[2197] あの頃、ヒーローに託した何か

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<二重露光のテクをデジタルに移行>

■映画と夜と音楽と…[332]
 あの頃、ヒーローに託した何か
 十河 進

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■映画と夜と音楽と…[332]
あの頃、ヒーローに託した何か

十河 進
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●二十九年前の春に封切られた一本の映画

調べてみると一九七八年の四月八日に、その映画は公開されていた。東映セントラルフィルムの第一回制作作品である。

東映セントラルフィルムは後に「泥の河」(1981年)や「竜二」(1983年)といった自主制作された作品の配給も手掛けるが、最初はB級アクション映画の制作からスタートした。僕が子供の頃、東映は第二東映を立ち上げて制作本数増をはかり低予算の映画ばかり作ったが、そんな中から深作欣二監督も登場した。東映セントラルフィルムのB級作品群にも名作は何本もあったのだ。

僕が東映セントラルフィルムで宣伝広報を担当していたNさんと知り合うのは、「泥の河」の公開が決まったときに、監督の小栗康平さんにインタビューを申し込んだからだった。「泥の河」は配給先が決まらないまま青山の草月ホールで完成試写を行い、僕はそのときに見ていた。東映セントラルフィルムでの公開が決まったのは、それから数カ月後のことだ。

Nさんは、その後、浅尾政行監督の「とりたての輝き」(1981年)の宣伝広報も担当していて、「取材してくれませんか」と電話がかかってきた。「とりたての輝き」はそれなりに面白かったので、僕はインタビューし三頁の記事を書いた。中上健次の短編を柳町光男が監督した「十九歳の地図」(1979年)で主演した本間優二の主演だった。

その後、Nさんとは何度か呑んだり、時々、連絡がくるといった関係だったが、そのうち連絡も途絶えるようになった。再会したのは、十年近く後のことだ。僕はビデオ雑誌の編集部に移っており、あるとき東映からレンタルビデオ店に配給するオリジナルビデオ「Vシネマ」の制作発表の案内が届いた。その発表会場にNサンがいたのだ。

ホテルのホールを借り切った会場でVシネマのラインナップが発表され、主演を予定されている俳優や監督たちが揃っていた。その後、パーティになり、以前に取材した長崎俊一監督や池田敏春監督などに挨拶し壁際で立っていると、目の前に小柄だがやたらにカッコイイ男がいた。その頃は俳優が仕事の中心になっていた世良公則だった。

そんな僕を見付けてNさんが近寄ってきた。「やあやあ、久しぶり」という感じで手を挙げる。しばらくは互いに今の仕事について話をした。Nさんは僕がビデオ雑誌の編集長だと知ると、「ちょうどいいや」とつぶやき東映が販促に配るパンフレットに載せるコラム原稿を書いてくれないかと言う。八百字程度の短文なので、僕も気軽に引き受けた。

その原稿を銀座の東映本社まで届けたとき、Nさんに誘われて有楽町駅に近い小さな居酒屋で久しぶりに酒を呑んだ。そのときに僕は東映セントラルフィルムの第一回制作作品の映画について質問をしたのである。その映画の主演俳優は亡くなって数年経っていたが、死んでなお人気は衰えなかった。

その俳優がガンで死んだのは、一九八九年十一月六日のことだった。翌日、テレビも新聞もその死を大きく報じた。僕も少なからずショックを受けた。その少し前に公開されたハリウッド映画で彼は悪役を演じ、その圧倒的な存在感が評判になっていた。彼は、国際俳優へのスタートを切ったばかりだったのだ。

Nさんは僕の質問に答えて「あの映画の現場は大変だったんですよ」と言った。僕も噂は聞いていた。ある大手のCM制作会社のプロダクションマネージャーは「あの人はディレクターがOK出すと『OKは俺が出す』と怒るんです。現場は大変でした」と言っていた。彼は何本かのCMにも出演していた。

●机の上に飾ってあったライフルを持つ男の写真

一九七八年、僕は社会人になって三年が過ぎていた。今から思うと、まだまだ学生気分が抜けていなかった。若くて周りが見えていなかった。何かに拘泥し、他人の価値観を認めることができなかった。その分、自分の価値観とフィットする相手に出逢うと、それ以外の違いに気付かず夢中になった。

