[2443] 人情がなくなりゃこの世は暗闇

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<本能が壊れたというふうにも見える>

■映画と夜と音楽と…[378]
 人情がなくなりゃこの世は暗闇
 十河 進

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■映画と夜と音楽と…[378]
人情がなくなりゃこの世は暗闇

十河 進
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●人情なんて余計なものを背負ってちゃ生きていけねぇ

股旅映画の傑作「ひとり狼」(1968年)の中で、市川雷蔵演じる渡世人の伊三蔵は「おめぇにぁ人の情というものがねぇんだな」と同業の孫八(長門勇)に問い詰められ、その信条をこう吐露する。

──親分もなきゃ子分もねぇ、ねぐらもなきゃ身よりもねぇんだ。渡世の掟がたったひとつの頼りよ。人情なんて余計なものを背負ってちゃ生きていけねぇ。

それを横で聞いていた水車守の老人(浜村純)は、「おめえ、正気で言ってるのかい。人情がなくなりゃ、この世は暗闇だ」となじる。

そのセリフで思い出したのは、僕が子供の頃に村田英雄の歌でヒットした「人生劇場」の歌詞だった。「義理がすたればこの世は闇よ」というフレーズである。義理と人情は対立概念として捉えられている。だから、高倉健は「義理と人情はかりにかけりゃ義理が重たい男の世界」と「唐獅子牡丹」で歌った。

しかし、義理がすたればこの世は闇になり、人情がなくなればこの世は暗闇になるとしたら、義理と人情とは何がどう違うのか。「義理」と「人情」は、ときに対立する概念としても捉えられる。義理が社会的関係の中で守るべきものであるとするなら、人情は自分の心が欲するものである。

たとえば、近松門左衛門は「義理と人情に引き裂かれる江戸人の心」を描いたと言われる。代表作である「心中天の網島」(1969年)の遊女小春は、紙屋治兵衛への恋慕(人情)と彼の女房おさんへの義理とのしがらみで身悶えする。彼女の心は男への恋心に充ちているが、正妻への義理がそれを抑制しようとするのだ。

そうした二律背反の感情がせめぎ合った果てに、心中することで相克から逃れようとする。しかし、僕はこの義理と人情の対立構造がよくわからない。恋しい男と添い遂げるのなら情を優先したことになるだろうけれど、心中することで義理は果たせるのか。正妻の方は、遊女と心中してしまった亭主に対してどういう感情を持てばいいのか。正妻の心の傷は深い。

健さんが歌う「義理と人情はかりにかけりゃ義理が重たい男の世界」の意味はよくわかった。男にはやらなきゃいけないこと(義理)がある。自分が死んで悲しむ女を振り捨てて(人情を捨てて)、悪い奴はぶった斬る。男は、情に流されて生きるわけにはいかない。だから僕は、情を捨て義理を選んで殴り込みに赴く健さんに拍手を送り続けた。

「人生劇場」で歌われる「義理がすたればこの世は闇」の意味もわかりやすかった。「俺も生きたや仁吉のように」というフレーズがあるように、吉良の仁吉を讃えている。東映映画「勢揃い東海道」(1963年)を見て、僕は吉良の仁吉が何者かを学んだが、まさに義理と人情のせめぎ合いの果てに、情を捨て義理を選んだ代表的な先人である。

三州吉良港を縄張りとする仁吉の元に、兄弟分の神戸の長吉が荒神山の縄張りを安濃徳に奪われたと泣きついてくる。安濃徳は仁吉の恋女房の兄である。悩んだ末、仁吉は義理(兄弟分に味方すること)を選び、情を捨てる(敵の妹である恋女房を離縁する)。ちなみに東映オールスター映画だから、仁吉は市川歌右衛門、清水の次郎長は片岡千恵蔵が演じていた。

どうも日本人は、この義理(社会的な関係)と情(個人的な思い)の相克が好きらしく、そういうドラマは昔から多い。しがらみの中で悩んだ挙げ句、個人的感情を克服し、義理を選ぶことが美しい行為とされる。義理と人情をはかりにかけて、義理を選ぶことに自己犠牲的な美学を感じるのだろう。これは、現在の企業戦士と呼ばれる人たちの精神性とも似ている気がする。

しかし、「ひとり狼」の中で浜村純が「人情がなくなりゃこの世は暗闇だ」と言ったとき、僕はそちらの方が正しいのではないかと思った。いや、正しいと思ったと言うより、しっくりきたと言うべきか。「人の情け」がなくなれば、確かにこの世は暗闇だ。愛情も友情も…、同情さえも存在しない。

