<人はどんな風に生きたかで価値が決まる>
■映画と夜と音楽と…[410]
幸せな気分になりたいときに見る映画
十河 進
■Otaku ワールドへようこそ![91]
縁なのか何なのか、出雲の国へ
GrowHair
■映画と夜と音楽と…[410]
幸せな気分になりたいときに見る映画
十河 進
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■映画と夜と音楽と…[410]
幸せな気分になりたいときに見る映画
十河 進
< https://bn.dgcr.com/archives/20090227140200.html
>
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●アステアの優雅な踊りに浸れる「バンド・ワゴン」
僕には「幸せな気分になりたいときに見る映画」が二本ある。一本は、以前にも書いたけれど「バンド・ワゴン」(1953年)だ。このコラムの通しタイトルは、そのミュージカルの中の一曲「あなたと夜と音楽と」から拝借しているくらい、ぼくはその映画が(もちろん曲も)大好きだ。
「バンド・ワゴン」は、第二次大戦前から活躍しているフレッド・アステアのイメージを逆手にとったミュージカルである。フレッド・アステアは、トニー・ハンターという盛りを過ぎたミュージカル・スターとして登場する。「昔、そんなスターがいたね」と言われる存在である。
おかしいのは相手役のシド・チャリシィに「あなたの映画を博物館で見たわ」と言われ、「ダンサーの化石トニー・ハンター」と自分で皮肉るシーンだ。博物館というのは、日本では京橋にある近代美術館の「フィルムセンター」のようなニュアンスだと思う。研究対象として「昔の映画」を見たと言われた感覚なのだろう。
「バンド・ワゴン」には「ザッツ・エンターテイメント」という挿入曲もあり、その曲名をタイトルにしたMGMミュージカルの名シーンばかりを集めた映画は、確かパート3まで作られたのではなかったかな。その映画には、年を重ねたフレッド・アステアも案内役で出ていた。
さて、僕のもう一本の「幸せな気分になりたいときに見る映画」もMGMミュージカルだ。フレッド・アステアは誰かが「重力がない世界で踊っているような優雅さ」と書いていたけれど、その映画の主演スターは「まるでスポーツをするように踊る」男である。力強くエネルギッシュで、体操選手のようなダンスを見せてくれる。
そう、それはジーン・ケリーという名前を持つミュージカル・スターである。もちろん作品は「雨に唄えば」(1952年)だ。あの土砂降りの雨の中で、水溜まりを蹴散らして踊る(びしょ濡れになったから、もうどうでもいいやとばかりに、まるでヤケになっているような踊り方だけど)印象的なシーンは多くの人が見ていると思う。
僕が初めてスクリーンでジーン・ケリーを見たのは「ロシュフォールの恋人たち」(1966年)だった。カトリーヌ・ドヌーヴとフランソワーズ・ドルレアックという姉妹を使い、ジャック・ドゥミ監督とミッシェル・ルグランが「シェルブールの雨傘」(1964年)に続いて作ったフランス製ミュージカルである。
「ロシュフォールの恋人たち」には「ウエスト・サイド物語」(1961年)で人気者になったジョージ・チャキリスとジーン・ケリーが出演していたのだが、最後で誰と誰がカップルになったのかさえ憶えていない。ジーン・ケリーは、すでに50代半ばになっており、盛りの時期を過ぎていた。
その後、僕は全盛期のジーン・ケリーの作品をいくつか見たのだが、妙に屈託のない笑顔になじめず(アステアにも最初はあのウラナリ顔になじめなかったけれど)、積極的に見たことはなかった。それでも、あの雨の中の踊りだけは何度も目にする機会があった。そして、ある日、僕は「雨に唄えば」を見た。
●ジーン・ケリーは権力に屈しない反骨の人だった
お気楽なハリウッドのミュージカル・スターというイメージのジーン・ケリーだったけれど、先日読んだ津野海太郎さんの「ジェローム・ロビンズが死んだ─ミュージカルと赤狩り」では、僕のまったく知らなかった一面を教えられた。ジーン・ケリーは、あの軽薄な(と見えてしまう)笑顔の裏に実に男らしい性格を持っていたらしい。
「硬骨漢」という言葉は好きだが、自分がそう呼ばれることはないと諦めている。人間は「ないものねだり」になりがちだから、僕も「孤高の人」とか「硬骨漢」などと呼ばれてみたいと思うものの「衆愚」とか「軟弱」といった言葉しか浮かばない。しかし、赤狩り時代におけるジーン・ケリーの行動は、硬骨漢と呼ぶに相応しい。権力に屈しない反骨の人だった。
ジーン・ケリーは1912年の生まれで、ブロードウェイでミュージカル・スターとして名を挙げた後、30歳でハリウッドにいき映画デビューする。1899年生まれのフレッド・アステアは1930年代から活躍していたから、ひと世代下の若手ミュージカル・スターの誕生だった。「錨を上げて」(1945年)「踊る大紐育」(1949年)などで人気を獲得する。
さらに、50年代に入り「巴里のアメリカ人」(1951年)「雨に唄えば」(1952年)と大ヒット作が続いた。40歳、脂の乗り切った時期という言い方は月並みだが、その頃のジーン・ケリーの動きは見事と言うほかない。若い頃に比べると、エネルギッシュさはそのままに洗練された魅力が加わった。
そのジーン・ケリーの全盛期は、赤狩りの時代に重なる。津野さんの本は、ジェローム・ロビンズという彼が好きだった振付け師の死をきっかけにして、その赤狩りの時代を丹念に辿った労作だった。従来のハリウッドの赤狩りを扱った本と異なるのは「ミュージカルと赤狩り」という視点である。
「王様と私」(1951年)「ウエスト・サイド物語」「屋根の上のバイオリン弾き」など、多くのヒット・ミュージカルを手掛けたジェローム・ロビンズの政治的敗北(エリア・カザンのように彼は圧力に屈して仲間たちを売った)を追うとしたら当然のことだが、その中でジーン・ケリーの感動的なエピソードが記述されていた。
リベラルな信条を持つジーン・ケリーは、終始、赤狩りに対しては批判的だったらしいが、FBIは彼の身辺調査はしても手が出せなかったという。そんな中でハリウッドに赤狩りの嵐が吹き荒れ、ブラックリストに載った人は仕事を奪われた。アメリカを棄てた(あるいは追放された)映画人もいた。そのひとりが、後に「日曜はダメよ」(1960年)を撮るジュールス・ダッシン監督だ。
ジュールス・ダッシンは、フランスで作ったフィルム・ノアール「男の争い」(1955年)でカンヌ映画祭監督賞を受賞する。そのとき、ハリウッドからきていた映画関係者は「赤」と名指しされたダッシンには誰も近寄らなかったが、ただひとりジーン・ケリーだけがダッシンに駆け寄り祝福した。ジュールス・ダッシンは「奴だけがガッツのある男だった」と語ったという。
その時期のジーン・ケリーは大スターで、誰も手が出せなかったのかもしれない。しかし、それはジーン・ケリーにとっては失うものが大きすぎるということでもある。それだけの人気と地位を持っていれば、誰でも守りに入る。しかし、彼は権力に媚びず、政府の非米活動委員会への召還も怖れず、ブラックリストに載った友人たちとも従来通りのつき合いをし、ときには援助した。