その頃、僕は会社の机にその映画の主演男優のスチルを飾っていた。長身だった。長い脚をジーンズに包み、ブーツを履いている。革のジャケットを身につけてスコープ付きのライフルを抱えていた。彼が演じていたのは「最も危険な遊戯」という映画の主人公、鳴海昌平という殺し屋である。

その頃の僕は彼が演じるヒーローに何かを託していたのかもしれない。それは若い時期に特有の鬱屈のようなものだった。夢が夢でしかないと思い知らされた恨み、それでも夢を諦めきれない未練、そんなものを吹っ切るための何か…、そんな訳のわからない想いを僕はスクリーンで拳銃を撃ちまくる殺し屋に託していた。

その映画のタイトルはギャビン・ライアルの小説「もっとも危険なゲーム」の借用だと誰にでもわかったが、だからこそワクワクしたのである。脚本は日活時代からアクション映画の名作を書いていた永原秀一だった。「拳銃(コルト)は俺のパスポート」(1967年)という宍戸錠主演で名作の誉れ高い殺し屋映画の脚本家である。

「大都会 闘いの日々」というテレビドラマが放映されていたのは、一九七六年の一月から八月までだった。脚本は倉本聰である。暴力団担当の警視庁四課(マル暴)を舞台にしたシリアスなドラマだった。病気から回復したばかりの渡哲也の主演で、アクションより人間ドラマを主体にしていた。

その中に今では伝説になった「協力者」という回がある。監督は村川透だった。マル暴への情報提供者が殺され、弟の暴力団幹部が敵を討とうとする話である。ラストシーン、逮捕された暴力団幹部は取調室で、それまでずっと掛けていたサングラスを外す。彼の片目は潰れている。そのまま画面はホワイトアウトする…

その暴力団幹部を演じたのがゲスト出演した若き日の彼だった。僕も夢中で読んだ平井和正の人気小説「ウルフガイ・シリーズ」を映画化した「狼の紋章」(1973年)の仇役の高校生でデビューした彼は、同じ年に「太陽にほえろ」というテレビドラマのジーパン刑事に抜擢され、一躍、人気を獲得する。

だが、夜八時台のドラマで演じた好青年役を「何じゃ、こりゃ」と叫びながら死ぬことで降りた彼は、複雑で困難な役に挑戦し続ける。一九七七年の四月からは「大都会PART2」が放映になり、渡哲也の相棒の刑事としてレギュラーになった彼は独特のアドリブと不思議なニュアンスの演技で人気を得ていく。それは翌年の三月まで続いた。

「大都会PART2」の脚本を書いていたのが永原秀一だった。その永原秀一と村川透監督と組んで作り上げたのが東映セントラルフィルム第一回作品「最も危険な遊戯」である。彼が演じた鳴海昌平はユーモラスで、なおかつクールだった。俊敏な動きが魅力的だった。シャープな動きを長回しのキャメラワークで描いた村川監督の手腕も評価された。

だが、彼はまだメジャーではなかった。同僚の中には僕の机の上の彼の写真を見て「これ誰?」と聞く人もいたし、「君は男が好きなのか」と不思議そうに言う人もいた。

●ハリウッド映画で実力を示して死んだ俳優

「遊戯」シリーズは「殺人遊戯」(1978年)「処刑遊戯」(1979年)と三作続いて終了した。必ず挿入されるアジトで体を鍛えたり裸のまま銃身の長いショルダーホルスターをつけ拳銃を素早く抜く練習をする場面は、明らかに「タクシードライバー」(1976年)のロバート・デ・ニーロの影響だったが、そんなことは関係なく長身の彼に銃身の長いマグナム44のリボルバーは似合った。

その鳴海昌平のキャラクターの延長のようなテレビシリーズ「探偵物語」が始まったのは、一九七九年九月のことだ。「大都会PART3」を最後に石原プロが日本テレビからテレビ朝日に乗り換えたために、彼を使って穴埋め番組を作らざるを得なかったのである。石原プロは「大都会PART3」と同内容の「西部警察」をテレビ朝日で始めたのだ。