●理念と人情のせめぎ合いがダイナミックに繰り広げられる

「亡国のイージス」(2005年)が公開されたとき、日本映画を真摯に評論し続けている山根貞男さんは、朝日新聞紙上にこう書いた。

──宮津とヨンファは、まさにその一点、自分の国のあり方を憂える情念で結びついた。同じような思いを抱く渥美は、彼らと屈折した形で敵対する。そんな国家理念の徒に対し、人情家の仙石は、人を殺して何が国のありようだと叫ぶ。こうして全編、理念と人情のせめぎ合いがダイナミックに繰り広げられる。

「亡国のイージス」は福井晴敏さんが乱歩賞受賞第一作として書いた小説が原作になっている。膨大な原作を映画はかなり省略しているが、日本では珍しいポリティカル・フィクションだ。「KT」(2002年)で金大中拉致事件を映画化した阪本順治監督だけあって、緊迫感に充ちた作品に仕上がっていた。

米軍が秘かに開発していた毒ガス兵器が、北朝鮮(映画ではアジア某国にしてある)の諜報員ホ・ヨンファ(中井貴一)たちに強奪される。ヨンファと同調する「いそかぜ」副艦長(原作では艦長)の宮津(寺尾聰)は、士官クルーを率いて反乱を起こす。彼らは海上自衛隊のイージス艦「いそかぜ」を乗っ取り、ミサイル弾頭に毒ガス兵器を搭載し、日本政府を脅迫する。人質は一千万都民である。

宮津は自衛隊の情報組織ダイスによって息子を殺され、そのことをヨンファから知らされたのだ。母国の堕落に絶望するヨンファは、純粋に国防を考えていた宮津の息子と通じ合うものがあった。宮津は息子が書いた「亡国のイージス」という国防論文の公表、息子を国家機関が抹殺したことを国民の前に明らかにすることを日本政府に要求する。

宮津もヨンファも国を憂う人間だ。自衛隊の情報組織ダイスを束ねる渥美(佐藤浩市)もまた、彼らを制圧する側ではあるが憂国の情を抱えている。渥美は情報が集中するセンターで「いそかぜ」と交信しながら、様々な手を打っていく。その駆け引きが映画を牽引する。ハラハラドキドキを生み出す。

「いそかぜ」には士官連中だけではなく、クルーたちが乗っている。彼らを束ねる現場の艦長のような役が、先任伍長と呼ばれるベテランの海上自衛官である。「いそかぜ」に何十年もクルーとして乗り込み、艦を自分の家のように愛しているのが仙石(真田広之)だ。先任伍長である彼は若い自衛官たちの父親であり、兄のような存在だ。

そんな仙石の元に新しく配属されてきたのが、如月行という若い海士だった。彼は仲間たちと馴染もうとせず、不審な行動を取る。しかし、絵心のある仙石が任務が終わって甲板で夜の海をスケッチしていたとき、如月はその絵を覗き込むようにしてアドバイスをする。如月が描いたタッチを見ただけで、仙石には彼のきらめくような才能がわかる。

一瞬、心を通わせた仙石と如月だったが、副艦長の反乱によってクルーは全員離艦を命じられる。だが、たったひとり残った如月を見捨てられず、仙石は海中に飛び込み、爆破によってできた艦の底部の亀裂から「いそかぜ」に戻る。仙石は、如月が「いそかぜ」反乱を予知したダイスによって送り込まれた工作員だと知ったのだった。

●すべての映画は人の「情」を描いている

「亡国のイージス」の原作を僕は長く敬遠していたのだが、先日、急に気になって読んでみた。もっと早く読んでおけばよかったと後悔した。長い長い物語を短く感じた。映画では説明不足だった部分が明確にわかった。しかし、改めて映画化作品は実によくできていたと思う。テーマは見事にすくい上げられている。やはり、山根さんが指摘した「理念と情のせめぎ合い」こそが福井さんの描きたかったことなのだ。

映画ではほんの短い回想シーンでしか描かれない如月行の生い立ち、ヨンファと美しい殺し屋である妹ジョンヒの過去がじっくりと書き込まれており、涙ぐむこともしばしばだった。「中井の悲しみを秘めたテロリストの非情さが胸を打つ」と山根さんは書いていたが、母国の堕落に絶望した狂気のテロリスト・ヨンファの悲しみの源が理解できるのだ。

「亡国のイージス」を見る、あるいは読むと、憲法九条と戦争放棄、矛盾を抱えた軍隊としての自衛隊、平和ボケした日本、真の国防とは何か、戦争の本質…、そんな言葉が頭の中で渦を巻く。一方、親子の情、兄妹の情、海士たちの友情、人が人を思う感情…、まさに様々な人の情が身に迫って感じられる。

宮津は憂国の志をタテマエにして日本政府に要求を突きつけるが、その実、最愛の息子を殺された無念さに突き動かされて行動している。宮津の復讐心は、親の情が生んだものだ。また、ヨンファも「よく見ろ、日本人。これが戦争だ」という印象的な言葉を口にする政治的テロリストであり、非情に人を殺せる人間ではあるが、妹との情の結びつきは固い。

