<ヒマワリって夜になったら走っていそうな気がするの>
■映画と夜と音楽と…[364]
アイダ・ルピノの泣き笑い
十河 進
■うちゅうじん通信[16]
うちゅう人ダラける。
高橋里季
■展覧会案内
気鋭フォトグラファー写真展[Out of 1 and 0]
■イベント案内
「JAGDA TOKYO 学生の日 2008」参加者募集
■映画と夜と音楽と…[364]
アイダ・ルピノの泣き笑い
十河 進
■うちゅうじん通信[16]
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高橋里季
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気鋭フォトグラファー写真展[Out of 1 and 0]
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「JAGDA TOKYO 学生の日 2008」参加者募集
■映画と夜と音楽と…[364]
アイダ・ルピノの泣き笑い
十河 進
< https://bn.dgcr.com/archives/20080222140400.html
>
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●「アイダ・ルピノ」というジャズの曲
カナダ出身のジャズ・ピアニストと言えば巨匠オスカー・ピーターソンが有名だが、他には鬼才と言われたポール・ブレイという人がいる。この人に「オープン・トゥ・ラブ」というアルバムがある。1972年9月11日にオスロで録音されたものだ。ソロ・ピアノの名盤と言われている。
そのアルバムの2曲目に「アイダ・ルピノ」という美しい曲が入っている。最初に聴いたとき、僕はタイトルに気付かなかったが、ライナーノーツを読んでいたら「アイダ・ルピノ」と名付けられているのを知って、改めて聴き直した。
「アイダ・ルピノ」という曲は、ポール・ブレイの別のアルバム「クローサー」(1965年12月録音)の冒頭でも演奏されていて、彼のお気に入りの曲らしい。作曲したのはカーラ・ブレイ。カーラもポール・ブレイもフリー・ジャズの時代に人気があったミュージシャンだから、曲自体はアヴァンギャルドな印象はある。
アイダ・ルピノは1940年代から50年代に活躍した人で日本では「忘れられた女優」の印象があったから、1960年代半ばにその名を付けた曲が作られたのが僕には少し意外だった。僕は、アイダ・ルピノという印象的な名前を子供の頃に覚えたけれど、彼女の映画をきちんと見たことはなかったのだ。
ところが、後で気付いたのだが、大学時代に僕が公開を待ちかねて見にいった「ジュニア・ボナー」という映画にアイダ・ルピノが出ていたのである。その映画はポール・ブレイの「オープン・トゥ・ラブ」が録音されたのと同じ1972年にサム・ペキンパー監督によって作られたものだ。
当時はサム・ペキンパー監督の全盛期だった。前年の「わらの犬」で一般的な人気が出て、1972年は「ジュニア・ボナー」と「ゲッタウェイ」を制作した希有な年だった。どちらもスティーブ・マックィーン主演作である。その「ジュニア・ボナー」でマックィーンの母親をアイダ・ルピノが演じていた。
しかし、そのときのアイダ・ルピノの記憶はあまり残っていない。「ジュニア・ボナー」は父と息子の話であり、母親はそのふたりを見守る重要な存在ではあるが、目立つ役ではなかったと思う。だから、見終わってから「あれがアイダ・ルピノだったんだ」と気付く始末だった。
1918年生まれのアイダ・ルピノは、その当時、53歳か54歳である。二十歳そこそこの僕の印象に残る要素は何もなかった。自分の母親より年上なのである。アイダ・ルピノという名前を意識したのは、小林信彦さんの文章を読んだときだった。
「われわれはなぜ映画館にいるのか」(晶文社)という小林信彦さんの本を、僕は1975年の3月11日に買っている。その中に「ハンフリー・ボガードの肖像」と題された文章があり、「『ハイ・シェラ』を中心に」と副題がついていた。その文章を読んで、僕は日本未公開の「ハイ・シェラ」を知った。
小林信彦さんは「この映画は72年の夏、30分ほどカットしたのをNETテレビで放映したから、ごらんになった方も多かろう」と書いていた。僕はその放映を見ていたのだ。そして、まったく忘れていたのだけれど、その映画のクレジットは「トップがアイダ・ルピノで、ボガードは二番目」だったという。
●ボギーのヒーロー・キャラクターの原型
その映画のラストシーンは鮮烈だった。岩山に追いつめられた犯罪者。警官たちが抱囲する。犯罪者を演じるのはハンフリー・ボガードである。小犬が鳴きながら岩山を駈けのぼる。その犬の鳴き声に思わず岩陰から立ち上がるボギー。警官隊の狙撃手がボギーを撃ち抜く。
14インチのブラウン管で見た、モノクロのタイトルもわからない映画のラストシーンが深く深く僕の胸に刻み込まれていた。だから、小林信彦さんの文章を読んだとき「おお、あの映画ではないか」と僕は小躍りした。ようやく気になっていた映画の正体がわかったのだ。
小林信彦さんの文章を読んで以来、「ハイ・シェラ」(1941年)は僕にとって気がかりな映画となった。いつか改めて完全版を見たいと切望した。テレビ放映のときの面白さだけを憶えていて、タイトルさえきちんと記憶していなかったのだ。おまけに、ヒロインのアイダ・ルピノの顔も浮かんでこない。
それから何年後のことだろう。僕は「ハイ・シェラ」がレーザー・ディスクで発売されたことを知り、すぐに買った。1941年の制作。アイダ・ルピノは23歳である。1933年に映画デビューしたアイダ・ルピノはすでに人気絶頂の頃で、40を過ぎて初めて主演を張るボギーを従えタイトルロールのトップを飾ったのだった。
しかし、「ハイ・シェラ」は明らかにハンフリー・ボガード主演映画である。アイダ・ルピノが登場するのは映画が始まってしばらくたってからだし、それ以降も出てこないシーンがかなりある。しかし、スターの格としては(それと、おそらく出演料も)、当時はボギーより上だったのだろう。
