[1958] 殴られる男

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【日刊デジタルクリエイターズ】 No.1958    2006/04/14.Fri.14:00発行
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   1998/04/13創刊   前号の発行部数 17872部
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<もっと分かりやすく抽象的に話して下さい>

■映画と夜と音楽と…[288]
 殴られる男
 十河 進
 
■Otaku ワールドへようこそ![26]
 理系の感覚はズレているか
 GrowHair


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■映画と夜と音楽と…[288]
殴られる男

十河 進
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●映画は暴力をエンタテイメントとして描く

映画の中には暴力が充ちている。現実の世界では映画ほど暴力は日常的ではない。「セックスとヴァイオレンス」と扇情的に言われることが多いが、このふたつは人間にとってかなり刺激的な事柄なのだろう。僕も前者は嫌いではないが、後者に関しては生理的な嫌悪感を覚えることが多い。

たとえば北野武の作品群である。あれほど抒情的な映像が作れる監督が、暴力描写ではおぞましいほどの嫌悪を感じさせるのだ。それは処女作「その男、凶暴につき」から一貫している。

北野武監督は暴力の本質を描いているのだ。その醜さを正面から捉えているからである。人を殴ること、暴力をふるうことの異常さが画面から伝わる。「その男、凶暴につき」のレイプシーンの寒々しさもその一例だろう。エロティシズムのかけらもない描写だった。

だが、それこそが暴力の正体なのだと思う。多くの映画は観客を煽るようにレイプシーンをエロチックに、暴力シーンを心躍るアクションのヤマ場として描いている。多かれ少なかれ、どんな映画もそのことから逃れられない。

だが、北野武作品の暴行シーンや凌辱シーンは生理的な嫌悪感を催すだけである。たとえば「ソナチネ」では、一方的に殴りつけられ血まみれになるヤクザの顔を真っ正面から撮影し続ける。殴るビートたけしは一切写らない。ヤクザの襟首をつかむ左手と繰り返し殴りつける右手だけが描写される。

また「BROTHER」では、マフィアの男の鼻に割り箸を差し込み、その割り箸を思い切り叩きあげるという描写がある。僕は映画館で思わず顔を背けた。

「BROTHER」の公開前にテレビ取材を受けた北野武は「あれ、痛いでしょ。暴力って痛いんですよ」と言っていたが、その時に僕はエンタテイメントではない暴力を描こうとしている北野監督の志を感じた。

もちろん、北野武もエンタテイメントとしての暴力を排除することはできない。日本のヤクザがアメリカに乗り込み、マフィアたちを45口径の銃で皆殺しにするシーンにある種の爽快感を感じるのは否定できない。

「HANA-BI」では銃弾を受ける大杉漣のシーンでスローモーション描写を使う。飛び散る血しぶきは高速度撮影され、スクリーン上で赤く美しい動きを見せる。それは、かつてサム・ペキンパーが完成させた暴力描写とは似て非なる暴力の美化に他ならない。

もちろん僕は映画で描かれる暴力がリアルであるべきだと言っているのではない。映画はあくまでフィクションだ。黒澤明が「椿三十郎」で発明した斬られて勢いよく吹き出す血しぶきも、深作欣二が「仁義なき戦い」で完成させた手持ちカメラで描く迫真の暴力シーンも僕は大好きである。

映画は活劇だ、というのが僕の持論であり、アクションの魅力こそが映画の核だと思っている。だから逆に北野武作品の暴力描写のあまりのリアルさに驚き、違和感すら感じてしまう。しかし、そんな北野映画であってもスクリーンの中で描かれている限り、暴力は自分には火の粉が降りかからない架空の世界の見せ物である。

三十年近く前のある夜、僕は他人から殴られるという経験をした。今となっては、そのことをよかったと思う。そうでなければ、映画で描かれるエンタテイメントとしての暴力しか知らず、僕はいつまでも現実の暴力のおぞましさを理解できなかっただろう。