●アメリカ中が反共で凝り固まった中で生きること
赤狩りの時代を、僕は実際には知らない。だが、湾岸戦争が始まった頃のアメリカでは国民の戦争支持率が90パーセントを超えていたし、9・11同時多発テロ後のアメリカのヒステリックで異常な空気を考えれば、全国民が反共主義に凝り固まった時期のアメリカは充分に想像できる。禁酒法が成立するような、昔から極端に振れる国である。
そんなアメリカで聖書より部数が出たと言われるのが、ミッキー・スピレインの小説だった。昔、僕も何冊か読んだけれど、彼が創り出した暴力的私立探偵マイク・ハマーは、まさに赤狩りの時代に誕生した。そして、ハードボイルドの祖とリスペクトされるダシール・ハメットが非米活動委員会に召還されて証言を拒否し獄につながれた1951年、スピレインは「寂しい夜の出来事」という小説を出す。
9・11の後、ハリウッド映画やミステリ小説ではテロリストが悪役となった。それと同じように「寂しい夜の出来事」の敵役を担うのは、共産主義者たちである。「コミュニスト・イズ・ギャング」なのだ。マイク・ハマーは、トミーガンを乱射して共産主義者たちの悪だくみを壊滅させる。そんな小説を大衆は争って読みあさり、洗脳されていった。
トルーマン・カポーティの「ティファニーで朝食を」は1958年に出版されたが、主人公の小説家がかつて住んだアパートの隣人ホリー・ゴライトリーを回想する話である。時代は、赤狩りの時期と重なる。その小説の中でホリーは「あの嫌な赤」と口にする。それは、あの時代のアメリカ全体の空気だったのかもしれない。
そんな中でジーン・ケリーのように生きることは、きわめて困難だったにちがいない。彼は大衆の人気という実態のないものを惹き付け続けなければならなかったし、大スターという地位を始めとして守るべき多くのものがあったはずだ。それでも、それらを失うかもしれない危険を冒して自分の信念に従った。友情を重んじた。追放された友の栄冠を祝福した。
ジーン・ケリーがそんな男だったと知った僕は、数え切れないほど見た「雨に唄えば」をまた見たくなった。タイトルバックから黄色いレインコートの三人が傘をさして唄う。ジーン・ケリーとドナルド・オコナー、それにデビー・レイノルズ(レイア姫ことキャリー・フィッシャーのお母さん)である。
ドン(ジーン・ケリー)は、サイレント時代の映画スター。コズモ(ドナルド・オコナー)は、その親友のピアニストだ。ドンはリナというトップ女優とコンビを組まされているが、リナのワガママと性格の悪さにうんざりしている。おまけにリナはひどい悪声で、喋り方も耳障りだ。
ある日、ドンはキャシー(デビー・レイノルズ)という新人女優と知り合う。キャシーは相手が有名スターとは気付かず「俳優にとっては舞台が一番、サイレントでセリフも喋れない映画は何の意味もない」と言ってしまう。厳しいことを言われ、逆にキャシーが忘れられなくなったドンだが、そんな彼にトーキー映画出演のオファーがくる。
「バンド・ワゴン」も昔の人気スターが新作ミュージカルでカムバックする業界の話だったけれど、「雨に唄えば」もトーキー第一作「ジャズ・シンガー」が公開された1927年の映画業界を舞台にしたバックステージものなのである。「バンド・ワゴン」と同じように様々な劇中劇が演じられる。
トーキー作品に挑戦したドンとリナだが、録音技術がひどくて大失敗する。落ち込んだドンにキャシーは映画をミュージカル仕立てに作り直せば…というアイデアを出す。しかし、リナは悪声だし歌は苦手だ。そこで、キャシーが「この映画だけ吹き替えをする」と言い出す。
その後、雨の夜にキャシーを自宅まで送ったドンは初めてキスをし、その昂揚し幸福感に充ちた気分のまま雨の中に歩き出し、「シンギン・イン・ザ・レイン」と唄うシーンになる。傘を畳み、雨に濡れながら歩くドンは、次第にステップを踏んで踊り始め、タップの音が高らかに響く。
やがて通りの真ん中で水たまりを蹴散らし、派手な水しぶきをあげているドンの後ろに黒いレインコートを着た警官がやってきて睨み付ける。すごすごと傘を広げ去っていくドン。音楽が静かにフェードアウトする。そのシーンは4分ほどなのだが、ジーン・ケリーの芸の凄さを堪能するには充分だ。
ミュージカル仕立てにした映画は成功し、リナはキャシーをずっと自分の吹き替えとして使おうとする。しかし、ドンとコズモの活躍でキャシーはスターになり、新作のプレミアショーの夜、キャシーとドンは愛を確認する。ハリウッド黄金時代のハッピーエンド。もちろん、僕も幸せな気分になった。
そのうえ、今回はラストシーンでデビー・レイノルズとキスをするジーン・ケリーの顔が違ったものに見えた。人はどんな風に生きたかで価値が決まるのだと、今さらながらしみじみと身に沁みる。卑怯未練なことはするまい、と改めて己に言い聞かせた。
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
日本アカデミー賞。ひいきの木村多江さんが最優秀主演女優賞をとって大いに盛り上がりました。きれいだったなあ、この世のものとは思えないほど。着物姿で抜けるような肌に惚れ惚れ。影が薄く、はかなげで、不幸を背負った雰囲気がたまりません。「日本一死体役が似合う女優になりたい」と本人が言ってるってホント? 昔、「リング」の貞子役をやってました。
●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/suiyosha/1400yomim/1429ei1999.html
>
受賞風景
< http://homepage1.nifty.com/buff/2007zen.htm
>
< http://buff.cocolog-nifty.com/buff/2007/04/post_3567.html
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■Otaku ワールドへようこそ![91]
縁なのか何なのか、出雲の国へ
GrowHair
< https://bn.dgcr.com/archives/20090227140100.html
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出雲の国へ行ってきた。出雲の国といえば、出雲大社である。祀られている大国主命は、縁結びの神様としてよく知られている。しかし、私は3次元の女性に縁がない以前に、縁結びの神様にも縁がなかった。朝一番の便で羽田を発ち、廃工場を探検し、カラオケで騒ぎ、12時間後には羽田に戻っていた。いったい何をやっているのだ、と言われそうだが、そもそもの目的は、今月中に有効期限切れになるJALのマイレージを消費することにあったので、これでいいのだ。
●ステーキ肉や毛ガニやワインが手品のように消える
2月12日(木)にJALから宣伝メールが届いた。JALマイレージバンクにたまっている9,500マイルを、黒色和牛のステーキ肉や、オホーツクの毛ガニや、フランスワインの赤・白セットなどと交換できることを知らせる内容である。冒頭の断り書きに、このメールは2009年2月末もしくは3月末に失効するマイルを持っている人に送っている、とある。なにっ?