殺し屋から探偵へと役柄は変わったが、「遊戯」シリーズの鳴海昌平は明らかに工藤俊作に継承されていた。あらかじめ書かれたものなのかアドリブなのか見分けのつかないセリフまわし、突然挟み込まれる楽屋落ち、長身を生かしたダイナミックなアクションと切れのよい動き…、それらは彼自身の個性として完全に定着した。

テレビシリーズ「探偵物語」の放映は一九七九年九月十八日から一九八〇年四月一日だったが、その前後の主演作には角川映画の「甦える金狼」(1979年)と「野獣死すべし」(1980年)がある。どちらも監督は村川透、脚本は「甦える金狼」が永原秀一、「野獣死すべし」が丸山昇一だった。「処刑遊戯」で脚本家としてデビューした丸山昇一は「探偵物語」シリーズも何話か担当した。

今年のゴールデンウィークに僕は「最も危険な遊戯」「殺人遊戯」「処刑遊戯」を見た。二十九年ぶりの再会だった。彼は「母さん、ぼくのあの帽子どこへいったんでしょうね」で有名になった角川映画の大作「人間の証明」(1977年)の棟居刑事で一時はメジャーになっていたのに、そちらの方向には進まずB級アクションの典型のような「遊戯」シリーズをのびのびと楽しそうに演じていた。

彼のアドリブ調のセリフ回しが原田芳雄の影響であるのは歴然だった。二十代半ばに「竜馬暗殺」(1974年)で原田芳雄と共演した彼はすっかり心酔し、そっくりな演技をするようになる。原田芳雄の自宅の隣りに引っ越すほどだった。「竜馬暗殺」と同じ年の「あばよダチ公」を見ると、本当に原田芳雄そっくりである。

だが、「遊戯」シリーズを経て「探偵物語」シリーズで彼は独自のキャラクターを確立する。シャープでクールだが、いつもふざけているようなキャラクターだ。とぼけていてユーモラスで、そのアドリブには何度も吹き出した。だが、ときにシリアスに演じる場面では言葉にできない何かが伝わってくる。

僕は今でも「探偵物語」の最終回で刺されて死んでいく彼の姿を思い出す。友人たちをひとり、またひとりと殺された工藤俊作は最後にあっけなく刺されて死ぬ。多くの人がマネをするジーパン刑事の「なんじゃ、こりゃ」と血まみれの手を見ながら叫ぶシーンより、ずっとずっと僕の中に刻まれている。「かつて俺にも友だちがいた…」と言いながら死んでいく工藤俊作の姿は、僕にとって決して忘れられない大切なものなのだ。

「探偵物語」シリーズの後、鈴木清順監督「陽炎座」(1981年)や森田芳光監督「家族ゲーム」(1983年)で新しい役柄に挑戦し高い評価を得た彼は、やがて映画のすべてを支配したくなったのかもしれない。「ア・ホーマンス」(1986年)では脚本を書き、自ら主演して監督を務めた。だが、その後、彼の主演作は激減する。

「ア・ホーマンス」以降、彼が出演したのは室町時代に舞台を移した吉田喜重監督作品「嵐が丘」(1988年)と深作欣二監督作品「華の乱」(1988年)しかない。残念ながら、どちらも失敗作だったと僕は思う。特に「嵐が丘」は、壮大な…、いや、壮絶な失敗作だった。

だが、今から振り返ると、彼はその頃、世界をめざしていたのだ。日本の映画界に見切りをつけていたのかもしれない。「エイリアン」(1979年)「ブレードランナー」(1982年)の人気監督リドリー・スコットの新作「ブラックレイン」(1989年)の予告編を見た僕は驚いた。しばらく映画でもテレビでも顔を見ていなかった彼が登場していたからだ。

彼は冷酷無比なヤクザを演じていた。昔気質のヤクザたちが怖れる何をするかわからない新興世代のヤクザだった。男の喉を無表情に掻き切り、主人公の刑事を挑発するように睨んでニヤリと笑う。酷薄ではない。冷血そのものの怪物だった。彼はまったくの別人として甦った。