●絶え間ない不安感にさいなまれた頃

自分が何者なのか、どんな人生を送るのか、将来はどうなるのか、今、自分がいる場所は本当に自分がいるべきところなのか。言葉にすれば、そんな不安と怖れが混沌としながらいつも気持ちのどこかにあり、いつどこにいてもその想いに迫られている…。一種の強迫症である。そんな時代が僕にもあった。

僕は24歳で、結婚し、勤め始めた会社でも自信なく生きていた。自分が役に立っているのかどうか、判断がつかなかった。毎朝、憂鬱な思いで目覚め「あーあ、遊んで暮らしたいなあ」と、つきあいだけは長いが結婚したばかりのカミサンの顔を見てぼやき、朝食をとる時間もなくアパートを飛び出す日々だった。

どことなく体の具合が悪くなったのは、精神的なものだった。「家庭の医学」を開いて、不定愁訴症候群とか過敏性大腸症候群という病名の項目を読んだりした。生活できないというほどではない。しかし、出かけたり、電車に乗ったりすると不意の腹痛に襲われる。緊張した時のように脈が速くなり、不安感に襲われる。

耐えられそうにない腹痛は、自宅に帰った途端、電車を降りてトイレに入った途端に消える。精神療法がよいと聞いて、自己暗示療法というのを試してみた。暗い部屋に横たわり目を閉じて自己暗示をかけていくのである。しかし、あまり効果はなかった。自宅に閉じこもっている限り体調は快適だった。

一番プレッシャーがかかったのは、仕事でいく年に一度の撮影会だった。三泊四日くらいだったが、大勢の読者を連れてあちこちバスで移動するのである。その頃の僕はバスに乗れなかった。いつ耐えられない腹痛に襲われるか、緊張していると心臓が文字通り早鐘のようになる。

それに加えて神経質なたちで、誰かと一緒の部屋だと眠れなかった。撮影会では数人が一部屋になる。僕は三泊の間ろくに睡眠をとれなかった。そんなわけで、僕には毎年やってくる撮影会が苦行だったのだ。撮影会が終わると、解放感に充たされた。

二十代に痩せていたのには訳がある。僕は昼の定食なども半分以上が食べられなかった。酒を呑むと翌日の体調がひどいので、あまり呑まなかった。今、僕は小太りという範疇に入る体型になってしまったが、二十代は170センチの身長で体重は50キロだった。ウエストは70センチほどだった。

そんな状態が何年も続き、ある日、たまらずに医者にいった。心療内科である。医者は「子供でもできると変わるんだけどね」と諦めたように言い、「精神安定剤を飲んでみますか」と続けた。「続けるとよくないんだけどね。自分の気持ちの問題だから」と否定的だった。

しかし、精神安定剤は効いた。快調だった。何年も黒い雲が立ちこめ、どんよりと暗かった世界に青空が現れたようだった。見たことがなかった陽の光が差し込んできたようだった。いきなり、自分の人生が開け、僕はその高揚感に戸惑った。

●薬で作られたハイな気分が不幸を招いた

反動はくる。その頃に初めて僕は他人に殴られた。大学時代、体育の単位はボクシングでとったけれど、今まで僕は人を殴ったことはない。カミサンと喧嘩して壁を蹴飛ばし大きな穴を開けたことはあるが、手をあげたことはない。およそ暴力とは遠いところで生きてきた。

その夜、僕は会社の先輩と阿佐ヶ谷の学生時代からのなじみの店で呑んでいた。なじみといっても僕が頻繁に通っていたわけではない。大学時代の友人たちの多くが阿佐ヶ谷近辺に住んでいて、その酔っ払いの友人たちがよく通っていたのだ。

親父さんは熱烈な大洋ホエールズのファンだった。僕は広島カープのファンとして認知されていて、僕が顔を出すと「おっ、カープがきたな」と親父さんはいつも忌々しそうに言った。しかし、それが歓迎の言葉であるのは、ニュアンスでわかった。

