[2181] 一九九〇年秋の焦燥

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<多くのコーダーは孤独に戦っている>

■映画と夜と音楽と…[329]
 一九九〇年秋の焦燥
 十河 進

■DTPユーザーのためのWeb再入門[11]
 「コーダー」は蔑称で、最下層の仕事か?
 鷹野雅弘


■映画と夜と音楽と…[329]
一九九〇年秋の焦燥

十河 進
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●大沢在昌さんのブログにアクセスする

大沢在昌さんと京極夏彦さんと宮部みゆきさんの三人が所属する「大沢オフィス」が開設している「大極宮」というサイトがある。その中に週刊「大極宮」という三人のブログがあり、一週間に一度更新されている。

< http://www.osawa-office.co.jp/weekly/weekindex.html
>

三月三十一日に熱海で行われた第25回日本冒険小説協会全国大会に参加して帰った翌日、大沢在昌さんのコーナーを覗いてみたら、「三月三十一日、熱海方面で何かあるらしい」という思わせぶりな文章が載っていて「詳細は後日」となっていた。

四月六日の金曜日が更新日だったので、翌日の土曜日に僕はアクセスしてみた。そこには「第25回日本冒険小説協会・日本軍大賞」を受賞したことがレポートされていた。その後、特別賞を受賞した僕の本のことが紹介され、オタク話に花が咲いたことが書かれている。その盛り上がっているときの大沢さんと僕の写真も載っていた。

大沢在昌さんとどれくらいの時間、話していたか僕は記憶にないのだが「時を忘れて…」というほど楽しい時間だった。最初は主にフランスのフィルム・ノアールの話をしていたように思う。「さらば友よ」「サムライ」「冒険者たち」「仁義」「リスボン特急」「穴」「生き残った者の掟」…などなどである。

そのとき、大沢さんの小説についても創作の裏話を聞くことができた。たとえば、「悪党パーカー」シリーズに「殺人遊園地」という小説があるのだが、大沢さんのアルバイト探偵(アイ)シリーズに「拷問遊園地」というのがあり、それは「悪党パーカー」へのオマージュだということなどである。

僕は大沢在昌さんの小説を二十五年ほど前から読んでいる。もっとも、そんなに熱心な読者ではなかった。「深夜曲馬団」は1985年に出た短編集で、第四回日本冒険小説協会・最優秀短編賞を受賞しているが、僕は「深夜曲馬団」を雑誌掲載時に読んだ記憶がある。

大沢さんは、1979年に「感傷の街角」で「小説推理新人賞」を受賞し、そのまま作家になった人である。二十三歳の新人作家だった。僕はその「感傷の街角」も読んでいる。しかし、大沢さん本人が「永久初版作家と言われていた頃」と言うように十年間は売れない作家だった。

1989年に「氷の森」が出る。これは当時、かなり評判になったことを覚えている。今では「『新宿鮫』の原点」と言われる作品だ。しかし、僕は読んでいない。その頃、僕は冒険小説やハードボイルド小説から少し距離を置いていた。もちろん出れば必ず読む作家はいたが、多くは海外作家だった。僕はデビュー当時から熱心に読んでいた北方謙三さんや志水辰夫さんさえ、あまり読まなくなっていた。

●「新宿鮫」を初めて読んだ頃

1990年の秋のことだった。イラクがクウェートを占領し、湾岸危機が高まっていた頃かもしれない。その頃、僕も個人的に危機を迎えていた。焦燥感に絶え間なく襲われていた。何かに追われるように日々の仕事をこなしていた。環境の激変に馴れることができず、今までの人脈も使えず、ただ意地だけで走っていた。

そんな頃、本と映画が好きな友人のTから電話がかかってきた。Tは「大沢の『新宿鮫』を読んだか」と言う。「読んでいない」と答えると、彼は「絶対読め。大沢が化けた」と言った。当時、彼はアルバイトで五味康祐の文庫本の解説を書いたり、「本の雑誌」に原稿を書いたりしていた関係で情報は早かった。

現在、発売になっている「新宿鮫」の光文社文庫版の解説は文芸評論家の北上次郎さんが書いているが、そこにも「まさしく『化けた』としか言いようがない」と書かれている。Tは、その頃、「本の雑誌」発行人である目黒考二さんとも会っていたから、「大沢が化けた」という言い方は目黒さんなどが言っていたのかもしれない。