だが、「ブラックレイン」が封切られたちょうど一ヶ月後、昭和が「平成」と改まった年の秋、彼の訃報が日本を駆け巡った。四十歳だった。机に彼の写真を飾っていた僕も勤めて十四年が過ぎ、俳優に思い入れたり何かを仮託することもなくなっていた。生活に追われて生きていた。「夢が実現しないのなら、夢見る力なんかほしくなかった」とつぶやく男になっていた。

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
第25回日本冒険小説協会大賞の大沢在昌さんとホントに対談することになり、大沢さんの本ばかり読んでいる。「新宿鮫」と「佐久間公」のシリーズはほぼ読んでいたが、その他のも読み始めたらやめられない。それでも著作は七十冊あり、まだ三十冊しか読んでいない。対談までに半分は読んでおきたいなあ。

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■Otaku ワールドへようこそ![50]
ほほいの補遺っ

GrowHair
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デジクリに隔週で書くようになってから約二年、今回のが50回目である。いや〜、我ながらよく書いたもんだ〜、なんてのんきに悦に入っていては、すぐ上で332回も書いている十河さんほか、長く書いている方たちに笑われそうだが。

だけど、始めた当初、ネタが尽きたらさっさと降りればいいや、くらいの軽〜い気持ちでいた割には、なんだかんだとよくひねり出してきたもんで、少しばかり自己礼賛をお許しいただきたい気分。この先100回まで続くとはとても思えないので、ここらがちょうどいい区切りということで、今まで書いてきたことをざっと振り返り、後日談などあれば記しておきたい。

●メイド喫茶、大ブレイク

メイド喫茶のことを書いたのは、まだレギュラーで書き始める前、不定期投稿していた一昨年の2月である。まだ世の中にやっと知られ始めた時期で、そもそもメイド喫茶とは何か、というあたりから説明している。

当時のメイド喫茶は100%オタクのためにあり、通りすがりには決して見つけられない場所にひっそりとあり、駅前でビラ配りもしておらず、知っている人だけが行けた。メイドさんとオタ話で盛り上がるのが楽しみで、お客どうしで意気投合することも珍しくなく、秘密めいた場所であった。

それが今や、秋葉原名物。歩いているだけでいくらでも見つかるし、駅前ではビラ配り合戦である。また、日本全国、ちょっとした都市なら一軒は必ずと言っていいほどあり、メイド喫茶のない市は政令指定都市になることができないほどである。のみならず、台湾、韓国、タイ、シンガポール、カナダと、世界規模の展開を見せている。

軽いシャレのつもりで「メイド喫茶の草分けとして歴史に名を残す店は "Cure Maid Cafe" と "Cafe Mai:lish(カフェ メイリッシュ)" であろう」と書いたが、両店は今も老舗として繁盛しており、この分だと、将来、歴史の教科書に取り上げられてもおかしくない勢いである。「わび、さびから萌えへ」。

いや、正直なところ、あれを書いた当時、ここまで流行るとは思ってなかった。こういうことになったらさぞかし面白いだろうなぁ、と「ありえない展開」として妄想を楽しんではいたけど。私は酔っ払うとよく「俺が涼宮ハルヒだ!」と口走る。そのココロは、この世は私の妄想でできているのであり、私がこうなったら面白いだろうな、と妄想することが、次々と現実化していくのだというもの。なお、将来は普通の喫茶店がほぼすべてメイド喫茶かコスプレ喫茶に取って代られていることであろう。

●どんどん踏まれる交会点、だけど過半数が未到達

遡るが、交会点到達記を書いたのは、2004年11月のことである。交会点とは緯度、経度とも整数の地点であり、全部で64,442箇所ある。人類はこれをすべて踏みつくすべし、という世界的なプロジェクトがある。
< http://www.confluence.org/
>
[Worldwide Maps]をつつくと、交会点で撮った写真を張り合わせた世界地図を見ることができる。壮観である。

