《なんか、なんとも言えない欠乏感って、ない?》
■映画と夜と音楽と...[442]
親のこころ・子のこころ
十河 進
■Otaku ワールドへようこそ![107]
怖っ! 通りすがりに言われて、やっぱり? 高架下で人形撮影
GrowHair
■映画と夜と音楽と...[442]
親のこころ・子のこころ
十河 進
■Otaku ワールドへようこそ![107]
怖っ! 通りすがりに言われて、やっぱり? 高架下で人形撮影
GrowHair
■映画と夜と音楽と...[442]
親のこころ・子のこころ
十河 進
< https://bn.dgcr.com/archives/20091120140200.html
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〈子連れ狼・子を貸し腕貸しつかまつる/三途の川の乳母車/死に風に向かう乳母車/親の心子の心/冥府魔道/地獄へ行くぞ!大五郎/ロード・トゥ・パーディション〉
●若山富三郎の本格的な殺陣が見られる
もうずいぶん前のことになるが、西川某が殺人を犯し「かつて人気ドラマ『子連れ狼』の子役として活躍した」としきりにテレビのワイドショーが騒いだ。その裁判の様子も報道されていたが、弁護士は「社会性を育むべき子供時代を芸能界という特殊な世界で過ごし」と弁論し、殺人に対する罪の重さの認識が薄かったことを理由に、情状酌量を狙う戦法に出たようだった。
芸能人の殺人というと、「光る海、光る大空、光る大地」(最近はスマップがNTTのCMで歌っていた)と歌った「エイトマンの主題歌」の克美しげるを思い出す。彼が殺人犯で捕まったときに受けた衝撃は、やはり僕が「エイトマンの主題歌」が好きだったからだろう。それに僕は彼が歌った「さすらい」や「片目のジャック」という歌も好きだった。
克美しげるの殺人にショックを受けた僕と同じように、西川某のニュースを聞いて「しとしとぴっちゃん、しとぴっちゃん」(橋幸夫)とか「十石橋で父を待つ」(バーブ佐竹)と歌った「子連れ狼」のテレビ版主題歌を懐かしんでいる、僕よりずっと若い世代が存在するのかもしれない。僕は映画版「子連れ狼」の歌の方に思い入れがある。「親子揃った狼がくるんだぜ」と渋い声で若山富三郎が唄ってくれたのは、東宝で封切られた映画版シリーズだった。
富さんが死んでだいぶ経つから、若山富三郎を知らない人もいるかもしれない。弟の勝新太郎は「おにいちゃん、何で死んだんや」と葬式で男泣きに泣いた。その勝新太郎も死に、今は未亡人の中村珠緒がテレビのバラエティで稼いでいる。もう勝プロの借金も、長男が「座頭市」(1989年)で刃引きをしていない刀で殺陣をやって死なせた俳優への補償金も払い終わったことだろう。
映画版「子連れ狼」シリーズは大映が倒産した後、七〇年代前半に勝プロが制作しヒットした。監督は三隅研次が四本、斉藤武市が一本、黒田義之が一本担当している。併映は勝新太郎主演の「兵隊やくざ」リメイク版や「御用牙」シリーズが多かった。兄弟でそれぞれ主演を張り、東宝が配給した。そのシリーズは、以下のような六本だった。
第一作・子を貸し腕貸しつかまつる(1972年)
第二作・三途の川の乳母車(1972年)
第三作・死に風に向かう乳母車(1972年)
第四作・親の心子の心(1972年)
第五作・冥府魔道(1973年)
第六作・地獄へ行くぞ!大五郎(1974年)
こう並べてみて、すべての作品を見ている己の趣味を改めて顧みた。やっぱり僕は時代劇が好きなのだ。立ちまわりに凝りに凝った「子連れ狼」シリーズは、当時は「劇画調」と言われ本格派時代劇からは蔑まれていたようなところもあったけれど、今から見れば立派な本格的時代劇である。セリフも格調が高い。富さんの殺陣は、さすがに凄い。今、これだけの殺陣ができる人はいない。
●昔の時代劇はお約束シーンがいくつかあった
ところで、昔の時代劇ではお約束のようなシーンがいくつかあった。たとえば、悪役が天井から下がっている房のついた太いヒモを引くと、主人公が立っていた床がまっぷたつに割れて落とし穴に落ちるとか、ヒロインが悪役につかまって襲われ、悪役が帯を引っぱるとヒロインが「あ〜れ〜」と言いながらクルクルまわったりするシーンである。
そんなシーンのひとつに、舌を噛んで自害するシチュエーションがあった。たとえば、「やや、曲者」と庭に逃げた忍者を捕らえると、いきなり口の端から血がタラタラと流れ首をがくりと落とす。「むむっ、舌を噛んだか」と主人公が無念そうに言うのだ。また、貞操の危機に陥った女性(ヒロインではないことが多い)が、舌を噛んで自害する場面も数え切れないくらい見た。
舌を噛んで死ねるのかと子供ごころに不思議に思っていたのだが、舌を噛みきると短くなった舌が喉をふさぎ窒息して死ぬのだと説明されたことがある。しかし、それなら死ぬのにもっと時間がかかるのではないか。それに舌を噛むシーンで役者はいつも口をふさいでいたけれど、舌を突き出して思いっきり歯で噛まないとかみ切れないのではないか。そう思って、僕は納得しなかった。
しかし、ときどき実生活でも間違って舌を噛んじゃうことはある。そのときの痛みはかなりなもので、あの痛みを知っていたら簡単に舌を噛んで死ぬのは無理ではないかと思う。だいたい、本当に舌を噛んで死んだ人はいるのだろうか、昔の自殺方法としては一般的だったのだろうか...などと、僕は未だにそのことには疑問を抱いている。
そんな時代劇からすれば次世代時代劇になる「子連れ狼」シリーズは、リアリズムと残酷描写をウリにしていた。時代劇で血しぶきが使われるようになったのは「椿三十郎」(1962年)の影響だが、「子連れ狼」では斬られた首や腕が血しぶきと共に飛び、大仰な擬音も入った。それが劇画調と言われたのだが、「子連れ狼」では舌を噛みきるシーンも気が弱い人なら目を背けたくなるように描かれた。
「死に風に向かう乳母車」では、女郎に売られた少女が女衒に犯されそうになり、女衒が差し入れてきた舌を噛み切るというシーンがある。少女は女衒の舌を吐き出し、その肉片のアップになる。女衒は身を打ち震わせ、口から血を流しながら喉を押さえて悶死する。確かに窒息したのかもしれない。もう四十年近く前のことだが、あのシーンを見たときのショックは未だに憶えている。
クエンティン・タランティーノも「死に風に向かう乳母車」を見てショックを受けたのだろう。「キル・ビル」(2003年)では、ヒロインを犯そうとした看護士の男が差し入れてきた舌を、目覚めたヒロインが噛みきりペッと吐き出すシーンがある。日本映画大好きのタランティーノは影響を隠そうとはしていない。しかし、舌を噛みきられて死ぬのは、アメリカ人にとって生理的なショックだったのではないだろうか。
「舌噛んで死んじゃいたい」というのが口癖だったのは、「赤頭巾ちゃん気をつけて」(1970年)のヒロイン(森和代)だった。その頃、一般的にも十代の少女たちがよく使っていた言葉だった。おそらく「舌を噛んで死ぬ」というのは、日本人に脈々と伝わる文化なのだ。「懐剣などなくても、いざとなったら舌を噛んで死ぬ覚悟」というのは、日本的潔さなのだと思う。どちらかと言えば、婦人の嗜みだった。
●映画版とテレビ版で同じ役をやった女優
「子連れ狼」は、さいとうたかをプロにいた小池一夫が独立して書いた劇画原作だ。初期の「漫画アクション」に連載された。その頃のアクションの売り物はバロン吉元の「柔侠伝」とかモンキー・パンチの「ルパン三世」などだった。その頃から、僕はずっと「漫画アクション」を読んでいた。少し後の連載だが「博多っ子純情」や「じゃりン子チエ」も愛読した。
「漫画アクション」のライバル誌「ビッグコミック」の売り物は「ゴルゴ13」だった。そのシリーズのシナリオを書いていたのは小池一夫さんだから、初期の「子連れ狼」には「ゴルゴ13」とそっくりなエピソードがある。現代と江戸時代の差はあっても、どちらも暗殺者に変わりはない。「ゴルゴ13」の話も時代劇に流用は利くのだ。
主人公を子連れにしたのは「子連れの刺客」という新鮮さに担当編集者が「それ、いきましょう」とのったからじゃないだろうか? ちなみに「子連れ○○」という言い方は今では一般的だが、「子連れ狼」が評判になったから定着した言葉である。それまで「子供連れ」という言い方はあったが、「子連れ」とは言わなかった。
「子連れ狼」の映像化は映画版が最初である。その後、テレビシリーズが日本テレビ系列で放映された。1973年4月から1976年の9九月まで、断続的に放映されている。主演は萬屋錦之介だった。そのときの子役が西川某である。僕は映画版の富川昌宏クンの方が可愛いと思ったが、テレビは見ている人の数が違う。結局、「子連れ狼」の大五郎は、一般的には西川某で定着した。
テレビシリーズが評判になり視聴率も高かった頃、大塚のボンカレーのコマーシャルが「子連れ狼」のパロディになった。笑福亭仁鶴が拝一刀を演じ、木製の乳母車を押して登場した。大五郎役の子供が「ちゃん」と呼ぶと、「大五郎、三分間待つのだぞ」と仁鶴の拝一刀が言う。このテレビCMも一世を風靡した。