その馴染みの店を出てアパートへ帰る途中、薬のせいか高揚した気分を持続したまま「もう一軒いこう」と僕は言った。節制していた分だけ、反動がきているようだった。僕はカミサンを呼び出し、先輩と三人で再び呑み始めた。

隣でふたりの若い男が呑んでいた。僕は話に夢中で、彼らがどんな風に呑んでいたのか気が付かなかった。顔を振るたびに、僕の斜め前にいる男と目が合う。後から考えると視線でからんできたのだろうけど、僕はニコッと笑って目をそらした。

薬のせいもあったのかもしれないが、その頃の僕は世間の悪意というものをまったく感じられなかった。何度も目が合うので不思議に思い、隣のふたりが席を立つ時に「よく目が合いますね」と声をかけてしまった。その後に起こったことを考えると、バカなことをしたものである。

彼らが出て30分ほどたってから僕らも席を立った。その店は二階にあり、僕らはおぼつかない足取りで階段を降りた。僕が階段を降りきった時だった。「お兄ちゃん、待ってたよ~」という声がして、斜め前のシャッターが降りた店先から先ほどの男たちが姿を現した。

その瞬間、カミサンはいきなり逃げ出した。その頃、ヒットしていた「嗚呼!花の応援団」というマンガに出てくる青田赤道のように両足が回転しているように見えた。それをボンヤリ見送っていると、ふたりの男は僕の胸ぐらをつかんで路地に連れ込んだ。

僕がボンヤリしていたのは、30分も店の前で待ち伏せしていた彼らの執念に異常さを感じたからだ。彼らの狙いは僕だった。先輩が「話せばわかる」と割って入ろうとすると「あんたはあっちへいってろ」と押し戻される。それでも酔っ払った先輩は「あんたたちの誤解だ」と説得しようとしていた。

……しばらくしてアパートにたどり着くと、恐る恐るドアを開けたカミサンが「もう、いないよね」と言った。ネクタイがちぎれ、ズボンが破れた姿の僕のことは眼中になかった。「あの人たち、ずいぶん荒れて呑んでいたのに気が付かなかったの」と声を荒げる。

まったく殴られなかった先輩は「やっぱり、理不尽な悪意は存在するんだな」と妙に分析的なことを言っていた。その日、突然、自分を襲う理不尽で訳のわからない悪意の存在を僕は文字通り身をもって教えられた。そして、振るわれた身であっても、暴力はひどく人の気持ちを落ち込ませるものだと知ったのだった。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
「殴られる男」は気が弱くパンチ力のない大男のボクサーが出てくる、ボギーことハンフリー・ボガートの遺作映画です。去年、WOWOWでようやく見ることができました。ありがたいですね。

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■Otaku ワールドへようこそ![26]
理系の感覚はズレているか

GrowHair
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●いきなりですが、問題です

下記、上の段の(1)~(5)の各文字に対応する「仲間」の文字が下の段の(a)~(e)にひとつずつあります。それぞれ結びつけてください。

(1)一(2)号(3)包(4)山(5)同
(a)久(b)〒(c)弓(d)パ(e)向

自作問題です。ヒネリも何もない、いや、多少ひねってはありますけど、意地悪問題ではなく、まっとうな問題です。難易度はどの程度のもんかと周りに試してみたところ、まだ誰も解けた人がいません。降参した人に答えを言うと、「あーなるほど。そりゃー、一生考えても分からんねーよ」と言われます。げげげ、そんなに難しかったとは。じゃ、ヒントを出します。

(ヒント 1)読み、意味、用法は関係なく、純粋に字面の問題です。
(ヒント 2)「一」と「S」は「仲間」です。
(ヒント 3)でも、「白」と「臼」は「仲間」ではありません。
(ヒント 4)「凸」と「凹」は「仲間」です。
(ヒント 5)「凸」と「凹」は「口」や「○」とも「仲間」です。
(ヒント 6)「白」は「巴」となら「仲間」だったりします。
(ヒント 7)「臼」はなんと、「上」や「下」と「仲間」だったりします。

