無我夢中で最先端を目指したものだった……ねえ、マ
リミさん(遠い目)。デカイ人(会ったことないけど)に引き込まれて、再会
となった。ご無沙汰しました。よろしくお願いします。ところで昨年はデスク
に一度も会っていないような? ネット時代ってやはりヘンだ。 (柴田)
・去年会ってませんでしたっけ。あれー? 近くにいる友人よりも私の近況に
詳しい柴田さんであった。/経済局のスパムメール対策は妥当か? 図を見る
限り携帯を主なターゲットにしているようなんだけど、私の携帯じゃフィルタ
なんてかけられないぞ。pcでは助かるけど。拒否方法は、表示されていてもリ
スト作られそうで連絡なんてしないけどなぁ。iモードの迷惑メール、ドメイ
ン指定できても、なりすましを拒否できないんじゃ困るっすー。今でもなりす
ましばっかりなのに。ヘッダ公開してくれたら対処のしようもあるんだけどな。
ということで、!広告!の文字が入るものは、サーバでフィルタかけて欲しい。
そのうち「広告ではありません、リリースです」って記載されたりして。あと、
海外サーバだとどういう対処に? 省令の適用範囲は? (hammer.mule)
http://www.meti.go.jp/kohosys/press/0002285/0/020110syoutorihiki.pdf
http://www.ipa.go.jp/security/topics/alert140108.html
↑「sultfnbk.exe」デマメールに注意! 島田氏の友人は大変な目に。
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編集長 柴田忠男
デスク 濱村和恵
アソシエーツ 神田敏晶
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映画で単位がとれた頃
十河 進
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●佐藤忠男さんの新刊が続けて出た
昨年の12月に新書で佐藤忠男さんの本が立て続けに二冊出た。佐藤さんは著作
の多い人だが、二冊続けて出るのは珍しい。中公新書は「映画の真実」、ベス
ト新書が「映画で読み解く『世界の戦争』」というタイトルだ。
朝日文庫で出ている650ページもある「定本・小津安二郎の芸術」は、少しず
つ読んでいるのでまだ読了していないのだが、新書版の二冊はすぐに読んでし
まった。相変わらず論旨が明確でわかりやすく、実にまっとうな人だと思う。
佐藤さんは僕が尊敬する著作家(思想家と呼ぶべきかもしれない)のひとりで
ある。
現存する日本の映画評論家の中で、本当の意味での映画研究者・評論家という
のは佐藤さんしかいないのではないか。もちろん日本映画を論評し続けている
山根貞男さんなどもいるけれど、アカデミックな意味できちんと自分の仕事を
位置づけて映画史をまとめたり、体系だった映画研究をしている人は寡聞にし
て他に知らない。
佐藤さんは今村昌平監督が設立した横浜映画学校(現・日本映画学校)の校長
も務めている。テレビに出てきて新作映画の提灯持ちしかやらない映画レポー
ターみたいなのが多い中で、映画評論家の本来の仕事を見せてくれている。
20年も以前のことだが、僕は毎月、佐藤忠男邸まで通っていた。月刊誌の連載
をお願いしていたからだ。もっとも、いつも玄関にも入れてもらえず、門のと
ころで待っていると和服姿で無愛想な顔をした佐藤さんが現れて、何も言わず
原稿を差し出した。
佐藤さんの原稿は、当時では珍しいコピーだった。オフィスにさえろくにコピ
ー機がなかった時代に佐藤さんは自宅にコピー機を設置していたのだ。それだ
け自分の原稿を大事にしていたのだろう。
高価なコピー機を導入していることに、僕はちょっと尊敬した。そう言っては
何だけど、いくら高名な映画評論家だと言っても、そんなに原稿料は高くない
し、テレビに解説者で出て稼ぐような人じゃなかったから、コピー機の代金は
大きな費用だったと思う。
さて、当時の僕は完全なお使いさんで、佐藤さんは僕の顔もろくに覚えていな
かったと思う。2年間ほど通ったのだけど、一度も話しかけられたことはない。
それでも、佐藤さんの本を読むたびに小田急線梅ヶ丘から佐藤邸までの道順が
浮かんでくる。何だか懐かしい。
●岩崎昶という映画評論家を知っていますか?
