<彼は日本のすべての駅名が言えるようです>
■映画と夜と音楽と…[322]
混濁の世に我立てば…
十河 進
■Otaku ワールドへようこそ![45]
過去・現在・未来:さらっと日々の雑感など
GrowHair
■映画と夜と音楽と…[322]
混濁の世に我立てば…
十河 進
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過去・現在・未来:さらっと日々の雑感など
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■映画と夜と音楽と…[322]
混濁の世に我立てば…
十河 進
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●笠原和夫が思い入れたテロリストの心情
「226」(1989年)という映画が気になっている。当時、松竹の若手プロデューサーとして辣腕をふるっていた奥山和由が派手な宣伝を展開した作品である。僕は公開前に新聞一面に掲載された広告を今でも覚えている。出演者の顔ぶれは豪華だった。大作映画に起用されることが多かった五社英雄が監督した。
五社英雄監督の映画は、力めば力むほど虚しく空転する。この「226」も同様だ。演出に力が入り、登場人物たちの葛藤が高まり、演技者たちが感情をあらわにすればするほど、映画としては空回りする。しかし、「226」という映画は、なぜか僕の心に残っている。もしかしたら脚本を書いた笠原和夫の思い入れの強さに感応したのだろうか。
笠原和夫は「仁義なき戦い」(1973年)の完成試写を見た後、自分のシナリオを深作欣二がメチャクチャに壊したことを不満にスタッフルームにこもったという。笠原和夫は、戦争中の自己の想いを若いヤクザ群像に託した。広能昌三が敵対する土居組組長を殺しにいく場面では、テロリストの目で相手を刺し貫くことを望んでいた。
その笠原和夫の想いは「仁義なき戦い 広島死闘編」の主人公・山中に再び託される。山中はテロリストとして広島ヤクザ戦争の中を蠢き、多くのヤクザを殺し、最後は自決する。山中が体現したテロリストの肖像は、おそらく2.26事件の青年将校や戦争末期の特攻隊員と重なるものである。
自らの死を見据え、覚悟し、そのうえで思想のために、志のために、人を殺す。自らの死の覚悟と志の高さがなければ、人の命を奪うことなどできない。思想や志に殉じなければ、いくら国賊と見なす相手であっても、銃口を向け引き金を絞ることなどできるはずもない。
おそらく、そうした精神性が「226」を印象深い映画にしている。「226」が見る者の心を動かすのは、青年将校たちが志半ばで投降し、兵を原隊に復帰させなければならなくなってからである。首謀者の青年将校たちは、絶望する者、自決する者、わずかな希望にすがる者…、様々に反応する。だが、彼らの想いは見る者に伝わってくる。
もちろん何かを思い詰めた人間、信じ切った人間は、怖い。「226」の青年将校たちもそうかもしれない。思想的な支柱であった北一輝、彼を信奉し昭和維新を断行するために、皇道派の青年将校たちは決起する。彼らは幕末の志士たちに自らを重ねているのかもしれない。ヒロイズムに陥りがちな状況だ。
時代状況を端的に語るセリフがある。「軍隊に入って初めて白い飯を食ったという兵隊がいっぱいいる」と聞けば、当時の貧しさがうかがえる。「おまえたちの姉や妹が貧しさ故に身を売っている。そんな状況を変えるのだ」と青年将校のひとりは、決起前に兵士に訴える。
「俺たちがやらねば誰がやる」と、彼らは思ったに違いない。ヒロイズムがなければ革命もクーデターも起こせない。確信がなければ、大臣を射殺することはできない。大恐慌の時代である。特に貧しかった東北の農家では、娘たちを売ることで飢えを凌いでいたという。
●2.26事件はロマンチシズムの文脈で語られてきた
2.26事件について歴史的事実は知っていても、詳しいことを知っているという人はあまりいないかもしれない。僕もそうだった。青年将校たちが国を憂い、世の中を変えるために決起した。政府の要人たちを射殺し、警視庁など主要な場所を占拠したが、詔勅により反乱軍となったため数日で投降した。青年将校たちはほとんどが銃殺になった。その程度の知識だった。
「226」は、そうした事実を知っていることを前提に物語は進む。しかし、決起した後の軍内部の対立や青年将校たちの分裂を見ると、その背景が詳しく知りたくなる。僕は松本清張の「昭和史発掘」という文春文庫全十巻を持っていたことを思い出した。
松本清張の本を買うことはあまりないのだが、それは団地で古本市をやったときに見付けた。そのとき僕も「鬼平犯科帖」の文庫本二十四巻を出品しすぐに売れたのだが、そのお金で隣で売っていた「昭和史発掘」を買ったのだった。「せっかく少し本が減ったのに…結局、同じじゃない」とカミサンは不満そうにつぶやいた。
「昭和史発掘」は5.15事件から2.26事件にかけての裏面史のようなもので、2.26事件については数巻にわたって記述されている。膨大な資料にあたったもので、調べ魔・松本清張らしい仕事である。しかし、その資料的な記述に戸惑い、僕はパラパラと目を通しただけだった。それでも、青年将校たちが決起した後の軍内部での反乱軍支持派と鎮圧派の対立、天皇の判断などの事情は多少はっきりした。
しかし、2.26事件が語られるとき、多くは国を憂い死を覚悟して決起した将校たちのロマンチシズムが中心になる。たとえば、四十年近く前、利根川裕の小説「宴」はベストセラーになり、その後、テレビドラマ、映画、舞台にもなった。「宴」は、ヒロインの人妻が愛する相手が陸軍の若手将校であり、彼が2.26事件に関わり銃殺となることがわかっているから悲劇性が高まるのだ。
「宴」が話題になったのは僕の高校生の頃だった。利根川裕はベストセラー作家からテレビ司会者になり、顔の売れた小説家になった。僕は「宴」のテレビドラマを欠かさず見ていた。ドラマ版の配役は忘れてしまったが、松竹で映画化されたときは中山仁と岩下志麻が主演した。1967年の公開で、監督は名匠といわれた五所平之助だった。僕はその新聞広告を切り抜いて持っていたが、とうとう映画は見損ねた。
同じ頃、2.26事件を素材に書いた短編「憂国」を三島由紀夫自身が映画化した作品が話題になった。監督・主演であること、2.26事件を背景とし、主人公が切腹するシーンのすさまじさが評判になった。僕は雑誌の記事でそれを読んだが、四国の地方都市での上映はなく、現在に至るまで未見である。
だが、三島由紀夫があまり好きではない僕が「憂国」を読んだのは、映画が評判になっていたからだ。「憂国」は、三島美学に満ち溢れ、青年将校の死へ向かう精神性を描く短編だった。そこにはロマンチシズムとヒロイズムしか感じられず、社会性がまったくない自己陶酔した小説だと十代の僕は思った。
