あけましておめでとうございます。正月はいかがお過ごしでしたでしょうか。私は迷わず、萌え正月。年末の3日間(コミケ)で読むものを買いまくり、年始の4日間で買ったものを読みまくり。読んでも読んでもまだまだ読むもんあって。なんか、幸せ〜。サークル参加(もの書いて売る側)の皆々様が追い込みの修羅場をくぐり抜けてきた賜物として世に送り出された宝の山に囲まれてる気分です。四十路越えのおっさんが「迷わず萌え正月」とか言ってるのもどうか、ってツッコミを入れたくなるかもしれませんが、この山を越えちゃうと、かえって覚悟が座って奔放に突っ走れるようなところがあって、まあ、これも一種の不惑の境地かなってことで。
重点的に回ったのは評論系。なので、収穫物はやけに文字が多い。小さい冊子に細かい文字がびーっしりと。そんなのがどさどさっと。みんな、よく書くねぇ。というわけで、今回はコミケのレポートと、面白かった同人誌の紹介を日記風につらつらと書いてみようと思うわけですが、どうも今回の特徴として「萌えの行き詰まり感」があちこちで言われているのが気になったところで、その辺に焦点を当ててみようかと。つらつらのつもりがついつい理屈っぽくなってしまったら、それは故障ではなく、もともとの仕様です。
重点的に回ったのは評論系。なので、収穫物はやけに文字が多い。小さい冊子に細かい文字がびーっしりと。そんなのがどさどさっと。みんな、よく書くねぇ。というわけで、今回はコミケのレポートと、面白かった同人誌の紹介を日記風につらつらと書いてみようと思うわけですが、どうも今回の特徴として「萌えの行き詰まり感」があちこちで言われているのが気になったところで、その辺に焦点を当ててみようかと。つらつらのつもりがついつい理屈っぽくなってしまったら、それは故障ではなく、もともとの仕様です。
●東浩紀氏の哲学的オタク論
著者名に「東浩紀」とある小冊子を発見。東氏の著書は「動物化するポストモダン—オタクから見た日本社会」(講談社、2001年)を読んだことがある。東氏は、リオタール、フーコー、ドゥルーズ、デリダなどのフランスの哲学者に代表される「ポストモダニズム」と呼ばれる現代思想を専門に研究する哲学者で、現在は、東京工業大学の特任教授。ポストモダニズムというのは、1970年あたりを境に、政治、産業、道徳、芸術など様々な方面でそれまでの近代的な価値観が崩壊し、時代区分が近代からポストモダンへと移行したことに伴って起きてきた思想である。イデオロギー的な、いわゆる「大きな物語」が崩壊した後では、思想的な背景を欠いた表層的・記号的なものの集まりが、時代の主役の座に上るようになったとする。フランスの社会学者ボードリヤールは、このように形だけあって魂の入っていない創作物を「シミュラークル」(オリジナルなきコピー)と呼んだ。
先の著書も、ポストモダニズムの思想をベースにしてオタク文化を論じたもので、オタクをポストモダン時代の代表格と位置づけている。近代文学においては、作品として表層に現れた物語の背後には、宗教的・哲学的思想や、自我の確立を求めて苦悩する個人の内面や、既存の価値観への疑問の提起などが透けて見えるが、これと対比して、オタク向けコンテンツは背後に「データベース」があり、前面に「シミュラークル」があるという無機質な二層構造が読みとれる、としている。
つまり、漫画やアニメなどは、もはや「鑑賞するための作品」というよりは「消費するためのスナック菓子」みたいなもんで、それを大量生産する仕掛けとして、消費者が喜ぶ断片的な「萌え要素」を整理したデータベースがあって、そこから適当に要素を抜き出して組み合わせた形で、シミュラークルとしてのキャラクタやストーリーが構成されていく。いわゆる「お約束」的要素のかき集め。
これは、大塚英志氏が「物語消費論」で提唱した論を一歩進めた形とみることができる。大塚氏の論では、オタク向けコンテンツは、背後に「世界観」がまず構築され、そこから切り取った断片的描写として作品がある、としている。したがって、作品を通じて世界観に到達できた読者は、登場人物や設定を借りてきて、二次創作という形でいくらでも類似作品を生み出すことができ、それらはオリジナルと同等の価値をもちうるとしている。東氏の論では、それよりもいっそう機械的・工業製品的なものとなる。
さて、私は東氏の論は現代思想の咀嚼とオタク事情の観察の両方の上に成り立っていて、非常に説得力があると思う。実際、萌え要素満載の「デ・ジ・キャラット」や、12人の妹が無条件で慕ってきてくれる「シスター・プリンセス」や、教師として赴任した中学校のクラスに31人の女生徒がいる「魔法先生ネギま!」などを見ていると、データベース—シミュラークル構造が実感として納得させられる。
その一方、何か、オタク文化の部分的な側面しか見ていないような、不完全な論という印象も否めず、多少の物足りなさも感じていた。「消費」されることを前提とした工業製品のような作品も多い一方、じっくりと「鑑賞」するに値する純文学的な作品だって多くある。「デスノート」や「のだめカンタービレ」や、19世紀イギリスのメイドの生き方を描写した「エマ」や、オタクの生態を描いた「げんしけん」や、引きこもりの生態を描いた「NHKにようこそ」や、萌え要素を盛り込んで喜劇的に見せていながら実は悲劇だったりする「ローゼンメイデン」は、萌え作品などでは断じてなく、読後感は近代文学のそれに近いものがある。それは「動ポモ」以降に現れた「次のステージ」なのかもしれず、東氏のその後の論をぜひ聞きたいと思っていたところである。
ということで、こんなところで東氏の著作にばったり出会えるのは嬉しい限りなのだが。しかし、待てよ。講談社から本格的な社会評論本を出すような大先生が、コミケで売ってる同人誌に寄稿したりするもんかね? アヤシくないか? で、売り子さんに聞いてみる。「これ、ホントに東浩紀氏が書いてるんですか?」。「はい、私が書きました」。
えーーーっ、ご本人?! うわ、やっちまったぃ。どうも失礼しましたあっ!ところで東氏は、「メカビVol.2」の中で、「もう、萌えで引っ張っていくには限界がある」と萌えの行き詰まり感を訴えている。猫耳、尻尾、メガネ、ドジっ子、お姉さまキャラなどの萌え要素の組合せについて、「これはあり」、「これはないだろ」という基準が洗練されてきて、「涼宮ハルヒ」シリーズあたりでほぼ完成形に来ちゃった。何とか突破口を見出せないか、という話をしている。