JALのウェブサイトでログインして調べてみると、49,298マイルたまっている。閑散期のキャンペーン期間中(今がまさにそう)なら、エコノミークラスでヨーロッパへ往復できちゃう量だ。そのうち26,046マイルが、今月いっぱいで賞味期限切れになっちゃうと分かる。このマイル数だけでも、マニラとか、北京とか、台北とか、香港とかへ往復できちゃう量である。それを今ごろ知らせてくるとは、なんと親切なことよ。
土日のセットがあと2回しかない。どちらにもすでに予定が入っている。東南アジアなんて、行ってる暇ないじゃんか。「じゃあ私が代わりに行ってあげる」って、ありがたい申し出が次々と。いいんだけど、マイレージが使えるのは二親等までと決まっているんだなー。それを言うと、みんな蜘蛛の子を散らすように逃げていき、誰も結婚してくれない。
さてどうしたもんか。日帰りの国内旅行で妥協して、残りは商品券に変えとくか。2月17日(火)のミクシィの日記で、「誰か、ちょいと飛んで来いや、って人いない?」と呼びかけてみると、「島根にびゅーんとどうですか?」と応答あり。コスプレイヤーの橋本龍さんだ。去年の5月、鳥取県にある中国庭園「燕趙園」で開かれたイベント「中華コスプレプロジェクト」でカードゲーム「三国志大戦」のSR(スーパーレア)甘寧のコスをしていた人である。
ミクシィのメッセージをばたばたとやりとりして、2月22日(日)に行くことに決まり。勢いで、中野にある行きつけのメイドバー「ヴィラージュ・レイ」のkちゃんにプロポーズしてみたのだが「正気か?」の一言で玉砕。kちゃんは鳥取で龍さんに会う前から、"cure"というコスプレコミュニティサイトで龍さんを発見して、あこがれていた。コンタクトをとって、燕趙園のイベントに行くと聞いて鳥取行きを決め、「合わせ」(同じ作品の別々のキャラに扮すること)ができるようにと同じゲームのR孫権のコスを制作したという経緯がある。
誘えば乗ってくると思ったんだがなぁ。いや、誘いには乗ってきた。「自費で同行します」と。そうまでして結婚したくないかっ。まあ、まだ22歳なんで、理解できなくもないか。つーか、そもそもまだつきあってもいないし。口説くのはこれからじっくりということにして、「おともdeマイル割引」というのを使えば、赤の他人であっても同行者は大幅割引になるし、私は10,000マイル使うだけですむ。このあたりで手を打とう。5日後の旅行のことがたった一日でばたばたと決まり、飛行機のチケット予約まで完了。
本当は米子空港が一番近いのだが。JALの便がないので、出雲空港になる。龍さんが車で迎えに来てくれるという。いやぁ、50kmくらいあるのに、悪いなぁ。機長と直接交渉して米子に降りてもらえないかなぁ、なんて、ふと頭をよぎったが、成功しそうなスキームが思い浮かばず、断念する。
●山陰の前に山陽
2月18日(水)、19(木)は、仕事で福山へ出張。地図で見ると、米子のほぼ真南ではないか。タテに行けばすぐなのに、往ったり来たり、なんだかあわただしいなぁ。
さて、この出張も楽しみにしていた。知り合いが福山に住んでいて、「仕事の後で、お茶しよう」という話になっていたのだ。声優の藤原響さん。いつどこで知り合ったかというと、'05年4月22日(金)、秋葉原のメイド居酒屋「ひよこ家」で。同僚の直江雨続くんと川崎で仕事した帰りがけに秋葉原に寄り、メイド喫茶"Cure Maid"でお茶し、「ひよこ家」へとハシゴした。そのとき、近くのテーブルで飲んでいるグループの中に響さんがいたのである。
いつの間にか、完全にまぜこぜになって話をしていた。当時は、メイドさんのいるお店で、お客どうしが意気投合して盛り上がる、というのはよくあることだったのである。そのグループに混ぜてもらったまま、さらにメイドバー「ヲタンコナス部」へとハシゴしたのであった。
その後も新大久保のメイドバー「エデン」(現在は中野に移転)で飲んだり、カラオケ行ったりと遊ぶ機会がときどきあったのだが、ちょっとした運命のいたずらで福山に帰ることになり、新宿で仲間内の送別会をしてからは、会う機会がなくなっていた。福山でも、ラジオドラマなどで、声の仕事をしているという。
私が仕事で福山にときどき用事ができるようになったのは、まったくの偶然なのだが、おかげでたまには会えるようになった。前回は去年の3月26日(水)だった。あのときは、線路下のショッピングモールの喫茶店で3時間以上にわたって機関銃の銃撃戦のようなヲタ話の応酬で時間があっという間に過ぎ、あやうく19:31ののぞみに乗りそこない、帰京できなくなるところだった。
今回も同じ場所で、ヲタ話。というか、彼女のコメディーのような近況に、こっちが笑い転げていた。ラジオドラマで、若くてカッコよくて、教養と知性に満ち溢れ、物腰の落ち着いた役者さんと夫婦役が組めたことに内心大喜びなのだが、リアルではなかなか茶目っ気のある運命の神様にもてあそばれて、思わしい印象が持たれてないかも、って話。飲み会では、何かの話にブチキレ、眉つり上げて「だっから男って大っ嫌いっ」と吐き捨ててしまった、とか。後悔して凹んでる本人にとっては切実かもしれないけど、聞くほうには抱腹絶倒なのだ。ごめん。あと、「人情チョコ事件」とか。まあまあまあまあ、暴露もたいがいにしておきましょう。あー、楽しかった。続編がぜひ聞きたいぞ。
●ジンライムをすすりながらバッハを聴く
2月21日(土)は、中野で †Children of The Night† というイベントがあった。ヴァンパイアをテーマとする演奏と展示。会場の"Nakano f"は、行きつけのメイドバー「ヴィラージュ・レイ」からわずか168歩という近さ。
去年、銀座のヴァニラ画廊で人形と写真展を開いたとき、オープニング・レセプションでキーボード演奏と歌と朗読のパフォーマンスを演じてくれた二人組のユニット「電氣猫フレーメン」が出演する。なので、人形作家の橘明さんと誘い合わせて行った。今回は、由良瓏砂さんの朗読と歌、永井幽蘭さんのチェンバロと歌。
いやぁ、またしてもすばらしかった。瓏砂さんの朗読は臨場感があって引き込まれるようだし、幽蘭さんの透き通るような高音の声は精密で繊細な楽器のようで、あいかわらず美しい。キリスト教の教会美術や賛美歌から強い影響を受けながらも、あるとき、どうしても相容れないものを感じて反旗をひるがえし、黒ミサに通じるような耽美的で背徳的でダークでゴシックな美の世界を追求するようになっていった、みたいなストーリーを勝手に思い描いていたのだが、後で本人たちに聞いてみたら、そんな意識はまったくなくて、教会美術はずっと好きだという。あらら。
ほかの出演者の演奏もよかった。くにこ人形さんと†Rose Noire†さん。くにこさんは人形のようなものになりきってのチェンバロ演奏。面をつけ、白い長い手袋をしては弾きにくかろうと思うけど、まったく意に介するふうでもなく、見事に演奏。†Rose Noire†さんは男性と女性のユニットで、バイオリンの重奏。女性ヴァイオリニストは怖いくらい綺麗やんけ。
イベント自体は、来場者が踊るような場ではないものの、クラブ系のテイストも多少するような、ゴシックに着飾った淑女が何十人も集う華やかなパーティであったが、演目は本格的で重厚なクラシック室内楽。べこべこのプラスチックのカップに注がれたジンライムをすすりつつ、ヴァイオリンとチェンバロによるJ.S.Bach Concertoが聞けちゃうという、たまらなく贅沢なイベントだ。クラシックのコンサートでは決してありえないざわついた雰囲気が、私にはなぜか心地よい。