ベスト新書「映画で読み解く『世界の戦争』」は、映画で描かれた戦争を様々
な観点で論評していく労作だ。特にアフガン戦争を意識して書かれており、イ
ラン映画を始めアジア諸国の映画に通じている佐藤さんだけあって、イスラム
文化を映画を通じて理解しようとする姿勢が明確だ。
その中で日本における太平洋戦争時代の戦争映画などについての章がたてられ
ていた。映画人を「積極的に戦争を支持した人」「積極的ではないが大真面目
に戦争に協力した人」「適当に協力した人」「協力するつもりはあってもうま
く協力できなかった人」「戦争反対の意志を持っていた人」に分類している。
黒澤明も「一番美しく」(1944)という映画で軍需工場に勤労動員された女子
挺身隊を賛美する戦争協力映画を作っているし、戦後、反戦映画ばかり作った
今井正だって戦争協力映画を作っているから、まあ、当時の映画人は多かれ少
なかれ戦争に協力しているのだが、佐藤さんは「戦争反対の意志を持っていた
人がふたりだけいた」と記述する。「戦ふ兵隊」を撮った亀井文夫監督と映画
評論家の岩崎昶さんである。
佐藤さんは「結論的に言うと戦争反対を表現して逮捕された日本の映画人はた
ったふたりしかいなかった。戦争中には大多数の映画人たちは戦争に協力して
せっせと戦争宣伝映画を作ったのである。まあ、そこにさまざまのニュアンス
で態度の違いはあったのだが、必ずしも権力に強制されただけではない」と書
いている。
岩崎昶さんは、僕の恩師である。戦後26年たった1971年に僕は大学一年になっ
たのだが、カリキュラムの中に「映画論・岩崎昶」の名前を見付けて迷わず選
択した。それどころか、二年生になっても選択したから二年間も教えていただ
いた。その岩崎先生も亡くなり、ずいぶんの時間が流れてしまったが…。
敗戦後、岩崎先生はニュース映画の制作責任者として被爆間もない広島・長崎
に入り長編記録映画を作った。この映画が占領軍に没収された時にプリントを
一本隠して保存した。テレビなどで今も放映される被爆の惨状のシーンは、こ
の映画からプリントされたものが多いという。
しかし、僕はそんな立派な人だとは知らなかった。岩波新書「映画の理論」の
著者として僕は高校生の時から馴染んでいたから、迷わずに授業を選択したの
である。授業は大きな階段教室で行われ、大勢の学生が一緒だった。
最初の授業は黒澤明の「羅生門」の上映だった。僕は大学では授業で映画が見
られるのだと感激した。「羅生門」は名作の誉れ高く、上京してすぐに銀座並
木座で見たのだが、その時には岩崎先生の「映画の理論」でこと細かく分析さ
れている文章を思い浮かべながら見ていた。
翌週から「映画の理論」をテキストにして岩崎先生の講義が始まった。一学期
は「羅生門」の論評で終わり、二学期の最初の授業はやはり映画の上映だった。
もちろん「映画の理論」で扱われているエイゼンシュタインの映画史上の名作
「戦艦ポチョムキン」だった。「戦艦ポチョムキン」がテキストだから、テー
マは「モンタージュ理論」である。
●単位がとりやすかった「映画論」の授業
「ねっ、モンタージュ理論なんてもう流行らないよね」と、隣の席に座ってい
た女子学生が僕に囁いた。1971年の9月末のことだ。遅めの夏休みがあけて二
週間くらいたっていた。「はあ」と、僕は自分に話しかけられたのかどうかわ
からないまま生返事をした。
「キミ、一学期から熱心にノートとってたよね」と、僕の生返事は無視して彼
女は畳みかけてきた。まだ東京弁をきちんと喋れない僕は、「よね」と語尾が
少し上がる調子で話しかけられると、かえって無口になって首を縦に振るだけ
だった。
「前期試験が近いでしょ」と彼女は続ける。何だ、そうなのか、と僕は安心し
たが反面ではがっかりしていた。女子学生に話しかけられたのは初めてだった
から、少し期待していた部分もあった。
フランス文学専攻のクラスの仲間たちは、岩崎昶という名前に拒否反応を示し