もちろん僕はすぐに「新宿鮫」を買った。読み始めた。止まらなくなった。一気に読了した。それまでの大沢在昌作品とは、やはり何かが違っていた。大沢さんの作品はデビュー作の「感傷の街角」のように多くは一人称の物語だった。ハードボイルド私立探偵小説の王道である。しかし、「新宿鮫」は三人称で書かれていた。

──悲鳴は、鮫島が脱いだジーンズとポロシャツをたたんでいるときに聞こえた。鮫島は一瞬手を止めたが、ロッカーの扉を閉め、鍵をかけた。

冒頭の一文は鮮やかだった。三人称でなければできない描写が続く。鮫島の内面は隠されることもある。たとえば、冒頭のシーンに続いて、鮫島はある男とのトラブルに巻き込まれるのだが、そのとき相手の正体について「鮫島は、男の職業に見当がついた。やくざではない。やくざならば、こうしたやりとりをする前に、手がでている」と記述される。

これは一種のじらしであり、読者は何となく予想しながらも、この後、男が警察手帖を取り出すところで意外感を味わえる。また、三人称にしたことで、鮫島ではなく「彼」と呼ばれる謎の男の行動を描く章を挟み込めるのである。そのことによってサスペンスが盛り上がる。「鮫島」側からの章では警察小説となり、「彼」の章では一種の倒述ミステリとなるのだ。

三人称を採用したことで、二作目の「新宿鮫・毒猿」は一作目を上回る傑作になった。「新宿鮫・毒猿」では、鮫島の登場する章の間に中国人の殺し屋・毒猿の章を挟み込み、どちらかというと鮫島は脇にまわっている。ラストの新宿御苑での毒猿の死闘は「今度は戦争だ」という「エイリアン2」(1986年)のキャッチフレーズを思い出す。

大沢さんによれば「『新宿鮫』の評判がよくて、二部、三部と続けるときに考えたのが『エイリアン』シリーズだった」という。「エイリアン」(1979年)はホラーだったが、「エイリアン2」はアクション映画になった。そんな工夫が「新宿鮫」シリーズの人気を保っているのだろう。

「新宿鮫」シリーズの以前に大沢さんが三人称で書いた小説はあまり記憶にない。少なくともデビュー作の主人公である失踪人探しの名人、佐久間公シリーズは一人称であり、アルバイト探偵(アイ)シリーズも一人称だった。それは正統派ハードボイルドを継承しようとする大沢さんのこだわりだったのかもしれない。

●上司の在り方を学んだ「眠らない街 新宿鮫」

ベストセラー「新宿鮫」は「眠らない街 新宿鮫」として、1993年の十月九日に映画が公開になった。監督は、その年の三月に「僕らはみんな生きている」という痛快な作品を発表していた滝田洋二郎だった。脚色は荒井晴彦。主演は「僕らはみんな生きている」と同じく真田広之である。

翌年、「眠らない街 新宿鮫」と「僕らはみんな生きている」によって、真田広之は「キネマ旬報日本映画主演男優賞」を受賞する。ただ作品の評価は「僕らはみんな生きている」は五位だったが、「眠らない街 新宿鮫」は十四位だった。その年は崔洋一監督の「月はどっちに出ている」が日本映画界を席巻したのだった。

「新宿鮫」を初めて読んだ1990年の秋、僕が小説以外に読んでいた本は「部下を育てる上司」とか「こんな上司になれ」とか「上手な部下の叱り方」などだった。その年の九月、僕はまったく初めての分野である創刊したばかりのビデオ雑誌に編集長として異動になり、初めてスタッフを抱える身になっていた。

何事も本から学ぼうとする僕は、そんな実用書をいっぱい読んでいたのだが、それはスタッフが思うように動いてくれないことに苛立っていたからだ。創刊を担当したスタッフからは「ビデオの素人に何ができるか」と言われながら、会社から任された新しい雑誌を何とかしなければならない(というより見返してやりたい)意地があり、そのことで余計に焦っていたのだと思う。

そんなときに我を忘れて読んだ「新宿鮫」の中で最も印象的だったのは、桃井という鮫島の上司の存在だった。桃井は子供を事故で亡くし、そのことが原因で離婚し、今は死んだような無気力な課長として登場する。影の薄い存在で、かつて有能だと言われた面影は微塵もない。警察用語で死体のことを呼ぶ「まんじゅう」と陰口を叩かれる男である。