それと、めずらしい人に会った。以前、中野のメイドバー「エデン」でメイド&バーテンをしてたつかさちゃん。新大久保時代からのなじみで、「いつもの」と言えばいつものカクテルをつくってくれていた。ちなみにそれは、私が考案した(つもりでいるが、同案は前からあったのかもしれない)「ロシアンチャイナブルー」で、要は、ウオツカのチャイナブルー割である。この日のつかさちゃんは、当時のような猫耳ではないが、かわいいゴスロリ姿。声かけられて、ぜーったいになじみのある顔だと思いつつ、しばらく思い出せなかった。
電氣猫フレーメンは、3月8日(日)16:00から渋谷の「青い部屋」で開かれるイベント"SERAPHITA"に出演予定。SPYSEEでは私とつながりがあると言われながら、実際にお目にかかったことのない黒色すみれさんも、楽しみだ。
< http://furutaniaoi.blog36.fc2.com/blog-entry-721.html
>
●出雲に時間の堆積をみる
さて、前置きが長くなったが、日曜は出雲である。羽田でkちゃんと落ち合い、「結婚しときゃタダなのに」「うるせぇ」の応酬。kちゃんは声優の卵。そっちでの名前は中田圭。実は、本名。ぼちぼち役がつき始めてて、ジャンプスクエアのウェブアニメ「清く正しく美しく」ではボンバーの声をあてている。声が少年声なら、気質も強くたくましい。誕生日は2日しか違わない私だが、同じ寅年どうしでも五黄の寅にはかなうべくもなく、メイドの飼い猫になっているご主人様の図。にゃ〜。
関東から中部にかけては雲ひとつない晴天で、新宿の高層ビル、多摩湖・狭山湖、横田基地、奥多摩湖などが確認できて、kちゃんは大はしゃぎ。富士山、でかい。雲が出てきて下が見えなくなると、二人ともこてっと眠りに落ちる。あ。いや、なんでもない。それで出雲なのかと。
出雲空港に着くと、龍さんの出迎えを受ける。車で移動中、日の丸を掲げた大きな街宣車を何台も目にする。東京でもこれだけの台数そろうのは見たことないんですけど。後で聞けば、2月22日は島根県が制定した「竹島の日」で、式典とか集会とか、いろいろあったらしい。
秘密のロケ地へ。廃工場。これはすごい。一般道をはずれ、細くて急な坂道を登っていく。両脇から伸びた固い蔓がフロントガラスにこここここんっ、と当たる。登りきると、大きな工場が孤立してある。道はそこで終わり、他にはどこへも通じていない。
蔓草に絡みつかれた、みごとな廃墟。中はあらかた片付けられて、がらんとした薄暗い空間が広がっている。何の工場だったのかは、よく分からない。白く不透明なプラスチック製の200mlぐらいの薬品容器が、なぜか何万個と積み上げられている。一部は崩れている。
隣接して、4階建ての女子寮。200人ほど収容できそう。生活の痕跡が感じられないくらい片付けられてはいるが、なぜか、敷布団だけが山積みされていたりする。その上には、おがくずのような小さな木片が堆積している。どうするとこうなる? この辺にはテンが生息しているらしいが、それの仕業? 鉄製の非常階段は、ほとんどのステップが錆び落ちて、ほぼ骨組みだけになっている。何十年放ったらかされているのだろう。しなびたバレーボールとか、クラシックなテレビとか。
もしホームレスが棲みついてたりして、鉢合わせしちゃったりなんかしたら怖いかな、なんて思ったけど、後で考えてみると、そういう人の白骨死体なんかと遭遇しちゃったりしても怖いか。どっちもなかったけど。
「あゝ野麦峠」を思い出す。読んでもいないものを思い出すというのも変だが、国語の授業で習ったのかもしれない。社会だったか。たしか、紡績工場かなんかで長時間労働させられる女工さんたちの、哀しい生活ぶりを描いたノンフィクションではなかったか。今、軽く調べてみると、山本茂実が1968年に発表したノンフィクションで、明治から大正、昭和初期にかけて、飛騨の貧しい農家の娘たちが、野麦峠を越えて諏訪、岡谷の製糸工場へ働きに出て、生糸の生産を支える姿を描いた作品らしい。
私の勝手な想像の暴走にすぎないのだろうけど、なんの華やぎもなく、生活苦に疲れきった中年女のような姿になってしまった十代の女工さんたちの、絶望感と運命への怨嗟が空気に溶け込んで、その辺を浮遊していそう。好きだなぁ、こういう場所。時の流れの堆積がみえる。「貞子」とか「歪みの国のアリス」とかのコスなんかされた日にゃ、迫力ありすぎてたまらんことになりそうだが、龍さんは「桜蘭高校ホスト部」、kちゃんは「ポケモン」だった。というか、探検に夢中になってて、あんまり撮れなかった、ごめん。
車で米子に移動して、カラオケ。龍さんのお友達2人が加わり、5人で。みんな上手くて、いい盛り上がりだった。けど、2時間はあっという間で、あと20曲ぐらいは歌いたい不完全燃焼感が残る。それに、写真の撮影テクの話なんかもしようと言ってたんだけど、ぜんぜんできず。なんか、何もかも中途半端に終わった感じ。
けど、いいのだ。すべてにわたって楽しかったし。ぱっと決めてぱっと実行する機動力がなければ、そもそも実現しなかった話だし。もともとの目的は、放っとけば消えちゃうマイレージの消費だったんだし。
最終便の空席がなく、一便前ので戻って来たので、7時過ぎには新宿に着いていた。現実の生活の中にはめ込まれた非現実みたいな12時間だった。kちゃんは声優学校の授業に向かう。さて、残ったマイレージも、放っておけば4月末、5月末とまた消えていく。5月の燕趙園を待たずして、また行く気配濃厚。がんばって口説くのだ。
【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
鉄ヲタではないけれど。最終の下り電車に乗ると、上り電車はすでに終了していて、夜間の工事が始まっている。ある駅のホームにトイレを設置する工事は面白かった。電車の線路とは垂直方向に、幅5メートルほどの線路が敷かれ、ホームの一部が引き出しみたく後退するのだ。そこからトラックなどが出入りする。なんかこういうの、かっちょええええ。タイヤの内側に車輪がついてて、線路の上を走っていけるトラックも大好き。
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■編集後記(2/27)
・井上裕之「自分で奇跡を起こす方法」(フォレスト出版、2008)を読む。サブタイトルは「読むだけで人生が変わる真実の物語」とある。四六判148ページ、ハードカバー、上品な2色刷、サイズのわりに版面は小さく余白が多い。1行空きが多いからものすごく読みやすい。1300円をわずか40分で読了。なんかもったいない気分。「多くの著名人たちがネットで薦め、たった一カ月で、クチコミだけで10000ダウンロードを記録した、感動のスピーチ」が本になったのだという。著名な歯科医である筆者が、交通事故で植物状態になった妻を、いまは普通の元気な生活を送れるまでによみがえらせた「見えない力」の奇跡を語る。すべて実話だという。妻が病院のベッドにいる間に、筆者と家族が考えたこと、実際に行ったことを淡々と、しかし確信をもって語る。誠実である。説得力がある。感動的である。裏付けのある自己啓発本である。でも、期待していたほど新しい内容ではない。物足りなさも残る。前半の実話部分は感動的だが、後半は(言っては悪いが)、ネットで多く見られる「情報商材」のテイストを感じた。講演ではそう感じなくても、文章になると繰り返しがくどい。これは編集テクニックの問題だろう。さて、この本のサブタイトルは正確ではない。この本を読むだけで人生は変わるはずがない。筆者は繰り返し言う。学びと行動がすべてである、と。読んで気づき、行動に移さなかったら人生は変わらない。学びと行動は決して楽なものではない。(柴田)
< http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4894513188/dgcrcom-22/
>
アマゾンで見る