2.26事件の思想的支柱であり、青年将校たちと共に処刑されたという北一輝については、鈴木清順監督「けんかえれじい」(1966年)で憧れをもって描かれる。主人公キロクは、ある日、目の鋭い男に出会い深く印象に残るが、2.26事件が起こり、その男が北一輝であることを知ると、「一世一代の大喧嘩」を見るために戒厳令下の帝都に向かう。
●日本が変わるまで狂い続ける決意
三島美学に共感できないように、僕は大音量で軍歌などを流しながら街をゆく右翼が苦手である。ヒロイズムに浸り、自己陶酔している、男らしさを勘違いしているような人々が好きではない。三島由紀夫の割腹事件のとき、十九歳で浪人中だった僕は驚き、興奮し、ニュースを聞いていてもたってもいられず下宿を出て街をうろついた記憶はあるが、彼の行動はまったく支持できなかった。
2.26事件の青年将校たちは社会改革を目的としたのであり、死を覚悟していたかもしれないが、死ぬことそのものを自己目的としたわけではない。彼らは事ならずと悟ったとき、自ら死をもって決着をつけた人もいたが、多くは軍事法廷で裁かれ処刑された。
2.26事件の中心的な人物は安藤大尉であり、「226」では三浦友和が演じた。最初、青年将校たちのひとりだった彼は、軍内部の鎮圧派が勝利し、反乱軍として鎮圧せよという詔勅が出た頃から目立ち始める。リーダー的存在だった野中(萩原健一)が詔勅によってブレ始めると「俺は日本が変わるまで狂い続けるぞ」と投降を拒否する。
僕の記憶から消えないのは、自分の隊に原隊復帰を命じた後の安藤大尉のシーンである。「昭和維新の歌を唄いながらいってくれ」と安藤大尉が言うと、兵士たちは「ベキラの淵に波騒ぎ フザンの雲は乱れ飛ぶ」と歌いながら行進する。年輩の曹長(川谷拓三)がやってきて、叫ぶように言う。
──中隊長殿、絶対、死んだらあかんきにねぇ…
兵士たちは「昭和維新の歌」を繰り返し歌いながら、ザッザッと軍靴の音高らかに行進してゆく。降り積もった雪を踏みしめながら…。それを見ながら、安藤大尉も「昭和維新の歌」を口ずさむ。その安藤大尉を仰角のカメラがとらえる。ゆっくりと右手が挙がる。彼は拳銃を顎の下に当てる。まだ、口ずさんでいる。兵士たちの行進に重なって銃声がする。
先ほども書いたように僕は軍歌を大音量で流す右翼が嫌いだ。そんな歌でヒロイズムに陶酔する単純な人間ではないと思っていた。だが、日本人で在ることの証なのか、僕の血が騒ぐのか、「226」を見た後、「昭和維新の歌」が耳について離れなくなった。いつの間にか自分でも口ずさんでいる。
汨羅の淵に波騒ぎ 巫山の雲は乱れ飛ぶ
混濁の世に我立てば 義憤に燃えて血潮湧く
権門上に傲れども 国を憂うる誠なし
財閥富を誇れども 社稷を思う心なし
ああ人栄え国亡ぶ 盲たる民世に踊る
治乱興亡夢に似て 世は一局の碁なりけり
昭和維新の春の空 正義に結ぶ丈夫が
胸裡百万兵足りて 散るや万朶の桜花
佐野史郎扮する青年将校が告げる兵士たちへの言葉も記憶に残っている。自分についてきてくれたことに礼を言い、ひもじい思いをさせたことを詫び、「おまえたちを誇りに思う」と高らかに宣言する。事件の核心が何だったのかはわからない。しかし、「226」に描かれた青年将校たちの貧しい者たちへの共感が僕の心に刻まれた。
昭和十一年(1936年)、今から七十年以上前のことになる。国を憂い民を想って事を起こし、破れ、自決した若者たち、処刑された若者たちがいたことを、この時期になると僕は思い出す。彼らの行動が軍の支配力を強め、無謀な戦争へと突き進むきっかけになったのだとしても、その思想と志の純粋さが僕の心をうつのだろう。
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
前回の話で「舞鶴」を間違って「真鶴」としてしまいました。昆虫や植物の種類、魚の種類、鳥の種類など自然科学系は不得意でしたが、地理関係もダメなのが露呈しました。先号が出てすぐに指摘してくれたのは、鉄道マニアの会社の後輩。彼は、日本のすべての駅名が言えるようです。
■第1回から305回めまでのコラムをすべてまとめた二巻本
完全版「映画がなければ生きていけない」書店およびネット書店で発売中
出版社 < http://www.bookdom.net/suiyosha/suiyo_Newpub.html#prod193
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風邪をひいた。と言っても、そんなにひどい状態ではなく、あるかないか程度の微熱と時折の咳に居座られちゃっている感じ。何となく頭がぼーっとして、思考に力が入らないのだが、まあしかし、考えてみると普段からしてぼーっとしてるのだから、そんなに違いはないとも言える。
ここはひとつ、力が入らないのを逆用して、力を抜いて書いてみようと思う。テーマを決めず、日々の雑感みたいな感じで、思い浮かんだことをさらさらっと書き留めていったら、何が出てくるかという実験である。
●究極の風邪薬
小さい頃から、風邪を引くと、喉に来た。で、病院に行くと、いつも褐色の水薬が出された。これがまったりと甘くてコクがあり、それでいて清涼感のある絶妙の味で、風邪をひく楽しみのひとつになっていた。久々にその病院に行ってみたら、同じ薬が出され、ようやく正体をつかむことができた。
ブロチン液。桜皮(おうひ)エキスとも言い、文字通り、桜の皮から抽出した成分である。鎮咳去痰の作用があるという。市販の咳止め薬でも桜皮エキスを配合したものがあるが、配分が少ないのか、あまり美味しくない。桜皮エキスの味は、カルーア(コーヒーのリキュール)に多少似ているが、それよりも清涼感が高い。やはり病院のに限る。
これ、風邪薬にしておくのはもったいない。酒やコーヒーの類の嗜好品として売ることはできないものか。仕事帰りにふらりとメイドバーに立ち寄り、「お帰りなさいませ、ご主人さま」の声に迎えられ、「いつもの」と渋くつぶやくと、ブロチン液がダブルのストレート、チェイサー付きで出てきたりしたら最高だと思うのだが。
●進歩と不満
客観的にみれば、昔よりも今のほうが格段に進歩しているのに、それがゆえにかえって細かい問題点が際立って感じられ、人々の不満が高まってしまうという現象があるようだ。例えば、鉄道の運行の遅れ。30年くらい前を思い起こせば、鉄道なんて遅れるのが当たり前で、故障だの事故だので20分や30分足止めを食らうことぐらいざらであった。人々は、そういうもんだから仕方がないと半ばあきらめているようなところがあった。
今はどうかというと、おそらく機械の技術の進歩や、運行管理・メンテナンスのシステムの進歩などで、全体的には昔よりも遥かに正確に運行されているはずである。だけど、高まった信頼性のおかげで、かえって遅れたときの不満が大きくなっているようにみえる。これでは鉄道技術の進歩に携わってきた人々が浮かばれまい。「生活の利便性は昔よりも格段に向上しているのだ」ということをたまには思い起こし、素直に喜んで感謝することがあってもいいような気がする。