新宿署防犯課の鮫島は、キャリアとして警察庁に入り将来が約束されていたが、ある事件をきっかけにエリートコースから外れ、一警部として勤務している。署では煙たがられる存在で、相棒はおらず単独行動で捜査を進める。そんな鮫島に対しても桃井はまったく無関心である。

だが、鮫島が最大の危機に陥ったとき、救出に現れたのは桃井だった。僕にはその場面が「新宿鮫」で最も印象的だった。桃井が無関心のように見えたのは、彼が部下である鮫島を信頼していたからであり、本当に部下が救いを求めているときには最も頼りになる上司だったのだ。以来、鮫島も桃井に絶対的な信頼を寄せ、シリーズの重要な脇役となった。

当時の僕は、どんなことからでも教訓を得ようとしていた。それほど、スタッフワークに悩んでいたのだと思う。僕は部下を信頼して任せなくてはよい関係など生まれない、と桃井から学んだのだ。そのためには、我慢しなければならないことは多い。熱い心は内側に隠せ、血気にはやるな、と言い聞かせた。

「眠らない街 新宿鮫」で桃井を演じたのは室田日出男だった。深作欣二監督の初期作品、そして「仁義なき戦い」やテレビドラマ「前略おふくろ様」などで僕は室田ファンになっていた。桃井に扮した室田日出男は、大きな躯を小さくして「まんじゅう」桃井を演じていた。

鮫島は拳銃密造犯の木津を追っているのだが、あるとき、逆に木津に捕らえられてしまう。監禁され痛めつけられる。木津はホモ・セクシャルである。鮫島は犯される危険に戦慄する。その木津を奥田瑛二が演じた。あれほど怖い奥田瑛二は見たことがなかった。不気味さを漂わせた木津を相手に、鮫島は心の底からの恐怖を見せる。

それは、他の刑事物にはなかったリアリティだった。鮫島は現実の刑事のようにほとんど発砲せず、特殊警棒を武器に犯罪者に立ち向かう。ときには恐怖におののき、死を怖れた己から解放されたいと願って恋人の胸にすがる。身を震わせる。嗚咽する。真田広之の代表作だと僕は思う。

「眠らない街 新宿鮫」を見てから十四年の時間が流れた。その姿から僕が何かを学んだ桃井役の室田日出男さんも今は亡い。六十四歳の早すぎた死だった。ちなみに、先日、古い日記を見ていたら、こんな記述が出てきた。

──1995年2月5日(日)雪のちに雨
責了して金曜日は夜に取材二件。夜九時近くに竹内敏信さんの事務所。その後、飲んで深夜に帰宅。昨日は車に乗りまくる。しかし、「新宿鮫・無間人形」を読了。本日も車で走る。明日から多忙。

四作目の「無間人形」が出た頃は僕もスタッフを抱えることに馴れていたのかもしれない。免許を所得して車で走りまわっていたし、仕事も順調に動いていた。その頃の日記からは、もう焦燥感は感じられなかった。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
第25回日本冒険小説協会大賞には、作品名と名前を刻んだコルト・ガバメントが副賞としてもらえる。僕のガバメントは刻印が間に合わず、後から送って貰えることになった。ディック・フランシスと大沢在昌さんと僕しか持っていないモデルガンだ。早くこいこい、と首を長くしている。

■第1回から305回めまでのコラムをすべてまとめた二巻本
 第25回日本冒険小説協会「最優秀映画コラム賞」受賞
 完全版「映画がなければ生きていけない」発売中
< http://www.bookdom.net/suiyosha/suiyo_Newpub.html#prod193
>

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■DTPユーザーのためのWeb再入門[11]
「コーダー」は蔑称で、最下層の仕事か?

