Otaku ワールドへようこそ![71]'70年代アイドルを振り返る
── GrowHair ──

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「石川ひとみと倉田まり子は似ていない!」そう主張しつづけて、高校時代を駆け抜けた。もし10年ばかり早く生まれていたら、日米安保がどうしたとか、もっと高級な主張を述べていたかもしれない。学生運動は'72年の浅間山荘事件をもってほぼ終焉しており、世間からは「あんな悪い子に育てた親が悪い」ということで片付けらていた。そのとき10歳だった私には何の接点もなく、高校に上がってからも政治思想には関心が起きなかった。血気盛りのエネルギーの注ぎどころとしては、アイドルがちょうどよかった。


●なぜ'70年代アイドルか

アイドルはいつの時代にも存在してきたのかもしれないが、私にとっては'70年代の、というところに特別の思い入れがある。'60年代の歌謡曲や演歌の歌手は、上の世代にとってはアイドルとして機能していたのかもしれないが、自分の中では「本格派歌手」とラベルされた箱に入っている。和田アキ子、水前寺清子、小柳ルミ子、佐良直美、藤圭子などである。

レコードプレイヤーを所有している家庭が珍しかった当時、歌でメシを食っていこうなんて、大変な覚悟が要ったに違いない。どの歌手も、なんだか凄みがにじみ出ていた。「歌が上手い」なんて言い方したら失礼なほどで、「私が歌そのもの」と言わんばかりの気迫すらあった。しみじみと歌のよさを感じさせてくれるが、私がそう気がついたのは流行が過ぎてだいぶ経ってからだった。中学に入ってから NHKラジオのFM放送の「昼の歌謡曲」などで歌手別の特集が組まれたときなどに聞くことのできる「やや古めの歌手」という認識だった。

'70年代のアイドル歌手は、リアルタイムに見てきた。本格派に劣らず歌は上手かったけれど、その上手さは、練習を怠らなかった努力の賜物という優等生的なものに感じられる。がんばりが報われてスターの座を手中にしました、というさわやかで好ましい印象を放っていた。象徴的なのは岩崎宏美である。声がのびやか、口の開き方がきれいで言葉が明瞭、音程が正確、リズム感がある、そういう技術に裏打ちされた上で、歌に情緒が込められていて、美しさを感じさせてくれる。美しいのは容姿もで、特に、長い髪がすばらしい。

しかし、'70年代アイドルのほとんどは、「美しい」よりはどちらかというと「かわいい」がまさる。キャンディーズ、ピンクレディー、山口百恵、松田聖子、中森明菜、河合奈保子、柏原芳恵、石野真子、石川ひとみ、榊原郁恵、高田みづえ、倉田まり子、甲斐智枝美、などなど。私の中では、歌唱力では「本格派歌手」よりほんのちょっと格下だけど、個人的な思い入れでは一番の「実力派アイドル」という箱に入っている。

「知らない」とおっしゃる方は、一度はYouTubeあたりで検索して、聞いてみてくださいませ。かわいいという要素も大事だけど、歌が下手では話にならないという不文律のようなものがあり、みんな、声ののびやかさや言葉の明瞭さは、耳にたいへん心地よいと思います(振り付けには多少のぎこちなさが感じられるかもしれませんが)。

想像だが、松田トシの尽力が大きかったのではないか。実際、岩崎宏美に歌唱指導しているし、日本テレビのオーディション番組「スター誕生!」では審査員を10年間務めている。出場者に対する講評で、幼稚っぽい甘ったれたような発声を決して許さなかった。はつらつとした若さを売り物にするのはよいが、幼稚っぽさで気を惹こうとするのは芸とは呼ばない、と言っているようであった。

みんな歌は上手かったが、歌のテーマは単純素朴で善良無害なものが多かったように思う。倉田まり子のデビュー曲「グラジュエイション」は象徴的で、「♪グラジュエイション、グラジュエイション、うれし〜く、さびしい〜」である。それは、'70年代の時代の雰囲気を反映していた。'70年代は大阪万博の「♪こんにちは〜、こんにちは〜、世界の〜、国から〜」で幕を開けた、お祭りさわぎの時代であった。「1970年でこんなに盛り上がっているんだから、2000 年になったらきっとすごいことになるね」なんて言いあっていた。人々は浮かれ気分で、付和雷同的で、活気があった。単純なものがウケたのだ。

私にとって、'70年代アイドルは何であったかというと、今の流行りの表現でいうところの「元気をもらう」源であった。みんなすご〜くがんばってるなあ、と感じられた。それは、何か目的を達成するための過程としての悲壮ながんばりではなく、先のことは考えずに、今この時点で最高に輝くために全力を注いでいる。そのがんばり自体が尊いんだ、と思わせてくれる。よし、俺もがんばるぞ、というわけである。

