Otakuワールドへようこそ![109]バカと暇人? 病んでる人? ウェブの住人の人物像を探る
── GrowHair ──

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暮れだからというよりも、グループ展の直前だからという理由で、このところ、わりかし忙しい。グループ展は来週火曜からだ。それまでに10人の人形作家の作品を撮らねばならない。今この時点で、やっと6人。撮るペースが加速的に詰まってきている。一昨日水曜は会社を休んで、文化財指定の古い建物で撮った。今週末が山場だ。もう後がない。コミケの入場待機列が、もし全部人形だったら怖いだろうな。それが全部、私に撮られるのを待って並んでいるんだったらますます怖いだろうな。

そういうわけで、人形を撮ったって話ならいくらでも書けるんだけど。すでに2回続けざまにやってますわな。今回は、最近読んだ本の感想など。忙しい忙しい言いながら、なぜ本など読んでる暇があるか、というツッコミに対しては、現実を直視するのが恐ろしくて、ついつい本に逃げ込んでしまいました、としか言いようがない。



●ウェブはバカと暇人のものか

はいはい、私のものだと前々から思ってました。って茶々は置いといて。中川淳一郎「ウェブはバカと暇人のもの 現場からのネット敗北宣言」光文社新書(2009年4月)。これは読まねばと思い、一気に読んだ。挑発的なタイトルに釣られたわけではない。表紙裏の紹介文に共感してのことである。いわく、

 とにかくネットが気持ち悪い。そこで他人を「死ね」「ゴミ」「クズ」と罵
 倒しまくる人も気持ち悪いし、「通報しますた」と揚げ足取りばかりする人
 も気持ち悪いし、アイドルの他愛もないブログが「絶賛キャーキャーコメン
 ト」で埋まるのも気持ち悪いし、ミクシィの「今日のランチはカルボナーラ」
 みたいなどうでもいい書き込みも気持ち悪い。うんざりだ。

いやー、思ってた思ってたよく言った。この本は、「テレビブロス」の編集者であり、「アメーバニュース」の中の人でもあり、職業柄、ネット漬けの日々を送る著者が、「ブログ炎上」「吉野家テラ豚丼騒動」「オーマイニュースの惨敗」など、ネット上で起きているおよそ美しくないドタバタを具体的に取り上げ、「ウェブ2.0」だかなんだか知らないけど、ネットにあんまり過剰な期待をかけてもダメなんじゃない? と疑問を呈するものである。梅田望夫の「ウェブ進化論」に対抗する「ウェブ退化論」とも言える。って、ずばりそのタイトルの本も書いてるのね、この人。

私は「ウェブ進化論」を読んで「にゃーにゃーにゃー」という感想しか持てなかった。正面切って「アンタの言うことは間違ってる」と反論できるほどの材料を持ち合わせているわけではないけれど、なんだかすーっとは飲み下せない違和感がある。昔、落合信彦が、悩める若者の精神の救済者のように、雑誌などで持ち上げられまくったときと同じ感覚だ。

立派すぎる人は、煙たいのでなるべく近寄らないでください。どうぞ高速道路をお通りくださいませ、私は塀の上をのそのそ歩いていきますから、みたいな感覚。そんな、にゃーにゃーにゃーな人がこの本を読むとスカッとする。やっぱそうじゃん。ダメダメな場所なんだよ、ネットって。テレビにとって代わる次世代のマーケティングツールだかなんだかは知らないけど、バカで暇人な私のような者にとって、居心地のいい遊び場なんだよなぁ。

●初めよくやがて腐臭のネットかな

ネットの用途やユーザ数が拡大していくと同時に、中身が退化していく歴史は私も目の当たりにしてきた。ネットの黎明期、今の巨大掲示板「2ちゃんねる」のように、トピック別に区切られた場で誰もが自由に発言できる仕組みとして「ネットニュース」というのがあった。数学の話題はsci.mathで、独身者の愚痴はsoc.singlesで、ミョーに明るい猥談はalt.sexで、という具合に。