長く脇役(特に悪役)を演じていたボギーは40を過ぎて「ハイ・シェラ」で初めて主役を張り、次作「マルタの鷹」(1941年)で大ブレークした。それから遅めの花が咲き1940年代に全盛期を迎える。1943年の「カサブランカ」から19 51年の「アフリカの女王」まで中年男の渋さを振りまいた。1950年代後半には再び脇役にまわり性格俳優として活躍し、1957年に死んだ。
「ハイ・シェラ」でボギーが演じたロイ・アールは、その後、ボギーが演じるヒーローの原型のような男である。センチメンタルな心をハードボイルドな言動に包んだ中年男である。言葉はクールだが、やさしい心の持ち主だ。しかし、そんなやさしさを隠そうとする。「あなたはやさしいわ」などと言われると、ムキになって否定する。
ロイはプロの犯罪者だが、相当なセンチメンタリストである。彼が感傷的な人間であることは、最初に恩赦で刑務所から出てきたシーンから描かれる。ロイは迎えにきた仲間に「公園はどっちだ」と聞き、まっすぐ公園に向かうのだ。そこで彼は木々を眺め、太陽の光を浴び、爽やかな風に打たれて自由であることを満喫する。
ロイはさっそく昔の仲間の元へ向かい、新しい依頼を受ける。それは金持ちが集まるリゾート地のホテルの金庫を破り、客があずけてある宝石を奪う仕事だった。そのために西に向かう途中、様々なエピソードで彼が感傷的な人間であることがこれでもかとばかりに描かれる。
まず、彼は自分が育った土地に寄る。そこで懐かしそうに農夫と話していると、釣りをしてきた少年が「何も釣れなかった」と話しかける。彼は活き活きとして釣りの穴場を少年に教える。彼が子供時代の思い出を大切にしているのがわかる。だが、そのロイを見ていた農夫は「あんたはギャングのロイ・アールだ」と気付く。
さらに、ハイウェイを走っていたロイは、農場を失い妻と孫娘を連れてオンボロ車でロスに向かう老人と知り合う。その純情そうな孫娘ヴェルマに好意を持ち、彼女の足が悪いことにショックを受け、知り合いの医者に彼女を診てもらううえ、手術代は自分が出すと言い出す。献身的にヴェルマにつくそうとするロイ。海千山千の犯罪者なのにセンチメンタリストである。
●ラストシーンで犯罪者を愛した女の悲劇に転換する
アイダ・ルピノが登場するのは、ロイがリゾート地のバンガローに着いたときである。アイダ・ルピノは印象的に登場する。バンガローのテラスに腰を降ろして下を向いていたマリー(アイダ・ルピノ)は上目遣いにボギーに視線を向け、あばずれ女のような口をきく。
マリーは、ロイの仕事仲間のベーブがロスで拾ってきた女だ。仲間はふたり、ベーブとレッドである。あるとき、ロイが出かけて帰ってくると、自分のバンガローにマリーが頬を腫らして逃げ込んでいる。ベーブに殴られたのだ。彼は女に暴力を振るう男が許せない。ロイのセンチメンタリストぶりが、またも強調される。
ロイは、動物にもやさしさを見せる。バンガロー村の下働きの黒人が「不運を運ぶ犬」と呼ぶ犬をロイは可愛がる。その犬の飼い主は冬場に雪崩で死に、その後も飼い主に恵まれない。ホテルを襲撃するために出かけるとき、ロイはマリーに犬をバンガローに閉じ込めさせるが、窓から飛び出して追いかけてくる犬を棄てられない。
「女と犬を連れてホテル強盗か」と自嘲気味につぶやくロイに、マリーは「うれしいくせに」と言う。今はロイを愛するようになったマリーは、ロイのやさしさを理解しているのだ。強面のギャングであるロイのセンチメンタリズムを彼女が観客に伝えるのである。
しかし、ロイはヴェルマに心を寄せている。マリーは嫉妬するが、自分の過去を振り返って諦めてもいる。彼女は、昔のハリウッド映画によく出てきた「黄金の心を持つ娼婦」というキャラクターだ。女ひとりで生きてくる間には人に言えないこともやってきただろう、それでも汚れのない心を持つ女である。
やがて、ロイもマリーのやさしさに気付き愛し合うようになるが、すでに破滅のときが迫っていた。マリーと別れて行動していたとき、ロイは警察に見付かり岩山に逃げ込む。ライフルを持って岩山に隠れたロイを警官隊は取り囲み、睨み合いのまま時間が過ぎる。
ニュースを聞いたマリーがやってくる。それを知った保安官はマリーにロイを説得させようとするが、マリーは刑務所の夢を見てうなされるロイの姿を思い出し何も言えない。マリーは愛する男を死なせたくないと泣きながら、ロイは逮捕され刑務所に入るくらいなら死を選ぶだろうことを理解している。
そのとき、マリーの腕をすりぬけ犬がロイをめざして走り出す。その鳴き声を聞きマリーがきていることを知ったロイは、「マリー」と叫びながら立ち上がる。警官がロイを狙撃する。岩山を転げ落ちるロイ。その遺体にすがって泣き、立ち上がったアイダ・ルピノの表情が素晴らしい。
彼女は愛する男を失った悲しみの表情と、彼が死んで逃亡を成し遂げたことへの祝福の表情を同時に見せる。彼女はロイが死んで初めて「自由」を得たことを理解している。もう刑務所の悪夢にうなされることもない。逃げ続ける必要もないのだ。愛するが故に、男のためにそのことを祝福する。
アイダ・ルピノの泣きながら喜ぶ複雑な笑顔がアップになり、彼女が「フリーダム」とつぶやく姿にエンドマークが重なる。そのとき、僕はアイダ・ルピノがタイトルロールの最初になっている理由を理解した。このアイダ・ルピノの表情を見せるために、そのときの彼女の心を観客に理解させるために作者たちは物語を紡いできた。ここに至って「心やさしい犯罪者の悲劇」は「心やさしい犯罪者を愛した女の悲劇」へと転化する。
アイダ・ルピノは、この作品から7年後、30になるかならない頃に映画制作に乗り出し、9年後には監督作を手掛ける。女性監督のはしりだ。あの時代の美人女優としては珍しい。独立心のある、しっかりした女性だったのだろう。1995年、彼女は77歳で人生を終えた。充実した人生だったに違いない。
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