これでずっと引っ張っててもしょうがないので、答えを言います。

「仲間」の基準は、線のつながり具合が同じということです。どういうことかと言うと……。例えば、やわらかい針金のような材質を考えて下さい。折り曲げたりまっすぐに伸ばしたり、引き伸ばしたり縮めたり、回したり動かしたりはできるけれど、ちょん切ったりつなげたりはできないものと思って下さい。

例えば「一」という形を作って、これをぐにゃぐにゃっと曲げると「弓」という字になります。だから「一」と「弓」は「仲間」です。「○」からは「口」や「凸」や「凹」が作れます。だからそれらはみな「仲間」です。だけど「○」を「一」にするにはちょん切らないとならないので、「仲間」ではありません。

この調子で見ていくと、
(1)一 -(c)弓
(2)号 -(e)向
(3)包 -(b)〒
(4)山 -(a)久
(5)同 -(d)パ
が互いに「仲間」であることが分かります。
いかがでしたでしょうか? 調子が悪くなったりしてなければいいのですが。

●何が言いたかったか?

いや、時として、自分は一般の人々と感覚ずれてるんかいな、と思えることがありまして。ぼろっと理系のジョークが出てしまい、それが誰にも理解されなかったりして、ちょっとしたショックと一抹の寂しさを感じるわけです。で、こういう試みがうまくいくかどうか、いまひとつ自信がないのですけど、一度、その種の理系ジョークを解説しておけば、以降、通じやすくなるのではなかろうかと、思ってみたわけです。

さて。前述の問題で「仲間」の基準となっている「線のつながりぐあい」をトポロジーと言います。トポロジーはゴム膜の上の幾何学とも言われ、連続的に変形しても変わらない性質を調べるものです。これに慣れ親しんでくると、似てる、似てないの感覚がゆがんできます。で、こんなジョークがあります。
 Q:トポロジストとはどういう人か?
 A:ドーナツとコーヒーカップの区別がつかない人。

●理系の人たちは野暮ったい?

今でこそ萌え萌えタウンと化している秋葉原ですが、その前の時代にあの辺を席巻していたのは、理工学系の人たちです。パーツ屋に群がる無表情のオニイサンたち。アキバ系とかA系と呼ばれるファッションだって、その呼び名こそ目新しくあれ、実体は昔からありました。機能性重視、見た目には無頓着ということで、野暮ったさの骨頂ですね。

そう言えば、理系のファッションセンスのなさを笑うジョークもあります。「世界一短い本」というカテゴリーがありまして。例えば「美術史専攻者のための就職ガイド」、「デトロイトの観光ガイド」、「男性が女性について知っていること」などがあり、要するに「中身を書こうにも、何もない」という洒落なわけです。その中のひとつに「エンジニアのためのファッションガイド」というのがあります。何とかなるのではないかと期待する方が間違っている、どうにもならん、ということですね。

理系の人間の野暮ったさは、ファッションだけではありません。時として内輪受けのジョークを飛ばして、場の興をぶち壊しにすることがあります。例えば果物のアボカドが出てきたとき、思わず「6.02掛ける10の23乗」と言ってみたくなります。それ、アボガドロ数、ね。

夏の夜空にどーんと上がった花火を見て、「ごらん、あの赤はストロンチウムの炎色反応だよ」などと言おうものなら、せっかくのロマンチックな空気は木っ端微塵、百年の恋も冷めるというものです。それを意識すればするほど、ますます言ってみたくなるところが、理系のいけないところですね。

性格も、人づきあいの得意な人はなかなかいないようで。
 Q:内向的な数学者と社交的な数学者はどうやって見分けるか?
 A:内向的な数学者は、しゃべるとき自分の靴を見ているが、社交的な数学者は相手の靴を見ている。

数学者が出てきましたけど、理系の中でも、現実世界からの乖離が一番甚だしいのは、やっぱ数学者でしょう。

 エンジニアは、数式というものは現実世界を近似したものだと考える。
 物理学者は、現実世界が数式への近似であると考える。
 数学者は現実のことなんか、知ったこっちゃない。
 