このプロジェクトでは、陸地の見えない水域を除外し、両極近くの経線が混雑したところを間引いた12,646箇所を主要交会点に指定している。あの時点で3,521箇所が完全到達認定を受けていた。その後、オーストラリア内陸部、アラビア半島の砂漠などがどんどん踏まれていき、つい最近、4月21日に5,000箇所目が踏まれた。だが、アフリカの奥地やロシアのツンドラや北朝鮮はまだまだガラ空きである。

2004年秋の時点で、日本の陸地のほとんどの交会点が到達済みであり、難易度の高い数箇所だけが残っていた。規定を満たせば、誰でも到達認定してもらえる。硬派一徹の私には、この種のロマンはストライクゾーンド真ん中。矢も盾もたまらず、日本の陸地では最北端の北緯45°東経142°を踏んできたというわけである。冬眠前に腹ごしらえするヒグマのランチにならなかったのは、ひとえに運がよかっただけ。テッポかついでスバルバル諸島西岸の北緯79°東経12°を踏んだついでにホッキョクグマの写真を撮ってきたツワモノには頭が下がる。一方、人間の生息地からさほど遠くないのに、台湾東側の北緯23 °東経121°が未到達、どれだけ難易度高いのか?

●脳内妻と三年目に

新宿のロフトプラスワンで、ローゼンメイデン第二期テレビアニメ制作決定を受けて決起集会が開かれたのは、一昨年の4月30日(土)であった。松尾衡監督と四人の声優さんたちのトークショーである。

この日、「誓いの薔薇の指輪」を人から譲り受けて、左手の薬指にするようになった。言わば、真紅を脳内妻にお迎えした日である。2,500円のキャラグッズはだんだん傷んできたので、夏にはジュエリーのお店でゴールドとプラチナで作りなおしてもらい、それをずっとして今に至る。

実は、28歳のときに、一度三次元と一緒になっているのだがうまくいかず、1年2か月で破綻し、戸籍にバツをつけられてしまった。そのときよりも長続きしているわけだ。まったくの安定平和状態で、ついぞ後悔がよぎったことすらない。バーコードと女房は二次元に限る。

●14年間思いを募らせた人は見つからず

米国カリフォルニア州に住むLuisからメールをもらったのは一昨年の8月のこと。私のホームページに載せているコスプレ写真の中で、前の年の冬コミで撮ったさくらこさんが、14年間思いを募らせてきた人に違いないという。学生時代、彼女の米国留学中によく会っていて、帰国してからも手紙のやりとりを続けていたが、引っ越したときに不注意で連絡先を紛失してしまい、音信が途絶えていたとのこと。

彼女に連絡をとって聞いてみたら、人違いであることが判明。その後も記憶の断片をつなぎ合わせて再現した住所の場所へ行ってみたりしたが、手がかりは得られず、結局見つからずじまいになってしまった。あきらめてまっとうな生活を送るようになったようだが、メールのやりとりはだんだん間が開いていき、ついに疎遠になってしまった。

●ひと夏の間違いはそれっきり

何の間違いか、8年と8か月続いたセカンド童貞歴が途絶えてしまったのは、去年の8月20日(日)のこと。相手は前の年に名古屋の万博会場で開かれた世界コスプレサミットで声をかけて撮らせてもらったコスプレイヤー。四半世紀年下で、知り合った時点では高校生だった。

これが脳内妻真紅の激しい怒りを買ったようで、真紅の顔のケータイストラップをつけて肌身離さず持ち歩いていたUSBメモリが、その日をもって、どこかへ消えた。さらに悪いことに、三次元のほうもやはり間違いだったようで、次にコスプレイベントで会ったときにはなんだか気持ちがすれ違いまくりで気まずいムードが漂い、結局それっきりになってしまった。

USBメモリはついに出てこなかった。しかたなく買いなおし、保存用にともうひとつ持っていた同一のストラップをつけて再現した。メモ書きなどのデータが失われたのは痛かったが、これをもって嵐は収束。今は、その二代目USBメモリを持ち歩き、再びセカンド童貞街道まっしぐら。