占いを信じる方ではないけれど、まったく気にならないというほどクールではない。とある占いによると、今年は衰運からスタートし、夏に向かってゆるやかに上昇するらしい。確かに、このところ衰運を実感することが多い。やっぱり、それなりに気にしているのかもしれない。
●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/shop/shop2.asp?act=prod&prodid=193&corpid=1
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■うちゅうじん通信[16]
うちゅう人ダラける。
高橋里季
< https://bn.dgcr.com/archives/20080222140300.html
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2月25日発売! 甘糟りり子「ミ・キュイ」文藝春秋から。私は表紙のイラストを描きました。とっても綺麗な本に仕上がっています。次回は、この小説の感想文を書いてみようかな。
< http://www.bunshun.co.jp/book_db/3/26/63/9784163266305.shtml
>
さて、今日はうちゅう人のダラけた一日。タイトルに「うちゅう人」と付けるだけで、なんだか簡単に副題が出来上がるので、このやり方がすごく気に入っている私。なぜ、ひらがなの宇宙なのかは、柴田編集長の好みらしいので、謎のままですが。なぜなの? ま、いいんですけど。
前回、花は女性のイメージだろうか? 私は花を両性の感じで描こうかな、って書いたでしょう? 花のことを考えると、いつも思い出す歌があります。
草むらに名も知れず 咲いている花ならば
ただ風を受けながら そよいでいれば いいけれど
私は薔薇の運命(さだめ)に生まれた 華やかに激しく生きろと生まれた
薔薇は 薔薇は 気高く咲いて 薔薇は薔薇は 美しく散る、、、
これは、私が子供の時に放送されていた「ベルサイユのばら」というアニメの主題歌です。「ベルサイユのばら」は少女マンガが原作で、宝塚でも演目になっていました。子供の時に、一度だけ、宝塚の「ベルばら」も見た記憶があります。
このアニメの主題歌は大好きなんですが、ひとりで部屋の中とかで歌うと恥ずかしくなって……(べつに歌わなくてもいいのに、花の事を考えていると、いつも口ずさんでしまうんです)。薔薇の運命に生まれたのは、アニメのヒロイン、マリー・アントワネットな訳で、べつに私がそういう女だっていう訳じゃないのに、恥ずかしいっていうのは、不思議です。
そして、やっぱり決まって、映画の「ジャンヌ・ダルク」を思い出します。このごろは、映画「マリー・アントワネット」を追加で思い出し、そうだ、どうして、映画館でプレミアムグッズの薔薇のコサージュを貰わなかったのかな。あれ、可愛かったのに(私の行く映画館は隣の駅の東宝系で、ときどき先着何名様にプレゼントがあるのです)。
あ、花のこと考えていたんだった。そう、花にもいろいろあるのよね。私は花の絵を描く時は、あんまり資料の写真とか見ない。きっと、花なんて、いろんな種類があって、「間違ってる薔薇の絵」を描く方が難しそう。持っている薔薇の香水をシュっとして、「薔薇、、、」とか思いながら描くと幸せな気分。
高校生くらいの時、薔薇の花が嫌いだった。好きだったのはかすみ草という、小さい白い花がいっぱい咲く草で、薔薇はなんだか毒々しい感じがして、かすみ草は可憐で、自分みたいだと思っていた。薔薇は大人の女の感じがして、私は大人の女になるのが嫌だった。でも、部屋に貼っていたのは資生堂のモデルさんのポスターで、薔薇の花が似合う人でした。山口小夜子さん。
それから、男の子から、薔薇の花を誕生日に歳の数だけプレゼントされるという快挙が訪れ、「薔薇の似合う女になってあげてもいいかな。」と思った。が、今にして思えば、イヤイヤ、薔薇の花が似合う女っていうのは難関だわ。大人になったら、アネモネやアザミやダリヤ。大きな蓮の花や、銀座でしか売っていないような珍しい花が好きになったけれど、このごろは、菊とかも好き。
ワイヤーブーケを思い出すと必ずポアンカレ予想、宇宙に行くエレベーターのワイヤーのことを考える。テレビで見た、最新科学が造る、強い強いワイヤーのことを。だけど、ワイヤーブーケってかすみ草よりも小さい白い花をつける蔓性の可憐な花。
どうしても好きになれないのが向日葵。この花の野菜っぽい感じがなんかイヤなの。花なのか、種の容れ物なのか、はっきりしてほしいわ。それになんだか、ヒマワリって、夜になったら走っていそうな気がするの。ハロウィンのカボチャみたいな感じがするの。あれ? でもヒマワリって、花の中では女性っぽくない感じかも。なんとなく体操服を着た女子高生ってヒマワリっぽい気がするな。元気な男の子みたいな花よね。向日葵って、、、。逆に向日葵みたいな女の人をイメージすると、明るくて強くてしかも健気な感じ。
< >
不思議だな。女の人のキャラクターと、花の持つ雰囲気がリンクするなんてね。いろんな思い出を考えると、花って、やっぱり女性のイメージが強いんだけど両性の感じで、一枚だけ近所の樹を写真に撮りました。プラタナスかな?
ダラダラすることをダラけると言う。今日はダラけて、ひとりで歌をうたって恥ずかしがったりしていましたが、明日は写真をもとに絵が描けそう。
【たかはし・りき】イラストレーター。 riki@tc4.so-net.ne.jp
・高橋里季ホームページ
< http://www007.upp.so-net.ne.jp/RIKI/
>
今回は、柴田編集長オススメの本「謎解き 広重『江戸百』」を読んで、面白かった! という気持ちのまま、「ひまわり」の絵を描いてみました。背景にロケットを飛ばしてみた一枚と、私としてはとにかくオシャレに仕上げた青い向日葵の一枚。どっちが素敵かな〜?