 13次元空間の幾何学に関する講義を聴講した後で、
 エンジニア「13次元の空間なんてどうやったら直感的に把握できるんだ?」
 数学者「そんなの簡単。一般のn次元の空間を思い浮かべておいて、nを13に設定すればいいんだよ」

そういう広々とした空間に暮らしていると、現実世界なんて些末なこと、どうでもよくなってきますね。よく、コンピュータゲームなんかにハマってると、現実世界との関わりが希薄になるとか何とか批判する人がいますけど、それがいけないと言うのなら、数学屋はその最たるものなんですがね。

あ、そう言えば、スウィフトの「ガリバー旅行記」では、空中に浮かぶラピュタ島に住む数学者と音楽家がけちょんけちょんにやられてましたっけ。いつも抽象的な思索にふけっているので、会話を始めるにも、棒でつついて意識を現実世界に呼び戻さないとならない、とか。やっぱいけませんか。

抽象的と言えば、ごちゃごちゃした話に業を煮やしたときなど「もっと分かりやすく、抽象的に話して下さい」と言いたくなりませんか?

数学屋の間で定番の内輪ウケネタとして、余白ネタがあります。これはフェルマーの定理に端を発しています。1637年、フェルマーは、愛読していた本の余白に「x^n+y^n=z^n(x^nは「xのn乗」のこと)で n≧3のとき、x, y, z は正の整数解をもたない。」という予想を書き込んでいます。

さらに、「驚くべき証明を発見したが、これを記すには余白が狭すぎる」と書いて、その内容を明らかにしませんでした。おかげで後の人たちが360年にもわたって悩み苦しむことになり、1994年になってやっとワイルズが肯定的に解決しています。

フェルマーが本当にこの証明を頭に描いていたのかどうかは、疑問視する声もあったりします。そういうわけで、自分の失敗やら実力不足やら手抜きやら何でもかんでも余白が足りなかったせいにして片付けようとする、悪ノリ連中が後を絶ちません。世の中のありとあらゆる問題を吸収してくれる、便利な余白であります。

ところで数学屋に向かって「それが何の役に立つのだ」というのは禁句です。

 学期が始まってまだ2週目くらいに、微分積分のクラスで、生徒が挙手して質問した、「それが実生活でいつか必要になるときがあるのですか」。教授は穏やかに笑って「もちろんありませんよ。君の言う実生活がマクドナルドのバイトでハンバーグをパタパタやることならね」。

本気で怒っちゃった先生もおられたようで。

 テキサス出身の数学教授に、生徒が質問した、「数学って何の役に立つのですか」。教授いわく、「そういう質問にはうんざりだ! 誰かを初めてグランドキャニオンに連れて行ったとき『これが何の役に立つんだ』って言われたらどうだ? 崖から蹴り落とすだろうよ!」。

音楽が何の役に立つのか、とベートーベンに聞くようなもんですね。そうそう、数学も芸術なんですよ、芸術! あ、そうか。それで、分かりました。社会の中での数学屋の居場所って、売れない芸術家と大差ないんですね。
 Q:数学の博士号と大きなピザの違いは?
 A:大きなピザがあれば、4人家族が飢えを凌げる。
 
数学じゃ家族を養っていけないようで。それじゃマクドナルドのこと、言えないじゃん。この不遇の根源は、この世がたったの3次元でしかないってことですかね?