車内マナーの問題も、似たようなところがある。'70年代を懐かしく振り返れば、世の中が活気に満ち満ちていたようにも思えるが、実態はひどい混沌と喧騒だったとも言える。人々は我利我欲をむき出しにして表を歩いていた。まじめに順番なんか守ってられない人、人を押しのけてでもわが道を行く人、ズルしてでも得しようと機会を狙っている人が跋扈していた。
プラットフォームでは、電車のドアの来る位置にいちおう列らしきものができていても、電車が止まるころにはぶわっと崩れてドアを取り囲み、人が降り始めるのと同時に脇のほうから身を屈めてすり入ろうとする人がいたり、空席に向かって猛ダッシュする人がいたりで、足なんて踏む回数と踏まれる回数が大体釣り合ってればよし、という感じだった。世の中には大きな問題がありすぎて、細かいことなど言ってもしょうがないという空気だった。
今は、電車の乗り降りなんて、気持ち悪いくらい整然としている。だけどそれは、昔と比較するからそうなのであって、車内マナーの悪い人に対する不満は、今のほうが高まっているように感じる。実際、ヘッドフォンから漏れるシャカシャカ音は気になるし、ケータイで延々としゃべり続けてる人など、どういう神経してるんだと思う。
世の中の基準が細かくなったということなのだろう。人々が社会に対して、より整然とした秩序を求めるようになってきているところがある。欲望むき出しの醜い姿をさらしてまでちょっとばかり得する実利よりも、そういう人を下に見て「ああはなるまいぞ」と思う誇りのほうを取ろうという態度。実利より誇り、「武士は食わねど高楊枝」の美しき体面重視の精神か?
●過去から現在の延長線上にはない未来
将来が見通せたら、どんなにかよかろう。単純に言っても、上がる株や当たる宝くじを買っておけば確実に儲かるわけだし、まじめに事業を経営するにしたって、市場の将来予測をしっかり立てて投資の方向性を誤らないようにしないと回収しそこなう。平凡なサラリーマンとして就職するにしたって、今が人気の頂点で将来落ち目になる会社よりも、今誰も注目してないけど将来大化けする会社に入ったほうが得するに決まっている。
将来を予測する数式というのを考えてみた。
(将来)=(現在)^2 ÷(過去)
(ただし、a^2とはaの2乗、すなわちa×aのこと)
なんじゃそりゃ? 現在と将来の関係というのは、時間が経過すれば、自動的に過去と現在の関係へと移行する。だから、
(現在):(将来)=(過去):(現在)
であろう、と。これを(将来)についての方程式とみて解いたのが最初の式である。どうだっ!
こういうのを詭弁という。確かに概念的にみれば、過去と現在の関係は現在と将来との関係に等しいかもしれない。だけど、それを数量的な関係にすり替えているところにゴマカシの種がある。数量的にも成立するためには、「過去から現在に至る成長率が同じまま現在から未来に至る」という仮定がないといけない。だけど、それは、現実にはなかなか成立しない。
先の車内マナーの例にみるように、過去から現在にかけて、社会が混沌から秩序へと移行したのなら、将来はいっそうきっちりと秩序立った社会になっているだろうと予測するのが自然なように思える。だけど、実際同じ流れが続くかどうかは分かったもんではなく、極端な話、戦争に巻き込まれて、東京なんぞは一面の焦土と化していないとも限らないわけで。
どうも時間の経過に沿って社会を眺めていると、経済成長のような量的な変化が起きた後には、カタストロフとも言うべき質的な変化が起きて、それまでの価値基準そのものが崩壊してしまうことが往々にしてある。だから、20〜30年ぐらいのスパンで将来を予測しようとするなら、現在の流れが続いたらどうなる、ではなくて、現在の流れがどういうところから破綻に見舞われ、結果としてどういう価値観の転換が起き、それでどうなっていくか、という発想で考えたほうが、まだしも当たりそうな気がする。
●コンピュータ管理社会はどうなっていくか?
ここ30年ばかりの間に起きた、システム社会・コンピュータ管理社会への急速な流れを延長すれば、あと20〜30年もすれば、森羅万象すべてがデジタルデータとして反映される社会が到来するのは想像に難くない。人々は個別のIDで管理され、どこへ行っただの、何を買っただの、すべての行動履歴が記録され、蓄積される。
街は24時間体制でくまなく監視カメラに捉えられ、すべての犯罪を未然に防ぎきれないまでも、何かあれば必ずどこかに記録が残り、ほぼ100%検挙される。それが抑止力となり、実際の犯罪は、衝動的なのや確信的なのがごくたまに起きるだけである。社会はルールだけで運用され、個人個人の思想は完全に自由、モラル意識は不要となる。
SF小説などでは、コンピュータが急に知恵をつけて人類支配を企み、人間は主導権奪回のためコンピュータに戦いを挑むという筋書きがよくあるけれど、実際には、いくら計算速度が上がったり記憶容量が膨大になったりしたところで、しょせんは誰かが作ったプログラムを忠実に実行しているに過ぎず、規模が大きくなったからといって、急に意思を持ち始めて、自律的に自身のプログラムを書き換えて、勝手に知恵をつけていくなんてことは、当分(あと何百年か)は起きそうにない。
そうであってみれば、人々はむしろ、社会の面倒くさい管理を積極的にコンピュータに委ねるようになるのではあるまいか。社会はいまだかつてなく平和で安全、食料や生活必需品やエネルギーの供給に不安はなく、地球環境も永続的に維持されるよう計算されている。人々は黙ってシステムに組み込まれていれば、何も考えなくていいので、楽である。
そんな環境では、人間の生きる態度が二極化するような気がする。一方は、現実過剰適応型。人生というものは、ちょっとだけ努力してちょっとした知識や技能を身に付け、それによって周りの人々よりもちょっとだけ得をする、ゲームのようなものだと積極的に割り切り、生活のいろいろな必要を充足したり、娯楽・快楽を追求したりすることにほどよく忙しく、それを張り合いにして生きていけちゃう。既存の価値観に完全に飲み込まれ、凡庸で無個性な存在になっていることは、あまり気にならない。
もう一方は、現実不適応逃避型。来る日も来る日もぬるま湯のような日が続き、人生先が見えちゃってることに耐えられない。損得勘定でいけば多少損であっても、競争的観点で言えば負け組であっても、何か自分の存在に代替不可能という意味を与えてくれるような、個性や創造性の発揮できる機会を夢見て、日々空想に耽る。いずれにせよ、社会はどよ〜んと活気のないものになっていきそうである。だけど、そんな半分死にかけたような安定社会が未来永劫続くとも思えないので、それが壊れてどういう新展開を見せるかを予測するのが本当の未来予測というものだろう。
●本能奪回への道
パンを買って公園に持ち込んで昼飯にしていると、目の前で小さな女の子が転んだ。この転びっぷりにはたまげた。草がまばらに生える砂っぽい土へ、ばたっと顔面からダイブである。そういうときには、自己防衛の本能により、自然と手が前に出るもんだと思っていた。それって、まず一度は痛い思いをしてから学習する、後天的な習性だったの?
