Otaku ワールドへようこそ![49]色の物理的本質に迫る
── GrowHair ──

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色彩というものは、物体の側の領域と人間の側の領域とにまたがっており、どちら側から見るかによってずいぶん違って見える。「郵便ポストは赤い」と言えば、この赤はポストという物の属性のひとつであるのに対し、「赤いと目立つ」というのは、人の側の認識の問題である。

「白色光をプリズムに通すと、波長ごとの屈折率の違いにより虹の七色に分解される」と言えばニュートンの領域であり、「白い壁を背に真っ赤なドレスを着た女性が立っているのをずっと眺めていたら、その女性が立ち去った後の壁に、緑色のドレスの像が浮かび上がった」と言えばゲーテの領域である。

今回は、ニュートンの側から、色の本質に迫ってみたい。色気のない色の話になるかもしれないが、我々人間が知覚できることの外側に意外と大きな世界が広がっていることがうかがい知れれば、ひるがえって、それが感性の領域に対しても、何らかの刺激になるのではないかと。


●色を決めるのは光の波長

色は、目に入ってきた光を、眼球底部の網膜にびっしりと敷き詰められた視細胞が捉えて電気信号に変換し、視神経を通じて脳に伝えることによって認識される。当然のことながら、光がなければ真っ暗闇、色は見えない。

だから、色のことを考えるなら、まずその源である光のことから考えていく必要があろう。と言いつつ、あらためて「光とは何か」と問われると、これにバシッと答えるのは大変困難で「ど〜もすいません」と腰砕けになってしまうところが情けないが、どうにも歯切れの悪い説明で勘弁していただけるなら、「波の性質を備えて空間を伝わってくるエネルギー」のように言うことができる。

長〜い波線をにょろにょろにょろにょろっと描いてみると、これは、ひとつの「にょろ」の繰り返しパターンになっている。このひとつの「にょろ」の端から端までの(直線的な)長さを「波長」という。目に見える光を「可視光」というが、これの波長は400ナノメートルから800ナノメートル程度の範囲である。1ナノメートルとは、1ミリメートルの百万分の1。可視光よりやや波長が短めな光が紫外線で、やや長めなのが赤外線である。電波も本質的には光と同じものだが、波長はFMラジオで数メートル、AMで数百メートルと、スケールが全然違う。

光が目に入ったときに何色に見えるかは、この波長が決定している。
400〜435 紫、435〜480 青、480〜490 緑青、490〜500 青緑、500〜560 緑、560〜580 黄緑、580〜595 黄、595〜610 橙、610〜750 赤、750〜800 紫赤、という具合である。

以上が光と色の関係の最も本質的なところであるが、この段階ではまだ、大事なところが抜けている。「色」=「光の波長」だとすると、1次元の世界で終わってしまい、「色の空間がなぜ3次元なのか」という問いに答えきれていないのである。色がなぜ3次元か、お分かりだろうか。

●光線は波長のブレンド

というわけで、「光」の話をもう少し続けます。「物体の表面上の1点から目に飛び込んできた1本の光線」というものを考えてみよう。実はこれ、ひとつの波長の光というわけではなく、あらゆる波長の光が、適当な混合比でブレンドされた、光の束になっているのである。

だから、「1本の光線」を物理的に記述しようとするならば、横軸に波長をとり、縦軸にそれぞれの波長の光の強度をとることによって、光の混合比を表現したグラフで表すことになる。このグラフを「分光強度分布」という。

さて、ここで「考えうるあらゆる種類の分光強度分布全体からなる空間」というものを考えてみよう。ここだけの呼び名だが、仮にこれを「光線空間」と名付けることにしよう。光線空間が、どれほどの広がりをもつ空間なのか、想像がつくだろうか。いろいろな波長の光をブレンドする混合比の組み合わせは無限通りあることには違いないのだが、その程度の小さな話ではない。この空間自体の次元が無限次元なのである。

我々の住んでいる空間が3次元なので、それよりも大きな次元の空間というものを思い描くのはちょっと大変かもしれないが、前後、左右、上下のほかに、もうひとつ、それらすべてに対して直角をなす、新たな方向をつけ加えた空間が4次元空間である。その空間にまた新たな方向をつけ加えて5次元、...というふうに考えていけば、想像がつきやすいだろう。