ところで、映画版とテレビ版で同じ役をやった女優がいる。「木おろしの酉蔵」というヤクザの女親分だ。「世間様では私どもを忘八者と呼んでおりやす」と口跡鮮やかに「死に風に向かう乳母車」に登場する酉蔵は、惚れ惚れするほど美しい浜木綿子である。宝塚出身だけあって、ヤクザの着物姿とはいえ男装がよく似合った。
その酉蔵は、もう一度別のエピソードでテレビ版に登場する。酉蔵は拝一刀に惚れているのだが、あることで板挟みになり、一刀を裏切らざるを得なくなる。すべてが終わったとき、酉蔵は一刀に長脇差を向ける。だが、一刀はかわすだけだ。子分たちが涙を流しながら、「斬ってやっておくんなさい、拝の旦那」と口々に言う。酉蔵は惚れた男に斬られ、幸せな笑みを浮かべて死んでいく。
浜木綿子は、元々好きな女優さんだ。特に、木おろしの酉蔵のイメージが僕には焼き付いている。あれほど美しいキリッとした視線を持つ女性は、「緋牡丹博徒・お竜参上」(1970年)の藤純子以外に僕は知らない。しかし、最近、よく映画に出ている香川照之を見るたびに、僕はあれから長い時間が過ぎたことを感じさせられる。浜木綿子は、香川照之の母親なのである。
「子連れ狼」は、アメリカでもヒットした。英語版の劇画本もよく売れたと聞く。数年前、「ロード・トゥ・パーディション」(2002年)が公開されたとき、アメリカ版「子連れ狼」と言われたが、先日、川本三郎さんの本を読んでいたら、本当に「子連れ狼」からインスパイアされた映画だという。
「ロード・トゥ・パーディション」は「破滅への道」と訳せばいいのにと思いながら映画館へ出かけ、その深みのある画作りに感心した。夜のシーン、特に夜の雨のシーンにはゾクゾクした。「子連れ狼」とは違い、父親(トム・ハンクス)と一緒に逃亡した長男の回想で映画は展開するのだが、ストーリーはまさに「子連れ狼」の変奏である。
「子連れ狼」が人々の情に訴えたのは、血なまぐさい復讐譚に親子の情愛をからませたからだ。親子の関係を非情に描いているのだが、そこにはやはり父と子の心を打つ情が描かれていた。「ロード・トゥ・パーディション」を見ると、「子連れ狼」では「冥府魔道」とか「六道順逆」といった難しい言葉で非情さを装っていた親子の情が、よりはっきりとわかる。
父親は、子供のためには死ねるのである。自らを犠牲にすることを厭わない。言葉は交わさなくとも、拝一刀と大五郎はそんな風に互いを信じ切っていた。親の心と子の心が一体化した理想的な関係だった。それを無意識に伝えたかったのだろうか、僕は子どもたちが幼かった頃、寝る前に話をねだられると「子連れ狼」をアレンジして物語った。我が家の子どもたちは「子連れ狼」を知る前から「大五郎」という名になじんでいた。
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
11月は生まれ月なので好きな季節なのだけれど、今年はけっこう寒い。スーツだけでは身が震えるほどの夜が続いた。といってコートを着るには早すぎる気がする。痩せてウエストもかなり細くなったので(メタボリック健診で驚かれた)、コートもぶかぶかかもしれない。
●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/suiyosha/1400yomim/1429ei1999.html
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受賞風景
< http://homepage1.nifty.com/buff/2007zen.htm
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< http://buff.cocolog-nifty.com/buff/2007/04/post_3567.html
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■Otaku ワールドへようこそ![107]
怖っ! 通りすがりに言われて、やっぱり? 高架下で人形撮影
GrowHair
< https://bn.dgcr.com/archives/20091120140100.html
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私は大汗かきかき一体の人形の写真を撮っている。後ろには他の人形たちがずっらーっと列をなして並んでいる。やけに高い声で口々にぶーたれてくる。「ねー、私の番まだぁ?」「早くしてよぉ」「もう並ぶの飽きちゃった」「帰っていい?」。わー、待って待って、もうちょっとだから。ごめんなさい、きれいに撮るからもうちょっとの辛抱、お願いっ。
......今にそんな夢をみるんじゃないかと恐れている。12月のグループ展に向けて、ハイペースで人形撮影が進行中。11月6日(土)7日(日)と二日続きの撮影で、8体の人形を撮ってきた。
土曜は代々木公園のバラ園で。ごきげんよう系のバラ(※)が地面すれすれの低い位置にまで咲いていたので、洋装の人形を寝かせるととてもロマンチックな絵になった。そこもかなりよかったけど、日曜の高架下での撮影は、昭和初期の面影残る薄暗いトンネル状の歩道に和装人形が実によく似合い、非常にいい按配であった。心地よい環境を得た人形たちが今に動き出しはしないかと、ちょっと怖くもあったが。今回はその模様をば。
※今野緒雪「マリア様がみてる」からのネタ。カトリック系のお嬢様学校の生徒会の役職に「ロサ・キネンシス」「ロサ・ギガンティア」「ロサ・フェティダ」と原種のバラの名前があてられていることから、原種のバラを「ごきげんよう系」と称する(ことにした。私が)。
●まずはロケハン:都会の中の田舎という異空間
国道駅のことを知ったのは、つい最近、11月1日(日)のことである。グループ展の打合せで自由が丘の居酒屋「土間土間」に集まって、人形撮影のロケ地はどこがいいかと話し合っているとき、八裕(やひろ)沙(まさご)さんが提案してくれたのである。けっこう有名な場所で、前々から知ってたらしい。
昭和5年に開業した駅の高架下は、時間の流れから取り残されたように当時の面影を残し、映画やドラマでもよくロケ地に使われてきたらしい。1949年(昭和24年)の黒澤明作品「野良犬」とか。2007年のTBSドラマ「華麗なる一族」とか。「国道下」という焼き鳥屋があって、ドラマ収録の記念に撮った木村拓哉さんの写真が掲げられているらしい。
「ラブド〜ル 抱きしめたい!」は今年の10月10日(土)〜10月23日(金)の21:10より渋谷ユーロスペースで上映された映画である。出演するのはオリエント工業製の男性向けのシリコンドール9体。動かないドールを動画で撮影しようという構想からして面白いが、撮影機材はなんとデジタル一眼レフのスチルカメラで、Canon EOS 5D markII とのこと。私が使ってるのと同一機種ではないか。これの動画撮影機能を使ったそうで。その映画の中でも、ロケ地に国道駅の下が使われているらしい。
< http://www.lovedoll-movie.com/
>
後塵を拝するのは、いくぶんかシャクではあるけれど、私もそこで撮ってみたくなった。2日(月)の会社帰りにさっそくロケハン。会社帰りと言っても、職場は埼玉なので、まるで方向違い。1時間半かかった。
JR鶴見線は大学生のころだったか、一度だけ乗りに行ったことがある。まだ国鉄だったころだ。京浜工業地帯の中を走る路線とは思えないくらい田舎田舎した雰囲気で、運転間隔は恐ろしくまばらで、チョコレート色の短い車両がゴトゴトと走る。まるで一気に数百キロ吹っ飛ばされて別の地方に来てしまったかのような、ほよよんと気の抜けた空間。夢の中にいるような気分に浸れた。
浅野駅から分岐する支線の終点の海芝浦駅は、海に浮かぶような駅だった。改札口を出ようとすると駅員に止められた。外は東芝の敷地なので、社員であるかアポがないと出られないのだそうで。駅から出てはいけないという決まりはないが、東芝の敷地に無断で立ち入ってはならないという決まりはあるので、結局出られないんじゃん。うーん。
......ってなことを思い出しつつ、21:30鶴見発の海芝浦行きに乗り、2分で着いた最初の駅が国道。ゆるく湾曲した高架線の下の中央が道になっていて、両側には二階建ての古いアパートのような建物がほとんど隙間なく建ち並んで薄暗く、トンネルのようになっている。高架を支える柱の上のほうはアーチ状になっていて、古めかしく、重ったる〜い感じ。