心理学者の岸田秀氏は「人間は本能の壊れた動物である」と述べていたが、最初「まさか、そんなはずあるもんか」と思っていた。本能は内部にちゃんと備わっているけれど、その赴くところにそのまま従っていたのでは、我利我欲のぶつかり合いとなり、社会が混乱する。個々の人間は社会の規範を学習し、その知識を本能の周りにくるんで行動を抑制し、そのおかげで社会全体の秩序が成り立っているものだというモデルを考えていた。
しかし、あの転びっぷりを見ると、「やっぱり壊れてるのかなぁ」と思えてきた。だとすると、「種の保存」の本能も壊れていそうで、少子化問題とは「子供を育てやすい環境を構築しよう」って問題ではなく、「我々は壊れた本能を修復しようじゃないか」って運動にならないと駄目な気がしてきた。
子供とは秩序の対極。社会の秩序うんぬんよりも一個体(すなわち俺様)のほうが偉い、怪獣みたいなもんである。その子供だってやがては「無条件に偉い自分」から「謙虚な姿勢で自己を抑制できるからこそ社会に居場所が確保できる自分」へと変貌するわけで、これを心理学では「去勢」と言いますね。だけど、子供であるうちは、怪獣時代を存分に謳歌することも必要かと。どうも、社会が秩序へ秩序へと向かっていくと、子供の存在自体を排除してしまうのではないか、それってヤバいんじゃないかという気がしてきた。まあ、アニメキャラを脳内妻にしてるヤツが言うのも変だけど。
【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
ちょいオタ。どこぞの意識調査によると、「ちょいオタ」が幅広いジャンルに知識豊富で、話がユニークだと好印象なんだそうで。
< http://blog.ishare1.com/press/archives/2007/02/3040.html
>
まあ、いい傾向ですね。メディアミックス展開が進んで、漫画が原作の実写版テレビドラマや映画が続々登場、オタと非オタの線引きが薄れているということもあるのでしょう。だけど、「ちょいオタ」って、「濃いオタ」の立場は?その区別もいずれは解消するでしょう、きっと。
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■編集後記(2/23)
・GrowHairさんから届いた原稿の添え書きに、「ところで『つらつらと』という表現は、『特に綿密な計画や深い構想を練ることなく、思いつくままに、気ままに、力を抜いて、ものごとを進めてみる』ってニュアンスだと思っていたのですが、辞書には/つらつら【滑滑】なめらかなさま。つるつる。/つらつら【熟熟/倩倩】つくづく。よくよく。念入りに。/とあり、「気ままに」のような意味が出てきません。googleで検索すると『気ままに』の意味だろうと受け取れる用例が山と出てくるのですが。誤用だったのでしょうか?」とある。おお、わたしも「気ままに」という感覚で用いていたぞ。ありがたい情報だ。わたしが間違いに気づいて、その後は気をつけるようになった例をいくつか。「およそ一時間ほど」これは重言で、正しくは「およそ」か「ほど」を取る。「各国ごとに」は、国ごとに、各国で。「極め付け」は、極め付き。「空前絶後の快挙」正しくは、絶後はない。だって、将来のことはわからないから。「従いまして」なんて話し言葉で使うが、接続詞やそれに準ずる言葉に敬語は不要だから「従って」。「他力本願」は安易に使っちゃいそうだが、宗教関係で嫌われるので×。「まだ未定」なんてメールに書いてしまうが、「まだ」は不要。「やおら」なんてのも、急にの意味だと思っていたが、静かに、ゆっくりと、なのだった。「Yシャツ」「Gパン」は誤用で「Tシャツ」は正しい。といったことは、時事通信社の「最新用字用語ブック」で知った。面白い本だ。「古語辞典」の付録部分も面白いが、字が小さすぎるのが難である。(柴田)
・「あつまれ!ピニャータ」の第一回お庭自慢コンテストの結果発表。お庭で迷路作ったり、キャラクターの地上絵にしたりと楽しそう。一度はやってみたいと店頭で体験版にトライ。キャラクターたちがゲームの説明をしていると、急に画面が黒くなった。閉店時間となり、デモ機の電源を一斉に切られたのであった。ということで一度もゲームをやっていない。Wiiといい、Xbox 360といい、ついでにいうとPSPといい、私のできそうなゲーム一本のためにハードを買うというのはつらいものがあるのぅ。WiiはWiiスポーツ一本で十分楽しめる気もするが。あ、ピニャータのアニメは海外でTV放送しているんだって。インターナショナル版の公式サイトだと、着信音やサイト制作に使える素材がダウンロードできるよ。「あつまれ」ってのは日本オリジナルなんだね。/サンフランシスコ「GDC 2007」に行かれる方はいらっしゃいませんか? 3月7日18時からパーティーがあるぞ。参加希望者はカナダ大使館にメールだっ!/水曜社さんのサイトに十河さんの本の新聞記事が掲載されているのでぜひ読んでみてね!(hammer.mule)
< http://www.xbox.com/ja-JP/games/v/vivapinata/contestresult.htm
>結果
< http://www.vivapinata.com/
> 各国で
< http://www.canadanet.or.jp/it/gdc2007.shtml
> パーティー詳細
< http://www.gdconf.com/
> キーノートは宮本さんだっ
< http://www.bookdom.net/shop/shop2.asp?prodid=193&act=prod
> 掲載記事
< http://www.dgcr.com/present/list.html
> プレゼント受付中!