私は、伝統芸能の様式美のようにワンパターンに収斂していく流れがひとつありながら、並行的な別の潮流として、純文学回帰という傾向も出てくるのではないかと思っている。つまり、近代小説のようなテイストの、個人の内面の苦悩と葛藤を描いた重厚な作品が見直されてくるのではないかと。例えば山本周五郎の「さぶ」は1966年にテレビドラマ化されているが、これなんて、アニメ化したら、けっこうウケそうな気がする。腐女子に。
●一皮剥けたのか? 岡田斗司夫氏、初の下ネタ披露
夏コミに引き続き、今回もオタキングの岡田斗司夫氏ご本人が売っていた。前回入手した「オタク・イズ・デッド」には5月に新宿ロフトプラスワンで開かれた同名のワンマントークショーの内容が掲載されていて、これが斬新で衝撃的。このコラムでも話題に取り上げた。
今回も新刊を楽しみにして行ったところ、「月刊岡田斗司夫」が4か月ぶりに発行されていた。これが第3号。目玉は、6月27日にロフトプラスワンで行われた、お下劣系漫画家・田中圭一氏との対談。そっち方面の話題全開で。学生時代にどんな妄想を頭に描いて自家発電に励んだかをお互いに披瀝しあうという企画。「大河オナニーを語ろう!」
まさにそこが知りたかったという核心を衝いた内容で、大変ためになった。……わけはないが、爆笑ものであった。青春のどす黒いエネルギーのマグマから湧出する壮大でお馬鹿な妄想の数々。CM抜きで3時間かかるひとりロールプレイとか。岡田氏の持ちネタは、ザ・ハーレム、ザ・媚薬、銀河帝国の興亡、地球最後の男、女王学園、密室サバイバル。オタクから妄想を取ったら何も残らないのだから、この方面で人に負けては面目が立たぬってもんだが、さすがはオタキング、オタクの第一人者としての貫禄を示してくれた格好だ。通販で取り寄せできるようです。
さて、もうひとつの目玉は、岡田氏が落語をやるという話。と言っても正統派の噺家になりたくて修行を積んできたわけではないので、多方面で培ってきた話術を生かして、破天荒なことをやろうということらしい。
私はまるで不案内なのだが、岡田氏が「今の落語はどっから見てもだめだな」と批判するのを読むと、「ほんとにこりゃだめだ」と深く納得させられてしまった。要するに、ポストモダンの潮流を取り込めていないのである。「落語とはかくあらねばならぬ」という古い教条主義の牙城が、なぜか崩壊せずに保たれ、時代の潮流を顧みて変化する気配がないのである。
私は、昨年の11月中旬、やっぱり不案内な方面でありながら機会があって、日本橋高島屋へ「草月いけばな展」を見に行ってきたのだが、このときは心底ぶったまげた。伝統的な「生け花」のイメージを木っ端微塵にしてくれる前衛っぷりに。折り曲げギャザーのついたカラフルなストローを生けてみたり、木の幹に活版印刷の鉛の活字を植えてみたり、生姜の根っこを何十個か円環状に転がしてあるだけだったり、薄いヴェールをまとった木がコスプレイヤーみたいだったり。いやいや、なんかすごいことになってる。いまさら「こんなのは生け花じゃない」なんて寝言言ってたりしたら、作品から笑い返されそうなくらい、突き抜けちゃってる。
それにひきかえ、落語界は淀みっぱなしで、末期的症状を呈しているらしい。そんな「落語1.0」には見切りをつけ、岡田氏が「落語2.0」で枯れ木に花を咲かせましょう、ということのようで。キャッチフレーズは「メイド喫茶に行くように落語を聞いてほしい」。これは楽しみだ。
ただ、ちょっと懸念されるのは、どんな芸でも守・破・離の段階を踏んでマスターしていくと言われているように、まず、基本をしっかり身につけた上で壊しにかからないと、単に奇をてらっただけの底の浅いものに終わってしまいかねない、という点。ピカソだって子供のころは遠近法に基づいた正統派の絵を描いていたわけだし、草月いけばな展でもジュニアのコーナーでは伝統的なのを上手にやっていた。私見だが、ライトノベル作家だって、近代文学の代表的なところぐらいは踏まえた上で書いてほしいなー、とは思う。その点で、「古典の勉強なんて野暮なこと言うな」という岡田氏の姿勢にはちょっと不安を感じなくもない。
ま、いいや。1月21日(日)に渋谷で「落語2.0お勉強会」をやるそうだから、見に行ってみましょうかね? あ、共演者のひとりである前立亭茎丸さんって、下ネタ対談のときの田中圭一氏ですか。はい、そっちも楽しみです。
< http://putikuri.way-nifty.com/blog/2006/12/2_5a70.html
>
●萌学協会も脱萌え傾向を指摘
萌学協会の竹林賢三氏にも会うことができた。竹林氏は前年度、大学の卒業研究テーマとして「萌え」に取り組んでおり、去年の冬コミで見つけた「萌法序説」が「萌え」を学術的に掘り下げて興味深く、ここで紹介した。
今回は新刊が間に合わなかったということで、それの準備号みたいな形で「時事萌談」というコピー本を無料配布していた。これも期待にたがわず洞察鋭く、特に、「デ・ジ・キャラット」と「ウィンターガーデン」を比較して、注目すべき考察をしている。ウィンターガーデンは12月22日(金)、23日(土)の深夜に放送されたアニメで、デ・ジ・キャラットの舞台の10年後という設定になっている。
ウィンターガーデンはここ数年の「萌え」の動きを象徴しています。東浩紀
氏が指摘するように、「でじこ」はもともとなんらの設定も持たず、「断片
(萌え要素)の力」によって視聴者の想像が促されて成立したキャラクター
でした。しかし、'00年代前半には類型的なキャラクターを並べるだけでは
消費者の支持を得られなくなったことが徐々に顕在化し、人格とストーリー
をしっかりと描き出す方向への転換が見られ始めました。
これは、データベース—シミュラークルモデルによる記号的なキャラクターの行き詰まり感と打開の方向性を示唆する論になっている。
オタクの世界もまた「わが世誰ぞ常ならむ」の例外ではなく、常に地殻変動している。だからこそ、今、流れはどっちを向いているんだ、と常に気になる。コミケの空気を吸っていると、オタク情緒にどっぷりと浸ることができ、ほっとする。石川啄木が「ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」と詠んだ気持ちが分かろうというものである。
【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
カメコ。もちろんコミケでは、コスプレ広場へも。ひいき目を差っ引いてもローゼンメイデンの人形コス、多かったなー。半分くらいは中身が男性だったような気もするけど。年々混雑がひどくなり、ついつい昔はよかったなー、なんて話になっちゃって、年寄りくさくなってたかなー、と。