鷹野雅弘
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Webの世界では「Webデザイナー」という名称があまり聞かれなくなりつつあり、「Webディレクター」「コーダー」「Flashクリエイター」というように、具体的な職務内容を肩書きとして名乗る方が増えているようだ。

理由のひとつは、分業化がどんどん進んでいること。ある程度の予算がつく大きめの案件では、ディレクターという現場監督のもと、それぞれの分野ごとにスペシャルな人員をアサインするのがセオリーとなりつつある。

そんな中、本日は「コーダー」という職務について考えてみたい。「コーダー」とは、HTMLやCSSなどのソースコードを書く人のことを指す。語感からハンドコーディング(手打ち)を想像しがちだが、当然、Dreamweaverなどのオーサリングツールが利用されることも多い。

たいていのワークフローでは“下流”に位置し、納品の間際の仕事であるがゆえに、スケジュール遅れの“しわ寄せ”を受けるのがコーダーの宿命だ。その一方、分業化によってサイトがどうあるべきかという企画段階でのフェーズや、グラフィック処理などのデザインなどが切り離されている場合、「コーダーにはクリエイティブな要素は不要」と考えられていることが少なくない。

多くのクライアントにとってのWebは、結果としてのブラウザの表示画面がすべてであって、ソースコードの美しさなど理解されないのが通例だ。複雑な入れ子のテーブル、おびただしいスペーサーイメージと< font >タグ、こんなソースは、Webにおける「汚染」でしかない、と声高に叫んでも理解されることは少ない。

しかし、コーディング作業は単なるオペレーション作業ではない。「Web標準」という流れを取り入れ、見やすくて使い回ししやすいソースコードを書くことは、それ自体がクリエイティブな作業だ。

ここ数年、モーレツな勢いで「Web標準」に関する意識改革、また、知識の統合、ノウハウの収れんが起きているが、多くのコーダーは孤独に戦っていることが多い。

ビジネス・アーキテクツの森田雄氏が「コーダー」に代わり、「マークアップエンジニア」という肩書きを発明したが、多くのコーダーにこれが響くのは、マークアップ作業に誇りを持って作業し、それが認められる環境であることを示唆しているからだろう(余談だが、森田氏はいろいろな分野で秀でているが、ネーミングセンスも飛び抜けている)。

「CSS Nite」をマンスリーでスタートしたのが2005年10月。初回から順調に動員が増え、今では名古屋、大阪、青森(!)などでも開催するイベントに成長した。その要因について分析すると「CSS」という切り口で、コーディングを主体をする内容を取り扱ったことが大きいと考えられる。

Web上には多くのノウハウがあふれ、SNSや掲示板などの交流の場所は存在するが、基本的に引きこもりがちなコーダー同士が出会う機会はあまりなかった。まして、「何、マニアックなこと言っちゃっているの?」と冷たい目で見られることなく、ギークな話題を語り合う場所は希有だ。

アスリートがランナーズ・ハイなら、こっちは"Coder's High"、という発想で5月にはCSS Nite LP, Disc 3 "Coder's High"を開催する。

その場でゼロからコーディングする「LIVEコーディング」(河内正紀氏、神森勉氏)をはじめ、益子貴寛氏による「ザ・コーディングの美学」、太田良典氏による「プロはこう使う! Another HTML-lint 徹底活用術」など、ニッチでギークな話題が満載だ。
< http://lp3.cssnite.jp/
>

「宣伝オチかよ?」と突っ込まれてしまいそうだが、コーディングという現場でこんな流れが起きていることを知って欲しい。

追記:
欧米圏には「css Zen Garden」< http://www.csszengarden.com/
>
という強力なコンテスト系の企画があるが、日本でも、同時発生的に2つのコンテストが開催される。
「コーディングコンテスト Vol.1 〜Coder's High〜」
< http://css-happylife.com/log/coding-contest/000129.shtml
>
「画像の使用を極力控えてかっこいいCSSデザインをやってみよう大会」
< http://www.jam-graffiti.com/non-pic-css/
>

また、こんな試みも行われている。
「正しくHTMLを書こうと心がけている人に5つの質問」
< http://www.rusica.net/note/2007/04/09/html5.html
>

【たかのまさひろ】takano@swwwitch.com
トレーナー・テクニカルライター・デザイナー
株式会社スイッチ代表 < http://swwwitch.jp/
>
モスバーガー店員から英会話塾講師、職業作詞家等、100以上の職種を経験後、DTPやWebの制作、トレーニング、ライティングは飽きずに10年。

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■編集後記(4/13)

・あちゃ〜、やってしまった。二日連続で2179号を発行してしまった。昨日の号は正しくは2180号です。ちょっと気がゆるんでました。(変酋長&机)