●仕上げの問題

以上のことを踏まえて、ひとつ秀逸なのをご紹介しましょう。カッコ内は私の副音声なので、必要のない方はオフにして読んで下さい。

 エンジニアと物理学者と数学者は牧草地に案内され、そこにいる羊の群を柵で囲って、しかも、その周囲長をできる限り節約してほしいと言われた。
 
 まず、エンジニア。彼は適当な円形の柵を作ってその中に羊を追い込んで、宣言した。「与えられた面積に対して周囲長を最小にする形は円形だ。だからこれが最もよい方法だ」(面積が与えられている場合ならそうだけど、この問題はそれとは無関係。えてして生半可な知識を適当に適用して悦に入っているエンジニアの間抜けっぷりを笑いものにしている)
 
 次は物理学者。彼女は羊の群の周りに十分大きな半径の円形の囲いを立て、それをきつく絞り込んでから、こう宣言した。「これが羊の群を囲う最小の長さの柵でしょう」(それ、正解。こうしてできる形を凸包という。それを言われてしまっては数学者の出る幕はなさそうに思えるが)
 
 最後に数学者。彼はこの問題についてしばらく考えをめぐらした後、自分自身の周りに小さな柵を立て、こう宣言した。「私のいる側を外側と定義しよう!」(おおっ! そんな答えがあったか! 円形にしろ凸包にしろ、閉じた曲線で囲いを立てるということは、地球の表面を2つの領域に分断するということで。トポロジカルには、どちらの領域が外側か内側かを必然的に決定する根拠はない。だから、単なるラベル付けであり、どっちをどっちと決めても構わない。ならば自分を小さく囲っておいて、自分のいる側を「外側」とラベル付けしてやれば、羊の群のいる側は必然的に「内側」となり、題意を満たす。大長考の末に、決して間違っているとは言えない答えを出すが、ものの役には立たないという数学者の特徴を見事に描写している)

いかがでしたでしょうか。理系の人間が、卓抜した発想力と独自の美意識をもった、愛すべき人々であることがお分かりいただけたでしょうか。

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
カメコ。驚くべきジョークを思いついたが、余白が足りなくて...。
(これを言いたいがための本文だったわけです)
< http://www.geocities.jp/layerphotos/
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■編集後記(4/14)
・80代半ばの父が入院した。脳外科の一番安全な手術だという。術後はとっても快調になりますよと医師から言われたらしい。見舞いに行ったら、たしかに調子は悪くなさそうで安心した。なにしろこの親父ときたら、ずっと前から冗談なのかボケているのか、家族でさえわからない発言をする粋なキャラクターなのだ。普段はどちらかというと無口なほうなのだが、時々ぼそっと言うことの1/3くらいは冗談である。さすがに80歳を過ぎてからは、記憶違いや勘違いもあるようで、ときにはトンチンカンな会話になったりした。体力はだいぶ弱ったとはいえ、いちおうかくしゃくとした老人である。そこで、やはり問題なのは、ボケているのか、トボケているのか、さらにわかりにくくなったことだ。母によれば、やはりボケてきているので困ったと言うのだが、話してみるとごく普通である。昨日も入院先で会話したが、この患者は場所柄をわきまえずブラックなジョークを飛ばしていた。兄に聞くと、たしかに手術前より頭も冴えているようだし、歩くときの足の動きもいいとのこと。そんな手術なら、わたしもしてみたく、はない。ところで、親父の見舞いに兄弟ってのはまことに間がもたない。3人でとくに話すこともない。明るく世話好きな兄嫁の存在は本当にありがたかった。(柴田)

・先週書いた「秘伝書」があったって。良かったね。極真空手じゃなかったのね。/ボウケンジャーのエンディングを聞くと、SIAM SHADEを思い出してしまう。/海外もののリビング系番組には、女優やミュージシャンたちがたびたび登場。MobyのCafe「teany」は別れた彼女と一緒にやっているんだって。僕たちは恋愛関係よりビジネスパートナーとしての方が上手く行く、なーんて話していた。煎茶に苺やラズベリーの香りをつけたお茶が売られていたが、どんな味なのだろう。と調べていたらオープンしたのは数年前。番組も数年前のものってことか。こういう番組で、日本語の刻印のある包丁を見ると、ちょっと嬉しかったりするよ。(hammer.mule)
< http://www.nikkansports.com/general/p-gn-tp0-20060413-18366.html
> 秘伝書
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>  玉露はベストセラー

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