混濁の世に我立てば…
十河 進
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●笠原和夫が思い入れたテロリストの心情
「226」(1989年)という映画が気になっている。当時、松竹の若手プロデューサーとして辣腕をふるっていた奥山和由が派手な宣伝を展開した作品である。僕は公開前に新聞一面に掲載された広告を今でも覚えている。出演者の顔ぶれは豪華だった。大作映画に起用されることが多かった五社英雄が監督した。
五社英雄監督の映画は、力めば力むほど虚しく空転する。この「226」も同様だ。演出に力が入り、登場人物たちの葛藤が高まり、演技者たちが感情をあらわにすればするほど、映画としては空回りする。しかし、「226」という映画は、なぜか僕の心に残っている。もしかしたら脚本を書いた笠原和夫の思い入れの強さに感応したのだろうか。
笠原和夫は「仁義なき戦い」(1973年)の完成試写を見た後、自分のシナリオを深作欣二がメチャクチャに壊したことを不満にスタッフルームにこもったという。笠原和夫は、戦争中の自己の想いを若いヤクザ群像に託した。広能昌三が敵対する土居組組長を殺しにいく場面では、テロリストの目で相手を刺し貫くことを望んでいた。
その笠原和夫の想いは「仁義なき戦い 広島死闘編」の主人公・山中に再び託される。山中はテロリストとして広島ヤクザ戦争の中を蠢き、多くのヤクザを殺し、最後は自決する。山中が体現したテロリストの肖像は、おそらく2.26事件の青年将校や戦争末期の特攻隊員と重なるものである。
自らの死を見据え、覚悟し、そのうえで思想のために、志のために、人を殺す。自らの死の覚悟と志の高さがなければ、人の命を奪うことなどできない。思想や志に殉じなければ、いくら国賊と見なす相手であっても、銃口を向け引き金を絞ることなどできるはずもない。
おそらく、そうした精神性が「226」を印象深い映画にしている。「226」が見る者の心を動かすのは、青年将校たちが志半ばで投降し、兵を原隊に復帰させなければならなくなってからである。首謀者の青年将校たちは、絶望する者、自決する者、わずかな希望にすがる者…、様々に反応する。だが、彼らの想いは見る者に伝わってくる。
もちろん何かを思い詰めた人間、信じ切った人間は、怖い。「226」の青年将校たちもそうかもしれない。思想的な支柱であった北一輝、彼を信奉し昭和維新を断行するために、皇道派の青年将校たちは決起する。彼らは幕末の志士たちに自らを重ねているのかもしれない。ヒロイズムに陥りがちな状況だ。
時代状況を端的に語るセリフがある。「軍隊に入って初めて白い飯を食ったという兵隊がいっぱいいる」と聞けば、当時の貧しさがうかがえる。「おまえたちの姉や妹が貧しさ故に身を売っている。そんな状況を変えるのだ」と青年将校のひとりは、決起前に兵士に訴える。
「俺たちがやらねば誰がやる」と、彼らは思ったに違いない。ヒロイズムがなければ革命もクーデターも起こせない。確信がなければ、大臣を射殺することはできない。大恐慌の時代である。特に貧しかった東北の農家では、娘たちを売ることで飢えを凌いでいたという。
●2.26事件はロマンチシズムの文脈で語られてきた
2.26事件について歴史的事実は知っていても、詳しいことを知っているという人はあまりいないかもしれない。僕もそうだった。青年将校たちが国を憂い、世の中を変えるために決起した。政府の要人たちを射殺し、警視庁など主要な場所を占拠したが、詔勅により反乱軍となったため数日で投降した。青年将校たちはほとんどが銃殺になった。その程度の知識だった。
「226」は、そうした事実を知っていることを前提に物語は進む。しかし、決起した後の軍内部の対立や青年将校たちの分裂を見ると、その背景が詳しく知りたくなる。僕は松本清張の「昭和史発掘」という文春文庫全十巻を持っていたことを思い出した。
松本清張の本を買うことはあまりないのだが、それは団地で古本市をやったときに見付けた。そのとき僕も「鬼平犯科帖」の文庫本二十四巻を出品しすぐに売れたのだが、そのお金で隣で売っていた「昭和史発掘」を買ったのだった。「せっかく少し本が減ったのに…結局、同じじゃない」とカミサンは不満そうにつぶやいた。
「昭和史発掘」は5.15事件から2.26事件にかけての裏面史のようなもので、2.26事件については数巻にわたって記述されている。膨大な資料にあたったもので、調べ魔・松本清張らしい仕事である。しかし、その資料的な記述に戸惑い、僕はパラパラと目を通しただけだった。それでも、青年将校たちが決起した後の軍内部での反乱軍支持派と鎮圧派の対立、天皇の判断などの事情は多少はっきりした。
しかし、2.26事件が語られるとき、多くは国を憂い死を覚悟して決起した将校たちのロマンチシズムが中心になる。たとえば、四十年近く前、利根川裕の小説「宴」はベストセラーになり、その後、テレビドラマ、映画、舞台にもなった。「宴」は、ヒロインの人妻が愛する相手が陸軍の若手将校であり、彼が2.26事件に関わり銃殺となることがわかっているから悲劇性が高まるのだ。
「宴」が話題になったのは僕の高校生の頃だった。利根川裕はベストセラー作家からテレビ司会者になり、顔の売れた小説家になった。僕は「宴」のテレビドラマを欠かさず見ていた。ドラマ版の配役は忘れてしまったが、松竹で映画化されたときは中山仁と岩下志麻が主演した。1967年の公開で、監督は名匠といわれた五所平之助だった。僕はその新聞広告を切り抜いて持っていたが、とうとう映画は見損ねた。
同じ頃、2.26事件を素材に書いた短編「憂国」を三島由紀夫自身が映画化した作品が話題になった。監督・主演であること、2.26事件を背景とし、主人公が切腹するシーンのすさまじさが評判になった。僕は雑誌の記事でそれを読んだが、四国の地方都市での上映はなく、現在に至るまで未見である。
だが、三島由紀夫があまり好きではない僕が「憂国」を読んだのは、映画が評判になっていたからだ。「憂国」は、三島美学に満ち溢れ、青年将校の死へ向かう精神性を描く短編だった。そこにはロマンチシズムとヒロイズムしか感じられず、社会性がまったくない自己陶酔した小説だと十代の僕は思った。
2.26事件の思想的支柱であり、青年将校たちと共に処刑されたという北一輝については、鈴木清順監督「けんかえれじい」(1966年)で憧れをもって描かれる。主人公キロクは、ある日、目の鋭い男に出会い深く印象に残るが、2.26事件が起こり、その男が北一輝であることを知ると、「一世一代の大喧嘩」を見るために戒厳令下の帝都に向かう。
●日本が変わるまで狂い続ける決意