ほんの数十メートルばかりの空間なのだが、まるで申し合わせたかのようにものが古いままで、石のゴミ箱があったり、がらがらっと開ける玄関があったり、木製のドアにつけられたノブの下の鍵穴は中が覗けそうなくらいでかかったり、古い看板がそのままだったり。空き家もあるが、人が住んでいるところもある。保存しようと決めてそうしているわけでもないのに、こういう状態になってるって、なにか霊的なものに守られているんじゃなかろうかとさえ思えてしまう。
すぐ先が鶴見川なので、水がつくことを心配して住みたがらない人が多く、不動産としての価値が上がらなかった、それで再開発の手を免れてきた、ってことなのかな。昭和の面影残るところは他にもあるかもしれないが、昭和初期のというのは、そうそうないんじゃないかな。まるで映画のセットだ。というか、ここ、何かの映像で見たことあるぞ。思い出せないけど。ここ、なかなかいいぞー、とアナウンスし、人形作家さんたちが乗ってきてくれたので、次の日曜に撮ろうという話になった。
●昼も薄暗い国道下が、人形で一気に怪奇空間に
日曜の朝9:40鶴見発の電車はガラガラに空いていた。電車というよりか、軌道の草刈り機。そりゃ言いすぎか。まばらながらいちおう乗客いたし、国道駅でも何人かは降りていたし。
無人駅。角がすり減って丸くなった木製の改札口に鉄製の切符回収箱が据えられている。脇には便所がある。トイレ、ではなくて、便所。ニオイが違う。ちゃんと便所のニオイがする。高架下の住人のおっちゃんがバケツに水をくんで、片手に下げて道を歩き回り、もう一方の手でちょびちょびすくって撒いている。日課なのだろう。さぼると空気がホコリっぽくなってしまうに違いない。
八裕さんと、赤色(せきしょく)メトロさんと、長尾都樹美(ときみ)さんが、それぞれ一体ずつ人形を連れてきてくれた。ただでさえ薄暗くてなんか独特の雰囲気のある場所なのに、人形が3体出てきたら、一気にお化け屋敷のような怪奇空間になった。人形作家が人形を怖がってちゃ商売にならないのだが、これにはさすがにちょっと怖いね、と言い合っていた。私は例によって撮るのに夢中で、通行人の声が耳に入っていなかったのだが、後で聞けば、「怖っ!」とか言って通りすぎる人がけっこういたらしい。ひー、不気味な活動しちゃって、どうもすみません。
まあしかし、それほどの衝撃をもって迎えられたというわけでもなく、あーまたなんかやってるよ、ってなもんだったようで。慣れっこ。いろんな人がよく来てなんかやってく場所なんだろうなぁ。よく言えば今の世の中の風潮に問題意識をもったクリエイティブな人たち、悪く言えば時代の潮流からズレまくった常識はずれの異端者たち。かつてのメインカルチャーも、いまやそれを好んで追い求めるのは、ほんの一握りのおかしな人たちってことで、ひとくくりに狭〜いサブカルのカテゴリーに押し込められてるのかなぁ。
撮影を始めようと準備しているとき、シクラメンの鉢を片手に持った初老のおじさんが話しかけてきてくれた。近所に昔から住んでいるそうで、我々みたいな人が来るのは歓迎だという調子で、終始にこやかに昔のことをたくさん語ってくれた。道沿いにはもっと店があったとか、昔は天井から変なもんがぶら下がっていて(なんだろ?)コウモリが巣をかけてたとか、道を突っ切る形で水が流れてたとか、水車があったとか、有名な建築家が建てたので造りはしっかりしてるとか、壁には米軍による機銃掃射の痕があるとか。
道路を作る計画があり、実施されると国道下の道の半分がなくなってしまうらしい。保存しようよって声はあるけど、誰も立ち上がる人がいないらしい。うをぉーい、たのむよぉ。八ッ場ダムじゃないけど、もう建設はいいよ。そんなことに使う金があるんだったら、古いもんを保存するほうに使おうよ。道路なんて、もうすでにそこいらじゅうにあるじゃんか。なくても済んじゃってるもんを今さらこしらえて得られるちょっとばかりの利便性と、ここにしかない昭和の遺産と、どっちが価値が高いと思ってるんだよぉ。
●時代は進んで行き詰って戻る
社会というものは、そのとき、そのときで、いいとされる方向へちょっとずつ、ちょっとずつ、変化していく。それが年月を経て蓄積されていく。気がつくと、がらっと違った世の中になっている。たとえば、国道駅が開業した80年前当時と比べたとき、今現在、格段にすばらしい社会が実現しているという見方ができる。便利で安全で清潔で静かで平和で安定して、物が豊かにあり、犯罪や争いごとが少なく、世間という呪縛から自由で、娯楽がいっぱい。昔の人たちがあらまほしきと夢想した理想社会がいまここに実現していると言ってもいいのではなかろうか。
だけど、だけど。人々が生きていることの幸せをどれほど実感しているかと問うてみるとき、自信をもって、今がいい、と言えるだろうか。そりゃあ、生活していくだけで手一杯でほかに何もない一生涯と、楽しいことがいろいろある上に、自己実現の機会なんて贅沢なおまけまでついてくる一生涯とを比べたら、後者のほうがいいにきまってるけど。なんか、なんとも言えない欠乏感って、ない? 生きてる意味ってなんだろ、みたいな。自分の価値ってなんだろ、みたいな。実際に世の中全体でものが不足しているときの欠乏感はみんなで共有しあうことができるけど、自分だけの何かが欲しいという欠乏感は、ひとりで悩むしかない。
なんか、まわりを見ていると、幸せを実感しているという状態からは程遠くみえる人がいっぱいいるような気がするのは、気のせいだろうか。時代の生み出す心の病、みたいなものがあって。ひと頃は、リストカットやオーバードーズのような自傷行動に現れがちな境界性人格障害がやけに目立ったが、最近は依存症が目立つ気がしてならない。
好きなことがあって、そこへ熱中するのはいいことなんだけど、依存症って、ちょっと違うよね。こんなことにいつまでもハマっていてもしょうがない、抜けたい、だけど抜けられない、みたいな。便利になって、自由になって、生き方の選択肢がたくさんあるのはいいんだけど、変な方向に行きかけても、まっとうな方向へ引き戻す力が働きづらい、そういう時代なのかな。
また、依存症になりやすい種がごろころ転がってるんだな。酒やタバコなどの嗜好品、下手すりゃ薬物とか、株や為替などの財テク、パチンコや競馬などのギャンブル、パソコンやケータイからアクセスできるゲーム、ネットやリアルでのショッピング、なにかのコレクション。それと、食うことにも摂食障害への罠が潜むし、人間関係にも親子カプセルみたいな共依存性への道がある。
もちろん、そういう対象物自体が有害だというのではない。パチンコや競馬だって、それが好きで、ちゃんと節度をもって楽しんでいる人はたくさんいる。それは健全の部類だ。ゲームだって、十把一絡げに悪いと決めつけては、作った人にも健全に楽しんでる人にも失礼だ。ただ、時として、刹那的な快楽によってそのときだけ嫌なことを忘れさせてくれるにすぎず、漠然とした欠乏感からの救いにはならない、不毛で過度なハマりかたをするケースもありうるということである。
依存症というと作家の中村うさぎさんが浮かんでくる。買い物依存症。世の中の諸々の事象に対して、哲学的とも言えるほど深い洞察を加える人なのに、自身は後先考えずに衝動的にブランド品を買いあさってしまうという、傍目には軽薄な行動から抜け出られなくなっているというのは、一見矛盾しているようにみえる。それに対してもちゃーんと掘り下げている。著書「穴があったら、落っこちたい!」がおもしろかった。
独善に陥らずにものごとを正しく捉えるためには、自分を中心に据えた主観的な見方ばかりしていてはだめで、どうしたって、いろいろな角度から光を当てて客観的にものを見るように心がけなくてはならない。そのためには、一段高いところから俯瞰的に自身を監視して、みっともないうぬぼれからくるゆがんだものの見方を諌める、もう一人の自分というものを自分の中に飼っていないとならない。それを「ツッコミ小人」と呼んでいる。
ツッコミ小人が、自分にツッコミを入れる仕事にせっせと励むと、ナルシシズムがそぎ落とされていく。思索にとってはそのほうがよくても、虐げられたナルシシズムのほうが黙っちゃいなくて、ついには反乱を起こす。それが、軽薄で衝動的な行為となって現れるのだそうで。依存症の心的メカニズムについて、そこまでしっかり考察できているのに、やっぱり自力じゃなかなか抜け出られないところに依存症の怖さがあるなぁ、と思う。
それと、今の時代の特徴として、もうひとつ、情緒ってもんがどっかへ去っていきかけてるような気がする。「昭和のかほり」とかいってよく馬鹿にされているもののエッセンスって、しっとりとした情緒なんじゃないかな。古い歌で深い悲しみを歌ったいいのがいろいろあるけど、カラオケなんかでうっかり場の空気を読まずに入れちゃったりすると、せっかく盛り上がってるのに、なんで水を差すんだ、と文句を言われることがある。
そうか、情緒ってもんはもはや廃物扱いなのか。世の中が便利になって清潔になって、快適になったような気もするけど、同時に無機質で味気なくもなってきてないかな。高度にシステム化されてきてて。システムを回すための従属物として人々がいるような格好になってきてないかな?