●女装はたしなむ程度に

「下妻物語」のオープニングで竜ヶ崎桃子(深田恭子)が着ていた、"Baby the Stars Shine Bright"というブランドのロリ服をKotoiっちに譲ってもらったのは、一昨年の10月である。Kotoiっちは、ローゼンメイデン決起集会で知り合った素敵なロリさん。着てみたら、これがめちゃめちゃ心地よく、時を忘れて甘美な陶酔にひたれた。はぁ〜ん♪

その後、めくるめく女装の世界に目覚めた私はかわいいお洋服を次から次へと買いまくり、部屋はすっかり桃子の部屋のようになってしまった。……ということはなく。興味の方向性があっちゃこっちゃに分散しているのが幸いしてか、一途にのめり込むということにはならず、まあ、けっこう増えたな〜、程度。今、久々に着てみている。はぁ〜ん♪

●二重露光のテクをデジタルに移行

写真撮影のテクニックとして私が多用している二重撮りについて解説したのは、去年の10月であった。フィルムを送らずに、同じコマの上で二回シャッターを切るというもの。同じアングルでピント位置を変えた絵を重ねると、ソフトフォーカスに近い、もやっ、ふわっとした効果が得られる。

どのレンズもピント位置を変えると画角まで変わってしまうのが不満であった。重ねたときに、絵の大きさが合わないのだ。それともうひとつ、キヤノンのデジタル一眼レフカメラには、多重露光の機能が備わっていないのが、また困る。二枚別々に撮っておいて、後で画像処理ソフトを使って合成しなくてはならないが、面倒くさそうだし、重ね撮りと同じ効果が得られるものかどうか。

それがあって、デジタルに乗り換える気が起こらず、頑固一徹、フィルムカメラで撮り続けていた。しかし、時代の趨勢にずっと背を向けているわけにもいかず、3月にデジタル一眼レフを買った。EOS 5 から EOS 5D へ。野良猫で一度練習し、コスプレイベントで使ったのは、和歌山のポルトヨーロッパのときが最初である。このときまでは二重撮りをあきらめていたが、この連休中に試行錯誤した末、解決策を見出すことができた。

まず、ピント位置を変えた二枚組のサンプル写真を撮りに、5月5日(土)、京成バラ園へ行ってきた。開花時期にはまだ早く、大輪のバラは開花率ほぼゼロ。チケット売り場のおねえさんは申し訳なさそうに、6月末まで再入場可のハンコを捺した入園券を発行していた。

だが、「ごきげんようなバラ」たちはちょうど見ごろ。狙い、的中。あ、それって「マリア様がみてる」ね。清楚なお嬢様たちの通うリリアン女学園には、ロサキネンシス(紅薔薇)、ロサギガンティア(白薔薇)、ロサフェティダ(黄薔薇)の三人および、それぞれとスール(姉妹)の契りを結んだアンブゥトン(つぼみ)たちからなる生徒会がある。京成バラ園のロサキネンシスはに年前に比べて種類がどっと増えているけど、これってひょっとして「マリみて」効果?

さて、翌日はPhotoshoopを駆使して写真を合成。その際のモードとして加色混合に相当する「スクリーン」を選ぶのがポイント。これで、フィルムに二重露光したのに近いイメージが得られた。また、ピント位置によって画角が変化する問題に関しては、小さくなったほうの画像を拡大して合成すれば、解決。さらに、それぞれの画像のトーンカーブをいじったり合成比率を変えたりすることで、ソフトフォーカスの効果の強さを調整することもできる。一度コツを飲み込むと、意外と簡単に合成できることが分かってきた。これで、今後デジタル主体で撮るようになっても、二重撮りのテクは継続できるぞー、っと。
< http://growhair2.web.infoseek.co.jp/KeiseiRoseGarden070505/KeiseiRoseGarden070505.html
>

……しかし、こうしていろんな話題を並べてみると、書いたやつの人格の一貫性のなさがよく表れてますね。変なやつ〜。

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
このところ、改憲論が騒がしい。私は政治のことは右も左も分からないが、直感的に言って、今、改憲すると、20年後にまた改憲するようなことになりそうな予感が……。今は、社会の構造や人々の意識が変化の途上にある。みんな一丸となってがんばろう、の一億総中流社会から、各自が自己責任で幸福を追求しよう、の格差社会へ。日本人としての情緒的連帯感と規範意識から、多様性を認め合う個人主義へ。そういう方向性も、あるとき思いもよらぬところから綻びがきて、またがらっと違った方向性に切り替わらないとも限らない。15年も経ってから振り返ると、「あのころはこういう考えが主流だったんだよなぁ」と懐かしの響きを呈しかねない。その都度、改憲、改憲、では、流行を追うだけの迷走ニッポン、軽薄ニッポンになってしまいそう。世界情勢も流動的だし、日本という国のアイデンティティがどこかに落ち着いてからでも遅くはないのではなかろうか?