三島美学に共感できないように、僕は大音量で軍歌などを流しながら街をゆく右翼が苦手である。ヒロイズムに浸り、自己陶酔している、男らしさを勘違いしているような人々が好きではない。三島由紀夫の割腹事件のとき、十九歳で浪人中だった僕は驚き、興奮し、ニュースを聞いていてもたってもいられず下宿を出て街をうろついた記憶はあるが、彼の行動はまったく支持できなかった。
2.26事件の青年将校たちは社会改革を目的としたのであり、死を覚悟していたかもしれないが、死ぬことそのものを自己目的としたわけではない。彼らは事ならずと悟ったとき、自ら死をもって決着をつけた人もいたが、多くは軍事法廷で裁かれ処刑された。
2.26事件の中心的な人物は安藤大尉であり、「226」では三浦友和が演じた。最初、青年将校たちのひとりだった彼は、軍内部の鎮圧派が勝利し、反乱軍として鎮圧せよという詔勅が出た頃から目立ち始める。リーダー的存在だった野中(萩原健一)が詔勅によってブレ始めると「俺は日本が変わるまで狂い続けるぞ」と投降を拒否する。
僕の記憶から消えないのは、自分の隊に原隊復帰を命じた後の安藤大尉のシーンである。「昭和維新の歌を唄いながらいってくれ」と安藤大尉が言うと、兵士たちは「ベキラの淵に波騒ぎ フザンの雲は乱れ飛ぶ」と歌いながら行進する。年輩の曹長(川谷拓三)がやってきて、叫ぶように言う。
──中隊長殿、絶対、死んだらあかんきにねぇ…
兵士たちは「昭和維新の歌」を繰り返し歌いながら、ザッザッと軍靴の音高らかに行進してゆく。降り積もった雪を踏みしめながら…。それを見ながら、安藤大尉も「昭和維新の歌」を口ずさむ。その安藤大尉を仰角のカメラがとらえる。ゆっくりと右手が挙がる。彼は拳銃を顎の下に当てる。まだ、口ずさんでいる。兵士たちの行進に重なって銃声がする。
先ほども書いたように僕は軍歌を大音量で流す右翼が嫌いだ。そんな歌でヒロイズムに陶酔する単純な人間ではないと思っていた。だが、日本人で在ることの証なのか、僕の血が騒ぐのか、「226」を見た後、「昭和維新の歌」が耳について離れなくなった。いつの間にか自分でも口ずさんでいる。
汨羅の淵に波騒ぎ 巫山の雲は乱れ飛ぶ
混濁の世に我立てば 義憤に燃えて血潮湧く
権門上に傲れども 国を憂うる誠なし
財閥富を誇れども 社稷を思う心なし
ああ人栄え国亡ぶ 盲たる民世に踊る
治乱興亡夢に似て 世は一局の碁なりけり
昭和維新の春の空 正義に結ぶ丈夫が
胸裡百万兵足りて 散るや万朶の桜花
佐野史郎扮する青年将校が告げる兵士たちへの言葉も記憶に残っている。自分についてきてくれたことに礼を言い、ひもじい思いをさせたことを詫び、「おまえたちを誇りに思う」と高らかに宣言する。事件の核心が何だったのかはわからない。しかし、「226」に描かれた青年将校たちの貧しい者たちへの共感が僕の心に刻まれた。
昭和十一年(1936年)、今から七十年以上前のことになる。国を憂い民を想って事を起こし、破れ、自決した若者たち、処刑された若者たちがいたことを、この時期になると僕は思い出す。彼らの行動が軍の支配力を強め、無謀な戦争へと突き進むきっかけになったのだとしても、その思想と志の純粋さが僕の心をうつのだろう。
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
前回の話で「舞鶴」を間違って「真鶴」としてしまいました。昆虫や植物の種類、魚の種類、鳥の種類など自然科学系は不得意でしたが、地理関係もダメなのが露呈しました。先号が出てすぐに指摘してくれたのは、鉄道マニアの会社の後輩。彼は、日本のすべての駅名が言えるようです。
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■Otakuワールドへようこそ![45]
過去・現在・未来:さらっと日々の雑感など
GrowHair
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風邪をひいた。と言っても、そんなにひどい状態ではなく、あるかないか程度の微熱と時折の咳に居座られちゃっている感じ。何となく頭がぼーっとして、思考に力が入らないのだが、まあしかし、考えてみると普段からしてぼーっとしてるのだから、そんなに違いはないとも言える。
ここはひとつ、力が入らないのを逆用して、力を抜いて書いてみようと思う。テーマを決めず、日々の雑感みたいな感じで、思い浮かんだことをさらさらっと書き留めていったら、何が出てくるかという実験である。
●究極の風邪薬
小さい頃から、風邪を引くと、喉に来た。で、病院に行くと、いつも褐色の水薬が出された。これがまったりと甘くてコクがあり、それでいて清涼感のある絶妙の味で、風邪をひく楽しみのひとつになっていた。久々にその病院に行ってみたら、同じ薬が出され、ようやく正体をつかむことができた。
ブロチン液。桜皮(おうひ)エキスとも言い、文字通り、桜の皮から抽出した成分である。鎮咳去痰の作用があるという。市販の咳止め薬でも桜皮エキスを配合したものがあるが、配分が少ないのか、あまり美味しくない。桜皮エキスの味は、カルーア(コーヒーのリキュール)に多少似ているが、それよりも清涼感が高い。やはり病院のに限る。
これ、風邪薬にしておくのはもったいない。酒やコーヒーの類の嗜好品として売ることはできないものか。仕事帰りにふらりとメイドバーに立ち寄り、「お帰りなさいませ、ご主人さま」の声に迎えられ、「いつもの」と渋くつぶやくと、ブロチン液がダブルのストレート、チェイサー付きで出てきたりしたら最高だと思うのだが。
●進歩と不満
客観的にみれば、昔よりも今のほうが格段に進歩しているのに、それがゆえにかえって細かい問題点が際立って感じられ、人々の不満が高まってしまうという現象があるようだ。例えば、鉄道の運行の遅れ。30年くらい前を思い起こせば、鉄道なんて遅れるのが当たり前で、故障だの事故だので20分や30分足止めを食らうことぐらいざらであった。人々は、そういうもんだから仕方がないと半ばあきらめているようなところがあった。
今はどうかというと、おそらく機械の技術の進歩や、運行管理・メンテナンスのシステムの進歩などで、全体的には昔よりも遥かに正確に運行されているはずである。だけど、高まった信頼性のおかげで、かえって遅れたときの不満が大きくなっているようにみえる。これでは鉄道技術の進歩に携わってきた人々が浮かばれまい。「生活の利便性は昔よりも格段に向上しているのだ」ということをたまには思い起こし、素直に喜んで感謝することがあってもいいような気がする。
車内マナーの問題も、似たようなところがある。'70年代を懐かしく振り返れば、世の中が活気に満ち満ちていたようにも思えるが、実態はひどい混沌と喧騒だったとも言える。人々は我利我欲をむき出しにして表を歩いていた。まじめに順番なんか守ってられない人、人を押しのけてでもわが道を行く人、ズルしてでも得しようと機会を狙っている人が跋扈していた。