発言の末尾にはシグネチャ(署名)をつけることになっていて、所属と実名が当たり前のように公表されていた。そうでなくても、メールアドレスが自動的に公表されるから、分かっちゃう。プリンストン大学とかマサチューセッツ工科大学とかIBMとかINTELとか。すげーの。あの頃のインターネットが一番面白かった。HTMLが出てくる前で、テキストでしか情報伝達できなかったんだけど。NNTPっちゅうんだっけ。

こう言っちゃ反感買う恐れがあるけれど、あの頃のネットの何が面白かったかというと、全世界からエリートだけを抜き出して、互いに結びつける魔法の装置だったという点である。飛び抜けた知性と教養の持ち主が、世界中の同レベルの仲間を相手にしていることを意識して発言するのだから、面白くないはずがない。内容が豊かで表現が機知に富んだ発言がどんどん投げ込まれ、新鮮な驚きの連続であった。

ネットは性善説をあたりまえのように信じるという基盤の上で運用され、それがまたあたりまえのように成立していたところが、今から思えば驚異的である。数学のフォーラムでは、誰かが質問を投げると、さほど間を置かずに的確な答えが返ってきた。社会問題のフォーラムでは、心の傷をもった人がいて苦しみを訴えれば、やさしく慰め、希望がもてるようないい言葉をかけてくる人がいて、暖かい空気の漂う場になっていた。

猥談の場でさえ、たとえば「カーセックスに向いた車は何であるか」のような議題に対し、論文調のやけに堅〜い文体で理路整然と意見を述べ合ったりしてて、そのエリートくさいユーモアのセンスが鼻につく人もいるだろうけど、とにかく知性と教養の空気に満ち満ちていた。やがて議論は「セックスに向いた飛行機は何であるか」へと発展していき、どこそこの路線の二階席は空いてるし、夜間はほとんど見回りが来ないので、やり放題だったよ、なんて最先端の情報が交換されていた。

ウィットに富んだやりとりも見事なもので、"People are naked underneath their clothes"(人は服の下ではみな裸)という人がいれば、"What a revelation!"(なんという啓示!)と返す人がいる。"revelation"は「啓示」と「露出」をかけたシャレである。

女性の「月の障り」にまつわる悲惨な体験談募集、みたいな話題では、状況を事細かに描写して、情景が目に浮かぶようなグロいのが次から次へと投稿されて、こっちが貧血起こしそうだったなぁ。しまいには「ここまで暴露しちゃったら男の子たちから幻滅されちゃうかもよ」と言った人がいたけど、もう遅いよ、って感じ。

こんなのを、新技術のリサーチと英語の勉強を兼ねてという名目で仕事中に堂々と読んで過ごせた私。いい時代だった。言い訳がましいけど、これのおかげで少なくとも英語の実力はそれなりに伸びたと実感している。

インターネットは、前身をARPANETといって、アメリカの軍事目的ネットワークだった。それが、学術目的となり、商用目的となり、なんでもありの玉石混交種々雑多ぐっちゃんぐっちゃんネットとなっていった。その流れで、「ネットニュース」もやがて荒れていく。

数学フォーラムでは、ものすごい勢いで住人が増加しつづけているのが実感されるようになってくると、新米者によって同じ質問が繰り返し繰り返し投げられるようになってきた。「1を3で割ると、0.3333...となり、それを3倍すると0.9999...となって、1に戻らないではないか」というのが典型的なやつ。

FAQ(frequently asked questions、よくある質問)をまず読んでから投稿してちょうだいね、それがマナーですよ、とたしなめられるのだが、その人は二度と同じことをしなくなるとしても、後から来た人がまた同じことをするので、だんだん収拾がつかなくなってくる。場の魅力が失われていく。ゴミ捨て場の臭気が漂い始める。

HTMLが出てきて、メルマガ、ブログ、SNS、twitterのようにいろいろな形態の情報伝達ツールが現れたが、なんだか似たような道をぐるぐる回っているだけ、という印象を私はもっている。面白いのは最初だけで、その面白さが新規ユーザをひきつけ、ユーザ数が爆発的に増えると、やがて価値の低い情報があふれて、価値の高い情報が埋もれて見えなくなり、場に腐臭がしてくる。人々がうんざりしてきたころに、目新しいサービスが登場してみんな飛びつくけど、同じことの繰り返し、みたいな。