甲斐智枝美のデビュー曲「スタア」からは特にいっぱい「元気をもらっ」た。よく頭の中でずっと鳴っていることがあった。正確には '80年代に入っているんだけど、'81年に高校を卒業した私の中では、まだそこには境界線はないのです(皮肉なことに、元気の源であった本人はずっとのちに自殺してしまいましたね)。

'80年代に入ったあたりで、時代が徐々にシラケてきた。何かに夢中になってがんばる側にいるよりも、それを冷めた目で静観して「よくやるよ」と哀れむ側にいたほうが、大人っぽくて、優位に立てるような空気になってきた。アイドルに血道を上げてるやつは、商業主義に踊らされているのに気づいていない哀れな人であるかのように言われた。

あるアイドル歌手が海外から帰国した際に、税関で荷物を調べられたら性遊具が出てきた、なんてエピソードがまことしやかに語られた。そんな事実があったとはとても思えないのだが、ものごとには裏があって、それを分かってるやつが大人、みたいな風潮の中で、じつにまことしやかな響きがあった。アイドルの純潔性を本気で信じているやつは馬鹿だ、裏では汚い欲望が渦巻き、金が飛び交う世界なんだ、それを見破った者が勝ち、みたいになってきた。

私はアイドルの純潔性を信じたがゆえに夢中になっていたというわけではなく、歌がよくて、がんばりが伝わってくればよかったので、舞台裏が多少散らかっていようと構わなかったのだが、ガキっぽいように見られるのはなんとなく面白くなかった。けど、それだけだったらまだ素知らぬ顔で応援しつづけることもできた。

そのうち、アイドル自身がだんだん安っぽくなってきて、あんまり熱くなって応援するほどでもないと思えてきたのである。「歌がいい」という基本の上に「かわいい」という付加価値が乗っかっている、という構造が逆転し、かわいいことがまず一番で、歌は多少下手でもOK、となってきた。「かわいい」が金に化けるの経済法則。シラケて静観している側の言っている商業主義が、本当になってきた。アイドルが大集団でユニットを組んで出てきたあたりから、私はだんだん離れていった。

こう言うと、時代を下るにつれて、歌は退化の一途をたどってきたかのようだが、そうでもない一面もある。'70年代の歌は万人ウケを狙ったものが多く、表現できることに限りがあった。あのころは、レコードを百万枚売り上げるにしても、まず、国民全員にほぼ知れ渡るほどの知名度を獲得し、ごくごく一部の裕福層がレコードを買うことで達成された。今は、絞り込んだターゲット層に対して重点的に売ろうとするような構造になっている。だから、CDの売れ行きのよい歌手だからといって、国民全体からみればさほど知られていない、ということも起きうる。「情報のセグメンテーション化」と私が勝手に呼んでいる構造。

つまり、情報の流通が限られた区画内(セグメント)に限定され、各情報単位はひとつのセグメント内を瞬時にして駆け巡るのに、セグメントの壁を越えた伝達はあまり起きないという構造である。これは、セグメントをまたいだコミュニケーションが阻害されるというマイナスの面もあるのだが、各セグメント内での表現活動においては、万人ウケ狙いという束縛から解放され、幅の広がりと、テーマの思想的深まりをもたらしたように思う。

かつては、歌のテーマとしては取り上げづらかったネガティブな感情、たとえば厭世感、反抗心、殺伐、荒廃なども、アリになってきた。2005年に犬神サーカス団が出した詩集「老婆の処女膜」にはぶっ飛んだけど。そんなものが詩のテーマになるんですかい、と。まあ、'70年代の歌が概して誰にとっても覚えやすく、耳に心地よいものだったのに対し、今は多様化・複雑化の方向へ進化しているということでしょう。

●なぜ倉田まり子か

高校〜浪人時代、私が特に夢中になったのは倉田まり子なのであるが、まあ、ご存知ない方も多いのでしょうか。グリコポッキーのCMに、長崎のオランダ坂(だっけ?)を背景にして出ていて、そこで使われた「HOW! ワンダフル」はそこそこヒットしたんですがね。

倉田まり子のファンになったのは、自分で決めてなったというよりは、偶発的な事情による。私がアイドル系の歌にあまりにも夢中になっているもんだから、まわりの連中は、きっとだれか目当てがひとりいるのだろうと思ったのである。それを知られまいとして、カモフラージュに他の人のも聴くんだろう、と。

実はそれは誤解で、私は特にひとりだけを応援しているということはなかったのだが、まわりは納得してくれなかった。たまたま何かのときに倉田まり子がいいと言ったら、それだろうということに決まってしまった。雑誌などに写真が載ってたりすると、切り抜いて持ってきてくれるやつもいた。「有効に使ってくれ」と。いや、特にファンじゃないから、と受け取らないのも変なので、まあいいや、と屈してしまった。そうこうするうちに、自分でも倉田まり子のファンなのだという暗示にかかってしまった。