・「たかじんのそこまで言って委員会」を観覧してきた。放送時にピーピー音が出て、何を話しているんだろうな〜なんて思っていたのだ。「一度は生で観ないと」がうずうず。観覧希望ハガキを一枚だけ出しておいたら、「当選しました」と電話がかかってきた。言われた日には用事があったので断ったら、翌週また連絡をもらえた。受付番号やら注意事項、緊急連絡先として携帯電話番号などを教えてもらう。これを毎週、人数はわからないけれど個別に連絡しているんだなぁ。大変だなぁ。当日、集合場所に行ったら、テレビ局の外。警備が厳しい。寒い中、外で待たされるとは思わなかった。雨が降ってきたので中に入れてもらえるものだと期待したら、屋根のあるこれまた外で並ばされ、注意事項を聞かされる。録音・カメラ・メモはNG。「流出したら番組が終わります」と念押しされた。観覧者は男性女性がほぼ半数、100人ほど。年齢層も幅広くて二十代から六十代ぐらいまで。関西弁以外のアクセントの人がいたので、遠くから来られたのかもしれない。初めての人は半数ほどで、残りはリピーター。なかなか当たらない人もいるらしく、大量に応募ハガキを出す人も。スタッフさんの話によると「さほど競争率は激しくないので、月に一度は当たるはず」なのだそうだ。(hammer.mule)
< http://www.ytv.co.jp/takajin/
> 公式サイト
幸せな気分になりたいときに見る映画
十河 進
< https://bn.dgcr.com/archives/20090227140200.html
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●アステアの優雅な踊りに浸れる「バンド・ワゴン」
僕には「幸せな気分になりたいときに見る映画」が二本ある。一本は、以前にも書いたけれど「バンド・ワゴン」(1953年)だ。このコラムの通しタイトルは、そのミュージカルの中の一曲「あなたと夜と音楽と」から拝借しているくらい、ぼくはその映画が(もちろん曲も)大好きだ。
「バンド・ワゴン」は、第二次大戦前から活躍しているフレッド・アステアのイメージを逆手にとったミュージカルである。フレッド・アステアは、トニー・ハンターという盛りを過ぎたミュージカル・スターとして登場する。「昔、そんなスターがいたね」と言われる存在である。
おかしいのは相手役のシド・チャリシィに「あなたの映画を博物館で見たわ」と言われ、「ダンサーの化石トニー・ハンター」と自分で皮肉るシーンだ。博物館というのは、日本では京橋にある近代美術館の「フィルムセンター」のようなニュアンスだと思う。研究対象として「昔の映画」を見たと言われた感覚なのだろう。
「バンド・ワゴン」には「ザッツ・エンターテイメント」という挿入曲もあり、その曲名をタイトルにしたMGMミュージカルの名シーンばかりを集めた映画は、確かパート3まで作られたのではなかったかな。その映画には、年を重ねたフレッド・アステアも案内役で出ていた。
さて、僕のもう一本の「幸せな気分になりたいときに見る映画」もMGMミュージカルだ。フレッド・アステアは誰かが「重力がない世界で踊っているような優雅さ」と書いていたけれど、その映画の主演スターは「まるでスポーツをするように踊る」男である。力強くエネルギッシュで、体操選手のようなダンスを見せてくれる。
そう、それはジーン・ケリーという名前を持つミュージカル・スターである。もちろん作品は「雨に唄えば」(1952年)だ。あの土砂降りの雨の中で、水溜まりを蹴散らして踊る(びしょ濡れになったから、もうどうでもいいやとばかりに、まるでヤケになっているような踊り方だけど)印象的なシーンは多くの人が見ていると思う。
僕が初めてスクリーンでジーン・ケリーを見たのは「ロシュフォールの恋人たち」(1966年)だった。カトリーヌ・ドヌーヴとフランソワーズ・ドルレアックという姉妹を使い、ジャック・ドゥミ監督とミッシェル・ルグランが「シェルブールの雨傘」(1964年)に続いて作ったフランス製ミュージカルである。
「ロシュフォールの恋人たち」には「ウエスト・サイド物語」(1961年)で人気者になったジョージ・チャキリスとジーン・ケリーが出演していたのだが、最後で誰と誰がカップルになったのかさえ憶えていない。ジーン・ケリーは、すでに50代半ばになっており、盛りの時期を過ぎていた。
その後、僕は全盛期のジーン・ケリーの作品をいくつか見たのだが、妙に屈託のない笑顔になじめず(アステアにも最初はあのウラナリ顔になじめなかったけれど)、積極的に見たことはなかった。それでも、あの雨の中の踊りだけは何度も目にする機会があった。そして、ある日、僕は「雨に唄えば」を見た。
●ジーン・ケリーは権力に屈しない反骨の人だった
お気楽なハリウッドのミュージカル・スターというイメージのジーン・ケリーだったけれど、先日読んだ津野海太郎さんの「ジェローム・ロビンズが死んだ─ミュージカルと赤狩り」では、僕のまったく知らなかった一面を教えられた。ジーン・ケリーは、あの軽薄な(と見えてしまう)笑顔の裏に実に男らしい性格を持っていたらしい。
「硬骨漢」という言葉は好きだが、自分がそう呼ばれることはないと諦めている。人間は「ないものねだり」になりがちだから、僕も「孤高の人」とか「硬骨漢」などと呼ばれてみたいと思うものの「衆愚」とか「軟弱」といった言葉しか浮かばない。しかし、赤狩り時代におけるジーン・ケリーの行動は、硬骨漢と呼ぶに相応しい。権力に屈しない反骨の人だった。
ジーン・ケリーは1912年の生まれで、ブロードウェイでミュージカル・スターとして名を挙げた後、30歳でハリウッドにいき映画デビューする。1899年生まれのフレッド・アステアは1930年代から活躍していたから、ひと世代下の若手ミュージカル・スターの誕生だった。「錨を上げて」(1945年)「踊る大紐育」(1949年)などで人気を獲得する。
さらに、50年代に入り「巴里のアメリカ人」(1951年)「雨に唄えば」(1952年)と大ヒット作が続いた。40歳、脂の乗り切った時期という言い方は月並みだが、その頃のジーン・ケリーの動きは見事と言うほかない。若い頃に比べると、エネルギッシュさはそのままに洗練された魅力が加わった。
そのジーン・ケリーの全盛期は、赤狩りの時代に重なる。津野さんの本は、ジェローム・ロビンズという彼が好きだった振付け師の死をきっかけにして、その赤狩りの時代を丹念に辿った労作だった。従来のハリウッドの赤狩りを扱った本と異なるのは「ミュージカルと赤狩り」という視点である。
「王様と私」(1951年)「ウエスト・サイド物語」「屋根の上のバイオリン弾き」など、多くのヒット・ミュージカルを手掛けたジェローム・ロビンズの政治的敗北(エリア・カザンのように彼は圧力に屈して仲間たちを売った)を追うとしたら当然のことだが、その中でジーン・ケリーの感動的なエピソードが記述されていた。
リベラルな信条を持つジーン・ケリーは、終始、赤狩りに対しては批判的だったらしいが、FBIは彼の身辺調査はしても手が出せなかったという。そんな中でハリウッドに赤狩りの嵐が吹き荒れ、ブラックリストに載った人は仕事を奪われた。アメリカを棄てた(あるいは追放された)映画人もいた。そのひとりが、後に「日曜はダメよ」(1960年)を撮るジュールス・ダッシン監督だ。
ジュールス・ダッシンは、フランスで作ったフィルム・ノアール「男の争い」(1955年)でカンヌ映画祭監督賞を受賞する。そのとき、ハリウッドからきていた映画関係者は「赤」と名指しされたダッシンには誰も近寄らなかったが、ただひとりジーン・ケリーだけがダッシンに駆け寄り祝福した。ジュールス・ダッシンは「奴だけがガッツのある男だった」と語ったという。