先の著書も、ポストモダニズムの思想をベースにしてオタク文化を論じたもので、オタクをポストモダン時代の代表格と位置づけている。近代文学においては、作品として表層に現れた物語の背後には、宗教的・哲学的思想や、自我の確立を求めて苦悩する個人の内面や、既存の価値観への疑問の提起などが透けて見えるが、これと対比して、オタク向けコンテンツは背後に「データベース」があり、前面に「シミュラークル」があるという無機質な二層構造が読みとれる、としている。
つまり、漫画やアニメなどは、もはや「鑑賞するための作品」というよりは「消費するためのスナック菓子」みたいなもんで、それを大量生産する仕掛けとして、消費者が喜ぶ断片的な「萌え要素」を整理したデータベースがあって、そこから適当に要素を抜き出して組み合わせた形で、シミュラークルとしてのキャラクタやストーリーが構成されていく。いわゆる「お約束」的要素のかき集め。



ということで、こんなところで東氏の著作にばったり出会えるのは嬉しい限りなのだが。しかし、待てよ。講談社から本格的な社会評論本を出すような大先生が、コミケで売ってる同人誌に寄稿したりするもんかね? アヤシくないか? で、売り子さんに聞いてみる。「これ、ホントに東浩紀氏が書いてるんですか?」。「はい、私が書きました」。