無限次元はちょっと多すぎるにしても、例えば、可視領域の波長を400〜410、410〜420、...というふうに10ずつ区切っていけば、40個の区間に分割することができ、それぞれの区間ごとの強度として分光強度分布を記述することにすれば、40次元の空間だとみることができる。いずれにせよ、光線空間とは、やたらと広〜い空間なのである。

●色が3次元なのは、人間の側の都合

さて、先ほど述べたように、我々は視細胞をもって光を感知する。デジカメで視細胞に相当するのは「フォトダイオード」と呼ばれる半導体素子であり、やはり光を電気信号に変換し、記録媒体に送り込む。両者を総称して「光センサ」と呼ぶことにしよう。

光センサは受ける光の波長によって感度が鋭かったり鈍かったりする。だから、1個のセンサの物理的な性格を記述しようとするならば、横軸に波長をとり、縦軸に各波長に対する感度をとったグラフで表すことになる。このグラフを「分光感度特性」という。

ある分光感度特性をもった光センサに、ある分光強度分布をもった光線が入射すると、各波長において光の強度とセンサの感度を掛け算して、結果を全波長にわたって足し合わせた値が算出され、これが出力信号として、脳なり記録媒体なりに送られる。この働きを抽象的に言うならば、「光センサとは、高い次元の広がりをもつ光線空間から1次元の部分空間へ投影する装置である」と言うことができる。

誰が設計したのかは知らないが、我々人間には、3種類の視細胞が備わっている。青の波長領域に敏感なやつ、緑の波長領域に敏感なやつ、赤の波長領域に敏感だが、青の波長領域でも少し感度があるやつ。これ3種類の光センサからの出力値の組をもって、色を認識するのである。

つまり、色の空間が3次元なのは、光の側の本質的な性質ではなくて、我々のもつ光センサの性能の問題なのである。先ほどと同様に抽象的な言い方をすれば、「我々の目は、高次元の光線空間から3次元の部分空間へと投影することにより、光線を色信号に変換している」のである。

この過程により、広い空間が狭い空間へ、べちゃっと押しつぶされていることに注意が要る。つまり、光線の分光強度分布が異なったとしても、たまたま人間の目には同じ色に見えてしまう、ということが起こりうる。で、実際それは起きている。しかも、ごくありふれたところで。

いま、仮に、色とりどりの派手な衣装を着たモデルさんがいるとしよう。そのモデルさんの写真を撮って、正しいカラーマネージメントを経て、どの色もきっちりと同じに見えるように印刷できたとしよう。このとき、光線の分光強度分布のレベルでは、現物から来る光線と印刷物から来る光線とでは、合っていないのである。印刷は(映像表示も同じだが)、人が区別できないのをいいことにズルしているのである。

我々が宇宙に撒き散らした写真をたまたま宇宙人が拾って地球に来てみれば、色が写真と全然違うのを見て「カラーマネージメントがなっちょらんなぁ」と思うに違いない。あまつさえ、やつらが4種類の視細胞をもってたりした日にゃ、「地球という星で一番偉そうにしている人間という生物は、色盲である」と認識することであろう。

●問題は写真の色合わせ

まあ、宇宙人のことは放っておくとして、問題は、写真の色合わせである。デジタルカメラで写真を撮る仕組みは、人間の目をほぼ真似ている。各画素の底に据えられたフォトダイオードが光を電気信号に変換するわけだが、各フォトダイオードには3種類のカラーフィルタのうちのどれかひとつがかぶせてあり、これが一体として視細胞の役割を果たしている。

カラーフィルタは色のついたセロハンのようなものであり、言い換えると、特定の波長領域だけを透過する半透明の材質ということである。カラーフィルタの物理的な性格は、横軸に波長をとり、縦軸に各波長に対する透過率をとったグラフで表される。このグラフを「分光透過率」という。

フォトダイオードの分光感度特性に、カラーフィルタの分光透過率を掛け算したものが、光センサとしての分光感度特性になる。3種類のカラーフィルタをかぶせて得られる分光感度特性が、それぞれ人間の視細胞の分光感度特性と一致していれば、理想的である。その光センサは、人が見た色と同じ信号を出力することができる。しかし、そういう材料はそう都合よく見つかるものではなく、どうしても歩み寄りが必要である。