システムがパチンコ台なら、人々はパチンコ玉。あっちいくやつもこっちいくやつも穴に入るやつも下に落ちるやつもいるけど、それはパチンコ玉の個性のなせるわざではない。単なる偶発性。パチンコ玉一個一個はいつでも交換が可能な単なる消耗品。人々は各自の得や娯楽・快楽を追求しているけど、意思に根ざした自発性があんまり感じられなくて、ゾンビのよう。マーケティングという名の統計で処理できちゃう。
人々はニュースや広告などから入ってくる情報になんらかの反応を示すけど、それは心の深いところから湧き出てくる感情というよりは、ただの脊髄反射に近かったり。そんな感じ、しない? 便利で清潔という快適さが、実はどこかで人の心に対して不健全な作用をもたらしたりしてはいないかな? メカニカルな社会の仕組みに合わせて人々もメカニカルになりつつあるけど、それは実は人の心の本来のあり方とは齟齬をきたす、みたいな。
社会は常にいいとされる方向へ進歩しているとはいえ、何か得るだけ、ってことはないくて、代償に何かを失っていく。その失ったものとは何か、そこに気づかせてくれるための、過去の遺産ぐらいは、残しておこうよ。たまには便所のニオイをかいで、おのれを知ろうよ。
......と、道路計画に刺激を受けて大幅に話が逸れまくったけど、撮影の模様は写真でどうぞ〜。
< http://www.geocities.jp/layerphotos/Dolls0911/
>
【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
「田の字熟語」という遊びを考えた。たとえば、「天丼(てんどん)」「天人(てんにん)」「丼物(どんぶりもの」、「人物(じんぶつ)」という4つの熟語を田の字に組み合わせて
天丼
人物
と書く。こういうのを思いつくかぎり挙げていこうという遊び。
内閣 海老 密林 絶対 相対 冗長 電車 変態 俗世 白鳥
股下 女人 生業 海岸 手話 談話 気体 節度 学界 糖類
金融 金融 明細 荒廃 未満 景勝 秋風 証拠 強引 金物
満点 利点 日々 野人 来月 気勢 雨雲 人出 弱火 管理
下から上、右から左に読むのも、ありってことにすれば、こんなのも。
金魚 貧困 冬眠 強気 暴発 文学 企業 民間 通商 恋愛
入港 民難 暖気 力体 露出 字数 画商 家借 話談 悲慈
斜めにも読めて、熟語が6個取り出せるやつは、難易度高いかも。
下山 人手 友愛 大病 山水 有無 内外 出入 男根 女陰
水車 形相 人情 根気 道場 人数 面接 国力 気性 気性
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■編集後記(11/20)
・2009年のACC CMフェスティバル(CM業界のイベント)で、グランプリに選ばれたのは「サントリーBOSS 宇宙人ジョーンズ・地上の星/刑事・他のシリーズ」だった。宇宙人ジョーンズがいろいろな職業(新郎、お父さんも職業か?)を転々としながら、地球の人々の暮らしをきまじめに調査報告するCMで、世相に皮肉をきかせていてわたしも好きだった。ほかには、トヨタのこども店長、OTONA GLICO、役所広司のダイワハウスなど10本がゴールド賞になったがよく知らないのもある。サントリーのサイトにCMを見に行ったが、なんかみょうに複雑で迷子になった。このごろ不愉快なCMは、あまりお利口でなさそうな女の子が、恋人に向かって「どうしたの? 元気ないよ 借金 大変なの? 弁護士に相談してみたら?」というやつ。公共広告機構あたりのCMかと思ったらある弁護士法人で、過払い金利を取り戻したり、不正な取り立てを止めることができるという。その法的手続きで報酬を得るビジネスだ。頻繁に流れているってことは、そうとう金を使っているってことで、そうとう儲けているってことか。この法人のことではないが、弁護士や司法書士の社会的信用を悪用して、この種の手続きで法外な報酬を要求して揉めるトラブルが急増しているという報道があった。被害者からさらに金を搾り取るハゲタカだ。CMのいかにもだまされやすそうなバカ女の、全然相手を心配していないようなお気楽、無責任なようすが腹立たしい。(柴田)
< http://www.acc-cm.or.jp/festival/09fes_result/index.php
>
ACC CMフェスティバル
< >
ITJ法律事務所CM 上原美優15秒
< http://suchix.kek.jp/ccfuns/Appeal/appeal.pdf
>
次世代スーパーコンピュータ開発に関する緊急声明 計算基礎科学コンソーシアム
・商品すべてにシリアル番号をつけてもらい(元々ついてるんだよね?)、購入時に(別カウンターか何かで)申請できるようにしたらいいのに。エコポイント対象商品には申請ハガキを印刷同封しておくとか。保証書みたいに型番やロットナンバーのあるものを。それなら保証書のコピーや領収書は不要。購入店のはんこがあればいい。あとは個人情報とポイント使用の有無を記入して目隠しシールつきのハガキを購入店がクーリングオフ期間後に投函して終わり、とか(できればネットで申請。一度しか使えないIDとPWを販売店からもらって、など仕組みはいろいろ)。事務局の書類確認や不備連絡の手間や時間が減る。メーカーや購入店の手間が増える? 売り上げがあがるなら、そのぐらいはやってくれると思うなぁ。対象商品は売れてるし、今でもエコポイントの代理申請してくれるお店多いらしいし。逆にエコポイント申請可能店舗としてPRできる。従来の形も並行しつつ、でもいい。延長するなら、申請の仕方は変えた方がいいよ〜。一ヶ月経っても申請受理連絡なかったら、不安で電話する人いるよ。その電話対応だけで仕事が増える。サイトには二ヶ月ほどかかるって書いてあるけど、皆が見ないよねぇ。うちにはいつ交換商品が届くのやら......。(hammer.mule)
< http://eco-points.jp/EP/
> お待ちの方へ
< http://eco-points.jp/EP/apply/mistakes.html
> よくある間違い。10/20にUP
< http://www.dtp-booster.com/vol09/
>
制作者のための「出力できるPDF」。
< http://www.dhw.co.jp/ef/gs/event/
>
いよいよ明日!「クリエイターのための法務対談スペシャル」
親のこころ・子のこころ
十河 進
< https://bn.dgcr.com/archives/20091120140200.html
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〈子連れ狼・子を貸し腕貸しつかまつる/三途の川の乳母車/死に風に向かう乳母車/親の心子の心/冥府魔道/地獄へ行くぞ!大五郎/ロード・トゥ・パーディション〉
●若山富三郎の本格的な殺陣が見られる
もうずいぶん前のことになるが、西川某が殺人を犯し「かつて人気ドラマ『子連れ狼』の子役として活躍した」としきりにテレビのワイドショーが騒いだ。その裁判の様子も報道されていたが、弁護士は「社会性を育むべき子供時代を芸能界という特殊な世界で過ごし」と弁論し、殺人に対する罪の重さの認識が薄かったことを理由に、情状酌量を狙う戦法に出たようだった。
芸能人の殺人というと、「光る海、光る大空、光る大地」(最近はスマップがNTTのCMで歌っていた)と歌った「エイトマンの主題歌」の克美しげるを思い出す。彼が殺人犯で捕まったときに受けた衝撃は、やはり僕が「エイトマンの主題歌」が好きだったからだろう。それに僕は彼が歌った「さすらい」や「片目のジャック」という歌も好きだった。
克美しげるの殺人にショックを受けた僕と同じように、西川某のニュースを聞いて「しとしとぴっちゃん、しとぴっちゃん」(橋幸夫)とか「十石橋で父を待つ」(バーブ佐竹)と歌った「子連れ狼」のテレビ版主題歌を懐かしんでいる、僕よりずっと若い世代が存在するのかもしれない。僕は映画版「子連れ狼」の歌の方に思い入れがある。「親子揃った狼がくるんだぜ」と渋い声で若山富三郎が唄ってくれたのは、東宝で封切られた映画版シリーズだった。