その時期のジーン・ケリーは大スターで、誰も手が出せなかったのかもしれない。しかし、それはジーン・ケリーにとっては失うものが大きすぎるということでもある。それだけの人気と地位を持っていれば、誰でも守りに入る。しかし、彼は権力に媚びず、政府の非米活動委員会への召還も怖れず、ブラックリストに載った友人たちとも従来通りのつき合いをし、ときには援助した。
●アメリカ中が反共で凝り固まった中で生きること
赤狩りの時代を、僕は実際には知らない。だが、湾岸戦争が始まった頃のアメリカでは国民の戦争支持率が90パーセントを超えていたし、9・11同時多発テロ後のアメリカのヒステリックで異常な空気を考えれば、全国民が反共主義に凝り固まった時期のアメリカは充分に想像できる。禁酒法が成立するような、昔から極端に振れる国である。
そんなアメリカで聖書より部数が出たと言われるのが、ミッキー・スピレインの小説だった。昔、僕も何冊か読んだけれど、彼が創り出した暴力的私立探偵マイク・ハマーは、まさに赤狩りの時代に誕生した。そして、ハードボイルドの祖とリスペクトされるダシール・ハメットが非米活動委員会に召還されて証言を拒否し獄につながれた1951年、スピレインは「寂しい夜の出来事」という小説を出す。
9・11の後、ハリウッド映画やミステリ小説ではテロリストが悪役となった。それと同じように「寂しい夜の出来事」の敵役を担うのは、共産主義者たちである。「コミュニスト・イズ・ギャング」なのだ。マイク・ハマーは、トミーガンを乱射して共産主義者たちの悪だくみを壊滅させる。そんな小説を大衆は争って読みあさり、洗脳されていった。
トルーマン・カポーティの「ティファニーで朝食を」は1958年に出版されたが、主人公の小説家がかつて住んだアパートの隣人ホリー・ゴライトリーを回想する話である。時代は、赤狩りの時期と重なる。その小説の中でホリーは「あの嫌な赤」と口にする。それは、あの時代のアメリカ全体の空気だったのかもしれない。
そんな中でジーン・ケリーのように生きることは、きわめて困難だったにちがいない。彼は大衆の人気という実態のないものを惹き付け続けなければならなかったし、大スターという地位を始めとして守るべき多くのものがあったはずだ。それでも、それらを失うかもしれない危険を冒して自分の信念に従った。友情を重んじた。追放された友の栄冠を祝福した。
ジーン・ケリーがそんな男だったと知った僕は、数え切れないほど見た「雨に唄えば」をまた見たくなった。タイトルバックから黄色いレインコートの三人が傘をさして唄う。ジーン・ケリーとドナルド・オコナー、それにデビー・レイノルズ(レイア姫ことキャリー・フィッシャーのお母さん)である。
ドン(ジーン・ケリー)は、サイレント時代の映画スター。コズモ(ドナルド・オコナー)は、その親友のピアニストだ。ドンはリナというトップ女優とコンビを組まされているが、リナのワガママと性格の悪さにうんざりしている。おまけにリナはひどい悪声で、喋り方も耳障りだ。
ある日、ドンはキャシー(デビー・レイノルズ)という新人女優と知り合う。キャシーは相手が有名スターとは気付かず「俳優にとっては舞台が一番、サイレントでセリフも喋れない映画は何の意味もない」と言ってしまう。厳しいことを言われ、逆にキャシーが忘れられなくなったドンだが、そんな彼にトーキー映画出演のオファーがくる。
「バンド・ワゴン」も昔の人気スターが新作ミュージカルでカムバックする業界の話だったけれど、「雨に唄えば」もトーキー第一作「ジャズ・シンガー」が公開された1927年の映画業界を舞台にしたバックステージものなのである。「バンド・ワゴン」と同じように様々な劇中劇が演じられる。
トーキー作品に挑戦したドンとリナだが、録音技術がひどくて大失敗する。落ち込んだドンにキャシーは映画をミュージカル仕立てに作り直せば…というアイデアを出す。しかし、リナは悪声だし歌は苦手だ。そこで、キャシーが「この映画だけ吹き替えをする」と言い出す。
その後、雨の夜にキャシーを自宅まで送ったドンは初めてキスをし、その昂揚し幸福感に充ちた気分のまま雨の中に歩き出し、「シンギン・イン・ザ・レイン」と唄うシーンになる。傘を畳み、雨に濡れながら歩くドンは、次第にステップを踏んで踊り始め、タップの音が高らかに響く。
やがて通りの真ん中で水たまりを蹴散らし、派手な水しぶきをあげているドンの後ろに黒いレインコートを着た警官がやってきて睨み付ける。すごすごと傘を広げ去っていくドン。音楽が静かにフェードアウトする。そのシーンは4分ほどなのだが、ジーン・ケリーの芸の凄さを堪能するには充分だ。
ミュージカル仕立てにした映画は成功し、リナはキャシーをずっと自分の吹き替えとして使おうとする。しかし、ドンとコズモの活躍でキャシーはスターになり、新作のプレミアショーの夜、キャシーとドンは愛を確認する。ハリウッド黄金時代のハッピーエンド。もちろん、僕も幸せな気分になった。
そのうえ、今回はラストシーンでデビー・レイノルズとキスをするジーン・ケリーの顔が違ったものに見えた。人はどんな風に生きたかで価値が決まるのだと、今さらながらしみじみと身に沁みる。卑怯未練なことはするまい、と改めて己に言い聞かせた。
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
日本アカデミー賞。ひいきの木村多江さんが最優秀主演女優賞をとって大いに盛り上がりました。きれいだったなあ、この世のものとは思えないほど。着物姿で抜けるような肌に惚れ惚れ。影が薄く、はかなげで、不幸を背負った雰囲気がたまりません。「日本一死体役が似合う女優になりたい」と本人が言ってるってホント? 昔、「リング」の貞子役をやってました。
●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/suiyosha/1400yomim/1429ei1999.html
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受賞風景
< http://homepage1.nifty.com/buff/2007zen.htm
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< http://buff.cocolog-nifty.com/buff/2007/04/post_3567.html
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■Otaku ワールドへようこそ![91]
縁なのか何なのか、出雲の国へ
GrowHair
< https://bn.dgcr.com/archives/20090227140100.html
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出雲の国へ行ってきた。出雲の国といえば、出雲大社である。祀られている大国主命は、縁結びの神様としてよく知られている。しかし、私は3次元の女性に縁がない以前に、縁結びの神様にも縁がなかった。朝一番の便で羽田を発ち、廃工場を探検し、カラオケで騒ぎ、12時間後には羽田に戻っていた。いったい何をやっているのだ、と言われそうだが、そもそもの目的は、今月中に有効期限切れになるJALのマイレージを消費することにあったので、これでいいのだ。
●ステーキ肉や毛ガニやワインが手品のように消える
2月12日(木)にJALから宣伝メールが届いた。JALマイレージバンクにたまっている9,500マイルを、黒色和牛のステーキ肉や、オホーツクの毛ガニや、フランスワインの赤・白セットなどと交換できることを知らせる内容である。冒頭の断り書きに、このメールは2009年2月末もしくは3月末に失効するマイルを持っている人に送っている、とある。なにっ?