て誰も「映画論」を選択していなかったから、その授業ではほとんど知った顔
がいなかった。話しかけられること自体が僕には少し嬉しかったのだ。
岩崎先生は日本共産党(当時、反代々木系の学生たちは日共と呼び捨てた)系
の左翼評論家であると、僕はクラスの仲間のひとりに教えられた。「『映画の
理論』にはそんなところはないじゃないか」と僕は反論したけれど、彼は「ロ
シア革命の映画ばかり扱っているだろ。今さら、『戦艦ポチョムキン』や『十
月』でもないよな」と笑った。
さて、前期試験のことを言われ「この授業はレポート提出ですよ。先週、そう
言ってました」と、僕はまだ名前も知らない女子学生に向かって答えた。「授
業のノートはあまり役に立たないと思うな」と続ける。後半の言葉は気安く話
しかける感じにしたのだが、東京弁を真似た喋り方に自分で恥ずかしくなった。
まったく似合わない。
「いいの、私、前期の授業はほとんど出ていないから、ノートだけでも見せて
よ」と、いきなり彼女は僕の前のノートを覗き込む。サラサラとした清潔そう
な髪が僕の目の前にあった。エメロンシャンプーという言葉が意味もなく頭に
浮かぶ。長い髪ではなかった。白い首筋が少し見えている。
当時、女子学生はだいたいふたつの派に別れていた。付属高校からきた連中に
多かったのがスカートにブラウスというお嬢さん風の酒井和歌子タイプで、も
うひとつはジーパンにTシャツ(絞り染め?)にヤッケ(死語か?)で男のよ
うに喋る桃井かおりタイプだった。
彼女は、そのどちらのタイプにも分類不可だった。ジーンズを履いていたが、
流行のベルボトムではなくストレートだった。色は褪せていたが、きちんと洗
った清潔感があった。黄色いポロシャツを着て、一番上のボタンを外していた。
シンプルなスタイルだが印象的だった。
美人ではなかったが、個性的な顔をしていた。当時の女子学生は「美人」と言
われるより「個性的」と言われることを好んだが、彼女がそう言われて喜ぶか
どうかはわからなかった。ただ、屈託のない喋り方(それに押しつけがましさ
がなかった)につられて表情が魅力的に変化した。黙っていれば目立たないか
もしれないが、話し始めると生き生きするタイプだった。
結局、その日、僕はノートを大学の近くでコピーし彼女に渡した。お礼に彼女
にコーヒーをご馳走になり、そこでようやく名前を聞いた。専攻は英文だとい
う。「ジョン・アプダイクを研究したいのだけど、講読の授業はイギリス文学
の古典ばかりなのよ」と彼女が言い、僕も「カミュを読みたいのに、バルザッ
クばかりやらされる」と嘆いた。
それ以来、僕が映画論の教室にいると彼女が隣に座るようになった。もっとも、
彼女は必ず授業には遅れてきたし、それにほとんど授業にはこなかった。岩崎
先生は出席はとらなかったし、試験はレポートだった。だから、単位がとりや
すいという理由で「映画論」を選択する人が多かった。
授業にはあまり出なかったけれど、彼女が単位がとりやすいから「映画論」を
選択したようには思えなかった。ずいぶん、いろいろな映画を見ていたし、時
々は彼女から映画論を吹っ掛けられることもあった。
僕と彼女は二年間「映画論」の教室で顔を合わせたが、三年になって共通科目
がなくなるとほとんど会わなくなった。時々、中庭で見かけて手を振ることは
あったけれど、お互いに友人たちが一緒のことが多くて話す機会もなくなった。
●さかしまに覗いた望遠鏡の中の十年
卒業後、彼女がニューヨークへ渡ったと聞いたのは誰からだっただろう。仏文
科にいてまったくフランス語を覚えなかった僕と違い、きちんと英語を学んだ
彼女は、不況にぶつかり就職難の時代に新天地を求めてニューヨークへ旅立っ
たのだという噂が聞こえてきた。
彼女と再会したのは、僕に最初の子供が生まれた頃だった。僕は30を過ぎ、生
まれたばかりの子供の顔を見て「俺も覚悟を決めなきゃな」と言い聞かせてい