ミクシィのフォトアルバムだって、最初は有料会員の限定機能だった。当時は、人のフォトアルバムを順繰りに眺めていくのを楽しみにしていた。キーワードをブランクにして検索をかけると、新しいほうから順にサムネイル画像が表示されるので、ざっと見ていき、きれいなのがあれば中を開いてみるのである。だいたい10個に1個ぐらいの割合で、いわゆるハイアマチュアの作品に出会える。腕の立つ人が、本気で撮った、非常に美しい写真。こういうのは見ていて飽きない。

ところが、この機能、無料ユーザにまで開放された時点で、終わった。私にとっては。ページをめくってもめくっても、撮った場面に一緒にいた当事者以外の人にとっては何の意味もない、ゴミクズ画像しか出てこないのである。砂浜からダイヤモンドの粒を探すような作業をする根気はなく、楽しみがひとつ消滅した。

ミクシィにはニュースを引用して日記を書く機能があるが、これもまた然り。初期のころは、ちょっとひねった感想を述べるとどどどと足跡がつき、ひねったコメントを残してくれる通りすがりの見知らぬ人もけっこういた。それで知り合いになってずっと仲のいい人もいる。今は、日記を書いてから最初の10分だけは、分速20ペタの超速で足跡がつくが、それ以降はぱったりと閑古鳥。ニュースを引いて日記を書く人があまりに多くて、あっという間に埋もれてしまうのである。

ニュースから日記を読みにいくと、たまには面白いことを言う人がいるのだけど、そこにたどり着くまでに大量の瓦礫を踏み越えないとならない。「アホ」「バカ」「死ねばいいのに」。性犯罪のニュースではお決まりの「虚勢しちまえ」。ニュース記事を読んだ時点でついてるだろうなと予想されるコメントがやっぱりついてたというヒネリのなさ。ああうんざり。

やっぱ、畳やなんかと同様、ネット上の種々のサービスも新しいほうが...ってなことを思っていたので、この本には共感するところ大なるものがあった。しかし、人はなぜネット上の公共の場に脊髄反射のような芸も品もない書き込みをするのかという疑問に対しては、「バカだから」「暇だから」だけではかたづけきれない、なにか不健康なものを私は感じていた。本書はそのかゆいところにまでは手が届かなかった感じ。

●バカとか暇とかよりも病なんではないかと

天に向かって吐いた唾のごとく、外に吐いた言葉は半分くらい自分に返ってきちゃうという法則があるっぽい。人に向かって死ね死ね死ね死ね言ってた人がある日ぱったり自殺しちゃう、なんてことは、きっとそこらへんでよく起きているのだと思う。

他人に侮蔑的な言葉を投げつけて見下していると、そのときだけは自分が高みにいるような快感が得られても、結局は「そういうお前はどれほど立派なんだ」という自問となって、襲いかかってきてしまう。心とは、そういうメカニズムになっているらしい。だから、全力で他人をこき下ろす人を見ると、ああこの人も先は長くないのかもしれないなどと、ついつい不吉なことを考えてしまう。

だいたい、自分よりもダメな人間を探し出してきて、アイツよりは俺のほうがいくぶんかマシだ、と差分を算定することによってしか自己肯定の支えが得られないのだとしたら、その時点で心が弱いとみえる。誰と比べて上だの下だの気にする必要性も特段に感じることなく、自分には自分独自の軌道というものがある、と絶対的に自己肯定できれば、自信が感じられ、どっしりとした安定感がある。その基盤がないと、相対的な自己肯定に頼らざるを得なくて、下に見ることができる人を掘り出し続けなくてはならなくなる。

で、そういう努力はよく裏切られる。よほどダメそうにみえる人をつかまえてきて、こいつなら安全にけなしまくれるぞ、と思っていても、人とは分からないものである。特別な技能を隠し持っているけれど、やたらとひけらかしたりはしない謙虚な人だったと後から判明したりすれば、けなしていたほうがものすごーく滑稽な道化になってしまう。

そうすると、安全に手放しでけなせる対象は犯罪者というところに行き着く。これは便利だ。悪を憎む正義の動機からという大義名分が立つ。ただし、ドストエフスキーの「罪と罰」の例を引くまでもなく、犯罪者が必ずしも馬鹿であるとは限らないので、あんまりナメてかかるのはやっぱり危ういんだけどね。うふふ。