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■展覧会案内
コダックフォトサロンオープニング企画第2弾
気鋭フォトグラファー写真展[Out of 1 and 0]
コマーシャル・フォト誌が選ぶ12人がフィルムで撮りおろし
< http://wwwjp.kodak.com/JP/ja/professional/photoSalon/2008/p20080225.shtml
>
< https://bn.dgcr.com/archives/20080222140200.html
>
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会期:2月25日(月)〜3月7日(金)10:00〜18:00 土日祝休
会場:コダックフォトサロン(東京都文京区本郷2-2-9 センチュリタワーTEL.03-3813-5313)
みどころ:広告・TVコマーシャル・カタログ・ファッション誌・インテリア誌・ライフスタイル誌等様々なメディアにおいて、常に時代の先端を表現しつづけるフォトグラファー。技術だけでなく、常に新しい発想を提案し、活躍しているフォトグラファーの中から、「コマーシャル・フォト」誌(玄光社)が様々なジャンルのフォトグラファーを選びました。展示する作品は全て、それぞれが表現にあったフィルムをチョイスし、撮りおろした未発表の新作です。フォトグラファー自らのオリジナルプリントも数多く、1と0だけでは表現しきれない奥深い領域をもつ写真の魅力と、フィルムや銀塩ペーパーを使う意味を再認識していただければ幸いです。(サイトより)
出展:阿部高之、菊地哲、日下将樹、隈田一郎、腰塚光晃、鈴木崇史、永瀬沙世、半沢健、本間響子、舞山秀一、レスリー・キー、WATARU
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■イベント案内
「JAGDA TOKYO 学生の日 2008」参加者募集
< http://www.jagda.org/tokyo/
>
< https://bn.dgcr.com/archives/20080222140100.html
>
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次世代を担う若いクリエイターや学生を対象にした一日デザイン学校。第一線で活躍中のグラフィックデザイナーが講師となって、現場で培った生きた経験や知識をもとに、リレー講演と作品講評を行なう。主催は東京ミッドタウン・デザインハブ、企画・実行はJAGDA東京地域。
日時:3月9日(日)13:00〜18:00
会場:東京ミッドタウン・カンファレンス(東京都港区赤坂9-7-1 ミッドタウン・タワー4F)
内容:
1)全講師によるリレートーク
2)作品講評(参加者が持ち込んだ作品を、講師が個別に講評)
講師:青葉益輝、秋田寛、秋山孝、植原亮輔、柿木原政広、工藤強勝、軍司匡寛、小島良平、古平正義、小林洋介、左合ひとみ、谷口広樹、日高英輝、平林奈緒美、福田繁雄、古屋友章、松下計、水野学
定員:160名(要申込)定員になり次第締切り
参加費:学生2,000円、一般3,000円 当日、会場受付で決済
申込方法:申込フォームより
問い合わせ:JAGDA事務局 TEL.03-5770-7509
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■編集後記(2/22)
・川村二郎著「学はあってもバカはバカ」(かまくら春秋社、2004)この胸のすくようなタイトルの語源は、著者がお嬢さん学校・雙葉のシスターから聞いた「立派な大学を出ていても、役に立たない人がいます。私はそういう人を『学はあってもバカはバカ』といいます」という言葉にある。あの「バカの壁」が出る10年も前のことだったという。川村は宮沢喜一や加藤紘一を例にあげ「学のあるバカ」の定義を「当事者なのに評論家然としている人」とした。別な言い方では「実戦に向かない人」「修羅場を避ける人」もっと俗に言うと「ケンカの仕方を知らない人」をいう。学のあるバカの特徴と実例をいくつも列挙していて、おもしろいのなんの。全編この調子で行ってくれと思ったが、この本はバカの見本市ではなく、もの書きのプロによる辛口マスコミ評と回想が中心だ。「言葉の現場に物申す」の章が、さすがに元「週刊朝日」の編集長、言葉の現場に出てくる不適切で不愉快な表現、「してほしい」「気持的」「……としている」「……とした」「……してみたいと思います」「どんな思いですか」「……と振り返る」「先行きは不透明です」などを、鮮やかに叩き切っていて痛快だ。意外だったのは、あの朝日新聞の人間でありながら、まるで朝日らしくないことを書く。「君が代」や「北朝鮮」に対する考えは、まっとうというか健全というか、よくぞ書いてくれたと感動してしまった。朝日人がそんなことを書いていいのか、社内で迫害を受けないのか心配になるが、社内では言論の自由は保証されているから、まったく問題はないそうだ。それは当然といえば当然だが、それでいてどうして朝日新聞はああなるのか、まさに「学のあるバカ」が多い新聞社ということなんだろうな。著者をまちがって借りた本だが、こんないい本に遭遇できてラッキー。(柴田)
< http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4774002763/dgcrcom-22/
>
「学はあってもバカはバカ」