た。子供は可愛かったが(というより珍しかった?)、こんなに世話がかかる
ものかとカミサンとふたり、毎日、子供に振り回されて生活していた。
彼女と会ったのは、ある洋画の配給会社だった。僕は佐藤忠男さんの連載ペー
ジに掲載する映画のスチル写真を配給会社の宣伝部に依頼し、それを受け取り
に行ったのだった。そして、そこに彼女がいたのである。
彼女はニューヨークでその映画会社に就職したのだが、二年ほど前から日本支
社(極東支社と彼女は言った)に配属になったのだという。僕は数ヶ月に一度、
宣伝部には顔を出していたが、彼女は別の部署で、その日はたまたま宣伝部で
打ち合わせをしていたのだった。
もう夕刻だった。僕らは近くのコーヒーショップに入り話をした。しかし、仕
事のことを話してしまうと、いきなり話題が尽きた。十年ぶりの照れがあった
のかもしれない。話題が「映画論」の授業になり、僕らは学生時代の思い出を
覚えている限り出し合った。
――私ね、大学の頃、好きな人がいたのよ、と思い出話のついでに話しておく
けどという調子で彼女が口にした。遠い昔の話だ。
――知ってたよ。相手も……。
――そいつと結婚したのよ。ニューヨークで偶然に会ってね………、でも、二
年で別れた。キミは?
僕は、彼女と会わなくなってからの十年近い時間を一分もかからずに話した。
就職した。結婚した。子供ができた。いろいろあった。でも、特に印象に留め
るべきこともなかった。今も平凡な日常を生きている……。話しているうちに、
本当に僕の十年間はそれだけだったような気がしてきた。
しばらくして、彼女がポツリとつぶやいた。
――あの頃は映画で単位が取れたのよねえ……。
僕は、コーヒーーショップのガラス越しに夕暮れの街角を眺めた。勤め帰りの
人々の流れが駅へ向かって進んでいく。学生時代と違って、僕には彼らの生活
が想像できた。共感ではないが「みんな、大変だなあ」という気分だった。早
く帰って子供を風呂にいれなければ、と僕は考えていた。
その時、岩崎先生が教壇でマイクを持って「戦艦ポチョムキン」のモンタージ
ュについて話している姿、階段教室の後ろの方に座って聞いている僕自身、そ
の横から僕のノートを覗き込んでいる黄色いポロシャツの女子学生の姿が、望
遠鏡を逆さまに覗いたように遠近感がつかめないまま目の前に浮かんできた。
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
出版社勤務。年末年始、最も遠出したのは、柴田編集長と飲むために四つ向こ
うの駅まで行ったこと。それ以外は半径2キロで終始した。毎日、利根川の土
手に通ったけど、我が家からは歩いても20分で行けてしまう。
投げ銭フリーマーケットに旧作掲載しています。
http://www.nagesen.gr.jp/hiroba/
ネットギャラリー&オリジナルプリント販売、広告・写真撮影関連情報サービス、
求人情報などをやってます。
http://www.genkosha.co.jp/
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■デジクリトーク 金曜ノラネコ便
帰ってきた人と巻き込まれる人
須貝弦+堀本真理美
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●よりによって帰ってきた
あ、どうも須貝です。そうなんです、2002年からデジクリのレギュラー執筆陣
に勝手に復帰することになりました。勝手に抜けて勝手に復帰するワタクシを
受け入れてくれる柴田さんと濱村さんには、この場を借りて感謝したいと思い
ます。
2001年に一度デジクリから離れてから今日まで、いろいろな変化がありました。
まず私のトレードマークであったタンジェリンの初代iBook、めでたく第一線
を退きました。というのも年末にiBook Dual USBの500MHz/DVDモデルを購入