「月刊平凡」や「月刊明星」をときどき買ったし、「別冊近代映画」が倉田まり子特集号を出したときにも迷わず買った。それで、日出女子学園高校を卒業したのだと知ると、それはどんな学校かと目黒まで見に行ったりもした。しかし、なぜか本人を見に行こうという考えが起きなかった。アイドルは遠くにありて思うもの、であって、自分と同じ平面に降りてきてはいけないような気がしていた。

芸能人の実物を初めて見たのは、浪人してからである。私は駿台予備校市ヶ谷校舎の午前中のクラスにいた。途中にあるシャープのショールームで森田公一が司会を務めるラジオ番組の公開録音が週に一回、昼ごろ行われた。授業の帰りに、外からガラス越しに眺めて行くのが楽しみであった。毎回、ゲストが来たのだが、旬のタレントが来ることはまずなく、まだそれほど名の売れてない新人か、山を越えた過去の人ばかりであった。それでも私にとっては十分すぎるくらいすごいことだったのだが。

浪人生活も大詰めに差し掛かったころ、倉田まり子の描く軌道が、私の軌道とついに接点をもった。その番組収録のゲストとして来たのである。私は整理券をもらって中で見ることができ、収録後には一言言葉を交わすことができた。いや、何を言ったのかよく覚えていない。言葉に詰まってずいぶん長く沈黙が続いたあげく、「がんばってください」、「ありがとうございます」のようなありきたりのあいさつに終わったような気がする。とにかく、握手をした。浪人してよかったとしみじみ思った。今にして思えば、私の人生のクライマックスであった。

大学の3年のときだったか、投資ジャーナル事件が発覚した。中江滋樹会長が「絶対に儲かる」という触れ込みで利用者から金を集め、実際には投資をせずに着服していた、詐欺事件である。倉田まり子は週刊誌に「中江の愛人で7000万円の家をもらった」と書かれ、スキャンダルになった。

記者会見のことはおぼろげながら覚えている。若い女性記者が、侮蔑しきった調子で「あんたそんなことして恥ずかしくないの?」と責めるのを、泣くこともなく黙ってにらみ返していたのではなかったか。私は打ち負かされた気分だった。芸能界の舞台裏は汚いという、シラケ側の言い分を認めざるを得ない格好だ。まわりがからかうのに合わせて、私も「これから何を糧に生きていったらいいのか分からなくなった」などと冗談半分に言っていた。

倉田まり子は、芸能界を追われるようにして、引退した。実は、7000万円のことは濡れ衣だったらしい。しかも、身の潔白は引退前に明らかになっていたらしい。しかし、マスコミは謝罪することもなく、不当に貶められた名誉が回復できなかったということらしい。

その後、法律事務所の秘書、法律の予備校の講師を経て、現在は独立してキャリア・カウンセラーになっている。
< http://www.tsubotamariko.com/
>

うーん、その姿は、かつてのアイドル歌手というイメージからすると、ちょっと幻滅なところもなくはなく、あー、見なくてもよかったかなーという思いがないでもない。しかし、よく曲がる人生、なかなか大変だったんだろうなあと想像すれば、沸き起こる敬意もけっして小さくない。紆余曲折を経て、いろんな人に出会い、人生への理解が深まっていったのだろうなぁ。

……とまあ、今回は私の過去の趣味のことを筆にまかせてつらつらと書いてきたわけで、あらためて、何が言いたいのかと問われても困るのだが、まあそういうわけで、倉田まり子と石川ひとみは断固として似てないのである。

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp

今回は何を書くか、けっこう迷いました。1月に山へ人形を撮りに行った話もあるし、桜を背景に人形を撮るためのロケハンで墓地めぐりもしたし、そのついでに山岸涼子の恐怖漫画を墓地で読んだりしたし、行きつけのメイドバーでは面白い人に会ったし、荒川沖連続殺傷事件では犯人がゲームオタクだったというので何かコメントしておきたいし。あれこれ考えるうちについつい現実逃避して、YouTubeで動画を見まくり、30年ばかり過去へタイムスリップして過ごしてしまったので、結局その話題になったというわけです。/「MANDALA」Vol.2、読みました。創造性の高い絵に圧倒されました。/裁判員 月に代わって お仕置きよ! ... mixiの「中途半端なオタク」コミュに裁判員制度のPR看板の言葉を考えるトピを立てたら、一日で300件以上のアイデアが寄せられました。いや〜、笑った笑った。実際、キャラになりきった裁判員とか出てきそう。日本、終わったか。