・観劇中のこと。私の右横の男性は、観劇慣れしているのか、ひじかけに手を出さず、後ろの邪魔にならないように小さくなって静かに見ていた。後ろの男性は、終始、ちらしの入っているビニール袋をさわっていて、私はその袋の耳元にいるため気になってくる。髪を切って耳を出した弊害あらわる。通路にゴキブリが出たのではとびくついたら、その男性の靴が私の横にあった。私のびくつきを察し、するすると足は下がっていった。劇場の椅子は女性向きなのかもしれない。体の大きな男性でも座れる椅子を作らないから女性客が多いのか? 芝居は女子供が見るもの、とも言うけれど。通路をはさんだ横の男性は、ぎりぎりに入ってきた上、手元が明るい。目の端に入るその光を見たら、彼は舞台をちらちら見ながらメールを打っていた。こういう時、注意をするとその声が、別のお客さんには邪魔になる。観劇する時に携帯の電源を切るのはマナーだよ、もし着信音が鳴ったらどうするんだよぉ、この劇場も宝塚大劇場みたいにジャマー出しておいてよぉ、とやきもき。しかしその男性は、色町のシーンで女性らが足をあらわに踊りはじめると舞台をちゃんと見始め、その後、携帯を閉じた。電源を切ったかどうかは定かではない。そして、高さのあるヘアスタイルであらわれたお嬢さん。この人はお芝居の最中に何度も出たり入ったり。二列目ど真ん中という場所で行き来する度胸に驚き、毎回案内する劇場のお姉さんや、そのたびに遮られる観客に同情。こういう時、お目当ての役者が出ないシーンは興味ないのね、とは思わず、きっとお腹を壊しているのね、と思うことにしている。後続車につつかれた時、その運転手はお腹を壊していて早くトイレに行きたがっていると思えば、気持ちよく譲れる、という考えの応用である。/里季さん、あの曲私も好きなんです。薔薇の運命はオスカルもかと。友人が歌っているのを聞いて、かっこいい曲だと思いました。/スペースインベーダーがPSPとDSで同時発売。BGMはDSがZUNTATA、PSPはSUGIURUMN他と変えている。PSPの体験版をやってみたが難易度は高くなく、さくさくリズミカルに進み爽快!(hammer.mule)
< http://www.macros.co.jp/merchandise/telepause/
>
テレ・ポーズ。電池切れの警告音までは無理だけど
< http://www.macros.co.jp/press/newspaper_list.html
> 2000年2月4日
< http://www.taito.co.jp/csm/title/2007/sie/
> Space Invaders Extreme
アイダ・ルピノの泣き笑い
十河 進
< https://bn.dgcr.com/archives/20080222140400.html
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●「アイダ・ルピノ」というジャズの曲
カナダ出身のジャズ・ピアニストと言えば巨匠オスカー・ピーターソンが有名だが、他には鬼才と言われたポール・ブレイという人がいる。この人に「オープン・トゥ・ラブ」というアルバムがある。1972年9月11日にオスロで録音されたものだ。ソロ・ピアノの名盤と言われている。
そのアルバムの2曲目に「アイダ・ルピノ」という美しい曲が入っている。最初に聴いたとき、僕はタイトルに気付かなかったが、ライナーノーツを読んでいたら「アイダ・ルピノ」と名付けられているのを知って、改めて聴き直した。
「アイダ・ルピノ」という曲は、ポール・ブレイの別のアルバム「クローサー」(1965年12月録音)の冒頭でも演奏されていて、彼のお気に入りの曲らしい。作曲したのはカーラ・ブレイ。カーラもポール・ブレイもフリー・ジャズの時代に人気があったミュージシャンだから、曲自体はアヴァンギャルドな印象はある。
アイダ・ルピノは1940年代から50年代に活躍した人で日本では「忘れられた女優」の印象があったから、1960年代半ばにその名を付けた曲が作られたのが僕には少し意外だった。僕は、アイダ・ルピノという印象的な名前を子供の頃に覚えたけれど、彼女の映画をきちんと見たことはなかったのだ。
ところが、後で気付いたのだが、大学時代に僕が公開を待ちかねて見にいった「ジュニア・ボナー」という映画にアイダ・ルピノが出ていたのである。その映画はポール・ブレイの「オープン・トゥ・ラブ」が録音されたのと同じ1972年にサム・ペキンパー監督によって作られたものだ。
当時はサム・ペキンパー監督の全盛期だった。前年の「わらの犬」で一般的な人気が出て、1972年は「ジュニア・ボナー」と「ゲッタウェイ」を制作した希有な年だった。どちらもスティーブ・マックィーン主演作である。その「ジュニア・ボナー」でマックィーンの母親をアイダ・ルピノが演じていた。
しかし、そのときのアイダ・ルピノの記憶はあまり残っていない。「ジュニア・ボナー」は父と息子の話であり、母親はそのふたりを見守る重要な存在ではあるが、目立つ役ではなかったと思う。だから、見終わってから「あれがアイダ・ルピノだったんだ」と気付く始末だった。
1918年生まれのアイダ・ルピノは、その当時、53歳か54歳である。二十歳そこそこの僕の印象に残る要素は何もなかった。自分の母親より年上なのである。アイダ・ルピノという名前を意識したのは、小林信彦さんの文章を読んだときだった。
「われわれはなぜ映画館にいるのか」(晶文社)という小林信彦さんの本を、僕は1975年の3月11日に買っている。その中に「ハンフリー・ボガードの肖像」と題された文章があり、「『ハイ・シェラ』を中心に」と副題がついていた。その文章を読んで、僕は日本未公開の「ハイ・シェラ」を知った。
小林信彦さんは「この映画は72年の夏、30分ほどカットしたのをNETテレビで放映したから、ごらんになった方も多かろう」と書いていた。僕はその放映を見ていたのだ。そして、まったく忘れていたのだけれど、その映画のクレジットは「トップがアイダ・ルピノで、ボガードは二番目」だったという。
●ボギーのヒーロー・キャラクターの原型
その映画のラストシーンは鮮烈だった。岩山に追いつめられた犯罪者。警官たちが抱囲する。犯罪者を演じるのはハンフリー・ボガードである。小犬が鳴きながら岩山を駈けのぼる。その犬の鳴き声に思わず岩陰から立ち上がるボギー。警官隊の狙撃手がボギーを撃ち抜く。
14インチのブラウン管で見た、モノクロのタイトルもわからない映画のラストシーンが深く深く僕の胸に刻み込まれていた。だから、小林信彦さんの文章を読んだとき「おお、あの映画ではないか」と僕は小躍りした。ようやく気になっていた映画の正体がわかったのだ。
小林信彦さんの文章を読んで以来、「ハイ・シェラ」(1941年)は僕にとって気がかりな映画となった。いつか改めて完全版を見たいと切望した。テレビ放映のときの面白さだけを憶えていて、タイトルさえきちんと記憶していなかったのだ。おまけに、ヒロインのアイダ・ルピノの顔も浮かんでこない。