富さんが死んでだいぶ経つから、若山富三郎を知らない人もいるかもしれない。弟の勝新太郎は「おにいちゃん、何で死んだんや」と葬式で男泣きに泣いた。その勝新太郎も死に、今は未亡人の中村珠緒がテレビのバラエティで稼いでいる。もう勝プロの借金も、長男が「座頭市」(1989年)で刃引きをしていない刀で殺陣をやって死なせた俳優への補償金も払い終わったことだろう。
映画版「子連れ狼」シリーズは大映が倒産した後、七〇年代前半に勝プロが制作しヒットした。監督は三隅研次が四本、斉藤武市が一本、黒田義之が一本担当している。併映は勝新太郎主演の「兵隊やくざ」リメイク版や「御用牙」シリーズが多かった。兄弟でそれぞれ主演を張り、東宝が配給した。そのシリーズは、以下のような六本だった。
第一作・子を貸し腕貸しつかまつる(1972年)
第二作・三途の川の乳母車(1972年)
第三作・死に風に向かう乳母車(1972年)
第四作・親の心子の心(1972年)
第五作・冥府魔道(1973年)
第六作・地獄へ行くぞ!大五郎(1974年)
こう並べてみて、すべての作品を見ている己の趣味を改めて顧みた。やっぱり僕は時代劇が好きなのだ。立ちまわりに凝りに凝った「子連れ狼」シリーズは、当時は「劇画調」と言われ本格派時代劇からは蔑まれていたようなところもあったけれど、今から見れば立派な本格的時代劇である。セリフも格調が高い。富さんの殺陣は、さすがに凄い。今、これだけの殺陣ができる人はいない。
●昔の時代劇はお約束シーンがいくつかあった
ところで、昔の時代劇ではお約束のようなシーンがいくつかあった。たとえば、悪役が天井から下がっている房のついた太いヒモを引くと、主人公が立っていた床がまっぷたつに割れて落とし穴に落ちるとか、ヒロインが悪役につかまって襲われ、悪役が帯を引っぱるとヒロインが「あ〜れ〜」と言いながらクルクルまわったりするシーンである。
そんなシーンのひとつに、舌を噛んで自害するシチュエーションがあった。たとえば、「やや、曲者」と庭に逃げた忍者を捕らえると、いきなり口の端から血がタラタラと流れ首をがくりと落とす。「むむっ、舌を噛んだか」と主人公が無念そうに言うのだ。また、貞操の危機に陥った女性(ヒロインではないことが多い)が、舌を噛んで自害する場面も数え切れないくらい見た。
舌を噛んで死ねるのかと子供ごころに不思議に思っていたのだが、舌を噛みきると短くなった舌が喉をふさぎ窒息して死ぬのだと説明されたことがある。しかし、それなら死ぬのにもっと時間がかかるのではないか。それに舌を噛むシーンで役者はいつも口をふさいでいたけれど、舌を突き出して思いっきり歯で噛まないとかみ切れないのではないか。そう思って、僕は納得しなかった。
しかし、ときどき実生活でも間違って舌を噛んじゃうことはある。そのときの痛みはかなりなもので、あの痛みを知っていたら簡単に舌を噛んで死ぬのは無理ではないかと思う。だいたい、本当に舌を噛んで死んだ人はいるのだろうか、昔の自殺方法としては一般的だったのだろうか...などと、僕は未だにそのことには疑問を抱いている。
そんな時代劇からすれば次世代時代劇になる「子連れ狼」シリーズは、リアリズムと残酷描写をウリにしていた。時代劇で血しぶきが使われるようになったのは「椿三十郎」(1962年)の影響だが、「子連れ狼」では斬られた首や腕が血しぶきと共に飛び、大仰な擬音も入った。それが劇画調と言われたのだが、「子連れ狼」では舌を噛みきるシーンも気が弱い人なら目を背けたくなるように描かれた。
「死に風に向かう乳母車」では、女郎に売られた少女が女衒に犯されそうになり、女衒が差し入れてきた舌を噛み切るというシーンがある。少女は女衒の舌を吐き出し、その肉片のアップになる。女衒は身を打ち震わせ、口から血を流しながら喉を押さえて悶死する。確かに窒息したのかもしれない。もう四十年近く前のことだが、あのシーンを見たときのショックは未だに憶えている。
クエンティン・タランティーノも「死に風に向かう乳母車」を見てショックを受けたのだろう。「キル・ビル」(2003年)では、ヒロインを犯そうとした看護士の男が差し入れてきた舌を、目覚めたヒロインが噛みきりペッと吐き出すシーンがある。日本映画大好きのタランティーノは影響を隠そうとはしていない。しかし、舌を噛みきられて死ぬのは、アメリカ人にとって生理的なショックだったのではないだろうか。
「舌噛んで死んじゃいたい」というのが口癖だったのは、「赤頭巾ちゃん気をつけて」(1970年)のヒロイン(森和代)だった。その頃、一般的にも十代の少女たちがよく使っていた言葉だった。おそらく「舌を噛んで死ぬ」というのは、日本人に脈々と伝わる文化なのだ。「懐剣などなくても、いざとなったら舌を噛んで死ぬ覚悟」というのは、日本的潔さなのだと思う。どちらかと言えば、婦人の嗜みだった。
●映画版とテレビ版で同じ役をやった女優
「子連れ狼」は、さいとうたかをプロにいた小池一夫が独立して書いた劇画原作だ。初期の「漫画アクション」に連載された。その頃のアクションの売り物はバロン吉元の「柔侠伝」とかモンキー・パンチの「ルパン三世」などだった。その頃から、僕はずっと「漫画アクション」を読んでいた。少し後の連載だが「博多っ子純情」や「じゃりン子チエ」も愛読した。
「漫画アクション」のライバル誌「ビッグコミック」の売り物は「ゴルゴ13」だった。そのシリーズのシナリオを書いていたのは小池一夫さんだから、初期の「子連れ狼」には「ゴルゴ13」とそっくりなエピソードがある。現代と江戸時代の差はあっても、どちらも暗殺者に変わりはない。「ゴルゴ13」の話も時代劇に流用は利くのだ。
主人公を子連れにしたのは「子連れの刺客」という新鮮さに担当編集者が「それ、いきましょう」とのったからじゃないだろうか? ちなみに「子連れ○○」という言い方は今では一般的だが、「子連れ狼」が評判になったから定着した言葉である。それまで「子供連れ」という言い方はあったが、「子連れ」とは言わなかった。
「子連れ狼」の映像化は映画版が最初である。その後、テレビシリーズが日本テレビ系列で放映された。1973年4月から1976年の9九月まで、断続的に放映されている。主演は萬屋錦之介だった。そのときの子役が西川某である。僕は映画版の富川昌宏クンの方が可愛いと思ったが、テレビは見ている人の数が違う。結局、「子連れ狼」の大五郎は、一般的には西川某で定着した。
テレビシリーズが評判になり視聴率も高かった頃、大塚のボンカレーのコマーシャルが「子連れ狼」のパロディになった。笑福亭仁鶴が拝一刀を演じ、木製の乳母車を押して登場した。大五郎役の子供が「ちゃん」と呼ぶと、「大五郎、三分間待つのだぞ」と仁鶴の拝一刀が言う。このテレビCMも一世を風靡した。
ところで、映画版とテレビ版で同じ役をやった女優がいる。「木おろしの酉蔵」というヤクザの女親分だ。「世間様では私どもを忘八者と呼んでおりやす」と口跡鮮やかに「死に風に向かう乳母車」に登場する酉蔵は、惚れ惚れするほど美しい浜木綿子である。宝塚出身だけあって、ヤクザの着物姿とはいえ男装がよく似合った。
その酉蔵は、もう一度別のエピソードでテレビ版に登場する。酉蔵は拝一刀に惚れているのだが、あることで板挟みになり、一刀を裏切らざるを得なくなる。すべてが終わったとき、酉蔵は一刀に長脇差を向ける。だが、一刀はかわすだけだ。子分たちが涙を流しながら、「斬ってやっておくんなさい、拝の旦那」と口々に言う。酉蔵は惚れた男に斬られ、幸せな笑みを浮かべて死んでいく。
浜木綿子は、元々好きな女優さんだ。特に、木おろしの酉蔵のイメージが僕には焼き付いている。あれほど美しいキリッとした視線を持つ女性は、「緋牡丹博徒・お竜参上」(1970年)の藤純子以外に僕は知らない。しかし、最近、よく映画に出ている香川照之を見るたびに、僕はあれから長い時間が過ぎたことを感じさせられる。浜木綿子は、香川照之の母親なのである。
「子連れ狼」は、アメリカでもヒットした。英語版の劇画本もよく売れたと聞く。数年前、「ロード・トゥ・パーディション」(2002年)が公開されたとき、アメリカ版「子連れ狼」と言われたが、先日、川本三郎さんの本を読んでいたら、本当に「子連れ狼」からインスパイアされた映画だという。