しまして、今はそちらがメインとなっているからです。
いちばん大きな変化と言えば、秋葉原に定期的に出向く仕事がなくなったこと
です。クライアントのリストラと、そのリストラの中で新コンテンツを立ち上
げなければいけないという事情の中、我が秋葉原取材班が予算削減策の目玉と
なってしまいました。
したがって、秋葉原のガード下のスターバックスでタンジェリンのiBookを恥
ずかしそうにカバンから出すというお馴染みの行動も、実は昨年の10月をもっ
て見納めだったのです(誰が見ていたか知らないけれど)。でも、秋葉原にも
行かずタンジェリンのiBookを持ち歩かない自分などもはや自分でない! と思
えるくらい、私はドップリとつかっていたのですね。
――とまぁそんな感じです。これから毎週、デジクリレギュラー陣の末席とし
てお世話になります、どうぞよろしくお願いいたします……と言いたいところ
なんですが、実は隔週での登場となります。
ただ単に帰って来て、以前と同じようにチンタラと書いてもつまらないので、
他人を巻き込むことにしました。巻き込まれるのは、堀本真理美さん(通称
mariさん)。mariさんと須貝とで、日々の仕事や暮らしのことについて、隔週
交代のリレー形式でユルく書いていくことになりました。また、「毎週必ず画
像をひとつ用意する」という厳しい(?)お約束もあります。
下記の自己紹介で「須貝君との出会いは……なんだっけなぁ?」とか言われて
ますが、某サイトのオフ会で会って、たまたま共通の知り合いがいたので「へ
~そうなんだぁ」となったのがきっかけです。
その「共通の知り合い」は、日本初?のPDFオンラインマガジンを作ったり、
バーチャルアイドルの研究をしたり、日刊のメールマガジンを発行したり、自
転車に乗ったり、おじいちゃんになったりしている人です。mariさんとその人
とは会ったことがありますが、僕とその人とは3年くらいメールだけのやり取
りで、いまだ実物を知らず。面白いでしょう?
というワケで、mariさんの自己紹介です。
●堀本真理美の自己紹介
初めまして、堀本真理美と申します。柴田編集長とライターの須貝君とは以前
からの知り合いでして、今月からこちらにに書かせて頂くことになりました。
今回は簡単な自己紹介をさせて下さいね。
わたしが柴田編集長と知り合ったのは、知る人ぞ知る実験的オンラインマガジ
ン「WONDER-J」の制作に携わったときです。デジクリでいうなら、私はおそら
くデスクの濱村さんのような役割でした。ネット黎明期に家内制手工業でした
ねぇ……シバタさん(遠い目)。当時のわたしは某コンテンツ制作会社のデザ
イナーでしたが、今はよちよち歩きのフリーランサー。フォトエッセイストと
して活動を広げるべく奮闘中です。
一方、須貝君との出会いは……なんだっけなぁ? 別の某ウェブマガジンのス
タッフとして一緒に活動していたことがあるのですが、一番始めにどう知り合
ったのかがはっきりと思い出せない……まぁいいか。
ともかく、彼のデジクリ復帰に際して「マリさんもなんか書いてみれば~」と、
声をかけてもらったのが運のつき。勢いでリレーコラムを書くことになりまし
た。年下ながら案外しっかり者の須貝君とわたしでは、やはり彼がツッコミで
わたしがボケなのか。今後の展開でそれが明らかになるかもしれません。
明らかになったからといってどうということではありませんが(?!)、どう
ぞよろしくお願いします♪
●今週の画像 はじめは、自己紹介&年頭のご挨拶ということで。
http://www.macforest.com/dgcr/
【すがい・げん】sugai@macforest.com
2002年は、半会社人・半フリーとして過ごすことになったライター。コンピュ
ータ関係以外の媒体への進出を目論みいろいろと準備中。2001年は人にだまさ
れた年だったので、今年は引き締めていくぜっ!