そして、何より仙石が自らの命を顧みずに「いそかぜ」に戻り、圧倒的な敵を相手に孤軍奮闘するのは、如月への強い思いからである。孤独に生き、人を寄せ付けない如月がほんの一瞬見せた人間的な弱さや優しさ、それを見た仙石は如月を放ってはおけない。それは先任伍長として隊員を守るという、まさに父親が息子を思う情に他ならない。

そして、如月の行動原則もダイスの工作員としての任務ではあるけれど、心を通わせた先輩と後輩がテロリストに殺されたことに対する情念が、戦闘には不慣れな仙石を救いたいという思いが、それを後押ししている。誰も信じなかった如月を変えたのは、仲間たちの情であり、仙石の情けだった。それらが、プロとしての教育を受けてきた孤独な工作員の閉ざした心を溶かしたのだ。

映画で如月一等海士を演じたのは、勝地涼。この映画で初めて見たが、得な役のためか強く印象に残った。その後、「この胸いっぱいの愛を」(2005年)で演じたヤクザの役もよかったけれど、「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」(2007年)で演じた主人公の友人であるオカマっぽい美容師は、イメージが違ったなあ。

しかし、いろんな映画をアトランダムに並べてみても、すべての映画が描いているのが「人の情」だとわかる。「この胸いっぱいの愛を」は果たせなかった思い(情)を残したまま死ねなかった人間たちの話だし、「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」は母への情を描いた映画だった。

どんなものをテーマにしても、それが悪い感情や非情さを描くことであっても、愛情や友情の物語であっても、人間を描く以上、人の情を描くことになる。人間とは情を持つ生き物なのである。「人情がなくなりゃこの世は暗闇」になるのは当然のこと。だから僕は、情けはひとのためならず、と時々つぶやく。自分自身に言い聞かせるように…

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
早めの梅雨が始まった。世の中には、雨の日にはできないこともある。いや、やろうと思えばできるのだが、やりたくないのが人情だ。運動会は「雨天順延」が普通だが、順延してまた雨だと「雨天決行」になる。しかし、雨風が強い日には「出社順延」したくなるなあ。そうもいかないので、仕方なく出ていく…。

●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/shop/shop2.asp?act=prod&prodid=193&corpid=1
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受賞風景
< http://homepage1.nifty.com/buff/2007zen.htm
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< http://buff.cocolog-nifty.com/buff/2007/04/post_3567.html
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■Otakuワールドへようこそ![75]
これでいいのか冷血社会? 秋葉原通り魔事件に思う

GrowHair
< https://bn.dgcr.com/archives/20080613140100.html
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別の話題で途中まで書きかけたところで、秋葉原での凶行のニュースがネットで速報されているのを見つけ、続報や掲示板から目が離せなくなり、筆が止まってしまった。書きかけた話題は次回に回すことにして、今回はこの事件のことを書きます。

まずは、亡くなられた7人の方々のご冥福をお祈りいたします。先進性とユニークな文化で人々から愛される街秋葉原において、このような凶行がなされるとは誰しも思いも及ばなかったことで、日曜の午後の歩行者天国をまったく無防備で歩いているところへ、何の恨みを抱かれる覚えもない赤の他人から突然の襲撃を受ける理不尽さを思えば、被害に遭われた方々のくやしさ、無念さは察するに余りあります。平和なショッピング街の空気を暗転させる凶行になんのためらいもなかった犯人の神経はとうてい理解の及ぶところではなく、心凍らせるものがあります。

被害に遭われた方々にはもちろんまったく責はなく、全面的に犯人が悪く、相応の裁きを受けるべきなのは明らかなことです。しかし一方、このようなことが起きてしまう社会というのは、けっして健全な状態にあるとは言えないのではないかという不安もぬぐいきれず、もしかすると我々はこの事件から何か教訓を得て、社会のあり方を考え直す機会と捉えるべきなのではないかとも思えてきます。もはや昭和の時代が遠く感じられるほど、人心はどんどん変化していきます。だけど、社会の進んでいく方向、これでいいのでしょうか。

●犯人が死刑になればそれで解決なのか

犯人はほぼ間違いなく死刑になるであろう。裁判では被告人の精神鑑定が求められ、責任能力の有無が審理の焦点となるであろう。素人診断は慎むべきではあるが、予想として述べておくと、鑑定結果はおよそ「被告人は、言動の随所から統合失調症(旧称:精神分裂病)的な気質が多分に認められるものの、統合失調症と診断すべきほどの重度な障害は認められず、人格障害3クラスタ10類型のうち、Aクラスタ、統合失調症型人格障害と診断する。その中でも比較的軽度であり、犯行時において、善悪の判断力および自己コントロール能力は十分にあったと考えられ、責任を問うことができると判断する」といったところであろう。