「ロード・トゥ・パーディション」は「破滅への道」と訳せばいいのにと思いながら映画館へ出かけ、その深みのある画作りに感心した。夜のシーン、特に夜の雨のシーンにはゾクゾクした。「子連れ狼」とは違い、父親(トム・ハンクス)と一緒に逃亡した長男の回想で映画は展開するのだが、ストーリーはまさに「子連れ狼」の変奏である。
「子連れ狼」が人々の情に訴えたのは、血なまぐさい復讐譚に親子の情愛をからませたからだ。親子の関係を非情に描いているのだが、そこにはやはり父と子の心を打つ情が描かれていた。「ロード・トゥ・パーディション」を見ると、「子連れ狼」では「冥府魔道」とか「六道順逆」といった難しい言葉で非情さを装っていた親子の情が、よりはっきりとわかる。
父親は、子供のためには死ねるのである。自らを犠牲にすることを厭わない。言葉は交わさなくとも、拝一刀と大五郎はそんな風に互いを信じ切っていた。親の心と子の心が一体化した理想的な関係だった。それを無意識に伝えたかったのだろうか、僕は子どもたちが幼かった頃、寝る前に話をねだられると「子連れ狼」をアレンジして物語った。我が家の子どもたちは「子連れ狼」を知る前から「大五郎」という名になじんでいた。
【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
11月は生まれ月なので好きな季節なのだけれど、今年はけっこう寒い。スーツだけでは身が震えるほどの夜が続いた。といってコートを着るには早すぎる気がする。痩せてウエストもかなり細くなったので(メタボリック健診で驚かれた)、コートもぶかぶかかもしれない。
●305回までのコラムをまとめた二巻本「映画がなければ生きていけない1999-2002」「映画がなければ生きていけない2003-2006」が第25回日本冒険小説協会特別賞「最優秀映画コラム賞」を受賞しました。
< http://www.bookdom.net/suiyosha/1400yomim/1429ei1999.html
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受賞風景
< http://homepage1.nifty.com/buff/2007zen.htm
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< http://buff.cocolog-nifty.com/buff/2007/04/post_3567.html
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■Otaku ワールドへようこそ![107]
怖っ! 通りすがりに言われて、やっぱり? 高架下で人形撮影
GrowHair
< https://bn.dgcr.com/archives/20091120140100.html
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私は大汗かきかき一体の人形の写真を撮っている。後ろには他の人形たちがずっらーっと列をなして並んでいる。やけに高い声で口々にぶーたれてくる。「ねー、私の番まだぁ?」「早くしてよぉ」「もう並ぶの飽きちゃった」「帰っていい?」。わー、待って待って、もうちょっとだから。ごめんなさい、きれいに撮るからもうちょっとの辛抱、お願いっ。
......今にそんな夢をみるんじゃないかと恐れている。12月のグループ展に向けて、ハイペースで人形撮影が進行中。11月6日(土)7日(日)と二日続きの撮影で、8体の人形を撮ってきた。
土曜は代々木公園のバラ園で。ごきげんよう系のバラ(※)が地面すれすれの低い位置にまで咲いていたので、洋装の人形を寝かせるととてもロマンチックな絵になった。そこもかなりよかったけど、日曜の高架下での撮影は、昭和初期の面影残る薄暗いトンネル状の歩道に和装人形が実によく似合い、非常にいい按配であった。心地よい環境を得た人形たちが今に動き出しはしないかと、ちょっと怖くもあったが。今回はその模様をば。
※今野緒雪「マリア様がみてる」からのネタ。カトリック系のお嬢様学校の生徒会の役職に「ロサ・キネンシス」「ロサ・ギガンティア」「ロサ・フェティダ」と原種のバラの名前があてられていることから、原種のバラを「ごきげんよう系」と称する(ことにした。私が)。
●まずはロケハン:都会の中の田舎という異空間
国道駅のことを知ったのは、つい最近、11月1日(日)のことである。グループ展の打合せで自由が丘の居酒屋「土間土間」に集まって、人形撮影のロケ地はどこがいいかと話し合っているとき、八裕(やひろ)沙(まさご)さんが提案してくれたのである。けっこう有名な場所で、前々から知ってたらしい。
昭和5年に開業した駅の高架下は、時間の流れから取り残されたように当時の面影を残し、映画やドラマでもよくロケ地に使われてきたらしい。1949年(昭和24年)の黒澤明作品「野良犬」とか。2007年のTBSドラマ「華麗なる一族」とか。「国道下」という焼き鳥屋があって、ドラマ収録の記念に撮った木村拓哉さんの写真が掲げられているらしい。
「ラブド〜ル 抱きしめたい!」は今年の10月10日(土)〜10月23日(金)の21:10より渋谷ユーロスペースで上映された映画である。出演するのはオリエント工業製の男性向けのシリコンドール9体。動かないドールを動画で撮影しようという構想からして面白いが、撮影機材はなんとデジタル一眼レフのスチルカメラで、Canon EOS 5D markII とのこと。私が使ってるのと同一機種ではないか。これの動画撮影機能を使ったそうで。その映画の中でも、ロケ地に国道駅の下が使われているらしい。
< http://www.lovedoll-movie.com/
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後塵を拝するのは、いくぶんかシャクではあるけれど、私もそこで撮ってみたくなった。2日(月)の会社帰りにさっそくロケハン。会社帰りと言っても、職場は埼玉なので、まるで方向違い。1時間半かかった。
JR鶴見線は大学生のころだったか、一度だけ乗りに行ったことがある。まだ国鉄だったころだ。京浜工業地帯の中を走る路線とは思えないくらい田舎田舎した雰囲気で、運転間隔は恐ろしくまばらで、チョコレート色の短い車両がゴトゴトと走る。まるで一気に数百キロ吹っ飛ばされて別の地方に来てしまったかのような、ほよよんと気の抜けた空間。夢の中にいるような気分に浸れた。
浅野駅から分岐する支線の終点の海芝浦駅は、海に浮かぶような駅だった。改札口を出ようとすると駅員に止められた。外は東芝の敷地なので、社員であるかアポがないと出られないのだそうで。駅から出てはいけないという決まりはないが、東芝の敷地に無断で立ち入ってはならないという決まりはあるので、結局出られないんじゃん。うーん。
......ってなことを思い出しつつ、21:30鶴見発の海芝浦行きに乗り、2分で着いた最初の駅が国道。ゆるく湾曲した高架線の下の中央が道になっていて、両側には二階建ての古いアパートのような建物がほとんど隙間なく建ち並んで薄暗く、トンネルのようになっている。高架を支える柱の上のほうはアーチ状になっていて、古めかしく、重ったる〜い感じ。
ほんの数十メートルばかりの空間なのだが、まるで申し合わせたかのようにものが古いままで、石のゴミ箱があったり、がらがらっと開ける玄関があったり、木製のドアにつけられたノブの下の鍵穴は中が覗けそうなくらいでかかったり、古い看板がそのままだったり。空き家もあるが、人が住んでいるところもある。保存しようと決めてそうしているわけでもないのに、こういう状態になってるって、なにか霊的なものに守られているんじゃなかろうかとさえ思えてしまう。
すぐ先が鶴見川なので、水がつくことを心配して住みたがらない人が多く、不動産としての価値が上がらなかった、それで再開発の手を免れてきた、ってことなのかな。昭和の面影残るところは他にもあるかもしれないが、昭和初期のというのは、そうそうないんじゃないかな。まるで映画のセットだ。というか、ここ、何かの映像で見たことあるぞ。思い出せないけど。ここ、なかなかいいぞー、とアナウンスし、人形作家さんたちが乗ってきてくれたので、次の日曜に撮ろうという話になった。