・macforest.com
http://www.macforest.com/
【ほりもと・まりみ】boxmh@air.linkclub.or.jp
フォトエッセイスト、ウェブデザイナー、猫とロック愛好家。Webマガジン
「I'M HERE」でフォトエッセイ連載中。女性向けメルマガCosmosLabを共同執
筆、melma!より配信。
・box
http://www.linkclub.or.jp/~boxmh/
・I'M HERE
http://www.imhere.com/
・CosmosLab
http://www.melma.com/mag/46/m00015246
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■セミナー案内
Adobe Acrobat ビジネスイノベーションフォーラム2002
http://www.adobe.co.jp/events/acrobat5/seminar/main.html
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詳細、プログラム、申込み方法などはサイトを参照
日時 1月30日(水)
会場 ウェスティンホテル東京 B2F「ギャラクシールーム」
東京都目黒区三田1-4-1(恵比寿ガーデンプレイス内)Tel.03-5423-7000
定員 キーノートセッション、ソリューションセミナー 約600名
ユーザー成功事例セッション、パートナー企業セッション 各約100名
受講料 無料
主催 アドビ システムズ 株式会社
問い合わせ先 アドビセミナー事務局 Tel.03-5676-7119(平日10時~17時)
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■展覧会案内
ウーヴェ・レシュ展
http://www.dnp.co.jp/gallery/ggg/gki/g188/g188ki.html
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ウーヴェ・レシュは、グラフィックデザインの原点とも言えるポスターデザイ
ンにおいて、最も独創的かつ急進的な作風で知られ、現代ドイツを代表するデ
ザイナーである。最小限のかたち、最小限のことば。極限のミニマリズムだか
らこそ伝わってくる、強烈なメッセージ。今回の個展では、代表作のポスター
を一堂に展示する。
会期 1月11日(金)~1月31日(木)11時~19時(土曜18時)
会場 銀座グラフィックギャラリー
東京都中央区銀座7-7-2 DNP銀座ビル1F
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訂正■デジクリトーク
Powerbook Publishing Project ~ PowerBookで出版社開業! (1)
<誤>
重量2.2kg
<正>
重量約2.4kg
訂正■無料セミナーの案内 (1/10掲載分)
続・FIRECRACKERサイト編・Vol.1発売記念無料セミナー
http://www.siliconcafe.com/firecracker/site/event/index.html
<誤>
●1月26日(土)11:00-13:00
●1月26日(土)14:00-16:00
<正>
●1月20日(日)11:00-13:00
●1月20日(日)14:00-16:00
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■編集後記(1/11)
・堀本真理美さんがたしかにいまの濱村和恵さんだったのは、1995年から96年
にかけて制作していた実験的オンラインマガジン(月2回刊)「WONDER-J」に
おいてであった。自分でインターネットをやっていないのに、オンラインマガ
ジンの編集長をやるなんて無謀なおっちょこちょい。いま考えると劣悪な環境
の中で、わけがわからず無我夢中で最先端を目指したものだった……ねえ、マ
リミさん(遠い目)。デカイ人(会ったことないけど)に引き込まれて、再会
となった。ご無沙汰しました。よろしくお願いします。ところで昨年はデスク
に一度も会っていないような? ネット時代ってやはりヘンだ。 (柴田)
・去年会ってませんでしたっけ。あれー? 近くにいる友人よりも私の近況に
詳しい柴田さんであった。/経済局のスパムメール対策は妥当か? 図を見る
限り携帯を主なターゲットにしているようなんだけど、私の携帯じゃフィルタ
なんてかけられないぞ。pcでは助かるけど。拒否方法は、表示されていてもリ
スト作られそうで連絡なんてしないけどなぁ。iモードの迷惑メール、ドメイ
ン指定できても、なりすましを拒否できないんじゃ困るっすー。今でもなりす
ましばっかりなのに。ヘッダ公開してくれたら対処のしようもあるんだけどな。
ということで、!広告!の文字が入るものは、サーバでフィルタかけて欲しい。
そのうち「広告ではありません、リリースです」って記載されたりして。あと、
海外サーバだとどういう対処に? 省令の適用範囲は? (hammer.mule)
http://www.meti.go.jp/kohosys/press/0002285/0/020110syoutorihiki.pdf
http://www.ipa.go.jp/security/topics/alert140108.html
↑「sultfnbk.exe」デマメールに注意! 島田氏の友人は大変な目に。
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発行 デジタルクリエイターズ
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編集長 柴田忠男
デスク 濱村和恵
アソシエーツ 神田敏晶
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