だけど、死刑執行を見届けた上で、「ざまあみろ、これが極悪人の末路だ!」とか「これで被害者の無念が晴らされる」とか言ってみたところで、すっきりした気分になれるだろうか。これで悪いやつがいなくなったから、安心して街を歩けるようになった、と言えるだろうか。

一件の事件としては、長い裁判と収監期間を経て、刑の執行をもって幕引きという以外にないのだろうが、それで黒い雲が晴れたという感じがしないのではなかろうか。その後にもわれわれの中では、そもそもどうしてこんなことが起きてしまったのだろうという理解不能感はくすぶり続け、このような事件は今後もう起きることはないと言い切れるのだろうかという不安感はどこまでもついてくるのではなかろうか。

それは、この件が孤立した特異なものというわけではなく、時代の風潮というか、社会の病理のようなものを反映していることをほのめかしているからのように思えてならない。実際に統計を調べたわけではないので、感覚的にとらえた傾向にすぎないが、昭和の犯罪で目立ったのは、
1)金品欲しさ、あるいは、借金苦から強盗殺人に走る強欲型
2)性欲を満たすために強姦殺人に走る鬼畜型
3)愛憎のもつれから凶行に走る怨恨型
4)ひいきの野球チームがけなされて喧嘩になりエスカレートする激昂型
あたりだったように思う。それはそれで凶悪には違いないが、動機が分かりやすい。

それにひきかえ、最近の凶悪犯罪は、人を殺してみたかったから、とか、死刑になりたかったから、とか、人生に疲れて世の中が嫌になったから、とか、よく分からない動機が多くなってきているようにみえる。そういう供述を真に受けていいのかどうかよく分からないが、もし本当にそんな動機なのだとしたら、なにか冷え切った心を垣間見てしまったような、ぞ〜っとした気持ちになる。こういう凶行は冷血型と呼べるかもしれない。もしただの印象ではなく、実際に犯罪の傾向が変化しているのだとすると、それは、時代の空気というか、社会全体に浸透した人々のものの考え方というか、価値観の変化というか、そういうものと切り離して考えることはできないであろう。

それは、本能が壊れたというふうにも見える。たぶん、そこらの動物にだって、自己保存の本能の他に、種の保存という本能が備わっていて、同じ種どうしが意味もなく殺しあったりしないようにできているのではなかろうか。人間社会もその原則は前提となっていて、お互いに境遇や職業が違ったとしても、それぞれが役割分担して、お互いに協力し、補いあって、社会を運営している。その前提が支えになっていたからこそ、普通に街を歩いているときに、恨みも何もない赤の他人から襲われるようなことは、まず起きないと信じていられた。この本能が壊れていき、自分と立場の異なる赤の他人は、異種の動物と同じなので、痛めつけてもなんとも思わないという感覚が時代を支配しつつあるのだとしたら、怖い。

今回のような犯罪が二度と起きて欲しくないと思うのは、誰しも同じだろう。そのために有効な対策があるのならば、即実行すべきだろうと思うのもまた、誰しも同じだろう。だけど、どうしたらいいのだろう。もし見当違いのことをすれば、かえって状況を悪くする可能性もあることにも十分留意すべきだ。すぐに思いつくのは、監視システムを強化することである。死角が全くないほどに防犯カメラを設置しまくるとか、完璧な個人認証システムを導入するとか、GPSつきのケータイを携帯することを義務づけるとかして、いつどこでだれがどんな行為をしたか、森羅万象すべてをデータとして記録しておくのである。そうすれば、犯罪そのものを未然に防止することはできなくても、起きてしまった犯罪についてはほぼ100%検挙できるようになるから、それが抑止力として作用すると考えられる。

もうひとつ考えられるのは、法律を改定して、犯罪に対する処罰を重くすることである。これも、抑止力として作用しそうに思える。この二つについては、実際にこれまでその方向で進んできたし、これからもますますその方向へ進んでいくだろう。だけど、そこには大きな穴が空いている。犯行直後に自殺したり、もともと死刑覚悟の上だったりする捨て身の凶行に対しては、なんら抑止力にならない。

日本では年間3万人もの人が自殺する。このごろは硫化水素や飛び降りの巻き添え事件もあり、よく「死にたいやつは、誰にも迷惑かけずに一人で勝手に死んでいってくれればいい」という声を聞く。確かに、何のかかわりもない人が、たまたま居合わせただけで巻き添えを食ったりする理不尽さを思えば、そういう希望を述べたくなるのもうなずける。だけど、赤の他人が誰にも迷惑かけずに一人で勝手に死んでいくのは、その人個人の問題であって、自分にとっても社会にとっても何の損失もないから知ったこっちゃないということで片づけてしまっていいものかどうか。