●昼も薄暗い国道下が、人形で一気に怪奇空間に
日曜の朝9:40鶴見発の電車はガラガラに空いていた。電車というよりか、軌道の草刈り機。そりゃ言いすぎか。まばらながらいちおう乗客いたし、国道駅でも何人かは降りていたし。
無人駅。角がすり減って丸くなった木製の改札口に鉄製の切符回収箱が据えられている。脇には便所がある。トイレ、ではなくて、便所。ニオイが違う。ちゃんと便所のニオイがする。高架下の住人のおっちゃんがバケツに水をくんで、片手に下げて道を歩き回り、もう一方の手でちょびちょびすくって撒いている。日課なのだろう。さぼると空気がホコリっぽくなってしまうに違いない。
八裕さんと、赤色(せきしょく)メトロさんと、長尾都樹美(ときみ)さんが、それぞれ一体ずつ人形を連れてきてくれた。ただでさえ薄暗くてなんか独特の雰囲気のある場所なのに、人形が3体出てきたら、一気にお化け屋敷のような怪奇空間になった。人形作家が人形を怖がってちゃ商売にならないのだが、これにはさすがにちょっと怖いね、と言い合っていた。私は例によって撮るのに夢中で、通行人の声が耳に入っていなかったのだが、後で聞けば、「怖っ!」とか言って通りすぎる人がけっこういたらしい。ひー、不気味な活動しちゃって、どうもすみません。
まあしかし、それほどの衝撃をもって迎えられたというわけでもなく、あーまたなんかやってるよ、ってなもんだったようで。慣れっこ。いろんな人がよく来てなんかやってく場所なんだろうなぁ。よく言えば今の世の中の風潮に問題意識をもったクリエイティブな人たち、悪く言えば時代の潮流からズレまくった常識はずれの異端者たち。かつてのメインカルチャーも、いまやそれを好んで追い求めるのは、ほんの一握りのおかしな人たちってことで、ひとくくりに狭〜いサブカルのカテゴリーに押し込められてるのかなぁ。
撮影を始めようと準備しているとき、シクラメンの鉢を片手に持った初老のおじさんが話しかけてきてくれた。近所に昔から住んでいるそうで、我々みたいな人が来るのは歓迎だという調子で、終始にこやかに昔のことをたくさん語ってくれた。道沿いにはもっと店があったとか、昔は天井から変なもんがぶら下がっていて(なんだろ?)コウモリが巣をかけてたとか、道を突っ切る形で水が流れてたとか、水車があったとか、有名な建築家が建てたので造りはしっかりしてるとか、壁には米軍による機銃掃射の痕があるとか。
道路を作る計画があり、実施されると国道下の道の半分がなくなってしまうらしい。保存しようよって声はあるけど、誰も立ち上がる人がいないらしい。うをぉーい、たのむよぉ。八ッ場ダムじゃないけど、もう建設はいいよ。そんなことに使う金があるんだったら、古いもんを保存するほうに使おうよ。道路なんて、もうすでにそこいらじゅうにあるじゃんか。なくても済んじゃってるもんを今さらこしらえて得られるちょっとばかりの利便性と、ここにしかない昭和の遺産と、どっちが価値が高いと思ってるんだよぉ。
●時代は進んで行き詰って戻る
社会というものは、そのとき、そのときで、いいとされる方向へちょっとずつ、ちょっとずつ、変化していく。それが年月を経て蓄積されていく。気がつくと、がらっと違った世の中になっている。たとえば、国道駅が開業した80年前当時と比べたとき、今現在、格段にすばらしい社会が実現しているという見方ができる。便利で安全で清潔で静かで平和で安定して、物が豊かにあり、犯罪や争いごとが少なく、世間という呪縛から自由で、娯楽がいっぱい。昔の人たちがあらまほしきと夢想した理想社会がいまここに実現していると言ってもいいのではなかろうか。
だけど、だけど。人々が生きていることの幸せをどれほど実感しているかと問うてみるとき、自信をもって、今がいい、と言えるだろうか。そりゃあ、生活していくだけで手一杯でほかに何もない一生涯と、楽しいことがいろいろある上に、自己実現の機会なんて贅沢なおまけまでついてくる一生涯とを比べたら、後者のほうがいいにきまってるけど。なんか、なんとも言えない欠乏感って、ない? 生きてる意味ってなんだろ、みたいな。自分の価値ってなんだろ、みたいな。実際に世の中全体でものが不足しているときの欠乏感はみんなで共有しあうことができるけど、自分だけの何かが欲しいという欠乏感は、ひとりで悩むしかない。
なんか、まわりを見ていると、幸せを実感しているという状態からは程遠くみえる人がいっぱいいるような気がするのは、気のせいだろうか。時代の生み出す心の病、みたいなものがあって。ひと頃は、リストカットやオーバードーズのような自傷行動に現れがちな境界性人格障害がやけに目立ったが、最近は依存症が目立つ気がしてならない。
好きなことがあって、そこへ熱中するのはいいことなんだけど、依存症って、ちょっと違うよね。こんなことにいつまでもハマっていてもしょうがない、抜けたい、だけど抜けられない、みたいな。便利になって、自由になって、生き方の選択肢がたくさんあるのはいいんだけど、変な方向に行きかけても、まっとうな方向へ引き戻す力が働きづらい、そういう時代なのかな。
また、依存症になりやすい種がごろころ転がってるんだな。酒やタバコなどの嗜好品、下手すりゃ薬物とか、株や為替などの財テク、パチンコや競馬などのギャンブル、パソコンやケータイからアクセスできるゲーム、ネットやリアルでのショッピング、なにかのコレクション。それと、食うことにも摂食障害への罠が潜むし、人間関係にも親子カプセルみたいな共依存性への道がある。
もちろん、そういう対象物自体が有害だというのではない。パチンコや競馬だって、それが好きで、ちゃんと節度をもって楽しんでいる人はたくさんいる。それは健全の部類だ。ゲームだって、十把一絡げに悪いと決めつけては、作った人にも健全に楽しんでる人にも失礼だ。ただ、時として、刹那的な快楽によってそのときだけ嫌なことを忘れさせてくれるにすぎず、漠然とした欠乏感からの救いにはならない、不毛で過度なハマりかたをするケースもありうるということである。
依存症というと作家の中村うさぎさんが浮かんでくる。買い物依存症。世の中の諸々の事象に対して、哲学的とも言えるほど深い洞察を加える人なのに、自身は後先考えずに衝動的にブランド品を買いあさってしまうという、傍目には軽薄な行動から抜け出られなくなっているというのは、一見矛盾しているようにみえる。それに対してもちゃーんと掘り下げている。著書「穴があったら、落っこちたい!」がおもしろかった。
独善に陥らずにものごとを正しく捉えるためには、自分を中心に据えた主観的な見方ばかりしていてはだめで、どうしたって、いろいろな角度から光を当てて客観的にものを見るように心がけなくてはならない。そのためには、一段高いところから俯瞰的に自身を監視して、みっともないうぬぼれからくるゆがんだものの見方を諌める、もう一人の自分というものを自分の中に飼っていないとならない。それを「ツッコミ小人」と呼んでいる。
ツッコミ小人が、自分にツッコミを入れる仕事にせっせと励むと、ナルシシズムがそぎ落とされていく。思索にとってはそのほうがよくても、虐げられたナルシシズムのほうが黙っちゃいなくて、ついには反乱を起こす。それが、軽薄で衝動的な行為となって現れるのだそうで。依存症の心的メカニズムについて、そこまでしっかり考察できているのに、やっぱり自力じゃなかなか抜け出られないところに依存症の怖さがあるなぁ、と思う。
それと、今の時代の特徴として、もうひとつ、情緒ってもんがどっかへ去っていきかけてるような気がする。「昭和のかほり」とかいってよく馬鹿にされているもののエッセンスって、しっとりとした情緒なんじゃないかな。古い歌で深い悲しみを歌ったいいのがいろいろあるけど、カラオケなんかでうっかり場の空気を読まずに入れちゃったりすると、せっかく盛り上がってるのに、なんで水を差すんだ、と文句を言われることがある。
そうか、情緒ってもんはもはや廃物扱いなのか。世の中が便利になって清潔になって、快適になったような気もするけど、同時に無機質で味気なくもなってきてないかな。高度にシステム化されてきてて。システムを回すための従属物として人々がいるような格好になってきてないかな?