それから何年後のことだろう。僕は「ハイ・シェラ」がレーザー・ディスクで発売されたことを知り、すぐに買った。1941年の制作。アイダ・ルピノは23歳である。1933年に映画デビューしたアイダ・ルピノはすでに人気絶頂の頃で、40を過ぎて初めて主演を張るボギーを従えタイトルロールのトップを飾ったのだった。
しかし、「ハイ・シェラ」は明らかにハンフリー・ボガード主演映画である。アイダ・ルピノが登場するのは映画が始まってしばらくたってからだし、それ以降も出てこないシーンがかなりある。しかし、スターの格としては(それと、おそらく出演料も)、当時はボギーより上だったのだろう。
長く脇役(特に悪役)を演じていたボギーは40を過ぎて「ハイ・シェラ」で初めて主役を張り、次作「マルタの鷹」(1941年)で大ブレークした。それから遅めの花が咲き1940年代に全盛期を迎える。1943年の「カサブランカ」から19 51年の「アフリカの女王」まで中年男の渋さを振りまいた。1950年代後半には再び脇役にまわり性格俳優として活躍し、1957年に死んだ。
「ハイ・シェラ」でボギーが演じたロイ・アールは、その後、ボギーが演じるヒーローの原型のような男である。センチメンタルな心をハードボイルドな言動に包んだ中年男である。言葉はクールだが、やさしい心の持ち主だ。しかし、そんなやさしさを隠そうとする。「あなたはやさしいわ」などと言われると、ムキになって否定する。
ロイはプロの犯罪者だが、相当なセンチメンタリストである。彼が感傷的な人間であることは、最初に恩赦で刑務所から出てきたシーンから描かれる。ロイは迎えにきた仲間に「公園はどっちだ」と聞き、まっすぐ公園に向かうのだ。そこで彼は木々を眺め、太陽の光を浴び、爽やかな風に打たれて自由であることを満喫する。
ロイはさっそく昔の仲間の元へ向かい、新しい依頼を受ける。それは金持ちが集まるリゾート地のホテルの金庫を破り、客があずけてある宝石を奪う仕事だった。そのために西に向かう途中、様々なエピソードで彼が感傷的な人間であることがこれでもかとばかりに描かれる。
まず、彼は自分が育った土地に寄る。そこで懐かしそうに農夫と話していると、釣りをしてきた少年が「何も釣れなかった」と話しかける。彼は活き活きとして釣りの穴場を少年に教える。彼が子供時代の思い出を大切にしているのがわかる。だが、そのロイを見ていた農夫は「あんたはギャングのロイ・アールだ」と気付く。
さらに、ハイウェイを走っていたロイは、農場を失い妻と孫娘を連れてオンボロ車でロスに向かう老人と知り合う。その純情そうな孫娘ヴェルマに好意を持ち、彼女の足が悪いことにショックを受け、知り合いの医者に彼女を診てもらううえ、手術代は自分が出すと言い出す。献身的にヴェルマにつくそうとするロイ。海千山千の犯罪者なのにセンチメンタリストである。
●ラストシーンで犯罪者を愛した女の悲劇に転換する
アイダ・ルピノが登場するのは、ロイがリゾート地のバンガローに着いたときである。アイダ・ルピノは印象的に登場する。バンガローのテラスに腰を降ろして下を向いていたマリー(アイダ・ルピノ)は上目遣いにボギーに視線を向け、あばずれ女のような口をきく。
マリーは、ロイの仕事仲間のベーブがロスで拾ってきた女だ。仲間はふたり、ベーブとレッドである。あるとき、ロイが出かけて帰ってくると、自分のバンガローにマリーが頬を腫らして逃げ込んでいる。ベーブに殴られたのだ。彼は女に暴力を振るう男が許せない。ロイのセンチメンタリストぶりが、またも強調される。
ロイは、動物にもやさしさを見せる。バンガロー村の下働きの黒人が「不運を運ぶ犬」と呼ぶ犬をロイは可愛がる。その犬の飼い主は冬場に雪崩で死に、その後も飼い主に恵まれない。ホテルを襲撃するために出かけるとき、ロイはマリーに犬をバンガローに閉じ込めさせるが、窓から飛び出して追いかけてくる犬を棄てられない。
「女と犬を連れてホテル強盗か」と自嘲気味につぶやくロイに、マリーは「うれしいくせに」と言う。今はロイを愛するようになったマリーは、ロイのやさしさを理解しているのだ。強面のギャングであるロイのセンチメンタリズムを彼女が観客に伝えるのである。
しかし、ロイはヴェルマに心を寄せている。マリーは嫉妬するが、自分の過去を振り返って諦めてもいる。彼女は、昔のハリウッド映画によく出てきた「黄金の心を持つ娼婦」というキャラクターだ。女ひとりで生きてくる間には人に言えないこともやってきただろう、それでも汚れのない心を持つ女である。
やがて、ロイもマリーのやさしさに気付き愛し合うようになるが、すでに破滅のときが迫っていた。マリーと別れて行動していたとき、ロイは警察に見付かり岩山に逃げ込む。ライフルを持って岩山に隠れたロイを警官隊は取り囲み、睨み合いのまま時間が過ぎる。
ニュースを聞いたマリーがやってくる。それを知った保安官はマリーにロイを説得させようとするが、マリーは刑務所の夢を見てうなされるロイの姿を思い出し何も言えない。マリーは愛する男を死なせたくないと泣きながら、ロイは逮捕され刑務所に入るくらいなら死を選ぶだろうことを理解している。
そのとき、マリーの腕をすりぬけ犬がロイをめざして走り出す。その鳴き声を聞きマリーがきていることを知ったロイは、「マリー」と叫びながら立ち上がる。警官がロイを狙撃する。岩山を転げ落ちるロイ。その遺体にすがって泣き、立ち上がったアイダ・ルピノの表情が素晴らしい。
彼女は愛する男を失った悲しみの表情と、彼が死んで逃亡を成し遂げたことへの祝福の表情を同時に見せる。彼女はロイが死んで初めて「自由」を得たことを理解している。もう刑務所の悪夢にうなされることもない。逃げ続ける必要もないのだ。愛するが故に、男のためにそのことを祝福する。
アイダ・ルピノの泣きながら喜ぶ複雑な笑顔がアップになり、彼女が「フリーダム」とつぶやく姿にエンドマークが重なる。そのとき、僕はアイダ・ルピノがタイトルロールの最初になっている理由を理解した。このアイダ・ルピノの表情を見せるために、そのときの彼女の心を観客に理解させるために作者たちは物語を紡いできた。ここに至って「心やさしい犯罪者の悲劇」は「心やさしい犯罪者を愛した女の悲劇」へと転化する。
アイダ・ルピノは、この作品から7年後、30になるかならない頃に映画制作に乗り出し、9年後には監督作を手掛ける。女性監督のはしりだ。あの時代の美人女優としては珍しい。独立心のある、しっかりした女性だったのだろう。1995年、彼女は77歳で人生を終えた。充実した人生だったに違いない。