私は、伝統芸能の様式美のようにワンパターンに収斂していく流れがひとつありながら、並行的な別の潮流として、純文学回帰という傾向も出てくるのではないかと思っている。つまり、近代小説のようなテイストの、個人の内面の苦悩と葛藤を描いた重厚な作品が見直されてくるのではないかと。例えば山本周五郎の「さぶ」は1966年にテレビドラマ化されているが、これなんて、アニメ化したら、けっこうウケそうな気がする。腐女子に。
●一皮剥けたのか? 岡田斗司夫氏、初の下ネタ披露

今回も新刊を楽しみにして行ったところ、「月刊岡田斗司夫」が4か月ぶりに発行されていた。これが第3号。目玉は、6月27日にロフトプラスワンで行われた、お下劣系漫画家・田中圭一氏との対談。そっち方面の話題全開で。学生時代にどんな妄想を頭に描いて自家発電に励んだかをお互いに披瀝しあうという企画。「大河オナニーを語ろう!」
まさにそこが知りたかったという核心を衝いた内容で、大変ためになった。……わけはないが、爆笑ものであった。青春のどす黒いエネルギーのマグマから湧出する壮大でお馬鹿な妄想の数々。CM抜きで3時間かかるひとりロールプレイとか。岡田氏の持ちネタは、ザ・ハーレム、ザ・媚薬、銀河帝国の興亡、地球最後の男、女王学園、密室サバイバル。オタクから妄想を取ったら何も残らないのだから、この方面で人に負けては面目が立たぬってもんだが、さすがはオタキング、オタクの第一人者としての貫禄を示してくれた格好だ。通販で取り寄せできるようです。
さて、もうひとつの目玉は、岡田氏が落語をやるという話。と言っても正統派の噺家になりたくて修行を積んできたわけではないので、多方面で培ってきた話術を生かして、破天荒なことをやろうということらしい。
私はまるで不案内なのだが、岡田氏が「今の落語はどっから見てもだめだな」と批判するのを読むと、「ほんとにこりゃだめだ」と深く納得させられてしまった。要するに、ポストモダンの潮流を取り込めていないのである。「落語とはかくあらねばならぬ」という古い教条主義の牙城が、なぜか崩壊せずに保たれ、時代の潮流を顧みて変化する気配がないのである。