JALのウェブサイトでログインして調べてみると、49,298マイルたまっている。閑散期のキャンペーン期間中(今がまさにそう)なら、エコノミークラスでヨーロッパへ往復できちゃう量だ。そのうち26,046マイルが、今月いっぱいで賞味期限切れになっちゃうと分かる。このマイル数だけでも、マニラとか、北京とか、台北とか、香港とかへ往復できちゃう量である。それを今ごろ知らせてくるとは、なんと親切なことよ。
土日のセットがあと2回しかない。どちらにもすでに予定が入っている。東南アジアなんて、行ってる暇ないじゃんか。「じゃあ私が代わりに行ってあげる」って、ありがたい申し出が次々と。いいんだけど、マイレージが使えるのは二親等までと決まっているんだなー。それを言うと、みんな蜘蛛の子を散らすように逃げていき、誰も結婚してくれない。
さてどうしたもんか。日帰りの国内旅行で妥協して、残りは商品券に変えとくか。2月17日(火)のミクシィの日記で、「誰か、ちょいと飛んで来いや、って人いない?」と呼びかけてみると、「島根にびゅーんとどうですか?」と応答あり。コスプレイヤーの橋本龍さんだ。去年の5月、鳥取県にある中国庭園「燕趙園」で開かれたイベント「中華コスプレプロジェクト」でカードゲーム「三国志大戦」のSR(スーパーレア)甘寧のコスをしていた人である。
ミクシィのメッセージをばたばたとやりとりして、2月22日(日)に行くことに決まり。勢いで、中野にある行きつけのメイドバー「ヴィラージュ・レイ」のkちゃんにプロポーズしてみたのだが「正気か?」の一言で玉砕。kちゃんは鳥取で龍さんに会う前から、"cure"というコスプレコミュニティサイトで龍さんを発見して、あこがれていた。コンタクトをとって、燕趙園のイベントに行くと聞いて鳥取行きを決め、「合わせ」(同じ作品の別々のキャラに扮すること)ができるようにと同じゲームのR孫権のコスを制作したという経緯がある。
誘えば乗ってくると思ったんだがなぁ。いや、誘いには乗ってきた。「自費で同行します」と。そうまでして結婚したくないかっ。まあ、まだ22歳なんで、理解できなくもないか。つーか、そもそもまだつきあってもいないし。口説くのはこれからじっくりということにして、「おともdeマイル割引」というのを使えば、赤の他人であっても同行者は大幅割引になるし、私は10,000マイル使うだけですむ。このあたりで手を打とう。5日後の旅行のことがたった一日でばたばたと決まり、飛行機のチケット予約まで完了。
本当は米子空港が一番近いのだが。JALの便がないので、出雲空港になる。龍さんが車で迎えに来てくれるという。いやぁ、50kmくらいあるのに、悪いなぁ。機長と直接交渉して米子に降りてもらえないかなぁ、なんて、ふと頭をよぎったが、成功しそうなスキームが思い浮かばず、断念する。
●山陰の前に山陽
2月18日(水)、19(木)は、仕事で福山へ出張。地図で見ると、米子のほぼ真南ではないか。タテに行けばすぐなのに、往ったり来たり、なんだかあわただしいなぁ。
さて、この出張も楽しみにしていた。知り合いが福山に住んでいて、「仕事の後で、お茶しよう」という話になっていたのだ。声優の藤原響さん。いつどこで知り合ったかというと、'05年4月22日(金)、秋葉原のメイド居酒屋「ひよこ家」で。同僚の直江雨続くんと川崎で仕事した帰りがけに秋葉原に寄り、メイド喫茶"Cure Maid"でお茶し、「ひよこ家」へとハシゴした。そのとき、近くのテーブルで飲んでいるグループの中に響さんがいたのである。
いつの間にか、完全にまぜこぜになって話をしていた。当時は、メイドさんのいるお店で、お客どうしが意気投合して盛り上がる、というのはよくあることだったのである。そのグループに混ぜてもらったまま、さらにメイドバー「ヲタンコナス部」へとハシゴしたのであった。
その後も新大久保のメイドバー「エデン」(現在は中野に移転)で飲んだり、カラオケ行ったりと遊ぶ機会がときどきあったのだが、ちょっとした運命のいたずらで福山に帰ることになり、新宿で仲間内の送別会をしてからは、会う機会がなくなっていた。福山でも、ラジオドラマなどで、声の仕事をしているという。
私が仕事で福山にときどき用事ができるようになったのは、まったくの偶然なのだが、おかげでたまには会えるようになった。前回は去年の3月26日(水)だった。あのときは、線路下のショッピングモールの喫茶店で3時間以上にわたって機関銃の銃撃戦のようなヲタ話の応酬で時間があっという間に過ぎ、あやうく19:31ののぞみに乗りそこない、帰京できなくなるところだった。
今回も同じ場所で、ヲタ話。というか、彼女のコメディーのような近況に、こっちが笑い転げていた。ラジオドラマで、若くてカッコよくて、教養と知性に満ち溢れ、物腰の落ち着いた役者さんと夫婦役が組めたことに内心大喜びなのだが、リアルではなかなか茶目っ気のある運命の神様にもてあそばれて、思わしい印象が持たれてないかも、って話。飲み会では、何かの話にブチキレ、眉つり上げて「だっから男って大っ嫌いっ」と吐き捨ててしまった、とか。後悔して凹んでる本人にとっては切実かもしれないけど、聞くほうには抱腹絶倒なのだ。ごめん。あと、「人情チョコ事件」とか。まあまあまあまあ、暴露もたいがいにしておきましょう。あー、楽しかった。続編がぜひ聞きたいぞ。
●ジンライムをすすりながらバッハを聴く
2月21日(土)は、中野で †Children of The Night† というイベントがあった。ヴァンパイアをテーマとする演奏と展示。会場の"Nakano f"は、行きつけのメイドバー「ヴィラージュ・レイ」からわずか168歩という近さ。
去年、銀座のヴァニラ画廊で人形と写真展を開いたとき、オープニング・レセプションでキーボード演奏と歌と朗読のパフォーマンスを演じてくれた二人組のユニット「電氣猫フレーメン」が出演する。なので、人形作家の橘明さんと誘い合わせて行った。今回は、由良瓏砂さんの朗読と歌、永井幽蘭さんのチェンバロと歌。
いやぁ、またしてもすばらしかった。瓏砂さんの朗読は臨場感があって引き込まれるようだし、幽蘭さんの透き通るような高音の声は精密で繊細な楽器のようで、あいかわらず美しい。キリスト教の教会美術や賛美歌から強い影響を受けながらも、あるとき、どうしても相容れないものを感じて反旗をひるがえし、黒ミサに通じるような耽美的で背徳的でダークでゴシックな美の世界を追求するようになっていった、みたいなストーリーを勝手に思い描いていたのだが、後で本人たちに聞いてみたら、そんな意識はまったくなくて、教会美術はずっと好きだという。あらら。
ほかの出演者の演奏もよかった。くにこ人形さんと†Rose Noire†さん。くにこさんは人形のようなものになりきってのチェンバロ演奏。面をつけ、白い長い手袋をしては弾きにくかろうと思うけど、まったく意に介するふうでもなく、見事に演奏。†Rose Noire†さんは男性と女性のユニットで、バイオリンの重奏。女性ヴァイオリニストは怖いくらい綺麗やんけ。
イベント自体は、来場者が踊るような場ではないものの、クラブ系のテイストも多少するような、ゴシックに着飾った淑女が何十人も集う華やかなパーティであったが、演目は本格的で重厚なクラシック室内楽。べこべこのプラスチックのカップに注がれたジンライムをすすりつつ、ヴァイオリンとチェンバロによるJ.S.Bach Concertoが聞けちゃうという、たまらなく贅沢なイベントだ。クラシックのコンサートでは決してありえないざわついた雰囲気が、私にはなぜか心地よい。
それと、めずらしい人に会った。以前、中野のメイドバー「エデン」でメイド&バーテンをしてたつかさちゃん。新大久保時代からのなじみで、「いつもの」と言えばいつものカクテルをつくってくれていた。ちなみにそれは、私が考案した(つもりでいるが、同案は前からあったのかもしれない)「ロシアンチャイナブルー」で、要は、ウオツカのチャイナブルー割である。この日のつかさちゃんは、当時のような猫耳ではないが、かわいいゴスロリ姿。声かけられて、ぜーったいになじみのある顔だと思いつつ、しばらく思い出せなかった。
電氣猫フレーメンは、3月8日(日)16:00から渋谷の「青い部屋」で開かれるイベント"SERAPHITA"に出演予定。SPYSEEでは私とつながりがあると言われながら、実際にお目にかかったことのない黒色すみれさんも、楽しみだ。
< http://furutaniaoi.blog36.fc2.com/blog-entry-721.html