プラットフォームでは、電車のドアの来る位置にいちおう列らしきものができていても、電車が止まるころにはぶわっと崩れてドアを取り囲み、人が降り始めるのと同時に脇のほうから身を屈めてすり入ろうとする人がいたり、空席に向かって猛ダッシュする人がいたりで、足なんて踏む回数と踏まれる回数が大体釣り合ってればよし、という感じだった。世の中には大きな問題がありすぎて、細かいことなど言ってもしょうがないという空気だった。
今は、電車の乗り降りなんて、気持ち悪いくらい整然としている。だけどそれは、昔と比較するからそうなのであって、車内マナーの悪い人に対する不満は、今のほうが高まっているように感じる。実際、ヘッドフォンから漏れるシャカシャカ音は気になるし、ケータイで延々としゃべり続けてる人など、どういう神経してるんだと思う。
世の中の基準が細かくなったということなのだろう。人々が社会に対して、より整然とした秩序を求めるようになってきているところがある。欲望むき出しの醜い姿をさらしてまでちょっとばかり得する実利よりも、そういう人を下に見て「ああはなるまいぞ」と思う誇りのほうを取ろうという態度。実利より誇り、「武士は食わねど高楊枝」の美しき体面重視の精神か?
●過去から現在の延長線上にはない未来
将来が見通せたら、どんなにかよかろう。単純に言っても、上がる株や当たる宝くじを買っておけば確実に儲かるわけだし、まじめに事業を経営するにしたって、市場の将来予測をしっかり立てて投資の方向性を誤らないようにしないと回収しそこなう。平凡なサラリーマンとして就職するにしたって、今が人気の頂点で将来落ち目になる会社よりも、今誰も注目してないけど将来大化けする会社に入ったほうが得するに決まっている。
将来を予測する数式というのを考えてみた。
(将来)=(現在)^2 ÷(過去)
(ただし、a^2とはaの2乗、すなわちa×aのこと)
なんじゃそりゃ? 現在と将来の関係というのは、時間が経過すれば、自動的に過去と現在の関係へと移行する。だから、
(現在):(将来)=(過去):(現在)
であろう、と。これを(将来)についての方程式とみて解いたのが最初の式である。どうだっ!
こういうのを詭弁という。確かに概念的にみれば、過去と現在の関係は現在と将来との関係に等しいかもしれない。だけど、それを数量的な関係にすり替えているところにゴマカシの種がある。数量的にも成立するためには、「過去から現在に至る成長率が同じまま現在から未来に至る」という仮定がないといけない。だけど、それは、現実にはなかなか成立しない。
先の車内マナーの例にみるように、過去から現在にかけて、社会が混沌から秩序へと移行したのなら、将来はいっそうきっちりと秩序立った社会になっているだろうと予測するのが自然なように思える。だけど、実際同じ流れが続くかどうかは分かったもんではなく、極端な話、戦争に巻き込まれて、東京なんぞは一面の焦土と化していないとも限らないわけで。
どうも時間の経過に沿って社会を眺めていると、経済成長のような量的な変化が起きた後には、カタストロフとも言うべき質的な変化が起きて、それまでの価値基準そのものが崩壊してしまうことが往々にしてある。だから、20〜30年ぐらいのスパンで将来を予測しようとするなら、現在の流れが続いたらどうなる、ではなくて、現在の流れがどういうところから破綻に見舞われ、結果としてどういう価値観の転換が起き、それでどうなっていくか、という発想で考えたほうが、まだしも当たりそうな気がする。
●コンピュータ管理社会はどうなっていくか?
ここ30年ばかりの間に起きた、システム社会・コンピュータ管理社会への急速な流れを延長すれば、あと20〜30年もすれば、森羅万象すべてがデジタルデータとして反映される社会が到来するのは想像に難くない。人々は個別のIDで管理され、どこへ行っただの、何を買っただの、すべての行動履歴が記録され、蓄積される。
街は24時間体制でくまなく監視カメラに捉えられ、すべての犯罪を未然に防ぎきれないまでも、何かあれば必ずどこかに記録が残り、ほぼ100%検挙される。それが抑止力となり、実際の犯罪は、衝動的なのや確信的なのがごくたまに起きるだけである。社会はルールだけで運用され、個人個人の思想は完全に自由、モラル意識は不要となる。
SF小説などでは、コンピュータが急に知恵をつけて人類支配を企み、人間は主導権奪回のためコンピュータに戦いを挑むという筋書きがよくあるけれど、実際には、いくら計算速度が上がったり記憶容量が膨大になったりしたところで、しょせんは誰かが作ったプログラムを忠実に実行しているに過ぎず、規模が大きくなったからといって、急に意思を持ち始めて、自律的に自身のプログラムを書き換えて、勝手に知恵をつけていくなんてことは、当分(あと何百年か)は起きそうにない。
そうであってみれば、人々はむしろ、社会の面倒くさい管理を積極的にコンピュータに委ねるようになるのではあるまいか。社会はいまだかつてなく平和で安全、食料や生活必需品やエネルギーの供給に不安はなく、地球環境も永続的に維持されるよう計算されている。人々は黙ってシステムに組み込まれていれば、何も考えなくていいので、楽である。
そんな環境では、人間の生きる態度が二極化するような気がする。一方は、現実過剰適応型。人生というものは、ちょっとだけ努力してちょっとした知識や技能を身に付け、それによって周りの人々よりもちょっとだけ得をする、ゲームのようなものだと積極的に割り切り、生活のいろいろな必要を充足したり、娯楽・快楽を追求したりすることにほどよく忙しく、それを張り合いにして生きていけちゃう。既存の価値観に完全に飲み込まれ、凡庸で無個性な存在になっていることは、あまり気にならない。
もう一方は、現実不適応逃避型。来る日も来る日もぬるま湯のような日が続き、人生先が見えちゃってることに耐えられない。損得勘定でいけば多少損であっても、競争的観点で言えば負け組であっても、何か自分の存在に代替不可能という意味を与えてくれるような、個性や創造性の発揮できる機会を夢見て、日々空想に耽る。いずれにせよ、社会はどよ〜んと活気のないものになっていきそうである。だけど、そんな半分死にかけたような安定社会が未来永劫続くとも思えないので、それが壊れてどういう新展開を見せるかを予測するのが本当の未来予測というものだろう。
●本能奪回への道
パンを買って公園に持ち込んで昼飯にしていると、目の前で小さな女の子が転んだ。この転びっぷりにはたまげた。草がまばらに生える砂っぽい土へ、ばたっと顔面からダイブである。そういうときには、自己防衛の本能により、自然と手が前に出るもんだと思っていた。それって、まず一度は痛い思いをしてから学習する、後天的な習性だったの?