それにひきかえ、落語界は淀みっぱなしで、末期的症状を呈しているらしい。そんな「落語1.0」には見切りをつけ、岡田氏が「落語2.0」で枯れ木に花を咲かせましょう、ということのようで。キャッチフレーズは「メイド喫茶に行くように落語を聞いてほしい」。これは楽しみだ。

ま、いいや。1月21日(日)に渋谷で「落語2.0お勉強会」をやるそうだから、見に行ってみましょうかね? あ、共演者のひとりである前立亭茎丸さんって、下ネタ対談のときの田中圭一氏ですか。はい、そっちも楽しみです。
< http://putikuri.way-nifty.com/blog/2006/12/2_5a70.html
>
●萌学協会も脱萌え傾向を指摘
萌学協会の竹林賢三氏にも会うことができた。竹林氏は前年度、大学の卒業研究テーマとして「萌え」に取り組んでおり、去年の冬コミで見つけた「萌法序説」が「萌え」を学術的に掘り下げて興味深く、ここで紹介した。

ウィンターガーデンはここ数年の「萌え」の動きを象徴しています。東浩紀
氏が指摘するように、「でじこ」はもともとなんらの設定も持たず、「断片
(萌え要素)の力」によって視聴者の想像が促されて成立したキャラクター
でした。しかし、'00年代前半には類型的なキャラクターを並べるだけでは
消費者の支持を得られなくなったことが徐々に顕在化し、人格とストーリー
をしっかりと描き出す方向への転換が見られ始めました。
これは、データベース—シミュラークルモデルによる記号的なキャラクターの行き詰まり感と打開の方向性を示唆する論になっている。
オタクの世界もまた「わが世誰ぞ常ならむ」の例外ではなく、常に地殻変動している。だからこそ、今、流れはどっちを向いているんだ、と常に気になる。コミケの空気を吸っていると、オタク情緒にどっぷりと浸ることができ、ほっとする。石川啄木が「ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」と詠んだ気持ちが分かろうというものである。
【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
カメコ。もちろんコミケでは、コスプレ広場へも。ひいき目を差っ引いてもローゼンメイデンの人形コス、多かったなー。半分くらいは中身が男性だったような気もするけど。年々混雑がひどくなり、ついつい昔はよかったなー、なんて話になっちゃって、年寄りくさくなってたかなー、と。

- 定本 物語消費論
- 大塚 英志
- 角川書店 2001-10
- おすすめ平均
ボードリヤールの入門書?
著者の作家としての技術はどう権威付けられるのだろう
ビックリマン世代に読んでいただきたい。
オタクなどという言葉で汚してはいけない。
ビックリマンの理由

- TVアニメ「Winter Garden from デ・ジ・キャラット」OP・ED主題歌&サントラ集「タイトル未定」
- TVサントラ 佐藤ひろ美 片岡知子
- バンダイビジュアル 2006-12-22
- おすすめ平均
懐かしいテイストのサントラです
成長した"でじこ"と"ぷちこ"をもう一度。
- 曲名リスト
- Forget-me-not
- Forget-me-not~winter~
- Les amis(レザミ)
- 恋人たちのテーマ
- ふたりのテーマ
- jingleA
- Le petit jardin(プティ・ジャルダン)
- Forget-me-not~summer~
- 姉妹のテーマ
- 海へ
- jingleB
- Forget-me-not~autumn~
- ウインターガーデン
- Forget-me-not(TV version)
- Le petit jardin(TV version)
- ウインターガーデン(TV version)
- Forget-me-not(Instrumental)
- Le petit jardin(Instrumental)
- ウインターガーデン(Instrumental)

- 神罰―田中圭一最低漫画全集
- 田中 圭一
- イースト・プレス 2002-08
- おすすめ平均
安全の手塚プロ印
てってーてき下ネタ。なれど神懸かり的ペンタッチ。「神罰」なり・・・
手塚関係者の粋なはからいもいいね。
一冊で何度でも笑えるお得な本。
想像以上に最低!