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
占いを信じる方ではないけれど、まったく気にならないというほどクールではない。とある占いによると、今年は衰運からスタートし、夏に向かってゆるやかに上昇するらしい。確かに、このところ衰運を実感することが多い。やっぱり、それなりに気にしているのかもしれない。
●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/shop/shop2.asp?act=prod&prodid=193&corpid=1
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■うちゅうじん通信[16]
うちゅう人ダラける。
高橋里季
< https://bn.dgcr.com/archives/20080222140300.html
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2月25日発売! 甘糟りり子「ミ・キュイ」文藝春秋から。私は表紙のイラストを描きました。とっても綺麗な本に仕上がっています。次回は、この小説の感想文を書いてみようかな。
< http://www.bunshun.co.jp/book_db/3/26/63/9784163266305.shtml
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さて、今日はうちゅう人のダラけた一日。タイトルに「うちゅう人」と付けるだけで、なんだか簡単に副題が出来上がるので、このやり方がすごく気に入っている私。なぜ、ひらがなの宇宙なのかは、柴田編集長の好みらしいので、謎のままですが。なぜなの? ま、いいんですけど。
前回、花は女性のイメージだろうか? 私は花を両性の感じで描こうかな、って書いたでしょう? 花のことを考えると、いつも思い出す歌があります。
草むらに名も知れず 咲いている花ならば
ただ風を受けながら そよいでいれば いいけれど
私は薔薇の運命(さだめ)に生まれた 華やかに激しく生きろと生まれた
薔薇は 薔薇は 気高く咲いて 薔薇は薔薇は 美しく散る、、、
これは、私が子供の時に放送されていた「ベルサイユのばら」というアニメの主題歌です。「ベルサイユのばら」は少女マンガが原作で、宝塚でも演目になっていました。子供の時に、一度だけ、宝塚の「ベルばら」も見た記憶があります。
このアニメの主題歌は大好きなんですが、ひとりで部屋の中とかで歌うと恥ずかしくなって……(べつに歌わなくてもいいのに、花の事を考えていると、いつも口ずさんでしまうんです)。薔薇の運命に生まれたのは、アニメのヒロイン、マリー・アントワネットな訳で、べつに私がそういう女だっていう訳じゃないのに、恥ずかしいっていうのは、不思議です。
そして、やっぱり決まって、映画の「ジャンヌ・ダルク」を思い出します。このごろは、映画「マリー・アントワネット」を追加で思い出し、そうだ、どうして、映画館でプレミアムグッズの薔薇のコサージュを貰わなかったのかな。あれ、可愛かったのに(私の行く映画館は隣の駅の東宝系で、ときどき先着何名様にプレゼントがあるのです)。
あ、花のこと考えていたんだった。そう、花にもいろいろあるのよね。私は花の絵を描く時は、あんまり資料の写真とか見ない。きっと、花なんて、いろんな種類があって、「間違ってる薔薇の絵」を描く方が難しそう。持っている薔薇の香水をシュっとして、「薔薇、、、」とか思いながら描くと幸せな気分。
高校生くらいの時、薔薇の花が嫌いだった。好きだったのはかすみ草という、小さい白い花がいっぱい咲く草で、薔薇はなんだか毒々しい感じがして、かすみ草は可憐で、自分みたいだと思っていた。薔薇は大人の女の感じがして、私は大人の女になるのが嫌だった。でも、部屋に貼っていたのは資生堂のモデルさんのポスターで、薔薇の花が似合う人でした。山口小夜子さん。
それから、男の子から、薔薇の花を誕生日に歳の数だけプレゼントされるという快挙が訪れ、「薔薇の似合う女になってあげてもいいかな。」と思った。が、今にして思えば、イヤイヤ、薔薇の花が似合う女っていうのは難関だわ。大人になったら、アネモネやアザミやダリヤ。大きな蓮の花や、銀座でしか売っていないような珍しい花が好きになったけれど、このごろは、菊とかも好き。
ワイヤーブーケを思い出すと必ずポアンカレ予想、宇宙に行くエレベーターのワイヤーのことを考える。テレビで見た、最新科学が造る、強い強いワイヤーのことを。だけど、ワイヤーブーケってかすみ草よりも小さい白い花をつける蔓性の可憐な花。
どうしても好きになれないのが向日葵。この花の野菜っぽい感じがなんかイヤなの。花なのか、種の容れ物なのか、はっきりしてほしいわ。それになんだか、ヒマワリって、夜になったら走っていそうな気がするの。ハロウィンのカボチャみたいな感じがするの。あれ? でもヒマワリって、花の中では女性っぽくない感じかも。なんとなく体操服を着た女子高生ってヒマワリっぽい気がするな。元気な男の子みたいな花よね。向日葵って、、、。逆に向日葵みたいな女の人をイメージすると、明るくて強くてしかも健気な感じ。
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不思議だな。女の人のキャラクターと、花の持つ雰囲気がリンクするなんてね。いろんな思い出を考えると、花って、やっぱり女性のイメージが強いんだけど両性の感じで、一枚だけ近所の樹を写真に撮りました。プラタナスかな?
ダラダラすることをダラけると言う。今日はダラけて、ひとりで歌をうたって恥ずかしがったりしていましたが、明日は写真をもとに絵が描けそう。
【たかはし・りき】イラストレーター。 riki@tc4.so-net.ne.jp
・高橋里季ホームページ
< http://www007.upp.so-net.ne.jp/RIKI/
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今回は、柴田編集長オススメの本「謎解き 広重『江戸百』」を読んで、面白かった! という気持ちのまま、「ひまわり」の絵を描いてみました。背景にロケットを飛ばしてみた一枚と、私としてはとにかくオシャレに仕上げた青い向日葵の一枚。どっちが素敵かな〜?