>
●出雲に時間の堆積をみる
さて、前置きが長くなったが、日曜は出雲である。羽田でkちゃんと落ち合い、「結婚しときゃタダなのに」「うるせぇ」の応酬。kちゃんは声優の卵。そっちでの名前は中田圭。実は、本名。ぼちぼち役がつき始めてて、ジャンプスクエアのウェブアニメ「清く正しく美しく」ではボンバーの声をあてている。声が少年声なら、気質も強くたくましい。誕生日は2日しか違わない私だが、同じ寅年どうしでも五黄の寅にはかなうべくもなく、メイドの飼い猫になっているご主人様の図。にゃ〜。
関東から中部にかけては雲ひとつない晴天で、新宿の高層ビル、多摩湖・狭山湖、横田基地、奥多摩湖などが確認できて、kちゃんは大はしゃぎ。富士山、でかい。雲が出てきて下が見えなくなると、二人ともこてっと眠りに落ちる。あ。いや、なんでもない。それで出雲なのかと。
出雲空港に着くと、龍さんの出迎えを受ける。車で移動中、日の丸を掲げた大きな街宣車を何台も目にする。東京でもこれだけの台数そろうのは見たことないんですけど。後で聞けば、2月22日は島根県が制定した「竹島の日」で、式典とか集会とか、いろいろあったらしい。
秘密のロケ地へ。廃工場。これはすごい。一般道をはずれ、細くて急な坂道を登っていく。両脇から伸びた固い蔓がフロントガラスにこここここんっ、と当たる。登りきると、大きな工場が孤立してある。道はそこで終わり、他にはどこへも通じていない。
蔓草に絡みつかれた、みごとな廃墟。中はあらかた片付けられて、がらんとした薄暗い空間が広がっている。何の工場だったのかは、よく分からない。白く不透明なプラスチック製の200mlぐらいの薬品容器が、なぜか何万個と積み上げられている。一部は崩れている。
隣接して、4階建ての女子寮。200人ほど収容できそう。生活の痕跡が感じられないくらい片付けられてはいるが、なぜか、敷布団だけが山積みされていたりする。その上には、おがくずのような小さな木片が堆積している。どうするとこうなる? この辺にはテンが生息しているらしいが、それの仕業? 鉄製の非常階段は、ほとんどのステップが錆び落ちて、ほぼ骨組みだけになっている。何十年放ったらかされているのだろう。しなびたバレーボールとか、クラシックなテレビとか。
もしホームレスが棲みついてたりして、鉢合わせしちゃったりなんかしたら怖いかな、なんて思ったけど、後で考えてみると、そういう人の白骨死体なんかと遭遇しちゃったりしても怖いか。どっちもなかったけど。
「あゝ野麦峠」を思い出す。読んでもいないものを思い出すというのも変だが、国語の授業で習ったのかもしれない。社会だったか。たしか、紡績工場かなんかで長時間労働させられる女工さんたちの、哀しい生活ぶりを描いたノンフィクションではなかったか。今、軽く調べてみると、山本茂実が1968年に発表したノンフィクションで、明治から大正、昭和初期にかけて、飛騨の貧しい農家の娘たちが、野麦峠を越えて諏訪、岡谷の製糸工場へ働きに出て、生糸の生産を支える姿を描いた作品らしい。
私の勝手な想像の暴走にすぎないのだろうけど、なんの華やぎもなく、生活苦に疲れきった中年女のような姿になってしまった十代の女工さんたちの、絶望感と運命への怨嗟が空気に溶け込んで、その辺を浮遊していそう。好きだなぁ、こういう場所。時の流れの堆積がみえる。「貞子」とか「歪みの国のアリス」とかのコスなんかされた日にゃ、迫力ありすぎてたまらんことになりそうだが、龍さんは「桜蘭高校ホスト部」、kちゃんは「ポケモン」だった。というか、探検に夢中になってて、あんまり撮れなかった、ごめん。
車で米子に移動して、カラオケ。龍さんのお友達2人が加わり、5人で。みんな上手くて、いい盛り上がりだった。けど、2時間はあっという間で、あと20曲ぐらいは歌いたい不完全燃焼感が残る。それに、写真の撮影テクの話なんかもしようと言ってたんだけど、ぜんぜんできず。なんか、何もかも中途半端に終わった感じ。
けど、いいのだ。すべてにわたって楽しかったし。ぱっと決めてぱっと実行する機動力がなければ、そもそも実現しなかった話だし。もともとの目的は、放っとけば消えちゃうマイレージの消費だったんだし。
最終便の空席がなく、一便前ので戻って来たので、7時過ぎには新宿に着いていた。現実の生活の中にはめ込まれた非現実みたいな12時間だった。kちゃんは声優学校の授業に向かう。さて、残ったマイレージも、放っておけば4月末、5月末とまた消えていく。5月の燕趙園を待たずして、また行く気配濃厚。がんばって口説くのだ。
【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
鉄ヲタではないけれど。最終の下り電車に乗ると、上り電車はすでに終了していて、夜間の工事が始まっている。ある駅のホームにトイレを設置する工事は面白かった。電車の線路とは垂直方向に、幅5メートルほどの線路が敷かれ、ホームの一部が引き出しみたく後退するのだ。そこからトラックなどが出入りする。なんかこういうの、かっちょええええ。タイヤの内側に車輪がついてて、線路の上を走っていけるトラックも大好き。
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■編集後記(2/27)
・井上裕之「自分で奇跡を起こす方法」(フォレスト出版、2008)を読む。サブタイトルは「読むだけで人生が変わる真実の物語」とある。四六判148ページ、ハードカバー、上品な2色刷、サイズのわりに版面は小さく余白が多い。1行空きが多いからものすごく読みやすい。1300円をわずか40分で読了。なんかもったいない気分。「多くの著名人たちがネットで薦め、たった一カ月で、クチコミだけで10000ダウンロードを記録した、感動のスピーチ」が本になったのだという。著名な歯科医である筆者が、交通事故で植物状態になった妻を、いまは普通の元気な生活を送れるまでによみがえらせた「見えない力」の奇跡を語る。すべて実話だという。妻が病院のベッドにいる間に、筆者と家族が考えたこと、実際に行ったことを淡々と、しかし確信をもって語る。誠実である。説得力がある。感動的である。裏付けのある自己啓発本である。でも、期待していたほど新しい内容ではない。物足りなさも残る。前半の実話部分は感動的だが、後半は(言っては悪いが)、ネットで多く見られる「情報商材」のテイストを感じた。講演ではそう感じなくても、文章になると繰り返しがくどい。これは編集テクニックの問題だろう。さて、この本のサブタイトルは正確ではない。この本を読むだけで人生は変わるはずがない。筆者は繰り返し言う。学びと行動がすべてである、と。読んで気づき、行動に移さなかったら人生は変わらない。学びと行動は決して楽なものではない。(柴田)
< http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4894513188/dgcrcom-22/
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・「たかじんのそこまで言って委員会」を観覧してきた。放送時にピーピー音が出て、何を話しているんだろうな〜なんて思っていたのだ。「一度は生で観ないと」がうずうず。観覧希望ハガキを一枚だけ出しておいたら、「当選しました」と電話がかかってきた。言われた日には用事があったので断ったら、翌週また連絡をもらえた。受付番号やら注意事項、緊急連絡先として携帯電話番号などを教えてもらう。これを毎週、人数はわからないけれど個別に連絡しているんだなぁ。大変だなぁ。当日、集合場所に行ったら、テレビ局の外。警備が厳しい。寒い中、外で待たされるとは思わなかった。雨が降ってきたので中に入れてもらえるものだと期待したら、屋根のあるこれまた外で並ばされ、注意事項を聞かされる。録音・カメラ・メモはNG。「流出したら番組が終わります」と念押しされた。観覧者は男性女性がほぼ半数、100人ほど。年齢層も幅広くて二十代から六十代ぐらいまで。関西弁以外のアクセントの人がいたので、遠くから来られたのかもしれない。初めての人は半数ほどで、残りはリピーター。なかなか当たらない人もいるらしく、大量に応募ハガキを出す人も。スタッフさんの話によると「さほど競争率は激しくないので、月に一度は当たるはず」なのだそうだ。(hammer.mule)
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