フォトダイオードから出てきた3つの色の信号を使って何らかの色補正の計算を施した結果、人間の知覚する色と同じ情報が得られれば、十分である。これが可能であるための条件を「ルータ(Luther)条件」という。これは、デジカメの光センサの3組の分光感度特性が、それぞれ対応する人間の視細胞の分光感度特性とぴったり一致する必要はないけれど、投影する3次元部分空間としては一致すべきものだと言っている。たとえて言うならば、天井を支える3本の支柱のそれぞれは合っていなくてもよいが、天井そのものは同じになるべきだと言っている。

もし、カラーフィルタがルータ条件を満たしていなかったら、どういう不都合が起きるか。その場合、デジカメの投影する3次元部分空間と、人間の投影する3次元部分空間との間に角度がついてしまう。高次元の光線空間の中に、3次元部分空間が2枚、原点だけを共有して交差しあっている状態を思い浮かべていただきたい。このとき、人間にとっては異なる色に落ちるべき分光強度分布が、デジカメでは同じ色に落ちる、ということが起きる(その逆も起きる)。こうなっては、後から色補正をかけようにも、どうにもならない。だから、ルータ条件を満たしていないといけないのである。

そうは言っても、これまた材料がなかなかあるわけではなく。だから、ルータ条件からもさらに一歩歩み寄り、上記の2つの3次元部分空間どうしのなす角度をできるだけ0°に近づけるよう努力すべきものである。3色のカラーフィルタのセットに対して、その「良さ」を評価するなら、この角度(の余弦:コサイン)をもって指標とするのがよい。

これを思いついたのは、1995年のこと。もしまだ誰も言っていなかったら学会発表しようと文献を漁ったら、惜しいことに、そのわずか二年前にP.L.Vora氏とH.J.Trussell氏による論文で、類似のアイデアが発表されていた。私のが、ある行列の3つの固有値のうち最小値を指標として採用しようというものだったのに対して、彼らのは平均値を採用しようという、わずかの違いはあったが。この違いは、最悪のところでどれだけ色がずれるかをみるか、細かいところは気にせず、あらゆる色にわたる平均でどれだけ色がずれているかをみるかの違いに相当する。

学会発表はあきらめたけど、特許を出願しておいたら、このほどめでたく審査を通過して、登録された。もっとも、日本国内の特許出願件数は年間約40万件、そのうち、審査を通過して登録されるのは約12万件だから、そのうちの1件なんて砂粒みたいなもんである。ケータイ1個には数万件の特許がみっしりと詰め込まれていると言われている。エンジニアとはかくも「見えない」存在であり、その見えなさを誇りにするくらいでないとやっていけない。さて、特許は使われないと日の目をみない。どなたか、ぜひ使いたいという奇特な方、いらっしゃいませんか?

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
ヘンリーダーガー展を見てきた。アウトサイダーアートの代表格とされるダーガー(1892─1973)。シカゴで孤独な生涯を閉じた後、「非現実の王国」と題された15,145ページにおよぶ物語と、数百点の絵が、部屋の管理人によって発見された。7人の戦闘美少女「ヴィヴィアンガールズ」には、なぜかおちんちんがついている。少女たちの虐殺死体も描かれているが、明るくのんびりムード、まるでごっこ遊びのよう。「美術手帖」5月号で斉藤環氏は「戦闘美少女の精神分析」の論に沿って、ダーガーを「人格傾向においても創造形式においてもオタクの兆候的存在」としている。同じ号で画家の会田誠氏は、迷宮入りした少女絞殺事件の犯人説を述べている。げ。どちらかがだまされている。品川の原美術館にて7月16日まで。
< http://www.haramuseum.or.jp/
>

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美術手帖 2007年 05月号 [雑誌]
美術出版社 2007-04-17

美術手帖 2007年 04月号 [雑誌] 時をかける少女 限定版




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ヘンリー・ダーガー 非現実の王国で
ジョン・M. マグレガー John M. MacGregor 小出 由紀子
作品社 2000-05
おすすめ平均 star
star*ヘンリー・J・ダーガー ダーガーのココがすごい!*
starこれは誰にも見せるつもり無く描かれた世界
star図版がきれいで見やすいです

アウトサイダー・アート アウトサイダー・アート パラレル・ヴィジョン―20世紀美術とアウトサイダー・アート 郵便配達夫シュヴァルの理想宮 Henry Darger: Disasters of War

by G-Tools , 2007/04/20