もしこの3万人が、みんな誰かを巻き添えにしたとしたら、年間3万件の殺人事件が起きることになる。これは大変な社会問題だ。だけど、「頼むから人を巻き込むのはやめてね」というのは、自殺する人にも良識はあってほしいと願う、淡い希望・期待であって、どれほどあてにできるものなのか。自分の命を絶とうとする人に、他人の命は尊重してくださいね、というのは、都合がよすぎないか。誰かを道連れにさえしなければご自由にどうぞというのは、はたして良識なのか。

実際には、自殺する人の大半は、自分のような無価値な人間は世の中にとって要らないのだから、ひっそりと消えていくのがふさわしいと思うのか、3万件の殺人事件には至っていない。けれど、だからといって、それを社会の問題として捉えることをせずに放置したら、社会から蹴落とされた上に、誰にも気にとめられることもなく一人だけで消えていくのは納得がいかない、という考え方がだんだんと支配的になっていく傾向が生じたとしてもおかしくない。

捨て身の凶行を事前に防ぐには、小さな兆候を見落とさず、犯行の意図をもった人間を発見し、マークすべきだという考え方もある。今回の事件では、犯人はネットの掲示板で犯行を予告していたという。これにきっちりと対応していれば、もっと早い時点で取り押さえられたのではないかというのは、確かに一理ある。しかし、その手の書き込みというのは、日常的なことらしい。いちいち反応していたら、空振りの連続だ。それに、当局の過剰反応というのも、それはそれで恐い。米国あたりでは、水鉄砲で遊んでいる子供を警官が射殺するという事件が実際にあったのではなかったか。それに、ネットの書き込みを監視するシステムを導入したら、ネットに書き込まずに犯行に及ぶようになるだけだ、という大きな穴があいている。

人を犯罪に駆り立てる刺激の元となるような有害情報の流通を法律で厳しく規制しようという考えかたも、最近ますます支持を得てきているような気がする。これは、新しい法律を制定するなり、既存の法律を改定するなりすればいいだけのことなので、比較的簡単に実施できる。政府として、手をこまぬいているわけではなく、ちゃんと対策をとっていますよ、と示すのにちょうどよいので、飛びつきたくなるのは、分からないでもない。だけど、有害とされる情報と実際の犯罪行為との因果関係がはっきりせず、もし見当違いだった場合の長期的な悪影響が心配である。

ゲームをすることそれ自体が、社会に迷惑を及ぼしているわけではない。たとえそれが、暴力的なゲームだったりエロいゲームだったとしても。もし、こういうものの制作・販売を規制したり、個人的に楽しむだけでも禁止にしたりすると、それに違反すること自体が犯罪になってしまう。そうすると、たとえそのゲームから精神的になんら悪影響を受けておらず、そこから刺激を受けてリアルな犯罪に走る可能性が皆無な人たちに対しても、悪人というレッテルが貼られることになる。

ゲームを所持していたからといって、ちょっとかじって飽きた人もいるだろうし、のめり込んだからって人格に変化をきたすようなことのない人がほとんどだろう。そのような、ゲームとの関わり方の多様性を認めず、ただ所持したことそれ自体をもって、邪悪な心の持ち主に違いないというふうな、決めつけが起きかねない。一人一人個別にしっかり見ていくのは面倒くさいから、一律全部悪人、みたいな。どうせ自分が捕まるわけじゃないから、構わない、みたいな。

それは、特に社会に実害を及ぼしたわけでもない人間を悪人呼ばわりするという点で、一種の差別である。差別された側には、怒り・怨恨というネガティブな感情が生じる。それが、相互理解の亀裂へとつながり、社会全体として、人々の心の温度を下げるほうへ、下げるほうへと作用する。そのことのほうが、有害とされるゲームなどよりもよほどひどい害悪を撒き散らすことになりはしまいか。犯罪との因果関係もはっきりしないままに、大勢に押し流されるような安易な規制、たのむからやめてくれー、と叫びたい。

どうもこういったことを通じて時代が向かっていくのは、人と人とがお互いに分かりあえなくなる方向、相互不信を募らせる方向のように感じられてならない。人々がいつもお互いに明るく声をかけあって、心が冷えていっていないかを確かめあっていれば済むところを、なにやら犯罪防止システムのような冷徹な仕組みをもって代替しようとしていないか。「システム」が「倫理」の代替として機能しうるのか。

アダム・スミスは、経済学で「神の見えざる手」という概念を提唱している。各人が貪欲に自分の利益を追求していれば、その総体としての市場は、自然に調整が働き、望ましい方向へ発展していく。それは、あたかも、神が見えざる手で導いているようだ、というエゴイズム肯定の楽観論である。経済学ではそれは正しいのかもしれないけど、最近の世の中は、この考え方が、生活する上でのあらゆることに敷衍されているのではないかと感じられる。かつては「自分さえよければいいのか」とエゴイズムをたしなめる発言がよく聞かれたが、最近は、社会全体がエゴイズムを当然のこととして受容しているように感じられる。