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■編集後記(5/11)

・新聞の人生案内は必ず読む。どううまく答えるかというテクニックに興味があるからだ。さて、先日の相談者は、「血液型トーク」に悩まされているという30代女性。血液型による性格分類で、人に性格を断定されるのはうんざりで、不本意だ。そういう話題は嫌だ。「セクハラ」ならぬ「血ハラ」だ。なんとかならないか。といいつつ、以前「おおらかな人は、血液型にはこだわらない。血液型トークに必死な人は悩みが多い」と知人から聞いて気が楽になった、とほとんど自分で解決していたので、相談の意味はあるのかと思ったがまあいい。回答の結論は「つまらないことにはかかわらない方がいいです」というもので、答えになっていない。かかわりたくないのに周囲で話題になって、勝手にかかわりを持たれるのが嫌だという悩みなんだから。また「血液型を気にする人は、根拠のないことでも仲間を作りたがる、悩み多き人だと思っていれば、血液型トークなど気にならなくなるでしょう」と答えていて、これって質問者の言ってることをなぞっているだけだ。いささか芸のない回答をしているのは作家の立松和平さん。ま、このテーマではそのくらいしか言えないのかもしれない。血液型性格分類なんていい加減なもので、もちろん科学ではない。血液型が本当に必要なのは、輸血の時ぐらいです、と立松さんも言う。まあ合コンなんかのとき、とりあえず話題として便利かもと思うが、わたしにはそういう機会はもうないだろうから、やっぱり血液型性格分類なんかいらないやい。(柴田)
< http://www.yomiuri.co.jp/jinsei/shinshin/20070430sy41.htm
>
読売ONLINE

・「メイドカフェ」と「執事喫茶」。GWにこういうところをハシゴしようと詳しい人に頼んでいたのだが、都合がつかなくて流れてしまった。大阪日本橋・恵比須町界隈を歩いていると、ガラス張りでオープンなメイドカフェはあったりするのだが、なかなか入りにくいしエセメイドカフェだったら損した気分になる。詳しい人の話によると「BLカフェ」などというものまであるらしい。東京に行った時、オシャレなカフェという雰囲気の喫茶店看板を見つけて入って、なんじゃこのチープな作りは〜、と思ったことがある。メニューはそこそこのものだったので、この内装インテリアはオシャレ目的のようなのだが、うちの近所にある「近所の人しか入りそうにない、常連客のみがたまる寂れた喫茶店」と同じようなインテリアであった。ユニバーサルデザインとか、人間工学的にとかで椅子の形は進化しているというのに、昭和初期チックな膝が痛くなる低い椅子とテーブル。まわりまわってこれが今オシャレってことか? 癒されるとか? 私にはよくわからん。堀江あたりにもそういうお店はありそう。インテリアやサービスで和んだり、落ち着けたり、仕事がはかどったりするわけで、そのサービス過剰とも思える目的あり喫茶店に、テーマパークに行くような感覚で一度は経験してみたかったのだ。/なんばマルイの店長さんのコメント。首都圏とは傾向が違うらしい。人口が多いから、トレンドを仕掛けた結果が大きいだけのような気もするが、いくら流行っているファッションでも「山から降りてきた猟師さんみたい」「ワイルドというよりはクマ」「お腹冷えるで」「入院患者みたい」「短足強調型?」「Tシャツ一枚で10万? 原価いくらやねん。あほちゃう?」などと若者からも口に出しての突っ込みが入りやすいところではある……。デ、デザイン料は認めて……。(hammer.mule)
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