出典は忘れたが、坂口安吾あたりが言ってなかったっけ。精神の究極の高みに登りつめることを目指したが、志ならず挫折に終わり、今度は反対に徹底的に堕落してみようと目指した。そこで人づてにダメな人、ダメな人とたどっていき、その結果、もうこれ以上ひどいのはいないと思えるくらいに究極的にダメな人を探しあてることができた。その人は、自分よりもダメそうな人をなんとかして探し出し、あいつはダメだとけなすことに腐心して人生を過ごしていた。

もし、ネットにみられる美しくない諸現象が、人々の病んだ心を反映して起きているのだとしたら、その病みはいったい何に起因しているのだろうか。社会のシステム化が急速に進みすぎて、人間の尊厳を失わせたから、とか。リストラや派遣などの雇用形態の変化が、人間どうしの基本的な信頼関係を破壊してしまったから、とか。いろいろ考えちゃうけど、根拠があって言っているわけではなく、私の勝手な思い込みかもしれない。

だから、バカだ暇だと片付けてしまわずに、社会病理といった観点から、根拠を提示しつつ、因果関係を解き明かしてくれるような本を書いてくれる人がいてくれたらなぁ、と待ち望んでいたりする。仮説をちゃんと検証するには、そうとう骨の折れる調査が必要かも。って、人任せな態度もアレだから、私にいったい何ができるだろうか、と考えてみる。

新しい宗教を起こして、教祖様になって、悩める人々の心を正しい方向に導くべく、ひと肌脱いでみればよろしいか。ブルマを穿いて滝に打たれると、心が浄化・開放され、細かい悩みなんか一気に吹っ飛んでしまいますぞ、みたいな。幸福のブルマぱつぱつ教。ダメか。

【GrowHair】GrowHair@yahoo.co.jp

コスプレイヤーを撮るカメコ。だったはずが、いつの間にか人形を撮る人に。水曜に八裕(やひろ)沙(まさご)さんの人形を撮ったロケ地は、藤沢市民会館の敷地内にある旧近藤邸。大正14年竣工。国の登録有形文化財。もし万が一破損騒ぎでも起こした日にゃ、ニュースになりかねない。そしたらネットで「アホ」「バカ」「死ね」と罵倒の集中砲火を浴びるんだろうなぁ。

神経使ったさ。撮影許可をもらう手続きもなかなか大仰で、楽しめたし、いい経験になった。企画書はもう書きなれたけど、実印と印鑑証明が要ったのは初めてだったな。結婚にも離婚にも要らなかったのに。

「湘南藤沢フィルムコミッション」という社団法人があり、藤沢市内での企画物の撮影に際して手続きの窓口を一手に担当してくれる。この仕組みは、よいと思う。FCに企画書を提出すると、市役所との交渉を仲介してくれた。口頭でOKをもらってから、書面で手続き。

市役所へ行き、行政財産使用許可申請書、撮影利用申込書、物件撮影に伴う誓約書の3通の書類に記入し、実印を押し、印鑑証明とともに提出。最初の書類を持って市民会館へ行き、提出。捺印回覧の末尾は市長。手続き完了を後日電話で確認。

撮影当日、行政財産使用許可決定通知書が渡される。「神奈川県藤沢市長印」が押されている。駅前まで戻り、銀行で、一日の使用料500円を納付。戻って鍵を借りて、撮影開始という流れ。撮影後、管理の人が破損・紛失がないか点検して終了。うん、けっこう大変。けど、文化財で撮るとはこういうことか、と感覚がつかめたのは収穫。

ロケ地探しは常々の課題。廃工場とか営業休止中のホテルとか、撮影スタジオとして再生すれば、私以外にもきっと需要がありそう。コスプレイヤー、とか。って、すでにあるか。もっとできると、いいなぁ。
< http://www.shonanfujisawa.jp/
> 湘南藤沢フィルムコミッション
< http://www.geocities.jp/layerphotos/House091216/
> 旧近藤邸での写真
< http://yahiro.genin.jp/rougetsu.html
> 人形作家10人展「臘月祭」