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■展覧会案内
コダックフォトサロンオープニング企画第2弾
気鋭フォトグラファー写真展[Out of 1 and 0]
コマーシャル・フォト誌が選ぶ12人がフィルムで撮りおろし
< http://wwwjp.kodak.com/JP/ja/professional/photoSalon/2008/p20080225.shtml
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< https://bn.dgcr.com/archives/20080222140200.html
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会期:2月25日(月)〜3月7日(金)10:00〜18:00 土日祝休
会場:コダックフォトサロン(東京都文京区本郷2-2-9 センチュリタワーTEL.03-3813-5313)
みどころ:広告・TVコマーシャル・カタログ・ファッション誌・インテリア誌・ライフスタイル誌等様々なメディアにおいて、常に時代の先端を表現しつづけるフォトグラファー。技術だけでなく、常に新しい発想を提案し、活躍しているフォトグラファーの中から、「コマーシャル・フォト」誌(玄光社)が様々なジャンルのフォトグラファーを選びました。展示する作品は全て、それぞれが表現にあったフィルムをチョイスし、撮りおろした未発表の新作です。フォトグラファー自らのオリジナルプリントも数多く、1と0だけでは表現しきれない奥深い領域をもつ写真の魅力と、フィルムや銀塩ペーパーを使う意味を再認識していただければ幸いです。(サイトより)
出展:阿部高之、菊地哲、日下将樹、隈田一郎、腰塚光晃、鈴木崇史、永瀬沙世、半沢健、本間響子、舞山秀一、レスリー・キー、WATARU
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■イベント案内
「JAGDA TOKYO 学生の日 2008」参加者募集
< http://www.jagda.org/tokyo/
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< https://bn.dgcr.com/archives/20080222140100.html
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次世代を担う若いクリエイターや学生を対象にした一日デザイン学校。第一線で活躍中のグラフィックデザイナーが講師となって、現場で培った生きた経験や知識をもとに、リレー講演と作品講評を行なう。主催は東京ミッドタウン・デザインハブ、企画・実行はJAGDA東京地域。
日時:3月9日(日)13:00〜18:00
会場:東京ミッドタウン・カンファレンス(東京都港区赤坂9-7-1 ミッドタウン・タワー4F)
内容:
1)全講師によるリレートーク
2)作品講評(参加者が持ち込んだ作品を、講師が個別に講評)
講師:青葉益輝、秋田寛、秋山孝、植原亮輔、柿木原政広、工藤強勝、軍司匡寛、小島良平、古平正義、小林洋介、左合ひとみ、谷口広樹、日高英輝、平林奈緒美、福田繁雄、古屋友章、松下計、水野学
定員:160名(要申込)定員になり次第締切り
参加費:学生2,000円、一般3,000円 当日、会場受付で決済
申込方法:申込フォームより
問い合わせ:JAGDA事務局 TEL.03-5770-7509
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■編集後記(2/22)
・川村二郎著「学はあってもバカはバカ」(かまくら春秋社、2004)この胸のすくようなタイトルの語源は、著者がお嬢さん学校・雙葉のシスターから聞いた「立派な大学を出ていても、役に立たない人がいます。私はそういう人を『学はあってもバカはバカ』といいます」という言葉にある。あの「バカの壁」が出る10年も前のことだったという。川村は宮沢喜一や加藤紘一を例にあげ「学のあるバカ」の定義を「当事者なのに評論家然としている人」とした。別な言い方では「実戦に向かない人」「修羅場を避ける人」もっと俗に言うと「ケンカの仕方を知らない人」をいう。学のあるバカの特徴と実例をいくつも列挙していて、おもしろいのなんの。全編この調子で行ってくれと思ったが、この本はバカの見本市ではなく、もの書きのプロによる辛口マスコミ評と回想が中心だ。「言葉の現場に物申す」の章が、さすがに元「週刊朝日」の編集長、言葉の現場に出てくる不適切で不愉快な表現、「してほしい」「気持的」「……としている」「……とした」「……してみたいと思います」「どんな思いですか」「……と振り返る」「先行きは不透明です」などを、鮮やかに叩き切っていて痛快だ。意外だったのは、あの朝日新聞の人間でありながら、まるで朝日らしくないことを書く。「君が代」や「北朝鮮」に対する考えは、まっとうというか健全というか、よくぞ書いてくれたと感動してしまった。朝日人がそんなことを書いていいのか、社内で迫害を受けないのか心配になるが、社内では言論の自由は保証されているから、まったく問題はないそうだ。それは当然といえば当然だが、それでいてどうして朝日新聞はああなるのか、まさに「学のあるバカ」が多い新聞社ということなんだろうな。著者をまちがって借りた本だが、こんないい本に遭遇できてラッキー。(柴田)
< http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4774002763/dgcrcom-22/
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「学はあってもバカはバカ」
・観劇中のこと。私の右横の男性は、観劇慣れしているのか、ひじかけに手を出さず、後ろの邪魔にならないように小さくなって静かに見ていた。後ろの男性は、終始、ちらしの入っているビニール袋をさわっていて、私はその袋の耳元にいるため気になってくる。髪を切って耳を出した弊害あらわる。通路にゴキブリが出たのではとびくついたら、その男性の靴が私の横にあった。私のびくつきを察し、するすると足は下がっていった。劇場の椅子は女性向きなのかもしれない。体の大きな男性でも座れる椅子を作らないから女性客が多いのか? 芝居は女子供が見るもの、とも言うけれど。通路をはさんだ横の男性は、ぎりぎりに入ってきた上、手元が明るい。目の端に入るその光を見たら、彼は舞台をちらちら見ながらメールを打っていた。こういう時、注意をするとその声が、別のお客さんには邪魔になる。観劇する時に携帯の電源を切るのはマナーだよ、もし着信音が鳴ったらどうするんだよぉ、この劇場も宝塚大劇場みたいにジャマー出しておいてよぉ、とやきもき。しかしその男性は、色町のシーンで女性らが足をあらわに踊りはじめると舞台をちゃんと見始め、その後、携帯を閉じた。電源を切ったかどうかは定かではない。そして、高さのあるヘアスタイルであらわれたお嬢さん。この人はお芝居の最中に何度も出たり入ったり。二列目ど真ん中という場所で行き来する度胸に驚き、毎回案内する劇場のお姉さんや、そのたびに遮られる観客に同情。こういう時、お目当ての役者が出ないシーンは興味ないのね、とは思わず、きっとお腹を壊しているのね、と思うことにしている。後続車につつかれた時、その運転手はお腹を壊していて早くトイレに行きたがっていると思えば、気持ちよく譲れる、という考えの応用である。/里季さん、あの曲私も好きなんです。薔薇の運命はオスカルもかと。友人が歌っているのを聞いて、かっこいい曲だと思いました。/スペースインベーダーがPSPとDSで同時発売。BGMはDSがZUNTATA、PSPはSUGIURUMN他と変えている。PSPの体験版をやってみたが難易度は高くなく、さくさくリズミカルに進み爽快!(hammer.mule)
< http://www.macros.co.jp/merchandise/telepause/
>
テレ・ポーズ。電池切れの警告音までは無理だけど
< http://www.macros.co.jp/press/newspaper_list.html
> 2000年2月4日
< http://www.taito.co.jp/csm/title/2007/sie/
> Space Invaders Extreme