各人が社会のシステムをよく理解した上で有効に活用し、また、上手に情報収集して、抜け目なくずる賢く、自分が得するように得するようにと生きていけばよろしい。他人のことはそっちのけでよい。その代わり、失敗したら、すべてが自己責任。誰かが救ってくれるなんて甘い期待しちゃあいけない。それで社会全体はうまく回る。そんな風潮になってきているように感じられる。なんかこう、冷た〜い風が吹いているような。

心の温度、下がる下がる。凶悪犯を冷血呼ばわりする人は多くいて、確かにそれは正義という大義名分の下で間違ってはいないのだけれど、そう言っている人の心ははたして暖かいのか。冷血型の犯罪を起こす人の心が冷たいのが問題なのだとすると、それを糾弾する大勢の人々の心の中にも、程度の差こそあれ、それと共通したものが巣食っていたりはしないだろうか。犯人の肩をもつわけではないのだけれど。自分の人生がそこそこうまくいっていて、まあまあ幸福だと思っている人は、わざわざそれを破壊するような捨て身の犯罪は起こさないであろう。だとしたら、犯罪防止の特効薬とは、みんなお互いに助け合って、もっと幸せになればいいのだ。北風と太陽のたとえもある。

先ほど言ったように、捨て身型の犯罪に対しては、監視も厳罰も効力がなく、防犯カメラやGPSなどのシステムの力で犯罪をなくしていこうとしても、大きな穴があいている。だけど、もし誰も取り残されることなく、みんなが幸せになっていけば、犯罪は自然と減ってくるのだ。お互いに、不信ベースで監視しあうよりも、助け合いベースで暖かく見守りあうほうがよほど犯罪抑止力として働くように思えるのだが、いかがだろうか。他人を、自分とは異質の心をもった、けっして分かり合えないものとして壁を立てて糾弾するよりも、他人の悪いところを見つけたら、それと共通するものを自分の中にも発見し、共感を支えにして、お互いに反省しあったほうが、かえって前向きな気がするのだが、いかがだろうか。

●自己内部反復による妄想の強化か? 犯人の実像

これほどの凶悪な犯行に及ぶことに、なんのためらいもなかったようにみえる犯人の人物像とは、いったいどのようなものなのか、事件当初から、詳しく知りたいと思っていた。そんな必要はない、というお怒りのご意見もあろうかとは思う。あんな人非人の心の中のことなど、理解できるはずがないし、理解しようとする必要すらない。厳罰に処して懲らしめてやればそれでいいのだ、と。まさか犯人に共感しているというんじゃないだろうね、と。

いえいえ、そういうことではないのですけれども。犯人とて、生まれてから今まで一貫して冷血人間だったわけではないと思うのです。だとしたら、どこかで道を間違っちゃったのではないかと。それが何だったのかが突き止められれば、この事件を起こさずに方向転換する機会がどこかにあったかどうかが見えてくるのではないかと。

事件が起きてしまった後で、いまさら遅いというかもしれないですが、今も日本のどこかには、もしかすると犯人と似たような境遇に立たされていたり、性格的に似ていたり、近い心理状態にある人がいないとも限らない。そういう人たちが、同じような道をたどって同じような事件を起こすのは、なんとしても避けたい。いやいや、同じ類型に入る人を抽出して、要注意人物のレッテルを貼って常にマークしていましょう、という話ではないのです。もし何かで苦しんでいる人がいるのだとしたら、そこで何か適切な救いが講じられれば、惨事を回避できるのではないか、ということです。言い換えると、この事件を教訓にして、今度同じようなことが繰り返されないよう、打つべき手が見えてくるのではないか、ということです。

私は最初、犯人の人物像をまるっきり見誤っていた。当初、嘘の供述をしていたように、暴力団なのではないかと。服装や髪型がそれっぽかったし。被害者の多さや程度のひどさから、戦闘の訓練を受けたことがあるか、実地経験があるのではないかと。他人の痛みというものに想像が及ばないのだとすると、きっと本などろくに読まず、知的レベルが低く、日々、その場その場の享楽におぼれて暮らすだけの、つまらない人間に違いない、と。大はずれ。翌日ぐらいには、そうとういろいろな情報が出てきていた。