システムがパチンコ台なら、人々はパチンコ玉。あっちいくやつもこっちいくやつも穴に入るやつも下に落ちるやつもいるけど、それはパチンコ玉の個性のなせるわざではない。単なる偶発性。パチンコ玉一個一個はいつでも交換が可能な単なる消耗品。人々は各自の得や娯楽・快楽を追求しているけど、意思に根ざした自発性があんまり感じられなくて、ゾンビのよう。マーケティングという名の統計で処理できちゃう。
人々はニュースや広告などから入ってくる情報になんらかの反応を示すけど、それは心の深いところから湧き出てくる感情というよりは、ただの脊髄反射に近かったり。そんな感じ、しない? 便利で清潔という快適さが、実はどこかで人の心に対して不健全な作用をもたらしたりしてはいないかな? メカニカルな社会の仕組みに合わせて人々もメカニカルになりつつあるけど、それは実は人の心の本来のあり方とは齟齬をきたす、みたいな。
社会は常にいいとされる方向へ進歩しているとはいえ、何か得るだけ、ってことはないくて、代償に何かを失っていく。その失ったものとは何か、そこに気づかせてくれるための、過去の遺産ぐらいは、残しておこうよ。たまには便所のニオイをかいで、おのれを知ろうよ。
......と、道路計画に刺激を受けて大幅に話が逸れまくったけど、撮影の模様は写真でどうぞ〜。
< http://www.geocities.jp/layerphotos/Dolls0911/
>
【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp
「田の字熟語」という遊びを考えた。たとえば、「天丼(てんどん)」「天人(てんにん)」「丼物(どんぶりもの」、「人物(じんぶつ)」という4つの熟語を田の字に組み合わせて
天丼
人物
と書く。こういうのを思いつくかぎり挙げていこうという遊び。
内閣 海老 密林 絶対 相対 冗長 電車 変態 俗世 白鳥
股下 女人 生業 海岸 手話 談話 気体 節度 学界 糖類
金融 金融 明細 荒廃 未満 景勝 秋風 証拠 強引 金物
満点 利点 日々 野人 来月 気勢 雨雲 人出 弱火 管理
下から上、右から左に読むのも、ありってことにすれば、こんなのも。
金魚 貧困 冬眠 強気 暴発 文学 企業 民間 通商 恋愛
入港 民難 暖気 力体 露出 字数 画商 家借 話談 悲慈
斜めにも読めて、熟語が6個取り出せるやつは、難易度高いかも。
下山 人手 友愛 大病 山水 有無 内外 出入 男根 女陰
水車 形相 人情 根気 道場 人数 面接 国力 気性 気性
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■編集後記(11/20)
・2009年のACC CMフェスティバル(CM業界のイベント)で、グランプリに選ばれたのは「サントリーBOSS 宇宙人ジョーンズ・地上の星/刑事・他のシリーズ」だった。宇宙人ジョーンズがいろいろな職業(新郎、お父さんも職業か?)を転々としながら、地球の人々の暮らしをきまじめに調査報告するCMで、世相に皮肉をきかせていてわたしも好きだった。ほかには、トヨタのこども店長、OTONA GLICO、役所広司のダイワハウスなど10本がゴールド賞になったがよく知らないのもある。サントリーのサイトにCMを見に行ったが、なんかみょうに複雑で迷子になった。このごろ不愉快なCMは、あまりお利口でなさそうな女の子が、恋人に向かって「どうしたの? 元気ないよ 借金 大変なの? 弁護士に相談してみたら?」というやつ。公共広告機構あたりのCMかと思ったらある弁護士法人で、過払い金利を取り戻したり、不正な取り立てを止めることができるという。その法的手続きで報酬を得るビジネスだ。頻繁に流れているってことは、そうとう金を使っているってことで、そうとう儲けているってことか。この法人のことではないが、弁護士や司法書士の社会的信用を悪用して、この種の手続きで法外な報酬を要求して揉めるトラブルが急増しているという報道があった。被害者からさらに金を搾り取るハゲタカだ。CMのいかにもだまされやすそうなバカ女の、全然相手を心配していないようなお気楽、無責任なようすが腹立たしい。(柴田)
< http://www.acc-cm.or.jp/festival/09fes_result/index.php
>
ACC CMフェスティバル
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ITJ法律事務所CM 上原美優15秒
< http://suchix.kek.jp/ccfuns/Appeal/appeal.pdf
>
次世代スーパーコンピュータ開発に関する緊急声明 計算基礎科学コンソーシアム
・商品すべてにシリアル番号をつけてもらい(元々ついてるんだよね?)、購入時に(別カウンターか何かで)申請できるようにしたらいいのに。エコポイント対象商品には申請ハガキを印刷同封しておくとか。保証書みたいに型番やロットナンバーのあるものを。それなら保証書のコピーや領収書は不要。購入店のはんこがあればいい。あとは個人情報とポイント使用の有無を記入して目隠しシールつきのハガキを購入店がクーリングオフ期間後に投函して終わり、とか(できればネットで申請。一度しか使えないIDとPWを販売店からもらって、など仕組みはいろいろ)。事務局の書類確認や不備連絡の手間や時間が減る。メーカーや購入店の手間が増える? 売り上げがあがるなら、そのぐらいはやってくれると思うなぁ。対象商品は売れてるし、今でもエコポイントの代理申請してくれるお店多いらしいし。逆にエコポイント申請可能店舗としてPRできる。従来の形も並行しつつ、でもいい。延長するなら、申請の仕方は変えた方がいいよ〜。一ヶ月経っても申請受理連絡なかったら、不安で電話する人いるよ。その電話対応だけで仕事が増える。サイトには二ヶ月ほどかかるって書いてあるけど、皆が見ないよねぇ。うちにはいつ交換商品が届くのやら......。(hammer.mule)
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> お待ちの方へ
< http://eco-points.jp/EP/apply/mistakes.html
> よくある間違い。10/20にUP
< http://www.dtp-booster.com/vol09/
>
制作者のための「出力できるPDF」。
< http://www.dhw.co.jp/ef/gs/event/
>
いよいよ明日!「クリエイターのための法務対談スペシャル」