・新聞に記事があったので、妻に「19世紀中頃のロシア五人組とは誰のことか」と質問してみた。正解は、バラキレフ、キュイ、ムソルグスキー、ボロディン、リムスキー・コルサコフなのだ。わたしだって、うしろの三人しか知らないし、といっても名前と代表作を知っている程度で、音楽を聴いてすぐに曲名がわかるわけではない。妻は即座に「露鵬と白露山の兄弟と、……あと黒海は違うか」と言うではないか。おいおい、19世紀中頃のことと言っているぞ、それにあんたに聞くには理由があるんだ。いちおう音大を出ているのだから、ロシア五人組と言ったらパッと閃いてもいいはずだ。それが、現代の大相撲に突進するとはどういうことだ。……まあいいか。箱根駅伝の有名選手はたいてい高校時代から知っているし、実業団の駅伝選手たちもどこの高校、大学の出か知っているという長距離オタク。サスケのオールスターズもみんなフルネームと職業を知っている。「そんなことはフツーの主婦は知らんでもよい」と言うと最高にご機嫌だ。/NHK教育の夕方の番組は子守りで見ているが、番組の順番が変わったのにまだ慣れぬ(年寄りが慣れなくてもいいんだけど)。裏千家が指導する茶道の作法では、プロの所作が美しくほれぼれする。このとき音声はハッキリと「ちゃどう」といっている。えっ、「さどう」ではないのか。いつ変わったんだ。人生60年以上やってきたが、「ちゃどう」と聞いたのは初めてというショック。すぐに「ちゃどう さどう」でgoogleすると、この問題で1200件以上も出てきたではないか。みんな悩んでいるのか? 岩波国語辞典でひくと「さどう」→「ちゃどう」となっていて、詳しくは「ちゃどう」で解説されている(詳しくなかったけど)。どっちでもよろしいようで、茶道の関係者にとって読み方は問題ではないという。お茶を知らない、わたしみたいな野暮が「えっ、さどうじゃないの?」と騒いでいたわけで、ちょっと恥ずかしいかも。茶道経験者である妻に聞いたら、ハッキリ「さどうです」。嗚呼。(柴田)

・去年の夏に苦しんだ仕事は、当初コーディングのみで引き受けたもの。得意じゃないのだが。デザイナーが作ってきたデザインにダメ出しをし、それでもクライアントに通ってしまっている無謀なデザインを最大限に守るために苦しんだ。SEO対策やユーザビリティがダメ。クライアントのみならず、ディレクターにすらセキュリティの話が通じない。クライアントからの原稿がなかなか届かず、実質作業日数が短くなり美しいコードなんて書けなかったよ。ディレクションもぐだぐだで、「英語版の空きスペースが寂しいから『何か』埋めておいて」という指示を社長最終承認用発表前日の夜にメールで届いたさ。それって指示じゃないよ、と思いつつ、時間ないしとにかく通らないとと工夫してしまった。今思えば「『何』って何ですか? 具体的な指示をください」と言えば良かったのに、一人で乗り越える癖がついているのでやっちゃったわよ。社長承認下りたわよ。最初から参加させてくれれば、そういう苦労はしなかったのに。コーダー(マークアップエンジニア)の地位昇格を望む。あの時無茶しすぎて免疫力が落ち、いまは無茶しなくてもすぐに身体を壊すわよ。/「絶望した! アニメを観るのにも格差を思い知らされる社会に絶望した!」とアナログ放送と地デジについて。Kさんありがとう。爆笑したよ。確かに格差だ!/もう一人のKさんからもメール。ありがとうございます〜。「セクシーボイスアンドロボ見ました。当たりでした。木皿さんの脚本で佐藤東弥さん演出では見なくてはなりません(笑)今後のゲストにも注目です。」とのこと。そういや佐藤東弥さんは「すいか」「ごくせん」「マイボスマイヒーロー」「ハケンの品格」の人だった。女の子のいる時の演出は好きなんだけど、ロボのいる時の演出が苦手なのよ。なんでだろう?/気になっているドラマは「帰ってきた時効警察」「わたしたちの教科書」(まだ見てないが予告で気になっている)、気楽に見られそうな「バンビ〜ノ!」「特急田中3号」、あとは孫子オタクだと出世が早い「風林火山」。(hammer.mule)
< http://d.hatena.ne.jp/megyumi/20070408/p1
>  情報格差
< http://ja.wikipedia.org/wiki/
>  「佐藤東弥」で検索
< http://www.tv-asahi.co.jp/jikou/
>  時効警察
< http://wwwz.fujitv.co.jp/kyoukasho/
>  わたしたちの教科書


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