中学の卒業文集には、趣味は読書とあり、しかもあの英語のレベル、15歳で書いたにしちゃ、驚異的に高いぞ。「弱点:過去を問われること」で、"weak point: being inquired of my past" とあるが、文法的に正しくは"weak point: being inquired of about my past" だ。けど、これってネイティブでも正しく言わない人のほうが多いね。それ以外は完璧だ。この時点では、スポーツ万能、学業成績抜群で、いい目立ち方をしていたようだ。しかし、自分の性格を「ゆがんでいる(crooked)」としているのが気になる。実はもう何か翳りがあったのだろうか。

それと、……イラストは、ゲーム「テイルズ・オブ・デスティニー」のリオン・マグナスだ。好きなこととして、そのゲームと「グラン・ツーリスモ」が。あれー? オタクだったのぉ? 「オタク」自体、定義に多様性があり、安易にオタクだと決めつけることはできないけど、少なくともあまり遠くないところにいるようには感じられる。人をメイド喫茶に案内したこともあるそうだし。

あの凶悪犯と同類扱いされて、世間から危険視されたのではかなわないから、たいていの人は、ことさらに違いを強調し、壁の向こう側とこっち側とに隔てる姿勢をとることによって、保身に走っている。それはまあ自然なことだろう。向こう側を強い言葉で糾弾することによって、こちら側の安全を強固にする。向こう側には予備軍がうじゃうじゃいるかもしれない。晒せ、叩け。しかし、「オタク」という範疇でくくられたとき、私は犯人の側に立たざるをえない。先々にわたって、私はぜったいに事件を起こすことはないと言い切れるのだろうか。だんだん自信がなくなってきたぞ。

ところで、宮崎勤・幼女連続誘拐殺人事件('88, '89年)に関する大塚英志と中森明夫の対談本「Mの世代」(太田出版、1989/12) というのがある。大塚は宮崎の部屋の書棚に自分の著書を発見したことをもって、宮崎と同じ側に立とうと腹をくくった。それは、宮崎は悪くないと弁護するということではなく、もし彼の中に間違ったものが巣食っているのだとしたら、自分の中にも同じものがあるのではないかと疑い、反省材料にしていきたいという立ち位置である。世間が魔女狩りに躍起になっているときに、それじゃあ私は魔女の役を引き受けましょう、と言えるのは、潔い。だけど、感心している場合でななく、今回の事件に対する私の立ち位置も、そこに求めるしかなさそうだ。

世の中を見渡せば、一時的にせよ長期的にせよ、ものごとが思い通りに運ばなくて、生きていくのがつらいと感じている人は、ものすごくたくさんいる気がする。だけど、ほとんどの人は、なんとか折り合いをつけて生きているし、凶行に走ったりもしない。する、しないの境目は、いったい何が分かつのか。

本田透の「電波男」(三才ブックス、2005/3/12) は「喪男」(モテない男)のバイブルのような本だ。この中で本田は、童話作家・宮沢賢治と津山30人殺し('38年)の犯人・都井睦雄を対比している。両者とも境遇は共通する点が多かったのに、片や後世に名を残す作家、片や日本犯罪史上最悪の殺人鬼、この明暗を分かつものは何だったのか。それは「萌え」だと論じる。愛情が外部の世界に受け入れらないとき、恨み・妬み・嫉み・僻みといったマイナスのエネルギーに変質していき、体内に蓄積されていく。本田はこれを「喪闘気」と呼ぶ。2次元に目覚め、「萌え」の世界に旅立つことにより、喪闘気に打ち勝つことができると論じる。

それは、ブサメンであるがために決してモテることがなかったとする本人の経験にも裏付けられた論であり、私もこれをけっこう拠りどころにしてきたところがある。2次元に萌えることを獲得したオタクは、悪に走ることはありえないのではないかと。ここがぐらついてくるのは、実は大変な恐怖であったりする。

さて、犯人の人物像についてだが、たいていの場合、当局も小出しにしか公表しないので、なかなか実像に手が届かないとしたものである。ところが、この事件では、ネットの掲示板に本人によると思われる大量の書き込みがあり、まとめサイトに抜粋が上がっている。分量が多い上に、誰かの手が加えられていない生の情報なので、そうとういろいろなことが分かる。貴重な資料だ。もっとも、情報が詳しく流れすぎると、変に共感を呼んだり、英雄視する人まで出てきかねない危険性があることは意識しておく必要があるだろう。読む側にも、冷静な判断力を保つことが要求される。
< http://www11.atwiki.jp/akb_080608/
>

犯人は、ネット上のケータイ用の掲示板 megaview の「究改」に「【友達できない】不細工に人権無し【彼女できない】」というスレッドを立て、6/3(火)から犯行前日の6/7(土)まで毎日100回を優に超える書込みをしていたとみられる。1分間に3回も書込んでいることもあり、自分でも携帯依存だと言っている(6/6(木)[2698])。