心理学者の岸田秀氏は「人間は本能の壊れた動物である」と述べていたが、最初「まさか、そんなはずあるもんか」と思っていた。本能は内部にちゃんと備わっているけれど、その赴くところにそのまま従っていたのでは、我利我欲のぶつかり合いとなり、社会が混乱する。個々の人間は社会の規範を学習し、その知識を本能の周りにくるんで行動を抑制し、そのおかげで社会全体の秩序が成り立っているものだというモデルを考えていた。
しかし、あの転びっぷりを見ると、「やっぱり壊れてるのかなぁ」と思えてきた。だとすると、「種の保存」の本能も壊れていそうで、少子化問題とは「子供を育てやすい環境を構築しよう」って問題ではなく、「我々は壊れた本能を修復しようじゃないか」って運動にならないと駄目な気がしてきた。
子供とは秩序の対極。社会の秩序うんぬんよりも一個体(すなわち俺様)のほうが偉い、怪獣みたいなもんである。その子供だってやがては「無条件に偉い自分」から「謙虚な姿勢で自己を抑制できるからこそ社会に居場所が確保できる自分」へと変貌するわけで、これを心理学では「去勢」と言いますね。だけど、子供であるうちは、怪獣時代を存分に謳歌することも必要かと。どうも、社会が秩序へ秩序へと向かっていくと、子供の存在自体を排除してしまうのではないか、それってヤバいんじゃないかという気がしてきた。まあ、アニメキャラを脳内妻にしてるヤツが言うのも変だけど。
【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
ちょいオタ。どこぞの意識調査によると、「ちょいオタ」が幅広いジャンルに知識豊富で、話がユニークだと好印象なんだそうで。
< http://blog.ishare1.com/press/archives/2007/02/3040.html
>
まあ、いい傾向ですね。メディアミックス展開が進んで、漫画が原作の実写版テレビドラマや映画が続々登場、オタと非オタの線引きが薄れているということもあるのでしょう。だけど、「ちょいオタ」って、「濃いオタ」の立場は?その区別もいずれは解消するでしょう、きっと。
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■編集後記(2/23)
・GrowHairさんから届いた原稿の添え書きに、「ところで『つらつらと』という表現は、『特に綿密な計画や深い構想を練ることなく、思いつくままに、気ままに、力を抜いて、ものごとを進めてみる』ってニュアンスだと思っていたのですが、辞書には/つらつら【滑滑】なめらかなさま。つるつる。/つらつら【熟熟/倩倩】つくづく。よくよく。念入りに。/とあり、「気ままに」のような意味が出てきません。googleで検索すると『気ままに』の意味だろうと受け取れる用例が山と出てくるのですが。誤用だったのでしょうか?」とある。おお、わたしも「気ままに」という感覚で用いていたぞ。ありがたい情報だ。わたしが間違いに気づいて、その後は気をつけるようになった例をいくつか。「およそ一時間ほど」これは重言で、正しくは「およそ」か「ほど」を取る。「各国ごとに」は、国ごとに、各国で。「極め付け」は、極め付き。「空前絶後の快挙」正しくは、絶後はない。だって、将来のことはわからないから。「従いまして」なんて話し言葉で使うが、接続詞やそれに準ずる言葉に敬語は不要だから「従って」。「他力本願」は安易に使っちゃいそうだが、宗教関係で嫌われるので×。「まだ未定」なんてメールに書いてしまうが、「まだ」は不要。「やおら」なんてのも、急にの意味だと思っていたが、静かに、ゆっくりと、なのだった。「Yシャツ」「Gパン」は誤用で「Tシャツ」は正しい。といったことは、時事通信社の「最新用字用語ブック」で知った。面白い本だ。「古語辞典」の付録部分も面白いが、字が小さすぎるのが難である。(柴田)
・「あつまれ!ピニャータ」の第一回お庭自慢コンテストの結果発表。お庭で迷路作ったり、キャラクターの地上絵にしたりと楽しそう。一度はやってみたいと店頭で体験版にトライ。キャラクターたちがゲームの説明をしていると、急に画面が黒くなった。閉店時間となり、デモ機の電源を一斉に切られたのであった。ということで一度もゲームをやっていない。Wiiといい、Xbox 360といい、ついでにいうとPSPといい、私のできそうなゲーム一本のためにハードを買うというのはつらいものがあるのぅ。WiiはWiiスポーツ一本で十分楽しめる気もするが。あ、ピニャータのアニメは海外でTV放送しているんだって。インターナショナル版の公式サイトだと、着信音やサイト制作に使える素材がダウンロードできるよ。「あつまれ」ってのは日本オリジナルなんだね。/サンフランシスコ「GDC 2007」に行かれる方はいらっしゃいませんか? 3月7日18時からパーティーがあるぞ。参加希望者はカナダ大使館にメールだっ!/水曜社さんのサイトに十河さんの本の新聞記事が掲載されているのでぜひ読んでみてね!(hammer.mule)
< http://www.xbox.com/ja-JP/games/v/vivapinata/contestresult.htm
>結果
< http://www.vivapinata.com/
> 各国で
< http://www.canadanet.or.jp/it/gdc2007.shtml
> パーティー詳細
< http://www.gdconf.com/
> キーノートは宮本さんだっ
< http://www.bookdom.net/shop/shop2.asp?prodid=193&act=prod
> 掲載記事
< http://www.dgcr.com/present/list.html
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