自分には友達も彼女もいない、彼女ができるのはイケメンか金持ちだけだ、自分はどちらでもないから絶対に無理だ、ということを繰り返し愚痴っている(6/5(木)[2342] 〜 [2445])。また、幸せそうなカップルに対しては、憎悪に近い嫉妬心をむき出しにしている(6/4(水)[2202] 〜 [2203]、6/4(水)[2331] 〜 [2332]、6/6(金)[2776])。学生時代を振り返ってもいる。中学卒業までは文武両道で順調だったように見えていたが、それは親から叩き込まれたことであって、本当の自分の姿ではないと悩んでいたようだ(6/4(水)[2243] 〜 [2254])。

私が考えたこともなかったような洞察も。「『ちょっとしたことでキレる』幸せな人がよう言う。ギリギリいっぱいだから、ちょっとしたことが引き金になるんだろ」(6/5(木)[2572] 〜 [2573])。「犯罪者予備軍って、日本にはたくさん居る気がする。ちょっとしたきっかけで犯罪者になったり、犯罪を思いとどまったり。やっぱり人って大事だと思う。人と関わりすぎると怨恨で殺すし、孤独だと無差別に殺すし。難しいね。『誰でもよかった』なんかわかる気がする」(6/5(木)[2538] 〜 [2541])。

顔がまずいためにモテないとするのは、本田と似ており、宮沢と都井との対比が、本田と加藤智大とにも成り立つのではないかと思えてくる。「不細工は中身を見てもらえないの。そういう意味で、顔が全てなの。不細工でも彼女ができる、なんて寝言を言ってる人は、とりあえず夢から覚めてくれ。顔が全てなんだから。被害妄想とか、そういうのじゃないの。事実なの。顔が良くても性格が悪かったら長続きしない? その通りだよ。不細工は始まりすらしないんだよ」(6/5(木)[2551] 〜 [2554])。

どうしても、視野が狭いという印象を受けてしまう。しかし、学生時代は読書が趣味だったというから、もともとというわけではなく、希薄化する人づきあいの中で脳内完結した自己対話を繰り返すことで、思考の堂々巡りのサイクルがどんどん小さくなっていって、変な思い込みが強化されていき、凝り固まっていったのではなかろうか。「そういう側面もなくはないな」程度のことが、「ぜったいにそういうふうでしかありえない」という頑迷固陋な思い込みに煮詰まっていく感じ。

これほど拒絶的で、猜疑心が強く、嫉妬深いのでは、つきあいづらくて人が離れていっちゃうのは避けられない流れのような気もするが、人々から見捨てられたことでますます対話が自己内部で完結して閉鎖的になり、妄想が強化されていったようにも見える。人のいうことをまともに聞かない態度である以上、閉鎖的な世界から引っ張り出して広い視野を回復できるように導くというのもなかなか難しそうだが、もしこういう人が近くにいたら、なるべく見捨てない、場合によっては専門的なケアも考えてみる、ということだろうか。

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
カメコ。そういえば、今回の犯人と性格が非常によく似てるなぁ、と思える人が、以前、私の身近にもいました。3年くらい前にローゼンメイデンのイベントで知り合った人なんですが。あるときなどは、ミクシィの私の日記のコメント欄で激昂して大暴れしてくれました。誰にでもかみつく鼻つまみ者で。けど、ミクシィから去っていき、今は音信不通です。どうしてるんでしょうね。

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■編集後記(6/13)

・Time Machineがストップした。正確には、保存先の内蔵HDDがおかしくなったので一時停止中だ。Time Machineは1時間毎に自動的にバックアップするのだが、何だかこの頃、メニューバーのTime Machineはいつ見ても動いていた。観察していたら、毎時30分にスタート、差分のバックアップだから普通はすぐ終わるはずだが、わがTime Machineは延々45分動いているのだった。おかしいなと思っていたら、バックアップディスクはほとんど一杯です、という警告が。古いバックアップが削除されるからこれはOK。そのうち、バックアップボリュームにファイルをコピー中にエラーが起きました、というヤバい警告が。その次は、ディスク修復できない、という警告。あちゃ〜、保存先の内蔵HDDに問題があったのだ。仕方ない、今までのバックアップ分はあきらめてHDDを物理フォーマット。時間があるときに、Time Machine設定することにした(最初の設定ではかなり時間が必要)。それまではバックアップがない。かなり不安だ。じつは長いことバックアップなどしていなかったのだが。一昨日、昨日の二日続けてメインのHDDがクラッシュする夢を見た。(柴田)

・電気自動車が水で動く! 水2リットルで7時間走れるらしい。うわー、凄いやと調べていたら、どうもまだ課題はあるようだ。しかし、水で車が動くようになったら、日本みたいな国には最高ですな。海外に依存する部分が減るね。(hammer.mule)
< http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20080612_wes_movie/
>
< http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20080612_wes_q_and_a/
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ここを見るまでは凄いと思っていたのだが。